それはその芽の生長をば小魚などに突っつかれて傷つかないように護る一種の被衣である。
これを水中で見ると、そのかわいい芽が水色の胞衣に包まれている。それは造化の神の教えによって分泌する粘液体である。このぬめぬめの粘液体が厚くじゅんさいの新芽に付着しているために、じゅんさいは美食としての価値がある。この粘液体がなかったら、じゅんさいは別段に美味いものではない。だから、この価値は粘液体の量の多少によって決まる。ところが池沼によって、このところてん袋が非常に多く付着するものと少ないものとある。
中国の西湖のじゅんさいの如きは、やかましい湖の名とともに名物となっているが、実際は決して佳品ではなく、葉も大きくて、ところてん袋がほとんどゼロで、到底日本の良品に比すべくもない駄品である。
しかし、日本にも良種ばかりでない。概して西湖産に似たものが多く、よく食料品屋などに壜詰になっているのを見ると、壜の中には、半ば拡がった葉が一杯になっている。それはあたかも茶殻を詰めたようなものだ。
そこで、どこのじゅんさいが一番よいかと言うと、京の洛北深泥池の産が飛切りである。これは特別な優品で、他に類例を見ないくらい無色透明なところてん袋が多く付着している。この深泥池のものを壜に詰めて見ると、玉露のような針状態の細い葉が、その軸の元に小さな蕾をつけて、点々と水にまざって浮いているように見える。
眺めるものは正味のじゅんさいが少なくて、水中に浮遊しているようではあるが、壜中、水に見えるものが、すなわち粘液体であって、出して見ると海月の幼児の群れのようにぬめるが、水分はほとんどないと言ってよいくらいである。そういうものでなくては、ほんとうに美味いものではない。自分の知っているかぎり、深泥池に産するようなものは余所にはないようだ。
この池は、なんでもよほど古い池で、深泥池にある植物には、世界のどこにもないというような珍草がたくさんあるとのことである。天然記念物として大学で保護しているようだ。かかる池だから、じゅんさいもまた余所の池沼などとは全然質を異にしているらしい。
これを採取するのは、四月からだが、木を二本梯子のようにして、その上に二個の盥をくびって筏のようにつくり、盥には人が乗って棒先で採るのである。ちょっと面白い風習だ。彼の池大雅が捨てられたのは、この池の辺端である。
(昭和七年)