「あなたは美人で有名だった小宮山麗子という霊媒女がある大家へばれて行って、その帰りに煙のように消えてしまった不思議な事件を覚えていらっしゃいましょう?」
「はあ覚えております。もうあれから十年近くもなりはしません? あの当時は大した評判でございましたわね。でも、あれは到頭判らずじまいになったんではございませんか?」
「ええ、あれっきりなんです。でも美人だったし、心霊研究者達からは宝物ほうもつのように大切にかけられてた女ですから、今でもその人達の間では時々話に出るようですね」
「そうでしょうね。霊媒者なんていうと、私達にはちょっと魔法使いか何んぞのように聞えて、まあ巫女みことでもいった風に考えられますわ。それが突然消えてしまうなんて、昔なら神隠しに逢ったとでもいうんでしょうけど、実際はどうしたんでございましょうね?」
「実は、そのお話をしようと思うんですの。それも今日が、あのひとが行方不明になってから恰度何年目かの同じ日なんですの。亡くなられた六条松子夫人の命日に、夫人を崇拝している人達が集って、追悼会を開いたんです。その席上にあの小宮山麗子が招かれて、夫人の招霊をやり、すっかり松子夫人生き写しになって、和歌などを詠んで人達を感動させ、六条伯爵家を上首尾で辞し去ったまでは判っています。話はそれからなんですが、あの晩は霧が深くて街燈がぼうッと霞み、往来はまるで海のようだったそうです。六条さんの御門を出ると、忽ち小宮山麗子の姿は霧の中に吸い込まれたように見えなくなり、それり消息が絶えてしまったんです」
 書斎の安楽椅子にふかぶかと身を投げかけながら、S夫人は、スリー・キャッスルの煙の行方を心持ち目を細めて追いつつ、さも感慨深そうにいうのだった。
「どうして突然こんな話をはじめたか、あなたは変に思われるでしょうが、実はこの事件がそもそも私をこんな職業しごとに導いた動機だと云ってもいいのですよ」
 ある事件が一段落ついて、朗らかな気分になっていたS夫人は、自分が探偵に興味を持ち初めた最初の動機について、私にその思出を語ろうと云うのである。


 それはもう大分過去に遡らねばならないことで、まだS夫人の夫の博士がシャム国政府の顧問官でいた時代で、その頃夫人も夫の任地へ赴いて、そこで二三年の月日を送っていたことがあった。
「その当時のことなんですが」
 夫人はそう云って、デスクの前の壁に掲げてある大きな写真を指しながら、
「この写真が、その頃写したものなんですよ」
 見ると剥げちょろけた塔のような建物を背にして、石段の上に五六人の男が立ったり蹲踞しゃがんだりしている。
「真中に立っている肥った男は私の夫です。その傍にサン・ハットを持って立っているのがこれからお話しようという物語りの主人公なんですから、ようく見といて頂戴」
 三十五六、あるいは四十を大分出ているかも知れない。というのは、何だかこう干乾ひからびてしまったといった感じがするほど痩せ細っていて、ちょっと年格好の見当がつき兼ねたからであるが、よく見ると上品な細面の相当綺麗な顔立なのだ。しかし見た感じは頗るよくなかった。尖った鼻、恐しく神経質らしい凄い眼、その陰鬱な物悲しそうな表情をじっと見詰めていると、何となく私まで引き入れられて、心が寒くなるような人柄だった。
「このお方は何て仰しゃる方?」
「勝田男爵の弟さん」
「まあ、大阪の? あの有名な勝田男爵?」
「そうよ、勝田銀行を御存じでしょう? でも、弟さんは東京にお住居すまいになっていましたの」
 なるほどそう云われて見れば、新聞でよく見かける勝田男爵の顔に酷似そっくりだった。
 そこでS夫人は静かに語り出した。
「今ではもうすっかり開けているでしょうが、その頃のシャム国は実に野蛮な未開地だったんですよ。私のような物好きな女には何もかも物珍らしくって面白い処だったんですけれど――。ある時こんな事がありました。支那街の無頼漢が、鰐寺わにでらの縁日に行って喧嘩を始め、相手の男を鰐のいる池にち込んだというんです。ほうり込まれた男はそれっきり出て来ません。さあそれが評判になって鰐寺見物が多くなったという始末、どこの国でも野次馬は絶えないわけね。それで私も見物に交って早速出かけてみました。
 かなり古いお寺で、その庭に大きな古池があって、鰐が五六ぴきいるので、それで鰐寺などと呼んでいるんですが、本当の名は別にあるんです。水が泥のように濁ってて、中なぞ何も見えませんが、少時しばらく立って水面を眺めていますと、池の真中ごろの処に小波さざなみが立って、やがてひょっこりと鰐が顔を出しました。いくら昼日中でもあの顔を出されては余り気味もよくないので、思わず飛び退きますと、いつの間に来ていたのか、私の後に一人の紳士が立っていて、その人に危くつかるところでした。
 見るから病人らしく痩せ細って、少し前屈みの肩が板のように薄く、背の高い、青い顔をした三十五六の日本人でしたが、どこかにその人の育ちを思わせる気品があり、誰の目にも出のいい人だという事が分るような物腰でした。私は自分のはしたない仕草と、日本人だという親しみもあって、何ということなしに微笑みながら頭を下げると、その人は暫くの間、無言のまま私の顔をじっと見ていましたが、急に気がついたように愛想のない挨拶をして、そのまま踵を返してゆっくりと向うの方へ行ってしまいました。
 私は何だかこうひどく侮辱された気持でした。帰って夫に訊きましたら、その人は公使の親友で大阪の勝田男爵の令弟だとのことでした。それも大変健康を害されて、保養のため欧洲へ遊びに行っていたのが、どうも思うようでなくひとまず帰朝ときまり、その帰り路にシンガポールまで来ると急に気が変って、親友の公使を訪問かたがた、気分転換のためにもというのでシャム国に立ち寄られ、公使館のお客さまとして厚遇されているわけだったんです。それに来てみると、シャムという国が誠に気楽な処で、その暢気のんきさが気に入ったものか、すっかり腰を落ちつけているのだと、夫はその身分を羨ましそうに云うのでした。
 シャムは世界無比の仏教国で、どんな高貴な方でも男は生涯に一度は必ず仏門に入り、僧侶になる習慣があります。罪亡つみほろぼしになる人もありましょうし、中にはまた貴い身分のお方が有名な美人だったある公使夫人にお会いになりたいばかりに、坊さんに扮して公使館を訪ね、夫人の手からお布施を貰われたというような話も、いまだに一つの逸話として残っているくらいで、とにかく仏門に入るということは普通の習慣になっています。私が二度目に勝田さんに会ったのは鰐寺で逢いましてから、恰度十日目の夕方でした。玄関に一人の托鉢僧が黄色い布を身に巻きつけ、素足で立って居りました。私はお布施を手に持って出るとそれが勝田さんだったので、
『まあ! 御奇特ごきとくでいらっしゃいますこと!』
 余り意外でしたので思わずこんな言葉が口をついて出てしまいました。すると勝田さんはちょっと面目ない、とでもいうような容子ようすをして、照れかくしに笑いながら、
『いやどうも恐縮です。余り退屈だもんで、ついこんな悪戯を思いついたわけで――』
 退屈だ。退屈だ。と云って頻りに公使館へ遊びに来てくれと云われるのですが、公使は独身だし、館員も夫人連れは一人もなしという中へ、のこのこ行かれもせずにいますと、ある日公使が主人たくに向って、公使館のうちは野郎ばかりなので、勝田君には刺戟が強過ぎるんだ。優しい慰めに飢ているんだから、君の奥さんには気の毒だけれど、時々話相手になってやってくれるように、君から一つ頼んでくれませんかと云われたそうで、
『では宅の方へどうぞお遊びに』
 というわけでそれからはちょいちょい遊びに見えるようになりました。
 勝田さんはひどい神経衰弱で、素人目にも何かこう体全体がもうすっかり弱っているように見受けられました。何でも大変愛していた夫人を亡くしてから、一時、はたの目には気が変になったのではないかと気遣われたほどで、御自分もすっかり厭世家になってしまって、この世に何の望みもなくなったと云っていました。
 夫人は非常に美しい方だったそうですが、胸の病気のために二十七歳の若さで逝かれたそうで、その当時は今も云うとおり落胆の余り、自分も跡を追って死のうかとさえ思われ、その決心を実行されようとして家人に発見され、それ以来は絶えず監視付きの境遇に居られたそうです。
『私達の階級の者は、家名を汚すという事を極度に怖れています。何よりも第一に名誉ですからね。人間よりも家が第一位なんです。私が病気で死ぬ分には仕方がない。まあ極端に云えばですよ。しかし変死では困る。何故といって社会種として噂に上りますからね。それに精神に異状を呈して自殺なんて新聞に書かれた日には、一族の血統にまで及ぼすという訳で、いわば家名保護のため監視をつけられたというわけですよ』
 勝田さんは自分の言葉に昂奮していました。こんな話の聞き相手には私のような女がよかったのかも知れません。いつとなしに二人は親しい間柄になって行きました。
 こういう熱帯国の常として、日中は皆昼寝をしますから、焼けつくような太陽の光が大地に輝いている午後の一時二時頃になると、まるで真夜中の静けさです。しかし不眠症の勝田さんが、この明るい真昼に眠れる訳がありません。で、午後になると必ず私のところへ訪ねて来るのを日課のようにしていました。
 何事にも神経質な勝田さんは、天井から守宮やもりが落ちてくるのを怖れて、いつもヴェランダにあるモスキトー・ハウスの中へ入って、そこで私を相手に雑談をするのでした。ところがその恐ろしい守宮がよくまた勝田さんの首筋に落ちかかったり、知らずにドアのハンドルと一緒に守宮を握ったりして、その冷やりとした、柔かい感じが、何とも云えず心持が悪いと云って、夢中になって手を洗うものですから掌が真赤になってしまったことさえあります。その時、気の毒に思って、
『ほんとに無気味な冷たさですわね。何だか死人にでも触ってるような感じでしょう?』
 慰めるつもりで云ったのが、勝田さんにはどう響いたか、酷く不機嫌な顔付になって、そのままぷいと挨拶もせずに帰って往きました。私はあんなに神経の尖った人を今まで見たことがありません。
 またある時、水牛の浸っている堀割の傍を一緒に散歩したことがありました。水際には名も知れぬ雑草がはびこっていました。私達の靴音に驚いて、五六寸位の小蛇が草叢くさむらから逃げ出して、スルスルと堀割の中に飛び込みます。一度逃げ損なった小蛇を踏んで、それが靴の先に絡みついたため思わず勝田さんに縋りついたことがありました。すると、勝田さんも何か怖ろしいものでも見たかのように、取縋った私の両手を無理に振りほどいて、一散に駈け出しましたが、後で判ったことは、それは私が蛇を踏んだのを見ておどろいたためではなく、ただその叫び声に肝をつぶしたんで馳け出したのだそうです。
 やっと気が落付いて見ると、勝田さんは両手で耳を押え、眼を閉じて真青になって震えています。私の途方もない叫び声が、こんなにまで勝田さんの神経を鋭く突き刺したことかと、面目ない気がして、
『すみませんでした。余り怖かったもんで思わずあんな声を出してしまって』
 と申訳のつもりで云いますと、勝田さんはまるで総毛立ったような顔をして、低い声で囁くように云うのでした。
『何て声をお出しになるんです。ああいやだ――』
 勝田さんの恐怖が一通りでないので、つい可笑おかしくなって、
『だってもう夢中でしたもの、ほんとうに死んでしまうか知らと思いましたわ。きっと人が死ぬ時はあんな声を出すかも知れませんよ』
 冗談に云った積りが、どう思い違いをされたものか勝田さんは身動きもせず、私を睨んでいましたが、急にぶるぶると身体をふるわして、寒気がする、気分が悪くなったからと云って、一人でさっさと帰って行きました。後に取り残された私は呆気に取られて暫くの間その後姿を見送っていました。神経衰弱も甚しい、あれではまるで狂人だ。公使に頼まれていればこそのお相手なのに、余り手前勝手にもほどがある。と勝田さんのとった態度に頗る不快を覚えて静かな往来を一人でコツコツと帰って来たことでした。

 やがてマンゴー・シャワーの季節も過ぎ、待ちこがれている雨期が近づいて来ました。それでなくてさえ健康を害している勝田さんにとっては、このしめっぽい季節は禁物だったのです。
 永い雨期をこの国で過ごすことはどうにも健康がゆるしません。そこでいよいよ私共とも別れを告げなければならなくなりました。
 いくら気候が悪かろうと、不自由な土地だろうと、自分には何かこの国が自由なようで気に入っているのだと、勝田さんは口癖のように云っていました。それだけに帰朝の日が定ってからというものは、勝田さんは暗い顔をして、暇さえあれば毎日のように宅へ来て、私の傍を離れませんでしたが、日が近づくにつれて段々口数も少くなり、憂鬱な眼顔をして絶えず何事か考え込んでいる様子が、私には、何かしら薄気味悪く思われるくらいでした。
 勝田さんはフランス船で帰朝の途につく事になり、公使を始め主立った館員達や私共夫婦は船まで見送りに参りました。思ったよりも割合元気で、甲板でシャンペンを抜いて出発を祝ったことでした。その時勝田さんは自分の船室を見せて上げるからというので、いて行きますとスチーマー・トランクから小さい紫縮緬ちりめん帛紗ふくさ包を出して、
『実は紀念にあげたいものがあってお連れしたんですよ』
 と云われました。渡された包みを、私が開けて見ようとしますと、勝田さんは慌ててそれを押えつけて、口早やにいうのでした。
『いけません。いけません。今開けてはいけません』
 そうしてやはり押えたまま、
『これはあなたを信用して私が差上げるものなのです。日本へ着いたら電報を上げますから、その電報が届いたら直ぐ開けてみて下さい』
『では――。それまではお言葉通りにいたしましょう。その代り直ぐ電報を打って下さいましね。開けるなと仰しゃると何ですか余計見たくなるものね、一体何が入ってるんでしょう?』
 私は勝田さんへの最後の好意を示すため、わざと子供らしく悦びを誇張して、それを彼の目の前で振って見せたりしました。その様子を心なしか、勝田さんは淋しい微笑ほほえみで眺めながら、何も答えませんでした。人を送るというものは、殊にそれが船の場合だといつまでもその人の姿が目の底に残っていて淋しいものです。私の目からはあの細い手で振られた帽子が消え去りませんでした。
 家へ持って帰った包みを、云われたとおり開けないで二十日余の日が経ちました。と、船はシンガポールに着き、そこから郵船会社の欧洲航路の船に乗り換えた勝田さんが、香港ホンコンへ着く前夜、遺書も残さず、謎の投身自殺を遂げたという報導がありました。
 新聞にはただ極度の神経衰弱の結果とだけで、何事も書いてありませんでしたが、私共は予期していた事に当然出遇ったような思いがしました。勝田さんから送られた帛紗包みは早速開けられました。中には私へ宛てた長い手紙と、ダイヤの指輪が一個入っていました。その手紙はまだその儘大切に保存していますから、随分くしゃくしゃしていて分り難いけど読んでごらんになりませんか」
 そう云って夫人は私に、長い手紙を渡した。

 ――S夫人、
 鰐寺で偶然あなたにお目にかかった時から、何とかしてお近づきになりたいと非常に苦心いたしました。
 私の目の迷い、心の迷いと幾度も冷静になって、見直し、考え直したのですけれど、私の迷いではありません。ほんとにあなたは私の妻によく似ていらっしゃる。あなたのお傍にいてお話していると、妻がきかえってきて私と話をしているように思われてならないのです。あなたとお別れするのがいやだった。いつまでもお傍にいたかったんです。離れたくなかったんです。しかし到頭お別れしなければならない時が来てしまいました。お別れする前に私はあなたに私の秘密をすっかり告白してしまいたかったんです。あなただけは私という人間の善い事、悪い事、すべてを知って頂きたかった。恐ろしいこの秘密は、私の体をこんなにまで疲らせ、責め苛んでもなお足らず、生命いのちまでも奪おうとしています。悩み通してきた二年間のこの苦しみは、私をこんな廃人同様の病人に仕上げてしまいました。
 いつ死ぬか分らない私です。死ぬ前にあなたにだけ、ほんとうの私という男をお目にかけたいと思います。どうぞ愛想をつかさず終りまで読んで頂きたい。
 ほんとの事を白状すると大変女々しいようですが、私はどうしても、妻の死んだことが諦め切れませんでした。話は大分遡りますが、妻の学生時代を知っている私が、あらゆる障碍しょうがいを排して、懇望して貰った女でした。あなたは、男が女を愛するということがいかに深いものかお考えになったことがありますか。
 静養したら全快とまでは行かなくとも、まだまだ生きられるものと固く信じて、まさかに死ぬとは思って居りませんでした。
 咳が出るので話をする事を禁じられていたのですが、その夜は気分も大分よかったし、少し位話をしても熱は昇らなかったので私は妻の枕許で、この分ならもう一月もしたら行かれそうな熱海での静かな生活について話しました。妻は悦んで耳を傾けていました。傍目はためには恋人同士のように見えたかも知れません。実際これから熱海で静養させる妻と二人きりの生活のことを考えると、新婚当時の悦びをまた繰り返している気持でした。が、後で考えると熱が昇らないというのも、もう体力が衰えて、病に抵抗するだけの力さえなくなっていたのです。何も知らない私はそれを善い方へ解釈していました。医者も少し位なら話をしてもいいと珍らしく許してくれたのでした。が、その時はもう医者は匙を投げていて、まあ私に後々心残りのないようにして呉れた、云わば投げ与えられた一片のパンだったのです。それとも知らずに悦んでいたのは何という無智だったことでしょう。久振りでゆっくり妻と話が出来てそれこそ軽い足取りで家へと急ぎました。家の玄関で靴を脱いでいると病院からの電話です、危篤だというので、夢中でまたもや飛び出して行きましたが、もう間には合いませんでした。
 妻は寝返りを打とうとして急に心臓麻痺を起し、枯木が倒れるようにそのまま息が絶えたのです。
 一時間ほど前までにはあんなに瞭然はっきりとして、楽しそうに話していたのに、それで突然、出しぬけに魂を奪われてしまうなんて、どう考えても信じられません。
 悲しむとか、泣くとか人はよく云いますが、余りの悲しさの時は却って泪など出ないものだという事を始めて知りました。私の場合は、茫然自失したという言葉が一番あてはまっていると思います。全く私は余りの事にどうしていいか、自分の心の置場に迷いました。親類の人達は皆慰めてくれました。ある人は妻を讃美したり、また私に同情してくれたりしましたが、そんなお座なりなど聞いている気持はありませんでした。自分の身にもなってみろ、この世の何物にも替え難い最愛の妻を死の手に奪われてしまったんだ。もう再び妻と逢う機会は永久にないんだ。私は一人後に取り残されたんだ。死んで行く者よりも、後に取り残された者のいかに惨めだかを少しは考えてみろ、それなのにああして笑いながら話をしている。私はお通夜に来た従妹いとこ達が笑いながら世間話をしている中へ入って行って、怒鳴りつけてやりたいとまで思いました。ですから自分は一人で書斎に入ったきり食事も碌にせず、長椅子の上で二日も三日も夜を明したりしたほどでした。
『ほんとにあんなにお心もお顔もお綺麗なお方ったらないわ。あんなお方こそ神様におなりになれるわ』
 従姉いとこの一人が慰めのために云った言葉を、私は舌打ちしながら睨み返してやりました。
『黙ってろ。貴様なんぞに妻の批評をする権利がどこにある』とこう云ってやりたかった。
 全く死んだ妻の事をあれこれと批評されるほど腹の立つことはなかった。妻は私の者なんだ、誰の者でもない。今はもう頭の中でしか逢えない妻を、そっと抱くようにいつもいたわっていてやりたかった。私は毎朝起きるのが物憂かった。夢の中の妻、それはいつまでも変らない優しい美しさだった。私にとって夜は楽しいものとなって行きました。夜中に私はよくおびえました。目が覚めて枕の濡れていることもしばしばありました。死にたい、そうだ私も死んで行こう。
 こうした容子が家人の注意を惹いたと見え、家の者は私が妻の後を追いはしまいかと絶えず注意し初めた。それがために死にもならず、生きながらえてきましたが、しかし今になって考えるとあの時に自殺していた方がどんなによかったか知れません。あの時、死んでいたら、こんな大罪を犯さなくてすんだのです。
 私の悲嘆に大変同情してくれた一人の友人がありました。その人は学生時代から心霊研究に興味を持ちいつも不思議な話ばかり聞かせてくれるんです。平常いつもの私でしたら嘲笑しながら冷かし半分にまぜっ返して聞くのが落ちですが、今は到底そんな気にはなれませんでした。何故と云って、その人の話ぐらい私の胸を打ったものはなかったからです。『人は死なないんだ。肉体は失われても、霊は残っている』彼はそう言って私を励まし慰めてくれるのでした。『科学者サー・ウイリアム・クルックスをあえて信ぜしめた力を考えて見給え』――力強い自信のある彼の声は、私の耳の底に残っていつまでも忘れられませんでした。彼の話によると霊媒者を介して、亡き人と語ることも出来る。霊眼が開けば目のあたりに亡き人の姿さえ見ることも出来るとのことでした。何という素晴しい救いではありませんか。私に取ってこれ以上の悦びは他にありませんでした。
 しかしまだ半信半疑の点もありましたので、友人から送ってくれた霊に関する本を貪るように読みました。どういう処へ行けばその霊媒者とやらがいるかという事も調べました。
 で、早速出かけてみたんです。仮令たとい目的は達しられないでもいい。しかし万一そういう事が行われるなら、それに越した悦びはない――。そう思うと一時もじっとしていられず誰にも知らせずに、そっと教えられた通り、青山北町のその家に行きました。
 想像では緋の袴でも穿いた巫女のような女でもいるのかと思っていましたら、大違いで神棚などはどこにもなく、ただ普通の座敷に普通の服装の婦人が髪を七三に分けて端然と座っていました。その横に小机をひかえて上品な白髪の老人が一人坐っています。その人の事をさにわというのだと聞きました。いわば審判官みたいな役だろうと思いました。
 私は霊媒女の顔を見てまず驚きました。それは品の好いしかも非常に美しい、それでいて私のくなった妻に酷似そっくりなのです。笑う時にちょっと口を曲げるところから理智的に輝いている眼、口尻に小さい黒子ほくろのあるところまでほんとによく似ています。
 私は妻の招霊をさにわから頼んでもらいました。霊媒女は眼を閉じ、姿勢を正して合掌していましたが、少時するとすっかり態度が変って、妻に似た容子になり、懐しそうに摺り寄って来ました。霊媒女の体に妻の霊が乗り移ったとでもいうのでしょうか。身の態度こなしから声音こわねまで妻の生前そのままです。妻の霊は私の手を握って喜んでくれました。その手が大変に冷たく、妙にひやりとした感じが、後になっても忘れられませんでした。
 私はいろいろ話かけてみましたが、他人という感じはなく全く妻と会っているような気持がして、嬉しさのあまりすっかり夢中になってしまいました。軈て妻の霊は去ってしまいましたが、私は呆然として暫時しばらくは全く夢を見ているような気持でした。
『お話がお出来になりましたか?』
 霊媒女はそう云って、にっこりと笑いました。ああその顔! 夢から覚めてもその顔は全く妻の顔でした。私は嬉しくって胸が一杯になり、ただこの不思議な霊媒女に対して深い感謝の意を表しました。
 往来へ出ても私は足も宙に歩いていました。あそこへ行きさえすればいつでも妻に逢えるという新しい希望に一切を忘れて、幾分朗かな気分になっていたのです、それで家へ帰ってからも、今日の不思議な出来事が、絶えず頭の中で往来していました。書斎にいてじっと目を閉じると、美しい霊媒女の顔が私の目に焼きつくように残っていました。その翌日もまた出かけました。
 その翌日も、その次ぎの日も、私は毎日霊媒所へ通いました。
『度々お招きして霊を慰めて上げますと早く浄化なさいます。霊のために大変結構なことでございます』
 と云われるので、自分も喜び、霊も慰められる。こんな有難いことはないと思ったのです。そうして通いつづけているうちに妻を失った寂しさも段々と薄らいで行くかと思いました。
 私の日課は毎日霊媒所へ通うことでした。外へ出るのはそこへ行くだけで、あとは書斎にいて何人なんぴとにも面会しませんでした。
 今までは夢想だもしなかったこの不思議な楽しみに入り浸っているのは、私にとっては大きな喜びでしたが、これは他人には決して語りませんでした。もし人がこれを聞いたら何というでしょう。勝田は気が狂ったのだと、いい笑話を提供するだけでしょう。実際気が狂っているのかも知れません。迷わされているのかも知れません。
 しかし迷わされているのでも構いません。妻に酷似の人の口から妻の言葉を聞くのですから、これ以上何を求めましょう。
 独りで書斎にいる時もそうですが、時々心中で霊媒女と交した問答を繰り返しておさらいをしながら、思わず独りで笑ったりする事がありました。それを家人はまた変に気を廻して疑惑のまなこを絶えず私の身辺にそそいでいるようでした。
 しかしそんなことはどうでもよかったのです。私はただ妻と会える、ただそれだけで満足でしたがそれも日を経るにつれて段々と欲が出てきて、ただ逢って、他人を仲介として話しているだけでは、どうにも満足出来なくなりました。せめて霊媒女(名は二三日目に知りました。小宮山麗子と書くことにいたします)と二人限りで直接話してみたいんです。出来る事なら始終傍に置いて好き自由に話したかったんです。
 処が偶然の機会から、その希望が達せられることになりました。私は家の体面をやかましく云われるもので麗子のところへ通う時は変名を用いていましたから、家へ直接来てもらうわけには行きません。しかし麗子も独身なり、私も妻を失っているのですから、いざとなれば、結婚してもいいと思っていました。ただ周囲まわりの者の反対を怖れて、どういう風に承諾させたものかと絶えず考えている中に、軈て亡妻の形見分の時がまいり、私は妻の箪笥やら、手廻りの道具に一通り目を通さねばなりませんでした。今更妻が死くなった当時の記憶を再び繰り返しているような、寂しい気持に襲われながら私はその一つ一つを開けて行きました。妻が好んで着ていたお召の小袖、あの艶やかな黒髪に挿された翡翠ひすいの飾ピンなどが、みな思い出のたねとなって、深い離れがたない気持をそそります。こんなに早く形見分などしなくとも、せめて一年も置いても差支はなさそうに思われるのに、何故こう周囲の人達は物事を早く形付けてしまいたがるんだろう。などと幾分愚痴も出て、私は一つずつ丁寧に見て行きますと、ふと帯の間に挟んだ白いものが目につきました。何気なく引き出すとそれは白の角封筒にかかれた妻宛の一通の手紙でした。差出人の名はありませんが明かに男の手蹟です。それもかなり古いらしく処々に汚点しみがあります。私は何か見るべからざるものを見たような思いがしまして、それを手に持った儘迷いました。見ようか見まいか、何事もない清浄な妻として考えていたい。という思いと、何かしら凡てを知りたいという慾望とで思い迷った揚句、遂に内容なかみを出しました。それは妻の従兄いとこに当る海軍々人から来た手紙でした。別に大して怪しむべき文句は書いてないんです。誰に見せてもこれで直ちにどうこう云えることは少しもありません。どこかで一緒にお茶でも喫んだらしいだけです。しかし妻は彼に会ったことはかくしていましたから、私は少しも知りませんでした。ただそれだけなんですが、私には何と云ったらいいかこの文句以外に何かある物がひそんでいるような気がしてならない。この白いレターペーパーから、文字以上の文字を読もうと焦りました。かつてこの人との間に縁談があったと妻が云っていたことを思い出して、聞いた時はそのままに流してしまった事柄を、急に大事件のように記憶から呼び起しました。すると一度逢ったことのあるその男らしい顔付までが私を悩ませます。こうして帯の間に秘してしまってあることが、普通の人から来た普通の手紙として破くに忍びなかった妻の心を色々と想像して、私は煩悶しました。何か二人の間に云えない秘密があったのではないかと疑いました。私がこんなに熱愛していたのに、こうして鍵のある抽出しに秘しておく、女の周到な用意を憎みました。そこで残酷だとは思いながら私は麗子を通して妻の霊を招び出し、そのことを詰問してみようと思い付きました。処が生憎その日は六条伯爵家に招かれて行って不在だというのです。
 会えないとなるとなおさら会い度くなるのが私の性質です。殊に妙な疑いを抱いているので、一刻も早くその真相を知りたい、それなのに居ないという、これはてっきり逃げたなと思いました。私は妻と麗子とを混同してしまっていたんです。さあそうなるともう落付いてなんかいられません。遂々麗子の帰りを待ち受けて、時間も大分遅かったので私の家へ連れて行きました。
 麗子は前々から一度私の家へ行ってみたいと申していましたから、悦んで従いて参りました。もうその頃私と彼女との間には一種の親しさがありました。
 麗子だって満更私の考えが分らないはずはありません。私の家は小人数の割に大きくて、殊に庭が広く、池の向う側には茶席があって、私はよく親しい友人を招いたりしたものです。茶席に行くには門を入って玄関の傍にある紫折戸しおりどを開いてすぐ庭伝いで行かれるので、誰にも顔を合せずに行く事が出来ます。私は彼女をそこへ案内しました。もうその頃はすっかり変人になりきっておりましたから、家人とは没交渉で、夜更けて帰って来て、そのまま母屋には帰らず、茶席で夜を明すような事があっても、家の者は別に怪しみませんでした。呼ばなければ女中も来てはならないことになっているので、こういう場合にはまことに好都合でした。
 翌日は風を引いたと云って、母屋から女中に食事を運ばせ、麗子と二人ぎりの楽しい世界を作って終日閉じ籠って居りました。私は度々妻の招霊を頼みましたが、どういうわけか嫌がって、
『あなたは私が霊媒女で奥様をお招び出しするから私がお好きなんで、私という者には何の興味もお有りにならないんでしょう。私はあなたに霊媒女として取り扱われるんなら何もこうしてあなたとご一緒にいる必要はないから帰りますわ』
 と駄々を云ってなかなかやって呉れません。しかしそれではせっかくこうして連れて来たのに何の役にも立たない、それでは困る。結局いろいろと宥めすかして、やっと招霊を承知して呉れた時はもう夜も大分更けていました。
 夕方から降り出した雨に風が加って、板戸へ打つかる雨の音に言葉を奪われながら、私は一生懸命になって妻と話しました。第一の質問は無論手紙です。詰問に対して妻は何の躊躇する容子もなく、すらすらと手紙の男と自分との関係を云ってしまいました。
 世の中に疑惑ということほどねばり強く、恐ろしい力をもっているものはありますまい。私はその恐ろしい力に心を掻き乱され、半狂乱のようになって、事実をたしかめようと焦りました。何という愚しい考えだったのでしょう。もう妻はこの世の人ではありません。それなのに、甞てはその人の心身共に自分がすっかり握っていたのだという安心を得ようと悶える。何という浅間しい事でしたでしょう。池のかわずが鳴いているのが風の合い間に聞えます。山の手も市外に近いこの辺は静かなものです。私の目の前にいる麗子は細面の下膨しもぶくれで、その長い睫毛に被われた夢みるような両眼を軽く閉じて口許に可愛らしい微笑さえ浮べながら、昔の恋人との話を楽しそうに語り出すのを聞いて、ぬらぬらとした汗が額から流れました。私は段々興奮してきて、いよいよ執念しつこく根掘り葉掘り訊きただしました。しかしどうも肝心の私の知りたいことは恐ろしくて訊けませんでした。ただ遠巻きに探りを入れているだけで、どうもそこへは話が入って行きません。こんなにも真実ほんとうのことは怖ろしいものかとつくづく思いました。それなのに、麗子は平気でこともなげに自分の方から喋舌しゃべってしまいました。私はハッと思うと一瞬間自分の息が止ったかと思いました。するとこう全身の血が皆頭へでも上ってしまったものか、体中が急に寒く、がたがたと震えてきて、歯がカチカチと噛み合いました。目の前が暗くなったり、明るくなったり、灯火が渦巻いているようでした。夢中で立ち上るといきなり麗子に掴みかかりました。麗子の柔かい肉に私の両手が力一杯働いたとしか覚えていません。それと同時に彼女の悲鳴をききました。恰度あなたが堀割の傍で小蛇にからまれた時のような悲鳴。今でも耳にこびりついて離れません。
 気がついた時は私は実に怖るべき大罪を犯していたのです。白日の下に罪の裁きを受けねばならぬ身となっていました。麗子はもうぐったりと倒れて、息は絶えて居りました。
 私は茫然として少時の間は無意識状態に陥ってしまって悲しくもなく、恐怖もなく、まるで空洞うつろの心で目の前の死体を眺めていました。
 一時止んでいた雨がまた降り出しました。遠くの方でまた蛙が鳴いています。私はこの蛙の声を今だに忘れません。気が落ちつくと急に怖ろしくなりました。
 最初は自首して出る決心で、夜の明けるのを待っておりましたが、その時ふと頭に浮んだのは娘の事でした。申遅れましたが私に一人の娘があるのです。その娘は本家の勝田男爵の家を継ぐ事になっています。勝田家には子供がないので、娘は生れると直ぐに養女に貰われて本家に育っているのです。手許にいないので、平常ふだんは大して気にならないのが、急に心配になり出しました。母に似て美しく生れた上に、養父母に非常に愛せられ、軈てあの巨万の富を受け継いで男爵夫人となる輝かしい前途をつ身なのです。それが私の自首一つですっかり覆えされてしまうのだと気がつきました。幸福の絶頂から不幸のどん底に突き落される娘の身を考えました時、私はすっかり迷いの夢から醒めました。馬鹿々々しい、狂気染みたこの頃の行い、ましてや今犯した恐ろしい罪――。私は、とてもオメオメと生きてはいられません。机の抽出しにはモルヒネのアンプレも入っています。カルモチンもある。
 しかし今私が死んだら世間の人は何というでしょう。美人霊媒女と情死、ああそれは堪えられません。
 悶えると云いますか、悩むと云いますか、世のあらゆる言葉を以てしてもまだこの心は云い切れません。私は一夜にして百年の年をとったように思いました。その揚句一つの考えが頭に閃めきました。それをこの上ない名案として今日まで実行してきたのです。
 その考えというのは、この死体を秘密にどこかに隠して一二年生き延び、世間の噂の絶えた頃に自殺してしまうということです。
 私は四五年前からある信託会社の地下室の保護金庫を借りて居りました。一けん四方位の大きさのものです。その金庫は、当人と会社とが有っている合鍵を同時に用いなければ開けることの出来ない、非常に厳重に出来たものです。私は麗子の死体をトランクに入れて、その金庫の奥へ秘したのです。そうして二ヶ年間先払いで預け、病気保養の名の下に海外へ旅出たびだちました。
 信託会社では私共は信用されて居りますし、長い間の得意ですから、決して疑うような事はありません。それに私の神経衰弱は随分久しいことなので、外国へ行って気を変えて来ようという考えが出たのを、親類の人達は大賛成で喜んでいるのですから、これまた好都合でした。
 私はフランス、イギリスと遊び歩いていましたが、始終その不安が附き纏って、誠に生ける屍そのものです。何の興味どころか、ただこうして時の経つのを待っているその苦しさ。自分から求めたこととは云え、何という愚かしいことでしょう。何か妻の事を考えると引いて麗子の事が必ず頭に浮び、それからまた苦しみます。
 甞ては優しい思い出となっていた妻の事さえ、もう考えられない気持になっている私を憐れんで下さい。一時の感情とはいえ譫言うわごとのような言葉に興奮して、殺人罪まで犯すようになった自分の愚さに思い至ると、全身恥と悔のために冷汗をかきます。
 私の昼夜は煩悶の連続です。ああ心から笑い、心から語れる幸福は何と尊いものでしょう。
 自殺、もうそれより自分を救う途はないと思います。もう生きていることが苦しい。
 この頃は死ぬことを考えて、そこに一道の光りを見ます。もう心の苛責に堪えながら生きつづけることが、私には出来なくなりました。この上自分を苦しめるのは我身ながらも余りに可哀想です。あなたにだけお打ち開けしたこのいつわらない告白をあなたがどういう風に所置なさろうと、それはあなたの御自由ですが、一人の娘の幸福を守ってやるために、苦しい二年をやっと過して、あなたがごらんになったような、精も根も尽き果てたこの生きながらの死体の私にご同情下さるなら、娘の幸福を打ち砕いてしまうような事は決してなさるまいと信じて疑いません。


 私は読み終って夫人に手紙を返した。彼女は手箱の中にそれを納いながらいうのだった。
「後になって勝田夫人の写真を見ましたが、私は勿論のこと小宮山麗子だって少しも似ては居りませんのよ。これは全くあの方の錯覚で、相手になっている女の顔は、皆夫人に似ているように思えたらしいんですの。しかしこの手紙で云っているのが事実だとしたら、日本の警察へ送って上げなければなりますまい。と、夫に相談いたしましたら、夫は笑って『精神病者の創作だろう』と申しましたので、その儘放っておきました。
 すると一ヶ月ほどして内地から来た新聞に、
『某信託会社の保護金庫内よりミイラ現わる』という大標題おおみだしで、勝田家の借りていた大金庫内のトランクからミイラが出たということが出ていました。軈てまたそのミイラは勝田夫人であったと報じてありました。私は夫と顔を見合せて苦笑いたしました」

底本:「大倉子探偵小説選」論創社
   2011(平成23)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール讀物 四巻一一号」
   1934(昭和9)年11月号
初出:「オール讀物 四巻一一号」
   1934(昭和9)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「消えた霊媒女(ミヂアム)」となっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年11月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。