長崎の野に廃人の身を横たえてから二年余り、知る人知らぬお方のお祈りと励ましの力によって細々ながら生命をつないで来たが、その間に書いたり口述したりした短文を式場博士がまとめて出版してくださることになった。いよいよまとめて読み直してみると、私というものの欠点がよく現われていてまことに恥ずかしいが、これも偽らぬ荒野の生活記録として世の批判を受けねばならぬものであろう。戦災者はいま戦災の破れ衣を脱いで新しい平和の服に着がえようとしている。私も今この書をぬけがらのごとく痛ましい野に残しておいて、新しい最後の生活に入ろうとおもう。それは追憶の生活でなく再建の生活であり、それは悲嘆の生活でなく希望の生活でありたい。
 いま私の心を占めているのは「神のご光栄のために」という一念である。私はすでに廃人であるから大きな奉仕はできないかもしれぬ。しかしこの細りゆく生命をただこの一念に燃やして最後の瞬間まで神に仕えたい。毎日曜日の朝、中田神父様の奉持なさるご聖体は、かたじけなくも私を訪れ、私と一致し、私に無限の力を与えてくださる。私自身は全く無力である。しかし拝領したご聖体のおん力によって神のご光栄を賛美する仕事がきっとできると信じている。
 原稿を清書したのは吉田イサエさんである。
 知る人知らぬお方、この小さな私のために力を添えてくださったすべてのお方に感謝し、神の祝福の豊かに下らんことを祈って。

昭和二十三年三月二十五日
長崎浦上の住人
永井隆
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 私が結婚したのは大学を出て三年目で、当時助手として月給四十円であった。満州事変のころで物価は安かったが、それにしても四十円で一家のやりくりをつけることは苦しかったであろう。しかし私は一度も妻から苦情を聞かなかった。着物一枚新しく買ってやらなかった。劇場へ行ったこともない。料理屋へ二人で食いに行ったこともない。遊楽といえば一年に一日海に行ったくらいのことだろう。私は毎日夜に入るまで研究室にこもっていたし、妻は家事にいそしんでいた。月四十円の生活は七年つづいた。
 家族の衣類はみな妻の手製だった。私のくつしたからワイシャツ、オーバーに至るまで妻がこつこつ丹念に仕立てたものだった。それを見て研究室の女の子が「先生は昼間も奥さまから抱かれているのね」と言った。
 妻は白粉をつけなかった。パリーの口紅でもイタリーの香水でも手がるに買えるころであった。そして町には有閑夫人と称する階級がのさばっている時代であった。食糧だって腐って捨てるほどあった。妻は晴れた日には肥おけを担って畑に働き、雨の日には縫い物や編物に手を休めなかった。そして浦上十八ヶ町の婦人会連合班長の忙しい役も果たしていた。その上、私の妻という仕事、半狂人の世話もせねばならなかったのである。
 一つの新しい研究にとりかかると、私の人間が変わる。研究主題に全心を奪われてしまうのである。幾日も図書室にこもって先人の業績を調べる。カードをつくる。それをひと通りまとめて、さてわが新機軸を考案する。実験装置をつくる。いよいよ実験にかかる。何か月かで成績が出る。それをまとめて、論文を書く、校正をする、という経過なのだが、その間は研究以外のことが頭にはいらないのである。話しかけられれば答えはする。めしを出されれば食う。子供が泣けばにらむ。しかし、何を言ったのか、何を食ったのか、何をしたのか私は覚えない。大学から帰る道で妻と行き会いながら、知らずに通り過ぎたことが二回あったそうである。あとで妻から聞いて、ほうと私は言った。そんな時には私の眼は宙を見すえていて、口の中で何かぶつぶつ言っているので、気味悪いそうである。「まるで夢遊病者の看護をしているようですわ」と妻が言ったことがある。
 ぜひ相談せねばならぬ家事の問題が起こっても、耳には入れられず、夫の気をちらせてはならず、頭を使うから特別の料理を作らねばならず、うっかりしているとネクタイなど忘れて飛び出すので身のまわりの世話も手がぬかれず、畳にまでいちめんに広げられた調査カード、ノート、参考書、写真、紙くずなど、片づけていいものやら悪いものやらわからず、夜の帰宅時間は定まらないし──こんな夫の世話をよくも妻はあの細腕でなしとげたものであった。
 この妻の労苦に対して私の報いたのは、ただ雑誌に載った私と論文を見せること、それだけであった。ほかの人々ならソファーに身をうずめてパイプをふかしながら、あるいは畳にねそべって拾い読みする雑誌を、妻はきちんと座り直し、おしいただいてからページを繰るのであった。インキのにおう活字が私の名を記しているそのページ、それは専門術語の並んだ、読んでも理解できぬ文章である。それは幾ページかの短いものであっても、その中に夫の生命が、ちょうど、かつおぶしのように削りこんであるのを知っている妻は、涙さえ浮かべて読んでゆくのであった。そのそばで私は妻の代わりに幼な子を抱いてあやしながら、しばらく胸の中に温泉のわくような思いにひたっていた。
 私の一家の幸福な時間、それは日曜日の朝みんなそろって天主堂へミサ拝聴に参る時であった。私は大きな子の手をひき、妻は小さい子をおんぶして畑道を丘の上の赤い天主堂へゆく。鐘楼から寄せ鐘がやさしく清く鳴り渡る。あの家からもこの家からも晴れ着にかえた人々が明るい顔をして出てきて同じ道に加わる。ステンドグラス越しに射す朝日の色の波の中に座って、私の声も妻の声も、たどたどしい幼な子の声も、隣に座っている老農夫のだみ声も、ひとつの声となって、天にまします我らの父を賛美し奉った。あんな幸福な日はもう私には来ない。
 私の交友は少なかった。みんな似たような貧乏な学究たちだった。ある夏の夜だった。私が小庭の石に座って月を浴びていると、解剖学の中村助教授がうちわ片手にふらりと入ってきた。彼は私の前の石に腰をおろすなり、さんしょううおの卵について話し出した。こんなのがいつも私のうちの涼み台の話題であった。彼は処女生殖の実験をしているのだった。前の年に、とのさまがえるの卵では成功していた。卵のある極を白金針で突くと、それが精虫進入と同じ刺激になるらしく、卵は正常どおり分割を始め、次第に成長して正常のかえるになった。今年はそれをさんしょううおの卵でやっているのだった。それに成功したらなんとかして哺乳類でやってみたいのである。
 妻が手おけに井戸水をくんで来た。中にきゅうりと、トマトが浮かんでいた。
 中村君は左手にトマトをのせ、右手にきゅうりをにぎり、それを卵と精虫とになぞらえて、くっつけたり離したり、しきりに説明していたが、説明しながらパクリパクリとかじるので、いつしか卵も精虫も胃袋の中へ消えてしまっていた。
 妻はいつものように小庭にのぞんだ座敷でシャツに火のしをかけながら、二人の話に耳を傾けていた。不意に中村君が座敷へ声をかけた。
「奥さん、どうやら子供を産むためにはご主人はいらぬらしいですよ」
 すると妻は笑いながら答えた。
「そうでしょうかね?──それはそうとしても、夫婦の目的は子供を産むことばかりではございますまい」
 中村君はこの答えを聞いてにんまりした。
 私は助教授になって月給が百円に上がった。妻はそれでほっとした。やがて子供が小学校へ通うので、四十円では困るところだった。私らにはまだ芝居見物などにゆく余裕は出てこなかった。
 それから五年たった。私は研究室で長年取り組んでいた放射線の障害を受けて白血病にかかってしまった。余命あと幾年もないと診断された日、私は信頼している妻にすべてを打ち明けて、善後策を考えようと言った。そのとき妻は、ぎくりともせず聞いていた。
 私の予期していたとおり妻がしっかりしているのでうれしかった。そんな運命はかねて妻も覚悟をしていたのである。この妻ならわが亡きあと、子供をりっぱに養育して、私と同じく放射線の研究に従う学究にしてくれるであろう。私は後顧の憂いなく研究の最後の仕上げに没頭することができた。妻はいよいよ深い愛情をもって私をいたわってくれた。病勢が自然に進行し、空襲警報が出て鉄かぶとの重いのをかむったりすると、足がよろめくほどであった。一度は妻におぶさって大学へ出勤したこともあった。
 八月八日の朝、妻はいつものように、にこにこ笑いながら私の出勤を見送った。少し歩いてから私はお弁当を忘れたのに気がついて家へ引き返した。そして思いがけなくも、玄関に泣き伏している妻を見たのであった。
 それが別れだった。その夜は防空当番で教室に泊まった。あくる日、九日。原子爆弾は私たちの上で破裂した。私は傷ついた。ちらっと妻の顔がちらついた。私らは患者の救護に忙しかった。五時間ののち、私は出血のため畑にたおれた。そのとき妻の死を直覚した。というのは妻がついに私の前に現われなかったからである。私の家から大学まで一キロだから、這って来ても五時間かかれば来れる。たとい深傷を負うていても、生命のある限りは這ってでも必ず私の安否をたずねて来る女であった。
 三日目。学生の死傷者の処置も一応ついたので、夕方私は家へ帰った。ただ一面の焼灰だった。私はすぐに見つけた。台所のあとに黒い塊を。──それは焼け尽くして焼け残った骨盤と腰椎であった。そばに十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。
 焼けバケツに妻を拾って入れた。まだぬくかった。私はそれを胸に抱いて墓へ行った。あたりの人はみな死に絶えて、夕陽の照らす灰の上に同じような黒い骨が点々と見えていた。私の骨を近いうちに妻が抱いてゆく予定であったのに──運命はわからぬものだ。私の腕の中で妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。私はそれを「ごめんね、ごめんね」と言っているのだと聞いた。
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 高等学校で唯物論のとりこになっていたので、医科大学へ入っていきなり死体解剖を学び、これが人間の本体だと教えられた私はごく簡単に人間は物質に過ぎぬと思いこんでしまった。人体の全体としての巧妙な構成、細部の精密な組織など研究すればするほど感心するばかりであったが、結局私の取り扱っているのはどの面からみても物質であった。次いで生理学を学んだが、複雑のごとくみえて統一された人体内各器官の機能も、動作電流、刺激、反応などと物理化学において取り扱う現象として説明されては、霊魂などというとぼけたものの存在を認めることはむずかしく、またいらぬものでもあった。私は毎日の研究の対象なる死体に向かうと同じ気持で、冷淡に私自身の生きた肉体を取り扱い始めた。肉体は酸素・窒素・炭素・水素・カルシュームなどの元素が有機的に集合したものである。これらの諸元素は別に尊敬を払わねばならぬわけのものではない。そしてこれらの諸元素が物理化学的方法によって離合集散するのが人生である。わが肉体に尊厳性はない。肉体すなわち人間である。人間にも尊厳性はない。死んだら分解して諸元素に還るだけのことだ。人生は墓までだ。そこへ押し流されるまでを面白おかしく暮らすが勝ちだ。飲め! 歌え! 踊れ! 遊べ! 若き青春の血の冷えぬうちに。私は私の肉体を尊敬しなかったから、これを汚して平気だった。なにか胸の中におさまらぬ波が立つのであったが、これを良心の叫びだなどというのは旧時代の思想だときめてしまった。科学万能の時代だ。実証主義の世の中だ。良心の幽霊なんか過去の忘却の中へ消え失せろ。老人どもがやかましくいう霊魂が実在するならば、さあ目の前に出してみせろ。青春の快楽をねたんでのたわごとではないか?
 大学の二年から三年に上がる春の休みに母が脳溢血で急死した。私がまくらもとに駆けつけたときにはまだ息があって、じいっと私の顔を見つめたままこと切れた。その母の最後の目は私の思想をすっかりひっくり返してしまった。私を生み、私を育て、私を愛しつづけた母が、別れにのぞんで無言で私を見つめたその目は、お母さんは死んでも霊魂は隆ちゃんのそばにいついつまでもついているよ、とたしかに言った。霊魂を否定していた私がその目を見たとき、何の疑いもなく母の霊魂はある、その霊魂は肉体を離れ去るが、永遠に滅びないのだと直感した。
 葬式を終わって家の中がひっそりとなり、聞きなれた母の笑い声がしなくなったが、母のいっさいが無に帰したとは、どうしても考えられぬ私に変わっていた。超自然界への目がはじめて開いたのである。
 大学の三年生になると各科の外来患者診療の実習が始まる。二年生までは死体を材料とした基礎医学が主であったが、これからは生きた人間を相手に勉強することになった。生きた人間は死体とは違っていた。うさぎやひきがえるなどの実験動物とも違ったものだった。さるとも違っていた。さるの高等なものとも考えられなかった。人間は特別の生物であった。肉体に何かを加えたものが生きた人間だった。
 私はパスカルのパンセを読んだ。唯物論のとりこになっていた者が、深い信仰を抱いた科学者の瞑想録をいきなり読むのだから、まるで天文学の素人が、天体望遠鏡をもたずに星の研究をやるようなもので、足は地を離れず、目は星にとどかず、心ばかりあせってふらふらと宙に浮いていた。たしかにパスカルの言うことは真理だ。しかし、どうしたらそれを実体としてつかむことができるのか? 霊魂、永遠、神、ああ、こんなものをわれわれの先輩、大物理学者パスカルがまじめに信じていた! あの古今無双の知者が信じていた! 科学者パスカルが彼の科学と何の矛盾もなく信じていたこのカトリック教とはどんなものであろうか?──私の興味はおのずからカトリックに引きつけられていった。
 大学のすぐ北隣に浦上天主堂がそびえていた。東洋第一の大聖堂で一万余りのカトリック教徒が天主堂を中心に浦上一帯に住んでいた。それまで毎日のように講堂の窓から赤い大きな天主堂を美しいなあと眺めたり、お昼に鳴るアンゼラスの鐘を神秘的だと聞いておりながらも、ときどき白いおおいをかむった葬式の列が天主堂を出て運動場の横の小道を墓へ進むのを見ては、旧式の信仰にだまされている西洋人の奴隷の群だとさげすむのみで、別に深い興味を起こさなかったが、パスカルによってすっかり私の思想を破壊しつくされるに及んであらためて天主堂を見直し始めた。そしてついに下宿を浦上に移したのであった。
 村人の信仰は素朴でしかも堅固だった。私に向かって一度も宗教について説教めいた話をしかけたことはなかった。ただ何を祈るのか、たびたび家族うち寄り、近所中集まっては祈りをとなえていた。──あにはからんや、それが私ら異教人の改宗を祈っていたのであったとは。(私はカトリックに改宗してから、はじめてそれを知った)
 大学で精密な実験を自分でやるようになって、実験の方法によっては出てくる結果がそれぞれ違うことや、ある方法ではある一定限度の事しか確かめられないことなどを自ら知るに至った。そして自然科学的方法という一定の方法によって捕らえられる法則は一定の限られた枠の中にあるもので、決して宇宙のあらゆる問題を解決しうるものではないと知った。霊魂は自然科学的方法で実在を証明できないものであった。自然科学的方法以外の方法では証明ができる。それを自然科学的方法で証明せよというのは無理である。真理探究の道は自然科学的方法しかないと思いこんでいたから、霊魂の実在を否定していた私だった。私は自然科学という分野が意外にも狭い、不完全な、矛盾だらけのものであることを知って真に驚いた。自然科学において真理と認められている法則が実は仮説であることを知ってさらに驚いた。そして精密な実験を重ねれば重ねるほど人知の低さとその考案した研究方法の不備を見出して、いよいよ自らへりくだらねばならぬと思った。超自然界を事実体験するに及んで、かつて霊魂を否定して得意であった日を恥じた。そしてパスカルのパンセがはじめて了解できるようになった。
 満州事変の従軍から帰還するとすぐ私は浦上天主堂で洗礼を受けた。聖霊の光に照らされて私は宇宙の本質を了解するようになった。生きた人とは霊魂と肉身とを合わせたものであることも、霊魂が肉身を離れることが死であるのも何の無理なく理解できた。人が創造されたのは神のご光栄と人の幸福のためであった。そして人は神にかたどって造られた尊厳なものであり、軽々しく汚しては相ならぬものであった。私はこんな当然な事実を大学を出てからようやく知ったのである。
 私は霊魂を知り、その尊厳を知ってはじめて肉身を知り、その尊厳を知った。ことにご聖体を拝領し、イエズス・キリストと一致する体験を積みゆくうちに肉体の取り扱い方をおろそかにすべきでないことを知った。最後の晩さんにおいて、イエズスはパンをとり、祝してこれをさき、弟子たちに与えて「なんじら取りて食せよ、これわが体なり」と申された。生けるキリストのおん体なるご聖体はミサの時に信者にさずけられる。信者の霊魂は肉身に受けたパンによってキリストと一致するのである。「われは生命のパンなり。われは天より降りたる生けるパンなり。人もしこのわがパンを食せば永遠に生くべし、しかしてわが与えんとするパンは、この世を生かさんためのわが肉なり」私はこのみ言葉を信じ永遠の生命を信じる。
 私は霊魂を大切にした。それと同じように肉身をも大切にした。なぜならば、世の終わりに肉身は復活し、ふたたび霊魂と合わせられ、神の公審判を受けて永遠の生活に入るからである。肉身が死後破れスリッパのように墓の中に捨てられて終わるものならば、スリッパ同様、汚い所へでもどこへでも踏みこんでよかろう。しかし肉身はふたたび光栄体として神の尊前に復活するのである、汚したり粗末に扱ったりしてはならない。
 私は神に造られた私の肉身を尊く思っている。それで、原子病などにおかされたのははたして不可抗力であったろうか、それとも自分の不注意や過失が原因ではなかったか、と絶えず反省してみる。そして、どうやら死んですぐ受ける私審判のときに、神からちょっとしかられそうな気もするのである。それで、これから死ぬる瞬間まで十分気をつけて、良心にそむかぬよう手落ちのない治療を施してゆきたいと思っている。この肉身を原子病治療法発見の貴重な資料に使うのであるから、でたらめな実験をめくら滅法やってみるのではない、おぼれる者はわらをもつかむというあわて方で、迷信だろうとインチキ薬だろうと手当たり次第飲んでみるのでもない。神のご光栄のために、次の世代すなわち原子力時代の人々の幸福のために慎み敬いながらわが肉身を守ってゆこうと思っている。
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 三ッ山救護所の作業を終わったので、十月十五日に浦上の焼け跡に帰って来た。亡妻のいとこたちが小屋を立てていたので、その中へ割り込ませてもらった。いとこたちは二世帯五人いた。そこへ私たちが四人入りこんだので九人になった。小屋のひろさは一坪あまり、すなわち四平方メートルだったから、夜寝るときには、ひらめを魚箱につめるように、みんな横向きになり、しかも頭足交互に並ばねばならなかった。となりの足のかかとのあかぎれが、ざらざらとほほをなでたりした。その感触は生き残った者同士の親しみをなまなましく覚えさせた。

 この小屋は丸太と板とトタンとかすがいと釘とでできていた。一メートル五十くらいの高さの石がきをそのまま支壁に利用し、丸太をかすがいで組み、それにトタンを打ちつけたものである。みんなそこらから拾い集めてきた焼け残りの物だった。板床の上に配給の固い毛布を敷き、入り口にだけは板戸をつけてあった。窓なしだから板戸を閉めれば暗く、明るくするために開けば寒かった。入り口は東に面していたから、それをあけて頭をいちじるしく下げてのぞくと、北と南とはトタン板、正面には石がきをそのまま見ることになる。石がきの穴には戦災証明書や、えんぴつなどがさしてあった。天井はすなわち一枚のトタン屋根そのものであったが、古物だから釘孔がいちめんにあいていた。月の夜にはそれがまるで星ぞらのように美しかった。

 十一月の終わりからしぐれが降る。かまどは入り口の外に石を集めて仮にきずいたが、屋根をかむせておらぬので、雨が灰もたき木もぬらしてしまい、火は燃えつかない。マッチがなかなか手に入らぬので火種を絶やしたら一大事だ。肉体的に泣く。ほほを伝う冷たいのがしぐれの雨で、あたたかいのが涙であった。そうして、しょんぼり雨の中にしゃがんでいたら、向こうの丘の防空ごうの住まいから娘さんが、たいまつを打ち振りながら走って来てくださった。やがて、かまどの下は勢いのよい音を立てて燃え上がり、小屋の中のカヤノが手をたたく。向こうの娘さんは雨の中を首をすくめて走り帰る。

 原子爆弾のあとがほかの爆撃のあとと異なる点のひとつは至るところ平均した厚さに灰と瓦と焼け残りの雑品が積み重なっていることである。土蔵とか樹木とかがあちこちに残ったり畑はそのままだったりというのではない。土蔵だったあとも畑も等しく灰などで十五センチくらいおおわれている。これはまず爆圧で万物がぐいとおしつぶされ、その粉々になったのが、爆心に生じた真空に吸い上げられ、そこらいちめんにばらばらと降り積んだからである。軽い物は上空高く吸い上げられ、途方もなく遠方に西風で送られた。東へ十数キロ離れた矢上という村の知人の庭にひらひらと私宛の葉書が落ちてきたので、彼は私の家のやられたのを知ったという。私の家の跡あたりにわらびがたくさん芽を出した。これは西の方の稲佐山にあった胞子が降ってきたものであろう。町並みのなくなったのっぺらぼうの丘にわらびを見るといかにも原野めいてくる。

 麦もいたるところにすぐ発芽した。これもたくわえてあった各戸のもみが降ったものである。降ったところが焼灰の上だった。あるものは焼けたろうが、あるものは肥料が十分なのでよく成長した。十一月の終わり、麦の種まきをしようにも種はなかったから、この自然生を移植した。そのころすでに茎の丈は数十センチに達していた。早く発芽し早く成長しているのだから、実るのも早かろうと期待していたが、やっぱり時期が来ねば穂は出ぬものだった。ほかの麦と同じ晩春まで待ってはじめていっせいに花を開いた。風媒花というものは自分勝手な恋愛ができぬらしい。麦の茎や葉の成長はすばらしくよかったが、穂は小さく収穫は少なかった。残存放射能の影響によるものと私は思った。

 のっぺらぼうの焼け跡に目につくものは灰の中にぴかぴかと陽を反射している皿、茶わんのかけらである。白い地に色あざやかに古伊万里の赤絵がそのまま浮かんでいるのも痛々しい。九谷の盛りばちがピシリ二つに割れて七福神が二人と五人に仲をさかれながら、やっぱりにこにこしていたり、柿右衛門の熟柿が焼けて干し柿になっていたり、はぎ焼きのうす茶わんのうわぐすりが荒れて、かえって面白くなっていたり、灰の上に座ってこわれたものを、亡びたるものの美しさよと飽かずもてあそぶ。それはみな過去のわが家のいろいろのまどいを思い出させるのだった。私は妻が日ごろ使っていた波佐見焼きの飯茶わんをずいぶん探したけれども見つけ出さなかった。見つけ出してもじき土深くうずめたにちがいない。

 わが家のあとを片づける。あの日からいくたびか雨が降ったので灰は固まっていた。灰にもいろいろある。書斎のあとには白い灰と黒い灰とがうず高く積み重なっていた。紙質によってちがうのだろう。黒い灰にはまだページをそのまま形に保っているものもあって、その上には「ささの葉はみ山もさやに乱れども我は妹思う別れ来ぬれば」などと読める印刷が残っていた。手にのせて読んでいると、ふいに風が襲って人麿の妻恋う心をこなごなに吹き散らしてしまった。

 灰の中から勲章や徽章が出てきた。金鵄勲章きんしくんしょうはよれよれに型もくずれて、赤や紫の七宝もむなしく、上部の小さな金のとびも焼き鳥になってしまった。おまけに瑞宝章がそれに背中合わせにくっついて、まるで寒ぞらにふるえて身体をすり合わせている孤児みたいだ。旭日章は真ん中の赤い太陽がぽっかりなくなって大穴をあけた。二つの従軍徽章なども夢だったといわぬばかりの銅塊に還ってしまっていた。こんなものを胸にぶらさげて威張って歩きまわった若い私だった。それがあながち間違っていたとか、ばからしいことだったというのではない。そんなこの世の名誉に満足していた私の低さをあわれむのである。そしてたとえば、この金鵄勲章にしたところで、弾丸をおかして多くの傷兵を助けた功によって授けられたものなのだが、純真な愛に燃えて傷兵を助けた結果勲章をもらったのではなく、勲章をもらうために傷兵を助けたのではなかったか? と自らを責めるのである。

 屋敷の東北の隅の灰の中をていねいに探していたら、ついに見出した。わが家の祭壇の十字架を。木の台はもちろん焼けてなくなっていたが、青銅のキリストだけはそのまま型も狂わず傷もつかず残っていた。これは徳川禁教時代からひそかに伝えられた由緒つきのものである。私はいっさいの財産を失ったが、この十字架ひとつだけは失わなかった。

 カヤノが花よ、花が咲いてるよと手を引くままに杖を頼りに畑の隅に来てみれば、ちらばる瓦の上に一輪の朝顔、水色のあざやかさには思わずそこにひざまずいて、創造主のみ心に感謝したくなった。荒涼たる廃虚にはじめて贈られた美しきもの、やっぱり私らは神から忘れられていなかったわい。

 家のうしろにえのきの大木があった。枝のひろがりは家をおおうほどで樹齢三百年といい伝えられていた。それが一の枝の上からぽっきり折れて、いま巨大な幹を白々とさらしている。月日がたち、雨がいく夜も降ったが、大木はついにふたたび芽をふかなかった。
 枯れた大木の根もとに朝顔は咲いている。

 焼け出されたとき防空衣のポケットに五銭玉がひとつ入っていた。それが私の全財産だった。私は絵葉書を一枚手に入れることができたので、それに焼け出されたことを書いて、その五銭玉をそえ、天草へ帰る看護婦に頼んで、故郷へ郵送してもらった。この絵葉書を受け取ったいとこのお富さんから間もなく見舞いに百円送ってきた。そのころの私の月給は百円そこそこだったから、この金はたいしたものだった。聖母の騎士修道院のポーランド修士が軟禁を解かれて阿蘇から帰って来た。私はその百円をそのまま修道院に差しあげた。それから一か月、修道院もようやく落ち着いて私に聖書を一冊と聖母像を一体くださった。十字架は柱にかかっているし、もうほかに何もいらない。感謝の祈りをささげていると、宇宙の富を全部手に入れたような気になる。お富さんには神が百万円お返しになるだろう。

 畑は吹き払われ、その上に瓦をかむった。かぼちゃ、とうがんなどがいたるところにころがっていた。どこの畑から飛んできたのかわからない。自分の畑にころがっているのは自分のものと決めることにした。かぼちゃを食いつくしてから、さつまいもを掘った。さつまいもの茎はもぎ取られたのだが再生していた。しかしそれに兵隊虫がついてすっかり葉を食い荒らしてしまった。兵隊虫というのは日露戦争のすぐあとに一度現われて暴れたものだそうで、長さ三センチばかりの、いもむしに似た、黒いからだの両側に黄色の線が一条ずつ入った、ちょうど日露戦争時代の兵隊のズボンみたいな虫だった。せっかく青々と茂った葉をこいつがすっかり食い荒らしてしまった。それに残存放射能の影響もあり芋は平年作の十分の一もとれなかった。けれども私らは飢えることを免れた。というのは住民がほとんど死んでしまっていたからで、そのわずかの芋は生き残りの私らを養うに十分であった。

 浦上の丘や谷や川ぞいに仮小屋がぽつんぽつんと建った。老人は、それを眺めて、旅から戻った時のようだという。旅とは明治のはじめに起こった浦上キリシタン総流罪のことである。諸国に送られた信者が信仰を守り通し、数年ぶりに放免されて帰ってきたときは春だったが、田畑も家も荒れはてて無一物だった。彼らは掘っ立て小屋をぽつんぽつんと建てて生活を始めた。帰り着いたその日から食う物に困った。すると、何年も作らなかった田にどじょうがたくさんいることが見つかった。みんなそのどじょうを食っては働いた。くわが無かったから竹で畑に穴をあけてそれに芋づるをさした。どじょうは無尽蔵にいるようだった。商魂のつよい男が三人おった。彼らはこのどじょうを上方へ売りに行ったら大もうけになると考えた。そして上方へ行って商談をまとめた。ほくほくして浦上へ帰ってきたら、なんとあれほどたくさんいたどじょうがたちまち一匹もおらなくなってしまったのである。──その旅もどりの人が今、まだ二十人ばかり生き残っておるが、このどじょうの話をしては、神様がその日その日の糧は与えてくださるから心配はいらんたい。そればってん、誰かが欲を起こすと、このお恵みをみな取り消してしまいなさるばい。

 爆心地に幽霊が出るといううわさは遠い世間では立っていたようである。なにしろ、たくさんの骨を敷きつめたようなところだから、うわさの立たぬほうがおかしいくらいのものだ。しかし爆心地そのものにはそのうわさは少しもなかった。なかったも道理、ここは迷信をいっさい知らないキリシタン村落だからである。霊魂は物質でないのだから肉眼で見えるはずがない。もしここが異教徒の町であったら怪談でにぎやかなことであろう。
 浦上を夜中に通ると、女のすすり泣きが聞こえる。──これが世間のうわさであった。私は夜中に焼け跡を歩いてみた。冬の月が青く照らしている冷たさは、まさに幽霊が出ねばおさまらぬ場面であった。泣き声はゆけどもゆけども聞こえない。橋口から原の田、松山の爆心を右に見てそれから佐城の坂、ようやく道だけ開いてあって両側はあの日のまま、小屋は一つも建っていない。このあたりは一家全滅のあとばかりだ。宿の高台へ出た。寒い夜風が港からまともに吹きつけて思わずぞっと首をすくめた。すると、ヒイーッ、ヒイーッとすすり泣きが聞こえてきた。思わず足をとめる。東はすぐに大学の構内で解剖室の並んでいたあたりだ。西にはがい骨のような枯木が白く月に光っている。ヒイーッと足もと近くにひとりすすり泣くもあり、遠く離れたところで数人寄り合っても泣いている。大人も泣いている。幼な子の声もまじる。むせび泣くのもある。臨終の息をまさに引き取ろうとするのもいる。
 このあたりは大学町で、助手たちの家庭や学生の下宿が主だった。たばこと郵便切手を売る店や、冬はみかん、夏はところてんを売る店などが間にはさまっていた。葉書を買うとたとい二枚でも三度数え直して、にっこりともせず渡す色の白い女か妻かわからぬ女や、一日中シェパードを訓練していたシェパードも恐れる人相の大男や、いつ通ってみてもピアノをたたいていた金持ちの娘や、どんな急病人の迎えにも絶対に走らない下駄ばきの老医などを思った。あの人々の骨がここに月光にさらされている。思い出にふけりながら歩みを進めると、両側のすすり泣きはいよいよ哀切をきわめる。あの色の白い娘は葉書をかぞえながら潰れたのかもしれない。あの大男はあの大事なシェパードを身をもってかばって死んだであろう。あの娘はピアノの弦の断ち切られる音をかすかに聞いたかしら、あの老先生は救護班詰所へ出勤せねばならぬとあせりつつ火にまかれたにちがいない……
 港から吹きつけていた風がぱったりやんだ。私のほほがにわかに温かくなった。背すじもぽかぽかして、私はなんとなく落ち着いた。そして立ち止まってふたたびあたりを見直した。しらじらと月が瓦の原を照らしている。すすり泣きはぴたりとやんでいた。
 私は瓦の原っぱに踏みこんでいった。何もない。何の声も起こらぬ。それではあのすすり泣きは心の迷いであったろうか?──ふたたび港から風が吹きつけてきた。ここは丘の上だから風は切線の方向に吹きぬける。ヒイーッ、ヒイーッ、すすり泣きはふたたび足もといちめんに起こった。私は身をかがめた。
 瓦が泣いているのだった。瓦が積み重なって乱れていると、狭いすき間がいくらもできる。そのすき間を風が吹き通るとき笛のように小音を立てる。その音波がいくつも集まり、干渉してすすり泣きのように聞こえるのであった。
 瓦よ泣け。このあたりは一家全滅のものばかりで、あとをとむらい泣く人は残っていないのだ。せめて瓦よ、骨のそばにありて泣いてあげよ。

 町がなくなって昔の丘に帰ったら距離は半分に縮まった。向こうの丘の小屋で夕の祈りをとなえるのが、じいさんの声、守ちゃんの声と聞き分けることさえできる。それに合わせて私の小屋でも祈りを始める。お隣も加わった。なんだか一つの家族になったようだ。
 夜になるとたき火があちこちに赤い。そこから話し声が高々と聞こえてくる。さながら神話時代にいるように人なつかしい。

 向こうの丘に復員兵が現われた。大きな復員袋を背負いよろよろとやって来て、立ち止まってはあたりを見まわし、また少し行ってはそこらをさがす。やがて何か目じるしになる庭石でもあったのだろう。すたすたと四、五歩行って、地面をじいっと見つめていたが、「おおう」と泣き声を出すとともに、袋を背負ったまま、へたへたとその場に腰をついてしまった。しばらくは身動きもしない。──それをどの小屋からものぞいて見ておりながら誰ひとり出てゆかない。涙にむせて呼ぶ声も出ないのだ。あれは山田さんだよ。南から今帰ったんだ。家族は全滅したんだよ。死ぬる覚悟で出た人だけがああして生きて──
 戦争はするもんじゃなかばい──と特攻帰りがつぶやいた。

「浜の町を通ったらこんな物売りつけられたばい」
「何ね?」
「花の日の花たい。市役所の引揚者援護資金募集のさ。二円だよ。戦災者だから買わなくてもよかろうといって次々三人はことわったばってん、四人目にはうるさくてたまらんからとうとう買ってやった」
「そう──そんなら、明日町へ出て、わたしも買おう」
「おやおや、姉さん。家建てるといって大事にためてるお金じゃないか?」
「ええ、そうよ。だから、わたしたちみたいに、お金の欲しがる人のことを思ってみんね」

「いやあ、すっかり貧乏になっちまいましてね、はゝゝゝゝ」
 今日もまた訪問客に向かって私はそう言った。これがこのごろの私の自慢になっている。──この自慢は、おれは百万長者だよというのと全く同じ根性なのである。ただ符号がプラスとマイナスと違うだけのことだ。貧乏を鼻にかけるようじゃ清貧ではなくて濁貧である。濁貧は貧乏を盾にとって社会的責任を避けんとするもので、長者よりなお悪い。

 カヤノがはやり目を誰からかもらってきた。おとといは目をしょぼつかせてこすっていたが、今朝は目やにがたくさん出て目があかなくなってしまった。小屋の中はうすら寒いので、日当たりのいい井戸端へ誠一に手を引かれて行った。にわか目くらだから足もとは至っておぼつかない。瓦やれんがにつまずかねばいいがと、こちらからはらはら見ていると、わざとつまずくのかといいたくなるくらい、いちいち引っかかって倒れそうになる。荒涼たる廃虚を小さい兄に手を引かれてゆく姿を見ていたら、ふっと広東の盲妹を思い出した。
 カヤノは井戸端の石に腰かけて、これこれ杉の子起きなさい、を声を張り上げて歌っている。つるべに向かって歌っている。目の前で聞いているものはつるべだとは知らずに歌っている。口を大きくあけて歌いつづけているが、目がありやなしの細いすじになっているので表情は動かない。冷たい石像のようだ。私はあの広東の盲妹を思う、井戸端に腰かけていて、水汲みびとの足音が近づけば歌い始めたあの小さな盲妹を。

 住居再建はまず防空ごう生活から始まった。一つの隣組の生き残った者が何人か隣組の防空ごうに集まって取りあえず死体の整理と負傷者の手当てを行なった。降伏と同時にはじめて大空の下へ出て呼吸した。ごうの中はじめじめして長く生活できるところではない。戦争がすんだので隣組の組織もおのずから解けて、こんどは近い親類が寄り集まって丸太とトタンの小屋を作った。私の住んでいるのはこの第二期の住居なのである。手間のそろった親類の組はすでに第三期の住居を建ててしまった。それは各家庭の仮建築を自分らの手でそれぞれ建てまわるのである。倒れただけで燃えなかった家を解いてその材料でひと間のバラックを数軒建てる。そうして各家庭はそれに引き移り、それからこんどは第四期の本建築を計画するわけである。本建築は本職の大工に頼まねばならぬし、材料もずいぶんいるから、なかなか大事業だ。しかしここはカトリック村で、昔から何事も相互扶助でするから案外早く本建築の立ち並ぶ日が来るかもしれない。バラックは本建築の家ができ上がったら、物置きになる予定である。
 しかし、その前に天主堂を建てねばならない。神のお住まいが第一だ。一日も早く天主堂を建てご聖体をお迎えしなければ、この村に生命が入らない。

「やあ、生きていましたか!」
 これは焼け跡の道で出会い頭に交わすあいさつである。生きている人間よりも死んでいる者のほうが多いのだから、これはもっともな声である。だが、こんなあいさつをする人はほんとうに親しかった人ではない。ほんとうに私の生死を気づかっていた人はこう叫んでとびつく。
「おお、さがしたぞ! どこにいたんだっ! バカ」
 石見の国、三瓶山のふもとから妹が見舞いに来た。大きな背負い袋を背負ったまま枕もとへ来て、私の頭の三角巾をみると、ぼろぼろ泣き出した。妹の主人はビルマで死んだのであった。
「まあ、その荷をおろしてから泣けよ」
と言ったら、チンカランチンと音をさせて袋をおろし、中から大きな振り子時計を引き出した。それはふるさとの家の茶の間にかかっていた古風な物で私の幼い日の思い出に残っている。
「途中でチンカラン、チンカランと鳴るものだから皆から振りむかれたのよ、兄さん」
 妹は涙もふかずに笑い出し、柱に時計を掛けた。ねじをかけると、コッチ、コッチ、コッチと正しい周期で時を刻み始め、それといっしょに小屋の生きかえるのが感じられた。
「時計は家の心臓だな」
 妹は腕時計を見て針を二時五十分に合わせた。もう五分したら時計が鳴る。幼い日に聞きなれたあの音が……
「カヤノ、じっとして待っておいで、あの長い針が真上に向いたら鳴るんだよ。三つ鳴るんだよ。ね、ポン、ポン、ポン、と三つ……」
「三つ鳴ったらおやつね」
「これがカヤちゃんなの、まあ……おかあ──いや、おばさんがおやつに石見のネーブルをあげましょうね」
 妹は涙ぐんだらしく、向こうむきになって背負い袋の中へそそくさと手を突っこんだ。
 私とカヤノとは針の動きを見守り息をつめている。

「ハロー、ドクター」
 屋根の上にあたってプルダン神父の声がする。
「ホエヤー・イズ・ザ・ゲート・オブ・ユア・パレース?」
 貴君の宮殿のご門はいずこぞ? とは大変だ。
「ヒヤ・ヒヤ」
 私はあわてて中から板戸を開けた。占領軍将校の肩から下しか見えない。えり章で従軍司祭と知れた。もう一人は茶色のフランシスコ修道服を着たプルダン神父。二人とも首を屋根の上にのせているようだ。
「どうかおはいりください」と言ったら、二人入ると宮殿がパンクするでしょうと断わられ、私も外へ出る。将校は飛行隊付の従軍司祭で、やはりフランシスコ会員だった。腰をかがめ、中をのぞいてみて、聖マリアの白い像を見ると安心したように微笑した。
 私はあたりの家をひとつひとつ説明する。あれは生き残った三人の少年が建てたのです。あれは父と娘と二人で建てたのです。あそこはもと十一人家族でしたが……
 若い夫婦二人でさかんにトタンを打ちつけている小屋が見える。新妻が丸太の上に足をふんばってトタンを押しつけ、それを夫が口やかましくなんとかかんとか指図しながら釘づけにしている。風が吹きさらすものだからトタンがあおられてお嫁さんも苦心さんたんである。あのトタンを夕方までにかむせてしまえば今夜から住まえるだろう。
「オオ、スイート・ホーム」
 そう言って従軍司祭ははるかに祝福を送った。

 日がかげったのでカヤノはまた小屋の中にもどって、私の横へもぐりこんだ。目やにに汚れた顔を見ると、しみじみ落ちぶれたのを感じる。私の腕をまくらにひとり語り──。カヤちゃんのおうちは障子があったねえ。お二階もあったねえ。おえんがわもあって、ぼたんが咲くと、おえんがわでお客さんとお茶を飲んで、おかあさんがいたねえ。おかあさんのぼたもち、おいしかったよ。利ちゃんとチコちゃんとカヤちゃんとままんごして、お花をたべて、けんかしてカヤちゃん泣いちゃった──
 目が見えぬから今日のカヤノは昔を見る。昔にありながらいつかカヤノは眠り、小さい手が私の胸をしきりにさぐる。

 誠一と二人で焼け跡の片づけに取りかかる。十五センチの厚さに灰や瓦やがらくたがつもっているのを掘り起こし、ふるいにかけて、灰を取り、それは麦畑に入れ、瓦などは防空ごうにうずめる。私はけが人だし、誠一は子供だし、仕事はなかなかはかどらぬ。ふるいをゆさぶっていたら瓦のあいだに何か美しいものが見つかった。手にとってみると帯止めだった。
 布治名ふじな焼のうわぐすりは少しざらついていたが、てのひらにのせて見ているうちに、結婚後はじめて学会へ京都へ上った帰り山陰にまわって松江の大橋の近くの店でこれを求めたころの日々がそれぞれ短い場面のこまながら鮮やかに思い出されるのだった。よほど気に入ったものとみえてこの素ぼくな帯止めをよくしていたなあ。白い障子、干しがきをつるした縁がわ、びわの花がひそかに咲いて、はちが軒の端に羽を鳴らしていた……。
 誠一が声をかけたので、目をうつつに開けば、わが影は灰のうえになごうして、脛吹き払う風も冷たい。骨のあったあたりにしゃがみ、ロザリオの祈りをとなえて、それで仕事を打ち切った。
 それっきり片づけをする勇気が出なくなってしまった。灰を掘れば亡きひとの遺品がまた現われるであろう。忘れたいというのではない。あまりになまなましく思い出したくはないのである。
 近ごろ知り合いになった戸泉さんが中学生三人をつれて片づけの奉仕をしましょうと言って来られた。どんな小さながらくたでも肉親のものには限りない思いがつながっている。ああ、あれはミシンの車だ、あれを踏んでいたなあ、と思い出したとたん、中学生は、何だ、ミシンか、一、二の三と叫んで勢いよく防空ごうへ放りこんでしまった。ああ、火のしだ、あの火のしで──と思う間もなく戸泉さんがこりゃもう役に立たん、と言ってポイと投げこんだ。思い出こもりて断ちがたきがらくたは四人の非人情な手でさっさと防空ごうに投げこまれ、あとは夕方にはきれいな庭に変えられてしまった。戸泉さんが、ここに白バラを植えてあげましょうねと言った。

 昼間はみんな建築材料を集めに出るので、ひとり留守をしている。板戸を引けば鼻つき合わす客と亭主だ。玄関番もおかず、名刺もいらぬ。上座も末席もない荒むしろ二枚の一室。さあどうぞこちらへ、いやここで結構などといらざるかけ引きをする余地もない。あまり威張って入ってくると低い天井がこらしめる。夕方になると帰りの荒野もこわいし、ここに灯もないから、長居の客は止まらず、電車が通わぬので無用の立ち寄り客は一人も来ぬ。電話がないから、こちらの都合も考えずにいきなりチリリンと騒がされる憂目も免れたし、ラジオも新聞もないおかげで、われとかかわりのない世間の出来事に頭を悩まされる悩みもない。押し入れも長持ちもないが、ふとんも晴れ着も持たぬから困らない。書庫を焼かれたけれども、この野原こそ幾千部の書にまさる読み物ではないか。
 柱の十字架を仰いで廃人の私は黙想をしている。かたわらに「無一物処無霊蔵」の軸がかかっている。これは恩師末次教授がくだされたものである。

 もとの浦上天主堂は赤い煉瓦造りで、正面左右に三十メートルばかりの高さの鐘楼がそびえ、大小二つの鐘がつるしてあった。大きい方は毎日お告げの鐘に鳴らし、小さい方は祝日に大きい方といっしょに鳴らすことになっていた。小さい方は金を多くふくんでいるとのことで、うっとりするような好い音を響かせた。この響きは三キロ以上離れてもよく聞こえたものだった。その天主堂が崩れたので鐘の運命をだれも気にかけていたが、教会の宿老の田川さんが煉瓦の塊の間に小さい方が落ちて壊れておらぬのを見つけた。大きい方は壊れていた。田川さんは若いころ先代とともにこの鐘をあの鐘楼につり上げた人で、トンビ宿老さんと呼ばれている。田川さんは私の手で必ずこの鐘をもう一度新しい天主堂の鐘楼につり上げたいと言っている。しかし原子病にかかって一時は絶望だったほどだからまだ仕事のできる体ではない。
 この荒野にまたあのアンゼラスの鐘の音が鳴りわたったら……とはここに住むすべての人のねがいであった。鐘をうち鳴らすことを禁止されてからすでに幾年になるであろう。信仰の自由は与えられた。平和はとりもどされた。しかし人民の心は荒れはてている。この野のように荒れはてている。いまここに天使のお告げの神聖な鐘の音が高らかに鳴り出でて、荒れた町の上をやわらかになでてゆくならば、どんな美しい共鳴を人々の胸郭内に起こすであろう……。
 山田市太郎さんが本尾の青年に相談した。本尾の岩永君らはやりましょうと乗り出した。それは十二月二十四日の午後のことであった。私も杖をついて天主堂へ行った。私は力が出ないからそばに座って祈るだけである。司祭館の焼け跡に、注文しておいたかのごとくチェーンブロックがあったのはいったいどうしたことだったろう。これがあるからには作業は順調に進むだろう。
 一同はまず地にひざまずいてロザリオの祈りをとなえた。そして神のご光栄を賛美するため今夜のクリスマスにはこの煉瓦の塊の底にのぞいている鐘が空中につり上げられて鳴りますようにと一心に祈った。私ひとりはその場にひざまずいてずっとロザリオを祈りつづけることにした。青年たちは山田さんの指図を受けて鐘のつり上げ作業を始めた。鐘楼のドームが横ざまに落ちている。それから煉瓦塊の山に丸太をわたし、それにチェーンブロックをつけた。あたりの煉瓦塊を片づけて鐘を露出した。それにチェーンブロックのかぎを引っかけた。さて、いよいよ引き上げだが、はたしてうまくゆくかどうか? なにしろ大きな煉瓦のかたまりが崩れたまま不安定に積み重なっているので、どれか一つのかたまりが妙にぐらりと動くと、そばにうず高く重なっている全体が今にもガラガラと落ちて来そうである。人にけががあってもならず、鐘に傷をつけてもならぬ。一同は緊張して鎖をにぎった。
「天にましますわれらの父よ」
 一声祈って、ガラ、ガラ、ガラ、と引く、引いては止めてまた祈る。
「ねがわくはみ名の尊まれんことを」
 祈りをとなえてさらに引く。鎖はぴんと張ってきた。
「み国の来たらんことを」
 み国の存在をあまねく知らすこの鐘を空高くつり上げよ、と鎖を引く。
「み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを」
 鐘は宙に浮いた。祈っては引く鎖は煉瓦の底にうずもれていた鐘を自由の空高くつり上げてゆく。
 夏陽は稲佐山に落ちようとして赤光が廃虚を照らす厳粛なひととき、ついに信仰の鐘は煉瓦の山の上に美しい姿を静止した。私は身じろぎもせずその情景を見守っていた。
 はるかに、はるかに南の港の方から荒野を越えてかすかな鐘の音が聞こえてきた。あれは大浦天主堂の鐘だ。昔は六キロ離れたここまでは響かなかったものだが、町がなくなり林が払われたので音が届くのであろう。
「お告げの祈りをしよう」
と山田さんが言ってひざまずいた。青年たちもその場にひざまずいて、いっせいに、
「聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン」
 右手を額にやり、胸にやり、左の肩から右の肩へ動かして十字架のしるしをする。岩永君が鐘の玉につけたワイヤを引いて打ち鳴らした。
「カーン、カーン、カーン……」
 うやうやしい祈りがみんなの口からささげられる。
「主のみ使いの告げありければ、マリアは聖霊によりて懐胎したまえり……」
「カーン、カーン、カーン」
 鐘は幾年ぶりに浦上の丘の上を鳴り渡る。散在する小屋という小屋からは、まるで奇跡にでも会ったようにあわててキリシタンがとび出した。そしてあちらでもこちらでも、そのままその地面にひざまずいて祈りをささげ始めた。
「カーン、カーン、カーン……」
 神が人類を罪より救うため人の子となり給いし大いなる愛に対する感謝をこめて、
「しかしてみ言葉は肉となり給い、われらのうちに住み給えり」
 鐘の音のひびく極み、人々は涙にむせびつつ荒野に祈りをささげていた。
「天主のおん母聖マリア、罪人なるわれらのために今も臨終の時も祈りたまえ、アーメン」
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 つゆじもを置くころになって雑草がうら枯れたら、隣の庭さきのとうがらしが目をひくようになった。あれをみそ汁に入れたら味もひとしおだろうし、体もぬくもるのだが、と思ったら、ふっと欲しくなった。かわやに立って板戸をあけると、冬陽に映える赤光が目を奪って離さない。あれをこの庭さきに移し植えたら、荒涼たる情景がどんなに美しくなることだろう。夕方いわしの配給があったので、おろし大根にあの赤とうがらしをすりこんで添えて食ったら、とまた思い出した。なんとかして一房でも手に入れたいものだ。そう思ったら矢も盾もたまらなくなった。しかし私にも体面があるから、まさかとうがらし一房くださいと隣の娘に頭を下げて頼みにゆくわけには参らぬ。頭を下げずにうまくわが物にする手段はないか、といろいろ策略を練ってみた。小人閑居してろくなことは考えない。
 さて、夕の祈りになる。今日犯した罪を天主の十戒や七つの罪源など一つ一つについて吟味してゆくうち、「第十、なんじ他人の所有物をみだりに望むなかれ」のところで、赤とうがらしに突き当たった。あれは忌むべき罪ではなかったのか?──赤とうがらしが欲しいとふっと思うのは人情だから仕方がないとしても、それをそれまでであっさり思い切ればよかったものを、なんとかして手に入れてやろうと、よからぬ策略をあれこれ考えたのはいけなかった。
 他人の所有物をみだりに望んだために起こったいざこざは昔から多いものだ。日本軍がマレーのゴム、スマトラの油田、山西の石炭、インドの綿などをみだりに望んだその結果が今日のこの悲惨である。私だってあの赤いとうがらしが欲しくて欲しくてたまらなくなり、今夜こっそり盗みに出かけたりしたならば、おそらく目から涙の出るくらいのことではおさまらなかっただろう。
 ──それにしても、いっさいの欲をすてたはずだったわが心の底にこんないやしさが滅びずに残っていて、ともすれば芽を出そうとしているのを知って、わびしかった。
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 隣の嫁が里帰りの土産に塩魚をくれた。くろだいの生きのいいのを上手に塩してある。さっそく昼飯にいただこうと楽しみにして台所の柱にぶらさげた。飯の上にのせて、よいお茶を熱くいれ、ぶっかけてさらさらとお茶づけにしたら……ああ久しぶりのごちそうだ。配給の少ない焼け跡暮らしで代用食ばかり食べている今日このごろのこととて昼飯を子供といっしょに待っている。
 ところが十一時すぎ、ぞろりとご来客だ。池田氏夫妻が佐世保からわざわざお見舞いに来てくださった。汽車の旅はむずかしいのによく来られたものだ。ずいぶん多い人で切符をやっと買って、浦上まで立ち通しだったと言う。話はそれからそれへとはずんでお昼になった。台所でばあさんが食事の用意をしている。さて今朝もらった塩魚をこの遠くから来られたお客に差し上げたものか? それとも出さずにおいて晩に私と子供とで食べるか?
 池田氏はしきりにズルチンの話をしかける。私はそれに何かいいかげんな返事をしながら一ぴきしかないくろだいの塩物を出すか出さぬかでさっきから迷っている。あのくろだいは今私の家にある物のうちの一番よいごちそうである、いや近ごろこの焼け跡のどの家でもこんな魚は手に入れたことがあるまい、遠来の珍客に出さねばならぬ、しかし、出したら後がない、私も食えぬ幼児に久しぶりに魚を食わせようと思っていたのに、子供の喜ぶ声も聞かれぬ。
 台所の障子が少しあいた。横目を使ってみると、ばあさんが問題のくろだいを右手に差し上げて目くばせをして私にたずねている。私はこっそり首を横に振った。
 やがて何もございませんが……と言いながら、ばあさんが貧しい野菜料理を並べた、私もなにしろ焼け跡で万事不自由なものですからと嘘をついた。けれども池田氏夫妻は心から喜んで食べてくださった上、こんな野原で清貧な生活をなさっているのには感心しました、とさえ言った。
 ──その夜の食卓にくろだいは出て来たが、歯をむいて、私をののしっていた。その目玉が私をにらみつけているので、はしが震えてつけられなかった。
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「先生にはたいそうお世話になったことがございます、どうか今度こそご恩返しをさせてくださいませ」──こういって近所の人や何里も離れた村の人々が集まって来てこの家を建ててくださった。
「よい事はしておくものだ。人のために尽くしておけば、きっとよい報いがある。あの先生をごらん。ご自分は身動きも不自由な病人だし、家族といったら小さい子供が二人とそれにばあさんだ。それだのに焼け跡に早くもきちんとした家を建てて暮らしていなさる。あれは先生が元気だったころ、この近所はもとより遠い医者のおらぬ村々で無料診療をして、たくさんの貧しい病人を助けてやりなさったから、助けてもらった人々が寄り合ってお礼にあんなりっぱな家を建ててあげたのだよ。施す者には百倍の報いがあるとはよく言ったものだ」──私についてそんなうわさを世間ではしているそうである。
 なるほど私は十数年の間、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会の会員として慈善診療にしたがってきた。日曜ごとに長崎港外の島々や海岸の漁村、山の中の潜伏キリシタン村落をまわって貧しい病人に薬を与えたのだった。──このごろ病床についたきりで生活不如意な私を物質的に精神的に助け慰めてくれているのは、たしかにそれらの昔助けてあげた人々なのである。多くの戦災者が家がなくて苦しみ、食物が足らずに泣いているとき、こうして雨のもらぬ家に寝て、生命をつなぐだけの食物をまくらもとに並べていただけるのはそれらの人々のおかげである。
 世間の人はこのことを当然と考えている。のみならず善業をせねばならぬと子供に教える生きた手本だとさえ思っている。──ところが私自身は悲しんでいる、恥じているのである。
「人に見られんとして人の前になんじらの義をなさざるよう慎め。しからずば天にましますなんじらの父のみ前に報いを得じ。されば施しをなすに当たりて、偽善者が人に尊ばれんとして会堂及びちまたになすごとく己が前にラッパを吹くことなかれ。われ真になんじらに告ぐ、彼らはすでにその報いを受けたり。なんじが施しをなすに当たりて、右の手のなすところ、左の手これを知るべからず。これなんじの施しの隠れんためなり。しからば隠れたるに見給うなんじの父はなんじに報い給うべし。──なんじら己のために宝を地にたくわうることなかれ。ここには、さびとしみと食いやぶり、盗人うがちて盗むなり。なんじら己のために宝を天にたくわえよ。かしこには、さびもしみもやぶらず、盗人うがたず盗まざるなり。そは、なんじの宝のあるところに心もまたあればなり」
 ガリレヤの山上でイエズスはこう群衆に教え給うた。私は無料診療の報いをこの世においてすでに得て、焼け跡に家を建ててもらったが、天国にまだ宝を積んでおらないのだから天国において天にまします父より報いを受ける望みはなくなったのである。報いとして得たこの家、この寝巻きもあといくらの月日私の宝であるのやら──。私は天国へ行ったら素寒貧だ。今となっては善業をする体力もない。
 私は私の前にラッパを吹いたのだった。右手のなすところは左手どころか群衆に見せびらかしてやったものだ。教会の事業として、神のご光栄のためにと口では宣伝していたけれども事実は私の事業として、私の名誉のために行なっていたのである。教会の名を利用し、神をだしに使って私の名を売ったのだ。それのみではない。将来の百倍の報いをあてにして施したのだ。貧しい人々を訪れていろいろの親切を尽くしたかもしれないが、そのときの私の言動に、将来の報恩を期待する何物かがあったのではなかろうか?──なあに、困るときはお互いさまですよ。人間万事塞翁の馬、あなただって今に成功しますよ。私も落ちぶれることがないとも限らない。まあ助けられたり、助けたり、これが浮き世の人情です。──そんなことをきっと言ったにちがいない。
 さもしい根性だった。
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 エックス線透視室に私が入ってゆくと人品いやしからぬ老夫婦が立ち上がっておじぎをした。夫の方が一歩前へ出てものものしく初対面の口上を述べ、なにぶんよろしくご診察をお願い申しますると言った。ものを言うたびに白いあごひげが大仰に動く。村社温泉神社の神官が村医からの紹介状をもって大学病院へ出て来たところである。その紹介状によると──
 ──朝な朝な鎮守の拝殿で打ち鳴らすどうの響きがさえなくなったので変だなと思い始めたという。若いころには大した美音で朗々たるのりとは一の鳥居の外まで響いたものだそうだが、この秋祭にはなぜか腹に力が入らず、のりとの途中で息切れがして困った。神官が近ごろ急に弱まって来たことに氏子たちは気づいたが、多分ご時世のせいだろうと思った。神国日本大勝利を単純に信じこんで朝々早くどうを打ち鳴らし祈願を続けて来たのに、待望の神風が吹くどころか敗戦と同時に高天原たかまがはらはおとぎばなしの本性をあばかれ、皇室の横に座っていた神々は突き落とされ、おまけに神社に対する寄付を隣組で集めてはまかりならぬとのきついお達しを受けては、神官たるものの影もうすくならざるを得まい。敗戦の犠牲者は多いが神官はその中でも特別ひどい目にあったほうだろう。なぜと言ったって先祖代々自らも信じ村民にも信じさせていたご神体がなんら神通力をもたぬ物体に過ぎなかったことを証明されたのだから、拙者は間抜け者でござったと顔に書かれたようなもので、これでは村道もまぶしくて歩けない。精神的打撃にも増して経済的打撃はひどかった。これまではお上から年々お金ももらい、経費万端村から出してくれたので、質素ではあったが威厳を保ち得たけれど、これからは自力で食ってゆかねばならぬ。宗教としての温泉神社ははたして経営が成り立つものだろうか? あるいは職業を変えねばならぬかもしれぬが、こんな時にこそ相談相手になってくれる一人息子はビルマへ攻めて行ったきり便りも来なかった……。
 神官はやせ細っていった。しかし乏しい配給生活でことに闇などはできぬ身分だからやせるのも当たり前と考えられた。ところが、だれもひもじいひもじいというのに彼だけは一向にひもじさを感じなかった。一ぱいのいもがゆに満腹して別にそれ以上欲しくなかったので、これは久しい耐乏生活に胃袋が訓練された結果だと自ら信じた。だから氏子たちが、どうも近ごろは腹がへってやりきれませんと言うと、そりゃ精神力が足らんからじゃとたしなめた。そして恐ろしい胃病のために自分の食欲がなくなっているとは知らなかった。すなわち命取りの胃がんは腹の中で刻々大きくなりつつあったのである。
 さすが長年連れ添うてきた夫人の目は病気と見抜いた。食後の卓上に食い残しの皿が増したこと、食物の好みの変わったこと、これはただごとではない。夫人は心を決めてある朝、鏡を夫の手に渡した。神官はわが顔を見た。やせたことはすでに知っていたが、どきんと驚いたのはご自慢の白ひげがつやを失って、いやな灰色に変わっていたことだった。彼はあわてて腕を見た。皮膚は脂気を失ってかさかさとまるでへびのぬけがらを張りつけたようである──
 ──どこも悪くないと自分では思っておりますが、と言いながら神官は村医の診察室へ現われた。村医の指先は腹の中にかくれている岩のごときかたまりをすぐにさがし出した。──しかし、あなたは胃がんです、とは開業医はすぐに宣告するものでない。ちょっと胃が悪くなっていますなあ。まあ薬をあげてみましょう。ずっと続けて飲んでみなさい。それから身体が弱っておりますから今のうちにせいぜい滋養分をおとりになりませんか、と言った。神官は村医の言葉の中の今のうちに、と言うのがどんな恐ろしい宣言であるかも知らず胃薬を受け取ると晴れやかな顔をして社務所へ帰って来た。
 夫人は夫の口から聞いた診断がどうも納得ゆかず、こっそり村医の門を訪れて意外な宣告に打ちのめされた。胃がん、手術不能、余命あと百日、すでに手おくれで今は死を待つばかり……。病名を本人に知らせたら精神的に参って死期を早めるばかりだから、最後までかくし通しましょうとの話。──せめてビルマから息子が復員するまで生きていてくれれば……と夫人は思ったが、わが温泉神社にいくら願をかけたところでききめのないことが明らかとなった今では拝む気にもなれなかった。
 村医の門からとぼとぼと夕風の中を歩いてきた夫人がいきなり声をかけられて、はっと顔を上げると復員兵、しかもビルマでわが子と同じ隊にいた青年であった。夫人は復員兵の固い表情をじっと見つめていたが、どきんと胸をつく予感があった。彼の口の動くのが恐ろしくなって何か逃げ出したい気分になった。青年は何度か口を動かしかけてはためらった。夫人の顔は次第に硬くなった。青年の目からぽろりと涙があふれた。それで夫人はいっさいを知ったのである。
 あと三か月しかこの世にいない夫の耳に子の戦死を入れないでおこう。どうせあの世へ行ったら対面することだからと、夫人はとっさに心を決めて、青年に向かい口止めを頼んだ。それから村長の宅へまわって、公報が来ても役場であずかって知らせないでおいて欲しいと頼んだ。──けれどもこういう話はどこからともなく広がるものである。
 神官が死病にかかっていることも息子の戦死もいつのまにか村中に知れ渡ってきたので、この真相を本人に知らせぬただ一重の幕の役をつとめる夫人の心労は並たいていではなかった。ただ一言誰かが口をすべらせたら万事休すである。どこからか悔やみ状が一枚来たらおしまいである。本人は耳をもっている、目をもっている、しかもまだ脚が動くのでどこへでも出歩く。夫人は八方に絶えず神経を使わねば防ぎきれない。来客があれば取り次ぐ前に玄関でこっそり口止めを頼む。手紙葉書の来そうな時刻には門口に見張っていて、受け取ったらまずしらべてからでないと渡されぬ。訪問してゆきそうな先々へはあらかじめ出向いて注意をしてもらう。自分もまた心の涙を外に見せぬようつとめて笑っておらねばならぬ。このいわゆる神経戦にはほとほと夫人も疲れはてた。
 夫人の顔色はにわかに悪くなった。さすがに長年連れ添うた神官がそれを見逃すはずはない。ある朝彼は自分の白ひげのつやを調べたその手から鏡を妻に渡した。夫人はわが顔色の衰えを見たが、これは病気じゃなくて精神の疲れでしょうとうっかり口をすべらせて、はっとした。しかし単純な神官はそれを生活苦のことと解釈し、老妻を元気づけるため白ひげをしごいて、あははははと高笑い、なあに心配するのももうしばらくじゃ、息子がビルマから帰ったらすぐに嫁を迎えてわしらは菊でも作ろうよ、と言った。夫人はぐっと目の底から突き上げる熱いものを抑え、出ぬ声をしぼり出して夫の笑い声に合わせて笑った。
 ──どこにも悪いところはないと言ってはおりますが、と言いながら神官は夫人を伴って村医の診療室に現われた。村医の聴診器は夫人の身体から何の異常も聞き出さなかった。しかし神官は納得しなかった。村医はそこに絶好の機会をつかまえた。かねがね村医は何かよい折があったら神官を大学病院へ送って一度診察を受けさせたがっていたのである。いなかでは病人が死んだ時に、あれは大学へまで行って手当を受けたが駄目だった、と言われるとだれにも満足してもらえるのだが、ただ本人に死病と気づかさずに大学病院へ送るところに技巧がいった。村医は巧みにこの時提案した。──外から見たところでは別に異常はありませんがね、いかがですか、一つ大学病院へ行ってエックス線でよく診てもらわれたら……。そして奥様だけじゃなく、ついでにあなたも──
 ──こうして神官夫妻は私の診察室にやって来たのであった。私はまず神官の方を透視した。
 電灯が消える。まっくらな透視室。エックス線スイッチを入れる。さっと青く光る蛍光板。その上に瞬時にして人体の秘密は写し出される。一目見てそれとわかる胃がん。診断、予後、全く村医の意見のとおりである。──透視はすぐに終わって電灯がつく。透視台に立つ神官の骨もあらわにやせた肉体は絶壁に危うくかかる老松を思わせたが、梢にさがるさるおがせにも似た、白ひげに飲みこぼしたバリウムがべっとりついているのもわびしかった。老松は絶壁を下りてリノリウムに立つ、じゅばんを胸に抱いてあたためていた夫人は後からそれを心こまやかに着せる。私はそれを見ながら行末短い夫につかえる夫人の心を知った。
「いかがでしょうか?」神官はゆう然とたずねる。
「ええ……」私は口ごもる。
 大学は真理を扱うところである。ここではうそをつかぬことになっている。けれども今、何事も知らず、ゆう然と羽織のひもを結んでいる老神官に対して私は何と言ったらよいであろうか? 羽織のえりを直しながら夫人の眼は、お願いでございます、お願いでございます、としきりに神官の肩ごしに私に呼びかけている。
「大したことはありませんでしょうな? 村医さんもそう申しましたが」神官は無邪気に聞く。
「まさか胃がんなんかじゃありますまいな?」
「ええ」やっと私は血路をひらく。「村医さんのご意見のとおりでございます」
「そうでしょう。村医さんの薬はよく合うようでございますから……」
 神官は安心して足どり正しく透視室を出て行った。
 夫人を透視した結果もまた村医の意見のとおりで、別に異常はなく気疲れのせいだった。診察を終わり身づくろいを直した夫人は、それでも最後の希望を私の口に期待して夫の病状をたずねた。私は今度はあからさまに真相を打ち明けた。あと一か月したら食物が通らなくなり床に寝たきりになるだろう。そして激しい痛みが来る。皮膚が黄色になったら最期が近いと知らねばならぬ。最後の二、三日はすやすや眠ったままマッチの火の消えるようにしずかな大往生であろうと話した。夫人はいつの間にか腰掛けの上に小さくなって顔もあげずに聞いていた。涙の出た時の用意に白いハンカチを手ににぎってはいたが、最後の望みの糸もここに断ち切られ、千々に思い乱れては涙も出ないのであろう。さすがに神社という日本礼道の本家に暮らした夫人は取り乱したふうを見せなかった。しばらくして夫人はしずかに立ち上がり、ていねいにお礼を述べて夫の待つ患者控え室へ出て行った。
 私はそのまま透視室に居残り、あまりにも悲惨な神官一家の運命を思った。日本は負けたものの、国民は民主国家の再建という新しい目標に向かい新しい勇気と希望とをもって新しい一歩をふみ出しているのに、この温泉神社の一家は神国日本の夢とともに滅びゆくのである。しかもその責任は一家のだれにもなかった。神官だっておそらく彼の一生は朝な朝な着る白いひたたれのごとく清らかに、罪けがれは常に払い給い潔め給うて来たにちがいないし、ビルマへ行った息子にしても戦車にぶっつかって死んだというから正直者だったろう。こんな善意の人々の一家をこんなむごい目に合わせたものはいったい何か?
 夫は死に、子の骨は還らず、夫人は老いの身を荒れはててゆく社務所の片隅にちぢこまってこれから先幾年、夫をだまし、息子をだまし、日本をだましたあの八百万の神々を恨み続けのろい続けるであろう。だが八百万の神々は実在ではなく、元来架空の想像神である。彼女が恨まねばならぬ相手は真理を求めようとする勇気に欠けていた日本人自体である。──私はさっき夫人の座っていた腰掛けを見た。それはまるでどうの鳴らなくなった温泉神社みたいにひっそりとその場にあった。その腰掛けの前のリノリウムに白い物が落ちている。拾い上げてみたら夫人のハンカチであった。
 感情を表に現わさず、肩ひとつ震わさず、じっとこらえている日本の女の強さは軽い反感を起こさしたほどだったが、やっぱり女は女、手からハンカチのぬけ落ちるのも気づかぬまでに彼女の心は泣き狂っていたのである。私はこのハンカチをとどけて、もう一言しみじみと慰めてあげたい気持ちになり、患者控え室へ通うドアに近づいた。
 話し声がもれている。神官の声だけ、間をおいてはたたみかけるようにもれ聞こえる。夫人のほうは返事もせずにただすすり泣いている模様──
「──ね、心配するな。お前もたいした病気じゃなかったんだろう? ええ? そう申されたんだろう? ね、なぜ泣くんだ?──何も泣くことはないじゃないか。さ、元気を出しなさい、元気を。お前は元来気が小さすぎるんだよ。神経衰弱と申されただけでそんなに泣くなんて、おかしいじゃないか。──うむ、やっぱりそのくらいのことで泣くのも、その神経の衰弱したせいにちがいない。──私を見なさい。精神力だよ。ねえ。お前があんなに心配してくれた私の胃病だってたいしたことはないと博士さんが保証してくださったのだよ。もう大丈夫だ。エックス光線で腹の奥まで見てもらったんだからな──」
 神官はしきりに無病の夫人を慰めている。夫人は夫を慰めるわけにゆかぬ。
「はい。私、元気を出しますわ」ようやく彼女は一言答えた。
「そうじゃ、そうじゃ。元気を出してくだされ。二人ともまだまだ死なれんからのう。息子の無事な顔を見るまでは……」
「…………」
 私はそっと引き返し、ハンカチを看護婦に渡して、あとで夫人へとどけておくれと頼んだ。
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 あれから一年たちました。しかし一年たったとは思われぬ、なまなましい記憶でございます。朝戸をあくれば眼に入る灰の丘に夢ではなかったと嘆き、夕風とともに死骸のわからぬうちの子がひょっこりどこからかただいまと元気よく帰って来そうな気がして星光の冷たくさす夜更けまでいたずらに入り口をあけて待っております。空をゆく雲、茂る青草、丘越ゆる道、野をゆく水、何ひとつ思い出の種とならぬはなく、麦を刈れば思い、芋を植えてはしのぶ。後ろ姿の似た老人をいつまでも見送り、同じ年頃の子を見れば泣き、明けても暮れてもただ思い出の涙のうちに、この一年は夢のごとく過ぎ去りました。
 聖母の被昇天の祝日の前の告解の最中に、この聖堂の中において、美しい最後をお遂げなされし西田神父様、玉屋神父様。神父様方こそ司祭として、まことの死所を得給いしものと言うべく、汚れなき小羊として選ばれし多くの霊魂を率いて天国にご凱旋遊ばされたるものと私どもは信じております。
 当時浦上原頭たるや満目荒涼、灰と瓦と石垣のみの廃虚。白日こうこう骨を照らし、夜風しゅうしゅう瓦を泣かしめ、煉瓦の山と化したる天主堂に、夜はかすかにとぶ蛍。人声絶えたる焼け跡にわずかにすだくこおろぎ。防空ごうに仮小屋に、迷える羊のごとくぼうぜん自失した私ども生き残り信者は、ただ涙に時を流してなんらなすところなく、浦上教会全滅の言葉は、まさに事実とならんとしておりました。
 しかるに今日、天主堂はかくのごとくほとんど完成し、ここを中心に信者部落は焼け跡に小さいながら復興しております。朝空高らかに響く再建の槌音、夕畑に遅くまで農耕にいそしむ人影、お告げの鐘は昔ながらの懐かしき響きをつたえ、ミサにあずかる信者の数は日曜ごとに増しつつ、やがて浦上は世人の予想をはるかに越えて速やかなる復興をなし、たちまち昔日の浦上教会をふたたびつくり、さらに大いなるキリスト王国建設に進みゆくばかりの勢いを示すに至りました。この驚嘆すべき変化、この底知れぬ力は何より発したのでございましょうか。主任司祭中田神父様の高遠な理想、実践的な計画、万難を排する熱、純粋な信仰の扶殖、灰の中に信者とともに泣く愛を教会活動の源泉となし、浦上大工左官組合の犠牲的作業、聖マルタ会、青年会、聖母の姉妹会の連日の勤労奉仕と祈祷、そのほか一般信者の霊的、物的財的奉仕、これをまとめる宿老教え方と努力などを教会復興の一点に向けて昼夜兼行つとめたこともたしかに大いなる力であります。
 しかしながら私どもは私どものこの努力のほかに何か目には見えぬ大いなる力が加勢しているのを感ぜずにはおられません。否むしろこの目には見えぬ力こそ浦上復興の原動力であり、私どもの努力はこれにわずかに添えられたるものに過ぎぬと思わざるを得ません。この大いなる力こそ、取り給いしにより与え給うわれらの神、そのみ業のつねに賛美せられ給うべき全知全能のおん父より出ずる力ではございますまいか。地上において神より愛される村や町は多けれど、わが浦上のごとく深く神に愛さるる村はありますまい。数々の殉教、不断の迫害、原子爆弾。これらは皆やがて教えを異にする者にさえ、神の光栄を世に示すための試練であったことを悟らしむるものであり、その尊き神の光栄を実現する神聖なる土地として選び給うのが、いつも浦上であることを知らしめ給うのであります。
 浦上を愛し給うがゆえに浦上に苦しみを与え給い、永遠の生命に入らしめんがためにこの世において短きを与え給い、しかも絶えずみ恵みの雨をこの教会の上にそそぎ給う神に心から感謝を献ぐるものでございます。
 神の御力によらず、ただ人の力のみをもってしては復興のできぬということは異教徒の多く住んだ町々の焼け跡にまだ一軒の小屋も建たず、夏草の荒るるに任せてある状況をいちべつしても明らかでありましょう。浦上一万戸のうち現在復興したのはわれわれ信者のみであり、しかも浦上の信者はほとんど皆焼け跡に帰り来たって、聖体の中にまします唯一の神のみ前に集まったのでございます。朝に夕に浦上復興を祈る私どもの声を神さまにお取り次ぎくだされるは聖母マリア、聖ヨゼフ、聖ペトロ、聖フランシスコ・ザベリオ、日本の殉教者をはじめ諸聖人でございましょうが、さらに西田神父様、玉屋神父様が、同じ日同じ時、同じ町にて肉体を離れた多くの美しき霊魂とともに親しく神のお耳近くでお願いしていらっしゃるように思われてなりません。親に甘える幼な子のごとく、キリストのみ胸にもたれしヨハネのごとく、またはキリストのみ足もとにひれ伏したマリアのごとく、神さまに浦上教会復興をおねだりしていらっしゃるのが目に見えるようでございます。浦上復興のため働いているのは地上生き残りの信者よりはむしろ在天の霊魂ではございますまいか。私どもはむしろその弱き人間性よりいずる不精と怠惰と欲情と利己心と世間的体面に災いせられて、神のみ業、諸聖人の通功の妨げをしているのではないでしょうか? 昨秋合同葬の際に私どもは神父様をはじめ多くの霊魂に誓い、天国よりのお助けをこい願いました。しかるに弱く罪深き私どもは今日ようやくかくのごとき姿であって、ことに霊的教会の復興が物的復興よりもいちじるしく遅れていることを自覚せざるを得ないのは申しわけなき限りであり、自ら省みて恥ずる次第でございます。
 あわれみ深き神はかくも浦上に祝福を下し給い、ローマ教皇聖下はまた特に浦上のために祈り給う。米国をはじめ世界中より大いなる同情が浦上に集まりつつあることは、わが国において神の教えが公に自由を獲得したのみならず、宗教を司る文部大臣をはじめとして最高指導階級に信者が任命せられ、日本における神のみ国建設の第一礎石をすえたこととともに、いずれも西田神父様、玉屋神父様以下多くの尊い犠牲の賜物でございまして、そのいさおは長く教会史にかおることでありましょう。
 あれから一年たちました。八月九日という忘れ得ぬ日付はさらに来年めぐり来るでありましょう。これからの一年、さらに次の一年、この一年一年の階段をわが浦上教会はいかなる姿を示しつつキリストの王国に近づくのでございましょうか? 私どもの責任また実に大いなりと言わざるを得ません。こい願わくは在天の西田神父様、玉屋神父様、並びに諸々の浦上信者の霊魂、さらに神にお願いして浦上教会復興の力を下さしめ給うように。私どももまたこの困苦欠乏の原子野に苦難を忍び償いをはたし、やがて天国において相会う日をたのしみに霊的並びに物的教会復興に力をつくし心をつくして働こうと思います。
 願わくは死せる信者の霊魂天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを、アーメン。
(昭和二十一年 八月九日慰霊祭祭詞)
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 工場の焼け跡にちらばってる歯車みたいだね君は。水雷の部分品らしいが、今は何の役にも立たぬものと見えて、ばらばらに投げ出され、ただ雨露にさびゆくばかり。全体がばらばらになると同時に自らも無力となってしまったんだね。全体主義国家が崩壊しそのきゅうくつな統御から解放されて君は自由を得たはずだったが、君は自由にそこにねころんだまま、一人で立ち上がるすべも知らず、激しい時代の風雨にいたずらにさびゆくのではないかい?
 君は全体主義の犠牲者だねえ。令状一本で特攻隊に呼びつけられ、好むと好まぬとにかかわらず一つの型に切られ、全体の機構の一部分で何もわからずにくるくる回らされていたんだなあ。おまけに幼年学校派哲学の「無我」を吹き込まれてさ。無我というのは我を無くすことだ。まず我を発見し、我を完成し、この大いなる我をふたたび無くすのが無我の本道だ。ところが幼年学校出の指導者は我の発見以前に無我を主張したんだよ。つまり我を無くすのじゃなくて最初から我を無視した。言いかえるとてんで我が無いのだ。個人の価値が無視されたのさ。兵隊は一銭五厘の葉書一枚で来ると言って、まるで年賀郵便でも出すように兵隊をふたたび帰らぬ戦線へ送り出したものだ。
 そして君自身もその哲学に酔わされ、身はこう毛より軽しという言葉の内容をはきちがえ一銭五厘ぐらいに我を評価していたんだろう。
 国家の興亡、天下の騒乱、身辺で狂号する有象無象、いっさいの感覚世界を離脱して、永遠の境地にどっかと座っている我を見出し給え。この見えざる世界において真理の光に一度照らされ給え。万事はそれからだよ。
 君はきっと泰山よりも重く風よりも自由なる我を発見する。この大いにして自由なる我を完成するんだ。完成されたる我をふたたびこう毛よりも軽くするんだ。そういう人が集まってはじめて民主主義の社会ができるのだよ。
 まあ今日の世間を見給え。こう毛より軽い連中が集まって民主国家をつくると騒いでいるが、まるでところてんで家を建てるようなものだ。一本立ちすればぶるぶる震える骨なしだから、一人の田中という男に会うために何百人も徒党を組んで赤旗たてたりなんかしてデモをやったうえ、いざ会見となると何十人も手をつながなきゃ文部省の門をくぐれないんだ。勝海舟が草葉のかげでしかめ面をしているよ。天下りはごめんだ。下から盛り上がる力を結集してやると口では叫びながら、一方では中心人物や指導者を探しているんだからね。こんな連中に任せておいたら、軍閥の代わりに勤労階級出身の独裁者をかついでナチスドイツの二の舞いをするようになるかもしれないよ。だって彼らのやり方は相変わらず全体主義だもの。なにしろ焼け跡にちらばった歯車である限りだれかが集めて組み立てて動かしてくれなきゃ回らないんだからな。
 全体主義のかすをいっさい取り去って民主主義に切り換えるためには一人一人が単なる部分品ではなくなることがまず必要だ。一人一人が一つの独立した機械にまで大成して、一つの工場の中で有機体的な作業を営むというふうにしたいものだね。
 我の発見! これぞ君が今日ただいまよりなさねばならぬ大仕事だ。「おれは何だ!」この命題を命にかけて考えてくれ給え。日本再建のかぎを握っている若い君に特にお願いします。
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 科学の進歩は人類に幸福をもたらすのか、それとも不幸をもたらすのか? とのおたずねはもっとも千万なことです。科学者は結局戦争に役立つ物を発見発明したばかりではないか? とあなたはおっしゃる。なるほど火薬も航空機も電波も原子力も、そのほかありとあらゆる科学者の発見発明がこの戦争に応用されはしました。そしてまた科学者は国家から動員されて戦争に協力をさせられました。しかしながらそれだからといって、科学者が戦争という人類最大の不幸をさらに大規模にするために研究しているのだと断定していただいては悲しいことです。
 一発の原子爆弾は私の周囲をご覧のとおり破滅におとしいれました。しかし私はこの原子力利用の基礎を築いたキュリー夫人が、まさかこんな事件を予想しつつ放射能の研究を始めたのだとは信じません。ノーベル晩年の苦悩はあなたもよくごぞんじです。おそらく原子爆弾の完成に当たった科学者たちも朝夕の祈りに長崎の駅を思い出し、胸を打っていることでしょう。罪は科学者の上にはありません。
 原子爆弾は人類に向かって宇宙にはまだまだ大きな利用資源が隠されてあるよと教えました。
 石炭がなくなり石油がなくなれば文化は行き詰まりだと悲観していた人類は、あのピカドンで全く新しい未開の沃野に飛びこんだのです。燃料、食糧、動力などの資源と、国土と人口との調節について、各国の政治家はこれまで外交と戦争とにその解決を求めて紛争を続けてきました。原子力の利用は彼らの紛争の種の大部分を解消しそうな予想がされます。
 研究さえすれば人類の生活を快適にする資源は意外なところから続々取り出されて来るのです。例を一つ一つ上げるまでもなく、この半世紀間におけるあなたの身辺の変化を見まわしなさればすぐわかります。そしてこの勢いで進めば、結局衣食住については実に快適な生活ができるにちがいないと確信することができるでしょう。そんな世界になったら人類はどんな問題を考えるでしょうか?
 いま多くの民衆は衣食住の不足に悩んでいます。したがってだれも衣食住の問題つまり肉身保存について頭を占領されています。だから霊魂の問題など考えてみる余裕はない状態です。共産党なんかは人民に霊魂の問題を考えさせないようにするため、わざと衣食住の不足な状態に人民の生活程度をおさえています。もし彼らに充分な衣食住を与えたら、もう肉身保存について頭を使わなくなるでしょう。そして必然的に霊魂について深く考えるようになります。
 科学者は、人類が肉身保存について苦労しないですむ世界をつくろうと念願しているのです。物質文明は精神文化を妨げると非難する声も聞きました。それは認識不足です。物質文明は精神文化をして全く後顧の憂いなく発展せしめるための基礎工作です。
 大学の教授会においてすら食物の話に真剣な今日のありさまを見るにつけても、科学者は大急ぎで勉強せねばならぬと思います。
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 これはまあみごとに咲いた桜を──小屋吹きぬける風が急に暖かくなったようだ、ほんとにありがとうございました。荒野に二度目の春はめぐってきたものの、見渡すいずこに花のかげを認められましょう。こうして病いの床にねたきりの私はすっかりあきらめていたのに、これで天下の春をわがものにしたような気持ちになりました。やがて散る日には散るにまかせて花にうずもれて眠りましょう。
 学校のほうはいかがですか。ああそうでしたね、これから男女共学になるので、いろいろ新しい問題が起こっているわけですね、それで性教育について話してくれって──
 そうですね、じゃあ、考えながらお話しいたしましょう。日本で性教育を行なっている公立学校は全国至るところにありますが、ごぞんじですか? その学校以外では行なっておりません。青少年は自由にそこに入ることができます。また興味をもってたびたび行く者もあるようです。もうお気づきになりましたろう。──公衆便所、ね。
 街角や駅にある小さな個人教室。壁一面の講義録。実にきたない公立学校だ。解剖図、説明文、彫刻、縦書き、横書き、斜め書き、ペン、鉛筆、小刀、爪、名文あり、警句あり、わけのわからぬのもある。よほど忙しかったらしいなぐり書きもあれば、何時間こんな臭いところにこもったのかと、あきれるほど丹念な彩色もある。黒ペンキで塗りつぶせば白墨で書くし、タイル張りにすればわざわざ紙を張って講義する熱心な教師は、どこより来たり、いつの間に書きどこへかくれるのでしょうか? ──いやはや驚くべき日本の性教育家!
 彼ら無名の性教育家はそろいもそろって変態性欲患者ですよ。精神異常のいわゆる変質者ですよ。それはあの落書きを一目見ればわかります。──自分の最愛の子供らの一生の運命を左右する重大な性の教育を、そんな変態性欲患者に一任しているのですよ、日本の親は、学校の先生は。青少年は公衆便所以外のどこで性教育を受けることができますか? まるでめちゃくちゃだ。
 その結果はいかがです? ──日本人の性道徳観にはっきり現われているではありませんか? めかけをかこい、芸者買いのできぬような男は役に立たぬという社会、女郎に身売りすることを大きな孝行とほめる浪花節。邪淫を犯した男女の心中の芝居に熱狂する市民。公娼禁止法が定まっても女の名称を変えて依然繁栄する色街。それをまた名所として宣伝する観光局。などなど……これみな公衆便所学校の卒業生が構成している社会だからです。
 まず、私らの子供をかのおそるべき変態性欲教師の手から解放救出することが急ぐべき仕事です。性の問題を公衆便所から奪回することが急ぐべき仕事です。性問題を便所に放置したために大きな誤解を日本人が抱くようになりました。それは「性」は便所にふさわしい問題だという考えです。言いかえると、けがらわしいもの、いやしいもの、下品なもの、恥ずべきものだとしている常識です。──あなたもそう思ってるほうじゃありませんか?──おや、くすくす笑っていますね。それがまちがい。笑うべき問題でもないですよ。性の本質について、もっとまじめに考えなきゃいけません。それはあなたが今ここにいるという事実を考えただけでもわかるはずです。あなたが存在している。この世に生まれ出た、というのはあなたの父母の性のいとなみの結果でしょう? あなたはこれを笑いますか? これをけがらわしきものとして、さげすみますか? 父母の子たることを恥じますか?
 あなたの体は尊いものだ。潔いものだ。尊いものを産んだ行為は尊いはずです。潔いものを造った場所は潔いはずです。
 ごらんなさい、今あなたが持って来てくださったこの花を。桜の木において最も美しいのは、この花ではありませんか? 花はすなわち性器です。夏の葉桜、秋の紅葉、冬は枯れつつ地味な桜は、性のいとなみなすをわずか五日か十日の間だけ、かくもうるわしく、かくも気高く装うのです……あれ、あそこに揚羽ちょうが舞っています。美しい羽をひらひらさせながら、そら、舞い下ってゆく。どこへおりるのかな。ああいます、ほら、菜種にとまって、もう一羽の揚羽が。パタリパタリ美しい羽をひらいて招いている。ね、美しいですね。さんさんと照りそそぐ春の陽をあびて、虫どもの公明正大な性行為は。──揚羽ちょうの一生をごぞんじでしょう。卵、青虫、さなぎ、どれも地味な、美しくない姿ですね。ただ性をいとなむあの、ちょうの期間だけあんなに美しく装うのです。動物も植物も性をいとなむ時期のみ特別に美しくなります。花咲き、鳥歌い、虫おどる春の美しさは、つまり性の美しさなんですよ。
 人もまた同じ、青春の美しさ、あなたのような青年の美しさ、潔さ、尊さ、昔から幾千幾万の画家が、彫刻家が、文学者が、また音楽家が、青春男女の美をうたったことでしょう!
 性に伴う青春の美しさは何ものに由来するでしょうか? 唯物論を奉ずる生物学者は、異性をひきつけるためだと言います。もし単にそれだけならば、各生物は自分で好きなように工夫することができるはずです。
 ところがあの揚羽は自分勝手にその羽に一点の模様をも増すことはできぬのです。若い女はくちびるの色を思うままに赤く変えることができぬのです──この美は被造物たる生物の力で生み出すものではありません。造物主たる神が、性を祝福して与え給う特別のお恵みなのですよ。青春の美は神に由来するのです。ではなぜ神は特別に性を祝福なさるのでしょう?──それは新しい個体の創造をする大業だからです。
 神は何のために人をこの世に生まれさせなさるのでしょうか? それは第一は神のご光栄のため、第二は人の幸福のためであります。ですから人の生まれることは特別の祝福を受けるわけです。
 こんな祝福された性を公衆便所のごときところに放置しておいて相すみますか? こんな重大な問題を変態者の手に委任しておいていいと思いますか?
 神の思し召しに関係する事柄ですから、それにふさわしい高く潔いところに引き上げねばなりません。かりそめならぬ大切な問題ですから、正しく思慮の深い人の手にその教育を頼まねばなりません。
 それにしても日本人のほとんど大部分の人が生殖と性欲とを切り離して取り扱っている現状はなんという嘆かわしいことでしょう。生殖という重大な目的を達するために性欲があるのです。ところが性欲を単なる享楽に用いている者が多い。性欲だけ満足させて、子供なんか生まれなきゃよいと思っている夫婦すら多い。結婚の目的の第一は子供を生むことであるのに、これは本末まるで反対です。中には、楽しんだ報いとして子供を生み育てるような辛い目に合わねばならぬのだと考えている者もある。でたらめですねえ。昔ローマの貴族たちが腹いっぱい美味珍酒をつめこみ、入らなくなると吐き出して胃を空にして、またも山海の珍味を飽食して、ただ食欲の満足、舌の快楽のみを求めた話がありますが、それと同じ愚かさを性欲の方では現代人もやっているわけですな。
 やみの女の問題や遊郭がやかましく論ぜられるのも、単に性病だとか風俗とか経済の面から取り扱われることが多く、もっと深い性の本質の点から考えられる場合は少ないようです。遊ぶのはいいが病気だけはもらってくるな、と息子に教える母親がいるんですってね。
 純潔こそは家庭の平安の基礎ですよ。純潔を守ってきた男女が神によって配せられてつくった家には特別のお恵みがあります。純潔を失った人々のつくる家の中には絶えず暗いかげがちらついています。一時の肉的興奮にうち負かされたために、長い一生暗いかげを背負って暮らすとはなんという愚かなことでしょう。
 このいただいたさくらの花を見ると、おのずから純潔が連想されます。性は元来純潔を要するものなのでしょう。あなた方青年はいま神から特別に祝福されているのです。それを感謝しなければなりません。そうして神の思し召しにそうように霊魂も肉身も潔く保ってくださいね。
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 多比良町の婦人会に私は話をしに行った。ひと月まえに長崎市で開かれた県主催の講習会で顔見知りの幹部のおばあさん方が駅に迎えに出ていて、先日のお話をこの町の婦人にもぜひ聞かせていただきたくて、とあいさつなさった。
 会場は町をはなれた寺だった。客間に通され、正式のあいさつがすむと、おばあさん方は開会の準備がととのいましたらご案内いたしますから、それまでどうぞごゆっくり、と言って出て行った。白い大障子を開けたら青い海だった。
 あまり青い海だったので見ているうちに私のまわりはすっかり青くなってしまった。その青さの中を美しい多比良がにが幾千となく幾万となく、ゆらりゆらり泳いでゆく。私はそれに見とれて、なるほど秋空は青いから赤とんぼが生まれ、有明海も青いからこんな美しいかにが生まれるのだなと思ったりしていた。そんな状態にあったので、「どうぞお茶を──」の声にふりむいた目の前に、手織り木綿のかすりもにおう乙女が涼しいほおえみをたたえて手をついているのを見てつい「あら、乙姫さま」と私は言ってしまったのであった。
 乙女はみるみる赤くなった。その赤い首とこんがすりとの間の細い白えりが鮮やかにも美しいものと私の目には映った。乙女はしばらくもじもじしていたが、静かに一礼して立ち去った。後に残されたものは一ぱいの玉露と清焼すがやきのはちに山と盛られた丸ぼうろ。
 幻とうつつとの間に座って私は玉露をすする。そしてたしかにあの乙女は青い海から上がって来て、このお茶をおいたのだと思う。丸ぼうろを手にとる。今どき、こんな大きなお菓子がある所は幻の世界だけである。口に入れてみたら、昔の丸ぼうろだった。一つ食べ、二つ食べ、三つ目に手をかけたとき、長崎の家で今夜私の帰るのを待っている幼児を思い出した。ほんとうの砂糖と卵とメリケン粉で作ったこんなお菓子をあの子たちは生まれてからまだ見たことさえない。私は風呂敷を広げ、汽車の中で食べたおにぎりの竹皮の中へ、丸ぼうろを移した。清焼のはちの中に二つ残して──
 お話が終わって私が帰ろうとすると、幹部のおばあさん三人が、ぜひ駅までお見送りさせてくださいと言って、連れ立って寺の門を出た。今日の会の効果などを語り合い畑の間の道を歩いているうちに、私は三人のおばあさん方が何か特別話したい要件をもっているのを感じた。三人たがいにひじを突き合ったり、目くばせをしたり盛んにやっている。畑はまさにつきて道は町に入ろうとする。とうとう右側の会長さんが口を切った。
「先生に丸ぼうろがお気に入りまして、たいそううれしゅうございます」
 私はぎくりとした。風呂敷包みの重さが急に手に感じられた。そこですぐ白状すればよかったのである。しかし、人間である私は答えた。
「ええ、あんなおいしいお菓子は何年ぶりだったものですから、つい腹一ぱいいただいてしまいまして──。あっはっはゝゝ。はち一ぱい平らげたお客ははじめてでしょうなあ」
「お口に合って接待係も喜んでおりますよ。このあたりは砂糖の産地でございますので、作ろうと思えばいくらでもできます。大人でも欲しいと思うほどですから、子供はなおさらでございましょう。──あのう──」
「はあ」
「先生のおうちでは──お子様のおやつなど、どうしていらっしゃいます?」
「まあ、芋──なんかやっていますね」
 すると急に三人のおばあさんは足を止めた。それから、あわてて私の足に合わせてまた歩き出した。左側の副会長さんが叫んだ。
「あらッ! 先生お子様がおありで?」
「ええ、二人います」
 三人は押しつぶされたように黙りこんだ。私は何がなんだかわけもわからず、重い丸ぼうろの風呂敷包みが気になって気になって、この次にはいったい何を言い出されるかとびくびくした。
 重い気分から抜け出したくてたまらぬもののように声を出したのは、会計のおばあさんだった。
「会長さん。それじゃあお子様のおみやげに丸ぼうろを少しおことづけいたしましょうね?」
「ええ、そうしてくださいな」
 会計さんは苦しいガスの中から脱出したとでも言いたい走り方で町の方へ行ってしまった。
 突然、会長さんと副会長さんとが、声高々と笑い出した。そして笑いのために足が動かなくなって立ち止まった。
 私はポカンと風呂敷包みをぶらさげて立っていた。潮鳴りが、ザアッザアッと畑をこえて聞こえている。それはまるで聴診器で聞く心臓音のようだ。海の生物の心臓はみんないっしょに動いている。その幾万幾億とも数知れぬ心臓が一時に動くので、その心音が集まって、ザアッザアッと鳴っているのだなと思う。あのお茶を持ってきた海の乙女の心臓もあの周期で鼓動しているにちがいない。
「先生、うふふふふ。乙姫様はお気に入りました?」
「あのお嬢さん?」
「ええ」
「いいお嬢さんですね。海から上がった幻かと思ったのですが──この町のお方?」
「はい。町の旧家のお嬢さんですの──実はねえ。先生。うふふふふ」
「はあ──?」
 二人のおばあさんはもう一度笑って、目の涙をふいた。
「実は、白状いたしますが、あれはお見合いのつもりだったのでございます」
「見合い?──私と?」
「はい。先生があんまりお若く見えましたので、まだおひとりだと思いこんでいたものですから──」
「おやおや!」
 こんどは私が笑い出した。三人は立ち止まり声をそろえて笑った。
「こんなに白髪が生えているのですぜ」
「でも、長崎の講習会で講壇に立っていらっしゃるときには、白髪は見えませんでしたもの──」
「夜目遠目かさの内ですよ」
「遠目ぼれでしたわねえ」
 町に入って、もと菓子屋だったらしい店がまえの家の前に足をとめた。中では会計さんが丸ぼうろの紙包みをつくっていた。会長さんが店の外から大声で話しかけた。
「いまね、すっかり白状しましたよ」
「それはよかったですね」
「どうも私が軽はずみでしたわ」
「それにしても惜しいことでございましたね」
「先生をこの町へ引っ張ろうという大陰謀が台なしになってしまったんですもの」
 みんなまた声を合わせて、朗らかに笑った。私も白状せねばならぬ風呂敷包みをぶらさげているのである。それを言い出そうとすると、会計さんが紙包みにひもをかけ終わって店から出てきた。
「あら、風呂敷をお持ちでございますね。ちょうどよい。ちょっとお借しくださいませ。この丸ぼうろを包んで差し上げますから──」
 丸ぼうろはすでにこの風呂敷の中に入っているのである。白状する機会は永久に去った。かくなったからには、うその上にうそを重ねて、ぼろを出さぬようにせねばならぬ。
「いや、この風呂敷は小さくて、とてもそんなにたくさんのおみやげを入れることはできません」
「でも、こんな紙包みをぶらさげなすっては、先生の体面にかかわりますわ。さあ包んで差しあげましょう。ちょっとその風呂敷をお借しくださいませ──さあ」
「いや。このごろは先生の体面も何もありません。結構です。そのままいただきます」
「ご遠慮いりませんよ。ちょっとお借しくださいませ。包んで差しあげますから。先生、さあ」
「いや結構です。どうぞ、そのままお渡しください」
 私は汗だくである。先生の体面にかかわる一大事である。風呂敷を右手にまわせば、右側の会長さんが、手を出す。左手に持ちかえると、左側の副会長さんが取ろうとする。前面には会計のおばあさんが、猫のごとくねらっている。先生の体面として、まさか風呂敷を背中にかくすわけにもゆかぬ。風呂敷は私の両手の中にあって、今や世界中の罪をみんな集めて包んでおるかのように重くなった。
 丸ぼうろを病気見舞いにいただいて、元気だった昔を思い出した。いまは床についたきりなのであんな悪い事もできない。善い事はなおさらできないのである。
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「タカシャッポは死にそこねだよ。その頭が、もうひとまわり太かったら、この世の光を見なかったんだ」
 新道のお鉄おばさんのところへ行くたびに小母さんは細長く、いびつな私の頭をなでては言うのだった。大学生になってからは頭こそなでなかったが、いびつな私の頭を、こう少し反り身になってつくづく見上げるようにして、
「隆ちゃんも偉いものになったものだねえ。死にそこねだったがなあ、その頭がもうひとまわり太かったらとても生まれて来れなかったものを」
と言った。お鉄おばさんは私が医者になって三年目に亡くなった。亡くなる前に会ったとき、
「死にそこねのあなたから、私の死脈を握ってもらうなんて、まあ人間の寿命はおもしろいもんだ。おツネさんが生きていたらさぞ……」
と昔を懐かしがった。おツネさんとは私の母でお鉄おばさんのいとこにあたっていた。母はそれより五年前にすでに亡くなっていた。
 父は松江の田野という婦人科病院の代診をしていた。湖にのぞむ大きな病院だったが、父母はその中門のひと間に貧しく暮らしていた。初産だったので、世話好きのいとこのお鉄さんが付き添っていた。父はちょうどそのとき往診に出て留守だった。陣痛が強くなって破水が起こり、胎児の頭は産道にのぞいたが、それっきりひっかかってしまったのである。母はそう小柄な体でもなかったが初産であったのと、生まれる前からのんき者だった私が少し長く胎内にねころんでいるうちに太くなり過ぎたせいだった。何時間待っても頭が半分のぞいたきりでこの世へ出て来ない。このままに放っておいたら赤ん坊はもちろん、母体も危ない。病院長先生はいよいよ器械で切り出すことに心を決めて、お鉄おばさんにそう告げた。看護婦が頭の骨を割る器械や、切る刀や、ひき出すかぎなど、ぴかぴかするのをそろえて持って来た。私の生命はまさに風前のともしびである。しかし私はそんな騒ぎが母の腹の皮一重外に起こっているとも知らず、ゆう然と産道にはさまっていた。すると、母が、ちょっと待ってください、いま夫が留守ですから、とことわった。これは私一人の子供ではございません。夫とも相談の上で手術をするか、せぬかきめてくださいませ。痛みと苦しみとにさいなまれていながら、しきりに頼んだ。そんなことを言ってぐずぐずしているうちに、心臓が弱ってあんたも死ぬよ、と病院長先生がしきりに主張するけれども、母は、とうとう承知しなかった。この子の脚はまだ腹の中で動いています。この子はまだ生きています。生きている私の子供を殺すのはいやです。母は苦しい息の中から叫んだ。
 病院長先生も母の強情にあきれ、少しは心中おだやかならぬものを感じたのか、すいと本院の方へ引き上げてしまった。お鉄おばさんは気が小さいものだから、おろおろするばかりだった。寛さんはどこをうろうろしているんだろう。こんな日に往診なんかに行かなくてもよかろうに。往診したらさっさと帰って来ればいいのに、家内も子供も死にかけているのに、おツネさん、ほんとうに大丈夫かえ? ぐちやら泣き言やら、心配やらで、ただ立ったり座ったりするばかりだった。
 おツネさんは足軽の子だったが、もともと腹のすわった人だった。娘のころ強盗が押し入って大刀を突きつけたことがあった。おツネさんは、起き上がると、ちょっとごめんくださいと室を出た。強盗は背に刀の切っ先を突きつけたままついて来た。おツネさんはゆうゆうとはばかりに入ってしまった。強盗は外でぶつぶつ言いながら待っている。やがて、お待たせいたしましたと出て来たおツネさんは室に帰り、小だんすを開け、ひとたばの紙幣を取り出し、一円、二円、三円、四円と数え始めた。強盗は、数えなくてもいいからさっさとよこせっ、と刀を肩に当ててせき立てるがおツネさんは二十五円、二十六円とゆうゆう数え終わって、さあどうぞ、金高に間違いないか、おあらためくださいましとあいさつしたものだ。強盗のほうがもじもじして、あわてて引きあげた。あくる日強盗はすぐ捕らえられた。紅のついた紙幣をつかったので足がついたのである。おツネさんははばかりに入って、口紅をつけておいて、指先をくちびるでしめしては一円、二円と数え、紙幣一枚一枚に紅をくっつけておいたのだった。
 そのおツネさんだったから、母子二人の命の瀬戸際にありながら、油汗を流してゆう然と自然に生まれるのを待っていたのだった。子供は神様が生ませるために胎内にやどらされたものだ。生まれぬはずがないと信じていた。これまでにない烈しい陣痛が起こった。気が遠くなるほどだった。象の子を生むのじゃないかしらと思うほどだった。もう最後だ、五体が破裂すると思ったとたん、ボトン──といっさいの苦痛が消えた。
 しかし母はいくら待っても産ぶ声を聞かなかった。生まれでた赤ん坊をお鉄さんが取りあげてみると、長い長いへちまのような頭がいびつに曲がっていて、死んでいるのか生きているのか、つきたてのもちみたいに手の外に手足がぐんにゃりとぶらさがった。お鉄さんは、あわてて、赤ん坊の胴を二、三べん手風琴みたいに押しつけてみた。そこではじめて「オヒャア」と世にもあわれな産ぶ声を出したのである。
 しかし父が往診から帰ったときには、私は戸の外まで聞こえる泣き声を出して歓迎したそうな。父はぐっすり眠りこんでいる若い母を見、その横に小さなまくらをあてて泣いている私を見、腕組みをしながら、うれし涙をぽろりと落とした。お鉄さんは、このへちまみたいな頭では大きくなって被る帽子もあるまいと心配していた。
 お鉄おばさんと母とはそれから一年間暇さえあれば「まるくなれ、まるくなれ」と言いながら私の頭をなでたのだそうな。
 私は今でもこの変てこな大頭をなでては、生まれる時から死にそこねた私だったなあと、思う。四十年の一生の間、死にそこねた場合が二十回はあった。そのたびに、するりと危地を脱して今日まで生きてきている。しかし、今度こそはどうやら危なそうだ。
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 カヤノが、「花嫁さんだ、花嫁さんが来た」と叫んで飛び出していった。開けっぱなしにされた障子のあいだに荒れ草の野原が一つの背景となって舞台をつくっている。私はまくらの上の顔をそちらに向けて現われきたる花嫁さんを待つ。
 このごろこの荒野の仮小屋村落には結婚式が多い。戦争でやもめがたくさんできた。そのやもめたちや、復員した青年たちが、それぞれ家庭をつくるからである。結婚と言えば何よりも華やかな喜ばしいお祝いだ。幼いカヤノさえあんなに、はしゃいで飛び出したほどだ。無一物にひとしい仮小屋暮らしながら、花むこの浦田君の家では障子を張りかえ、畳を買い入れ、たいも、かまぼこもどっさり求め、大鍋を庭にすえ、景気よく芋など煮て、花嫁の来着を待っているだろう。
 障子のあいだの舞台へ、ひょいと紋付きばかまが現われ、すいと通り過ぎる。馬車ひきさんだったが、今日は向こうはちまきをしておらぬので、すぐには見当がつきかねた。仲人さんらしく威厳を保って通りすぎる。製材所のおやじがやっぱり紋付き姿で、今日は髪をきちんと分けている。そのあとから二、三人めずらしくネクタイなんか結んだ青年が現われて下手へ退場したあとへ、四、五歩の間をおいて、花嫁さんが上手より登場だ。荒野を花束が泳いでゆくようである。登場したなと思うまもなく、すうっと退場してしまったが、やっぱり舞台には華やかな空気が残っている。その中をがやがやとカヤノの仲間が続いて通りすぎた。
 結婚を近所じゅうのものが祝い喜ぶのは、やがて子供が生まれるのを予期するからである。新しい、美しい生命がこの花嫁さんから生まれでるからである。ことに花むこさんは花嫁さんと結ぶことによって、永遠につづく生命にわれを転ずることができるのでだれにもまして大喜びだ。
 私と同年輩のやもめ仲間はつぎつぎと相手を見つけて結婚した。早いのは赤ん坊を抱いて見舞いに来たりする。いかにも幸福そうに見える。私は──
 私は長わずらいの床に寝たきりだ。こんな無一物の廃人のところへお嫁さんに来てくれる物好きな女もおらぬ。日いちにちとやせ細りながら、待っているばかり。──私も実は待っているのである、花嫁の来るのを。
 花嫁、私のところへやがて来る花嫁──それは、死である。私のもとへ来てくれる花嫁は死のほかにはない。私と結ばれる妻は死のほかにはない。聖フランシスコは死を兄弟と呼んだ。私は死を妻と呼びたい。
 では、死と結婚して新しい生命が生まれるのか?──生まれる。新しい、幸福にみちた永遠の生命が生まれる。それが復活である。死ななければ復活はない。人は死とともにあってのち復活の光栄を与えられるのである。
 キリストは十字架上に死んで葬られ、三日目に墓の中より復活し、さらに四十日ののち昇天して復活と昇天の実例を人々に目のあたりに示し、人類もまたすべてかくのごとく、「肉身の復活、終わりなき生命」を与えられることを約束し給うた。
 罪のつぐのいをはたしておらぬ私の霊魂は死と結婚した瞬間に肉体を離れて煉獄に[#「煉獄に」は底本では「練獄に」]新婚旅行をするであろう。そこには烈しい苦しみと希望とがある。その苦しみによって私の罪のつぐのいを果たさしめられるのだ。それはどれほど苦しいのか、どんなに長い期間なのか、生きている今では見当もつかぬが、私の妻なる死はその苦しみの間じゅう私とともにいてくれるのである。それはまさに陣痛の苦しみだ。陣痛の極まるとき、あらゆる罪のつぐのいをはたし、潔められた、新しい私が生まれ出るのである。生まれ落ちるところはどこか、というと、この世ではない。天国である。永遠の幸福を約束された天国である。
「われは罪をゆるし、肉身のよみがえり、終わりなき生命を信ず」と公言して、パスカルも死んだ、メンデルも死んだ、パストゥールも死んだ、私の家内も死んだ、みんな永遠の新生命をたのしみに、にこにこして死を迎えたのだった。
 さっき私の前を通った花嫁さんは、もう花むこさんの門に近づいているころだ。花むこさんはおごそかな微笑を浮かべて、床の間には菊などを活けたお座敷で待っていることであろう。──私もこの荒壁の部屋を潔めて、黒衣の花嫁さんを待っている。だが、その結婚の日はいつになるのかしら?──花は何の季節だろう? 秋ならば白菊、冬ならば水仙、春ならば……
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 村田君が大きな魚を病気見舞いに持って来てくれた。ひらめみたいな形をしているが眼は両側に別れてついている。配給には顔を見せたことのない見事なもの、まながつおという一級品だそうである。さっそく刺し身と煮付けにして、たらふく食べた。久しぶりの珍味だった。私の五体にも力が出るだろう。私は村田君の友愛をつくづくありがたく思った。
 さて食べ終わってみると私の皿には大きな骨が残っている。子供たちの皿の骨は少ない。──私だけがたくさん食べたのだった。それを見てはっと思った。はっと思ったら心が落ち着かなくなった。なるほど、この魚は病人の私のために贈られたものだから、私が多く食べるのが当然かもしれない。村田君が私の病気をよくするために苦心惨憺ようやく手に入れた魚だから、ほかの元気な者に食わせてはせっかくの苦心に対して申しわけない、とも言えるだろう。しかし……それで果たしてよいものだろうか?──子供が骨をひっくり返してまだ肉を探している。
 私はさらに、いわしの配給すらめったにない市民の食卓を思った。……人々はいま飢えている。社会のため、国のため働く人が飢えている。発育盛りの子供が飢えている。それだのに、廃人の私が腹いっぱい食べてよいものであろうか? 社会のため、国のため何の役にも立たぬ穀つぶしの私がこんなごちそうを食べてよいものであろうか? しかも正規の配給ルートによらぬ一級品の大魚を──
 これはいわゆる横流しのやみ魚であろう。なるほど、私が直接やみをしたわけではない。私はただここで受け取っただけで、この魚がどこをどう通って来たかはあずかり知らぬ。しかしながらうまい物をむさぼり食っておいて油ぎったくちびるをぬぐい、私はやみをしたおぼえはござらぬとは言えまい。
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 医大の運動場のクローバーに今年は四つ葉が多い。看護婦さんが手にいっぱい四つ葉を摘んで「私たちには、ほんとにこんな幸福が手に入るかしら」と言った。
 原爆直下にあって焼きはらわれ、私の教室の浜、大柳、井上、山下、吉田の諸君が倒れていた運動場、七十五年間は草も生えまいと恐れられた、そこに二年目の今日、ぎっしりクローバーが生えている、しかもめったにないからそれを見つけた者は幸福に巡り合うという四つ葉が多いのである。これは原爆残存放射能の影響による植物の変型の一つであるが、それにしてもなんだか胸の底に温泉のわくような思いがする、そして原子野からは四つ葉のクローバーと関係なしに幸福が生まれつつある。
 原爆に見舞われて私たちは幸いであった。浦上住民の信仰一途の姿を見よ。天主堂に存するご聖体の下、隣人互いに助け合って快く苦難の道を歩み続ける姿は、外観は貧苦であるが幸福に満ちている。「幸いなるかな心の貧しき人、天国は彼らのものなればなり」「幸いなるかな泣く人、彼らは慰めらるべければなり」このキリストの福音を私たち住民は信じているからである。
 真の幸福は魂の幸福である。物質上の幸福は魂の平安があって後はじめて得られる。浦上の住民はこの二年間、涙の谷より、ようやく魂の平安を得た。あれほど恐れられた残存放射能もひと雨ごとに洗い流され、今ではほとんど証明できない。田畑の作物もむしろできがよくなった。生まれ出る子供に不具者がありはしないかと、心配されていたが丈夫な赤ちゃんがつぎつぎと産声をあげた。お嫁さんの妊娠率も悪くなく祝福された女の人がよく私の家の前を通る。もう何の心配もいらない。
 仮建築の天主堂はでき上がった。しかし新しく洗礼を受けて信者になる人が多いので新聖堂もすでに狭く、日曜のミサには入りきれないので信者は昔の天主堂より一段と大きな正聖堂も建てる計画にとりかかった。医大の一、二学年はこの秋から焼け跡に帰ってくる。角尾学長は「大学の復興を」と言い残して息絶えた。高木医専校長の骨はそのままこの丘にある。あの友、この子幾百の骨が青草の中にじっと待っているのだ。祈り叫んでいたのだ、「友よ、早く浦上に帰れ」と。
 この二年間、私はひとり浦上の廃虚に寝て朝な夕な友のめい福を祈っていた。これからはたくさんの学生や教授が亡き友の骨を拾ったところで新しい講義を始めるのだ。亡き友の魂もその講義の席につらなって会心の笑みをもらすであろう。
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 五百メートル競走だった。私はスタートでいちばん外側に並ばされたので第一コーナーで先頭に立つ作戦をあきらめねばならなかったが、少なくとも先頭の一団には食いこまねばならぬと大いにがんばった。第二コーナーでは四人の中にもまれ、互いにひじで押し合いながら腹を立ててまで力走した。直線コースへ出た。目の下をコースラインが川のように流れ去るのを美しと見つつ足をのばす。ここで一人抜いて三位に進出。第三コーナーで二位を抜こうとするが相手も速い。体がもつれるようになって曲がりながらついに押さえて勝った。残るは先頭の一人のみ。私は大いに両腕を振って走り続けた。ついに横に出て並んだ。追い越した。ほっとしたらまた追い越された。また追い越す。第四コーナーはぜひ先頭を占めねばならぬとむちゃくちゃにがんばる。心臓が苦しくなってきた。呼吸も困難になってきた。それでも負けられぬ。腕と足とを懸命に振って走った。とても私ひとりの力では走り通せなくなった。私はそこでロザリオをとなえた。罪人なる我らのために今も臨終のときも祈り給えと。すると心臓の苦しさが突然消えた。足もにわかに軽くなった。抜かれちゃならぬ、このままゴールに逃げこもうと、そればかり念頭にあった。風に乗ってくようにぐんぐん速さを増した。二位をずっと引き離したのか私とせり合う相手はなかった。ひっそりと私は走り続けていた。たしか五百メートルのゴールと思うあたりに来たのにテープは張ってない。変だなと思い思い、さらに風のごとく一周して来て見てもゴールはない。もう一回まわって来たが何もなかった。妙だなあと考えながら走っていると、救護班の医者の声が聞こえた。
「もう駄目です。心臓麻痺ですね」
 見ると、五百メートル競争は終わっていて、一等二等三等の旗を立ててほかの連中が賞品をもらうところで、私の肉身は三百メートルのところにころがっているのだった。そのまわりに白い服をつけた医者と二、三人の役員が立っていた。

 教壇に立って講義をしていると赤い旗を立てた一隊が入って来て、先頭にいただぶだぶ服の大男が、
「2に3を加えると4になると教えろ」
と命令してピストルを私の横腹に押しつけた。私は指を折って何べんも数えてみたが、どうしても5にしかならない。そこで、
「2に3を加えると5になる」
と学生に向かって言った。ピストルが私の腹で鳴った。
 それで私は天国へ行った。頭のはげ上がった男が石に腰をかけていた。聖パウロだった。彼は私の保護の聖人である。
「殉教者の心理がわかったかな?」
と彼はたずねた。

 私は白い墓原を歩いていた。ゆけどもゆけども墓ばかりだった。よくもまあこんなにたくさん死んだものだ。そしてこれだけの人間が生きていていったい何をしたのだろう?──どんな文字が刻んであるかしら、読んでみると、
「しまった。もう死んだのか!」
とあった。その次の墓にも、
「しまった。もう死んだのか!」
と刻んであった。つぎつぎ見ていったが、みんなみんな、
「しまった。もう死んだのか!」
とつぶやいていた。ゆけどもゆけども白い墓原だった。
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 あの夕方、焼けおちる大学の裏の丘で看護婦さんが鉄かぶとで煮た南瓜と、穴弘法山の泉を遠くくんできた清水とを、おしいただいて口に入れた私だった。その夜、防空ごうにざこ寝して、ここならピカドンも大丈夫だとじめじめした土にさえ信頼と感謝とをささげ、傷ついて足の曲がらぬ私のために場所をあけて、自らはひざを抱いてちぢこまっている友の情けにほろほろと涙しつつころがっている私だった。
 蔵書をすべて灰にされて、ただ一冊の聖書をいただき、これさえあれば一生ほかの本はいらぬと熟読黙想している私だった。
 ──あのころの私の心は満ち足りて、あらゆるものに感謝していた。
 それから二年たった。
 米のめしにビフテキが食べたいなあ、食後にコーヒーを味わいたいなあ。肌ざわりのさらっとしたかたびらを着たいなあ。六畳ひと間ではどうも不便だから八畳と四畳半を建て増そうかしら。どうも屋根裏がまる見えなのは体裁が悪いから天井を張らねばなるまい。お客様用の座ぶとんと、きれいなテーブルも欲しい。それから蓄音器と冷蔵庫とパン焼きかまど。それから欲しいものにきりがない今の私である。
 二年前の焼け出された当時にくらべたら、今日の私の生活は極楽だ。しかるに心はまるで餓鬼地獄の亡者みたいである。
 戦災者の復興──なるほど物質的には豊富になった。しかしそれと反比例するかのごとく、精神的には貧困になってゆく。物足らずして心足っていた私は、今物足りて心足らぬものとなった。
 さて物足ればおのずから心足らなくなるものか? それとも心足らざるがゆえに物欲しくなるものか?
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 原子爆弾で私の教室の看護婦も死んだ。そのうちで山下秀子という子の印象はあれから二年になるのにちっとも淡くならない。井上ミツネという子は顔は思い出すけれども時々その名を思い出せぬことがある。井上は優秀な看護婦だった。山下は手に負えぬわがまま者だった。井上をしかったことは一度しかない。山下はほとんど毎日怒鳴られ通しだった。良い子だったミツネは忘れられ、悪い子の秀子がいつまでも心に残っている。
 井上は松浦潟まつらがたのたか島の娘であり、山下は不知火しらぬいの天草島の娘だった。どちらも人なつこい島育ちであったが、性格はまるでちがって、一人はひれを振りつつ石になった佐用姫の情を秘め、いま一人はたしかに燃ゆる火の国の乙女の情を持っていた。
 大学病院には看護婦養成所があり、二年生になると実地を体得するために各科に固定される。固定の時には一応志望を考慮するが、また全般の都合で志望以外の科に配置されることもある。井上はレントゲン科を志望して私らの教室に来たのであり、山下は志望に反して配置されたのだった。だから教室へ入った日からすでに態度がちがっていた。井上は好きな学科だったから進んで研究もしたし、教室の先輩につとめて親しく近づいた。山下はいやいやながら来ただけに、する事なす事いやいやながらで、真剣さが少しも見えなかった。だから仕事の成績にも結果は現われて、井上はめったに失敗をしないが、山下のほうは失敗の連続である。ところがレントゲン技術というのは六万ボルトから三十万ボルトまでの特別高圧電流を使ううえに、出てくる放射線がまたうっかり過量になると原子病を起こすものだから、その失敗は時に生命に関係する。私は毎朝仕事にかかるときには、今日一日どうか不慮の災害が起こりませぬようにと祈り、夕方無事に勤務が終わると、ほっとして感謝の祈りをささげるのを常とした。そのくらい危険な仕事を受け持っているのである。だから不真面目に仕事をされたのでは患者のほうが迷惑する。教室の若い人々がよく歌う教室の数え歌の中に「銅とアルミをまちがえて、部長先生になぐられた」というのがある。これはレントゲン線濾過板の銅とアルミニウムとを取りちがえたときの出来事で、治療室勤務の者がたいてい一度は経験したものだ。銅の濾過板を使うべきところをアルミニウムの濾過板を使ったなら、うっかりすると、いわゆるレントゲン皮膚炎を起こす危険があるのだ。一生二度とこんな患者泣かせの失敗をせぬように、骨にこたえるまで、私からその濾過板で打たれるのであった。山下は毎日のように失敗をしでかしては私から打たれた。どんなに教えても、頭からレントゲン科を学ぶ気がないので馬の耳に風だった。しかられればしかられるほどなまけた。自分がなまけるだけでなく他の友にもなまけさすような言動を続けた。私はこれまで多くの医局員や学生や看護婦を指導したけれども、この娘ほど手を焼かせたものはなかった。看護婦長なんかは、部長先生が一看護婦に直接手を下して訓育なさらなくても、などと忠告もしたが、私は山下の根性を必ず直してみようという決心を動かさなかった。
 山下はついに脱走した。しばらくは行方がわからなかったが、天草の自宅へ帰っていることを親から知らせてきた。父の手紙には休暇だと本人は言っているが、あまり長すぎるのでおたずねすると書いてあった。
 やがて父に連れられて山下はふたたび大学へ帰って来た。父はこの子は末子で、きょうだい中ただ一人気性がちがい、わがまま者で困ります。どうかこのわがままを直してくださいと私に切に頼んだ。
 それからの山下は少し人間が変わって、あの高慢がなくなった。わがままとは高慢心の一つの現われ方である。私や婦長が山下の教育に特別力を入れているのは自分の学力が優れているので、なんとかして教室に役に立てさせようと思ってのことだ、それならなまけて、じらしてやれ、いっそのこと脱走して困らせてやれ、そんな子供っぽい意地悪からやったことだったらしい。ところが天草へ帰って二週間たっても三週間たっても教室から問い合わせにも迎えにも来なかった。あてははずれた。近所の人はひそひそと自分のことを話の種にしはじめた。山下は父に連れられて教室へ帰ったが、誰も自分がおらずに困ったとは言わなかった。そこではじめて山下は自分の価値を知ったのである。
 それから後の教育は楽だった。もともと頭のいい子だったから成績はぐんぐん上がった。さらに山下の心を教室に結びつけたものは空襲であった。身辺に落下する爆弾や機銃弾の中で、教室員が心も体も互いにぴったりより添って活動した幾度かの生命がけの救護隊の体験は私と山下との間のわだかまりをすっかり忘れさせてしまった。港外で輸送船がやられた日、鉄かぶとをりりしくかぶり、大学救護隊の腕章もあざやかに、トラックにとび乗り海岸さして出動したときの山下の勇ましい顔が今も目に残っている。
 ほんとうの空襲のあい間には軍隊指揮のもとに救護演習も行なわれた。ある日の演習で、私らの教室に焼夷弾が命中し、消火をやっている最中さらに爆弾が落ちた。そこで私と山下の二人が爆弾のすぐ近くにいたために死んだ。二人は死がいとなって担架にのせられ、担架隊の学生に担がれて中庭の花園を通り、裏門の死体室へ運ばれた。ゆたりゆたり担架は揺れる。青空を見上げて私は目をあけていたが、ほんとうに死んでしまったあとのような心の落ち着きを感じた。二人を死体室へ運びこんでおいて担架隊はまだ続いている演習に参加するために、状況現示班員が赤旗や発煙筒をもってうろつく病棟へ帰っていった。死体室の中では、演習統監部が視察に来るのを予期しながら二人はひっそりと台の上にころがっていた。うっかり話しているのを外から聞きとがめられたら、こらっ、死がいがしゃべってもいいのかっ、と怒鳴られそうな気がして、じっといつまでも真剣に死がいになって動かずにいた。いつまでたっても統監部の将校は見に来なかった。待ちくたびれて私は大あくびをした。すると隣の台にころがされていた山下が、ぷっと吹き出した。二人は顔を見合わせてにたにた笑った。笑いながらも、近いうちに、ほんとうにこうして二人一つの弾で死ぬかもしれないと心の中で思った。
 その日から私は山下をしからなくなった。山下はしかられるような失敗をしなくなった。いよいよ有能有為の看護婦になった。これから大いに働くぞと皆は山下に期待した。私は八月のおぼんには天草へ帰省させて、すっかり素直になった秀子を父に見てもらおうと楽しみにしていた。
 八月九日。朝早くから警報が鳴った。鹿児島方面がしきりに襲われているらしかった。井上と山下とは伝令だったので、交替でラジオ情報を伝達していた。赤い丸い鼻の頭に汗をぷつぷつと浮かべ、くるくる目をぱちぱちさせて、情報を申しあげます、ただ今……と叫んでいる姿はとてもかわいらしかった。
 原子爆弾が破裂し、崩れはてた教室に生き残りの教室員がしばしば集まったが、山下、井上らの看護婦たちはいつまで待っても出て来なかった。火をくぐってつぎつぎに飛び出してくる顔を見ては名を呼びかけるけれども真っ黒に変わりはてただれも山下でも井上でもなかった。来ぬはずだった。そのときすでに彼女たちは運動場で黒こげになっていたのである。
 看護婦長が死体を見つけた。婦長に連れられて死体のそばへ寄ったとき、一人一人のあどけない顔に涙はあふれたが、最後に山下秀子のそばにしゃがみ、皮は焦げてむけながら、おでこや丸い鼻など生きていた先刻の面影さながらなのを見、ちぎれ飛んだ防空服のわずかに胸に残った小犬のブローチを手にしたとき、おのずから声に出でて泣き出した私であった。こんなに早く死んでゆく子であったなら、あんなにひどくしかって、しかって、しかり通さねばよかったのに……
 私らは熱灰を踏んで死体を生化学教室の横の防空ごうに仮埋葬した。──天草には白山茶花が多い。この仮墓の上に白山茶花を植えようと思いながら、私は病床に伏す身となり、いまだにその願いを果たしていない。
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 へちまだなの緑で夏陽をさえぎる縁に寝床を持ち出し、暑さと高熱にたぎる五体にぬれタオルを巻いて冷やしながら、私はある論文の草稿に鉛筆を走らせていた。昨夜も熱のためほとんど眠っていないので、頭がぼんやりしている。頭がぼんやりしているが、そんなことで仕事を休んでは生命の期限までにでき上がらない。とにかく目の見えているうちに、手の動くうちに書いてしまわねばならぬ。食欲もないから近ごろは滋養分のとり方も少なく、貧血はひどくなって、精根が続かない。仕事の最中にたびたび軽い脳貧血を起こしてぼうっとなってしまう。──こんな時にコーヒーがあったらなあ……どうしたのか、ふっとそう思った。コーヒーなんて数年このかた味わったこともないのに。
 サイダーの静脈内注射はどうだろう? 頭に穴をあけて脳を薄荷はっか水で洗ってみようか? それとも、心臓に液体酸素のボンベをつないで血管の中へ冷たい酸素を送ってやろうか?──
 晴れやかな話し声が荒野をこちらへやって来た。顔を上げて待っていると、へちまだなの門をくぐって現われたのは、母の同盟の戸泉さんと日日新聞の荻原さんの一行だ。戸泉さんは、
「夏のサンタクロース!」
と言って私のまくらもとへ大きな紙包みをおいた。私は目をぱちくりさせるばかりだった。あけてごらんなさい、と言われて、あけてみると、大きなかんが出てきた。赤い字はすぐ私の目をとらえた。──コーヒー!
 それには手紙が添えてあった。
「一九四七年八月二十三日、日本長崎港内にて、エス・エス・ジョージ・エルホエリー号より。長崎医科大学永井教授殿。
 あなたは一ぱいのコーヒーを飲みたいのですってね。うまいコーヒーをいれてあげたいのですが、残念ながらここからコーヒーわんに入れておうちまで持って行くことは難しい。コーヒーの原料をそろえて差し上げますから、ご自分でおいしくいれて召し上がってください。
 私はあなたの事を詳しく承りました。どうかわれわれの主なる神があなたにお恵みをたれ、あなたを苦しみから救ってくださいますように。さよなら。船長、ディール」
 読み終わって涙と笑いといっしょに出た。大きなコーヒーかん、小さなミルクかん、白砂糖──このこまやかな心づかい。しかもわざとらしさのない、自然の友愛にみちたユーモラスな手紙──わざわざタイプで打って。
 船長ディールとは私には全く未知の人である。ホエリー号とは米国から食糧を積んで三日前に長崎に来た貨物船であった。飢え迫るこの地方の人々はこの宝船によって救われた。県民は食糧放出感謝大会を開き、今日その感謝文をもって長崎県議会の代表などがお礼のために同船に行ったのであった。
 ディール船長は船長室でみずからコーヒーをわかしてもてなした。このコーヒーがとても上手にいれられていたので、みんなははじめて平和の味を思い出した。そのとき戸泉さんの頭の中にふっと私のことが浮かんだのだそうである。
 何か月か前に戸泉さんが私を見舞いに来て、何がいちばん欲しいかとたずねたことがある。
「時間」
と私は答えた。
「時間? それはお見舞いに持って来られませんね」
「それでも、私から奪わないことはできましょう」
「おやおや、追い立てられるようだ。──物質のうちで欲しいものを言ってください」
「コーヒー。ほんものの」
 そんな会話を交わしたのだった。そのころ私は新聞でコーヒーの広告を見て、さっそく下関市に注文したら、送ってきたのが、なんとハブ草の実を黒くいり上げて粉にひいたものらしかった。それでも色と苦さだけはコーヒーに似ておらぬでもなかったから、それに耳かき一ぱいのカフェインをまぜて時々用いていたのである。カフェインをいれすぎると胸のやける代用品だった。私は心臓が弱っていたので、コーヒーは薬としても体が要求しているのであった。
 戸泉さんは私と、代用コーヒーを思い出して、つい、
「このコーヒーを永井さんに飲ませたらな──」と独語した。耳さとく船長が聞きつけて
「何?」
とたずねた。戸泉さんは手短に病床の私について説明した。
 船長はうなずきながら聞いていたが、すぐにボーイにコーヒーかんなどを持って来させ、手ずから紙で包んだ。
 夏陽にやけた船腹にある船長室は蒸し風呂のように暑かった。輸入食糧を荷揚げする音が単調にガラガラガラとひびいている。老船長のゴムまりのように肥った体からも髪のうすくなった頭からも汗がしきりに蒸発している。船長は私にあてた手紙のタイプを終わった。
「これを病める友へ」
 あの夏の日から三か月たった。ディール船長は米国に帰っているのだろう。私は毎朝、お告げの鐘と共に目をあけて祈りをする。五時半だ。それから聖書を拝読する。そのうちにタオルと一ぱいのコーヒーが枕もとに運ばれる。これは弟に作ってもらうのである。いい香りにまず一日の生きる喜びが生まれてくる。ひと口いただいて神のお恵みを知る。ふた口目にディール船長を思う。三口すすってキリストにおいて人類は一致すという言葉を実感する。コップを飲み干すころ、心臓の鼓動が安らかに正しくなってくるのがわかる。しばらく目をつむっていると、疲れはすっかり消えて、新しい力が指先にまでみなぎってくる。そこで私はごろりと寝がえりをうち、腹ばいになって、鉛筆を手にとり、昨夜書きかけて電灯が消え、そのままになっている草稿の文章の下へ次の字を書き始めるのである。澄みきった頭から、糸巻の糸を繰り出すように、文章が流れでる。
 書き上げた草稿が一枚一枚積み重ねられて、しだいに高くなってゆく。それをまくらもとにおいて見ながら、いったいこの草稿の原動力はカフェインなのだろうか、老船長の友愛なのだろうか、と考える。

 私は老船長の手紙を時々出して読みかえす。そして私の過去をふりかえってみて冷や汗の出る思いをする。私だって貧しい人や困った人に物を与えたことがある。けれどもそのときの私の意向は慈善であった。憐みを施すという態度であった。私が物を持ち、彼が物を持たぬからくれてやる、私に能力があり、彼はその力の無いために困っているから助けてやる──つまり私が一段上位にいて、彼を下に見つつ物を与え、知恵を貸してやったのだった。この慈善業のかげには高慢心がひそんでいた。より小さき者に向かうことによって、私の大いさをみずから認め、ふふんとひそかに笑っていたのである。与うる者は受くる者より幸福だと言われている。その幸福というのが私の場合では、自分の優れたところを実証しての、自己満足にほかならなかったのであった。
 ──与うる者の幸福とはそんなものではない。
「汝らが我が最も小さき兄弟の一人になしたるところは事ごとにすなわち我になししなり」
 天主に奉仕し奉献する心で、小さき者になすことが、神のみ心にかなうから、超自然の幸福を与えられるのである。小さき者になすはすなわち神になすと知れば、「施す」などという態度はとれないはずであった。
 ディール船長が私にコーヒーを送ったのは施しではなかった。いわんや日本が好んで用いた宣撫でもなかった。それは単純な友愛のあらわれであった。国境を感ぜず、戦勝民族、敗戦民族の差別を意識せず、未知にして再会もしない間柄も忘れ、ただ、単純に「汝ら相愛せよ」というキリストの教えをそのとおり実行したのにすぎなかった。
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 春の終わりごろから私の体中にむくみが現われた。むくみが出るようになれば病人も長くはもたぬものだなどと台所のひそひそ話も耳にはいる。死相が現われたのかなと鏡をのぞいて見ると、私とも思われぬ、ふくれまんじゅうのような無気味な顔が手鏡いっぱいを埋めている。荒壁のそとを、ごうっと鳴っては生ぬるい嵐が過ぎる。いやだなあと思った。
 聖母の騎士中学の田川先生が見舞いに来て、むくみには水瓜がよいそうだからなんとかして一つ手に入れて参りましょうと約束した。夏になったが、畑は主食の方に取られて、今年は水瓜が少ないとのうわさ。おぼんにさえやみ市場にもあまり姿を見せなかったそうだ。それも一つ何百円とか、新円成金が買ったぐらいのことで、とても月給取りの手に入るべくもなかった。田川先生は、ちょいちょい見舞いに来ては、水瓜を約束したもののなかなか手に入りませんでな、と申しわけをするばかり。私は気の毒になって、まあそんなにご心配くださらぬように、お志だけでもうれしいのですから、と何度もことわった。私の体のむくみは日によって減ったり増したり、はかばかしくなかった。
 夏休みも終わるころ、大浦の神学校からお見舞いにといって水瓜を一つおくられた。ありがたくて涙が出た。これでむくみも減ると思うとそれが大きな青い丸薬のように見えた。ひと夜井戸の中につるして、しんまで程よく冷えきったところで、ほうちょうを入れた。誠一が光ったほうちょうを大きな球に、こう当てて考え、ああ当ててためらっているのを寝床の中から見ながら、私は幼い日の喜びを思い出していた。

 水瓜をかついだ田川先生が病室に姿を現わしたのは、そのあくる日であった。汗をふきふき口早に水瓜入手のいきさつを語る先生自身の喜びがまずすでに大きかった。実に運よく最後の一個が手に入ったのだという。これをのがしたら、とうとうあなたに水瓜を食わせずにしまったところでした。まあ来年の夏まで生きていてくだされば、また来年ということもありますがな、とにかく思う存分食ってください、むくみもなくなるに違いないですよ……
 長崎の港外に八郎岳という高い山がある。その七合目の山腹に、全く他村落と離れてかたまる一つのキリシタン村落がある。迫害を避け静かに信仰を守り通すために移り住んだ潜伏キリシタンの一族で、みんな大山姓を名乗り、ただ一軒加藤といううちがある。住民は古きイスラエルの牧者のように素朴で信仰は固い。村落の名は大山という。いかにも大山と呼ぶより他に名づけようのない山の村だ。隠れるにはあつらえ向き、胸つくばかりの急坂を三キロあまり登らねばとどかぬ。ミサに参っていると天主堂の窓から白雲が出入りするそうな。この村にうまくて有名な大山水瓜ができる。
 田川先生はけさ暗いうちから大山に登り、水瓜を探した。ところが植え付けが少なかった上に日照りの関係でできが悪く、そこへ商人が来て買い占めて持って行ってしまった後だった。自分のうちで食うために取っておいたというのを無理に頼みこんで譲ってもらったそうである。丸くてすべらかで、重くて、うっかりすると割ってしまうこの持ちにくいしろものを、こうしてここまで担いで来ることよりも、これを譲ってもらうために頭を何べんも下げたときのほうがよけいに汗が出ましたよ、と言い言い上衣をぬいだ。
 私にはその友情が深く胸にこたえた。もし田川先生が寝ていて私が元気であったら、この炎天の下に何里の山道を上り下りしてまで水瓜をさがして来るであろうか? 私は言葉少なく、ただ頭を下げて感謝をした。
 しかし、私はまだ単純ではなかった。これほどの友情に対しては自分の喜びをさらに誇張せねば報い得られぬ気が起こって、つい、
「ああ、これで思い残すことはありません。先生のおかげで、珍しい水瓜もいただけます。ほんとうにこれが今年の初物で、また食い納めでしょう」と言った。
 井戸につるした水瓜は、話しこんでいるうちに冷えたとみえて、誠一がまな板にのせて運んで来た。田川先生はもういっぺん水瓜の腹をぽこんぽこんと打診してみて、ちょうどいいかげんに熟れておりますよ、と請け合った。
 誠一がパックリ二つに割った。夏らしい香りが部屋に満ちた。
「これはおいしそうだ」と私が言った。
 誠一がすぐに無邪気に叫んだ。
「クリーム水瓜だね、お父さん。昨日のと同じだ」
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 ねずみが暴れるので山田さんからねずみおとしを借りて来て台所に仕掛けた。子供らが寝しずまると間もなく、ことことやりだした。切り芋を引きに出て来たなと思って耳をすましていると、パシッとかかった。誠一を起こし、ろうそくに火をつけさせて、障子をあける。照らしだされた板の間の、ねずみおとしの中に動くもの──なんだか居直り強盗にでも向かうような気がした。火を近づけると、ねずみはあわてだした。あわてるのを見たら、こわくなくなった。なんとかして抜け出そうと金網の中でてんてこ舞いをしている。誠一も私も息をこらしてじっと見ている。そのうちに、ねずみはついにあきらめたものか、向こうのすみにうずくまってしまった。誠一が火ばしでつついてもじっとしている。動かぬ奴は面白くない。誠一がくしゃみをした。私らはろうそくの火を消して寝床にもどった。昨夜まで暴れて、われわれの乏しい配給品を食い荒らした犯人がまんまと捕らわれたのに、限りない満足をおぼえて私はぐっすり眠りこんでしまった。
 ねずみの裁判は夜が明けてから行なわれた。誠一が執行官となり、おごそかに水殺の刑に処した死がいを隣のねこに進呈した。
 三日目の夜もう一匹取れた。ろうそくの火に照らされ今夜の奴はとてもあわてた。逃げようとしてむちゃくちゃにあせっている。右にとび、左にかえり、ぶっつかる先々の金網の目の中へとんがり鼻を突っ込んで、こじるものだから、鼻の頭はいつしか血まみれになった。それでもなおあきらめず、上へとびあがり、底をさがし、はてはところきらわず、金網にかじりついてかみ切る気である。見ていてとても面白い。ろうそくの短くなるのも気にかけず飽かず眺めた。ねずみはいよいよあせり狂う。歯も折ってしまった。いのち惜しさに恥も外聞もない。私はしだいに腹を立ててきた。見苦しいぞっとどなった。この前のねずみは、とても助からぬと知るや、泰然自若として運命を待った。小さいながらその姿は私を威圧するものをもっていた。私は軽い恐れをさえ感じて、誠一のくしゃみをよいしおに引き下がったのだった。それだのに、こやつのざまは何だ。見苦しくて、見るさえ目の汚れになるようだ。
「今すぐ、やっつけてしまえ!」
 私は誠一に言いつけた。
「どうしようか?」と誠一が尋ねた。
「煮え湯をぶっかけろ。皮をむいて、天ぷらにして食っちまえ!」
 ねずみの天ぷらはおいしかった。しっぽは骨ばかりで食えなかったが、頭は鼻の先まで食べられた。肉は小鳥ほどでもなかったが、臭味も癖もなく、若いにわとりのようだった。
「この前のも隣のねこにやらずに食べたらよかったねえ」
「うん、惜しいことをしたな。うまいはずだよ。人間と同じものしか食わぬのだから」
 からっぽになった皿を前において、舌なめずりしながら私は考えた。どうせ死ぬと決まってからは、じたばたせぬがよいわい。じたばたすると、かえって死期を繰り上げられるかもしれぬ──
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 私らは五人きょうだいであったが、妹の一人は主人の出征中に無理な生活のために死んだし、私と二人の妹とはそれぞれ戦争でつれ合いを亡くしたので、夫婦そろっているのは弟だけである。その弟が中央アジアから復員してきて、家族をつれて私の家に同居することになった。降伏後二か年ひっそりとしていたこの家がにわかににぎやかになった。夫婦子供無事にそろって、悲しい思い出をもたぬ家庭というものは、こんなにまで幸福なものであろうかと、横から見ながら事ごとに思う。
 別に笑い声が多いというわけでもない。いな、むしろ怒鳴るやら子供が泣くやらで一日中騒々しいだけだが、怒鳴ったり、しかったり、すねたり、泣いたりしているさまが全体としていかにも幸福そうである。父親は時々雷のように怒鳴って幸福を感じ、母親は口やかましく子供をしかる中に幸福をおぼえ、子供は大声で泣きわめいているのが幸福なのである。
 私は誠一を大村へやっているので、幼稚園へゆくカヤノとばあさんと三人暮らしだが、三人とも大声を出すことはない。カヤノは幼な心にもわがままをしては病人の私にすまぬと思っているものか、やんちゃも言わないし、少しくらい血が出ても黙って帰ってくる。私もどうかしたひょうしに、怒鳴りかけることもないではないが、怒鳴られたあとをやさしく教えてくれる母のおらぬ幼な子の心を思っては大きな声も出ない。
 ……あの日、妻の骨を墓に埋めた私は山の家へ避難中の子供をたずねて行ったのだった。板戸をあけて土間に入ったら、ちょうどそこに、誠一とカヤノとが、せみをつかまえて鳴かせていた。二人は血だらけの私を見て、後すざりをした。それから、私の顔をじっと見つめていたが、急いで、門口の方へ行って外をのぞいた。──しかしそこには二人の待っていた姿はなかった。
 誠一の手から、せみが鳴きながら飛んでいった。そのとき以来、この二人の子供は「お母さん」という言葉を口にしない……
 不幸な者は、いつかその不幸に慣れて不幸を感じなくなる。三人さみしく、大声を出すこともなく暮らし慣れて、世の中はこのようなものとカヤノも幼な心に思いこんでいたらしい。そこへ幸福な弟一家が乗り込んできた。
「オカアチャン」「オカアチャン」
 小さい女の子が口をひらけば母を呼ぶ。呼ばれれば母親は「ハアイ」と答える。
「オカアチャン」と小さい子が一声呼べば、カヤノの小さな胸に針が一本打ちこまれる。「ハアイ」と母親が答えるたびに一本の針がカヤノの小さな胸に打ちこまれる。母と子は絶えまなしにカヤノの胸に痛い針を打ちこんでいる。打ちこんでおりながら、それと気づかず、やっぱり無邪気にオカアチャン──ハアイとやっている。

 夕方、眠りからさめた小さい女の子が、そばに母親の姿が見えぬので、
「オカアチャンは?」
とカヤノにたずねた。カヤノはうっかり、
「オカアチャンはね、──天国」
と自分の母を答えた。
 そこへ母親が台所から出てきた。女の子はオカアチャンとさけんでとびついた。
 カヤノはすいと立って行って、障子のさんを指でなで始めた。
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 カヤノは泣かぬ子になった。夕方などは私さえ亡き者を思い出して泣きたくなるのに、カヤノは荒れはてた焼け跡をじいっと見つめたまま、くちびるをかんでいる。れんがにつまずいて転び、瓦でひざをすりむいても、黙って小さい手で血をぬぐうばかり。大きな野良犬がじゃれつき追っかけたときも、真っ青になって仮小屋にとび帰ったが、悲鳴ひとつ立てなかった。さみしくても、悲しくても、痛くても、恐ろしくても、ただくちびるをかみしめて、じっと堪える子になった。
 近所の人々や訪ねくる人々がカヤノを母なし子というので特別かわいがってくれるから、さみしさをしだいに忘れたらしい。幼稚園へゆくようになってからは唱歌も遊戯も教わって、せまい部屋の中で、ひとり歌っておどることもある。はじめは誠一と二人しか子供のおらぬ部落だったが引き揚げ者が家を建てるにつれて友だちも多くなった。このごろではカヤノもすっかり朗らかになって顔は晴ればれしている。私の仮小屋のあたりは幼いはしゃぎ声でいつもにぎやかだ。私はカヤノが幸福をとりもどしたのを見てうれしかった。
 弟の家族が同居するようになった。弟は新京の医科大学に勤めていたのだが、降伏直前に応召し、ソ連に送られた。新京に残された家族は妻と子供二人だった。ソ連軍の進駐、国共の内戦などで、この二人の子供は一分間といえども母のそばから離れずにいたのだった。この子らには母親の姿を見ずに過ごす世界はなかったのである。
 二人の子供はじつによく泣く。小さい三つになる女の子などは、朝起きてからまず一時間は必ず泣き通す。ころんでは泣き、みかんをくれろというかわりに泣き、しっこをしたいと泣き、灯が消えると泣き、けんかをすれば泣く。一日の三分の一は泣き声を出している。泣けば母親がそばへ駆けつけてきてなんとかかんとか慰める。慰めずに放っておけば三十分でも一時間でも泣き通す。涙を出さずに声だけで泣いている。声がかれてもまだ泣きわめく、なんのために泣いたのか、本人も、まわりの者も忘れるころまで泣き続ける。さみしいから泣くのではない、痛いから泣くのではない、母親から一言なぐさめて欲しいから泣くのである。ちょっとやさしい手を触れてもらいたいから泣くのである。
 母親が配給物とりか何かで家を出ていったら、そのあとは大変だ。まるで二台の飛行機が家の中に入っているようだ。ほかの者がどんなに心を尽くし、手を尽くしてなだめても、母を呼んで泣き狂い走り狂う二台の小さな飛行機を止めることはできない。──そこへ母親がひょっこり帰ってくると、ぴたりと泣きやんで、すぐ笑い声だ。

 上の男の子は小学校の一年に転入した。学校へゆくようになってから一週間目だった。母親は町へ出て留守だった。それとも知らず元気よく「タダイマッ」と叫んで男の子が帰ってきた。家の中はひっそりしていた。障子をあけた。「オカエリ」と迎えてくれるはずの母親はいなかった。男の子はヒイッと泣き出した。ランドセルを背負ったまま家の内外を駆けめぐり、「オカアサン、オカアサン」と泣き狂う。
 カヤノはそのとき私のそばに座っていた。はじめは泣き走る男の子を「オカシイネェ」などと笑って見ていたが、その顔はしだいに暗くなってきた。幼い胸の中に失われた幸福の思い出がよみがえったのであろう。
 母を捜して泣き狂ういとこを、カヤノはうらやましげに目で追うている。この小さな胸にはおさまりきれぬほどに大きなさみしさがわいているのだ。今朝別れ、今夜また会うときまっている母親が今ここに姿を見せぬからとて、一つ年上のいとこはこれほどに泣いている。カヤノはその千倍も万倍も泣きたいにちがいない。
 ――しかしカヤノは泣かぬ。くちびるをかみしめて私のまくらに寄りそっている。私はこのときはじめてカヤノが泣かぬ子になったわけを知った。
 笑いを失った者は不幸だと言われている。泣くことのできぬ子はさらに不幸である。なぜならば、慰めてくれる母をもたぬからである。
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 弟が中央アジアから帰ってきて、間もなく妹の夫もシベリアから帰ってきた。二人は私の家に同居している。二人はいずれも関東軍の兵隊だったので、降伏してからソ連に送られ、それぞれ収容所で重労働に従っていたものである。同じ境遇にあったので話もよく合うらしく、毎日毎日起きるから寝るまで、向こうでの生活について聞いたり答えたり話したり相づち打ったりしている。二人の話を幾日か私は寝床で聞いていて心をうたれた。──実に、二人の話題はパンのみに限られているのである。収容所で与えられたパンの量について、毎日毎日比較し、議論し、追懐している。そしてそれが実に興味しんしんたるものであるらしい。ソ連二か年の生活は終始パンの生活であり、パンのための生活であり、パンによる生活であった。共産主義の国ではパン以外のことを念頭におくことはなかったのである。いなパン以外のことを念頭におかせぬような仕組みになっているのだ。そこでは人はパンのみによって生きている!
 君の収容所の給与はどうだった? まあ標準だったろうね。そうかい、そりゃよかったな、ぼくのほうなんか、とても話にならない。そいつは山の中だったからだろう、ぼくの所は司令部の隣だったから、やかましくってね、差し繰られなかったんだ。ノルマ表の通りにくれたよ。それで君は何をやっていたんだ? 建設作業だった、土方だよ、給与はC級さ。ははあ、じゃあパン一日量三〇〇グラムの組だね。うん、三〇〇グラムだけれどね、冬は土が凍っていて掘れないもんだから、一〇〇パーセントにならず、たいてい二五〇グラムだったね。それじゃあ、腹が減ってたまるまい、ぼくは医務室勤務だった。そうかい、それならC級だから三〇〇グラムだったろう。そうだ、三〇〇グラムだ。医務室ならいつも定量だからよかろうが土方のほうは、その日その日の仕事の量でパンを減らされるのだからたまらんよ。働かざるものは食うべからずの原則があるからな。もう一尺掘れば五〇グラム余計もらえる、とか、これで四〇〇グラムになったからやめようとか、ショベル一ぱいがパン何グラムにあたるかなどと、こまかいところまで計算して働いているやつもいるんだからな。全く仕事はパンなりだったよ。しかし結局あのやり方は能率が上がらんね。全くだ。ただ自分の受け持ちの仕事をいかにしたら一〇グラムでも多くのパンにかえることができるか、そればかり考えてやるんだからなあ。ああ、それについて思い出したよ。ぼくらは原っぱを掘らされていた。何のために掘るのか知らされていない。ただ三立方メートル掘れば一〇〇パーセントということだけ知らされていた。とにかく掘ったよ。掘らなきゃパンにありつけぬからな。ところが、いくら掘っても、やめろと言わぬ。監督のソ軍下士官はしきりに頭をかしげて考えては、もう少し掘ってみろという。ぼくはとうとうたずねたよ。いったい何の目的で掘るのか? とね。すると水道の鉄管の分岐点を掘り出すためだという。その分岐点はどこかはっきり分かっているのか? と聞き直すと、とにかくこの辺らしいという。あいまいな話なんだ。それでぼくは周囲をよく調べてみたよ。すると、ずっと二百メートル以上離れたところに水道せんが四か所出ているんだ。それを結んだ二つの直線の交叉点がすなわち目的の一点だということはすぐわかるじゃないか、ぼくは監督の下士官にそう言ってやったよ。するとなるほどと感心したんだ。しかし、とその下士官は言った。あんな遠い所まで直線を引くことはむずかしいと。あはは、愉快だね。線を引かなくっても、兵隊を立たせて、見通したらいいんだとぼくは言って、そのとおりやって見せたよ。下士官はびっくりして感心している。交叉点はすぐ決定した。ぼくらはそこを掘り始めた。なんのことはない、鉄管の分岐点はすぐ見つかっちゃった。ところで問題はそれじゃないんだ。ぼくらは目的の分岐点を掘り出したのだから作業を終わろうとすると、その下士官がこう命令したんだ、さっき掘りかけた穴がある。あれからこの分岐点まで掘って来い? へえそれはまた何のためだい。下士官いわくさ。このままにしておけば監査官が来て労働量を決定するときに、この分岐点に掘った穴の大きさだけ計算に入れるから、パンの量が少なくなる。あの掘りかけの穴に費やした労働が無駄になるんだ。あの穴をこの穴まで掘りつなげば無駄にならぬ。パンのためだ、さあ掘れ! どうだい? 驚くだろう。ぼくらはパンのために、何の意味もない穴掘りを夕方おそくまでやらされたんだよ。……
 まあ、こんな話が二人の間にあとからあとから思い出すままに語られる。すると私の友人がソ連から帰って訪ねてきたが、これまた同じくカロリー計算とパンの話だけしかしない。将校も兵もソ連へゆくとパンのことしか考えなくなるものらしい。そのやり方を詳しく聞くに及んで、なるほどうまく仕組んでいると感心した。
 人間はパンを豊かに持っておればパンの心配はしないから、パンの問題を忘れて霊魂について考える余裕ができる。パンをほとんど持たなくなると、死におびやかされて同じく霊魂について考えるようになる。ところが、パンを、必要量よりもちょっと少なく与えられ、いつも軽い空腹を覚えている程度にしておかれると、いつもパンの事のみ考えるようになる。しかも、それが、労働量と結びつけられて、少し多く働くと満腹するだけ与えられ、ちょっとなまけると、すぐ空腹にこたえるというふうになっていると、いきおい働きながらパンの量だけしか考えないようになってしまう。こんな状態にしておけば、目のさめている間はパンのことだけ念頭にあるのである。とても霊魂のことなど考える余地はなくなってしまう。
 神の口より出でた言葉による生き方をなくするために共産主義の指導者はまことに巧みなノルマを考え出したものだ。
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 へちまだなの竹をつたって、つるが思い思いにのびた。朝日のさすころにはもう黄色の花があざやかに咲いて、ちょうやはちを招いている。はじめしばらくは雄花ばかり咲いた。こうしてここにへちまの花のあることを、はちやちょうに知らせるのであろう。なるほどはじめは訪れるはちもちょうも少なかったが、鮮やかな黄色の遠くから見える効果であろうか、いつしか定連も多くなり、ひねもすぶんぶんにぎやかになった。そのころになって雌花がぽつり、ぽつり咲く。
 雌花の基はよく見ると、どの葉のつけ根にもできている。二インチぐらいの、橋のらんかんみたいな形のものである。一本のつるに何十と準備されたそれらがみな雌花になるのではない、その中のいくつかがにわかに大きくなって、花をつける。他のものはいつのまにか、しなびて、枯れて、なくなってしまう。どれを花にし、どれをしなびさすという決定をいったい何がするのであろうか?──結局へちまだなのあちこちに、ほどよくへちまがぶら下がってゆく。べつに人間がおせっかいに手を出して、節ごとにある雌花の基を間引いたりなどしなくても、へちまだなにへちまがなり過ぎてたなの壊れるほどのことは起こらなかった。

 たなの上にふとり始めたへちまの、あるものはうまく組み竹の目をくぐってぶら下がったが、くぐりそこねてたなの上に横たわったままのびるのもあり、半分くぐりかけて先がひっかかり、真ん中からへし曲がったまま大きくなるのもある。素直にぶらさがるのがへちまの本性で見るのも気持ちいいが、ごろりと横になったまま図太くなるのも面白い。面白くないのは半分ひっかかって曲がったままふくれるやつである。
 曲がったやつといっても運悪く組み竹にさまたげられたのであって、もともとへちまに責任はない。
 誠一がのぼっていって、その曲がったのを組み竹のあいだからぶらさげてやった。どうもつり針に青虫をさしたようで見るからにいやらしい。誠一が手をかけて無理にまっすぐにため直そうとしたら、ぽっきり折れて白い腹の中を見せた。
 無理にため直そうとしたって殺すばかりさ、自然の成り行きに任せようと私は言った。
 真っ直ぐなのも曲がったのも、ぶらりぶらりと風にゆれながら、日に月に太く長く形をととのえるのであった。──そしてそれぞれりっぱな姿になった。
 あの曲がったのも、大きくなるにつれ、みずからの重さで曲がりをいつのまにか直して、ほとんどまっすぐになり、どっしりと空間を占めて風にもゆるがぬ堂々たるへちまになっていた。

 へちまだなの風がかさかさと硬い音をたてるようになると、ぶらさがっているへちまの皮も硬くなり、縦じわが目立ってくる。やがていつしか緑の色を失い、赤銅色に変わってゆく。いかにも若さが消えて老いゆくさまがしのばれる物さびた姿である。しわの深まるにつれ身も細りゆけば、ふたたび風に揺られるほどになるが、若いころの軽さではなく、あなた任せの落ち着いた揺られ方を見せる。
 こうして見ていると、へちまはただぶらりと枯れる日を待っているように見える。しかし、あの腹の中では、いま着々と繊維網がつくられているのである。やがて繊維網が完成したころ、へちまの生命は絶える。そして初冬の谷水の中にさらされて、白いあかすりとなり、長くこの世に残るのであろう。
 人間の足の裏のあかをすり落とすあかすりとなるためには、へちまは生命を終わらねばならぬ。一生の目的が達せられ、人々から重宝がられるときには自分は死んでいて、それを知ることもない。
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 東山さんからお茶に招かれた。戦争の前の話である。妻と二人客間に通された。じっこんの間柄だから堅苦しいあいさつもない。東山さんは先祖代々海の殿様──五島随一の漁場の所有者である。今の成金ではない。客間の調度は堂々として底光りしている。家族も高等教育を受けた教養の高い人ばかりだ。私らは奥様がもてなすメロンやココアを味わいながら、ブルジェの作品を論じたり、電蓄で雑音のないモーツァルトを聞いたりしばらく清談に時を過ごした。
 快い酔い心地で二人はうちへ帰った。帰ってみるとわが家のみすぼらしさにいまさらのごとく驚いた。どっかりと六畳の間に座る。ぼくの机は刑務所の廉売会で手に入れた安物である。その上にエックス線写真やらノートやら原稿紙やら山積みしている。室の反対側にミシンがある。縫いかけのワイシャツの片そでがぶら下がっている。
「東山さんのおうちりっぱなものですねえ、あんなのを文化生活と言うのでしょ」妻がアッパッパに着替えながらしみじみ言う。
「うん、文化生活だ」
「あんな生活、私らには一生かかってもできませんわ」
「あれはぼくらに縁のない文化生活だ、東山さんのは文化を享楽する生活だよ、東山さんたちは文化の消費者なんだ」
「では──私たちのは?」
「文化を創作する生活だ、ぼくたちは文化の生産者なんだよ」
「──ほんとに、そうだわ」
 妻は急にほがらかになって、ミシンをコトコトとふみはじめた、ぼくは刑務所製の机に向かいラウェ斑点の計測にとりかかる……文化の生産工場、六畳の間に、はだぬぎむこうはちまきの原子医学者と、アッパッパのデザイナーが脳に汗をかきながら働いている――
 ──その妻も死に、六畳の間も机も焼け、焼け跡のバラックに戦災者毛布にくるまり廃人の身を横たえているいまの私だ。こんなざまでありながら、私はやっぱり文化人だと自ら信じている。それは毎日論文を書き続けているからである。
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 けちんぼは世の人から爪はじきされる。
 このごろは主食の値が高くなって農家のふところには紙幣がどんどん流れこみ、一尺祝いというものをやるそうな。百円札を重ねて一尺の高さになったら家内集まって大祝いをやるという。なるほど一尺の高さにまでためるのはひと方ならぬ苦労だったろう。そしてまたこれを盗まれぬように減らさぬようにするのもこれからひと苦労であろう。
 一尺祝いが悪いと言うのではない。問題はそれをどんなに使うかにある。どしどし公共事業に出すのなら偉い。貧乏人に与えるのなら感心だ。
 しかし苦労してためたものを、おいそれと出したがらぬのが人情だ。借して欲しけりゃ頭を下げて来い。中学校へ寄付してもらいたけりゃ、その代わりに委員に選挙しておくれ。……こんなけちんぼは世の人から爪はじきされる。
 ところが世の人から少しも爪はじきされないけちんぼがたくさんいる。それがけちんぼとは知られていないから、爪はじきされぬどころか、偉い人だと世の人から尊敬されている。国家からも相当の待遇を受けている。
 そのけちんぼとは学者である。
 大学教授、研究所員、工場技師、蔵書家、名人、家元などという連中の中にいる知恵のけちんぼである。
「この問題はあの先生に聞かねば分からない」
「彼は門外不出の古文書を持っている」
「彼の急死によって、この技術の秘密は墓に埋められた」
「彼は猛烈な放射能をもつ新元素を造ったそうだ」
 こんな話題の主はすべてが学界のけちんぼである。知的財の守銭奴である。
 斯界の権威をもってみずから任じ、象牙の塔にこもって庶民を見くだし、わが国の科学水準の低いのは慨嘆に堪えぬなどと高言している者。特殊な発明を完成しながら、その機密を容易に発表したがらぬ者。学問の切り売りはしないなどと称してことさらに民衆教育をいとう者。そんな連中が現代いかに尊敬されているのであろうか?
 なるほど彼らがその知的財を頭脳に蓄積するまでにはなみなみならぬ苦労があったであろう。農夫が粒々辛苦する以上の辛苦であった。しかしその辛苦はもともと人類文化の進歩のためになされたのではなかったか? おそらく彼らといえども髪黒く歯白く、血の赤かった青春のころから知的守銭奴を志望して勉強を始めたのではあるまい。勉強の成果として知的財を頭蓋骨の倉におさめたとたん、欲が出たのであろう。権威欲、名誉欲、優越欲、それからその知的財を資本にひともうけしようとする物欲などが髪白く歯黒く血の青くなった赤はげ頭の中に燃え上がったのである。
 しかも彼らは朝飯のあとで新聞を読みながら、農夫の一尺祝いを憎みかつあざけるのである。
 私もまた実は知的けちんぼの一人だ。しかしたいした資本ではない。長屋の高利貸しぐらいのところである。
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 大正十一年秋、松江の招魂祭の日はしぐれていた。松江中学の生徒はそれに参拝のためいま校門を出て赤山の坂を四列縦隊で下りゆくところであった。雨がザアッと降ってきたが、さっき田中校長が戦死者の労苦をしのび、かさをさすなと訓辞しておいたので生徒はぬれながら歩いた。そのそばを国漢の吉川先生と熊野先生とが、かさをさして通られた。それを見るや列の中から、
「ウオー」
と一声叫んだ生徒があった。熊野先生の眼鏡がきらりと光った。先生はいきなりかさをつぼめると列中に分けいり、その生徒を引き出し列外に立たせ、かさを振り上げてたたきすえた。
 事件は意外な結果に発展した。生徒は招魂祭がすむと城山のからめ手石垣のかげに集まり、先生の弁明を要求し、やむを得ねばストライキにまで行こうと決議した。いっぽう職員会議ではその生徒の退学が論ぜられていた。翌日の松陽新報にこれが報道された。投書欄では先生非か、生徒非かが連日討論された。松江中学ではこんな問題が起こったのは校史にないことだったから先輩が大いに居中調停に努められた。いよいよ最後の審判が生徒監で開かれた。先生方がずらりと並んでいる真ん中へ生徒一同から絶対に謝罪をしてはならぬと申し渡されてあの生徒が出てきた。裁判長は生徒監山本庫次郎先生である。問答は次のとおりであった。
「君はそのとき何と言ったかね?」
「ウオー、と言いました」
「ウオーとは何だ?」
「はい。感嘆詞であります」
「よろしい、分かった。帰り給え」
 それで万事円満に落着した。その生徒はその時一変した。中学の先生からたたかれるような山ざるだったのだ。よしっ、ぼくは熊野先生を見おろすほどの教育者になってやるんだ。彼は黙々と勉強を始めた。そして十年の後に大学を卒業した。
 だが、そのころには熊野先生に対する怨恨の情は感謝の念に変わっていた。あの一撃がなかったら彼の山ざる根性はついに目ざめず中学をやっと卒業したぐらいの凡人で終わったにちがいない。復しゅうのためでなくお礼のために大学を出ると、すぐ松江に帰り熊野先生をお訪ねした。しかし先生は前年にすでに他界なされていた。
 その生徒とは私であった。
 私は大学の教壇に立って多くの若い人を指導してきたが教育の重点を一人一人の胸の中に眠っている独行力を呼びさますことにおいた。私の頭はあの熊野先生の一撃の痛さを忘れない、それで私は今日もなお勉強を続けているのである。
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 ホエリー号は太平洋航路の米国貨物船である。船長のディールさんは七つの海に五十年かじを握ってきた。いま七十歳とも見えぬ元気でやっぱり日本へ食糧を積んできたりしている。もう孫もたくさんあるよいおじいさんだった。子供はそれぞれ独立して立派な生活をしているので、もう世話をする必要もないからと言って、老妻と二人山の中に住んでいるそうだ。そして自分は船で働き、老妻は家で愛犬を相手に平和に暮らしているという。その愛犬が死んだといって、老妻から犬の墓の写真が船にとどけられた。それを老妻の写真と並べて船長室の机の上にかざっている。
 ディールさんは子供の世話を受けないと言っている。働ける間は働くのが神のおきてである。「なんじの額に汗してパンを食せよ」日本人なら楽隠居して孫をひざの上に遊ばせている年齢だ。この年になっても働くことにこの上ない喜びを感じて太平洋の大波を越すかじを握っている。
 ディールさんの老妻も孫と遊ばず犬を相手に山の中で暮らしている。孫の教育に老人が出しゃばれば時代おくれの人間しか育て上げないことをよく知っているからである。孫の教育はその親たちに任せておかねばならぬ。その親たちを自分が教育しておいた。安心して任せられる。子は子でそれぞれその天分をのばすであろう、孫は孫で新しい世界に活躍するであろう。
 ──この話を戸泉さんから聞いた私は、米国民のあのたくましい開拓魂をまざまざと見る気がした。理想境の建設をめざし、先祖の墓をイングランドにあるいはスコットランドに残して小さな船を大西洋に乗り出した西欧諸民族の、つねにより高き理想を望んで西へ西へと進んで来たあの開拓魂。
 全く未知の、全く未開のあの米大陸を短い年月のあいだにあんなに開拓した人々の努力。それは森を切り払い、水を引き、鉄道を敷くだけの仕事ではなく、また民主主義という理想をひろげゆく事業でもあった。それは、先祖の墓の番をして一生を送るのが最高の孝行と思いこんでいる日本人には及びもつかぬ。彼らの孝行は親の抱いていた理想の実現に努めることであった。理想は久遠のものである。人類は一歩一歩それに近づくのみ。父は理想への道をふみ出して間もなく倒れた、子はそれよりさらに幾ばくか進む、孫はまた親の骨を埋めてから、道を開き行くであろう。──かくて初代の墓は大西洋岸のフロリダにあり、二代の墓はオクラホマに残り、三代目は中部の町デンバーに葬られ、四代目は太平洋岸サンジェゴに、五代目はさらに太平洋に船出して──。
 米国発展の基をなす開拓魂のたくましさよ。七十歳の老船長ディールさんは今日もがっしりとかじを握りしめ、襲いかかる波頭をにらみつけているであろう。

 島原から山本さんがトッポという大きな巻き貝をおみやげに持って来られた。ホラガイに似ているが、外面は灰色で粗野である。内面は美しい肉色でつるつる光っている。これをとるのには潮干のとき沖遠くまで出ねばならぬ。首まで、いや鼻の孔すれすれまでに海につかって、足先でさぐるのだ。いるところには集まっているので、その巣をさぐり当てたら大漁だが、めったにそんな好運にはあわぬ。一日じゅう潮につかっていて、十もとれればよい。ゆでて三杯酢で食べるとなかなか乙なものだ。
 私は山本さんにディール船長からおくられたコーヒーをご馳走した。眼を細めてコーヒーを味わう小柄な山本さんの姿は、その上にぶらさがっている秋へちまみたいに枯淡である。ディールさんは七尺ゆたかな大兵肥満、まるでガスタンクのようにエネルギーでつまっている。ディールさんは七十歳にして現役船長であり、太平洋を横断し、山本さんは五十五歳にして退職検事であり、有明海でトッポ貝を拾っている。──私はここで開拓民族と鎖国民族との生活力の差をはっきり見たような気がした。
 山本さんは端然とへちまの下に座を占め、ぽつりぽつり語る。その話を聞きながら、私はまたしても蒸し風呂のような船長室で汗をたらして私あての手紙のタイプライターを打ったディールさんと思いくらべてみるのだった。
「また官界へ復帰しようと思いますよ。わずかばかりの恩給では食ってゆけませんので」
 山本さんは淡々と語る「四年前に勇退するときには後進に道をゆずる意味で、まだ停年前でしたが、いさぎよくやめました。その当時は恩給でやってゆける計算だったのですがなあ──」
 後進に道をゆずるとか、いさぎよくとか、勇退とか美しい言葉を日本人は使うけれども、結局は菊でも作って余生を平穏凡々に過ごそうという消極的な目的のためである。官界に復帰するのも働くのが主目的ではなく、恩給だけでは食ってゆけぬからなのである。だから再出発だというのに勇気りんりんたるところは見えない。淡々として、へちまがあかすりになって最後のご奉公をしようと思うのに似ている。恩給で食えるものならあと三十年、有明海のトッポ貝相手に雲仙のふもとでゆうゆう暮らしておりたいのであろう。
 トウエンメイ(陶淵明)という男は、帰りなんいざ田園まさに荒れなんとす、と不在地主みたいに官を辞して故郷に帰り、菊を植え、悠然南山を見たまではよかったが、それをあまりにも美しい詩に詠んだために後世幾億の日華両民族に安易な隠居思想を植えつけた責任を負わねばならなくなった。
 後進に席をあけ渡すは結構である。あけ渡し引きさがって休むのがいけない。あけ渡したら一歩前進し、全く未開の境地の開拓に当たるべきである。
「この年になってまた若い人にまじって働かにゃなりません。これも時世でしょう」
 山本さんは気乗りもせぬ様子で立ち上がった。
 しばらくすると大きな風呂敷を背負ったばあさんがやって来た。石けん売りである。年を聞くと八十歳だという。曲がった背中に重い荷物をのせているので、年中最敬礼をして歩いているようだ。そのままでは鼻をつくから大きな杖で支えている。
 戦災者どうしは互いに身の上話を聞きたがらぬものだ。誰だって痛い傷あとに改めてさわってもらいたくないからである。ばあさんの身の上を私は知らない。しかし八十歳の人品いやしからぬ老女が石けん行商に歩いているのだから想像はつく。
 うちのばあさんが出て行っていくつか買ったようすである。私はその老女を見たときには残酷だと思った。──そしてディールさんが働けなくなったら年金と保険金とで寝ていても食える、と言った言葉を思い出した。
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 目盛りの正しくない物差しを用いると、たとい物差しの用い方が正しくても、物の長さの正しい値を知ることはできません。
 もし物差しの目盛りの正しくないことを知らずに物の長さをはかるならば、あなたはいつも、まちがった値を正しいものと信ずることになるし、その値を友だちに知らせると、友だちにも、うそを信じさせることになります。もしその友だちがそんなうその値を集めて統計を作ると、ひとつのうその統計ができ上がり、その統計をもととして、何かひとつの問題を考えると、そこにうその学説が生まれてきます。
 こうしてあなたは自分では知らずにみんなをだます結果になるのです。恐ろしいことですねえ!
 科学の世界ではつぎつぎと新しい研究が発表されています。その中には正しいものもあり、まちがったものもあります。正しい学説は文化を進めますが、まちがった学説は人類を不幸にみちびきます。正しい学説となるかまちがった学説となるか、それは物差しの目盛りの場合のように、もとになる点の正しさを確かめたか、確かめなかったかによって分かれるのです。
 科学者は研究の第一歩から、すべての物事の正しさを自分で実験して確かめながら、仕事を進めて行かねばなりません。
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 高等学校の理科に入って一人一人に材料を任せられ精密実験をした時の感激と驚嘆とは実に大きなものであった。物理の実験値が公式で理論的に算出した値と実験誤差範囲内でぴったり一致した時の驚異は、若い学徒に確かに自然科学は真理を完全に把握したのだという信仰を与えるに充分であった。未知検体の定性分析実験で試験管内の溶液に酸を加えたり、こしたりしてついにその本態をつきとめて教授から満点をつけられたりすると、若い私は自然科学は確かに宇宙の真理を探し出す能力をもっていると信ずるのであった。
 時は大正であり世をあげて科学万能を叫び、唯物論を信奉し、宗教などという言葉を口にするのは若人の恥であった。私は科学の魅力のひくままに大学の門をくぐった。
 大学の講義、実験はまたいっそうの驚異であった。教授は自信満々たる態度で理路整然たる一つの美しい体系を微に入り細を穿ち説き来たり説き去った。手際よく排列された標本を示しつつ、荘重な能弁で説かれると、なるほどわれわれ人間はアメーバから進化したのだなと信ぜざるをえないほどであった。人体解剖は人の神秘を暴露してあますところはないように見えた。生理学では人の思考は単なる脳電流の作用であることが教えられた。若い私は感嘆して、いよいよ自然科学によって真理の把握は容易にできると信じた。図書室に入ってどの原著を引き出して読んでみても、深奥極まりなき理論が実験結果を必ず添えて美しく述べられてあった。私は大学教授というものは真理を把握している人と信じ、教科書や参考書の著者はその方面のいっさいの知識の所有者であると信じ、大学の研究室ではつぎつぎと新しい真理が発見され人類の手に捉えられていると信じた。私は大学を卒業すると真理を獲得し、これとともに生きるため研究室に入った。
 研究室は楽しかった。何千円という実験費を使ってこつこつ実験をさせてもらった。分からぬことがあれば教授から明快に解決を与えられ、あるいは参考書や論文集など先人の業績が光明を与えてくれた。最初の二年間はもう有頂天だった。真理はすべてすでに大学の中にあると信じられた。私は太らんとする豚のごとく知識をむさぼった。
 私は太った。図書室の図書はもう骨ばかりとなった。研究室の先輩ももう私に与える知識をもたなくなった。しかし私はまだ真理を食べていなかった。食欲はいよいよ旺盛となった。実験では未解決の点がつぎつぎと現われてきた。それを明らかにしようとしていくら文献を探してみても手がかりになることは書いてなかった。私に分からぬところは先輩にも分かっていなかった。正直な先輩の報告にはこの点は分からぬ、後人の研究に待つと書いてあった。ずるい著者は要領よくその点を避けて書きとばしていたり、実験もしない推量でごまかしているのであった。こんな事は若い頃に同じ書物を読んだ際には気のつかぬところであった。三年たち五年たった。私はようやくにして科学の舞台と楽屋裏とを知った。講義や論文は舞台であった。知識の低い大衆が、トリックや照明や音楽にごまかされ大かっさいをおくっているのだった。研究室は楽屋裏であった。自ら省みて無力な人間が苦しみ悩み、奈落で舞台を回していたり、せりふをおぼえたり、衣装をつけたりしていた。舞台のハムレットは完全に観衆を酔わし泣かしめた。観衆はハムレットを目の前に見ている気持ちになっていたが、それはハムレットではなく、ハムレットを深く研究しその所作を微に入り細をうがって真実に近く表現した俳優であった。俳優自身はハムレットでないことをよく自覚しており、いかにもして真実に近づかんと日夜研究精進を怠っていないのである。低級な観衆はもう満足していた。しかしその俳優と同等の技量をもつ他の俳優から見れば欠点だらけである。お互いにもう一息というところで突破しがたい障害に突き当たって苦心しているのである。真剣な俳優であればあるほどその悩みは深い。
 研究室に二十年もいると専攻の学科のことは大体知り尽くす。そうして中学校の参考書のさし絵のでたらめに吹き出したり、十年も前の古い学説を載せてあるのにひやりとしたりする。高等専門学校の教科書を読んで、なるほど巧みにまとめているが、ちょうど活字の行間の余白と同じだけこの著者の頭脳にも余白のあるのを見出す。月々の学術雑誌を読んでは著者の頭脳の採点をしたり、くだらぬ論文だと腹を立てたりする。これはこれはと敬服する業績にはめったに出会わない。
 学生に講義するのには自分の実験を基とし、それに新刊雑誌の説をとり入れ、古典的な先輩の業績を参照してノートをつくるのであるが、私は毎年講義を終わるに当たってこう言う。このノートは今年では一番高い学問です、しかし五年たてばこの中の幾行かは削られ、書きかえられるでしょう。十年たてばほごです、二十年先ではおそらく笑い物となるでしょう。
 大学教授が真理を把握しているものでなければならないならば私は一日としてその職にあり得ない。私は全く自信がなく、自分の知識が恥ずかしく、人の前で講義するのが恐ろしい、エックス線と二十年来取り組んでやっているが、さすが発見者レントゲン教授がこの不思議な線に命名するのに未知数エックスをかぶせたほどあって、深く究むれば究むるほどいよいよますますエックスである、私はこんな分からぬ学問をするのをやめて他の科目に専攻をかえようかと時には思うこともある。他科の同僚教授に聞いてみると、エックス線は理論でも実験でも整然たる体系をすでにつくり上げていて分かりやすいじゃないか、ぼくの学問なんかとても深くてちょっと見当がつかないぜ、ぼくもちょいちょい専門がえをしようかしらと思うことがあると答えた。どの学科にしても教授にまでなると分からなくなるらしい。学術研究会議の委員会あたりで全国の同学教授連が集まって腹をうち割った相談をする時など、皆著名な教科書の著者であるのだが、解決のつかない問題、分からぬ問題続出のありさまである。もっとも学生諸君がこの会議に列席されたところで、何の話をしているのやら分からない深遠な問題ではあるが。ある未開の島を某国軍が占領したという報道を聞いた本国人はその島の隅から隅まで兵隊が歩き回っているかのように考える。飛行機でその上空を過ぎた新聞記者も全島その軍の支配下にあるかのごとき記事を書く。ところがその島にいる兵隊はこの島について知っていることよりも知らぬところのほうが多いのだ。村落のすぐ外の密林の中にどんな毒蛇がいるのやら、食える木の実があるのやら、調べてみねば分からぬのである。専攻の学問の世界もまたかくのごときもの。素人はよく分かったように思わせしめられるが、くろうとには分からぬことだらけなのである。中学生や専門学校生や大学生の学ぶ自然科学はごくおめでたい、楽しい小説である。自ら実験をしないで教科書どおりの浅い知識を講義できる先生方の幸福平安をうらやみたい。自然科学で真理が把握できたと信じているのはこの程度のおめでたい人々である。唯物論的にいっさいの現象を説明し得ると主張する人々は真面目に精密な唯物的実験をしないのである。わずかの実験を大きな空想でつなぎ合わせて一つの物語を作り上げ、実験嫌いで空想好きの愚民どもをだましたのが火素説であり進化論であり火星人であり血液型気質決定説等であった。こんなのは千古の真理ではなく、一人の作家の創作にすぎない。真理とは人間の創作以前のものである。実験追試をしない人がだまされるのである。正直な謙虚な自然科学者に神を信仰する者が多く、実験という面倒な仕事をせずにただ多くの報告を読んでいる文科系の人に唯物無神論者の多いのはこの間の消息を語るものである。
 科学は真理を探求するのいいであり、人より発する努力である。真理は神であり、神は一にして完全なるものである。人は被造物であり不完全なるものである。不完全にして部分なる人が単に自己の努力のみをもってして完全にして全体なる神を把握し得るわけがない。たとい人が最大の努力をはらってもついに達する所は真理の近似値である。現代の原子核物理学者は声をそろえてこう告白する。
 信仰は真理を所有するのいいであり、神より発する恩寵である。人は不完全なものなれども神より発する恩寵によって完全なる神を所有することを許されるのである。人が自己の努力によって信仰を得たりと自認するは科学と同じく神の近似像を認めるに過ぎない。世に多くの宗教と称するはまずせいぜいこの程度である。世人往々にして、科学の最高峰に達すれば神に至るでしょうかと、芸術の至純至高なものはすでに宗教であるとか言うけれども、それは仏教や神道のごとき自己陶酔教ならいざ知らず、真の宗教は神より下さるる恩寵の賜物であって、下から人間がいくら登ろうとしたって手の届くものではない。物理的にたとえて言えば次元がちがうのである。
 しからば真理を把握せんと欲する者が科学道を精進するは労して効なきものか? しかり、まさにしかり。
 真理を把握するの道はただ一つ。カトリック信仰のみ。幼な子のごとく単純なる「我信ず」の一念のみが必要にして充分な真理把握の条件である。科学もいらぬ、芸術もいらぬ、知恵もいらぬ、物資もいらぬ、時間もいらぬ、手続きもいらぬ。これこそきわめて簡単にして確実な方法であり、これ以外に道はない。
 それならばなぜ君は自然科学に一生をささげているのだと詰問されるにちがいない。そうすると私は「お父さんたる神様の底知れぬ力や、大きな仕事や美しい秩序をこっそりのぞかせてもらいたくってね」と、ちょうどおいしい夕飯のご馳走をお母さんがいったいどんなにして作るのかしらとお台所をのぞいては、その天火や泡立ち器などの巧みな使い方に驚き喜びかつ感謝する子供のごとく赤くなり首をすくめて言うだろう。
 私は真理を得んとして科学の道を踏み出しそれを行き行きて行き尽くし、ついにここは真理の近似値を手にするだけのことであるのを知った。真理そのものを把握することはできなかったが、神のみ業の偉大さを数限りなく見ることを許された。野に捨てられたる一つの小石の中にさえ神は創造の日より今に至るまで絶えず一定のエネルギーを供給しつつ、その数限り知られぬ原子を活動せしめてい給うのを知ったことだけでも大きな収穫であった。人としての知識が増せば増すほど私は神のみ前に無知であることをいよいよ深く知った。真理を我がものにしようなどという尊大な若き日の野心はいつか消え、真理の近似値にさえ無条件に賛嘆の声を放つみすぼらしい老人になっている私であった。聖堂は直接神に対し奉るところであり、実験室は間接に神の仕事を拝見させていただくところであった。夜半人なき実験室に小さなラウエ斑点像を計測しながら、こんな下らぬ尿石の中に神はなんとしてかくも美しい結晶排列をなされたのであろうかと、しばし、眼を閉じて黙想するのであったが、そんな時にはみ前にありては全く己を無き者と思うのほか別になすべきところなきなりと、ご聖体の前にあるがごとくとなえる私であった。
 ここまで来ればもう人知の最高所であろう。専門学科のまた専攻研究の前人未踏の境地をこつこつと開いて登っているのである。参考書にも書いてない、誰にたずねても知らない、ただ自力でよじ登る私である。この点をつついている者は世界中に片手の指で数えるほどしかいない。ちょうどエベレストの頂上にまさに達せんとしている登山者に比すべきであろうか。下を見れば数知れぬ科学者たちがいろいろな姿で歩いている。あたりを見れば我ひとり、頂上に登って月を見よう。月を見るだけである。その美しさに賛美するだけである。エベレストの頂上に届いたからとて月をつかまえることができるわけではない。エベレストの頂上へ登れたら月が我がものになると思いこんで登ってくる者は、月と地球間の距離を実測したことのない空想者である。月から迎えの雲を下してもらうよりほかない。
 科学は真理把握の能力を有せず真理探求の謙虚な道であり、科学者の歓喜は真理の近似値を人の力で探し、人知の低きを悟り全知全能の神の偉大さをひそかに賛美するにあることを述べた。そして別にカトリック信仰のみが唯一絶対の真理把握の道であることも述べた。そこで最後に信仰と科学との関係について語りたい。
 信仰は科学者を真理に引く! 信仰は神より出ずる光に我の照らされる相である。信仰を有する者のみが真理より出ずる直射光を見る。これによって真理へ向かう最短距離を歩みゆくことができるのである。「我は光なり」「我に来たれ」神は直接こう呼びかけ給う。私は従順に単純に光の導くままに進む、それだけのことである。
 信仰なき科学者の真理を探究する相は盲目のエベレストに登らんとするに等しく、いたずらに喧噪し、暗中模索し、盲目が盲目を導いて二人ながら穴に陥り、そのまま生命を絶つもあり、途方もない方角へ進んでインド洋に溺れたり、イラン高原を逍遙してこれがエベレストだと喧伝したり、たまたま高峰に登り得たと喜べば氷河の断崖で幾日もたたず溶けて崩れたりするであろう。学界にまことにその例は多く、ダーウィンのごときはその最も著しきものであろう。学界には新学説が宇治川の面の水泡のごとく現われかつ消えている。その中で永遠に不壊のものと認められる学説は月空の星のごとく少ない。そのうちに永遠性をもつ学説を提出した学者の伝記を調べて驚いたことにはそのほとんどがカトリック信者だったという点であった。ボルタ、アンペア、マルコーニ、メンデル、中学生の知っている名だけでもいくらでも信者がいる。私はこの点を深く深く考えた、そうしてカトリックに改宗するようになってきたのである。
 私はこれらの自然科学を攻究しようとする若い学徒に心からすすめる。まずカトリック信仰をもちなさいと。これが真理に向かって進む最も近い最もやさしい道を示してくれる。そうしてあなたが究極において発見した学説は、もちろん真理の近似値ではあるが、永遠性を有するのである。あなたの生涯をささげた仕事は永遠に学界に残るのである。もしあなたが信仰を重んぜず、俗論に惑わされ、一時的なにせの学説を奉じ、偽教師に導かれたならば、ただ単に尊い一生を無意識に暮らしたこととなるのみならず、その墓標には真理への反逆者と刻まれるであろう。科学者たりし福音史家聖ルカが録したキリストのみ言葉は、はっきりと次のごとく警告なさっているではないか。「汝ら、主よ主よ、と呼びつつ、我が言うことを行なわざるは何ぞや。すべて我に来たりて、我が言葉を聞きかつ行なう人の誰に似たるかを汝らに示さん。すなわち彼は家を建つるに地を深く掘りて基礎を岩の上にすえたる人のごとし。洪水起こりて激流その家を突けども、これを動かすあたわず、そは岩の上に基いしたればなり。されど聞きて行なわざる人は基礎なくして土の上に家を建てたる人のごとし、激流これを突けば、ただちに倒れてその家のこわれはなはだし」と。
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 上野さん。けさ私がディールさんからいただいたコーヒーを飲もうとしていると、砂糖の甘いにおいをかぎつけたのか、ありが近づいてきました。大きな黒ありです。黒ありはいかにも自信ありげにしきりに触角を振りながら右往左往しつつしだいに砂糖つぼに近寄ってきました。ついにつぼにたどりつきました。中には白い小さな六面体結晶がある。たしかにその形状は砂糖らしい。けれども、砂糖と決定することはできない。黒ありは、間をガラスにへだてられて、その白い結晶を手に入れてなめてみることができないのです。黒ありはつぼのまわりを残るくまなく調べる。しかし中に入ることはできない。つぼのふたをあける力もない。黒ありはいつまでもつぼの外をくるくるまわっていました。
 すると別に小さな赤ありが現われました。しきりに触角を動かしながら、右往左往して近づいて来る。赤ありはたびたび立ち止まっては考える。なんだか祈っているように見える。祈り終わってまた進む。進んでは祈る。ついに同じく砂糖つぼに届きました。しかし黒ありのように高慢に無遠慮に、あせって調べまわったり、なんとかして盗み出そうと穴を探したりはしない。ただ砂糖の結晶の美しさに打たれて、身じろぎもせず仰ぎ見ていました。まるで賛美歌を歌っている修士のように。
 私は小さな赤ありの姿に憐みの心を起こし、ふたをあけて中からひとつまみの砂糖を取り出し、赤ありの目の前に落としてやりました。赤ありの驚きと喜び! しっかりと抱きかかえ、口に味わってみて、うっとりとしばらくはその場にじっとしていました。
 上野さん。昨夜あなたは科学者は科学の道を行き行きて、行き尽くせば神に到達するか? と尋ねました。私は、科学の道は人より発する努力である、人の能力に限界があるために、科学そのものにも限界があって、全知全能の神を完全に捉えることはできない、と答えました。神、真理──科学的方法のみをもってしては、真理を全的に手に入れることはできないと思っています。黒ありはつぼの中の砂糖を手に入れることができませんでした。科学者は科学的方法によって神のみわざのいかに優れたものであるかを拝見させていただき、それを通して全知全能なる神を賛美するのみです。
 私は小さきものです。無力なるものです。卑しいものです。汚れたるものです。貧しきものです。私は祈りつつ進んで、神に近づく努力をつづけます。そのあまりにも哀れな姿、おぼつかない足どり、しかも真理を求める熱心の強さ、まじめな願い、そんなものを上から眺めて神が愛憐の情をもよおし、その真理を与えてくださる──これが信仰です。信仰はじかに真理に抱きつくことです。
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 長井さん。あなたは神はどこにいるのか? といかにも不服そうに私をなじりましたね、物理学を専攻しているあなたに向かって申すのは失礼ですが、私がもし、空気はどこにあるか? と反問したらあなたは何と答えます?
 空気の存在に気づかず、したがってその恩恵を感ずることなく一生を終わる人も少なくないでしょう。生き埋めになったか、おぼれかけたか、あるいは汽車がトンネルの中で立ち往生したというような経験をもたぬ人々はおそらく空気について考える機会があまりないでしょう。そんな呼吸困難の体験をした人は、苦しい時の神頼みと同じ心境を知っています。
 神は至るところにましまし、しかも完全に行き届いた恩恵を絶えず賜うために、人々はかえってその存在に気がつかぬのです。
 あなたは物理学のほうで空気についての研究もなさっているでしょう。空気の組成についての研究だけでも尽きるところはありますまい。その中の水素だけ取り出して考えても、それの原子核が陽子一個であるか、それに中性子が一個加わっているか、二個加わったものはないか、などという問題やら、重水素や重水の比例はどうか、海上の空気と砂漠の空気とのイオンの差はどうかとか、宇宙線による電離作用は赤道部と磁極部の空気ではどうちがうかとか、水中に溶けた空気を超音波で引き出したときその成分にどんな変化が来ているかとか、いくらでも分からぬ問題が後から後からと現われて、空気が動けば風になるというような常識的空気観から推察するほど簡単なものでないことは専門のあなたのほうがよくご承知でしょう。
 神の問題でもそうです。神は存在すると信ずることは、空気は存在すると信ずるのとなんら変わりのない当然のことなのです。神の存在を信じたからとて大した功徳ではありません。今さら空気の存在を信ずると大威張りで叫ぶ者もいませんわね。しかし、神の本質について研究するとなると、これは実に大事業です。人類が神の楽園を追われて以来、幾千年の努力が続けられています。もしあなたが、神の本質を微に入り細をうがって明らかに示すにあらざれば信ずることができないと主張するならば、私もまた、空気の本質を微に入り細をうがって明らかに示すにあらざれば、空気を信ずる能わずと主張するの愚をお見せいたさねばなりません。
 あなたは奇跡について疑っていますね。しかし奇跡は公証せられた歴史的事実であって、作り話ではありません。近ごろ世界中の話題になっているのはポルトガルのファチマのロザリオの聖母の出現です。数万の立ち会い人が実証している事実です。それが人知で証明できないからとて簡単に否定するのは、人知の有限なことを忘れて批判するからです。全能の神は宇宙の秩序を自ら維持している。それだからときどき自らの意志で、その秩序の一部をちょっと変えて見せることもできます。それが奇跡です。人はそれによって宇宙の秩序を維持している神の存在に気づくのです。ちょうど風が起こって木の葉が揺れたので、はじめて人が空気の存在に気づくように、神の存在を知っている者にとっては奇跡は別に驚くほどの事件ではない。奇跡は全能の神のみわざの一つとして当然のことなのです。神を信じない人々にとってこそわけの分からぬ現象なのでしょう。
 ガラス戸の中に子ねこがいた。子ねこはガラス戸の外の庭を見た。するとそこで、紙くずが踊っていたのです。誰も手をかけるものがないのに紙くずがしきりに踊っている。子ねこはそれを見るや全身の毛を逆立てて恐れました。──人間なら、ああ、風が出たな、と知るところですわね。
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 山本さん、あなたは宗教は何宗を信じても同じだ、仏教で極楽と言い、キリスト教で天国というが結局同じところだ、人間は生きている間に正しい生活をしてさえおけば必ず救われると申されましたね。そして例の同じ高嶺の月を見るかなという歌をたとえに引きなさった。たとえを引いてよいものなら、私だって自分の説につごうのいいたとえ話をいくらでも持ち出すことができます。
 たとえば東京へ行こうと思って汽車に乗る。どの汽車に乗っても東京へ行き着くことができますか? まさか東京へ行くのに下り列車に乗りこむ人はおりますまい。しかし上りならどれでもかまわぬとは申されぬ。東京行きでなければ東京へは行きませぬ。東京行きでない上り列車にうっかり乗りこんで、その中で、いかにあなたが車内道徳を正しく守っていても、なんの役にも立ちませぬ。
 偽の列車があるのです。無免許の機関手の運転する列車があるのです。
 偽教師に警戒せよ! 偽教会にだまされるな! ああ幾万の信徒もろとも地獄に突進する偽の宗教列車のいかに多いことか!
 天国行きの列車は教皇を機関手とするカトリック教会のほかにありません。
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 戸泉さん、あなたはカトリックになりたいけれども、カトリックはあまり規律がきびしくて、自由がないから、入るのをためらうと申されましたね。たとえば日曜日に必ず教会へミサ拝聴に参らねばならぬとか、離婚を許さぬとか、そんなのは困るとのご意見でした。
 信仰は体験です。信仰に入らないで外から人間の浅知恵であれこれ考えても分かるものではありません。映画を見たことのないじいさんが、若い者がたびたび映画館へ行くのを見て、なぜあんなに毎週行かねばならぬのかと考えるようなものです。ミサ聖祭にあずかる者のひたる幸福感は世の中のあらゆる幸福感にもまさるものです。どんなおいしい山海の珍味もご聖体とは全く比べものにならぬ。私はこのごろこそ病気でミサに参れませんが、昔、教会に行けた日のことを思い出しただけでも、うっとりとなってしまいます。身体が動けるようになったらまっ先にぜひ行きたいのは教会のご聖体のみ前です。映画も料理屋も山も海も、研究室もまず第一に頭に浮かんでくるものではありません。ご聖体のみ前にひざまずいて祈っていますと、世間の人々が芝居や映画に喜んで行くのがおかしくさえなるのです。こんな超自然の完全な幸福があるのに、なぜあの程度の愉快を求めて人々はうろついているのでしょう? 私らが日曜に教会へ行くのは、いやいやながらお説教を聞きに行くのではありません。神と直接話し合うことが許されるので喜び勇んで行くのです。
 カトリックでは離婚ができないからとあなたは言う。それでは、あなたは離婚を目的として結婚をなさるのですか? まさかねえ。カトリックの結婚は実に慎重です。本人の自由意志にもとづいて承諾を得てのちはじめて結ばれるのであって、親の強圧のもとにとか、家庭のつごうでというようなことで無理じいにまとめることはありません。そして婚姻は重大な秘跡の一つで神によって二人が結ばれるのです。神の合わせ給いしものを人が離すことはできません。
 私はカトリックに入信してから、不自由を感じたことは少しもありません。私は神に仕える人の道を守るためにカトリックに入ったのでした。この世にある間には全力を尽くして神を愛し、この世の生を終わったのちは神とともにあってその光栄を賛美する目的で改宗したのでした。神の無限の愛にそむいて罪を犯し、永遠の罰を受けて苦しむために洗礼を受けたのではありません。罪を思う存分犯すためにはカトリックはなるほど不自由です。
 天国に無事到着するためにカトリック列車に乗っている私らです。列車は一定のレールの上を走るのです。そして私らは窓から乗り出したり、デッキから飛び出したりする気を起こしません。窓から乗り出すな、デッキから飛び出すな、と車掌の神父さまが申しなさるのをやかましい、きゅうくつだと思って、その注意に従わず飛び出したら、どうなりますか? そこには死が待っているのみです。過去において、カトリック列車から飛び出したものも少なくありません。彼らはみな永遠の死の苦しみをなめています。
 あなたは、あるいは一定のレールの上を走る列車でなく、無限軌道をそなえて、どこでも自由に走りまわる水陸両用タンクに乗りたいと考えているかもしれません。なるほどタンクは川だろうと海だろうと畑だろうと林だろうと飛びまわる。家があれば家をつぶし、人がおれば人をつぶし、作物を荒らし、アスファルトに穴をあけて自由勝手に駆けまわる。タンクのほうは愉快かもしれないが、人々は迷惑します。無限軌道をそなえたものは無軌道なのです。
 他人を傷つけず、我も死なず、無事天国に至るためにはあなたもカトリック列車に乗り込むべきです。
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 松山さん、あなたは、今の信仰で満足しているからわざわざ家庭内にごたごたを起こしてまで改宗する必要は認めないと言いましたね。しかし満足というのは常に必ずしも完全なものを手に入れている場合とは限りません。あなたは求めていた神の愛を与えられたと思っています。それはなるほど無信仰であったころの味気ない人生ではなく、美しく甘い感激にみちみちた人生でしょう。これまで甘味のない塩ぜんざいばかり食べさせられていた子供が、今度甘味料の配給があったのではじめて甘いぜんざいを食べさせられ、あまいものとはこんなにおいしいのかとびっくりもし、喜びもしているのと似ています。しかし与えられた甘いものは、果たして砂糖だったのでしょうか? それともサッカリンだったのでしょうか?
 偽教師を警戒せよ! キリストはこう注意しました。偽教師は偽の宗教を与えます。偽の宗教は真の宗教によく似ています。いな、真の宗教より良いようにさえ見せかけています。サッカリンは砂糖よりずっと甘い。しかし、全然滋養になりません。ただ舌の先に触れたときだけ甘くて人を喜ばせます。いかにも滋養になりそうに人をだまします。「天与の砂糖にまさる人工のサッカリン」と商人は宣伝しています。商人の宣伝は鳴物入りでなかなか巧妙です。砂糖の味を全然知らない者は、まんまとこの宣伝にだまされ、サッカリンをなめて満足します。あなたが今の信仰で満足しているのはこの状態なのです。
 人がもし一度砂糖の味を知ったら、必ずサッカリンに振り向きもしなくなります。あの隠されたる一種の苦さに気がつくのです。それが鼻について二度とサッカリンを口に入れたくなくなります。サッカリンに満足するどころか、我慢できない、いや、嫌悪さえ感ずるのです。
 砂糖をなめたら、人々がサッカリンを買わなくなるので商人はさかんに砂糖の悪口を言う。あれは太古からあるもので、現代ではすでに時代遅れだ。砂糖は旧糖、サッカリンは新糖、新時代の文化人はすべからくサッカリンを用いなさいとすすめる。砂糖はジャバやキューバの原住民の食べた原始食料である。サッカリンこそ近代科学に立脚し、人知の極を尽くして製造した文明人の食料であると叫ぶ。何でも新奇を好む現代文化人はうかうかとその宣伝に乗ってサッカリンばかりなめています。やがて、サッカリン中毒で我が身を損なうこととも気づかず──
 松山さん。あなたが今なめさせられている宗教はサッカリンですよ。私のすすめる真正の砂糖を味わってみなさい。
 何だかんだと人工代用品を世間には売っていますが、人生の真の甘味料は天啓宗教カトリックのほかにはありません。
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 慶長二年二月五日長崎立山にて十字架上に、やりを受けた日本二十六聖人をはじめとして、近くはこの終戦まぎわまで迫害を受けて殉教したキリシタンは数限りありませぬが、最近における最も大きな迫害は明治初年における浦上信徒総流罪でありました。
 日本が鎖国令を解き、諸外国と国交を開くと間もなく、元治元年、大浦に天主堂が建立されました。それまで、長崎市北郊外の浦上付近に、潜伏していたキリシタンは、その天主堂のサンタ・マリアの像の前に自らの信仰を公表し、ここに日本教会は三百年の迫害のあらしの中にあって、巧妙な組織の下に堅固な信仰を維持してきたことを明らかにしたのでした。そのキリシタンに信仰を棄てさせることがどうしてもできぬと知った役人は昔ながらのむごたらしい拷問を加えて弾圧しましたけれども、いっこうに効果はありません。
 慶応四年六月維新政府はついにキリシタン中の重だった者百十四名を捕らえ、これを萩、津和野、福山に流しました。それでも浦上に残った信者は相変わらず信仰を守っていました。こえて、明治三年一月一日、政府の命を受けた弾正渡辺登は長崎に来て、浦上キリシタンを老人子供残らず召し捕る振遠隊の兵士に指揮される、おびただしい捕り手が、突如長崎役所から繰り出すと、なだれをうって浦上に殺到し、片っぱしからからめとる──。捕らえられたる数は二千八百十人に及び、村はからっぽになりました。彼らはみな、殉教を覚悟しました。「打ち首に会うか火あぶりにされるか、海の中にほうりこまれるか、いずれにしても、固く神の教えを信じて動かなかったならば、必ず天国の栄冠を賜わるのだ。どんなひどい目に会っても、教えを捨てて地獄に落ちるような愚かなまねをしたくない」
 年寄りも子供も男も女も無学な百姓であったからむずかしい宗論を知っているわけではなかったが、ただこれだけのことはみな知っていたのです。
 妻は夫をはげまし、母は子に言いきかせ、天国で相会う日をたのしみに喜び勇んで捕らわれました。
 その日は雪が降っていました。
 着のみ着のまま、頭に白布をかむって家を出た信者はあの村落この村落から集まって次第に大きな列となり、声をあわせて祈りをとなえながら大波止さして追い立てられました。雪はこの羊の群れの上に舞っていました。大波止に着くと、二百九匹鹿児島あずけ百十匹備前岡山あずけと、犬扱いに、手当たり次第髪をつかんでは団平船の中に投げこまれ、夫は広島に、妻は金沢に、子供は松山にというふうに、はなればなれに積みこまれてしまいました、そしてこれを国々に流したのでございます。
 内訳をあげれば四国の高知に百十四人、松山に六十九人、高松に百二人、徳島に百十二人、中国の松江に八十七人、岡山に百十四人、姫路に四十五人、広島百九人、鳥取百五十五人、津和野九十三人、福山に六十六人、九州の鹿児島に二百九人、福岡二百三十四人、そのほか名古屋百七十九人、津百人、金沢五百二十五人、和歌山二百五十六人、郡山八十八人、大聖寺八十三人であります。
 各藩ではキリシタンの改宗にいじめたり、すかしたり、おだてたり百方手を尽くしました。この仕事にあたった者は主に神官と仏僧とでしたが、その宗論の中には思わずふき出すほどのものさえあります。どうしても改心しないものだからお定まりの拷問がどこでも始まりました。そのうちの一つ長州萩の岩国屋敷の雪責めの話――
 山中村落の二十二歳になるツルという娘がおりました。父は津和野に送られてついに牢内で死んだほどの固い信者で、その血を受けたツルもまた動かない信仰をもっていました。彼女は十八日間毎日毎日白州に呼び出されましたが、その信仰は微動だにしない。ツルは役所の庭の石の上に座らされていました。
「お前は日本人でありながら、日本の神さまを馬鹿にして西洋の神さまを信心している。いくら言って聞かせても改心しないから、もう日本の着物も着せない。日本の食物も食べさせぬ。日本の土地にもおらせぬ。外国に出て失せろ。しかし日本の土をふむことは相ならぬ。この石の上からすぐ宙に飛んでゆけ」
 そんなことも言われました。
「そんなことはいくらわたしでもできませぬ」
と、言いますと、役人は、
「庭の石を一つ貸しておくから、その上に座ってとくと考え直してみろ」
と言って着物をすっかりはぎとり玉はずかしい乙女の肌をいやらしい視線の的にさらさせました。そばに立っている役人はしきりに「キリシタンを捨てろ、キリシタンを捨てろ」と、せまります。
 ツルは丈なす黒髪を前に垂れて我が肌をかくし、ロザリオをつまぐっては聖マリアのおん助けを祈り、役人の声を聞くたびに頑固に頭を振りつづけました。
 庭には西の浜から冷たい北風がひゅうっ、ひゅうっと吹きつけます。風はいつしか雨をふくみ、冷えゆくままにみぞれとなり、みぞれはやがて雪と変わり、たちまち目も口もあけられぬ大雪になってしまいました。大理石のようなツルの白肌は紫色に凍って固くなりました。役人は、
「頑固なやつだなあ! 改心しなければ死んでしまうぞ」と少しは心配になってやさしく言い聞かせましたが、ツルはもう舌の根が凍って言葉も出ぬので、ただ首を横に強く振るだけです。そのたびに顔にべっとりついた雪が飛び散って、清らかな乙女の顔がしばしば現われるのでした。この世のものとも思えぬその神聖な顔に、思わず役人はぶるっと身ぶるいをすると、座敷に上がって縁の大障子をぴたりと閉めました。
 ツルは一心に神に祈っています。そして「早く雪が腰をうずめてくれれば、こんな恥ずかしい思いをまぬがれるのに」と思ったりなどしました。雪はいよいよ降り積み、昼すぎには腰を隠してくれましたが、そのころにはときどき気が遠くなるようになっていました。
 おとといの夜の夢を思い出しました。
 どこかの松山を父と二人通ってゆくと、向こうにとろとろ火が燃えている。
「あれは何でしょう?」父に問うた。
「あれは聖霊の力でなければ通れぬよ」
と父は申しました。ツルはこの父の言葉を思い出し、一心に聖霊の助力を祈りましたが、もう祈りの声が出ず「あっぱ、あっぱ」と言うばかりでした。
 その時同囚の一信者が便所の窓から頭を出し、ツルに天を指さして見せました。これは、
「今日はいよいよ天に昇れるぞ」
と、勇気をつけてくれたのです。ツルは天を指さしたのを見てにっこりほほえみました。
 雪は小やみなく天地の間をかのこに染めて降りつづける。ツルの乳ぶさはすでに雪にうずまり紫色の肩から上が、白い布の上に聖アグネスのブロンズ胸像を置いてあるようです。庭はただ静かに雪の高さを増してゆく。ときどきどうっと音がして松の枝に積もった雪がこぼれると、そこにしばらくは、揺らぐ緑を見せるばかり、それさえやがてふたたび真白く塗りつぶされる。役人はときどき障子をあけて、
「改心しろ! 死んでしまうぞ」
と言いますが、もうほとんど正気を失ったはずのツルの頭は大きな雪帽子をかぶったまま反射的に強く横に振るばかりです。
 牢につながれていた娘たちはツルのために祈りをとなえて聖母の助けを求めようとしましたが、口を開けば先だつものは泣き声で、祈りの言葉を出し得る者がありませぬ。
 やっとのことでどうにかロザリオをとなえ終わって、さて庭をのぞくと、雪はいつのまにか降りやんでいて、夕暮れの残光をわずかに照りかえす銀一色の庭──
 ツルの姿はそこに無かった。
「ああ、とうとう──。ああ、とうとう教えを捨てた……」窓からのぞいていた女たちは抱き合ってわっと泣き出しました。ひっそりと雪の庭は暮れてゆく──突然、
「あれ──あれはなんだ?」
とスイが庭を指さした。ツルの座っていたあたり、雪の上にあたかも白紙の上に一筆二筆書いた、らんのような黒いすじが見える。
「髪ではないか?──おツルさんの頭だよう?」──降りつづいた雪は処女の肌を完全に清らかに包み隠してくれたのでした。

 明治四年、岩倉具視の一行は特命全権大使として欧米に派遣せられ、キリスト教の正しい姿をまのあたりに見て心を動かされ、明治五年日本政府に電報をよこし、キリシタン迫害を解くにあらざればとうてい諸外国と友誼的国交を結ぶことができないと申し上げました。
 かくて明治六年キリシタン禁制の高札は撤去せられ、あっぱれ信仰を守り通した浦上のキリシタンはふたたび懐かしのふるさとへ送り返されたのであります。

 このおツルさんはのち浦上十字会に入り伝道婦として働きましたが、あんな強い信仰をどこにかくしているのかと疑われるほど平凡なやさしいあねさんでした。この迫害に諸国に流された人々が浦上には今日まだたくさん生き残っています。
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 池田先生
 お手紙を読みありがたく思いました。
 前の担任のそう先生には事情を申し上げておきましたが、新しく誠一を受け持ってくださる先生にも改めて私の父としての考えを聞いていただき、それについて先生のご意見を伺いたいと思いまして、病中乱筆の失礼もかえりみず、この手紙を差しあげる次第でございます。
 誠一の母は原子爆弾の直下にあった家と運命を共にいたしました。私も大学で重傷を負いました。その日誠一は妹と山の中の祖母の家へ行っていて助かりました。誠一の通っていた山里小学校もほとんど全滅で、生き残った同級生はわずか四名だったそうです。
 私らは屋敷跡の石垣を利用し、とりあえず丸太とトタンで一坪ほどの小屋を作り、そこに住んで再建にかかりました。爆心地の残留原子放射線の人体に及ぼす影響を知ろうというのが私の目的でした。大人ばかりでなく小児についても精密な連続観察をするため誠一も妹のカヤノもその小屋にいっしょに六か月住んでみました。爆心地の残留放射能は時日の経過と共にすみやかに減衰し、二か月以後は人体の健康を損なわぬ程度になることやら、ここに来住して一か月ほどたつと放射線の刺激によって軽い白血球増加症が起こることやら、いろいろの事実がわかりました。この自家実験にもとづき、私は避難民に、爆心地居住は衛生上危なくないからすみやかに帰って来て再建を始めるように広く呼びかけました。こうして私ら父子は市民としての医学徒の義務の一部を果たしました。
 このトタン小屋の半年は人間の最低生活でした。雨の夕には、かまどがぬれて飯もたけず、雪の朝には、毛布の上が白くなっていました。そんな苦しさもわびしさもさることながら、誠一の幼な心にせつなかったのは、朝床に目ざめて横を見たとき、母のないことではなかったでしょうか?──あの子はあの日からのち私の前では一度も「お母さん」と呼びませんでしたけれども。
 散らばる白骨と明け暮れを共にするこのむごい生活をあえて誠一に体験させたのは、あの子に戦争の本能を骨の髄にしみるまで覚えさせるためでした。原子野生活──それはいかなる好戦主義者をも不戦論者に変えてしまいます。あの子は世界がどのように移り変わろうと一生を平和主義者で通すにちがいありません。日本は平和文化国家になったと宣言しました。けれども、まだどこか戦災を受けなかった地方には、戦争はもうかるものだと信じている者や、野蛮な闘争本能を制し得ない者が潜んでいて、いつか機を見て世論をあやまらせようとするかもしれませんが、そんな連中を向こうにまわし、誠一が原子爆弾の記憶を生かし、反戦論を高く唱え、人類を破滅から守ってくれることを期待しています。
 誠一が一生の仕事に何を選ぶか? それはあの子がみずから決めることで、いくら父でも私には子供の一生を強制決定する権利はありません。しかし私は一つの願望をもってはいます。原子学の研究をしてくれたらいい! それをしきりに念じているのです。原子医学こそは私の一生の仕事でした。原子の秘密は人の一生をかけて探究する価値を充分もっています。生命にかかわる危険はあっても、これくらい面白い研究は他にはありますまい。現に私はその原子放射線におかされて病床にありながら、どうしてもその研究をやめる気になれず、少し体の自由がきくようになったらすぐにまた研究室へ出かけて、あの懐かしい原子放射線を相手に勉強したいと思いつづけているほどです。それで、父が子に遺嘱するのではなくて、先輩が後進にすすめる気持ちで、私は誠一に「原子学をやり給え!」と言いたいのです。それに答えて、誠一が「はい、やります」と答えてくれたら、どんなにうれしいことでしょう。私は全き喜びのうちに目をつぶることができます。誠一に原子野生活をさせたのは、一つにはその準備工作の意味もあったのでした。原子野に立って、原子力の作用した跡を見るならば、だれだって驚嘆します。驚嘆は疑問を生み、疑問は興味を深め、興味は研究心を起こさせます。あの子が中学に進んで、何を一生の仕事に選ぼうかと思索するとき、心の底から「原子学を」という答えが自然に浮き上がってくるようにと、私はひそかに願っています。
 廃虚の仮住居は子供を教育するには、しかしながら、よい環境ではありませんでした。幼い兄妹が人骨を拾い集めて火葬ごっこをしたり、よその屋敷跡から茶わんなどを取って来たり、はばかりから出ても手を洗わなかったり、このように美的あるいは道徳的情操は失われ、文化的教養を身につけることなど思いもよらぬ状態でした。それで私は爆心地の整理がつくまでは、誠一を正常の環境へ移して正しい生活作法をしつける必要を感じました。折もよし、大学は大村市の仮校舎に移って講義を再開しましたので、私は病床を出て大村へおもむきました。そのとき誠一を連れてゆき御校に入れていただいたしだいです。私の主治医の朝長先生のお宅が御校の近くにあって、私ら父子を下宿させてくださったので、何もかもつごうよく参りました。
 美しい入り海、緑の丘(原子野の赤ちゃけた荒野に慣れた目にはその緑が特に印象的でした)、設備の整った学校、矢嶋先生や宗先生の愛の教導、ほがらかな学校、文化化された家庭……あの子の目から動物性の光がいつしか消えました。水素の実験は科学する喜びを教え、計測の実習は数学の本質を体得させ、公園の写生は美へのあこがれをふたたび呼びさましました。声楽コンクールに学校代表として出場した日のあの子の喜びはどんなに大きかったでしょう。あの日親の付き添っていなかったのはあの子だけだったそうですけれども。
 家庭訪問でごぞんじのように朝長先生のお宅は愛と真理にみちた模範的家庭です。先生は大学で内科を専攻する学者、奥さんは教養の高いやさしいお母さん。お二人は誠一をわが子のようにしつけてくださっています。それであの子はすっかりあの家庭の子になって、あばれたり、甘えたり、叱られたり、ほめられたりしています。
 私は誠一といっしょに三か月お世話になっていました。そのうち病勢が進んで畳の上にごろごろ寝る癖がつきました。すると、朝長先生の長男の五つになるマア坊がそれをまねはじめたのです。私はひやりとしました。そして時あたかも大学がまた長崎の仮校舎へ移ったので、私も長崎へ帰ることにしました。そのとき誠一を連れて帰るか、帰るまいか、ずいぶん苦しみ考えぬいたあげく、結局あの子ひとりを御地の他人の中に残すことに決めました。
 いまは長崎の爆心地の整理も終わり、住民も続々帰り住み、すでに原子野の面影もうすれて平和な人里になっています。文化的生活も営めるし、子供の教育環境として必ずしも悪いところではありません。山里小学校も復興し、子供の数もふえました。六畳ひと間ながら私の家も建ち、庭には白ばらも咲いています。誠一をこちらへ呼び戻してもいいのです。それだのに、なぜあの子をひとり他人の中で暮らさせているのか?──そのわけを申し上げて、私の考えが果たして正しいか、それともまちがっているか、先生のご意見をお伺いいたしたいのでございます。
 誠一は孤児予定者です。母はすでに亡く、父も命数迫る病床にあり──まもなくあの子は孤児となる運命にあります。孤児となってこの恐ろしい世間に立たされたとき、少しもたじろがず、小さい足を踏みしめ、踏みしめ、正しく生き抜いていくでしょうか?
 キリストは「空の鳥を見よ、彼らはまくことなく、刈ることなく、倉におさむることなきに、なんじらの天父はこれを養い給う。──野のゆりのいかにして育つかを見よ、働くことなく、つむぐことなし、されども我なんじらに告ぐ、サロモンだも、その栄華のきわみにおいて、このゆりのひとつほどに装わざりき。きょうありてあす炉に投げ入れらるる野の草をさえ、神はかく装わせ給えば、いわんやなんじらをや。信仰薄きものよ」とおさとしになりました。私の信仰が薄いので、こんな取り越し苦労をしておるのです。それを知っておりながら、やっぱり心配するのは、人の子の親の迷いなのでしょうか?
 それでもなお私はこう思案します。今のように他人ばかりの遠い町にひとり暮らしていて、一週に一回肉親のもとに帰る半孤児生活に慣らしておけば、私が亡くなった日に、少しは幼な心に受ける衝撃が軽くてすみはしないか? もし、私のそばにのみあって他人の塩の味を知らずに過ごしたのであれば、この広い世界に孤児としていきなり放り出され、幼い妹の手を引いて途方に暮れているうち、激しい世相の波に飲まれてしまうのではなかろうか?──いくじなしのこじき孤児になるなよ! 強く正しくほがらかに生き抜く孤児になっておくれ、誠一よ、カヤノよ!
 こう祈り、こう考えて、むごいけれども誠一を御地に残しているのでございます。
 だが、しかし
 池田先生
 私は誠一をまくらもとにおきたい。朝も昼も夜もあの小さい顔を見ていたい。声も聞きたい。柔らかい手で足をさすってもらいたいのです。あといくら生きるものやら、日いちにちと迫るにつれ、その短い月日をこそ父と子と一つ部屋に暮らしていたい念が強くなって参ります。土曜の夕方「ただいま」と叫んで帰って来、日曜の朝教会のミサにあずかり、一日を私の看病に過ごし、月曜の朝まだ暗いうちに「行ってきます」と元気よく出て行く。やがて誠一の乗った一番列車の上る音が過ぎて、聞こえなくなったとき、私はふっと妻の霊魂が怒っていやしないかと思ったりします。
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 まくらもとに、ききょうをいけた日だった。秋月医学士がいつものとおり風に吹かれる木の葉のごとくすうっと入って来て、足の止まったところにあぐらをかき、私の顔を見おろすなり、にっと笑った。畳の上においたカバンから聴診器のゴムが二本のぞいている。あげまきという貝を私は思い出した。そしてその聴診器の端から今にもぴゅっと水を噴き出しそうな気がした。
「今日は貧血が目立たぬようですね?」
「ありがとう。目まいも止まった」
 秋月君はにっと笑ったまま私を見つめている。リゾールがしずかににおう。秋月君はそこに出してある三河内焼きの茶わんに勝手に冷えた茶をつぐと、ヨードチンキで真っ黒になった片手でぐいとあふった。
「私は山に入ることにしました」
 平然と途方もないことを言い出して私を見つめている。私は聴診器が水を噴くのを待つどころではない。いささかあわてて尋ねた。
「そして病院の方は?」
「やめます」
「──やめる? やめられたら病院が困りますよ。せっかく君の努力で仮建築ながらりっぱに再建できたのだし、爆撃以前からいて様子をよく知っているのは君だけです」
「だからやめるのです」
「?……」
「先生もご存じのとおり私は肉体の病気をなおすとともに霊魂の病気もなおすという理想的な診療をやってみたいと思って、聖フランシスコ修道院経営の病院に入ったのでした。そうこうしているうちにあの原子爆弾です。廃虚となった病棟、倒れた同僚、かつぎこまれる負傷者の群れ……ああ、あれから二年、明け暮れただ忙しく復興に没頭してきょうまで来ました」
 秋月君は言葉をきり、二年間の目まぐるしい変転を思い出すもののごとく、焼けひびの入った茶わんを見つめた。小さな童顔もいたくふけて、ぼしゃぼしゃと生えたあごひげには疲れさえ見える。私も冷えた茶をすすりつつ、お互いに大変な苦労をしたなあとしみじみ思う。障子を開け放った緑の向こうに青草しげる荒野がひろがっている。
「──復興はしました。復興はしたが、私らの復興はこの荒野に草が再生したのとちっとも変わりません。よい果樹も植えられました。花も咲きました。しかし雑草が、ところきらわずはびこっています。私の心の中は雑草ぼうぼうたるものです」
「うむ」
 二人は黙って、また茶をすする。私も私の心の中を見直す。青草の荒野が緑を越え、敷居を越え、畳の上をこちらにのび来たって私の心の中にまで広がったような気がする。なるほど、あざみ、いぬたで、鉄道草、かやつり草、ろくな草は生えていない。
「この雑草を刈り取らねばなりません」
 かまを振りおろすがごとく秋月君はぱっさり言った。
「この雑草──戦災者根性を刈り取らねばなりません。私はこのことに最近やっと気づいたのです」
「ほう戦災者根性?──そう言えば、私なんかもその雑草に埋まっているかな?」
「はあ、怪しいもんですね」
「うむ」
「実はね、先日入院患者の一人が、私に向かってこう言ったのです。先生、ここの病室の便所にはスリッパがありません。──そのとき私はすぐこう答えたのです。なに? スリッパ? スリッパなんてぜいたくだ。無くてもすむ。ここは戦災地だよ。いいかね。ぼくらはすっかりやられて、全くの無一物からこれまでに復興したんだ。スリッパどころか、まだまだやらなきゃならぬ重要工事が山ほど残ってるんだ……」
「全くそのとおりだ」
「それだから、先生も戦災者根性の草ぼうぼう組ですよ」
「え?──」
「ねえ。私らはなんとか言えばすぐに、無一物からこれまでに復興したんだと見えを切る。この根性が恐ろしいと私は気づいたのです」
「?……」
「便所にスリッパがない、ないのは当たりまえだ、戦災だから──。庭が荒れている、荒れているのは当たりまえだ、爆心だから──。ひげがのびている、耳にあかがたまっている、当たりまえだ、戦災者だもの──。部屋の中にはいろいろな風呂敷が乱雑に積み重ねてある。当たりまえだ、戦災バラックだからな。──スリッパ買ったらどうですか?──そんなぜいたく品に金が出せるかい。庭に散らばったれんがや焼けぼっくいなんか片づけなさいよ。庭どころかい、畑の手入れもまだすまぬのだ。その不精ひげをそったらいいでしょう。──へん、この焼け跡を歩くのに紳士面せにゃならんかね。この風呂敷包み、もう少しきちんと整理できませんか?──ちぇっ、うるさいね。戦災バラックはこれでちょうどいいんだよ。文化住宅じゃあるまいし。──」
「ううむ。私の言いそうな答えだ」
「──スリッパが無いと注意してくれるけれど、便所はあるんだぞ。その便所を建てるのにどれだけ苦労したのか君知っとるかい? 二千円や三千円の金ではできないよ。便所さえあれば、スリッパは無くても用は足せるじゃないか? これが戦災者生活ってものだ。庭があの日のままだと言うが、庭なんて元来無用のものだ、なくても事欠かぬ。それにああして、あの日のままれんがや電線やトタンが散らばっているのも一つの記念すべき情景だね。この不精ひげ? この黒い耳?──ぼくらは労働者だよ。ひげもそらず、耳も洗わず、営々として復興工事に働いているんだ。部屋の整頓をしろと言われたって、この狭い家では手のつけようもないじゃないか? とにかく無一物からこれだけの物資を集めただけでも大したもんだ。君らは戦災に会ったことがないから、ぜいたく言ってるんだ。ぼくらはどん底だ。どん底から立ち上がる者だ。どん底の便所にスリッパがあるものか、どん底の庭にチューリップが咲くかい? どん底の労働者がきちんとネクタイを結んで何をする? どん底の家に洋服ダンスがきちんと並んどるものか! ぼくらは戦災者だ、どん底生活で満足だ。そもそも──」
「君、君」私は秋月君の言葉をさえぎっておいて、指先で耳たぶのくぼみをこすってみたら、まっくろなあかが落ちた。「君は私を描写しているのかね?」
「はっはゝゝゝゝ。いたかったですか?」
「まるで傷の上のかさぶたをはがれるようだ。全くそのとおりだよ。しかし……」
 秋月君は指でなすびづけをつまみ上げて、ぽいと口の中に放りこんだ。なるほど私のほうがフォークもつまようじも添えて出していなかった。
「こういう手づかみも、やっぱり戦災者流ですよ。教養なき人々ならともかく、お互い文化人ですからなあ」
「そうだったねえ」
「この廃虚に全く新しい文化を造り出すのが私ら文化指導者の義務でした」
 秋月君はみずから責めるもののごとく沈黙した。私はこの荒野にききょうだけが生えて、いちめんに紫の花を浮かべ、風のままに紫の波が天主堂の方へうち寄せていたら──と思ってみた。
「私らは貧しさを尊しとします。しかし汚れにしみてはなりません。低きに慣れてはなりません。──聖フランシスコのすすめは清貧でした」
 私は寝たままぐるりと家の中を見まわした。天井板が張ってないから屋根の裏の竹があらわだが、それにぼろ切れのようにすすがさがっている。荒壁の土の割れ目には風塞ぎの新聞紙が交叉している。かもいの釘には水筒とカヤノのエプロンがぶらさがっている。寝床の周囲には祈り本、聖書、辞書、雑誌、原稿紙、夏みかんの皮、土びん、薬袋、手紙、鉛筆が雑然と席を占め、その真ん中に、尿器が昼寝している。──これでは文化指導者の名が泣く。
「私の言うのは物質的な衣食住生活の汚れと低さだけではありません。精神生活の汚れと低さです。──戦災者だ、戦災者だと言っている間に取り残されてしまっている私らです。あれからもう二年たちました。世界はぐっと進んでいます。戦災で根こそぎやられた分を取りもどしたうえその二年間の進歩に追いつかなきゃならぬ私らです。それが二年前の戦災当時の状態にいつまでも踏み止まっていて、果たしてよいものでしょうか?」
 私は三河内焼きの茶わんをとり上げたものの心騒いでそのまま茶わんの横腹に遊ぶ七人の童子を眺めた。老い松の下、ぼたんの花咲く園に、ちょうちょうを追い遊ぶ七人の童子は何年前にこの横腹に描かれたものか、描かれた日のまま、ある者は片手にうちわを振り上げ、ある者はもろ手をあげておどるがごとく、あるいはひざまずくあり、うしろ振り向くもあり、茶わんの割れるまでは、そうしておる気である。そこは楽しき花園だからそのままにしているもよかろう。だが荒野にある日のままの心と姿でいつまでもいるわけにはゆかぬ。ゆかぬはずだが、誰も気がつかない。やっぱり戦災者だと口を開けば言っている。
「みみず花を見ず。ねずみ星を見ず」秋月君は冷え茶をぐっと飲み干してからこんな対句を吐いた。「戦災地に住み慣れては低い戦災者根性に引き下げられて、高く美しきものが見えません、原子爆弾によって私というものが一面においては高められたことは事実です。しかしその後の戦災者生活によって他面汚されたこともまた否定できません。この汚れた戦災者根性が、爆心浦上の再建にわざわいを及ぼしていることも疑いありません。汚れを気にせず、低きに甘んじている私らに、どうして新しく明るい文化を造り出す力がありましょうか?……」
「口を開けば戦災者だと叫ぶ、原子爆弾にやられたんだと自慢顔に言う。──けんかに負けたことが何の自慢になります? 彼も人間我も同じ人間。知恵と努力が足らなかったから、原子爆弾でやられたのではないですか?」
「世界戦争の終止符となった爆心点という意味で内外人は毎日見物に来ている。しかしこの雑草荒るるがままの荒野は私ら浦上人にとって恥でこそあれ、誇りではないのです。浦上人が誇ることができるのは──」
 秋月君はききょうの花を引きぬいてまじまじと見つめた。
「この雑草を刈り取って香り高い文化の都を建設した暁のことです」
 私は目をつむって浦上を思うのであった。浦上──その名はキリシタン殉教の聖地として世界中に知れ渡っている。鎖国禁教令しかれて以来この村に血を流した殉教者の数はおびただしい。中にも竹中奉行による浦上の焼き打ちと明治維新政府による浦上信徒総流罪とは、ほとんどこの村中のキリシタンを全滅させたかに見えたが、浦上が宗教史上世界に有名なのは、その迫害にも負けず、たちまち教勢を盛りかえして固い信仰を公表し、大正年間に東洋第一の教会を自力をもって建てたことであった。このたびの爆弾は宗教とは関係なかったが、信徒の多数をこの世から奪い去った。浦上を宗教文化の新しい都市として再建してこそ、なるほど私らに自慢を許されるのであった。
「わきがのわきが知らず。戦災地にいては戦災者の臭さがわかりません。私は私の体臭を知るためにしばらく浦上を離れたいのです。多良山の山奥に炭焼きの友人が一人います。私はその小屋にこもって、この心を潔めたい。塩と野菜とわずかの玄米とを手に入れることができたら幸いだと思っています」
 秋月君はききょうの花を手に持ったまま、みずから風を起こし雲に乗り、ひょう然と立ち去った。
 私は聞き疲れてしばしまどろむ。まぶたに浮かんだのは夢ではなかった。若いころ登った多良山の思い出であった。しかし十六年も前の夜の情景であったからすべての輪郭は忘却によってぼかされ、夢のようにも思われた。ただ深夜の山頂にひざまずいて祈ったとき、合掌の指の爪に照りかえした星の光のみがあざやかに網膜に残っていた。
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 カヤノのランドセルの名札を変えることになった。名札に使う厚紙は隣のおじさんが持っている。誠一は気がるに立ち上がり、ランドセルを持って隣へ行こうとした。
「ちょっと待て」私は呼びとめた。「むかし間抜けた男がいてね、牛を料理するのだと言って大きな牛を二階へかつぎ上げたんだ。ほうちょうが二階にあったんでなあ──」
 誠一は何のことやら分からず、ぽかんと私を見つめていた。
「まだ分からんのかい?──ランドセルと名札と、どちらが重い?」
 誠一はきまり悪げにランドセルを机の上に置いた。
「これは小さいことのようだが、実は大事な問題だよ。仕事というものは、ただ何でもかでもやりさえすればいいのじゃない。手を着ける前に、考えられるだけの方法を頭の中に並べてみて、いちばん能率のいいのを選ばねばならぬ」
 誠一はうなずいてから隣へ行こうとした。
「待て、どうする気なのだ?」
「厚紙をもらってきて、ここで、ランドセルの名札入れの大きさに合わせます」
「ふん。──もらってきた厚紙が小さすぎたら……もう一度行かねばならぬね。大きすぎてもあまりを返しに行かねばなるまい。それが無駄足を踏むというものだ」
 誠一は考えこんだ。やがて物差しを持って名札入れの寸法を測った。
 誠一は寸法を頭の中に入れて隣へ行った。
 その場に戸泉のおばさんが居合わせていたが、誠一がいなくなるのを待ちかねていたかのようにすぐ私に向かって、鋭い口調で言った。
「子供をそんなにいじめなくてもいいじゃありませんか」
「何もいじめたりなんかしませんよ」
「だって──あんな皮肉っぽい言い方をせずに、すなおにこうこうと教えてあげたらいいじゃないの」
「苦労せずに教えられたことは忘れやすい。苦しんで、考えて、自分の力で、やり方を見つけたら、それは忘れませんよ。私はあの子に忘れてならぬことを教えているのです。自分の力でやりぬくことを、ひとりで生きてゆく道を──」
「それもそうでしょうけれど──あんな小さい子供さんにはちと無理ですよ」
「そうでしょうか」
「今まで大学生の教育に当たっていなさったから、そんな方針でもうまくいったのでしょうが……まだ充分な能力も備わらぬ小さい者に完全を求めて、ぎゅうぎゅう詰めこんだり、厳格に鍛えすぎたりすると、小さい風船にたくさん水素を詰めるようなもので、破れてしまいますよ」
「なるほど、そうですなあ、しかし私はこんな体でしょう。これなら大丈夫という見込みをつけておいて眼をつぶりたいのですよ」
「あなたのお気持ちも充分分かりますわ、けれども、誠一さんの様子を見ていると、お父さんの前へ出ると、また何か鍛えられるのじゃないかと、びくびくしているように思われます。かわいそうに──そばからとりつくろって、やさしく慰めてくれるお母さんがいらっしゃらないのですから。それを考えにいれて、やかましく鍛える一方のお父さんであってはいけませんわ」
 それがきのうのことだった。
 私のところで、レントゲン技術をおぼえたひとりの娘さんは原子禍で死んだが、その日記を見せてもらったことがある。その中にちょいちょい私のことが出て来る。
「部長先生の眼はこわい眼だ。じいっと真正面から見つめられると、頭の中まで透視されるような気になる。レントゲンで人体の内部を見抜いているうちに、あんな眼になったのだろう」
「朝、器械の掃除を終わって、さてテストしてみると高圧が入らない。スイッチをパチパチやってると部長先生が入ってきた。私のあわてるさまをひとしきり見ていたが、私の手からネジまわしを取ると、配電盤のケースをあけて、中の配線をじいっとしらべ、ややあって、私の手のひらにネジまわしをパシリと置き、そして一言も言わず、どたりどたりと隣の治療室へ行った。
 そのあとで、私の眼から思わず涙が落ちた。くやしかった。なさけなかった。はがゆかった。負けるものかと思った。誰にも尋ねずひとりでこの故障を直してみせるぞと思いこんだ。複雑な配線図と首っ引きで、配電盤の中に張りめぐらされた電線を追跡した。時間のたつのも知らなかった。とうとう故障個所を見つけた。マグネットのバネだった。うれしかった。それをなおしてから、スイッチを入れると、高圧メーターがスーッと動いた。そこへ先生が治療室から出てきた。メーターの針が六十キロボルトのあたりでぴくぴくしている。先生はまた私の眼の中をじいっと見つめた。こんどは口をとんがらせず、口のあたりに笑いをかくしているように見えた。そして一言も言わず、現像室へ行った。」
「きょうは教室へ入ってからはじめて部長先生に賞められた。耳のレントゲン写真でほめられたものは先輩にもあまりおらぬそうだ。放課後そのために皆でアイスケーキを食べて、祝賀会をした。私も技術に自信をもってきた」
「入院第五日、部長先生が来てくださった。例によって、むっつり顔だ。ベットのそばに座って、私の脈をじいっとしらべておられたが、たった一言『大丈夫、峠を越した。なおるよ』と言っておいて、どたりどたりと室を出て行かれた。先生もだいぶん弱っておられる」
 私は果たしていい教育者であったろうか?──大学を休職になり、今病床に一生の思い出を整理しながら、気にかかるのはこの一事である。
 やさしい先生であったという思い出だけ残っていて、その先生から何を教えられたのか覚えておらぬ、そんな教師もある。恨み骨髄に徹するほどいじめられた教師にたたきこまれた知識が、いまだに生きていて役に立っていることもある。私は学生や教室員からどんなに思われようとかまわぬ。ただ原子医学だけは正しく印象深く若い人の心に刻みつけておこうと努めてきた。わが子の教育についても同じことである。
 ところが、実はきょう、私に教育者として落第の決定を与える事件が起こった。
 水が飲みたくなって誠一を呼んだ。返事がない。たしかうさぎ小屋にさっきまでいた。続けざまに呼んだ。隣のおばさんが出て来た。
「誠一さんは野球に行きましたよ」
「えっ──野球?──でも門から出て行きませんでしたよ」
「ほほゝゝゝゝ、裏からミットを持って出て行きました。だって、お父さんは勉強々々とやかましいでしょう。近所の友だちは野球々々でのぼせています。このごろは友だちが裏から手まね信号で誘い出すんですよ。──だって遊びたい盛りですもの……」
 私は地の底へ落ちゆくような気がした。
 誠一が裏から抜け出すような子になったのか! ああ!
 男子はいつも正門から出入りすべきものぞとは私の小さい時から守ってきた言葉。裏口から出入りするようなやつは小人だ。そんな小人根性を、誠一に起こさせたのは、私の厳格一点張りの鍛え教育だったのだ、ああ、私が悪かった。誠一よ、許してくれ!
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「なぜ片づけておかなかったんだ。こんな所へほったらかしにしているから、踏みつけたんじゃないか」
 朝まだ暗いのに、サマータイムと停電とのはち合わせで起きねばならぬ、その暗い部屋の中で、誠一がカヤノにどなっている。かやを出しなにカヤノの人形を踏みつけてこわしたものらしい。カヤノは寝るときまでそれを抱いていたのだが、たぶん夜なかに、ころころ寝ころぶうちにかやのそとへ投げとばしていたものだろう。それでも朝になって目がさめると、すぐに人形を思い出し、暗やみの中に手をのばして探しているうち、ひと足先に起きてかやを出た誠一の足の下で、ぐしゃりと砕けるむざんな音が狭い部屋のうちに響いたのであった。
 真剣になって言い合う幼い兄妹の言葉を私は床の中からじいっと聞いていた。事件の筋は明らかである。どちらもわざと悪いことをしたのではない。どちらにも過失があり、しかもある程度不可抗力も加わっているようである。裁判官としての父もなかなか正しい判決を下しがたい。どうやらこれは私のさいふから金が出て、それで誠一が代償の人形をきょう町から買ってくることに落ち着くらしい。
 二人ともなかなかうまい理屈を並べる。それを聞いている私はしみじみうれしかった。理屈を並べるそのことはちっともうれしくはないのだが、二人の幼い者が、そんな理屈を考え出し、筋の通るように論陣を張るほどに、それぞれ成長してくれたことを知るのがうれしかったのである。すぐにつかみ合ったり、泣き出したりせずに議論をどこまでも押し進めてゆくそのやり方がまたうれしかった。
 よく大きくなってくれた、母がなくなったときには、なんだかひどくたよりない、ぼんやりした子供で、果たして男手ひとつで育て上げることができるかしらと全く心細く思われたものだったが……。三年前だった、妻の骨を家の焼け跡に拾い、バケツに入れ、大きな松がぽっきりねじ切られ松脂のにおう荒れた墓に埋め置いて、つえをたよりにとぼとぼ山路をたどり、山の家に生き残っていたこの二人の子供をたずねて行ったのは──

 山の家は六キロばかり離れていたが、山の家の土間に入って子供の無事な顔を見るまでは、なんとなしの不安にせき立てられて、傷つける身の足の運びののろさが腹立たしかった。二人の子は三角巾で頭を包み手を巻き、看護婦さんに助けられつつ入ってきた異形の私を一目見ると逃げ出そうとした。手から放たれたせみが、ジイーと高く鳴いて戸口から飛び去ったことにさえ気がつかず、おどおどと後すざりしながら私を見つめていた。
「これは我が子だ」──と私はその時はっきり感じた。あとにも先にもその時ほど強く親子の感じを抱いたことはない。もちろんそれまでも父と子との感情や愛情はあった。しかし男親は自分の腹を痛めておらぬだけに、女親ほどにまで強く深く、精神的に止まらず、肉体感情をもってこの子の親は私だ、とは感じないものである。ところが、その日は、この二人の子の母親が亡くなり、私は父としてのみでなく、母としての仕事もする気持ちになっていたから、しんの底から、「私はこの子の親だ」と感じたのであったろう。妻の霊が乗り移った、という考え方はまちがっているが、その気持ちはそのとき理解できた。私は、もし妻が生きていたらこの場合どうするだろうか、といつも考えながら二人の子を育てようと思った。

 私はポケットから桃のかんづめを取り出した。家の焼け跡の防空ごうから掘り出した非常時食糧の一つであった。かんを切りあけ、誠一に竹ばしを持って来させ、カヤノと二人の前へ、「さあ、おあがり──うまいぞ」と、かんのまま押し出した。
 ところが二人の子供はもじもじして私の顔と竹ばしの突き立ったかんづめとを見くらべるばかりで、手も出さなければ、にこりともしない。せっかく喜ばしてやろうと思って、重いのに持って来てやったものを──私はいらだってきた。
「さっさと食ったらどうか」
 私の鋭い声に、二人の幼い子はびくっとし、べそをかき始めた。……私はじいっと、それを見つめていた。胸の中はにえたぎるようだった。
 そうだ。この子は母の現われてくるのを待っているのだ。──このかんづめが防空ごうの中にあった物とは誠一は知っていた。空襲がはげしくなったころのある晩、これはおいしいから皆で食べようね、と母が言いながら非常箱に詰めた桃のかんづめだったのだ。……その桃のかんづめは今目の前にあるのに、お母さんだけがなぜ……? お母さんがいたら──このかんづめだって、こんなふうに殺風景に竹ばしを四本突っこんで、さあ食べろ、などとは言わない……。
 私ははっとそれに気がついた、母の分まで引き受けてつとめようと心には決めていながら、実際やってみると、第一歩からして、このように、こまかい心遣いをしそこねるのだった。私は流しへ立って行って小皿を持ってきて、それに桃を移し、二人の手にそれぞれ渡した。子供はようやく桃を口に入れた。
 母はこんなしつけもしておいたのだった。私は今さらながら、これから後の養育は並み大抵のことではないと、しみじみ感じた。
 桃を一人に二切れずつ配ったら、かんの底にまだ二切れ残っているのだった。──この二切れは妻の分になるはずだったのだ。たとえ焼け跡に親子四人そろって生き残っていて、露天でこのかんづめを切りひらき、二切れずつ分けて食べるのであったら、二人の子は手を打ち声を上げて喜んだであろうものを……妻もその喜びの声を予期していたろうものを……。私はかんの底に残った二切れの、こはく色のなめらかな桃の肉が、いつしか目のピントからはずれるのも忘れ、とりとめもなく過ぎし日を思い、これからたどらねばならぬ親子三人の、はるかな道を思っていたのであった。

 ──それからまる三年たった。長い長い三年だった。一日という二十四時間がたやすく過ごせる一時間とてなかった。苦しみ、悩み、さみしさ、切なさ、情けなさにうち勝ちうち勝ち、やっとのことでしのぎ通した一時間一時間、一日一日であったから、たった三年の月日がこれほどに長く感じられるのであろう。それにもかかわらず、拾った妻の骨の軽さが、不思議に生々しく私のたなごころに残っている……。
 だが、二人の子はすくすくと育った。妻がいたら、もっとよい子に育て上げていたであろうがまあ、亡き妻よ、男手ひとつでここまでやってきたことを、上できですわ、とほめておくれよ。
 夜は明けた。天主堂の朝のお告げの鐘は鳴っている。誠一とカヤノとの人形事件もどうやら話し合いがついたらしい。誠一が人形の首を買ってきて償い、その着物はカヤノが縫うことになった。私は裁縫だけは教えることを知らないが、カヤノは母ゆずりか裁縫が好きで、おぼつかない手に針を持って、よく人形の服を縫っている。二人の子は仲よく手をつないで天主堂へミサを拝みに出て行った。神の祝福はゆたかにきょうもこの子らの上にそそがれるであろう。
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 カヤノを養女にもらいたい、とあちらこちらから申し込んで来られた。本人がわざわざ訪れてじかに話しなさるもあり、ていねいに仲人を立てて問い合わせられるもあり、遠い所からは手紙で言って来た、子供のできなかった老夫婦やら、一人娘を亡くした中年の方やら、ゆくゆくはわがむすこの嫁にというのやら、子供はたくさんいるが財産も多いからさびしがらせもせず将来も保証するからというのやら、ただかわいそうだからというのやら、いろいろであった。
 私は申し込みを受けたとき、まず私の胸にわき上がるのは無念さであった。ごく手軽にこんな同情を受ける身分に私たち親子が落ちていることをまざまざと知らされる無念であった。どこのどなたとも知らぬお方から手紙一本で申し込まれると、やれやれこれで助かったとすぐさますがりつく私であろうか?
 無念がうすれゆくと、人々をあわれに思う心が起こるのだった。この人がこんな申し込みをしているのは、自分の生命と財産とがいつまでも有るものと決めているからである。その人と富とのあてにならぬことは、一夜にして妻と財産とを失った私がいちばんよく知っている。あすさえ分からぬ身でありながら……と思うとまことにあわれである。

 そのうちに感動もしずまって、ようやく感謝の念が起こってくる。とにかくこの申し込みは善意の結果である。深く人情の奥を見つめないで、私の境遇に同情しカヤノを愛してくださるがゆえに親切にもこう申し込まれたのである。とにかくありがたいと思わねばならぬ。見ず知らずの私たちに、その人としては最大の救いの手を差しのべてくださったのだから……。
 しかしながら、この人々はなぜ私の真意を悟ってくれないのだろうか?──私たち三人がこうした生活を送っているのは、仕方なしに、いやいやながら送っているのではなくて、みずから求めて、この中に幸福を見出して送っているのであることを──。
 外から見たところでは、なるほどみじめである。家といったら二畳ひと間きり。私の寝台をおいてあるので二人の子供は残りの一畳に住んでいる。寝台の下が押し入れだ。北側の壁に香台があって十字架と聖母像と花がおいてあり、その横にたながあって本が並べてある。炊事などは隣に住むおじさんおばさんのお世話になっている。家ではなくて箱だ、とカナダの神父さまが言った。建築許可願いを出したとき長崎県でいちばん小さい家だと言われた。家財もほとんどない。
 私はふうふう息をついて寝てばかりいる。ときどき寝返りをうち腹ばいになって原稿を書くばかり、ほかは何一つできない。ちょっと無理に動くとすぐ心臓が苦しくなる。子供の世話はボタン一つかけてやることもできない。
 このみじめさを見るに見かねて、再婚をすすめられたことは幾たびあったろう? この家に新しい女手が加われば、日々の生活はどれほどらくになるだろう! 私も助かる、子供も助かる。……
 持ち込まれた縁談はどれもこれもりっぱなものだった。私は人々の親切さに感謝した。私がただ「ハイ」と一言答えれば、それで家の中はすばらしく便利になるのだった。私も心おきなく看病してもらえる、子供もきれいになり、ごちそうをいただく、そして近所へ配給のたびに迷惑をかけることもなくなる……。
 けれども私はいつも「イヤ」と頭を振った。仲人からわからずやだの、がんこ者だのと言われるくらいだった。そして今日に至るまで、みじめに見える生活を送ってきた。だから決して仕方なしにこんなにしているのではなく、こうしていたいから、こうしているのである。今になってカヤノを養女にやるほどなら、とっくに再婚していたろう。再婚もせず、子を他家へやりもせぬ理由は、この子の母をただ一人に保ちたいからである。義理の母をもたせたくないからである。この子のもっている「お母さん」をにごしたくないからである。
 私は二人の子にのこす遺産を何も持っておらぬ。私が行ってしまうと、二人の子はただ親の思い出を持つだけである。つまり私と妻とは二人の子に「思い出」だけを残して世を去ることになる。それゆえ、せめてこの思い出を美しきものとして残したい。ゆかしい思い出、きよらかな思い出──一人の父と一人の母──純粋な両親の思い出!

「お母さん!」──これはこの子の小さな胸に秘めた宝玉である。たった一つ、汚れなく光っている玉である。「お母さん」とそっと呼んでみる、するとほのぼのと浮かぶただ一つの面影! それは一生消えることのない尊い面影である。
 もし私がふたたび妻を迎えたならば、この子はその女に向かって「お母さん」と呼ばねばならぬ。もしこの子を養女にやれば、その家の主婦を「お母さん」と呼ばねばならぬ、そうなっては、この子のまぶたに、お母さんと呼んだときに現われる面影は二重写しとなり、真の母はすでに亡き人ゆえうすれてしまう、そして「お母さん」という宝玉の値打ちが下がるであろう。
 私は亡き妻を思うとき、私の妻としては平凡な女だったぐらいにしか考えないが、この子の母として思うと、私の手を勝手に触れてはならぬ尊い存在であった。
 苦しむのもさびしがるのもあと十年だ。十年のあいだのがまんをしてしのげばいいのだ。父母の思い出は一生の宝だ。それを十年のがまんができなくて売ってしまうのは愚かなことである。
 十年余りたてばこの子たちも成人となり、それぞれ新家庭をもち、やがて子を産むだろう。父となり母となったとき、この子たちははじめて私の真意を理解してくれるだろう。
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 父は小学校を卒業しなかった。大変ないたずらっこで、夏のある日、村人の信心あつい地蔵さんを川の中へ投げこみ、その水音に驚いて田んぼから村人が駆けつけた時には、けろりとして、地蔵さんも水浴びして喜んでござらっしゃる、見なさいや、あのとおり水の底でにこにこと……と言い放った。秋になると学校の山梨の木によじ登り、もいではかじりながら窓ごしに教室を見おろして授業を聞いた。校長先生が出て来てどなったら、梢をゆさゆさ揺さぶって、固い山梨の実をざあっーと先生の頭の上へ降らせ、うまいでしょう? もっと落としましょうか? と大声で尋ねた。先生大いに怒って、降りろ! と叫ぶ。上からは降りないと答える。木の上と下とで押し問答を重ねつつ、日が暮れて互いに姿は見えず声ばかり残るまでがんばった。とうとう校長先生がすでにかすれた声で木の根から、退学を命ずと宣言した。
 それが父の第一回の退学だった。それからとうとう六つの小学校をつぎつぎ退学させられて五里四方には行くべき学校がなくなった。仕方がないので祖父は家に学校の先生に下宿してもらい家庭教師に頼んだ。ところが父は大いにこの先生をいじめたので、今度は先生のほうが退却してしまった。
 祖父もついにさじを投げた。祖父は漢法医だった。父はそれから二十歳になるまで農業をさせられた。その村は出雲の山奥で、ひの川の川上、あのスサノオノミコトとオロチとが戦ったその村だった。
 父は青年になっても相変わらずだ。だからだれからも相手にされなかった。
 何が父の隠された才能を呼びさましたものか、父は二十一歳の時、突然志を立てて家を飛び出した。五十年も先にこじきになってよろよろ帰ってくるじゃろう、というのが村人の一致した予想だった。
 ──それから四年後、二十五歳の父は医師の免状を手にして、老いた祖父の前へ現われた。あの乱暴者が医師になった!──村人は目を見張り、耳を疑った。毎日毎夜、家出した子のために祈り続けていた祖父でさえ、目の前にモーニング姿で紳士らしく座っている我が子のすっかり変わった姿と、りっぱな医師免状とを、幾たびも目をこすり、めがねをかけ直して見るばかりだった。
 ──父は家を出ると大社の近くの医院に書生に住みこみ、玄関番、薬局係、診察や手術の助手、[#「助手、」は底本では「助手」]往診のカバン持ちを一手に引き受け、夜に先生の医書を借りて勉強をする。夢中になって本を写しているまに夜の明けることもしばしばだったという。農業で鍛え上げた体だったからそれが続いたのだろう。父はそれから松江へ出て、当時山陰第一の名医と言われた田野医学士の産婦人科病院の書生になった。ここでも昼は医院の雑役にまめまめしく立ち働き、夜は先生の蔵書を写しては勉強したが蔵書の豊かであったことが、どれだけ父の頭を肥やしたかしれない。田野病院では今でも永井の勉強と言い伝えられているから、よほど猛烈な勉強ぶりだったろう。わずか四年の独学で、医師開業試験を前期、後期いっしょに通ってしまったのだから──。
 父はそれから三年ほど田野病院にお礼奉公をした。その間に結婚をし、やがて私がそこの代診部屋で生まれた。二十八歳のとき、故郷の村の隣村、ひの川をさらに三里下って、スサノオノミコトとイナタヒメとが新婚家庭をもった村から招かれて、そこへ移って開業をした。その飯石村──家の庭へいのししが遊びに来たり、森にさるがおり、きつねが鳴く、神話時代と文化の程度のあまり変わらぬ山の中で二人の若い医師夫婦がどんな仕事をしたかは、またしみじみとした一つの話になる。私はこのごろになって若い日の父と母とが美しい理想を抱いてあの山の村に新しい文化を作り出そうと努めていたことを知るようになった。二人はいつもいっしょに往診したり、医学書を勉強したり、三味線をひいて歌ったり、川へあゆをとりに行ったり、山登りをしたり、乗馬の手入れをしたりしていた。その姿が懐かしく尊く思い出される。
 父は直腸ガンで五十九歳のとき世を去った。

 母はほとんどとしごのように続けて五人の子を生んだ。貧しい開業医の妻として、代診として一方には村の文化を高めるための仕事もあったし、私たち五人を育てるのは並み大抵の苦労ではなかったろう。しかし私はまゆの寄っている母の顔を見たことがない。いつも明るく笑って、くったくのない声で話した。しかし私らに対するしつけは厳しかった。いたずらや、あやまちは少しもとがめなかったが、わがままと生意気だけはたしなめられた。父も母も一度だって私に「勉強しなさい」と言ったことはなかった。私は父と母とが毎夜いかにも楽しそうに勉強しているのを見て、勉強は楽しいものだなと思った。山ばとの鳴く夜、ランプの下で、一冊の医書を中に向かい合って静かに勉強していた若い父母だった。
 ただ冷たかったことしか覚えてはおらぬから多分私が五つぐらいの時だったろう。前後は忘れてしまったが、とにかく私が何かひどく生意気な口答えをしたのであったらしい。母はいきなり私をとらえ、着物をぬがせて真っ裸にした。ばたばた手足を振りまわすのを軽々とかかえ上げ、座敷の端へ持っていって、さらりと障子をあけた。外は雪だった。おそらく軒の下には二メートルの高さに雪が積んでいたように覚えている。その深い雪の中へいきなり私を投げこんでしまったのだ。体じゅうにしみ渡った冷たさとすっかり五体をうずめた白色の不安とが今なおそのまま私の感覚に残っている。
 わがままで、きかん坊で、そのくせ泣き虫だった私を、素直な強い子にするために、母はさぞかし心を砕いていたのだろうと、これまたこのごろしきりに思われる。
 雪の中へ私を素っ裸にして投げこんだ母だったが……私が山東省で共産軍と戦っていたころ、昭和十四年の一月、地は深く凍り、雪がしきりに降る夜のことだった。夢で飯石村のあの家へ私は帰り着いた。台所の大黒柱のかげから母が現われた。丸まげにゆっていた。まあ、隆ちゃん。寒かったろ。さ、これをお上がり──そう言って差し出してくれたのが、湯気の立つみそ汁だった。私はそれをすすって、ああ、暖かいよ、お母さん、と言った。
 目がさめてみたら、私は降り積む雪の下にすっかりうずもれていた。夜はすでにあけて、雪をすかして白い光が見えた。それはもはやあの幼い日の雪の中で感じた白色の不安ではなかった。
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 ただいまっ──と元気よく叫んで、学校から帰ってきたカヤノを待っていた者は、私のまくらもとにある大きな小包だった。
「やあ、小包だ。だれに来たの!」
「さあ、だれに来たのか、あて名を読んでごらん」
「カ、ヤ、ノ、チ、ヤン──カヤノにだよ」
 にっこり笑って、カヤノは小包を両手で持ち上げ、耳をくっつけて、揺さぶってみた。
「何が入ってるんだろ?」
「さあ、?──楽しみだね」
「どこから送って来たの?」
「分からないんだよ」
「分からないの?」
「ああ、分からない。送った人の所も名前も書いてないんだもの」
「そう。──あけていいの?」
「いいとも。カヤノにいただいたのだから。──送ってくださったお方がていねいに荷造りなさったものだから、解くときにもていねいに解かねばなりません。ひもが解けたら巻いて、紙はたたんで……」
 カヤノは中味が早く見たくてたまらないけれど、ひもの結びをていねいに一つ一つ解いていった。その期待にみちたうれしげな顔を見ながら、私は限りない幸福と感謝とを感じていた。
 ようやく小包は解けた。出てきた箱のふたをあけるないなや、
「まあ。人形ちゃん、うれしいっ」
 カヤノはいきなり人形を取り上げ、ひしと胸にだきしめ、ほほずりをした。
 ──この子がこんな明るい声をあげ、こんなに喜んだのを見たのは、私にとってはじめてのような気がした。そして思わず涙が出てしまった。
 箱の中から出たのは、人形だけではなかった。下着から、上衣、ハーフコート、エプロン、パジャマ、ゆかた、スリッパ、くつ、帽子、ふとん、まくら……に至るまで、和洋一式そろって次から次に出てきたのだった。それがみんなていねいな本式の裁縫で。ただ大きさが人形に合わせて縮められているだけ、小さいなりに刺しゅうも、飾りボタンもちゃんとついているのだった。おそらくは洋裁にかよっているおじょうさんではなかろうか? 人形も手製ではあるが、手堅く作ってあるので、カヤノの手荒い着せ替えにもこわれそうにもない。
 カヤノはたちまち夢中になって、いろいろの服を着せては脱がせ、脱がせては着せている。──なんという楽しい遊びであろう! こんな楽しい遊びの世界が、与えればカヤノにあったのである。それを男親の知らぬ悲しさ、きょうの今まで与えずに来ていたのだった。どこのおじょうさんか知らないが、よくもカヤノの求めていた夢の世界を見抜いて、こつこつとこれだけの人形の着せ替え遊びを作り、はるかに送っていただいたものである。さすがに女、やっぱり女、──子をそだてるのにはどうしても男の手ではうまくゆかないことをつくづく悟らされた。
「エリザさん、起きるのですよ。もう七時よ。学校がおそくなりますよ。さ、起きて、お目をこすって、あくびをして、パジャマを脱いで──今日はどの服を着て行くの、この黄色いの? この水色の長そで? あら、シミーズ着るのを忘れちゃいけないね。まあ、お母さんはあわて者ね。ごめんなさい。早く着ないと、かぜをひきますよ。かぜをひくと、お父さんから注射されるのよ……」
 そばで聞いている私も飽かない。カヤノは自分が言ってもらい、してもらいたいことをひとりでしゃべっているのだった。
 あくる日、カヤノは人形を学校へ持っていった。驚いたことには放課後帰ってくるカヤノについて大ぜいの友だちがぞろぞろとやって来た。学校で遊んだけれども、まだ遊び足らなくて、うちまでついて来たものであった。みんな戦災児童だった。人形が欲しくても終戦このかた一度も人形を抱いたことのない原子野の子供たちだった。
 陽だまりの縁側でにぎやかに人形遊びをしている子供らを見ながら、私の思いは遠く深く広がっていくのだった。
 ──カヤノは人形をもらってあんなに喜んでいる。しかし人形をもらわない子供がカヤノの組にさえあんなに大ぜいいる。日本中にはどんなにたくさんいることだろうか? 母のない子、父のない子、父も母もない子、着のみ着のままの戦災孤児よ、どの子もどの子も人形を欲しがっているだろうに……。人形と着せ替えの服を与えたら、みんなあんなに喜ぶだろうに……。
 私はこの一年間、私と子供との私生活を書いてきた。それは私一家が世の同情を求めるために書いたものではなかった。日本中には私の一家に似た境遇の親子が多い。それが戦争の犠牲であるがゆえに不平も言わず不満も訴えず、歯をくいしばって苦しみに堪えているのである。私はその人々のかわりに筆をとってきた。どこの村にもさみしいカヤノがいる! どこの町にも親なきカヤノがいるのである! 人形をもらえば、こんなに喜ぶカヤノが──。
 私は本書の読者から手紙をいただく。それはみな私たちの親子に寄せられる深い愛情の声である。その中には、カヤノに人形を作ってあげよう、とか、洋服を縫ってあげよう、というのがよくある。それに対して私はいつもこういう返事を書く。
「私たち親子の不自由な生活に対して、未知のあなたから、こんなに清い愛情を示されたことは感謝の至りでございます。
 神のお言葉に、汝らがこの最も小さき兄弟の一人になしたるところは、ことごとにすなわち我になししなり、とありますとおり、あなたの愛情は神に嘉納せられます。
 しかし私は今あなたにもう一つの愛情を求めたい。それはあなたのすぐ近くにいるカヤノさんたちへの愛情です。気をつけて、あなたの隣近所を見まわしてください。あなたの町内を探してください。日陰にかくれて、じっと涙をたたえている孤児や半孤児や孤児予定者がきっといます。わざわざ遠い長崎のカヤノに愛の手をのばしてくださる前に、まずあなたの身近のさみしい子供に、その手をのばしてやってくださいませ。
 けだし、人の守るべき最大のおきては、
 この近き者を己のごとく愛すべし、
 というのですから。
 やがてクリスマスもまいります。どうかあなたのお友だちと話し合って、手作りの人形でもハンカチ一枚でも、あなたの町の子供におくってあげてくださいませんか。日本中の町々村々で、それぞれこうした小さい愛の手が動いてくだされば子供たちの喜びはどんなでしょう! 私は私のカヤノが人形をいただいたのよりも、そのほうをどれほどうれしく思うかもしれません」

底本:「ロザリオの鎖」中央出版社
   1959(昭和34)年2月25日初版第1刷発行
   1989(平成1)年2月10日第26刷発行
※訂正注記にあたっては、「ロザリオの鎖」ロマンス社、1948(昭和23)年6月15日発行、1949(昭和24)年2月増補6版発行を参照しました。
※ロマンス社版の「天主」の一部は、底本では「神」にあらためられています。
入力:へくしん
校正:富田倫生
2012年6月10日作成
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