「ある夫人――それは私の旧友なのですが――からこうした手紙を度々受取らなかったら、恐らくこの事件には携らなかったろうと思います」
 S夫人は一束の手紙の中から一つを抜き出して渡してくれた。それは藤色のレター紙に細かく書かれたものであった。
 S夫人!
 私はもうすっかり疲れてしまいました。
 こんどの任地では徹頭徹尾失敗です。夫の愛は彼女に奪われ、在留民からは異端者のように白い眼で睨まれ、私のすることは、善かれ悪しかれ悪評の種になってしまいます。つまり猫かぶりでなくては成功しない土地で、心にもないお世辞を云い、見え透いたお上手をやらなければいけなかったのです。自分の信ずるところを卒直に云いあらわしては駄目なのだということに早く気がつかなかったのは、全く不明の致すところで、今更悔んでも追つきませんが、それも一つには私を陥いれようと計画たくらんでいる彼女が、遠くから糸をひいていたことに原因するとも思います。私の運命の綱を彼女が握っていて、思うままに振り動かしているような気がします。夫は彼女なしでは一日もいられません。
 彼女、即ち笹屋の有喜子うきこはどんな女だということをちょっと申上げましょう。笹屋というのは当地では一流の茶屋でございます。有喜子はそこの内芸者で、去年夫が赴任いたしましたのと殆ど同じ頃にハルピンから流れてまいった女でございます。素性はよく分りませんが、妖婦型の凄い手腕うでっていると専ら評判をいたして居ります。
 背が五尺四寸もあるので洋装がよく似合います。睫毛が長いせいか、それでなくても黒眼勝の大きな眼が一層真黒に見えるのです。青味がかかった皮膚に真黒い眼だけでも何となくひやりとした感じがいたすものですわね。それに肉のないすうッとした高い鼻というものはまた温味あたたかみにとぼしいものでしょう。西洋人のようでいい格好と云えば云えますが、そういう眼鼻だちのせいか、口許などの可愛らしい割にどうも顔全体の感じは冷たさを通り越して、残忍性を帯びているようにさえ見えるのです。しかしこの位整った顔はまずちょっとないでしょう。彼女は確に美人には違いありません。少なくとも外形だけは非常に美しいのですから。
 御承知の通り、私は子供の学校の都合で一年ばかり遅れて夫の任地へまいりましたでしょう。その間に夫の魂はすっかり有喜子にさらわれてしまっていたんですの。女手がなくて不自由だという事もあったのでしょうが、彼女は段々と入り込んで宴会などのある場合には先立ちになって何かと指図をしていたそうです。館員達にもうまく取り入り、まるで奥様気どりでいた処へ何も知らない私があとから参ったのでございます。
 かげでは毒婦だの妖婦だのと悪口云っている人でも、有喜子に一度会うと好きになって皆味方になってしまいます。とにかく不思議な魅力を有っている女で、普通の人とは大分違っている点が沢山ございます。第一夫を盗まれて敵のように恨んでいる私の処へだって、平気な顔をして遊びにやって来るんですの。それだけだって変って居りましょう。
 失礼な女だ、厚かましい奴だと最初は玄関払いで面会を拒絶した私が、いつの間にか根負けして渋々ながらでも会ったり、話したりするようになってしまいました。そして大抵の女ならかくしたがるような事までもずばずばと平気で先方からきり出すという風なのです。
『奥様は旦那様と私との関係をどう思っていらっしゃるでしょう?』などと申します。何だかこちらが照れて横を向きたくなるじゃありませんか。
『疑っていらっしゃるでしょうね。またおうたぐりになるのが当然なんです。私が故意わざと皆にそう思わせるように仕向けているのだ、という事をご存じないんですから御無理はございませんが、でも正直な処を白状しますと、二人の間は何でもないんですのよ。ただそう申上げただけじゃあお信じになりますまいから、一つ今日は私の秘密をお打ち開けいたしましょう。極く内密なお話なんですけれど、奥様にだけは申上げておく必要がありそうですから、それに世間の人はどう誤解しようと構いませんが、せめて奥様にだけは私の本当の心、えまあ、旦那様とそんないやな関係がないという証拠を知っていらして頂きたいんでございますの。
 実は旦那様と私とは敵同士なんです。随分古いお話ですが、旦那様の下役のある男が官金費消罪で刑務所へ入れられ自殺したという話をご存じでございましょう。あの当時はまだ領事裁判がありましたから、あの人は旦那様のお裁きを受けたのでございます。
 ある男、その人こそは私の大切な許嫁いいなずけの夫だったのでございますのよ。私は未来の外交官夫人という華やかな生活を夢みながら、私と結婚するために賜暇帰朝しかきちょうする彼を待って居りました。処がまあどうでございましょう。彼はそういう罪で入獄する、つづいて縊死を遂げたという悲報に接しました時の私の心持ち、まあどんなだとお思いになります? まるで天国から地獄の底へ逆落さかおとしにされたようなものではございませんか。
 私はあの男の犯した罪を考えるより先に、何とかして助けて下すってもよさそうなものだ。御自分の部下だったのじゃないかと却って逆恨みに、裁判した方を蔭ではお恨みして居りましたんです。許婚の夫に自殺されたんで私の心はすっかり変ってしまいました。夫に官金費消罪を犯させた土地にまず第一に乗り込んでまいり、そこをふり出しに転々と流れ歩いて居りますのですが、そういう事情があるので、いくら御贔屓にして頂いていても敵の旦那様とどうこういう関係にはなれません。ですからその点はどうぞ私を御信じ下すって御安心遊ばして頂き度うございます』
 私は早速主人に話しますと、そういう事実はあったそうですが、それが果してあの女の許嫁の夫であったかどうだかは分らないと申します、もしそれが実際なら気持ちのいい話ではございません。
 有喜子はまた平気で『旦那様も敵なら、奥様だって敵の片割ですよ。だから敵を狙う私の名が有喜大尽うきだいじんで笹屋と申す茶屋にいますのさ』って笑ってしまいます。
 またこんなことも申します。
『私位復讐心の強い女はまアございますまいね。しかしいくら相手が敵でも闇打ちにするような卑怯な真似はしません。正々堂々と名乗りを上げて果し合うんでなくっちゃ面白くありませんですから、私はちゃんと予告をいたしますよ。まあ御安心なさいませ』と半分冗談のように云うのですが、そういう話をする時の有喜子の態度も真剣なら、真黒い眼が底光りがしてきて何とも云えず凄いのです。私は何となく薄気味が悪るくてなりません。もう会うまいと思って一度面会を避けたのです、すると私の心を直ぐ察して申しました。
『奥様は私に会うのが不愉快で避けたいと思っていらっしゃるのでございましょうが、それは大間違いです。大抵の奥様方というものは、御自分の御主人と関係でも出来た女は寄せつけまいとなさる。それがいけないんです。怪しいなと思召おぼしめしたらなお一層近づけるのでございますよ。大切にされ、心から親しまれ、可愛がられるといくら悪辣な女でも、そこは差控える気になって非道ひどいことは出来なくなるものなんです。尤も私の場合は違います。私は敵を打とうと思って敵に附き纏っているんですから、しかし私を寄せつけないようになさろうとすると危険ですよ。予告が出来ないから不意打ちを食う恐れがあります。御要心、御要心』
 私は有喜子が厭で厭で仕方がないのですが、どうも逃げるわけにまいりません。敵だ敵だと云うのですが、それが冗談にいうのか本気で云っているのか分らないんです。しかし彼女の云うことが果して本心から出ているものとすると、夫はまるで爆弾を抱いているようで危険ですから注意しますと『あの女はいろんな創作をやるんで面白いんだ。本気になって心配している処をみると、大分今度は上手に出来たらしいな』と申して主人はてんで相手にもしないのでございます。
 しかし私は何となく不安でなりません。先便でも申上げましたが、この土地へ着きました早々に怪我をしました話ね、あれも有喜子の計略に乗ったのだということが最近になって分りました。上地の様子を知らない私が、突然お祭礼の御神輿おみこしを館舎にかつぎ込まれて、どうしたらいいかと狼狽うろたえているのを見て、彼女は私を後から押し出すようにしてヴェランダへ突き出したんです。すると御神輿を高い処から見下したというので若者達のいかりにふれ、私はヴェランダから地面に引きずり落され散々な目にあいました。その事がそもそもこの土地で不評判になった最初だったんですの。
 その時しどけない寝間着姿だったと云い触らした者があって、一層人々の反感を買いましたが、私は寝間着など着ていたのではありません。咄嗟の場合で、しかも男の人の眼に寝間着だか、平常着ふだんぎだかそんな見分けがつくはずがありません。それも有喜子がでたらめをしゃべったのです。
 その時の若い人達の権幕に怯えてしまって、私は日本人が恐くなってしまいましたの。その上何のかのと蔭口を云われ、とてもうるさくて堪らないので、もうどこへも出まいと決心して西洋人以外の公の会合には一切顔を出さないことにめてしまい、わずらわしい交際を避けてさばさばしていると、それがまた今度は婦人連の反感を買うもとになって、評判はますます悪るくなるばかり、散々に味噌をつけてしまいました。もうほとほと厭になったので、帰朝して静かに子供を教育しながら留守宅を守っていようかしらと思って居ります。しかし私がいなくなった後の有喜子の事など考えますと、意地にも夫の傍を離れるのがいやになります。『いよいよ敵打ちの時期が近づきました』などと変におびやかすように申されますと余りいい気持もいたしません。こんな女の申す事など本気で聞いても居りませんが、それでいて何となく底気味悪い不吉な予感に襲われるのでございます。
 手紙を読み終るのを待ってS夫人が云った。
「こういう音信を受け取る度に、いろいろと慰めの返事を出して居りました。そのうちに便りがふッつりと途絶えてしまい、一ヶ月ばかり過ぎますと突然直ぐ来てくれという電報を貰ったんですの」
「覚えて居りますわ、でもせっかくあんなにお骨折りになったのに肝心の夫人はお亡くなりになってしまって――、やっぱり自殺だったのでございますか?」
「さあ、それをこれからお話しようと思うんですの、もうあれから二ヶ年も経ちましたから、お話してもいいだろうと思いますのよ」
 夫人はスクラップブックを開いて、当時の新聞記事を見せてくれた。
『淋しく残る荷物に死の予感――、宮地(仮名)夫人謎の死』という題で、
『四月二十五日午後零時三十分神戸発の急行列車が東京駅に着いて乗客は全部降車したが二等車の中に、パラソルとショール、鰐皮のハンドバッグ、小さいスーツケース一個が遺留されて居り、荷物の持主の姿がどこにもない。事によると途中で振り落されたのではないかという疑いがあるので大騒ぎとなり、神戸東京間各駅に手配した結果、国府津附近に胴体を轢断され即死している婦人を発見、調査の結果宮地(仮名)夫人で夫の任地から上京の途中この奇禍にあったもので、自殺か、過失死か不明である。同列車の車掌伊藤春吉君は語る。
「列車が裾野駅近くを通過している際デッキに立っていた外国帰りらしい美しい夫人が『電報を打って頂きたいのですが』と云って電報用紙を私に渡し、そのまま食堂車の方へ行きました。小柄な方で、紫色のような服装をしていたのだけは覚えていますが、他には何も心当りはありませぬ」
 なお現場検視に立会った駅員曰く、
「遺書らしいものも発見されませんので、自殺らしいとも思われません。多分カーブの地点でデッキにでも立っていられ、その際振り落されたものではないかと思います」』
 自殺か、過失死か、あるいは他殺か、遂に明らかにされなかった。まして私はS夫人がその謎の鍵を握っているとは少しも知らなかった。


 夫人は冷えきった紅茶を一口飲んでから云った。
「どの新聞にも宮地(仮名)夫人とだけで本名は明かにされてなかったでしょう。少し差支えがありますから、残念ながら、地名も御主人の地位も本名も云うことは出来ません。従って大使館であるか公使館であるかまたは、総領事館であるかそれはすべてあなたの御想像に任せます。しかし名だけは仮に宮城野総領事夫人とでもいたしておきましょうか。某夫人では余りに漠然としてしまいますから。
 私は電報を受取った夕方にはもう出発いたして居りました。かの地に着きますと宮城野夫人のお住居へ馳けつける前に、まず市内のあるホテルへへやをとりました。そのホテルは日本人経営のもので、土地の事情を知るには一番便利だからと紹介状まで貰って行ったのでございます。
 私は夫人がもっと早く電報をよこすだろうと思っていたのです。というのはどういう事件が起ったかを知っていましたからです。それは十日ほど前に例の妖婦笹屋の有喜子が何者かに殺害されたのです。しかも場所が宮城野夫人の邸の附近の往来だったので、それでなくても評判の悪い矢先ですから、とんだかかりあいにでもなるといけない、困ったことが出来たと人知れず心を痛めて居りました。何故なら有喜子は夫人の夫と関係のある女でしたから。
 それで私がホテルに室をとった理由もお分りになりましょう。在留民間では彼女をどういう風に見ているかを知りたかったのです。ただ評判が悪いというだけの夫人の手紙では、はっきりしたことがわかりません。何故そんなに評判が悪いのか本当の処をよく調べてみなければならないと思いました。
 私は早速ホテルの女将おかみにいろいろ訊いてみました。総領事夫人とは一面識もないような顔をして云ったのですが、
『この前の総領事さんの奥様が余りお優しい、いいお方でしたので――』
 と言葉を濁してしまいました、探りを入れているのだと感づいたのかも知れません、そこで私は少し夫人の悪口を云って釣り出してみようかと思いました。
『宮城野さんは大分御評判がよくないじゃありませんか、威張ってるんですってね』
 こういう女の社会で何より嫌われるのは威張ってるということなのです。私は故意と顔をしかめて、言葉に力をいれさもさも憎々しそうにいってやりました。すると女将はすぐ同意して、
『そうなんでございますよ。ほんとに威張ってらして――、御自分だけは御身分が違うんだなんて、容子ようすをなさるものですから、皆さんに憎まれていらっしゃるんですの』
『総領事夫人を鼻にかけて、土地の古株の奥さまがたを立てないってわけなんでしょうね。お寄り合いだの会だので我儘をなさるんじゃありませんか?』
『否え、そういう処へはちっともお顔出しなさらないんでございますよ。いくら御招待してもお断りになるんでございますの、その癖、西洋人の会ならさっさと先立ちになってお出ましになりますそうですから、皆さんが気持ちを悪くなすって怒るのも無理はございませんの。日本人を馬鹿にしているんだ、生意気だ、などと蔭では皆さん悪口を仰しゃるんでございますよ。それにまたそう云われても仕方のないようなことをなさいますもんですから』
『どんなことをなさるんですの?』
『一々は覚えて居りませんが、一度なんかこんなことがございましたよ。この土地の習慣をよく御存じなかったんでございましょうが――、恰度総領事さんの奥様が当地にお着になった頃は神社のお祭礼時でしてね、それに本祭りだったものですから大変な賑かさだったんでございます。吉例によって第一番に御神輿様が総領事館に参ったんでございますよ』
『敬意を表しにですか?』
『左様なんでございます。御神輿様を総領事館へかつぎ込みますと、そこで一同へ御酒のお饗応ふるまいがあって後、奥様がお挨拶にお出ましになり御祝儀を下さる、それがまあ例なのでございます。そういう事を御存じなかったのでしょうが、恰度御神輿様があの坂をねりながら上って総領事館の表お玄関に着きました時、奥様がふらふらとバルコニーへ最初お姿をお出しになったそうですが、間もなく降りていらしてお玄関傍のヴェランダから黙って見物していらしたんでございます。お邸が坂の上の小高い処にあるものですから、まるでお神輿様を見下していらっしゃるような形だったので、気の立っている若い者が怒ってしまい、そのうちに誰だか奥様は寝間着じゃないかなどというものも出てまいり、神様を高い処から寝間着で見下すとはしからん。引きずり落しちまえってわけで、気の早い者がヴェランダへ駈け上って奥様を引きずり降し、散々な目におあわせしたんですの。遂々とうとうお怪我までなすって、書記生さんの白石さんが馳けつけて来なかったら、どんな事になったか分りませんでしたそうでございます。皆酔っぱらって居りましたことですし、誰が下手人だか分らず、奥様はお怪我のなされ損で、それがために御評判がすっかり悪くなってしまったんでございます』
『まあ珍らしい変なお話ですね。最初からそんな事があっちゃあ、宮城野さんでなくっても怖気おじけがさしてしまいますわね』
 私は在留民がいくら酒に酔っていても総領事夫人に怪我をさせるなんて馬鹿な話はないと心では思って居りました。
『それからはもう町へはふっつりとお出ましにならなくなり、日本人の会合の席へも一切お出になりません。お顔をお出しにならないからなおいけないんで、奥様もぞお気をくさらしていらっしゃることでございましょう』
『お気の毒ですわね、旦那様は笹屋の女とどうとかいうんだそうですしね』
『有喜子、殺されましたよ、あの女は』
『まだ犯人は分らないんですか?』
『犯人なんかなかなか分りゃいたしません。こういう処はいろんな人が入込んで居りますから人殺しをやっても上手に逃しちまったりしてね』
『総領事さんも相手の女が殺されたんじゃ気持が悪るいでしょうね、非道い殺され方をしたとか新聞には出ていましたね』
『あの女も逃げようと思えば逃げられたんでしょうに、気が強いから逃げなかったのでございましょう。いろんな噂をいたして居りますよ。犯人は支那人だとか、殺し方が男のようではない、嫉妬でなければあんなむごたらしい殺しようは出来ないものだ、これは必ず恨みのある女の仕業だろうなんて――』
『女ですって?』
『顔をめちゃめちゃに切られたんだそうですの、有喜子はまた特別綺麗な顔をして居りましたから――、あんな残忍な殺し方は男には出来ない。それに何のためにあんな時刻に淋しい総領事館附近あたりまであの女が出向いたんだろうというのが、不思議がられているんでございますよ。きっと誰かにおびき出されたに違いないなんて――』
『でも――、有喜子はふだん総領事館へ出入りしていたんでしょう?』
『まア、よく御存じで、奥様は表面ではそれは優しく有喜子を可愛がっていらしたそうでございますよ。でも有喜子は奥様の事を恐い方だ、恐い方だ、と申していつか私敵を打たれるワ、なんて笹屋の女将に云っていたそうでございます』
『まさかね。不評判もいいけれど殺人嫌疑までかけられちゃかなわない』
『全くでございます。馬鹿な事を申す者があって困ります』
『新聞にはあの晩、若い支那人とあの淋しい道を歩いているのを見た人があるとかいうじゃありませんか?』
『それが支那人でなくって、書記生さんの白石さんに似ていたなんて云う人もございましてね、―――新聞に出ているのとはまるで違ったことを噂して居りますよ。只今はもうどこへ参ってもこの話で持ちきりでございます。いやでございますね、こんなお話は早くおしまいにして、もっと面白い事が聞き度うございます』


 宮城野夫人は想像していた以上に憔悴していて、まるで病人のように青い顔をしていました。私を見ると一言も云わないうちにもう涙ぐんでしまいました。
『よくいらして下さいました。ほんとによく来て下すったのねえ』
 私は夫人の心中を察して何だか胸が一杯になりました。
『貴女のお部屋も定めておきましたから、どうぞ[#「どうぞ」は底本では「どうそ」]しばらく御滞在なすって頂戴な。お力になって下さる方もないし、私独りぼっちでほんとにどうしていいか分らないんですの』
 すっかり意気地なくなっている夫人を私は励ますように云いました。
『あなたらしくもない、もっと元気をお出しなさいよ』
『まあ少時しばらく御逗留下すって、私の日常生活を見て下すったら、何もかも分りますわ。さあお部屋へ御案内いたしましょうか、お荷物は?』
『あの――、町のホテルに部屋だけは取っておきましたの』
『あら、ホテルに? 日本人のでしょう?』
 と直ぐ夫人は厭な顔をして、
『じゃもういろんな話を聞いていらしたんでしょう? 私の評判、随分悪かったでしょうね、でも、もう仕方がないんですの、取り返しがつきませんもの。私つくづく厭になってしまったから、東京へ帰って静かに暮らしたいと思ってましたけれど、またこんないやな事件が突発したんで、帰るにも帰れなくなってしまいました』
『だって御自分にましい事がなければ構わないじゃありませんか、人の思惑なんか気にする事はないわ』
 私は慰める積りで云ったんです。するとそれをどう聞いたのか、夫人は唇の色まで変えて険しい眼をして申しました。
『また何か私の事を云ってるんですか、きっとそんなこったろうと思ってました。じゃあ何んでしょう? 有喜子を私が殺したと云ってるのね、悪い事は何でも皆私におっかぶせてしまうんだから非道いわ』
『否え、別に誰もあなただとは云っちゃいませんよ』
『いいえ云ってるんですわ、きっとそうです、そうに違いないんです』
 夫人はヒステリックな声で云いながら暗い顔をしているのです。私は何だか気の毒になって、
『一体あなたにはこういう土地は不向きだったのね』
 と申しますと彼女は苦笑してうなずいて居りました。
『そうなんですのよ。でも有喜子がいなかったら、こんなことにもならなかったと思うんですの、有喜子は私を追い出して、総領事夫人になろうという野心があったんだそうですから、あの女の計画たくらみでは私の評判を悪るくして土地に居たたまれないようにさせ、この家を乗っ取る積りだったんだそうですよ』
『でも、まさか総領事さんともあろう人が、素性も分らない女を令夫人にはなさるまいじゃありませんか』
『否え、主人は私が退けば必ずあの女を妻に迎えたろうと思いますわ』
『仮にそうだったとしても、あの女は死んじまったから、もうその問題は消えたわけじゃありません?』
『その問題は消えても、他の事で私を苦しめているじゃありませんか。殺人嫌疑をかけさせるなんて、死んでからまでまだ私に仇をしようとしているんですわ。しかしその事は何と疑われたって私は平気ですが――』
 宮城野夫人は急に眉を深く寄せ、声をひそめて云うのでした。
『そんな事はどうだって構わない。今、実はもっと重大な問題に悩まされているんですの、あなたにいらして頂いたのもそのためなんですわ』
『殺人事件よりも重大?』
『大変な事なんですの。私達にとってはね』
 夫人は他聞を憚るからと云って、寝室に続いた彼女の居間に私を案内いたしました。そこは小じんまりとしていて畳が敷いてあり、日本風に飾りつけてありましたが、聞けばその部屋は私のために空けておいてくれたのだそうです。
 ふっくらした紫縮緬ちりめんの坐蒲団の上に座ると急に寛いだようないい気分になって、落ついて話が出来るように思いました。薄暗い大きな応接室で見た時よりも、夫人の顔もいくらか明るく見えました。わざと召使達を退けて、夫人自身で紅茶を入れたり、お菓子を取ってくれたりしました。
 私はそこで夫人から重大な話というのを聞きました。
『今から恰度十日ばかり前になります。有喜子が殺されたと同じ晩に、総領事館では大宴会があったのでございます。その時、白石という若い書記生がすっかり忘れていたある急な用件を思い出し、宴会の席をこっそり脱け出して、オッフィスに入り急いで用事だけすませ、慌てて外へ出ようとドアを開けますと、すうっとまるで風のような早さで出て行った黒い影みたいなものがあったんです。自分の傍をすりぬけた時、ぷうんといい香水の香が四辺あたりに漂ったそうですが、とにかく白石が呆気に取られてたたずんで居る間に、その黒い影は忽ち門衛に捕まってしまいました。
 何者だろう? オッフィスの中に忍び込んでいたものに違いない、どうも女らしい気がする。白石さんは好奇心にひかされて門衛の傍へ近づくと、黒いヴェールに包まれて、顔はよく見えなかったそうですが、背の高い女で、
「白石さん、私よ、何とかして頂戴な」と哀願するような調子で云ったそうです。白石さんは、好い気持にはなっていたし、女から自分の名を呼ばれたのでふらふらと助けてやろうという気になったそうです。
「何んだ、君か、そこまで僕が送って行ってやろう」と云ったので門衛は大変に恐縮し、自分の粗忽を詫びて二人を門の外へ出してくれました。するとその女は立ち止って彼の耳もとへ口を寄せながら、
「お約束だったから来たのですが、遂々お目にかかれませんでしたの。でも、内緒よ。でないと総領事さんに、叱られますから」
 白石さんはその時始めてその女が有喜子だったことを知りました。
 門を出て少しばかり一緒に歩いたそうですが、女がしきりに、一人で帰るから送ってくれなくともいいと辞退するので、そこで別れることにして握手を求めたのだそうです。すると黙って左の手を出したので、少しお酒に酔っていた彼はその手を払い退け、ポケットの中の右手を無理に引張り出して握ったら、有喜子が小さな声であッと云って手を引込めようとするのを、ぐっと握って、そのまま別れたのだそうです。
 その時に何か変にねばっこいものが手についたが、暗くてよく分らないので、そのまま自分のポケットの中でハンケチを握りしめて拭いてしまったと申します。それから五六歩も歩いて、ふと振り返ってみると、いつの間にどこから飛び出したか、誰か男と肩を並べて歩いていたそうですが、ああした女の事ゆえ、いろんな友達を持っているだろうし、ちょっとねたましい気持ちになって、後姿を見送っていましたが、やがて二人は暗い横道へ曲って行ってしまったそうです。
 さて宴会が済んで、自分の寝室へ退いてから、白石さんは握手した時、彼女の手が変にねばねばしていたことをふと思い出して、何心なく自分の掌を見ますと、処々に赤いものがついているというのです。
 オヤと思って見ると何だか血のような色をしているので、いつどこで怪我をしたのだろうとよく改めてみましたが、どこも怪我はして居りません。
 怪しいなと思いながら拭こうと思ってハンケチを出しますと、皺くちゃになったその白いハンケチにも処々血がこびりついているのです。変なこともあるものだと思いながら、夜も更けていたし、そのまま眠ってしまったと申します。
 翌朝オッフィスに出た時は、もう昨夜の事など殆ど忘れて居りましたが、総領事の命で書類を金庫に出しに行った時、金庫の扉の前に一滴ぽたりと血がたれているのを見て、はっと思い同時に昨夜のことが頭に浮んでまいりました。すると何ということなしに不安な気持ちに襲われて、前後の考えもなく血を拭おうといたしましたが、血はもう乾いて床にこびりついていて拭きとるのに骨が折れたそうです。それから金庫の扉を開けようとすると、扉のところによれよれになった護謨ゴムのようなものがはさまっていて、開ける拍子にぽろりと落ちたので、それも拾って、ハンケチと一緒にポケットの中に入れてしまいました。
 それから間もなく白石さんは確かに自分が総領事から預って、金庫の中へしまっておいたはずの秘密書類が全部紛失しているのを発見したのです。そのためいま大騒ぎをしているのですが、世間へ知れると面倒なので極秘裡に取り調べているのでございます。もしこれがいよいよ公になりますと主人もこのままではすまされませんし、一大事件だというので皆青くなって居ります。
 その中でも白石さんは一層煩悶していて見るも気の毒なほど弱って居ります。時間から考えますと彼と別れてほどなく有喜子は殺されたことになるのです。それだけでもいい加減気持ちの悪い処へ、金庫の扉にはさまっていた護謨のようなものをよくよく見ると、どうやら人間の指の皮らしいのです。調べた結果、有喜子の食指ひとさしゆびの内側がそげていたということなども分ってまいりました。
 しかし有喜子が何のためにオッフィスに入り込み、金庫の扉に指の皮まで残して去ったのかは分りませんでした。秘密書類が紛失している処を見ると彼女が盗んだものとしか思われませんが、そんなら何故盗む必要があったのでしょう、まるで見当がつかないのです。
 白石さんが怪しいじゃないか、などと云い出すものが出て、段々彼の身辺に疑惑の眼をそそがれるようになりました。実際あの晩の彼は疑いを受けるに充分な過失ばかりをやって居ります。大切な用件を忘れていたからとはいえ、宴会中にぬけ出してオッフィスへ入っていたというのも考えようによっては少し変です。おまけに扉をよく閉めておかなかった、だから有喜子に入られたというのですが、それも故意に扉を閉めなかったとも考えられましょう。それから白石さんにとってもう一つ最も不利なことは、有喜子を門衛が咎めたのに彼が口を利いて外へ連れ出したという点です。それ等の点から白石さんに変な疑惑がかけられているわけです。
 処で本人はどうかと云うと、あの事件以来極度の神経衰弱にかかって半病人のようになっています。しかも絶えず何かに怯かされてでもいるようで、少しも落ちつきがなく、命じられた用事も忘れたり、間違えたりして、仕事がちっとも手につかないんです。オッフィスへ出ても面白くないのでしょう。それで毎日憂鬱な顔をして誰とも口を利かず、随分無茶なお酒など飲んでいるようですが、傍の者からみると、心配だし気味も悪いし、万一間違いでもあってはならないというので、近々帰朝させる手筈になって居ります。私は白石さんが有喜子に利用されたのだとは考えられますが、彼が手引きをして盗ませたとは考えられないのです。いずれにしても書類は紛失しているのですから、何人なんぴとかの手にあるには違いない。それを発見して白石さんにかかる疑惑の雲をはらい退けて上げたいと思うのでございます』


 有喜子の殺された淋しい往来に幽霊が出るという噂を耳にした翌日、朝のコーヒーを呑んでいる処へ女将が入って来て申しました。
『昨晩うちのお客さんが、その方は迚も臆病なたちなんでございますけれど、夜更けて例のあすこを自動車でお通りになったら、すうッと白い陰が往来を横ぎって消えたそうですの。もうあんな処通るもんじゃない、胆を冷しちゃったというお話でございます。領事館にお遊びにいらしても、もうあすこはお通りにならない方がよろしゅうございます』
『まア! 怖いこと!』
 その晩、私はその淋しい往来に深更まで見張っていましたが、幽霊どころか人一人にも会いませんでした。評判になったのでおばけも引込んじまったのか、と軽い失望を感じながら、踵を返して帰りかけようとした時、ふらりと路傍樹の蔭から出て来た一人の男を見ました。力のないまるで、浮いたような足どりで、ふらふらと歩いて行く容子は、見る人の目には全く幽霊とも映ったかも知れません。おまけに着ている洋服の色が、うす白いのです、昼間見たら鼠色か何かなのでしょう。
 私は見えがくれに後をけて行きました。横町を曲る時街灯の光りで男の顔を見て、私の想像していた通りだったので別に驚きもしませんでしたけれども、とにかく追いすがって声をかけました。
『白石さん、書記生さん』
 吃驚びっくりして彼はハッと立ちすくみました。私の姿を見た瞬間、無意識に彼は逃げ出そうとしてまた思い返したらしく静かに立ち止まりましたが、その大きく見開いた眼からは狼狽の色がありありと読まれました。
『何か御用でしょうか?』
 落ち着いている積りでしょうが、彼の声は震えて居りました。
『少しお訊きしたい事があるんですけれど往来じゃお話も出来ません。とにかく領事館へ参りましょう』
 時計を見ると午前一時です。こんな時間に私のホテルへ同道するわけにもまいりませんし、話を他人に聞かれる危険を避けるためには、やはり領事の館舎内でも撰ぶより仕方がありませんでした。
 私は白石書記生と相対して坐りました。肉の落ちた頬は痙攣けいれんして引きつり、両手は震え、落ち着きのない不安な眼で、絶えず四辺に気を配っている容子は、迚も痛ましくて正視するに忍びませんでした。年の若い、人の善さそうなこの男を、こうまで恐怖のどん底に突き落したのは一体誰の罪でしょう。私はそれを考えると、無責任な世間の人達に対して憤りを感ぜずにはいられません。殊に白石さんの場合は私が人知れず苦心して調査しているので、一層同情の念を深くしたわけです。
 白石さんは最初ひたがくしにしていましたが、私が調査した結果を少しばかりほのめかすと彼はすでに私が何もかも知りつくしているものと思い込んで、有喜子殺害事件のあった当夜、彼が見聞した事実を、私の問うままに包まず話してくれました。
『あの晩、途中まで送って行くと有喜子が頻りに辞退するので別れ、振り返ってみると後姿が二人になっていたというところまでは、総領事や同僚に話したのと同じですが、それから後の話は違っているのです。というのは、そのまま領事館に引返したのではなく、相手の男が何者だか見てやろうという好奇心に駆られて、後を尾けて行ったのです。すると言葉はよく分らないのですが、二人は何かひどく云い争いをしながら、あの暗い淋しい処まで来て立止ったので、自分も二三げんばかり離れた処で立ち止り、電柱の蔭に身を寄せてそっと覗いたのです。すると相手の男は恰度正面を向いていたのでよく分りましたが小造りで、細面の綺麗な顔が殺気を帯びて凄く見えました。日本人ではありません。確かに支那人です。有喜子には支那人の情人があるという噂を聞いていましたので、咄嗟に此奴こいつだなと思いました。街燈の光りで見た有喜子は、もうすっかりおびえきっていて、顔の筋肉をふるわし、まるで死人の如く青褪めていました。何か云おうとしても声が咽喉のどにからんで云えないようでした。
 長い間二人は睨み合っていましたが、そのうち二た言三言烈しく云い合ったと思ったら、
「裏切ッたな!」
 鋭い男の声と同時にきらりと光ったものが眼を射りました。きゃッと怖しい叫び声、つづいて死者狂しにものぐるいで飛び付いてゆく女を見ました、私は恐ろしい光景を目前に見ながら、救いを求める悲しげな声を聞いても、どうすることも出来ませんでした。私の体はまるで麻痺したようにこわばっていたのです。意識も幾分ぼんやりしていたとみえて、はっと気がついた時は四辺はもうしんと静まり返って居りました。ただどこか近いところで荒い息づかいをしているのを聞きました。それが自分の直ぐ傍からであることに気がついた時には、先刻さっきの男から恐しい命令の言葉を聞かされていたのです。男は血走った両眼を見開いて、きっと私の顔を見詰め、底力のこもった声で厳重に申し渡したのです。つまり秘密書類を私に盗み出せというのです。
 有喜子の情人の支那人というのは実はスパイだったのです。彼女はその手先に使われていたもので、秘密書類を盗む目的のために、有喜子は総領事に近づき、夫人に取り入るのに苦心していたのです。そしてやっと待っていた機会が来て、オッフィスに忍び込み金庫を開けたのですが、肝心の秘密書類はどうしても見当らないというのです。それをこの男は有喜子の愛情が総領事に移ったために自分を裏切ったものと思ったのです。心が変れば彼女の口から秘密がもれないとも限らない、それを怖れて殺したのでしょう。
 彼は有喜子の盗みそこなった書類をこんどは私に盗み出せ、その誓いをしろというのです。誓わないと云えば、その場で私も彼女と同じ運命にならなければなりません。意気地のないようですがどうしても彼の命令を拒めませんでした。私は毎夜あの淋しい、有喜子の殺された場所で彼と会わなければならないのです。秘密書類が彼の手に入るまでは。
 しかしその書類は私が金庫を開けた時已にもうかったのです。有喜子もなかったと云ったそうですから、そうすると誰か先に忍び込み、盗み去った者があったに違いありません。
 やむを得ない場合だったとは云え、ああいう恐しい人に係り合った以上、帰朝してもしなくっても、私の身に迫っている危険から逃がれるということは出来そうもありません。私の運命ももう定まっているような気がいたします』
 白石書記生はそう云って淋しく笑いました。


 ホテルに帰るには余り時間が遅いので、私はそのまま宮城野夫人の邸で泊りました。私にあてがわれている部屋に行くと、直ぐ、ベッドの中に入って眠ってしまいました。
 何時間位眠ったでしょうか、ふと人の気配で眼を覚しました。厚い絨氈じゅうたんの上を静かに誰か歩いているらしいのです。絹のすれ合う音がしました。私は羽根蒲団を胸の上までずらせて、息を凝らして様子を覗っていました。目が覚めたと云っても半分眠ってでもいたのでしょう。最初盗賊でも忍び込んだのか知らと思ったのですが、よく見ると何のことはない宮城野夫人ではありませんか。恐しく背が高いように思ったのも、夫人が寝間着の裾をずるずる引きずっていたからでした。夫人は私の方へ気を配りながら、音がしないようにそろりそろりと室の隅の方へ行くのです。そこには大きな洋服戸棚があって中が広いので納戸代りに用いているとのことでした。夫人はその扉に手をかけながら、薄暗がりに立って、また暫時しばらく私の寝息を覗っている風でした。
 窓硝子ガラスから差込む月の光が蒼白いためか、夫人の顔は幽霊みたいに蒼く見えるのです。そしてまるで夢遊病者のように、ふらふらと扉を開けて中に吸い込まれてしまいました。
 私は急いでベッドを飛び降り、そうと扉に近づき、カーテンの隙間からのぞいてみました。すると夫人は懐中電灯を照らして頻りにトランクの中を見ていましたが、軈てさも安心したようにそのまま蓋をし鍵をかけるのでした。私は夫人のこうした挙動を訝しく思わずにはいられませんでした。何のためにこの真夜中にトランクの中を覗くのだろう。そんな大切なものが納ってあるのだろうか、と思うと同時に、私の頭にある事が閃めきました。私はカーテンのかげに立って夫人の出て来るのを待っていました。そんな事とは知らない彼女はまた忍び足で静かに出て来ましたが、そこにいる私の姿を見ると非常に狼狽した容子で、
『あなた、まア起きていらしたんですか?』
 と咎めるような調子で云うのでした。
『トランクの中に納っているものを頂戴したいと思って――。先刻からここでお待ちいたして居りました』
 二人の間には緊張した長い沈黙がつづきました。夫人は私を見詰めながら苦しそうな呼吸いきづかいをしていましたが、低いうめくような声で云いました。
『じゃ何もかも御存じなんですね、あなたから云われない前にもっと早く私の方からお話したかったんです、でも――。どうしても云えなかったの。あなたにいらして頂いた最初の日、白状してしまう積りでいろいろ云い出してみたんですけれど云えなかったんです。どうしても、私には云うだけの勇気がなかったのです――』
 と云いながら夫人は急いで戸棚へ行きましたが、引返して来た時には一束の書類を手にして居りました。それを私に渡しながら、
『S夫人。あなたは嘸ぞ私を見下げ果てた女だとおさげすみになっていらっしゃるでしょうね、でもそうするより仕方がなかったんですのよ』
『あなたは御自分が金庫から持ち出して秘しておいて、それを探し出させ、私の手で御主人に返させようとお思いになって、私をここにお呼び寄せになったのですね』
『すみません。本当に申訳ありません、そうでもしなけりゃ返す方法がなかったんです』
『御主人にお話して、お詫びなすったらいいじゃありませんか』
『主人に話して? まあ恐しい、そんな事がどうして出来るもんですか、謝罪あやまって許してくれるような人だったら、私はこんなにも心配はいたしませんわ、たとえ事情がどんなであろうとあの人は断じてゆるしません。主人に知れたら、ああ、あの人の耳に入ったら、私はもうお終いです。どうぞ助けて下さい、S夫人、私を救って下さい、ねえ、お願いです』
 夫人は泣きながら、哀れみを乞うように私を見上げていうのです。私は黙って考えて居りました。
『あなたが最初いらして下すった時、本当の事をお打ち開けして御相談もし、お願いもする積りでいたのでしたけれど、それだのに、あの時どうにも申上げられなかったんです。あなたに叱られるだろうと思って――。でもあなたにお縋りするより助かる道はありません、どうぞ助けて下さいませ』
 そう云われても、おいそれと安受合やすうけあいに承知するわけにも参らないので、どうしたらいいかと思って居りました。というのはどうも私には腑に落ちないことだらけだったからです。とにかく分らないことを訊きただしてみる必要はあろうかと思いましたので、
『まず第一に不思議に思うのは、何故秘密書類をお盗みになったんですか?』と云いました。
『今になって、冷静に考えるとあの頃私は少しどうかしていたんじゃないかとも思うんですけれど、どうも主人と有喜子が私を邪魔にするように思えてならなかったのです。その中に機会を狙って離婚しようと計画していることが分ったので、私は命がけで戦っても主人を彼女から奪い返そうと決心したのです、それには並大抵のことではいけないので、非常手段をとらなければならないと思ってまず大切な書類を盗み出しました。秘密書類が紛失したとなれば責任上主人も職を辞さなければなりません。そうすれば当然この地を引揚げることになります。しかし実際には紛失していないのですから、そこは情実で何とかなるだろうと思いましたの、ならないとしても有喜子を引離す目的は達し得られるだろうと思って――。あの時には離婚を覚悟でやったのですけれども――』
『相手の女が死んじまったから、あなたの目的は自然に達せられたことになったじゃありませんか、それだのに何故早く御主人に書類をお返しにならなかったのです? こんなに館員達が騒がない内に何とか始末をなさればよかった』
『有喜子が殺された翌朝は、もう書類の紛失したことが白石さんに発見されて、皆は有喜子が盗んだものと思って憤慨しているんです、彼女の悪口を聞くのは決して厭な心持ちではありません、私は内心痛快だったんです。ですから私は黙って見ていました。が、自分が盗み出したので、また誰かに盗み出されはしないかと心配で、心配でなりませんでした。私はなるべくこの部屋から離れないようにして、心の中で番をしていたのですが、それでも心配で毎夜人が寝静まるのを待って一応トランクの中を調べてみなければ眠れなかったのでございます。それをあなたにみつかったのです』
『死んだ有喜子に罪をなすりつけて喜んでいらしたあなたが、どうして今度はまた私まで招いて、書類を探し出させようとなすったの?』
『最初のうちは有喜子一人に疑いがかかっていましたから、見ても居られたんですの。あんな悪い女にはこの位の罰があたるのが当然だと思っていましたから、処が日が経つにつれ、あの夜の挙動に不審の点があったというので、遂々白石さんにまで疑いがかかってきましたのです。そして、あんなおとなしい善良な人に嫌疑がかかってはすまないと思う一方、見ていると白石さんは日に日にやつれて、心の苦悶が顔にあらわれ、極度の神経衰弱に陥ってゆく様子にもう黙ってはいられなくなりました。彼の嫌疑を晴らす途はただひとつ、書類を発見することよりありません。それで決心してあなたにおすがりしようと考えたのですの。最初の考えのままであったら自分で始末がつきましたけれども、相手の女がいなくなったとなると、私は離婚するのがいやになりました。私独りならともかくも、私には子供がありますもの、その子供の事を考えますとどうしても主人と別れる気がなくなりました。こんな悪いことをした私を助けるのでなく、子供を助けると思召して、どうぞ救って下さいませ』
 旧い友達というものは不思議なものでございますね。いつもの私なら、そんな不都合な事を仕出かして私を利用しようとするその心を憎みこそすれ、同情の念など微塵も起さないではねつけてしまいますのに、私は宮城野夫人の頼みをすっかり引き受けてしまったのです。

 総領事館内には久し振りで朗らかな笑声がもれ、館員達の顔からは憂鬱な影が消えてしまいました。宮城野夫人は私の手を握っては、ひそかに感謝して居りました。長い間の心労で疲れきってしまい、健康を害している夫人は私という道づれが出来たのを幸いに、一緒に帰京して少時保養することになりました。その準備に忙しい時でした、白石書記生が帰京の途中、国府津駅附近で列車から飛び降り自殺の報を得たのは。
 嫌疑が晴れて帰京したのでしたのに、気の毒な事をいたしました。彼の死はまた宮城野夫人を憂鬱にさせました。
 神戸まで一緒に行ってそこで別れた宮城野夫人は親類へ立ち寄り、私は直ちに東京へ向いました。帰京した翌日私は夫人がやはり国府津駅の附近で自殺されたことを知ったのでございます」

底本:「大倉子探偵小説選」論創社
   2011(平成23)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「踊る影絵」柳香書院
   1935(昭和10)年2月
初出:「踊る影絵」柳香書院
   1935(昭和10)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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