鮎は水が清くて、流れの急な、比較的川幅の広い川で育ったのでないと、発育が充分でなく、その上、味も香気も、ともによくない。これが鮎のよしあしを決定する大体の条件である。
 食べるにははらわたを抜かないで、塩焼きにし、蓼酢によるのが一番味が完全で、しかも、香気を失わないでよい。醤油をつけて照り焼きなどにすれば、醤油の香りや味醂に邪魔され、その天稟の香気は、たちまち滅してしまう。また、そのはらわたを抜いてしまったのでは、鮎そのものの味覚価値は語るまでもないことになってしまう。
 東京へ来る鮎は、伊豆、九州が多いが、少なくとも地元で獲れてから三、四日か一週間かは、氷の中で経ったものである。そのほか、各地方から続々やって来るが、百のうち九十九までは、はらわたが抜かれている。よしやはらわたを抜かない工夫を凝らして、うまく蓄えたものでも、焼いている間に、腹が切れがちである。こうした鮎で、鮎のほんとうの美味さを知ろうたって、そりゃ少々無理ってものである。つまり、東京で鮎の真味を望むのは、木に拠って魚を求むるようなものである。
 また、獲り方の如何いかんで味も変る。岐阜の人は鵜に呑ませたのが一番いいと言って、年々歳々うるさいまでに自慢を繰り返している。それは鵜が鮎を瞬間に即死させるために、生から死への衰えをみせないからだと説明すべきだ。鵜に呑ませた鮎には、鵜の歯型がついていて感じはよくないが、味に至っては、たしかに岐阜の人たちの自慢するとおりだと是認してよい。
 その大きさの加減でも、獲れごろでも味が大いにちがう。九州と関東地方とをいっしょにして言うことはできないが、京都あたりで言えば、まず六月中と言えよう。長さでなら五、六寸のがよいようである。それが八寸も九寸もあって、あじかさばのようになって、東京人じゃないが、鮎の大きさを得意になってよろこぶようになったのでは、もう面白くない。子もちの鮎も、もちろんその意味から鮎食いには歓迎されない。つまり、鮎は若鮎から子もちになるまでの間がいいのである。要するに鮎の肉の分子が、細かくなめらかな間が美味いのである。
 桂川あたりで投網とあみで獲るとき、鮎は投網の下をくぐって逃げようとし、そのはずみに砂を食う。そこでその砂を吐かせるために、一日くらい生簀に入れるが、これがお客の都合で三日も経つと、必ずもう不味くなる。鮎の脂が落ちて、痩せるからである。また、加茂川べりの料亭なぞでは、鮎を生簀に入れて、いわゆる生きた鮎をお客に食わせようと努めているが、これも獲ってから翌日くらいまでのはいいが、三日経ち、四日経ちすると、もう見かけ倒しとなる。火にかけて焼くとき、尾鰭につけた化粧塩が、全身の脂のために、じくじく滲んで、黄色味を呈し、化粧塩を不体裁にするようになるくらいでないと、ほんものではない。
 かくて、化粧塩に、その形を整えた鮎が食膳にのぼったとする。この場合は、箸で身をむしったり、首ごと背骨を抜いて(京、大阪の人が得意に頭から骨抜きをやる癖)骨なしの姿をパクパクやったりしないで、小口かぶりに頭から順次にかぶって食うのが、真に鮎食いの食い方である。もちろん、骨は吐き出すことだ。
 頭と腹の部分とを食い残し、背肉ばかりを食うようなのは言語道断で、せっかくの鮎も到底成仏しきれない。
 なお、ついでだから言うが、岐阜のような鮎どころでは、客の顔をみると、待ってましたとばかり、その鮎を塩焼き、魚田、照り焼き、煮びたし、雑炊、フライと、無闇に料理の建前を変えて、鮎びたりにさす悪風がある。これは知恵のない話であって、慎むべきことだ。ことに新鮮な鮎をフライに揚げるなどは、愚の骨頂と言うべきだ。
(昭和六年)

底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社
   1980(昭和55)年4月10日初版発行
   1995(平成7)年6月18日改版発行
   2008(平成20)年5月15日改版14刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年8月20日作成
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