雨が しとしとと ふりました。その あくる日の おひるころ、一人の おぢいさんが、町の つじに 立ててある 大きな かんばんを 見ながら、ひとりごとを いって ゐました。
「この ゑは、何の ゑだらう、火事の ゑかしら。」
 おぢいさんは、しきりに かんがへこんで ゐました。そこへ 一人の 男の 子が とほりかかって、
「おぢいさん、何を かんがへて ゐるんですか。」
と、たづねました。おぢいさんは、
「この ゑは、火事の ゑなんだらうか。どこかに せうばうの えんしふでも あるんですか。」
 それを きいた 男の 子は 笑ひながら 申しました。
「ちがひますよ。これはね、こんや 町の 公会堂に お話が あるって、くゎうこくして あったんですよ。それが 赤インキで 書いて あったもので、ゆうべの 雨に うたれて、こんなに ながれて しまったんです。」
「さうですか。それで わかった。」
 おぢいさんは、おうちの 方へ かへりました。そして となりの 店から、赤インキを ひとびん 買って 来て、それで かみへ 字を かきました。何枚も かきました。板ぎれへ ゑを かきました。何枚も かきました。
 それを 見た おばあさんは、ふしぎに 思って、
「おぢいさん、そんなに 同じ ゑや 字を たくさん 書いて、どう するんですか。」
と、ききましたが、おぢいさんは だまって、その かみと 板ぎれとを もって、井戸ばたに 出てゆきました。そして 水を くんで 字を かいた かみに、ざあざあ ぶっかけますと、字は 見る見る きえて しまひました。板ぎれに 水を ぶっかけますと、ゑは めちゃめちゃに きえて しまひました。それを 見た おぢいさんは、
「これは いけない。こんな インキで 書いても、水の 中に おとしたら、みんな きえて しまふ。よし、わしが、りっぱな インキを こしらへる。雨に うたれても、水を ぶっかけても きえない、すばらしい インキを こしらへるぞ。」
 おぢいさんは、すぐに くすりやへ いって、いろいろの くすりを 買って 来ました。
 そして、うらの 小屋に はいって、まい日 まい日、赤インキを つくりました。そして とうとう、雨に うたれても、水を ぶっかけても きえない 赤インキを、はつめいしました。
 そこで おぢいさんは、その 赤インキを、町へ 売りに出かけました。
 学生も、さかなやの をぢさんも、やほやの 小ぞうさんも、みんな 大よろこびで 買ひましたので、水に ながれない 赤インキは、見るまに 売りきれて しまひました。
 おぢいさんは、からっぽに なった はこを かついで お家へ かへりました。お家では おばあさんが、手の ゆびを まっかに して、おぢいさんの つくった インキを、びんに つめて ゐました。
 その あくる日も、また その あくる日も、おぢいさんは 大げんきで、
「インキ、インキ、上とうの インキ。雨に うたれても、水を ぶっかけても きえない、上とうの インキ。」
と、よびながら、町ぢゅうを 売りあるきました。
 ある日の こと、おぢいさんは、いつものやうに、からっぽに なった はこを かついで かへって 来ますと、お家の ちかくの あき地の ところに ゐた、一ぴきの 白ねこが、おぢいさんの あとに ついて 来ました。
 おばあさんは、その 白ねこを 見て、
「まあ きれいな ねこですね。」
と、いって ねこの 頭を なでました。
「これは、おうちの ない、のらねこらしいが、なんと うつくしい ねこでは ないか。うちにも こんな うつくしい ねこを 一ぴき ほしいね。」
と、いひながら おぢいさんは、その ねこを だきあげました。
「ほんたうに うつくしい ねこですね。おうちの ない ねこなら こんやから うちへ とめて やりませうよ。」
と、いって おばあさんは、も一ど 頭を なでました。
「では、うちの ねこに して、だいじに して やらうでは ないか。」
 おぢいさんが さう いったので、おばあさんは 大よろこびで、さっそく その 白ねこに、おいしい ごはんを こしらへて たべさせました。白ねこは、よほど おなかが すいて ゐたと みえて、のどを ならしながら、その ごはんを、ぺろりと たべて しまって、おさらまで きれいに なめて しまひました。
 夕ごはんの あとで おぢいさんは、ひざの 上に ねて ゐる ねこを、じっと ながめて ゐましたが、
「おばあさん、この ねこを、私の つくった 赤インキで、まっかに そめて 見ませう。」
と、申しました。
「まあ、赤い ねこなんて、世界ぢゅうに ありませんよ。」
 おばあさんは、おぢいさんの ひざの 上から 白ねこを だきあげながら いひました。
「何でも いいから、はやく そめて ごらん。」
 おぢいさんが 申しましたので、おばあさんは、大きな 筆を もって 来て、白ねこの 頭から しっぽまで、まっかに ぬりました。
「何と きれいな 赤ねこだ。世界一の 赤ねこだ。」
 おぢいさんは、手を たたいて よろこびました。おばあさんも 笑ひました。けれども ねこは へいきで、うちの 中を あるきまはりました。
 しばらくして、おぢいさんは おふろに はいりました。すると 白ねこの 赤ねこは、とことこと おふろばに はいって 来て、おぢいさんの かほを 見ながら、にやあご……と、なきました。おぢいさんは、
「おい、白の赤、おまへも おふろに はいりたいのか。どれ 入れて やらう。」
と いひながら、おふろの 中から 手を のばして、ねこを だきあげて、ずんぶりと おゆの 中へ しづめますと、ねこは びっくりして、そとへ とび出しました。そして、ぶるぶると 身ぶるひ しますと、今まで まっかだった 赤ねこが、もとの まっ白な 白ねこに なって しまひました。それを 見た おぢいさんは、
「これは いけない。かみに 書いた 字も、板に 書いた ゑも きえないが、ねこの 毛は そめても すぐに きえて しまふ。よし、もっと けんきうしよう。」
 その あくる日から、おぢいさんは また うらの 小屋に はいって、あたらしい インキを つくりはじめました。
 あたらしく つくった インキで、白ねこを そめて みました。そめた ねこを たらひの 中に 入れて あらひますと、すぐ もとの 白ねこに なりますので、何べんも、何べんも、インキを つくりなほしては、そめて、あらひました。
 長い あひだ かかって、とうとう これで だいぢゃうぶだと いふ 赤インキを つくりました。そして 白ねこを そめました。たらひに おゆを いっぱい 入れて、その 中に 白ねこの 赤ねこを 入れ、かめのこだはしで ごしごし あらひましたが、白く なりませんでした。けれども、一月 二月 たつうちには、もとの とほりの 白ねこに なるかも 知れないので、その ねこを 大きな はこの 中に 入れて、どこにも 出さないやうに して、ためして 見る ことに しました。
 町では、このごろ おぢいさんの すがたが 見えないので、どうしたの だらうと いって、みんなが ふしぎがって ゐる ところへ、また おぢいさんの すがたが 見えはじめたので、あらそって その インキを 買ひました。
 おぢいさんは、まい朝 おうちを 出る 時、おばあさんに、けっして ねこを はこの そとへ 出しては いけないと、いひつけて おきました。だから おばあさんは、はこの ふたに 小さい あなを あけて、そこから ごはんを 入れて やるやうに して ありました。ねこは そとへ 出たがって、にやあご、にやあご、なきますが、おばあさんは、けっして そとへ 出して やりませんでした。
 ところが ある日の こと、あんまり そとへ 出たがって なきますので、かはいさうに なって、少しの あひだ 出して やらうと 思って、はこの ふたを とりますと、ねこは 大よろこびで とび出して 来ました。
 久しぶりに そとに 出た ねこは、はしらに のぼったり、たんすの 上に とびあがったり、大はしゃぎに はしゃいで ゐましたが、まどの しゃうじが すこし あいて ゐましたので、そこから そとへ とび出して しまひました。
 おばあさんは びっくりして、そとへ 出て、白よ 白よと よんでも、赤よ 赤よと よんでも、どこにも ねこの すがたは 見えません。
 たいへんな ことを したと 思った おばあさんは、一しょけんめいに さがしますと、ねこは やねの 上に のぼって、うれしさうに 方方の けしきを ながめて ゐました。
 おばあさんは、赤ねこの だいすきな、おさかなの やいたのを もって 来て よびましたが、なかなか おりて 来ません。
 そのうちに、大ぜいの 人が、赤ねこを 見て めづらしがって あつまって 来ました。
「何と ふしぎな ねこだね。」
「赤ねこなんて、はじめて 見たよ。」
 みんなが わいわい いって さわいで ゐますと、一人の 男が、
「わかった、わかった。ここの おぢいさんは、雨に うたれても、水を ぶっかけても きえない 赤インキを 売って ゐるが、その インキは、あの ねこの 毛で つくるんだ。これで わかった。」
と、いひますと、みんなが、
「さうだ、さうだ。あれは インキの もとだ。」と、申しました。
 そのうちに 赤ねこは、やねの 上から のこのこ おりて 来ました。おばあさんは、いそいで だきあげて おうちへ はいりましたが、大ぜいの 人たちも、赤ねこを 見ようと して、わあわあ おうちの 中まで はいって 来ました。
 そこへ 一人の りっぱな 女の 人が はいって 来て、
「おばあさん、その ねこを、十円で わたしに 売って 下さい。」
と、申しました。
 おばあさんは、目を まるく して、
「おくさま、これは 白い のらねこで ございます。それを、赤インキで そめたので ございます。」
と、いひましたが、女の 人は おばあさんの いふ ことを きかうとも せず、
「では、二十円で 売って 下さい。」
と、いって、お金を たたみの 上に おきました。
「おくさま、これは ただの 白い のらねこで ございます。三十銭も 五十銭も しない、のらねこで ございます。」
 おばあさんは さう いって、ねこを しっかり だきしめますと、女の 人は、
「では 五十円で 売って 下さい。」
と、いって、また 三十円 出しました。見て ゐた 一人の 人が、
「おばあさん、五十円で 売りなさい、売りなさい。」
と、申しました。
「おくさま、これは ほんたうの のらねこで ございますよ。三十銭の ねうちも、五十銭の ねうちも ありはしません。これは 白い 毛を 赤インキで そめただけ ですよ。世界ぢゅうに 赤い ねこなんて あるもの ですか。」
 おばあさんが、大きな こゑで どなるやうに いひますと、女の人は、
「さうですとも、世界ぢゅうに 赤い ねこなんて、たった 一ぴきしか ゐやしません。では 思ひきって、百円 さしあげませう。」
と、いって また 五十円 出して ならべました。
 おばあさんは、こまって しまって、たたみの 上の お金を あつめて、かへさうと しました時、だいて ゐた 赤ねこが、のこのこと その 女の 人の ところへ あるいて 行きましたので、女の 人は とても よろこんで、その ねこを 両手で だいて、
「では おばあさん、この ねこは 私が つれて 行きますよ。」
と、いって 大いそぎで おもてに 出ると、自動車に のって、どこかへ 行って しまひました。
 そこへ かへって 来た おぢいさんは、大ぜいの 人が あつまって ゐるのを 見て、火事でも あったのでは ないかと 思って、びっくり しました。おばあさんは、十円さつを 十枚 もって、ぽろぽろ なみだを こぼしながら、おぢいさんに あやまりました。
 話を きいた おぢいさんは、すぐに かうばんへ 行って、おばあさんの おぼえて ゐた 自動車の ばんがうを いって、しらべて もらひますと、それは、ある 大金もちの くわぞくさまだと いふ ことが わかりました。
 そこで おぢいさんは、その くわぞくさまに でんわを かけて、あの 赤ねこは ほんたうの のらねこで、白ねこを 赤インキで そめて あるの だから、五十銭の ねうちも ないものだと いふ ことを はなしました。
 あくる 朝、おぢいさんが まだ、インキを 売りに 出かけない まへに、きのふの 女の 人が 来て、
わたしは、おぢいさんと おばあさんの、正直なのに かんしんしました。ですから、その 百円で、あの のらねこを 売って もらひます。それから べつに、一万円 かして あげますから、それで、インキを つくる 会社を おはじめなさい。たりなければ、まだ いくらでも かして あげます。」
と、申しました。
 それから まもなく、白ねこの 赤ねこが、はじめて ついて 来た あき地に、大きな バラックの うちが たちました。五六十人の 人たちが、朝はやくから、一しょけんめいに 赤インキを つくりました。まい日 トラックに、二だいも 三だいも、びんに つめた 赤インキが はこび出されます。
 ある日の こと、ねこを 買った 女の 人が 会社に 来て 見ますと、会社の おもてには、おぢいさんの 下手な 字で、
インキ インキ 上とうの あかインキ
雨に うたれても 水を ぶっかけても
きえない 上とうの 赤インキ
白ねこを そめて かめのこだはしで
ごしごし あらっても 白くならない
上とうの 赤インキ製造会社
と、赤インキで 書いた、大きな かんばんが、かかってゐました。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「ひらがな童話集」金の星社
   1941(昭和16)年11月
初出:「金の船」キンノツノ社
   1922(大正11)年2月
※初出時の表題は「赤い猫の話」です。
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2013年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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