海釣りや磯釣り、さては湖沼の舟釣りを除くと、釣にはあるく事がつきものになつて居る。鮒もはやも、足で釣れと云はれて居るほどである。実際未明の薄明や、有明の月光の下に釣場に到着して、竿を継いでリユツクを背に、魚籠びくを腰に、釣場をもとめて、釣りあるくたのしさは、単なるピクニツクなどゝは比較にならない。
 夕暮れて帰路を急ぐ時の快い疲労は、魚籠の重い軽いに関係なく、満ち足りた気持ちを与へて呉れるのである。
 し溪谷釣りで、山中の流れを釣り登るのであるならば、一つの釣場から次の釣場迄岩をよぢ上り、山吹のくさむらを踏み分け、思ひもよらぬ萬古ばんこの雪に足を滑らせ、自然と戦ふたのしみは一入ひとしお深いであらう。そして一日の労苦に重い魚籠を誇つて、遂に魚どめの滝で竿を収めて、さて山中暦日なき深山のまことひなびた山の湯に一夜の泊りをする時のうれしさ、それは釣人のみが知る法悦境であらう。
 すべての肉体的運動のうち、大地を両脚で蹴つて進む歩行ほど、全身の筋肉を平等に働かせるものはないであらう。錬成の基本となる運動は歩行である。その歩行も駈足でなく、スタ/\とあるく歩行である。
 歩行は脚部だけの運動ではない、腰部は云ふ迄もなく、腹筋も背筋も、進んではうなじの諸筋肉に到る迄、相当の活動をしなくてはならぬのである。唯ゐて云へば、手の筋肉の活動が比較的少いだけである。幸にも釣人は一日中竿をふつて居なくてはならぬので、肩から手先の筋肉まで活動する事になるのである。
 溪谷に沿つて釣り登る場合には、全身の筋肉の活動の程度は一層強いのである。

 活動の後には疲労の来るのは当然である。例を筋肉活動にとれば、筋肉が活動する時には、筋肉内で物が消費される。それは主として葡萄糖である。葡萄糖は筋肉内で燃焼して、水と炭酸瓦斯ガスとになり、その燃焼によつて生ずる勢力が即ち筋肉の活動力となるのである。勿論葡萄糖が不足すれば、脂肪や蛋白質が勢力源となる事もある。
 筋肉そのものは活動する時に、自身消耗する事は極力避けて居るが、然し幾分かは消耗がある。飛行機の発動機はガソリンを消費して活動するのであるが、それが活動する時には、発動機そのものも幾分磨滅する。筋肉は発動機でガソリンは葡萄糖に該当する。
 筋肉の活動する時葡萄糖が燃えて生ずる水や炭酸瓦斯は、筋肉活動には邪魔になるものであるから、直ちに血液によつて運び去られる。又筋肉そのものの老廃物も同様である。
 すべて筋肉活動の結果、筋肉内に出来て、筋肉活動の邪魔になるものを、一般に疲労素と総称する。この疲労素は出来るに従つて血流で運び去られるのであるが、一小部分は筋肉内に残るので、余り続けて筋肉が活動すると、筋肉に疲労素が蓄積して、筋肉の働きは鈍くなつて来る。筋肉をしばらく休息させると、疲労素は運び去られて、筋肉は快復するのである。
 筋肉の活動と疲労との事をここに書いたのは、釣人にとつては、云はでもの事と思はれるであらうが、実は釣人に喜んで貰ひ度い事を説くための伏線であつたのである。

 釣人諸兄。諸兄が若し釣竿を持たずに、所謂る足で釣る程度の道をあるき廻つたならば、釣竿を持つて廻る時よりは、遥かに強い疲労を感ずると思はれはしませんか。どうです、私に賛成でせうな。
 では、何故でせう。同じ道をあるくのに、釣りながら歩けば、たゞ歩くよりつかれが少いのはどう云ふ理由であるか。
 諸兄答へらく、釣れば、釣りあるけば楽しいから疲れない、と。賛成!
 然しそれのみではない。釣りあるく時は、肉体的運動特に上肢以外の筋肉運動は、活動と休息の交互であるからである。釣場から釣場への時は、確かに歩行運動であるが、恰好の釣場では、腕から肩、腕から手への筋肉は活動して居るが、他の筋肉は休止して居る。
 然しさう云ふ簡単な説明では、釣人諸兄の満足感は浅いであらう。もう一歩掘り下げて科学的の分析を試みやう。
 釣人は恰好の釣場へ来た。はや釣りの寄せ餌を投げ込んで、先づ一服する。心の眼に今の寄せ餌に集つて来る愛すべき彼女等を視る。程こそよけれと竿を振る。はりは思ふ壺に落ちて、続いて浮子うきが立つ。浮子はゆるやかに流れる、浮子の下の糸の先の軽いかみつぶし、その先の鉤の餌も、釣人の心眼に見えて居る。鉤から道糸、道糸から竿先、竿先から竿を伝つて手迄、全く統一した有機体である。その統一体の肝どころが浮子である。釣人の心も眼も浮子に集中されて居る。浮子の流れに一致して糸を張つたまゝ竿が動いて居る。竿は釣人が意識して動かして居るのではない、流れる浮子が竿を流して居るのである。天衣無縫、釣人は全く自然に溶け込んで居るのである。何の邪念もない、釣らうと云ふ欲望など全く姿をかくしてしまつて居る。
 釣人は無念無想である。唯めざめて居るのは、浮子の動きを今か/\と待つて居る精神だけである。
 肉体でめざめて居るのは竿を流すために必要な腕の筋肉だけで、他の筋肉特に歩行に関係ある筋肉は大休止に陥つて居る。
 精神もめざめて居るのは、浮子の動きを見落すまいとして居る神経細胞だけであつて、この一群の神経領域は異常な興奮状態であるが、その他の領域は大休止の熟睡状態である。
 大休止中には物質代謝は極度に制限されて、今迄蓄積されて居た疲労素は運び去られて行く。こうやうに肉体的と精神的の統一された、且部分的の大活動大興奮と、他の大部分の徹底的の大休止の状態を、三昧さんまい境と云ふのである。
 三昧境の方から、右に述べた鮠釣りの流しを、もう一度説く。先づ浮子の動きを見落すまいとして居る精神活動は、眼の方は浮子を専念もっぱら見つめて居るのであつて、向ふ岸の草のゆるぐのも、水面を舞つて居るお歯黒蜻蛉とんぼの動きも無視し、又は無反応である。自分が今何処に居るかも意識して居らない。空を飛ぶ飛行機の音は聞けども聞いて居らない。
 手に持つ竿は浮子の流れにつれ流れて居ると私は先に書いた。他から見れば、まことにさうとしか思へぬほど、浮子の流れと一致した竿の流れ方である。眼は流れる浮子を見つめて居る。その浮子の流れるのを見て居る眼からの反応として、無意識のうちに、脳からの命令をうけて、手が自然に動いて、竿も流れて居るのである。手が動くのさへ意識して居ないのである。
 浮子の流れと一致して竿先が流れて居るのは、竿を持つ手に邪魔がはいらぬからである。浮子の流れそのものが、釣人の精神と肉体を手がかりとして、竿先を流して居るのである。
 竿が浮子と調子を合せて居るのは、要するに釣人が三昧境に居るからである。
 浮子が動く! その動きを網膜に感ずると同時に竿先が水をはなれて、釣人はもう手に鮠の引きを感じて居た。
 今迄の静の三昧は、浮子の微動と同時に動の三昧に移行したのである。然しこの静の三昧、動の三昧と云ふのは、外に現れたところで云つたのであつて、浮子の動く迄の静の三昧は外から見ると、静寂そのものであるが、精神活動の面では、動を極度に含んで居たのである。
 浮子を見つめて居ながら、浮子が微動したならば、間髪を入れず、竿先をあげる心の準備は申分なく出来て居たのである。命令一下出動の準備は出来て居たのである。この静より動への切り替へが瞬間的に出来るのも、三昧境の賜である。

 釣人が足にまかせて釣り歩き、又釣り登つても、案外疲れないのは、釣人は釣る間は、釣三昧に入つて居るので、その間に歩行にのみ関係のある神経と筋肉とは、大休止に陥る事が出来て、疲労素の除去が可能であつて、心身快復するからである。
 釣れても釣れなくても、溪流釣はたのしい、と都会の釣人はいつも云ふ。都人士のみではないわれわれ一千米の海抜の高原で仕事をして居るものも、一層高い海抜を恋うて、山女魚やまめ岩魚いわなを追つて居る。誰にとつても山女魚の居る高山の環境はうれしいものである。高山は空気が稀薄であるから、登高は勿論歩行も相当の肉体的労働であるのに、その疲労の度は、低地のそれより却つて少いのである。清浄なる大気、完全なる日光等が、どれほどわれわれに恵を与へるかが、しみ/″\と分るのである。

底本:「集成 日本の釣り文学 第一巻 釣りひと筋」作品社
   1995(平成7)年6月30日第1刷発行
底本の親本:「釣十二ヶ月」民生書院
   1947(昭和22)年4月
※新仮名によると思われるルビの促音は、小書きしました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月6日作成
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