暦の上では、もう初秋だとは云ふものの、まだ残暑がきびしく、風流を心にたゝむ十数人の男女を打交へた一団にとつて、横浜はまの熱閙を避けた池廼家いけのやの句筵は、いくぶん重くるしさを感ぜしめた。細長い路地に、両側を※(「木+要」、第4水準2-15-13)かなめかなにかの生籬にしてあるのはいゝとして、狭い靴脱から、もう縁板がいやに拭き光りがしてをり、廊下を踏んでゆくと、茶黒い光沢つやを帯びたものがくつしたを吸ひとるやうにひつぱるのである。料理屋へ、風流気に出かけて先づ天井を眺めるなどは、嘗て一度さへ体験にとゞめたとも覚えない。それであるのに、不思議に、煤けた天井板が、ずんと脳天へひゞき、圧せられるやうな懶い一種廃頽的な感じが身をとりまいた。
「情死でもあつたのかな、こいつは」と、心でそんな想像をしてみたりしながら、予定されてあつた座に着いたのである。二間をぶつ通した天井は煤けた上に実際低過ぎた。かうした落着いた会席ではあるものの、世故を離れた虚心坦懐な気持で、冗談の一つや二つ飛ぶのは当りまへである。さうすると、男女の笑ひさゞめく声が、しばらくの間、低い天井下の空間に満ちわたり、おのづから此方へも微笑を強要してくるに違ひないのだが、さて、微笑を洩らすうちにも、一枚頑固に剥ぎとれないものは、くすんだ悒鬱である。
 夕陽は影をひそめたかして、部屋の隅々が仄かな陰を漂はせはじめ、人と人との間には、親しみをひとしほ濃やかならしめるやうな陰影が横たはつてゐることを感じた。さつき誰か起ち上つて紙片をなげしへ貼りつけたやうに思つたが、その紙片の文字に眼をとめて見ると、この句筵の課題が示されてゐるのであつた。その課題により、まづ案じ入らうとしてじつと心を落ちつけようとすると、仏臭い線香の匂がぷうんと鼻を掠めた。見るともなく座辺に眼をとめると、蚊遣線香が窓内へ置かれてある。どぶの匂が、蒸し蒸しする薄暮の暑気に交つて流れてくる中に、かぼそい薄煙を漂はせてゐるのである。さうした匂のほかになにか獣臭い匂が、たま/\鼻を掠めるやうに感じたので、不審に思つてゐると、窓から少し離れた箇所に座を占めてゐる一人の老作家と、若うして窈窕たる女性とが、ぽつ/\とシェパードの獰猛性に就いて話してゐるのである。で、さつきから、なにかぱた/\と小団扇で肌を叩くやうな音がすると思つたが、それは、直ぐ窓外の小舎に猛犬のシェパードが飼はれてをり、時々肢で蚊を追ふために頸輪を打つ音だといふことがはじめて判つた。畜類の悪臭も、其処から薄暮の空気に漂ひ流れるものであつた。
秋を剃る頭髪かみのけ土におちにけり
と、こんなのが一つ出来あがつた。現在の呼吸に直接するものではなく、山寺かなにかの樹蔭で、坊主頭に、髪を剃りこくつてゐる、極端に灰色をした人生が思ひに浮んだのである。しかし、これは現在こゝろざすところに、余りにも遠く離れすぎてゐるものなので、別に心へとゞめることとして、
あらがねの土秋暑き通り雨
を得てこの方を切短冊へ認める。
 掛軸からぬけ出したやうに、歌麿式の凄艶な容姿のをんながやつて来て、蚊遣香をつぎ足したので、又ひとしきり、仏臭い匂があたりに強く流れた。窓越しに、淡墨うすずみをふくんだ瑠璃の夕空が重く淀んでをり、すこしも風の気とてない蒸暑く鬱滞した陋巷の空気が泥水のやうに動かずにゐた。年寄らしい声で、シェパードを相手に何か云ふ優しい言葉がきこえたが、誰も耳をかす者はなかつた。唯、シェパードが夕餉でも与へられるために、しばらく、蒸暑い小屋から開放され、散歩することだらうと思はれ、事実それに相違なかつたやうである。一座の人々の誰もが、筆と白紙を前にして、首を傾け気味に、沈黙して何も云はうとはしなかつた。
身ほとりにたゝみて秋の軽羅かな
の一句を得た。しばらくすると、又、
新※あらき[#「葬」の「廾」に代えて「土」、U+585F、120-14]掘る土に押されて曼珠沙華
といふ一句を得た。
街裏の布施ひそやかに秋暑かな
これは、街並として余り繁華でもない裏通りの、とある一戸で、行脚托鉢の者に、女房などがひそかにお布施してゐる、折柄残暑どきで、午後の日影がオレンヂ色に漲り、その光景をくつきりと浮み出してゐる。そんな場合が念頭に浮び上つたものであつた。
「陰暦何日ごろになるのでせうかしら。」
 側にゐた清楚なすがたをした年増の女性が誰に云ふともなく、暮れゆく窓の空を仰ぎ気味に私語した。陰暦何日頃になるのか、その女性も、悒鬱で、陰惨な感じさえそく/\と身を襲ふところから、耐へがたく窓外の空にぽつかり麗はしい月でも浮び上るのを望んだことであらうと推測された。しかし、明月はおろかのこと、さつきから煙のやうな糠雨が舞つてゐることを、ひどい近眼のその女性は知らずにゐたのである。
「雨が降りだしましたな。」
と、茶黒い短羽織みじかばおりを一着した白髪の老作家が云つた。この年寄は、さつきから、ものに憑かれたやうな貌をして、上座の床壁に見入つてゐたが、白扇をしづかにうごかしながら座を起ち、つく/″\と床を眺めた。その床に飾られてある、徳川末期の作とおぼしい春画にちかいやうな淫らな美人画を鑑賞するのかと思つてゐると、
「この壁の色は?」
と、しばらく後の言葉を継がずに、じつと眺め入つた。さうして、かすかに唸るやうな語気を帯び、
「妖怪めいた感じを与へるものすごいものですな、これは。この天狗の羽団扇みたいな八ツ手を印したりした風情も。」
と、それとなく私を顧みた。私もそれを肯いた。古代の墳墓を発掘すると、その内壁面が一種の朱泥に塗りつぶされてあるのに出逢ふことがある。その、くすんだやうな永遠の色ともいふべき暗澹たるあかねが、薄暮の光を映ずる明暗。それは、まさに一種ものすごい感じを与へるものに相違なかつた。私も、偶※(二の字点、1-2-22)その事実に出逢ひ、ついさきごろ、
古墳発掘
春仏石棺の朱に枕しぬ
かげろふや上古のみかの音をきけば
といふやうな作品を得たことが、まざ/\と念頭に甦るのである。現実に程遠い幾世紀かのかなたにある様相が、唐突にも眼前へまざ/\と展開をしめすのは、うべなはるべき感覚の真実さであるに相違なかつた。
 蚊遣香のにほひが、またひとしきり強く漂つてきた時、窓の外で、何やらこと/\と不祥事を予感せしめるやうな音が伝はり、さきの齢老いたおやぢとおぼしい声で、
「この野郎また捕つてきやがつた。」
しかし、世に何でもなく、この言葉が現実の塵一つ動かすほどの力のものではないやうな平凡極まる響のものだつた。
「何を捕つたのだらう?」
言葉には出さずに、さう心が動いた。詩美の探求に一心不乱であつた私の水のやうに静かであつた心が、にはかに現実的にめざめ、すぐ眼の前に窈窕たる女性が、これも同様に柳眉を寄せ、深く考へこんでゐる顔を眺めた。さうして、他の老女をも、床壁を見入つた老作家をも、老女の陰に柱へもたれかゝつてゐる紳士をも、はげしく一通り不審を警報するやうな気持を含んだ眼つきで見廻した。
「野郎!」と、老爺はまだ何かぶつ/\言つてゐる。
 シェパードと云ふ獰猛な家畜が、不図強く頭へ来た私は、耐へがたくなつて座を起ち上らうとすると、女性たちも老作家も矢張りそれと感付いたかして相前後してたち上り、薄暮の塵芥ごみ臭い裏庭へ開け放たれた窓越しに覗いてみた。すると、逸早く窓外に展開された凄じい光景を見てとつた若い女性は、くね/\と体を歪め気味にしながら、咄嗟のおそろしい叫喚の声をあげたやうであつたが、その声を聴きとるいとまもなく、老作家も私も相前後して、
「やあ、猫を捕つて来た。」
「こんな大きな斑猫ぶちを!」
と歎声を上げ、喫驚仰天した。白毛と黒毛がぶちになつてゐる大きな猫が、揉みに揉みぬかれ、よれ/\になつた図体を莫迦長く伸ばしてしまひ、シェパードが前肢をつんと立てて此方を眺めてゐる顎の下に、土まみれになつて横はつてゐるのである。シェパードは眼を輝かし、巨口おほぐちをひきしめた脣から、時々べろり/\と薄紅い舌をのぞかせながら、威猛高に功名顔を薄暮の中にさらしてゐた。それが、丁度猫が鼠を捕り、むさぼる前にしばらくさらしておく状態と酷似してゐた。
「こんな光景に私は産れてはじめて接した」と、驚いた儘の正直の表情でその通りを告げて私が退いたあとへ、十数人の風流に遊ぶ文人墨客が犇々とつめかけて来て、たちまち窓を蔽うてしまつた。人々のなかには、誇張して驚きの声をあげる者もあるし、ものの奇異とも思はず笑ひながらシェパードの特性を称讚するものもあつた。
 私の妙に陰惨な悒鬱の感情は、なにかこれで一くぎりされたやうな状態にあつた。さうして、即興の一句を静かに切短冊へしたゝめた。
秋暑く家畜にのびし草の丈

底本:「日本の名随筆 別巻25 俳句」作品社
   1993(平成5)年3月25日第1刷発行
   1999(平成11)年11月20日第6刷発行
底本の親本:「土の饗宴」小山書店
   1939(昭和14)年7月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年11月26日作成
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