『東洋学芸雑誌』一月号で発表した私の文章、「科学の歴史的社会的制約」に対して岡邦雄氏は、本誌二月号に於て至極公明な態度を以て、批判を下した。氏は可なり根本的な点で、私が述べたいと欲した処を、私の欲するようには受け取らなかったに拘らず、氏が下した批判は充分な意味を有っている。何故なら氏の疑問とした点は、恐らく氏以外の人々によっても私に向って発せられるであろう問題に、関係しているからであり、それに又、此等の点は恰も私自身が最も積極的に主張したい処にぞくするからである。故に私は岡邦雄氏に答える正当なそして又客観的な責を負うものである。「」内は凡て、岡氏自身の、又は氏が引用した限りの私の、言葉である。

 氏はこう云う。「今自然科学を現段階に於て考えれば、自然科学は物理学に対して劣位にある多くの諸科学を含み、それ等の総体が今の自然科学なのであり、」その内には必ずしも物理学のようには、時間を空間化された一つの次元として使用していないものもある。それ故「自然科学」を考えるには、その「代表」たる物理学を以てすべきではなくて、全体の平均とも云うべき、「中位概念」を以てすべきものである。処がこの中位的な自然科学概念に就いて云えば、そこではもはや物理学というような代表的な場合とは異って、「時間が歴史性に於て使用されない」とは云われない。即ち一般に自然科学が「現段階的には階級性を有たないと論断」することは出来ない。即ち第四階梯の階級性が自然科学に拒まれる理由はない。――之が、一、に於ける氏の主張の中枢であるようである。
 ここでは私が使った二つの言葉、代表現段階、に就いての誤解が釈明されるべきである。代表とは多数の事物の総体がその部分によって云い表わされることであると云って好い。この部分のもっている性格が、それ故、この総体のもっている性格として通用する時、かかる性格が総体を代表する処の、総体の及び又かの部分の性格なのである。従って吾々が一般に自然科学という多数の諸自然科学の総体が何であるかを突き止める為めには、即ち自然科学一般の性格を把握するためには、それを代表する処の或る種の自然科学を把握すべきであって、中位概念的なる又は其他のものを取り出すべきではない。こういう時に取り出される責任者をこそ代表者と云うのであるから、そこでもし自然科学の代表者が物理学であるということを承認すれば、自然科学を一般に取り扱うに際して何故物理学を標準として好いか、又そうしなければならないか、も亦同時に承認されたこととなる。実際人々が自然科学をば歴史的、文化、精神、諸科学から典型的に代表的に)、区別するために、物理学を一方の標準としたのは、全くこの理由に基く。物理学を以て自然科学を代表せしめることは、従って、時には「寛大」を意味し、又場合によっては「その反対」を意味することもある。無論今は吾々が寛大であるか無いかよりも、吾々が何を標準とすべきか、が問題であった。
 次に現段階とは、歴史的社会的存在の総体が、様々な視点の下に、何等かのエポックに区切られる時、二つのエポックの間に見出される同一条件を具えた処の一定の長さを持った歴史社会的総体、のことである。例えば人々は原始共産制・封建制・資本制等々の段階を分ち、又或る段階の資本制を第一期・第二期・第三期等々の段階に分ける。そしてこの資本主義の第三期こそ資本主義の今の現段階だと云うのである。現段階はそれに特有な一定の諸条件(例えば資本の攻勢・矛盾など)を以て性格づけられねばならぬ。従って「現段階の性格が学問の理論構成の原理に織り込まれている」ということは、今云った一定の諸条件が理論の構造を条件づけているということに外ならない。例えば資本制なる現段階は、一切の存在を、物品は素より土地であろうと、天然物であろうと、精神的能力・名誉・義務・自由に到るまで、商品として、巨大なる商品の集大成として、吾々に示している。之が資本制社会という現段階の根本的な条件である。処で現段階に於ける経済学に於ては、その理論構造は全くかかる条件によって条件づけられるべき筈のものである。というのは、現段階に関する経済学は商品の分析から出発しなければならないのである。何から出発して何に到着するかが、理論の構造の謂である。現段階に関する経済学に於ては、客観的なこの商品からではなくして人間の主観的な欲望などから分析を始めることを許さない。そして今大事なことは、何から出発するかと云うことが夫々の経済学全体の根本的特色を決定する当のものであり、出発の仕方によっては全く相反する処の論理的に相容れない処の、二つの経済学を結果する、ということである。例えばマルクス経済学とブルジョア経済学とがその二つである。現段階の性格が学問の理論構成の原理に織り込まれる、と私が云ったのは、之を指す。それが何故、優れたる意味に於ける階級性を意味するかを、又今述べた。科学が現段階性をもつ、現段階に立脚する、ということが、決して科学を「現段階に於て考え」るとか、「今の」科学とかを意味するのでないことは、疑問の余地を残さない。
 さてそこで自然科学はこのような現段階性を有つであろうか。地殻の歴史に関する自然科学――地質学・古生物学等々――を例としよう。ここではたしかに「時間が歴史性に於て使用されない」のではないように見えるし、「時間が空間化された一つの次元として使用」されてもいないから、之は例として無難と思う。人々は地殻形成の自然史的過程を、幾つかのエポックに分ち、吾々の時代はそれによる最後の段階に位置すると考える。そして夫々の段階は無論夫々特有な条件を具えている。そこまでは夫で好い。だが併しもし人々が、之を根拠にして、であるから、凡そ地殻の歴史なるものは、それの現段階のもつ特色から研究の原理(原理とは出発と同じ言葉である)を引き出さねばならぬ。と云うならば、それは妙である。地質学は、適当な手懸りさえあるならば――手懸りとは併し出発(原理)のことではない――どの段階のもつ条件から出発しても、同じ地質学的理論へ到着し得る筈であるだろう。そこでは手懸りは相当の問題にはなるが、出発は問題にならない、何故ならどのような出発をしようと到着する処は同じであり得るから、即ち論理的に相反する二つの地質学を結果する必然性はないのだから。それ故地質学の如きはその理論構成の原理(かの出発)は地殻の歴史の現段階性によって条件づけられてはいないのである。かくて一般に自然科学は現段階性をもたない、故に夫は、歴史的・文化・精神・諸科学と同じ意味での、即ち第四の階級性を有つものではない。
 もし、地質学が、地殻の現今に於ける一切の与件から、即ち単に地球が位する現段階に特有な層だけからではなく、現今吾々が見る一切の断層に於ける過去一切の諸段階の諸層から、研究材料を引き出さねばならないからと云って、それであるから地質学でも地殻の現段階の条件から出発すると云うならば、それは今の場合単なる詭弁でしかない。経済学に就てでも、現段階の経済に於て個人の主観的な欲望がなくなって客観的な商品だけになったのではない。欲望は丁度地殻に於ける断層のように、商品社会の内に常に自らを示している。
 私は、代表現段階との概念を明らかにすることによって、岡氏の第一の質疑に答えることが出来たと思う。なお、私が所謂「応用科学の考察を棄て」たのは、それが階級性の考察に基いてこそ最も適切に考察されるべきであって、遂に夫が階級性の概念の基礎とはならないと考えただけの理由からに過ぎない。科学の階級性は科学の応用よりも広く深い問題である。科学の階級性とは人々の想像する処とは異って、科学の応用性に於て主として見出されるものではない。元来、社会科学の如きものに於ては、応用などという概念はなり立たない。なぜならそこでは理論と政策とが一つ――但し絶対的にではなくして弁証法的に一つ――であるから。応用という概念がなり立つのはただ自然科学に於てのみであろう、それは自然科学が第四の階級性を持たないことの一つの現われに外ならない。

 岡氏は「自然科学に特有な二重性」、それに於ける自然と歴史(社会)との特有な対立、を承認しない。その理由は、「社会科学と雖も社会的存在ではありながら自然の裡に自然物として生きる人間を、その人間の実践を、対象とする」、からである。
 先ず始めにこの理由を見ると、人間の実践とは、「自然物として生きる人間」の行う仕事であるように見える。処が「人間は、一面に於て動物(自然)としての人間として」社会の内に「入り込んでいる」が、かかる動物としての、人間の一面としての、人間が、「自然物として生きる人間」という言葉の意味に相違ない。そこで動物としての、人間の一面としての、人間が行う実践とは、恐らく行動を意味するのであろう。併しながら私は恰も「論理の政治的性格」に於て、実践の概念が決して単に行動の概念に止ってはならないと云った筈である。実践とは政治的なるものをも意味しなければ完全な概念とはならないと私は其処で云った。実践のこの政治的形態は恐らく、人間としての「動物としての」に対して、人間のもう一つの一面としての、人間が行う処と云うべきであろう。人間が実践的なるものとして把握されるとは、一面に於て単なる行動の主体としてであるが、併し、それがやがて一続きに、政治的行動の主体として、その両面の連続に於て把握される、ということである。であるから社会科学は「自然の裡に自然物として生きる人間」を対象とするには違いないが、もしこのことが充分な意味で「人間の実践を対象とする」ことを意味するならば、社会科学に於ける人間は、「動物」であると共に又同時に特に人間であるものとして、取り扱われねばならぬわけである。今問題になっているのは、社会人である人間が、「動物としての人間」であるかないかではなくて、「動物としての人間」が同時に単なる動物ではないものとしての人間であるか否かである。社会科学は人間を、或る意味に於ける生物学的動物として見るばかりではなく、正にそれと同時に、政治的動物であるものとして見なければならない。或る意味での生物学的動物である人間が、如何にして同時に政治的動物であるかこそ、恰も唯物論的な社会科学の教えようとする処である。経済学は単なる自然の研究ではなくして正にそれに基く歴史の研究であり、それであればこそ経済学はやがて政治学にまで行かねば完結しないと考えられるのである。このような条件の上でこそ初めて、「自然」は人間的「実践」の対象界と考えられ得るのである。併し茲に於ては自然は直ちに実践に、即ち歴史に(歴史の性格は、その実践性にあった)、連続する。社会の自然史という概念も茲で初めてその意味を有つのである。自然と歴史とは対立するが、両者は直ちに連続している。或はより正確に云うならば、社会科学は両者を初めから連続したものとして対立せしめる。岡氏が「交錯」を口にする所以である。
 自然科学に於ては然るに、自然と考えられる事物と、それの歴史的(社会的)存在との間には間隙が見出されるであろう。そこでは或る意味に於ける生物学的人間はあくまで生物学的に止るのであって政治的ではない。少くとも生物学にとっては、生物学的人間が同時に政治的でなければならないということは問題にはならない。生物学は政治学にまで連続しなければ完結しないのではない。(之が連続したものはスペンサー流の社会学ででもあろうか。)かくて社会科学に於ては自然と歴史とが連続の上で対立しなければならず、之に反して自然科学に於ては、両者が非連続の上で対立しても結構なのである。私が「対立」を口にする所以である。両者に於ける対立・二重性は異る。――自然科学に特有な二重性は、以上のようにしても再び見出されるであろう。自然科学がそれ自身歴史的所産であるに拘らず、恰も夫が歴史的存在をではなくして、之に対立する自然的存在を対象とする、という事実に基く処の、自然科学に特有な二重性を私は前に指摘したが、この特有な二重性を人々は今、上のような形態の下にも重ねて意識することが出来る筈である。
 それが自然科学であろうと、歴史的諸科学であろうと、苟も科学である以上同一の性質を有つと考えねばならぬ、という心の動き方は、何らか一元的な徹底を意味するかのようである。だが、もしこの主張に止るならば、こう主張しっ放しにするならば、それは全く抽象的な同一哲学的主張であり、正に具象的な弁証法の断念である。かかる同一性にも拘らず、その内に人々は事実上の相違を決定して行かねば分析ではない。尤も又、ただ単に相違の指摘に止るならば、区別しっ放しであるならば、それは二元論となる。実際には区別された二つのものは一つのものに媒介されねばならない。同一物の内部に於ける対立――それが二重性なのである――を見失うことは許されない。科学に就いてのかかる二重性として吾々は自然科学と歴史的諸科学との対立を挙げることが出来、この対立が夫々の科学に於ける自然と歴史との対立の仕方自身の対立を結果する。自然科学に特有な自然と歴史との二重性が存する所以である。――吾々はただかくの如き二重性を、又は二重性の在り方の二重性を、科学の階級性にもあて嵌めれば好い。第三・第四の階級性の対立・二重性はそこに結果する。

 岡氏は歴史的諸科学――例えば社会科学――が生活に近く、之に反して自然科学が「生活から縁遠い」ということが、理論的な区別であり得ることを承認しない。自然科学であろうと社会科学であろうと、それがアインシュタインとかマルクスとかと呼ばれる個人のもつ「人間性」を脱却せねばならぬ点に於て、斉しく「生活から縁遠」く、そしていずれも、ただ再び「人間性に還って」初めて「それ自らの存在の理由を獲得する」ものだという点に於て、斉しく生活に近くなければならない、と。
 一応の一般性に於ては、そうである。だが問題は、そこに止るのではなくして、かかる一般性の内部に於て、事実上如何なる差違が見出されるか、である。吾々は茲では、二、に於て述べられた二重性の概念に還れば好いのである。――「自然科学も社会科学も共に科学である限り、軌を一にする」、何れも斉しく生活へ近く又夫から縁遠い。だが私が持った問題は、自然科学が自然科学である限り、そして社会科学が社会科学である限り、――両者が「共に科学である限り」ではない――、二つはどう区別され又どう媒介されるか、であった。――社会科学の対象である社会とは、優越なる意味に於ける「生活」を意味しないであろうか。それとも、この社会という言葉の代りの自然科学の対象である自然という言葉を置き換えることの方が、正当であるだろうか。之は「常識的に」云って明らかなことである。それ故又理論的に、その所以を明らかにしなければならない義務があるのである。

 最後に岡氏は、「自然科学者」が「現代に生き、現代のさまざまな空気を呼吸する歴史的感性的人間でありながら、その労作活動に於て全く現代から除外せられ、現代を超越せしめられる、」ことを遺憾としている。私は科学者が「その労作活動に於て全く現代から除外せられ、現代を超越せしめられる、」などとは云わなかった筈である。唯特定の限定をもった意味に於て、大体そのように云ったまでである。現に自然科学それ自身が歴史をもち、又社会――例えば学会――をもつ、現代から除外されたり現代を超越せしめられたりした自然科学者は、活動的な自然科学者ではあり得ないだろう。彼が最も熱心な自然科学者であるならば、自然科学の研究こそ、彼の「真の歴史的人間の情意、信念を満足せしめる」筈である。彼は「自己疎外」する処ではなく、却って熱中をこそするであろう。併し自然科学者のこの全生命を挙げての熱中は、自然科学という科学の性質に於ける、生活からの縁遠さ、生活の自己疎外性、を左右するものではない。従って逆に、自然科学が「現代を超越」するという言葉から、自然科学者の「真の歴史的人間の情意・信念」の「満足」が不可能だという結論を惹き出すことは出来る気づかいはない。岡氏の憂は杞憂である。――そして、社会科学も自然科学も、同じ程度と仕方とに於て、社会(歴史)なるものに関係するかのように想像することは、私の想像の及ばない処である。
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 私は結局、私の従来の考えを適宜に反覆することによって、岡氏の質疑に答えたようである。恐らく、岡氏は、この文章に於て何等の新しい私の釈明を見出さないであろう。それにも拘らず、氏の質疑の一部分が多少ともほごされるならば、この文章は無用ではない。
(一九三〇・二・二〇)

底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「東洋学芸雑誌」
   1930(昭和5)年3月
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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