我が国には古え天益人あめのますひとの語があって、人口が日々増加しつつあることは、太古以来既に認められておった。近いところで明治五年初めに約三千三百十一万と言われておった内地の人の数が、大正五年末には約五千五百六十四万となっている。近年の増加の数は、毎一年約七十万ないし八十万であるから、本年初めの数はおそらく約五千七百二十万にも達している事であろうと思う。その毎年増加の率は、また年とともに増して来る方で、明治五年以来の割合は、大体に於いて千人につき八人ないし十五人という事になっている。
 かく盛んな増殖率を有する我国民の中に於いて、特殊部落民の増殖率はことに盛んである。明治四年八月二十八日にエタ非人の称を廃した際の数を見るに、エタ二十八万〇三百十一人、非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千〇九十五人、合計三十八万二千八百八十六人とある。この中非人と言われた方のものは、その後大抵解放されて、もはや所謂特殊部落の待遇を受けていないのが多い。また右の雑種というものの中にも、普通民に混じたのが多数であるとは察せられるが、仮りにエタ及び皮作等雑種と言われたものの全部が、今日の所謂特殊部落の本をなしたとしてみても、明治四年称号廃止当時の数は三十五万九千四百〇六人である。されば明治五年正月二十九日調べの内地人口三千三百十一万〇七百九十六人という統計に表われた数を以て、その五ヶ月前に遡って、仮りに三千三百〇五万ないし六万の人口があったとすれば、当時の特殊部落民は総人口の九十二分の一、すなわち九十二人の中に一人ある割合にしか当っていなかったのである。
 しかるに単に部落民だけのその後の人口の統計について調査してみると、案外にも増加数の、ことに夥しいのに驚かされる。本年一月のその筋の調査によるに、報告未着の東京府の一部、及び神奈川・宮城・岩手・秋田の四県を除き、その他に於ける部落住人口(部落内居住普通民を除く)の総数が八十三万四千七百四十五人、部落外居住者人口総数六万九千六百六十七人、合計九十万四千四百十二人とある。この以外に他へ転籍もしくは移住して、普通民の中に蹟を没したり、もしくはもはや部落民として認められなくなっているものの数も、過去四十余年間には少からぬものであろうと思われる。現に北海道へ移住したものの如きは、社会からも殆どこれを区別することなく、したがって一人も右の統計には載っていないのである。東京の如き雑多の地方人入り込みの場所に於いても、今や殆ど忘れられて、右の統計に載っていないのが多い。おそらく彼らの子孫自身も、父祖がもとそんな者であった事を知らないのであろう。そこで近ごろ或る部落有志者の概算では、大略百二十万ないし百三十万はあるであろうという。甚だしいのに至っては、百五十万もあろうなどという統計を見積っているが、今仮りにまず最も少く見て、概算百十二三万人としたならば、部落民の総数は内地人総数の約五十分一、すなわち五十人中に一人ある割合に相当することとなるのである。すなわち内地人全体が明治四年から四十七年余の間に七割六分弱を増す間に、部落民のみの間では、二倍と一割強の数を増しているので、その増加率に於いて、実に普通民の二倍八分に相当しているのである。(さらにもしこれを百五十万と見積ったならば、内地人総数の約三十八分の一となり、明治四年以来四倍と二割弱の増加をなし、その増加率に於いて普通民の四倍二分に相当することとなるのであるが、それは余りに多きに過ぎる様に思われる。)
 さらにこれを近く十二年間の京都府下だけの異動について見るに、明治四十年の調査では三万三千二百九十一人であったものが、本年初めの調査では、四万二千七百〇二人で、二割八分強の増加となっているのである。これは勿論生活の便を求めて、近く他地方より府下へ来住したものも少からず交っているには相違ないが、それにしてもその増加率の多いには驚かざるをえぬ。
 しかもかくの如きは、決して明治以来の事ではない。「京都御役所向大概覚書」によるに、今を距る二百四年前の正徳五年調査の「洛外穢多家数人数の事」という条に、

百八十八軒      七百八十九人       六条村
四十六軒       百二十三人        蓮台野村
二十軒        百十六人         北小路村
四十四軒       二百三十三人       川崎村
百三十八軒      五百九十人        天部村
十七軒        七十一人         小島村
七軒         二十七人         龍ヶ口村
十四軒        五十八人         舁揚村
八軒         三十五人         西代村
二軒         十五人          北河原村
二軒         七人           柳内村
 合計十一部落、四百八十六軒、二千六十四人

 とある。しかるにそれが、百九十三年後の明治四十年の調べによると、

千百六十九戸     五千三百九十六人     旧六条村
百六十三戸      千二百七十六人      旧蓮台野村
九十六戸       六百七十一人       旧北小路村
二百五十三戸     千五百八十七人      旧川崎村
三百六十四戸     二千〇〇一人       旧天部村
四十三戸       二百六十五人       旧小島村
八十三戸       四百五十六人       旧龍ヶ口村
五十八戸       四百五十二人       旧{(舁揚村[#改行]北河原村)
三十三戸       二百十六人        旧西代村
二十戸        百三十二人        旧柳内村
 合計二千二百八十二戸、一万二千四百五十二人

 とあって、正に六倍九分に増加しているのである。各村現在の実数は未だこれを知るの便宜を得ぬが、仮りにその後本年まで十二箇年間に於いて、京都府下全体に於ける増加の割合の平均によって、二割八分強を増加したとしたならば、現在では合計約二千九百戸、一万六千人にも達している筈である。その中にも旧六条部落の如きは、他地方からの移住も多いことであるから、実際にはさらに多数に上っている事であろうと思われる。
 因みに云う。右の村名は現在多くその称を異にし、或いは分合しているのもあるが、前後対照の便を図る為と、一つは現在の名をわざわざ吹聴するの必要を認めぬのとより、ことさらに旧名を掲げておいたのである。
 また云う、享保十七年五月の「六条村年寄書上」に、「人数合六百三十六人、内男三百二十五人、女三百十一人。右は当村の人数当子の五月改当歳已上云云」とあるのは、所謂役人村たる旧六条のみで、出村を除いた数か。不審。延享元年六月の調べには九百五十九人とある。
 また云う、右の旧六条村の戸口数の中には、約四十戸二百人の旧悲田院の徒を交えているそうであるが、大勢に関せぬから、そのままに存しておいた。
 かくの如き増加は、ひとり京都付近のみに限った事ではない。京大書記松山義通君の談によると、大和柳本の部落はかつて織田家がこの地に陣屋を設くるに際し、笞刑執行・汚物掃除・死牛馬取片付等の必要より、新たに三戸を他から移植せしめたのが初めであったが、今では五十戸にも上っているという。紀州の森彦太郎君の報告によると、同国日高郡高家川部落は、享和四年に同郡下志賀部落より三戸の移住者が開いたもので、今では十六戸に達しているという。享和四年はすなわち文化元年で、今より百十七年前であるが、その間に彼らは増加して五倍強に達しているのである。ことにこの高家川部落創設許可の際の約束書に、「隣村萩原村慶長年暦御検地のみぎり、皮田の者三人之由、此節にては多人数に相成、野山等苅込にて、本郷一統迷惑に及び」云々とあるのを見ると、慶長以来享和以前の二百年間にも、夥しい増加のあった事が察せられるのである。そしてかくの如きの例は他にも甚だ多い。

 部落民が劇甚なる増加率を以て増殖して来た過去の事歴は、全国を通じてほぼ同様で、もと非人と言われた部落が漸次凋落し、住民次第に分散して、蹟を普通民中に没してしまったのが多いのに反して、もとエタと言われた部落のみは、年とともに到る処に発展して、遂に今日の状態をなしているのである。
 一概にエタ・非人と呼ばれたものの中について、往時両者の割合がどの位であったかは、今にしてもとよりこれを詳らかにする事が出来ぬ。しかしながら少くも京都に於いては、正徳五年の洛外エタの人数が僅かに二千〇六十四人に過ぎなかったのに対して、同年調べの非人の数は、実に八千五百〇六八に達し、殆ど四倍強の多きを有しておったのであった。しかるにこれら非人部落に於いては、その多数は既に退転してしまい、依然旧地に存するものも多くは社会の進歩と並進して、もはや特殊部落として認められる様な事はなく、ただ僅かに南方の或る一部に居る極めて少数のもののみが、隣家のお相伴という次第でもなかろうが、今なおすこぶる社会の進歩に後れて、他から部落民を以て目せられているばかりである。
 明治四年称号廃止の際に於ける非人の数は、全国を通じて僅かに約二万三千五百人で、正徳の京都一地方のみに於けるものの数に比して、僅かに二倍八分弱にしか当らないのであった。これは正徳以来明治四年迄、百五十余年を経過する間に、その多数が解放せられてしまった確かな証拠である。しかるにひとりエタと呼ばれたもののみは、この解放に漏れて、ますますその数を増したのであった。
 今その部落発展の一例として、京都旧六条村の沿革を述べてみたい。
 六条村はもと今の五条橋下中島の地、すなわち古えの六条河原の地にあった。(今の五条通りは古えの六条坊門で、松原通りが五条通りであった。その松原通りから六条通り迄の間の河原を六条河原と云ったのである。)これ六条村の名ある所以である。その以前寛文頃迄は、今の松原通り東洞院の東、稲荷町の地にあったとも言われている。その地は因幡薬師の東で、或いは東寺の散所法師の如く、因幡堂のキヨメすなわち掃除夫であったのかもしれぬ。ところが寛文三年に至り、市内整理の為に右の六条河原に移ったのであったが、さらに正徳二年に、妙法院に於いてこの地が入用とあって、妙法院領七条お土居以南の高瀬川付近に地を点定し、ここに移転せしめたのが後の柳原六条村である。当時給せられた地は七条お土居外、高瀬川と船入との間に於いて、六尺五寸棹で僅かに二千五百六十六坪、ほかに皮張場五百十一坪、合せて三千七十七坪たるに過ぎなかった。しかし当時の簡易生活の彼らの社会では、百八十八軒七百八十九人(正徳五年調べ)に対して、これだけでともかくも間にあったものと見える。
 しかしその後間もなく人口増加して狭隘を感じ始めた。すなわち移転の後僅かに十年の享保八年に至って、六条村橋入口、妙法院領三畝三歩の地を居小屋地に願って許された。七条出屋敷三軒町或いは三軒屋村という名が享保頃に見えているのはこれであろう。ついで享保十一年二月に至り、さらに六条村手下大西屋庄左衛門・大和屋喜三郎・住吉屋安兵衛より、旧銭座ぜにざ跡開発のことを思い立ち、天部・川崎・蓮台野等の仲間村にも故障なき旨年寄の連署を得て、東町奉行所公事方の許可を願い出たが、この度は許されなかった。そこで熱心なる出願人等は、遂に奉行所の投入箱へ願書を投げ入れるという最後の手段にまで出たので、八月四日奉行より、

不届千万に候。此度之儀急度可申付品有之候へ共、此度は申分に指置候。重て箇様なる不届の儀を書付投入致し候はゞ、急度曲事可申候。向後は新家に付、願出儀成間敷候。
 との叱責を受けて、願書は奉行所門前で焼き棄てらるるに至った。しかもその後懇願遂に功を奏したものか、享保十七年に銭座開発の運びになった。かくて寛保二年にはだんだんここに三十軒の家持ちの存在を見るに至り、延享元年六月十七日の調べに、六条村全体で九百五十九人と見えている。町数もだんだん増して、延享五年頃には銭座屋敷、六条村中之町・下銭座町などの名も見えている。銭座とは六条村の南方郊外妙法院領の地で、寛文二年に大仏を鋳潰し、寛永通宝を鋳た場所である。これよりだんだん居小屋地南に延びて、遂に八条通りにまで達するに至った。延享頃の死刑人見張番人足等の中に、六条村組下九条方というのがあるのを見ると、この頃すでに八条通りを越えて、九条方へ出ていたものがあったかに見える。また文政九年十二月には、東寄りの方にも本村に接して出村を設け、天保十四年十一月には、天部領小稲荷の地を年二十一石の年貢で天部村から租借し、建家の承諾を得てここにも発展した。ここに於いてもと僅々八反半ばかりの地所に引移った六条村民は、船入の左右に渉り、高瀬川を越え、北は七条通りの南お土居外から、南は八条通りまでに及び、近時はさらに八条通りを越えて、九条領岩ヶ下にまで溢れ出しているのである。かくて正徳の百八十八軒七百八十九人は、百九十三年後の明治四十年に一千百六十九戸五千三百六十六人を数うるに至り、戸数に於いて六倍七分五厘、人口に於いて六倍九分弱の多数に達した。今日ではおそらく一千三百戸六千人以上に達したと言われているのである。
 この中に於いてもとの六条の地のみは、祖先以来の役儀を継承して、所謂役人村として知られ、新たに発展した他の部分は、牢屋外番人足にも徴集されたが、主として工業によって生計を営んでいたのであった。
 正徳以来の京都付近十一ヶ村の戸口の増加の割合を見るに、正徳の四百八十六軒二千六十四人が、明治四十年には約二千二百八十二戸一万二千四百五十二人にも達しているので、戸数に於いて四倍七分、人口に於いて六倍強となっているが、この旧六条村の増加は、戸数に於いても口数に於いても、遥かにこれらの平均以上に達しているのである。かくの如きはこの地が近く大駅を経て、生活上の利便が多いがために、鉄道開通後ことに多数の来住者を招いたという理由もあるけれども、過去に於ける増殖の著しいことも、また特に著しかった事は疑いを容るる余地がない。

 明治四年以来全国の人口が七割六分弱を増す間に、特殊部落民は二倍と一割強の増加をなし、明治四年に全国人口の九十二分の一にしか当らなかった部落民は、今日は五十分の一(或いは三十八分の一)にも達していることの統計は、既に前に述べておいた通りである。この著しい増加率の相違は、さらにその以前に於いていかなる状態であったか、普通民との増加率の比較いかがであったであろうか。
 徳川治世三百年間は、大体に於いて太平無事であったが故に、我が人口も必ず大いに増加したであろうとは、何人も手軽に想像しうるところであるが、事実はこれに反して、増殖率の案外低いのには驚かざるをえぬ。徳川幕府の人口調査は、享保六年以後毎六年目に実施せられている。これより元治元年に至るまで二十五回の実施のうちで、十五回だけの数は今日これを知る事が出来るが、その第二回目の享保十一年の調べが二千六百五十四万八千九百九十八人、第二十二回目弘化三年が二千六百九十万七千六百二十五人で、百二十年間僅かに三十五万八千六百二十七人の増加を見るに過ぎなかったのである。勿論この統計は、決して正確とは言い難いものであろうが、当時宗門改めのやかましかった時代であるから、案外信用するに足るものであろうと思われる。もっともこの中には、公家・武家、並びにその奉公人・又者等を除外した数であるから、実際上の帝国臣民の数は、さらにこれよりも数割の割増しを見る必要あるべく、かくて明治五年に至って、三千三百十一万の統計を見るに至った事であるが、大体に於いては徳川時代を通じて、甚だしい増減のなかったものなることだけは、これを承認して差支えなかろうと思われるのである。
 さらに京都だけの人口を見ると、これは時代によってかえって減少の傾きがあった。「京都御役所向大概覚書」の付箋によるに、

正徳五年     三十五万九百八十六人
享保元年     三十五万三百六十七人(六百十九人減)
享保二年     三十五万三十三人(三百三十四人滅)
享保三年     三十四万六千四百三十一人(三千六百〇二人減)
享保四年     三十四万千四百九十四人(四千九百三十七人減)

 これは一つは調べ方にもよる事であろうが、大体に減少の傾きのあった事は疑われぬ。もっとも右の数は、公家・堂上並びにその付属家人・使用人、武家・寺社・エタ・非人等の人々を除外したもので、普通には徳川時代の京都の住民、四十万ないし五十万と言われ、幕末まで決して甚だしく増加したとは思われぬ。そして明治になっては一旦著しく減少し、近年ようやく復旧した位の状態になっているのである。しかるにこの間にあって、エタの方は毎年著しく増して行ったのであるから、その比較が年とともに甚だしく違って来る。正徳五年に仮りに京都の人口四十万余として、エタ一人で二百人の需用を受け持っていたものが、後には百人となり、五十人ともなって来たのであった。そして、それが相変らず狭い範囲で暮らして行かねばならなかったのである。
 正徳五年の全国人口の調査は不幸にしてこれを知る事が出来ぬ。しかし享保以後の増加率から類推してみると、享保十一年より僅かに十二年前のこの年に於いて、甚だしい異同があったとは思われぬ。そこで仮りに公家・武家並びに奉公人・又者、その他の漏れたものの数を、しばらく大きく見て百四五十万と数えたなら、正徳の全国人口は約二千八百万となる訳である。この全国人口数と、当時の京都近在十一箇村の穢多数二千六十四人との比は、十万人に対して僅かに七人四分弱にしか当っていなかったのであるが、現在の内地人約五千七百二十万人と、同じ部落の人口約一万六千人との比は、十万人に対して二十八人の多数に達しているのである。すなわち過去二百年間に於ける全国民増加の割合よりも、京都付近の部落民増加の割合が、三倍八分の多数を示しているのである。
 正徳の頃に於ける全国のエタの数は、またもとよりこれを知る事が出来ぬ。しかし仮りにその頃から現今にまで増加した京都付近十一部落の合数の割合を以て、過去に遡って逆算し、試みに当時の数を割り出してみるならば、現在の全国総部落民が百十二三万人、しばらくこれを百十二万四千人として、正徳の頃には約十四万五千人であった筈である。爾後約百五十年、明治四年迄に全国民が一倍と一割八分強に達する間に、部落民は二倍と四割八分弱の数となり、今日まで約二百年間、全国民が二倍と四分三厘弱の増加となる間に、部落民は七倍と六厘強となっているのである。さらに明治四年称号廃止の際までの増加の数を見ると、全国民が僅かに一割八分を増す間に、部落民は実に十四割八分を増しているのである。正徳の頃にエタ一人で百九十三人強の人口に対する用務を弁じ、百九十三人強の人口に対する需用品を供給していたものが、明治四年の頃には一人で僅かに九十二人の用務を弁じ、九十二人の需用品を供給する事となったのである。
 かくの如きの劇甚なる人口の増殖は、果していかなる結果を彼らの運命の上に来したであろうか。言うまでもなく彼らの生活難である。彼ら自身の仲間に生きんが為の競争が起る。彼らの社会に於ける地位はますます低くなる。彼らの製品の価格はますます安くなる。勢い世間に向かって溢出せんとして世人の嫌悪と圧迫とを甚だしくする。当初は世間から歓迎せられ、各地に移植されて、自然と生活も安易であったものが、後には邪魔物にせられ、生活困難を来す事となったのである。これらの事情は別項「エタに対する圧迫の沿革」中に詳説しておいたから、それを見合せてもらいたい。

 徳川時代を通じて我が全国に於ける人口のあまり増加しなかったという理由は、もとより簡単にこれを説明する事が出来ぬ。或いは病気に対する抵抗力が弱かったということもあろう、営養が悪しくて生産率が少かったという理由もあろう。昔の人は長寿のものが多かったということは、よく我々の耳にするところである。なるほど長生きしたものの比較的多かったのは事実であろう。しかしながら、その代りに子供の死亡者の多かったのもまた事実である。今の老人達の少年の頃の様子を見るに、数人の兄弟がことごとく無事に揃うて成人したというのは殆ど稀である。昔の子供は疱瘡という大厄を控えていた。旧派の演劇で非業に子を失った母親の愁嘆場には、往々にして「疱瘡も軽く済ましたものを」という繰り言が伴っている。これらもまた死亡率を多からしめた原因の一つになっているであろう。しばしば猛威を逞しゅうした他の流行病についても、予防の方法を知らなかったが為に、死なずともすんだ筈の人を多く殺したという事もある。しかしながら最も大きな原因は、世間体を憚るという虚栄心と、生活難から来る人口増加の制限とに起因した、堕胎とまびきとの習慣の盛んに行われた為であろうと思われる。幕府施政の方針は、百姓を殺さず活かさずに扱うというので、彼らは実にみじめなものであった。したがって今でも僻陬へきすうの地には、生児制限の弊風が往々にして認められる。或る地方では明治三十九年の丙午ひのえうまの年に生児が少かったという事実もある。自分がかつて或る県の漁村の小学校を視察に行った時に、女児の就学児童の極めて少いのに不審を起して、村の学齢簿を調査してみたところが、実際その村には女の児が少かった。「この村は奇態に昔から女の児の少い所で、嫁は多く他村から貰うのです」との説明を聞いた事もあった。
 しかるに所謂エタの仲間では、すべての事情が右説くところと反対であったかと考えられる。彼らは肉食と労働とに慣れて、営養が比較的良かった筈である。ことにそれがその簡易なる生活と相俟って、病気に対する抵抗力を強からしめたという事情もあろう。一般人民に対して猛威を振い、甚だしくその生存を脅かした流行病の如きも、彼らには比較的影響が少かったに相違ない。今でも部落の人々は、不衛生的な生活をなしているにかかわらず、伝染病にたおれるものが比較的少いそうである。またその生産率に於いても、彼らは普通民より多かったに相違ない。彼らにはもと生活上の困難がなかったが為に比較的早婚でもあったであろうし、独身者の数も少かったのであろう。また「貧乏子沢山」という諺は、必ずしも貧乏であるが故に子が多いのではなく、労働に衣食して、頭脳を用うることの少いものには、自然生殖力も強い事を示したので、彼らの生活は正にこれに匹敵したものであったであろう。ことに彼らは、生活が豊かであった上に世間体を顧慮するという念が少かったので、墮胎・まびき等の忌わしい習慣がなかったのではなかろうか。
 彼らはまた入口があって出口のない湖水の様に、足を洗って外へ出る事は出来なかったが、外から部落へ流れこむ事は比較的自由であった。元文の頃になっても、京都蓮台野のエタ伊兵衛が、町人近江屋伊兵衛の抱え女ちよを妻として、エタに落したというのが不届きだとあって、三条橋畔に三日間晒した上、追放せられたという事実もある。この処刑の反面には、処刑されずにそのままエタに落ちてしまったのもあったろうとの事を示している。ことにエタがまだ余り甚だしく世間から嫌われなかった際に於いては、それがさらに少からぬものであったであろう。また「エタ源流考」に説くところの如く、社会の落伍者がここに流れ込んだのも多かろう。所謂「生国相知れ申さぬ」「見懸人穢多」の子孫という類のものの中には、エタならぬ落伍者も雑っていたと察せられるのである。
 その原因はいかにもあれ、彼らの人口増加の率が、世間の人口増加率よりも甚だしく多かったというのは確実なる事実である。そしてそれが彼らを安楽境から脅して、細民部落ともなし密集部落ともなした後にも、なお旧来の習慣は存続して、今以て彼らは甚大の増加率を示しているのである。

底本:「被差別部落とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年2月29日初版発行
底本の親本:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
初出:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「龍ヶ口村」「九条領岩ヶ下」「京都付近十一ヶ村」
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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