生を享けた喜びを感じなければならない。
健全な兩親を持つ幸福を知らなければならない。
教育を與へられる幸ひを思はねばならない。
そして最もよく自己を[#「自己を」は底本では「自巳を」]活かす道を選び、それに邁進しなくてはならぬ。
自己の[#「自己の」は底本では「自巳の」]成長が社會に直接に意義あるやうにしなければならない。
人格の定義を明瞭に知らねばならない。
道徳は社會思潮の變遷と共に變化するものである。
功利的な立場に自己を置くことの如何に卑劣なるかを充分心得ねばならない。
自己を高く買はれることは不幸なことである。
實際の價値より高く賣つた品物の眞價が發見せられる日を想ふことは恐しいことである。その品物が自分といふものである時は殊更。冐險か、着實か、功利か、謙讓か、成功か、安立か、人生の意義に徹すれば選ぶに迷ふことなからん。
明日を想ふことは理想的であるといふより正しい意味で最も現實的である。唯、今日を忘れては意義をなさぬ。
果實で最も重要な點は核である、だが吾々から云へば果肉こそ最も値を高くつける所である。
藝術の本質は果實に於ける核の如きものであらうか。それ自身極めて重要なものにも係らず吾々にはたゞその周圍をかぢり散らし、その甘さに醉つて核の存在を知らぬ、忘れてゐるのである。

夜更けに門をたゝいて、自分だけの感情をわざわざ當り散らせに來る男。
そしてお前なんかに俺の氣持はわからないと疊を蹴つて次の友を訪ふ男。
それが詩人らしさだといばる男。
疊の上の何かのかけらをつまみあげ眉をあつめて俺は潔癖だといふ男。そのくせ書棚の芥を氣にかけぬ男。
文學青年らしさ。

心身の疲勞は最近度を加へてきてゐる。
 文學する事は私に適當ではない、私の心身はあまりに細い線である。觸るゝことすら私は遠慮しなければならない。
 私は文學理論を讀む事では疲勞を感じない。小説戯曲を讀んでは全く心身の疲勞の極に及び、關節のゆるむのさへ感ずる。現代小説を外にて文學を研究することを得ないなら、潔く私は文學を放棄しなくてはなるまい。私の身體は小説を讀むにたへないから。
 日本文學の古典に屬するものゝ研究に頭を入れてみたい。そこでは比較的末稍的な現代の小説作品から離れてゐることが出來るであらうし、讀まないことに左程苦しみを味はなくて濟すであらうから。

底本:「日光浴室 櫻間中庸遺稿集」ボン書店
   1936(昭和11)年7月28日発行
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入力:Y.S.
校正:富田倫生
2011年9月27日作成
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