星岡茶寮において、料理人の補充を京都の地に求めたのは、単に茶寮の幹部がみな京都人であるからばかりでなく、日本料理というものが、京都を源流にして発達しているからであって、京都という土地は、言わば日本料理の家元なのである。
 今は京都も時世の推移とともに面白からぬ風潮が流れ込んで、持ち前の美風も、よい産物も、だんだんと失われていくようであるが、それでも家庭料理などを見ると、今もなお古えに思いつかれ、究められた、真の料理らしいものが、古河に水の絶えざるが如く、多少はその面影を今に残している。そのわずかの存続からでも、私たちの学ぶべきところのものは決して少なくないのである。まことに真の料理、合理的の料理、無理のない料理、無駄のない料理、美しい料理となっては、古えの京都ほどに発達したところは、日本のどこにもないのである。
 しかるに、その反面、料理屋の料理、料理人の料理なるものはと言うと、このたび、諸君が腕をふるって、私たちに示されたものを見るにつけても、甚だ遺憾に堪えぬものがあるのである。料理の技法の点においても、その点睛のための味付けの点においても、甚だ不徹底極まるものであって、これがかつて、それぞれ京都一流の旗亭に在って、主要なる務めを果されていた諸君の仕事とは、どうしても受け取れなかったのである。しかし、事実はげがたい。[#「げがたい。」は底本では「げがたい。」]そこで、わが京都の料理も、いつの間にか末に末にと走りつつ、邪曲の路に行くものであることを思わずにはいられない。
 家庭の料理は気儘が利く。故に、自然とその自己に生きるところがあるために、その本来の要旨を失うところが少ないが、料理屋の料理となっては、世間の様子、人の顔色といったようなものを気にしつつ進まんとする傾向があるので、大事な大事な手元の自己というものを失ってしまい、知らず識らずの間に、料理を非合法的なものにしてしまい、遂には得体の知れない怪料理をなすに至るのである。
 元来、諸君は料理屋の料理をつくることにおいて、甚だしい誤解をしているのである。食品原料の特質を殺し、形を変え、色を変じ、味を別にして、一見一喫して、なおかつ、なんの原料によってつくった料理であるか、素人には容易にわかりにくいものにし、得意の鼻をうごめかすふうがある。これは断然悪道の所作、あくまでも排斥しなければならない。料理の本義はどこまでも、その材料の本来の持ち前である本質的な味を殺さぬこと、これが第一の要件である。魚介、蔬菜、乾物、すべてそうである。
 と言うと、諸君はあるいは言うであろう。豆の形を変えてしまって豆腐という無類の料理ができているが、それはどうかと、これらはその本質を変じた料理としては、例外的な大成功であって、料理の一般論の上には、むしろ、その議論の適用を控えるのが至当であるだろう。ところで、豆腐をさらに変じて豆腐百珍などと称し、果して豆腐であるかどうか分別に苦しむようなものが間々つくられるが、それこそ、私のいわゆる無理を重ねた料理と言うべきであって、食べて豆腐の美味さなく、見て得体が知れず、ただ幼稚な食道楽をして、これが豆腐でできているとは――と、たわいない一驚を喫せしめるにすぎないものである。
 真に心得のない料理人は、常にかような根本主義を誤った低劣な料理をつくり、ふつつかにもみずから玄人をもって任じているのであるが、まことに恐縮のほかない次第である。仮りに豆腐を美味しく食べようとするに当って、思慮ある人であるなら、湯豆腐ならば、焼き豆腐ならば、揚げ豆腐ならば――と、その材料を生かすための最上の方法をまず知ってかかるであろう。と同時に、その材料を吟味するに至る用意をもしてかかるであろう。事実、このくらいのことがわからなければ、また、そのくらいの聡明さをもたなければ、料理人たることはできないのである。
 要するに料理の根本は食品原料、すなわち、さかな、野菜、肉など、なんであっても、大体において、いずれも、その持ち前の味を変えない心掛けが肝要である。西洋料理や中国料理にあっても、そうであることに間違いはないが、ことに日本料理にあっては、料理法と材料の関係上、これを深く考慮しなければならない必要がある。
 西洋料理や中国料理は、食品原料の持ち味に欠けるものが少なくないために、料理する際に、盛んにいろいろな補助味を使って調味し、一種の混成味による料理をつくることは得意のようだが、日本料理に至っては、真に優良美味な食品原料に恵まれているために、補助味と言えば、大部分がかつおぶしの一種で用が足りる。もっとも上方においては、昆布も使うが、日本料理の補助味は、このように至って簡単である。
 およそ料理についても、ものの味わいというものを考えてみるのに、天然の味に優る味というものはないようである。大根の味でも、豆の味でも、一尾のいわしの味でも、半片のまぐろの味も、到底、人為的には作り得るものではないのである。
 料理通のひとりであるという桜井という工学博士は、歳七十にも余る人であったが、かつての文藝春秋社の催した食物についての座談会の席上、私たちに向かい、「日本には調味料、補助味の類が、ほとんど発明されていない」と言って、さも見くびったように慨歎されたのであったが、それは日本が文明に遅れているためでもなければ、科学に無能なためでもないのである。その国の食品補助味や調味料が数少ないというのは、その国の食品原料が美味であることを物語るものであって、桜井博士が誇りがましく言われる西洋料理に調味料、補助味の豊富なことは、とりもなおさず、西洋の食品原料が粗質で、その持ち味に欠けるところがあるためにほかならないことを、端的に物語るものなのである。
 私は見たわけではないから、推量であるが、おそらく「味の素」の本家である鈴木氏の家庭ですら、きっとかつおぶしを欠かさずに、ふだん用いておられると思う。このようなことをくとくどと言うわけは、つまり、自然味に優る人工味なし――ということを強調したいためである。
 それだけに、いやしくも調理に志あるものは、自然味というものを、もっとも大切に取り扱わなければならない。これをまず第一に念頭に、しっかりと打ち込んでおかなければいけない。そして、その天然の持ち味というものを、いかに取り扱ったら、より以上持ち味を生かすことかできるか――ということに常に想いを致さなけれはならないのである。
 浅草のりを一枚焼くにしても、大根おろしひと口拵えるにしても、自然の持ち味を生かすか殺すかという問題が生ずるのである。朝のそうざい味噌汁にも、納豆にすら、全くこの活殺の呼吸があるのである。三度三度の飯の炊きように至っては、ことにその活殺によって一等米も三等米に堕し、三等米も一等米に賞味できる場合があるのである。
 米のことが出たついでに言うのではないが、今の料理人に、果して米の飯を完全に美味く炊ける人があるだろうかという問題については、私はこれを危ぶまずにはいられないひとりである。そもそも米の飯を、日本料理中、もっとも大切な料理のひとつだと心得ている者があるだろうか――私の感じるところを率直に言えば、米の飯こそ料理中重要な料理の一品であって、しかも宴会などにおいては、最後のとどめを刺す役まわりをするものであるから、これが不完全な飯であった場合は、せっかく数々の苦心の料理も水の泡である。事実、飯の美味い不味いは全料理の上に、大きな影響を及ぼすものであるが、試しに一流の料理人に向かって、「飯が炊けるか」と問う人があるとするなら、おそらくノーと言うのに手間はかかるまい。これはたしかに米の飯は料理の中のひとつであることを意識していないことに由来するものである。それゆえ、もとより飯の炊けないことを、料理人の恥辱だなぞとは夢にも心得ないのみか、むしろ、飯を炊くような料理人がいれば、それこそ料理人の恥辱だぐらいに考えているであろう。
 このようなことを、事実おこなっている現代の日本料理人は、いずれにしても驚くべき料理意識の誤った持ち主であると言わねばならない。なるほど、現今の日本料理は、その本領をほとんど失って、日に日にその世界を縮めて行き、卑俗な中国料理ののさばりを許し、西洋料理の侵略にまかせて、余すところの日本料理というものは、縄のれん式の下手料理と、最高材料を用いる貴人料理のわずかになごりを存するものと、一部の家庭料理によって、その跡を絶たないまでなのである。
 飯を食わなければ後腹がわるい、という飯好きの日本人から愛想をつかされた形の現今の日本料理は、これを大部分、日本料理人の無知無能にその責を帰さなければならない。同時に客の方の立場も考慮して、客の心理をよく呑み込み、把握することが確実でなければならない。そしてお客の心理にも、あまたの矛盾のあることをよく知りつくさねばならない。しかも、その矛盾を許さなければならない立場に、自分が在ることを知る必要もあるのである。
 諸君は、まずここに深く留意して進まなければ、いかに百年よくこの道に腕を磨くことがあっても、終にその名手たるの栄光を勝ち得ることはできないだろう。やさしいようで、また、誰にだってできそうであって、その実、料理というものは全くぼんやりしていたり、また、ぼんくらであってはできないのである。

 料理屋に来て、美味とその趣向を楽しむ者、いわゆる燕楽えんらく(注・酒盛りをして楽しむこと)を目的とする客の食道楽話の中には、ときどき料理人、あるいは料理屋の主人には思いも及ばない至言を聞くこともあって、大いにうなずかされることもないではないが、また、一面においては、せっかく道理にかなう名説であっても、実際には応用し得ない場合もあるのである。
 また、甚だしいのになると、矛盾撞着、得手勝手極まるものもあって、必ずしも食道楽家であるがゆえに食通ならず、従って、その言うことも一概に取り上げていいとはかぎらない。これはすでに前のところで暗にほのめかしておいたことだが、事実についてみるとき、例えば、心ある食通の言う至言のひとつとして、魚介にしろ、蔬菜にしろ、自然天然によって生ずるところの季節にのみ得らるのをよしとする論、これは誰しも、少し食味について経験のあるものなら、はたと膝打って、そこに気付き、季節の香味を尊重して止まないようになるものである。
 そこで、これに気付いたものの常として、必ず一度や二度は料理屋、ことに一流どころの料理屋の用いる季節はずれの売りものと称する季節ものに見られるような、真の香味の具わらない蔬菜、たとえば三月ごろのなすまたはかぼちゃのようなものを捉えて、きっとこれをなじり、料理屋の無知を笑い、あわれもうとする例を見るが、これこそまことにごもっともな話で、一言反駁のしようもないことのようであるが、この至言にうかうか乗っては、料理屋なるもの、料理人なるもの、飯の食い上げになるかも知れないのである。この食通の言葉には無理はないのだが、これを実際に用いては、事実矛盾が生じ、決して私を満足せしめるものではないというふしぎがあるのである。ここで人間は純理にのみ生きるものではないということを考えねばならない。
 試しに秋もたけなわの松茸の真盛りのとき、松茸の香味の絶頂に達したころ、三流どころの料理屋ならいざ知らず、もし一流二流どころの料理屋において、この季節ものをもって、得たり顔に使うとしようか、決して思うように顧客の歓心を買い得るような効果は上がらないのである。季節、季節と、口やかましく言いはやす者ほどに、その季節には朝に昼に晩に、季節ものを口につづけて倦くものである。いかに季節に香味があると言っても、一日に、朝、昼、晩とつづけたのでは、せっかくの美味も、その効果を失うものである。
 また、中流以上の生活者なら、その望むところの季節ものは、大なり小なり、到来に、あるいは店買いによって、日常家庭の食膳に充分上がるものである。上流生活者の家では、家庭においてはもとより食いきれないほど、あるいは始末のしようもないほど、松茸に、鮎に、そのくだものに、季節ごとにいわゆる到来難に遇って、処置に苦しんでいるようなことも稀ではないのである。しかも、この香味佳良をもって人のよろこびを買う季節こそ、都合よく値段も一番安いときなのである。もし、この秋に当って、一流二流どころの料理屋なるもの、すなわち、高価高級な料理をもって適当を考慮しなければならない料理屋が、季節ものの純理のみにとらわれて、挙措を単純に解したとするなら、疑いもなく料理屋として、経営上第一歩を誤るものであることは、今、私ども経験に徴して明白な事実である。
 それならば、料理屋の料理は純理を無視してもかまわないかと言えば、決してそのように早合点してはならない。いや、もっとも純理を尚ばなければならないのである。単に料理として考えるとき、「合理」――この合理を念頭から失うようでは、料理は料理として存立しないと言うべきである。しかし、実際における料理屋の料理は、かつて名僧良寛和尚によって喝破され、否定されたように、全く不合理極まるものであって、そのほとんどが無理、無意義をもって成り立っていることは、まことに遺憾である。
 その原因は、宴会料理などでお客が要求する見てくれをよしとする不純な注文にも一因はあるが、また、一面には、従来の料理人の、そのほとんどと言っても差支えないほど、いずれも、無知、無能、無修養に由来すると見ねばならないのである。
 こういう論法で、あれこれ論ずると、新入りの諸君は星岡茶寮に来て、その割烹場において、虚と実のいずれを、いかに処理すべきか、その為すところを知らずに、立ち迷うのみであろう。ここにおいて、料理はまことにむずかしいものであることを悟らねばならない。この前、料理はあさはかな考えでは、とても為し得るものではないと言ったのは、実はここなのである。浅薄な知識をもって、あるいは井の中の蛙的な概念をもって、恥ずかしげもなく、低級な技巧を得意気にひけらかすなど、無自覚、無反省な料理をもって日本料理と為すなど、従来の誤った日本料理なるものに大いに覚醒をうながし、大いに鉄槌を加え、そこに、はっきりとした見識を養成しなければならないのである。
 顧みれば、人間の生活は虚と実がつきまとっている。これを乖離かいりすることは甚だ困難である以上、料理もまた虚々実々の真骨髄に触れるところがなければならないのは、言うまでもないことであろう。それゆえ、結局は学問の問題であり、修養の問題であるということに帰着するのであるから、ただ、自己という人間を磨くことに努力するほか道はないのである。
 しかしながら、この人間練磨の問題は、一番肝要なことではあるが、諸君にしても、小生にしても、さて、にわかに磨き、にわかに到り得るものではないから、そういうものであるという理解がついていれば、まずよいとする。で、この志さえあれば、いつかはそれが身についただけは、人格的にも、知能的にも、ちゃんとできてくるものなのである。
 さて、料理人だが、なぜ今日まで、このように料理を不純にし、不合理にしてきたのだろう。識者をして、笑止の沙汰としか言いようのないことを、敢えてつづけてきたのだろう。小生は先に料理人の無知に由来すると言ったが、なぜ無知であるかについては言わなかった。諸君がすでに自覚するとおり、従来の料理人は、みながみな、あまりにも無修養であったということ、それが根本になっている。読書はおろか、世上のことについて、あまりにも知らなすぎる。
 この世間知らずの無教育者が、世上のあらゆる階級を相手の料理をしているのだから、すでに、そこに無謀が胚胎しているのである。矛盾が生じているのである。料理人の料理を口にする者には、大臣級から労働者階級まであるのである。労働者階級の欲するものは、比較的単純であるから問題はない。料理人の生活と労働者級の生活とは、それほど生活程度がちがわないから、調子のはずれるようなことはまずないのだが、これが貴人だったり、大臣級であっては、一料理人の生活及び頭脳とは、あまりにもへだたりがありすぎるため、到底、高級生活者の趣味嗜好を理解することは困難である。
 ただ幸か不幸か、高級生活者の大部分が料理づくりにうとく、存外無知であるところから、要求するところの好みも、実は幼稚な希望にとどまっているために、かろうじてともかくも、お茶を濁せるようなものの、もし頭もよく、金に不足もない、知的生活者が、一度料理を理解し、料理の知識を得て、われわれに迫ってきたならば、料理人は到底今日のように安閑としておられるものではない。
 頭もなし、知恵もなし、修養もなし、天才もなし――と言った料理人が、今日、料理でもって飯が食っていられるというのは、つまり、彼らよい頭脳の持ち主が、みずから料理づくりに頭を振り向けないからの僥倖である。幼稚な人間がつくった料理、それを幼稚でない人間が口にしているのである。ここに思い至れば、すでに主客の調和を破っている無謀に、恥ずかしさを感じないではいられないではないか。だから、故井上馨侯のような趣味に嗜好に至らざるなく精通した食通、料理づくりにまで通じた人であっては、他人に料理をまかしておくことができないのは、当然のことである。
 侯が日常みずから庖丁を握り、みずから塩梅し、貴重な名食器に盛られたことは、この間の事情に通じない者から見れば、なんて型変りの物好きだろう――ぐらいにしか見えないだろうが、よく事情に精通した人から見れば、実に当然すぎるほど当然のことであって、侯みずからの生活に忠実であり、趣味嗜好に徹底しておられたことを物語るのである。と同時に、彼の力、彼の好みに適応する料理人を求めて、満天下ひとりも発見できなかった事実も、あわせて物語るものであると言わねばならない。
 そうであるなら、趣味嗜好に徹する大臣級をして、満足させるには、料理人において、たとえ教育や学問は身に具えなくても、質においては、まさに大臣級の天分を有する者でなければ、真に大臣級を動かし得るものではないという理論も成り立つだろう。
 またまた人間の問題に陥ったが、小生自身が、古人のいわゆる「文は人なり」と喝破されたことに、一も二もなく同感する者であるがゆえに、料理づくりにおいても、もとより人であると深く信ずる。話はややもすると、人間の問題に帰納するが、とにかく、料理は複雑であって単純ではない。上中下の生活者個々に美食としての満足を得せしめるには、上中下三段の料理を、ことごとく知らなければならないのはもちろん、この上中下三段の相手を向こうにまわして、しかも、時と場合による適宜の処置を誤らないコツを心得なければならない。
 たとえ一家の中においてすら、すでに老人の好むところ、若い人の好むところ、男の好み、女の好み、子どもの好み……と、さまざまである。しかも、これらの人々の腹加減、健康状態、時と場合など、実に千差万別である。衣服に四季別々さまざまあるように、料理にも四季さまざまの働きがある。安閑としていては、料理はできないものであるということを力説したい。
(昭和六年)

底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社
   1980(昭和55)年4月10日初版発行
   1995(平成7)年6月18日改版発行
   2008(平成20)年5月15日改版14刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年5月14日作成
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