「民族と歴史」八巻五号所載「旃陀羅考」中にちょっと述べておいた濫僧ろうそうの事を、今少し精しく考証してみる。「旃陀羅考」中にも引いておいた「延喜式」の臨時祭式の文に、

鴨御祖社かものみおやのやしろ南辺者、雖四至之外濫僧・屠者等不居住
とある。その濫僧とは、そもそもいかなるものであろう。そして何故にそれが四至の外といえども鴨御祖社すなわち下鴨神社の南辺には住まわせなかったものであろう。まずそれから考えてみる。これも「旃陀羅考」に引いた鎌倉時代の「塵袋」(五)に、

キヨメをヱタと云ふは如何なる詞ぞ 穢多
根本は餌取と云ふべき歟。餌と云ふはシヽムラ、鷹等の餌を云ふなるべし。其れをとる物と云ふ也。ヱトリをはやくいひて、いひゆがめてヱタと云へり。タとトは通音也。ヱトをヱタと云ふなり。ヱトリを略せる也。子細しらぬものはラウソウとも云ふ。乞食等の沙門の形なれども、其の行儀僧にもあらぬを濫僧なづけて、施行ひかるゝをば濫僧供と云ふ。其れを非人・カタヒ・ヱタなど、人まじろひもせぬおなじさまのものなれば、まぎらかして非人の名をヱタにつけたる也。ランソウと呼ぶべきをラウソウと云ふ。弥しどけなし。(下略)
とある。濫僧供ろうそうくの事は、「後二条関白記」寛治六年正月十九日の条、「人事記」久安五年十一月十日条などにも見えて、平安朝にはしばしば行われたものらしい。すなわちいわゆる濫僧に施行すなわち供養するもので、その濫僧とは沙門の形をなしたる乞食のことであることは、右の「塵袋」の文で明白だ。しからばその濫僧の起原やいかに。
 延喜十四年三善清行の上った「意見封事」十二個条のうちに、

一 諸国の僧徒の濫悪、及び宿衛舎人の凶暴を禁ぜんと請ふ事
右、臣伏しておもんみれば、にし延喜元年の官符、已に権貴の山川を規錮し、勢家の田地を侵奪することを禁じ、州郡の枳棘をり、兆庶の※[#「敬/虫」、U+87FC、185-1][#「賊/虫」、U+8808、185-1]を除く。吏治施し易く、民居安きを得たり。但猶凶暴邪悪の者は、悪僧と宿衛となり。伏しておもんみれば諸寺の年分ねんぶん及び臨時の得度は、一年の内に或は二三百人に及ぶなり。中に就いて半分以上は皆是れ邪濫の輩なり。又諸国の百姓課役を逃れ、租調をのがるゝ者、私に自ら髪をおろし、猥りに法服を著く。此の如きの輩年を積んで漸く多く、天下の人民三分の二は皆是れ禿首の者なり。此れ皆家に妻子を蓄へ、口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさくらふ、形は沙門に似て心は屠児の如し。況や其の尤も甚しきものは、聚つて群盗を為し、竊かに銭貨を鋳る。天刑を畏れず、仏律を顧みず。若し国司法に依て勘糺すれば、則ち霧合雲集し、競うて暴逆を為す。前年安芸守藤原時善を攻囲し、紀伊守橘公廉を劫糺する者、皆是れ濫悪の僧其の魁師たるなり。もし官符遅く発し、朝使緩く行かしめば、時善・公廉皆魚肉とならんなり。若し禁慾の制なくんば、恐らくは防衛の方にそむかん。伏して望むらくは、諸僧徒の凶濫なるものあらば、登時そのときに追捕し、度縁戒牒を返進せしめ、即ち俗服を著せ、本役に返し附けしめん。又私度の沙弥其の凶党たらば、即ち鉗※[#「金+太」、U+9226、185-13]を著けて其の身を駈使せん(以下宿衛舎人の事略す)。
とある。「形は沙門に似て心は屠児の如し」と云い、また「天下の人民三分の二は皆是れ禿首の者」とある在俗のこの法師原、これ実に当時の貴紳たる三善清行の目に映じたところの窮民の状態であった。そしてそれは実に同じ頃の「延喜式」に「濫僧屠者」と並称せられた、いわゆる「濫僧」でなくて何であろう。彼らは濫悪の僧だとある。邪濫の輩だとある。いわゆる濫僧とは、この邪濫・濫悪の義の「濫」字をとって呼んだものと解せられる。彼らはまた家に妻子を蓄えて口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさを啖う禿首の者だとある。時代は下るが右に引いた鎌倉時代の「塵袋」に、「乞食等の沙門の形なれども、其の行儀僧にもあらぬを濫僧となづ」くとあるその「濫僧」は、多くは実に平安朝において落伍した公民のなれの果てであったのである。
 清行のごとき当時における貴紳の輩は、彼らを目して濫悪の僧、邪濫の輩と呼んでいる。清行自身はとにかくとして、荘園の名の下に天下の公地を押領し、民衆を苦しめてひとり栄華に耽った当時の貴紳富豪の輩の目から見たならば、彼らは実際濫悪の僧であり、邪濫の輩であったに相違ない。彼らは実に当時の落伍者であった。権門勢家の輩が天下の富を私して、公民その生を安んずること能わず、ことに当時の地方官の収斂誅求は極度に達して、いやしくも絞り取りうる事の出来るものは、寸毫も余すなしというほどのものが少くなかった。当時の諺にも、「受領ずりょうは倒れたる所に土をもつかめ」という事があった。「受領」とは地方官の事で、地方官は「転んでもただは起きるな」というのである。この地方官の虐政の事は、他日別に本誌上で詳説する予定であるが、ともかくもこんな有様であったから、諸国の公民は自らその公民権を放棄して出家する。これすなわち清行のいわゆる「諸国の百姓課役を逃れ、租調をのがるゝ者、私に自ら髪をおろし、猥りに法服を著く」とある者である。そして「此くの如きの輩年を積んで漸く多く、天下の人民三分の二は皆是れ禿首の者なり」とまで言われていたのであった。清行のこの言はいかにも誇大に失するようではあるが、これは全く事実であった。清行は当時における課丁減少の例として、もと戸口の盛んなのを以て聞こえた備中国下道郡邇磨郷の実際を挙げている。この郷の戸口、天平神護年中右大臣吉備真備が郡領を兼ねた時の調査には、課丁一千九百余人の多きに及んでいたものが、九十四五年後の貞観の初め藤原保則が備中介であった時の調査によるに、僅かに七十余人に減じていた。さらにその後三十余年の寛平年中に清行自身この国の介となった時の調査では、やっと老丁二人、正丁四人、中男三人、都合九人を残すのみとなり、その後二十年にも充たぬ延喜十一年藤原公利が介となった時には、一郷もはや一人の課丁もなくなっていたとある。天平神護中の千九百余人はおそらく課丁の数ではなく、一郷の全人口数を清行が間違ったものと思われるが、爾後百五十年間における減少の数字はまさに事実であったに相違ない。かくて清行は全国課丁の数を調査して、畿内五国と西海道及び奥羽二州を除いたほかの、五十箇国の課丁の総数が三十万に充たず、しかもその大半は帳簿の上のみでその身なきものだから、実際は十余万人に過ぎないと云っている。これも事実であったに相違ない。それは別項「男と子供の少ない戸籍」に見える通り、延喜二年における阿波国板野郡田上郷の戸籍残簡によるに、知る事の出来る人名総数五百四十六人の中で、男が僅かに六十二人、女が四百八十四人とある。すなわち男一人に対して女七人八分強となるのである。また同じ延喜八年の周防国玖珂郡玖珂郷の戸籍残簡によるに、人名を知りうべき総数三百四十七人中で、男が九十一人、女が二百五十六人とある。すなわち男一人に対して女二人八分強となり、この方は前者に比してはよほど成績のよい方ではあるが、それでもなお実際を距る事遠きは言うまでもない。そしてその戸籍に加わらない男子はどうなったかというと、中には事実逃亡して行衛を暗ましたのも少くなかろうが、多くは清行のいわゆる禿首の徒となって、家に妻子を蓄え口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさくらい、形は沙門に似て心は層児のごとき輩となっていたのである。これはいかにもはなはだしい悪口のようではあるが、これを沙門とし正面より見たならば、いわゆる肉食妻帯破戒無慚の僧侶として、そう言われても仕方がなかったのであろう。しかしながら、彼らはもとより心からの僧侶ではない。地方官の収斂誅求に堪えかねて自ら公民権を放棄し、形を沙門に托してその苦患を免れんとしたものであったから、肉食妻帯を憚らなかったのはけだしやむをえなかったのである。そしてこれ実に広義における濫僧であらねばならぬ。彼らはすでに公民権を放棄して除籍出家したものである。したがって彼らはもはや農民ではない。食を得んがためには何らかの職を求めねばならぬ。ここにおいてか各種の雑職に従事する法師姿の特殊民が起って来るのである。これは既に「民族と歴史」三巻五号の「俗法師考序論」に述べておいたから、ここには便宜説明を略するが、中にも横着な者は清行の言うごとく相聚って群盗をなし、ひそかに銭貨を鋳るというような悪事をなし、国司これを糺断すれば霧合雲集するという有様で、かなり当局者を困らしたものも少くなかったのであった。かくて安芸守藤原時善や、紀伊守橘公廉のごときは、彼らの襲撃に遭ってはなはだしく閉口させられたのである。これむろん国法上より云えばその罪人であったには相違ないが、その彼らを駆ってここに至らしめたものは、主として直接に国司の収斂誅求、間接に権門勢家の公地横領にあった事を忘れてはならぬ。そしてその最もはなはだしい落伍者は、郷里にも住みかねて流れて都邑の付近に来り、その都邑の人士のために雑役に服して、僅かに生活していたものである。彼らはすでに浪人である。いわゆる風来者である。もとより一定の住宅を有しない。さりとて今日のごとく貸家のなかった時代にあっては、場末の空地に小屋を作ってそこに住まねばならぬ。すなわち小屋者である。そしてその小屋者の居所は、京都にあっては加茂川の河原や、清水坂、奈良にあっては奈良坂のごときもので、その居所の状況によって、彼らは河原者または坂の者などと呼ばれていた。すなわち河原乞食坂の非人である。これを「民族と歴史」四巻三号四号に収めた、寛元二年の奈良坂・清水坂の非人訴訟の文書に見るに、彼らはいずれも非人法師であった。そしてその長とあるものを長吏法師といい、部下の者を小法師といい、各個人についても、吉野法師だの、近江法師だの、土佐法師だのと、たいてい出生地の国名、地名、あるいはなんらか因縁ある国名、地名を以てその名に呼んでおったのである。これらの徒は、むろん法師ではありながらも、如法の僧侶ではない。清行のいわゆる「家に妻子を蓄へ、口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさを啖ふ、形は沙門に似て、心は屠児の如し」と言われたものであった。これすなわち狭義の濫僧である。これらの濫僧の中には、宿の者もむろん含まれていたに相違ない。大和の宿々はたいてい奈良坂の長吏法師支配の下にいたようである。宿の者については自分がかつて発表したところ、随分見当違いであった事を発見した。その語原はやはりおそらく守戸にあったこととは思うが、都邑の場末に住み着いた浮浪民の有力者、すなわち非人の長吏法師らが、新来の浮浪民をその部落に宿泊せしめて自己の部下となしたがために、古くあるシュコの語に宛つるに「宿」の文字を以てし、はてはその語が一般の同類に及んで、遂にいわゆる宿の者をなすに至ったものだと今では考えている。この事もいずれ本誌上で詳説するつもりであるが、要するに狭義の濫僧とは、この河原者・坂の者・宿の者等、各種の小屋者の総称であらねばならぬ。そしてこれら濫僧の中には、平安朝において国司の虐政の結果として、公民の落伍したもの、及びその子孫以外、前からの浮浪民の子孫の混入しているもののあるべきはもちろんである。これら浮浪民の事も、いずれ他日別に論ずる機会もあろうから今は言わぬ。
 しかしながら、その狭義の濫僧の中にも、さらに最狭義の濫僧は、自ら遊芸あるいは労役に生活するの力もなく、都邑人士の慈悲善根に依頼して、食を求めて生活する徒であったに相違ない。いわゆる濫僧供ろうそうくとは、主としてこの種の乞食の濫僧に施行する慈悲善根の行為を云ったのである。
 狭義の濫僧は屠者とともに、やはり河原者・坂の者・宿の者たる小屋者であった。屠者のことは他日別に言う予定であるからこれまた今は略する。さてその河原者と呼ばれたものは、京都にあっては多く賀茂川の河原に住んでいた。ここにおいてか「延喜式」の規定が必要になったのだ。
 我が国では神社に触穢を忌む習慣があった。ことに賀茂神社にはこの禁忌がやかましかった。「延喜式」には賀茂斎院の忌詞とし、

死をナホル  病をナヲス  泣くを塩垂しおたる  血を汗  ししくさびら[#「くさかんむり/圍」、191-13]  打つを撫づ  墓をつちくれ
と言わしめることを規定してある。斎院においては、かく穢れた事はこれを口にするだに禁止したものであった。後の代までも僧形のものは賀茂の境内に入ることが出来なかった由である。維新前の様子を親しく実見したものの話に、たとい僧侶ならずとも、医師・俳諧師・茶道などの、頭を丸めて十徳を着けた類のものが境内に入らんとするには、前以て懐中にチョン髷を用意し、髷付油を以てそれをその坊主頭に着けたものであったという。承和十一年十一月四日の「太政官符」によるに、遊猟の徒が屠割の事によって、鴨上下大神宮の辺の川を※(「さんずい+于」、第3水準1-86-49)穢することを厳禁するとある。また同年十二月二十日の「太政官符」には、愛宕郡内神戸の百姓を以て両大神宮辺の川原及び野を護らしめ、※(「さんずい+于」、第3水準1-86-49)穢するなからしめたとある。さらに元慶八年七月二十九日の「太政官符」によると、神山四至の中で偸かに猪鹿を射るを厳禁せしむとある。またこれより先貞観八年五月には、下賀茂神社に近いという理由を以て、神楽岡辺側の地に葬る事をまでも禁じたのであった。かくのごとく賀茂の社は特に触穢禁忌のやかましかった所で、しかもその下鴨神社は、近く賀茂川・高野川合流の地点にあるがゆえに、自然河原者が来ってその付近に住みつきやすい。ここにおいてか特に「延喜式」において、たとい神社四至の外といえども、付近の河原にはこれら※(「さんずい+于」、第3水準1-86-49)穢の濫僧・屠者の輩の小屋を構えて住むをえずとの規定の必要があったのだ。
「延喜式」には濫僧と屠者とを別々に掲げて、ともに穢れた者と言っている。しかるに鎌倉時代に至っては、世人は彼らが同じく※(「さんずい+于」、第3水準1-86-49)穢の輩であるのゆえを以て、これを同視して区別しなくなったようである。「塵袋」にエタは屠者すなわちエトリを略したもので、仔細を知らぬ者はこれをロウソウとも云ったとの事を記してあるのは、当時世間が両者を通じて呼んでいた証拠である。この後濫僧の語はいまだ管見に入らぬ。しかし地方の俗諺にはまだ久しく遺っていたものとみえて、自分らの子供の際、郷里の阿波の南方においては、みすぼらしい姿をしたものを見た時には、オローソウみたようなと云って形容したものであった。この頃帰省してみてもあまりこの種の語を耳にせぬ。子供らはむろん知らぬ。僅か四五十年間にはや死語となりかけたものとみえる。

底本:「賤民とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年3月30日初版発行
初出:「社会史研究 9-3号」
   1923(大正12)年3月
※表題は底本では、「濫僧(ろうそう)考」となっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
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