名称廃止以前のエタに対する幕府その他諸藩当路者の発した布告法令の文を見ると、その圧迫の甚だしかった状態は、実に悪寒戦慄を覚えしむるものがある。まず一例として、「穢多非人廃止令」の出た明治四年八月より僅かに八ヶ月前、五条の御誓文に於いて旧来の陋習を破りて天地の公道に基づくべしと宣し給える明治元年三月より三十三ヶ月の後なる、明治三年十二月に、和歌山藩が発した取締令を左に紹介する(土井為一君報告による)。

一、皮田の奴近年風儀不宜、間々不埒の義も有之候間、同奴共へ別紙箇条の通相触れさせ候事。
一、市中は勿論在中たりとも、通行の節片寄候て往来の人へ聊も無礼ヶ間敷儀不致事
一、朝日之出より日之入迄之外市中は勿論町端たとも徘徊不相成。且在中にても、夜分妄に往来不相成事。
   本文節分は夜五時迄、大晦日は夜九時迄、徘徊差免候事。
一、町内にて飲食致候儀不相成事。
一、雨天之外笠かぶりもの不相成事。
一、履物は草履の外総て不相成事。
 これが同じ帝国内に生をうくる我が同胞の或る者に与えられた束縛であった。皮田はすなわちのエタで、皮田の奴は往来の人に無礼がましき事なき様云々の文の如きは、正しくエタを人間以外に見た書き方であると言わねばならぬ。これはむしろ極端の例で、地方によりて多少の寛厳の差はあったが、しかし大体に於いて相似たもので、武士に対しては勿論、町人・百姓に対しても、その屋内に入るを禁ぜられ、門構えの家では門外で草履をぬぎ、跣足はだしのまま入口土間の敷居外に至り、敷居に手をついて用談を申し上げる。普通の町人百姓の家へ行っても、せいぜいのところが土間の敷居に腰をかけ、もしくは軒下の土上に座して応対する。通婚・同居・同火の如きは、無論思いも寄らぬところであった。エタ・非人の同情者柳瀬勁介氏が、潜心その沿革を調査して、遂に「社会外の社会穢多非人」の著をなすに至られた動機は、氏がかつて東京法学院にあって古代法制の沿革を研究せられた際に、エタ一人の生命が平民の七分の一に相当するとの判決例のあるのを見て、慷慨悲憤の念を起された為であったという。実際彼らは、為政者から普通民の七分の一しか価値がないと認められた時代もあったのである。安政六年に江戸山谷さんや真崎まっさき稲荷の初午の折に、山谷の若者とエタと衝突して、エタが一人殺された。そこでエタ頭弾左衛門は、下手人の処刑を北町奉行に願い出たところが、奉行の宣告に、およそエタの身分は平民に比して七分の一に相当するから、今六人のエタを殺して後、相当の処刑をなすべしと云ったので、弾左衛門も遂に泣き寝入りになったというのである。何ら標準のない乱暴なこの比量にも屈服しなければならなかった彼らの境遇の、憐れむべかりしは言うまでもないが、これを以て名裁判だなどと歓迎した当時の状態も、また憐れまずにはおられない。
 かくの如き乱暴なる圧迫は、そもそもいかにして起ったか。またそれがいつの頃から始まったか。本編に於いていささかその沿革を研究してみたい。

 エタに関する同情なき取締令の出ているのは、多くは徳川時代も中頃以後の事であった。江戸では天正十八年徳川家康の入国の際、前例により弾左衛門祖先に長吏以下の支配を命じ、大抵の事はその自治に任して、種々の公役に従事せしめた。すなわちエタは一種の村役人町役人の形であった。京都でも下村勝助に百九石七斗七升の高を与え、エタ頭として皮田村の仲間を統率し、別に役俸を与えて公役に従事せしめたのであった。その他諸藩に於いても、特に規則立ちたる取締りという程の事もなく、大抵は彼らの旧慣に任して、村方の雑役に服せしめたのである。したがって判断に困る様な問題の起った時には、領主より彼らに命じて、「穢多の水上」たる京都へ上って、従来の振合いを間合わさしめるという程の有様であった。丹後舞鶴領行永村ほか十二箇村のエタの如きは、延享元年に至って始めて全体を通じてのエタ頭を定められたのであって、それ迄は各自村限りの自治に委しておったものらしい。そして他の諸地方に於いても、大抵こんなものであったと察せられる。
 かくの如き有様であったから、官庁並びに一般社会の彼らに対する待遇が、そう特別に彼らに対してこれを賤しんだという様な事は想像されぬ。別項「青屋考」中に述べた如く、細川・三好時代の阿波に於いては、一方に僧侶の或る者からは、エタ仲間と認められた青屋が甚だしく毛嫌いされていたが、一方では彼らは大名の小姓ともなり、さむらいの嫁ともなり、或いは自身侍に取り立てられたりしても、あえて不思議はなかったのであった。徳川時代もやや下った元禄十二年の阿波藩の取締令にも、

 穢多ども着類其外諸品百姓共へ申付候趣に准じ尚以軽可仕。常々法外之仕方多有之様相聞不届に付、向後右様之類於之は、所之庄屋五人与より申出候様申付候事。
 とある。元禄の頃は当路者も多少エタの度外視し難い事を知って、その取締りに注意し出した頃であって、それが為に、右の様な命令も出たのであろうが、それでもなお服装その他百姓に準じ、幾分それよりも軽くすべし位の程度であったのである。これは単に阿波藩だけの例ではあるが、以て一般を類推するをうべく、従来エタが特別に百姓と区別された程の事のなかった事情が察せられる。実際彼らは後に説くが如く、むしろ村人から歓迎せられ、為政者から優待せられ、他人のいやがる役儀を引き受けて、必要欠くべからざる一種の村役人・町役人であったのである。

 エタの本来いかなるものなるかは、別項「エタ源流考」に説いておいた。彼らは鎌倉・室町時代には、キヨメ或いは河原ノ者と呼ばれて、社寺都邑の掃除夫・井戸掘り・駕輿丁・植木屋などの雑職をつとめ、勿論その職掌上、世間から幾分賤視されてはいたであろうが、決して彼らのみが特別に穢れたものとして、疎外されるという様な事はなかったに相違ない。ことにその賤視されたのは、必ずしも彼らばかりではなかった。古代雑戸ざっこ時代・傀儡子かいらいし時代の余習をついで、大多数の工業者・遊芸者等はみな賤しいものとされていたのである。ことにもと家人けにんさむらいなどと呼ばれた賤者も、時を得ては武士となって高く社会を睥睨する様になった世の中のこととて、古え「大みたから」と呼ばれた農民までが、一様に賤者として見下されていたのである。「三十二番職人歌合」には、

千秋万歳法師 絵解えとき 獅子舞 猿牽 鶯飼 鳥さし 鋸挽おがひき 石切 桂女かつらめ 鬘捻かづらひねり 算置 薦僧 高野聖 巡礼 鐘敲 胸叩 へうぼう絵師 張殿 渡守 輿舁 農人 庭掃 材木売 竹売 結桶師 火鉢売 糖粽売 地黄煎売 箕作 樒売 菜売 鳥売
 の三十二者の名を並べて、「こゝに我等三十余人、賤しき身品同じきもの」と云っている。この中にも、輿舁・庭掃などの或る者は、所謂エタ源流の一つをもなしたものであるが、その庭掃、すなわち掃除夫が、歌合せに於いて農人と相合せられているが如きは、以て当時の状勢を見るべきものであろう。それ以外の多数の者は、大抵後までもエタの下と見られていたもので、世間からも余程軽くこれを扱っていた。「鎌倉殿中問答記録」に、「鍛冶・番匠の様なる云甲斐なき者」と云い、「当道要集」に、「舞廻まひ/\・猿楽等の賤しき筋目の者」というが如き、ともかくこれらの徒が賤者と見られていた事は疑いない。それらの中に於いて、ひとりキヨメ・河原ノ者等のみが、特別に賤しかったとは思われぬ。否むしろエタの方が慶長以前に於いて既に、「音楽のやから、青屋・墨焼・筆結」等の上だと言われていただけに、地位のよかったものであったに相違ない。さればもとエタの賤しいという程度は、今日の下級労働者が賤しいという位の程度のものであったと思われる。勿論その労働者という中にも、自ら一家をなしているのもあれば、木賃宿や無料宿泊所等を泊り歩いているのもあり、公園のベンチや社寺の椽の下、停車場の待合、路側の広告塔の中などで、一夜を過ごして渡って行く者もある様に、後に斉しくエタと言われた中にも自然その間に上下の差はあったであろうが、しかもこれを以て穢いものだの、特別に変ったものだのとして、疎外せられた筈はない。さればこそエタは宮廷社寺の掃除にも用いられ、飲料水を汲む井戸掘りにも役せられ、神輿を担ぎ鳥居を建てるという様な神事にも、憚らず使われていたのであった。
 エタを特別に賤しんだものは、彼らが穢物に触れ、或いは殺生・肉食等を行ったという点から、仏教家並びに両部神道家の忌むところとなった為である。されば一方では、武家が祇園御霊会の神輿を舁かしめ、堂上とうしょう家がエタに飲料水の井戸を掘らしめて、あえて不思議としなかった時代にも、五山の僧侶などは甚だしくこれを忌がったものである。「臥雲日件録」文安三年十二月二十一日条に、

官人騎馬射狗、以為攘災之儀。辞狗難ニハカニ。有十銭一疋蓋人中最下之種死牛馬食者也
 とある。この文安三年という年は、偶然にもかの「河原ノ者をエッタと云ふは何の字ぞ」との問を起して、これを説明した、「※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄」の出来た年であるのは面白い。死牛馬を扱ったエタが、銭にかえていぬ一疋を捕え、射しめるべくこれを官人に供したという所為が、当時の僧侶の目より見たならば、いかにも無残に見えたには相違ない。したがってこれを「人中最下之種」だと悪口言ったに無理はないが、しかもさらにそのエタを役して犬を捕えしめたのみならず、さらにこれを射て快となした官人を攻撃しないのは、すこぶる偏頗の事だと言わねばならぬ。
 エタが死牛馬を屠ってその肉を食ったという事については、別項の「上代肉食考」を参照されたい。牛馬は人を助け世を益するのものであるとの理由を以て、これを屠殺することを禁ぜられた。もはや使役に堪えざる老牛馬といえども、決してこれを殺す事は出来ない。したがって牛馬はその斃死するを待ってエタの手に渡し、その皮を剥いで社会の必要品たる皮革の原料を供給せしめるのであった。今日生牛馬を屠殺して肉を食うの習慣ある時代の目を以てこれを見れば、死牛馬の肉を食ったと云えば、直ちに伝染病などによって斃死したもののことを連想して、いかにもいやな感じを起させる様ではあるが、昔は実際上死牛馬以外にほふるべき牛馬はなかったのである。そしてその皮を剥ぐ彼ら下級労働者が、祖先以来の肉食の風習をついで、ついでながらにその肉を食い、その美味を賞したのに少しも不思議はない。また僧侶らの以て重しとする慈悲忍辱の上からこれを云っても、肉食の目的を以て生牛馬を殺してその肉を喰うものと、自然に斃れた死牛馬を屠ってその肉を喰うものと、もしそれが罪悪であるとしたならば、その罪悪の軽重如何ぞやと反問せなければならぬ。しかるに彼らは生きた猪鹿を殺して喰うものを多く責めずして、死牛馬の肉を喰ったエタをのみ特に賤しみ、「人中最下の種」だなどと悪口するが如きは、甚だしく不徹底の言論で、けだし一片の習慣と感情との問題から起った僻見であったに外ならぬのである。されば社会の一部にかくこれを賤むものがあっても、それは勿論社会全般の意向ではなかった。彼らは後世に至るまでも相変らず宮廷に近づき、社寺に近づき、天皇お召しの御履物を調進しても、あえてこれを穢とはなし給わなかったのである。かの「本朝食鑑」に、

凡本邦屠牛馬犬豚者、俗称穢多・皮剥。此是市中之下視、至卑而乞食疲極之長也。故不神明高貴之庭※[#「土へん+犀」、U+5880、135-14]、而士農工商倶嫌‐忌之。寔所以本邦為穢忌之最。而不独悪皮膠之臭矣。
 とあるのは事実を得ていない。この書は元禄八年の著で、正に生類憐みの令を出した時代の産物としては、かかる言のあるのにも不思議のない様ではあるが、しかもその後四年阿波藩の令に、エタがなお服装その他百姓に準じて軽くすべし位の程度であってみれば、事実上一般にはまだそう彼らを甚だしく賤しんだとは思われぬ。またその謂うところ「神明高貴の庭※[#「土へん+犀」、U+5880、136-3]を窺ふ能はず」とあるのは、明らかに事実ではない。祇園祭の警固に立った犬神人は靴作で、もとエタと同類であった。その他の祭礼の警固にも、この徒の出る事は珍らしくなきのみならず、自ら祇園や白山を氏神として祭っている部落は幾らでもあるのである。またかしこくも禁中には、小法師のエタを近づけて、あえて穢となし給わなかったのである。ことに「食鑑」の著者の自ら謂う如く、エタが獣皮から作った膠皮にかわは少しも穢れとはせず、高貴の御方でもこれを以て製した墨を手にし給いて、厭い給わないのみならず、その墨汁を含ませた筆端は、しばしば筆執るものの唇に触れて汚穢の感じを起さないが如きは、不徹底極まると言わねばならぬ。
 要するにエタの特に賤まるるに至ったのは、主として一部の仏教家の偏見と、その不徹底なる感情とから来ったものにほかならぬ。したがって仏教のまだ社会に普及しなかった時代には、彼らを賤むの念もまた広く普及しなかったに相違ない。しかるに徳川幕府が切支丹宗を禁ずるの方便として、天下の人民ことごとく仏教に帰依せしめ、必ず何らかの寺院の檀徒なるを要とするに至って、彼らを忌むの念は自ずから一般に普及するに至ったのに相違ない。しかも一般世人が特に彼らを嫌悪し、当路者が残酷なる圧迫をこれに加うるに至ったのについては、さらに他に大なる原因の存するものがある。

 言うまでもなくエタは一種の必要なる労働者であった。ことに触穢禁忌の念の盛んな時代には、どこにも必要欠くべからざる村役人であった。死牛馬の始末[#「死牛馬の始末」は底本では「死牛馬の始未」]、汚物の取片付け、兼ねては境域内外の警邏等の為には、必ず彼らを要したのである。そこで京都の大きな官署を始め、有力なる社寺にも、大きな町村にも、大抵はこれを付属せしめて置いた。ことに戦国時代、各地に小城主が割拠した頃にあっては、武具の調進・城下の掃除等の為に、是非とも彼らは必要であった。徳川時代の諸大名の城下・陣屋等にあっては、特に刑罰執行者としての彼らの必要があった。しかるに当時彼らの数は甚だ少かった。勿論今日より、精密に古代の彼らの数を知ることは困難であるが、各地のエタ村についてその起原沿革を調査してみると、ほぼその状態を推測することが出来る。この事は別項「特殊部落の人口増殖」の編中に詳説しておいたから、ここには略するが、要するに、彼らがもと数に於いて甚だ少いものであった事は疑いを容れない。
 およそ物品の価値は無論生産費の多少にも基づくが、その高下は主として需要供給の関係によって定まるものである。労働者とてもその通りで、需要多くして供給少い場合には、高給を以て招かれる、歓迎せられる、優待せられる、これ自然の勢いである。当初供給の少く、需要の比較的多かった時代のエタは、必ずこの状態であったに相違ない。彼らの執った職業は、当時に於いて人の忌がるものであったが故に、これを独占してこれに従事した彼らは、各地に必要なるものとして、必ず種々の特権を以て招かれ、歓迎せられ、優待せられたに相違ない。この際に於いて彼らが、世人から排斥せられ、圧迫せられたという様な事のあるべき筈がない。果然彼らは芝居の櫓銭、市店の棚銭の徴集、その他地方によって相違はあるが、ともかく種々の特権を与えられ、また別に独占の工業を有して、安楽なる生活を送っておったのである。古代のエタに富有者が多かったとの事は、別項「特殊部落と細民部落・密集部落」の中に説いておいた。倉廩そうりん満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。たとい富有というまででなかった仲間でも、生活に困らなかった時代の彼らが、世間に対して面倒な問題を惹起すべき筈はない。したがって行政上にも、彼らは古来からの彼らの仕来りのままに従って、自治に放任せられていたのであった。服装その他の事項についても、あえて干渉がましいものを受けなかったのである。否服装等の点については、彼らはむしろ平民よりも一層自由であったに相違ない。遠い平安朝の話ではあるが、「江談抄」に、賀茂祭に立つ放免という非人が、綾羅を身に着けている事について問題の起った事がある。この時藤原斉信の説明に、彼らは非人なるが故に禁忌を憚らざるなりと言ったとある。傀儡子の徒が錦繍を身に纏うて、小屋住まいをしていた例は言うまでもない。「今物語」に見ゆる一条河原のキヨメすなわちエタの娘が、五位の蔵人を恍惚たらしめた美人で、蔵人はその後をつけて行ったが、彼は述懐の歌を詠じて小屋に隠れたとあるのでも、その盛装の様子は察せられよう。若狭の無悪さがなしの部落では、もとは娘らに盛装せしめ、一般人の目を惹く事であったが、今は家計困難の為にこの事がなくなったとの報告にも接した。かかる類は昔はことに多かったと思われる。しかるに彼らの人口は、一般社会の人口の増殖の程度に比して、ことに急激なる速度を以て増殖した。これも別項説明しておいた通り、彼らは疾病に対する抵抗力が強かったという事もあろうが、一つはその生活が安易であったが為に相違ない。しかもこの急激なる人口の増殖は、自然に彼らの生活を脅かすの結果を生じた。需要に対する供給の過多は、勢い物価を安からしめる。彼らは従来の所謂檀那場すなわち得意先を堅く保持して、これを失わざらん事に努力せねばならなくなった。彼らの独占事業も仲間内に於いて競争せねばならなくなった。従来金をまで付けてもらって、むしろ恩に着せて引取ってやった筈の死牛馬も、今は金を出して買わねばならぬことともなる。従来権利として要求した櫓銭・棚銭、その他村人よりの役料も、祝儀としての恵与、慈善によるの施行となった。竹皮草履・藺表金剛も、競争して安売りせねばならぬ事となる。しかるに一方にはこれに反して、徳川太平の代の結果は、武具の需用を減じて一層彼らの職業を少からしめる。階級思想の発達はますます賤者を賤しからしめる。かれこれ相俟って彼らの立場はますます困難となった。ここに於いてか彼らは自ら卑下してもその生活を求めねばならぬ。生きんが為には世間の軽蔑をも甘んぜねばならぬ。当時人口大いに増殖したりとは言え、未だ社会に一勢力をなす程の数に達しておらなんだ彼らは、ますます自ら谷底に落ち込むの窮境を辞する事が出来なかったのである。
 因は果を結び、果は因を生ずる。彼らの堕落はますます彼らをして堕落せしめる。彼らは過剰の人口を自己の村落内に於いて、与えられたる職業によって、始末せねばならなかった。水が器に充つれば必ず溢れる。狭い範囲に収容し切れない彼らの過剰者は、勢い自己の社会外に生活の途を求めねばならぬ。ここに於いてか有為の才を抱いたものは、町人・百姓の間に紛れこんで、そこに自分の立脚地を得ようとする。素性を隠して武家奉公や、下女下男奉公するものも出て来る。品性の下劣なものはしばしば世間に向かって嫌悪さるるの種を蒔く。あたかも現代の我が国民が、海外に雄飛の地を尋ねて、或いは労働に生活の道を求めて、加州や濠洲で問題を起している様な事が、当時も頻々として生じたに違いない。ここに於いてか為政者は、いよいよエタ問題のゆるがせにし難いことをさとり、一般人民はこれに対して嫌悪の情を深うし、だんだんとエタ非人を区別し、これを圧迫するの方針を取ったのである。

 江戸や京都などでは、早くからエタ頭があって、エタに関する事件を委任せられていたが、当初はそれで以て別に困難な問題も起らなかった様である。また地方でも大抵エタ頭を置かず、普通の村役人が百姓と共にこれを扱っていた場合が多かった様である。しかるに延享に始めて舞鶴領の頭が出来た様に、後にはだんだん各地方にも頭を置く様にはなったが、それでもやはり村役人がその上に立ってこれを統率していたのが多い。そしてそのエタに対する取扱いたるや、元禄十二年に服装その他百姓に準じてなお軽くせよと令した徳島藩でも、その後十四年の正徳三年に至っては、エタの身居棟付みおりむねづけ帳・宗門帳は町人・百姓のと別帳に仕上げさせる様にして、だんだんとこれを区別する方針を取ったが、それ迄は百姓もエタも、同じ帳面に書いていたらしい。既にその前年なる正徳二年の、「名東郡芝原村穢多・小家しょうけ・下人一々書抜帳」と云うのを見ると、エタ百人万助の小家も、庄屋伝右衛門の下人も、伝右衛門の小家彦三郎の下人も、同一帳面に書き連ねて、「右者名東郡芝原村横付御改被仰付に付、穢多百人・小家、庄屋伝右衛門下人、穢多に至迄、帳面に仕上候」とある。けだし庄屋の下人も、エタも、あまり区別を付けなかったものと思われる。
 しかるにその阿波に於いても、正徳三年からは帳面までも別にせしめる事になった。次いで享保に至っては、江戸でも、京都でも、エタの由緒調査の事が始まった。弾左衛門が始めてその由緒を書上げたのは享保四年である。京都に於いてはこれよりも先二年、町奉行から天部・六条・北小路等の由緒を書き上げしめた。この年に提出した天部の由緒の控えは今も遺っている。「青屋考」中に引用した、京都町奉行扱いの「穢多青屋勤方の事」というのも、この年の制定であった。この頃の大坂城代支配下の地域を書き表わしたと思われる地図に、たとい二戸・三戸の場所までも漏らさず、詳しく皮多村・穢多村を標記しているのも、当路者が彼らに注意を払っていた情況を語るものではあるまいか。享保八年に幕府が非人の斬髪を励行し、冠り物を禁じて、一見町人・百姓と区別の出来る様にしたのも、この頃の方針を見るに足ることと思われる。
 かくの如くにしてエタ・非人に対する取締りは、だんだんと表われて来た。享保二年の後二十七年、延享元年に至っては、舞鶴藩の如き地方にも、始めてエタ頭を命じ、彼らの自治に任せる事にもなった。この頃のエタ扱いの大体の方針は、エタをして一見町人・百姓と区別し、これに紛れ込まない様にせしめるにあった。しかしなお未だエタを甚だしく疎外して、まるで別物の如く扱うという風はあまりなかったらしい。徳島藩にてはその後七年の寛政四(宝暦元)年に、左の如き取扱い方を示している。

一、諸願之義は村役人当役人添書にて紙面指出候。
一、養子取組之義は百姓に同断、(中略)
一、穢多牢舎中病気療法之義旧例無之旨、町御奉行より申来候へども、牢中は同様の義に候へば、牢医に申付様被仰付候事。
 すなわち諸願書にはエタ年寄の外に村役人の添書を要してこれを監督せしめる様な、特別の扱い方はあったけれども、大体百姓に対するのと違いはなく、世間では町人・百姓とエタとを区別しても、牢屋の中では依然その区別を立てず、後世の様に「穢多の議に候へば」などいう文句付きで、エタ頭に引き渡す事もなく、同じくこれを領分内の人民として、刑を実施していたのであった。
 幕府が絶対にエタ・非人を町人・百姓から区別すべく厳命したのは、右の宝暦元年を後るる二十七年後の安永七年で、「百姓町人体に紛らし候ものは厳敷御仕置申付け候」とあった。これけだしエタを圧迫して狭い彼らの社会内に押し詰め、なるべく世間との関係を生ぜしめないという方針であったのである。しかしながら彼らの人口の増殖は、到底外に溢れる事を禁ずることが出来ぬ。彼らは相変らず或いは身分を隠して武家奉公をする。下女下男奉公するものもあれば、娼妓となるものもある。中には媒酌が立って、立派に百姓と縁組するものすらもあった。かくの如きの事実は、一方に当路者がやかましくこれを取締り、また一部人士が極端にこれを嫌がっていた程にも、世間ではなおこれを疎外しない地方が少くなかった事を示したものである。前にも言った如く、現に遠州の或る地方では、幕末頃までもなお穢多足洗の習慣を認めておった様に、地方によって相変らず待遇の寛厳がまちまちであった事と察せられる。ここに於いて当路者の取締りはますます厳重になった。寛政八年の太田備中守口達に、

当四月二十九日評議いたし可申上旨御渡相成候穢多之娘売女等に致し候もの、穢多の身分を乍弁、素人之交り為致候段、不届に候。依之右様之儀兼々穢多共に申渡置可然哉之旨、被仰聞候。(中略)今般御趣意之趣、弾左衛門は勿論、其外遠国之儀も、其支配御代官・領主・地頭より、其所之穢多頭共に為申渡、此上若紛敷義有之候当人は勿論、其支配之穢多頭共御仕置可仰付旨、一統に御触有之可然哉に奉存候。
 とある。柳瀬君によると、この寛政年中には、丹波・丹後・摂津等のエタが、多人数百姓・町人へ奉公したが為に、それぞれ処罰せられた事が見えている。また丹波何鹿郡上林庄殿村のエタの娘きちを、同郡安国寺村のエタ善助が媒介して、摂津西成郡下新庄村の百姓幸七の女房になしたので、本人きち・媒介入善助・きちの親くに、共に処罰された事もあった。善助はまたきちの妹とめも百姓家へ奉公に世話していたのである。京都市内散在のエタを外に移したのも、この頃であった。
 寛政頃からエタに対する圧迫はますますひどくなった様である。彼らが特別に世間から虐遇せられる様になったのは、実に今から僅かに百余年以来の事だとは、案外千万の感がないでもないが、法令布達の文は常にこれを証明している。彼らに対して新しい問題が起る度毎に、新規な例が開けてますます圧迫はひどくなる。ことに文化・文政以来一層それが甚だしくなっている様である。

 およそ人類は威張る事の出来る場合には出来るだけ威張りたがるの性質を有しているものである。ことに武士から虫螻蛄むしけらの如くに扱われていた町人・百姓等は、さらにそれをエタに向かって転嫁する。社会の階級観念はますます甚だしくなる。小天地にのみ圧窄せられたエタがいよいよ堕落の底に落ち込み、ますます貧乏になったのも実際やむをえなかった。性格の良くない輩も勢い自然に増加して来る。所謂「風儀宜しからぬ」の問題も頻繁に起って来て、はては夜分に出て来て悪事を働く者もあれば、町人百姓に交って悪戯をするものも出て来る。これは彼らが活きんが為の必然の要求、自暴自棄より来る当然の結果なりとは云え、またその原因が世間にあって、世間の圧迫が彼らをしてここに到らしめたものだとは云え、一般世人にとってそれはすこぶる迷惑な事であったに相違ない。ここに於いてか一見彼らを区別すべく、服装その他を別にせしめる必要が起った。夜間の外出を厳禁するの必要も生じて来た。明治三年の和歌山藩の取締令の如く、この必要から起った当然の帰趨であった。そしてそれはひとり和歌山藩のみではなかった。ここに至っては彼らは殆ど罪人扱いである。牢屋住まいの扱いである。その結果彼らはますます堕落する。堕落の結果ますます世間から嫌われる。当初は当然の権利として要求した筈の扶持米の如きも、所謂旦那方の慈悲心に訴えて恵んでもらうという状態になっては、乞食仲間に成り下がり、しかもその穢れ多しと思われている点に於いては、一般乞食よりもかえって損な立場に置かれたので、遂に幕末維新頃に見る様な悲惨なものになってしまったのである。
 エタの被った残酷なる圧迫は、彼らが穢れたものだと誤解せられた点に素因を有している。しかしながらその圧迫を劇甚ならしめた直接の動機は、彼らの人口増加から起った生活難の結果である。彼らにして是非とも一般人民と区別せしむるを必要とするならば、これに圧迫を加えてその溢出を防ぐのは社会自衛上やむをえぬ手段であったかもしれぬ。これに対して反抗を続け、間隙を求めて逸出を図るの事は、また彼らにとって自己生存上の当然の要求であらねばならぬ。しかもこの闘争に於いて、彼らの取った手段は常に拙劣であった。これが為に彼らは一層当路者と一般世間の嫌悪を招き、結局敗残の極みに陥ってしまったのである。今やエタ非人の称廃せられてよりここに半百年に近く、彼らは既に久しく帝国臣民として何ら区別のないものとなっているのである。しかも世間はなおその圧迫を全然解放するに至らず、帝国民中五十分の一にも相当する多数の同胞を不遇の地に放置することは、まことに昭代の恨事と言わねばならぬ。
(完)

底本:「被差別部落とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年2月29日初版発行
底本の親本:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
初出:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「無礼ヶ間敷」
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。