文化の混乱や思想の混乱が日本で叫ばれ始めたのは、しばらく前からである。日本に於ける科学的社会主義の思潮の生長以来である。日本の思想や文化を混乱と感じた者は、その際自分自身混乱に陷った所の、特色に乏しい既成の思想の持主と文化意識とであった。社会主義思潮の方は決して日本の思想や文化をただの混乱などとは見なかった。そこには新興の希望に富んだ観念の秩序があった。混乱の代りに秩序があったのだ。
 だが思想文化が一つの新しい秩序を押し出す時、之を混乱として受けとる側も、やがては之に対抗する独自の別な秩序を打ち樹てようとし始める。混乱混乱と云って騒ぎ立てるのは、この対抗する反作用的な秩序に勿体をつけるための掛け声なのである。現に今日の日本を見ると、すでに反作用的な思想秩序は略々その輪廓が出来上った。戦時体制がこの思想輪廓に一段と城壁を構築した。挙国一致であり国内相尅の止揚であり精神総動員である時、もはや混乱や何かはどこにもない筈である。で今もし、混乱しているものがあるとすれば、何とかしてこの城廓内に編入されたいと思いながらも、まだ充分に信頼をかち得ていないために、右顧左眄して順応に汲々としている或る種の文化論者の類いである。彼等のチグハグな情緒、彼等のシドロモドロの理論がいい例であろう。順応の野心のない処には、元来混乱などはあり得ないのだ。だが之とても私は混乱とは見ることが出来ない、混乱どころではない、却って彼等一流の生活問題の解決なのだ。
 だから客観的に見て、存在するものは思想や文化の混乱ではなくて、実はその対立なのである。この思想文化上の対立を単に混乱という風に見て取るのは、見る眼がだらしないためであり、無責任なヤジウマ気分のせいである。日本の文化は混乱などしていない。ただ到る処、対立と撞着とがあるのだ。而もこの対立撞着が極めて組織的な構造を有っているのである。文化の渾一や統一がないということは事実だ。併しそれをすぐ様混乱だとするのは、その内に身を置いて考えない無責任な常識の業であろう。
 思想対立や文化対立というと、一種の人民戦線的な響きを有つかも知れない。その響きを有つことの良し悪しは今論外として、私は必ずしも、そういう政治的な問題としてこの対立を考えているのではない。封建的乃至資本主義前的な文化要素と、資本主義後的な文化要素とが、到る処に於て対立撞着雑居することによって、おのずから夫々独自の文化のシステムを形造っているという、現代日本に特有な歴史的事実を指すのである、之を一応は、伝統文化と近代文化の対立とか、又莫迦げた観念ではあるが、欧米(西欧)文化と東洋文化の対立とか、云うのも勝手である。尤もそういう呼び方で片づける位いなら、もっと実状を卒直に告げるだろう事大主義文化と民衆自発的文化と、の対立とでも呼んだ方がいいかも知れないのだが。
 尤も資本主義前的文化の要素と資本主義後的文化要素との交錯は、勿論日本に限ったことではないし、又東洋だけの特色でもない。今日世界どこへ行ってもそうでない処はない筈である。ただこの二種類の要素が体系的に異った二つの文化系統に所属する要素として、互いに相反撥したり、一緒にあっても水と油のように排他的に雑居したり、之を無理に融合させようとすれば和洋折衷風の本質的醜悪を暴露したりする、そういうやり方で交錯している国は、日本が一個の代表的な文化国の資格を有つだけに、日本に特有な姿態であるわけだ。そしてこういう事情が、やがて多少とも政治的な観念的対立にまで拡大強化されつつあるのは、正に今日の日本の最も著しい特徴である。中華民国も、その国柄や国体は別として、民衆の生活そのものは極めて日本に近いものを有っているが、(だからパール・バックの『大地』の如きは日本国民の支那人に対する優越感を印象づける代りに日本農民自身の姿をそこに見出させるのだ)、日本ほど漢洋折衷(?)に苦んではいないようだ。丁度日本の明治初年にも似て、支配者層は資本主義的文化による旧文化の止揚に信頼をおいているが、併しこの信頼が日本の明治初年のそれと異る処は、すでに資本制的支配者の限度を越えて農民勤労者の立脚点を介入するという経験を有っていることだ。支那が云わば漢洋折衷に無やみと骨を折ったり「支那的なるもの」にかじりついたりしないのは、支那がまだ鹿鳴館時代にブラ/\しているからではなく、寧ろ現代の支配権力そのものがかつて、多少とも社会主義的な色彩を経験したことがあるからなのだ。それは孫文後今日に到るまでの支那の政治史と文化史とが語る処である。
 之に反して日本に於ては、支配者はまだこれまで、曽つて一遍も社会主義的意図を懐いたことがない。社会ファシスト的意図さえもまだ地についていない。日本も支那もアジア的条件の下に、事実上デモクラシーが極度に未発達であることに変りはないものの、云うまでもなく日本には一日の長がある。だがにも拘らず日本の場合では、このデモクラシーの未発達が頭から非社会主義反社会主義、という政治実質を意味して来ているのである。そこから文化の政治的対立ということも初めて露骨になって来るのである。デモクラシーの単なる未発達だけでは、政治的文化的対立を産む理由はないのだ。そしてこの現象を目して文化や思想の混乱とも呼びたくなるのであるが、そういう政治の相貌を産むだけの日本独有な文化史的条件が、抑々あったということにもなるわけだ。
 日本近世に於ける文化的条件は、徳川期封建制によって著しく左右されたという事実を、今更ながら思い出さねばならぬ。織豊時代の商業資本発達に基いた一時的な近代文化化(之を俗に西欧化と呼んでいる)は、たといそれが天主教的制限を有っていたにせよ、日本を近代化へ解放する方向にあったことは疑われない。之を徳川期三百年の封建性に押しもどしたものは、徳川幕府による鎖国政策なのである。勿論之は単に最大封建藩の実力しかなかった幕府が、云わば封建制に基く中央集権によって、日本を形だけでも近代的な国家統一へ齎すためには、やむを得ない幕府の自衛手段であった。西方諸藩の海外貿易による富強化は当時の日本の国家統一を再び危くするものであったに相違ない。だが考えて見ると徳川期封建制ほど特色のある封建制は又とあるまい。特有な国内交通教策の確立の助けを借りて封建諸公を中央集権の下に支配するという、整然たる統一国家としての封建制なのである。而もそれが近世資本主義諸国家の確立という世界的情勢のただの中に於てである。云って見れば之は大へん後れた非近世的社会機構であったのだが、併し後れたままに一人前の近世的偉容を有った近代国家機構であったのだ。つまり日本は、支那にもどこにも[#「どこにも」は底本では「どにも」]これ程大規模な実例を見ない処の、こうした近代的な封建制(?)をついこの間まで身につけていたのである。或いは、日本は極めて整然たる封建的近世を持つのだ。
 この近代的封建制の整然たる処が、近代的封建文化の発達と成熟と薫染とを齎したのだ、ということを改めて注目すべきであろう。それ故日本固有の文化とか、文化伝統とか、を表象する場合には、一般の民衆はまず第一に、歌舞伎や俳句や漢籍の素養を以ってするのである。和歌は寧ろ例外にぞくし、神道のその他に到ってはその伝統感を明らかにするには多少の説得を必要とさえするだろう。仏教さえもが、文飾としてはそうなのだ。民衆に文化的な薫染を与えたものは、恐らく徳川時代文化がその尤なものであり、之に反して謡曲や茶や庭ごのみの如き、今日では殆んど全く民衆的文化伝統を実感させない。つまり徳川時代に於て歴然たる成長を遂げたか、それとも引き続き隠然たる勢力をなしたものか、に対する時に限って、今日に於ても、日本の一般民衆が伝統的なものを感じるのだ。伝統的であることを好ましいとするか又は意味ないと感じるかは、別問題としてである。物見高い紅毛人によって珍しがられる意味での武士道も亦、徳川時代に到って初めて文官的儀礼としての定式化を得たものである。
 日本の封建制は勿論徳川期だけではない。寧ろ徳川期は日本に於ける封建制が、単に有終の美をなしたものにすぎない。或いは鎌倉時代以後の封建制を再強化したものにすぎない。更に溯れば「アジア的封建制」とも呼ばれている或る日本的なる社会機構さえ、そもそもあったのだ。にも拘らず今日人々は、日本封建的なものとして、まず何よりも徳川期の文化を考えているのが、一般の現象だろう。日本的な伝統文化と云えば、徳川文化を考える。之は単に徳川封建期が明治の半封建的資本主義化の直前の時代だからというだけの理由ではない。近いから伝統感が記憶として生々しいという理由だけからではない。実は徳川期に於ては、日本の文化が、おくれた社会機構に相応わしい後れた内容にも拘らず、近代期の統一国家という一人前らしさに相当する成熟と民衆的薫染とを有ったからなのである。
 さてヨーロッパ(アメリカ)に於ける近世資本制の発達の時期に、東洋は依然として前資本主義的段階に止っていたため、この象面の後れが、文化上のギャップとなり疎外化となった。勿論東西の文化は初めから本質を異にしていたということは出来る。だが本質が異ったところで、必ずしもギャップと疎外化ばかりが結果するとは考えられない。文化は元来技術的な基底を有っているので、技術の中核をなす生産力と生産関係は、世界的本質を同じくするのだということも忘れてはならぬ。そうでなければ如何に今日でも、イギリス製の飛行機が支那軍用機となり得る筈はなく、アメリカの自動車が日本の都市交通を支配し得る理由も判るまい。そういう技術的な共通想定の上に、夫々の文化の特有な華が咲くのであるが、して見ると東西文化が本質を異にすると云っても、それが直ちに両者の間のギャップと疎外化を意味するとは限らぬ。
 すでにヨーロッパ資本制の発芽の初期には、東洋文化の西漸なるものが屡々行われた。サマルカンドの如きはそうした東西文化の媒介処であった。例えば支那の植物性繊維紙はこうしてヨーロッパに這入り、羊皮紙を駆逐した。活版も亦、古く支那から東漸したようである。もし印度も東洋の内に数えるならば、独りキリスト教成立前後のヨーロッパの神秘思想に限らず、特に今日の「ヨーロッパ」数学の十進法に到っては、印度文化の西漸に直接原因している、と云ったようなわけだ。処がその後、ヨーロッパに於ける近世資本主義台頭に後れて了ったため、東西の文化は何か本質的にお互の間にギャップと疎外化とを齎したように見えるのである。そこで、それにかまわず、社会的な単なる便宜から、無理に西欧文化の物質的文明や技術学だけを移植しようとすると、東洋では文化そのものが二つに割れて、精神文化と物質文明との独立平行説のような、資本制下の和魂漢才説が生じて来る。徳川期に於て「東洋文化」(?)の殿りをつとめ上げた日本に於ては、特にこのギャップと疎外化とが著しい。私が日本に於ける文化対立と呼んだのは、元来以上のような歴史事情を指すのである。
 だがこう云っただけでは、抑々なぜ徳川期的東洋封建文化と西欧の資本制後的文化とが対立しなければならぬか、は必ずしも明らかではない。単なる東洋文化と単なる西欧文化ならば、さっき[#「さっき」は底本では「さつき」]も云ったように必ずしも対立ばかりはしない。又単なる封建文化と単なる資本制後的文化ならば、今日のヨーロッパ諸国の例が示しているように、二つの間の対立を特に声を大きくして叫ぶがものはない。日本の文化に於て問題になるようなああいう深刻な対立ではない筈である。だからつまり東洋の封建文化と西洋の資本制(後的)文化とで、初めて対立が発生するわけだ。併しそれも、東洋と雖も、日本初め支那その他も亦、一定の特定条件の下に一応は資本主義化して行きつつあるわけだから、封建期の文化がそのままいつまでも動かずに残って行くということはあり得ない。事実一日一日封建的文化は崩壊して行く方向を取っている。だからその限りでは、充分な意味に於ける東洋封建的な文化とヨーロッパ資本制後的な文化との「対立」は云々出来ないわけだ。やがて自然にくずれて行く対立は、充分問題にするに足る対立ではあるまい。処が、吾々は依然として日本に於ける文化の対立を重大な懸案として見出す。之は何を意味するか。
 東洋文化や西洋文化と俗称されているものが、単に東洋で発生したり東洋で栄えたりした文化や、又西洋に生れて西洋で流行する文化という意味ではなくて、或る東洋的な文化と或る西洋的な文化とを意味していなくてはならぬように、封建的乃至前資本的文化と云っても、必ずしもその時期に発生したとかその時期に旺盛だったとか云うだけのものではない。資本制後的文化についても亦そうだ。単にその時その場所その社会段階の文化、というだけではなくて、その時その場所その社会段階に於て、或る夫々の永久な文化の型として、文化規範として、抽出れ宣揚された処の、夫々の文化のイデーを夫は指しているのである。単に文化の現象ではなくて、之が云い表わすと解釈される文化のイデーを云うのだ。処ですでに文化のイデーという以上、それはそれ自身を固執する力を有っているのであり、他の文化イデーを批判したり排除したり、又それが不可能ならば少くとも他の文化イデーに喰ってかかったりすることの出来る、或る主義主張となるのである。吾々が徳川期的(又一般に日本的)封建文化と近代資本制後的文化との対立を問題にするのは、この二つの文化イデーの対抗関係を切実に実感するからなのである。封建文化は個々の現象としては一応資本主義化し又社会主義化しさえして行くであろう。だがそれにも[#「それにも」は底本では「それも」]拘らず、そういう前進をも亦やはり元の封建的なるものによって色揚げしようとする文化政策の策源地は、それだけは決して弱まりはしないのだ。だから日本の文化は、之まで及び今後の相当時期に亘って、決して漸次的に単純に封建性を薄めることによって資本主義化したり何かはしないのであって、却って封建的「文化イデー」そのものを強化することによって、「文化現象」の方は資本社会に必要な(即ち資本主義的文化への)向上発展を辿ることが出来る、という条件さえ根本にはあるのだ。こういう封建的乃至資本主義前的文化イデーが文化条件の一つとしてみずからを固執するので、文化の対立は日本に於て極めて原則的な意味を有ち、又事実執拗でもあるのである。吾々が日本文化について、単純にその「向上」や「発達」を口にすることの出来ない理由は、全くここにある。日本に於ける文化対立よりも文化そのものの向上発展を謀るべきだ、という一部の日本文化論者の反省を促さねばならぬ。
 ではその封建的乃至資本主義前的な文化イデーとは何か。それは前にも述べた通り、就中、徳川封建期に確立したもののことでなければならぬ、或いは仮に日本古来の文化イデーであるにしても、それが徳川期に於て特に典型的に色揚げされ又は出揃ったものでなくてはならぬ。そうしたものを共通的に説明するもの、又そうしたものを特徴的に掴み出すもの、それが教学で観念であることを識る人は知っているだろう。
 教学という言葉は元来、必ずしも或る文化のイデーを指すのではなくて、特定の一定文化現象の内容を指すのである。普通に三教と呼ばれる仏儒神道が日本に於ける――従って徳川期に著しく確立された――教学である。尤も神道は必ずしも教学に数えられないとも考えられる。が併し徳川期で著しくなった限りの神道は教学に這入る。仏教儒教が古来日本に支配的に行われたことは云うまでもないし、それがすべて旧くから教学としての意味を充分に持っていたことは勿論であるが、(弘法大師「三教指帰」では儒・道(道教)・仏を以て三教としている)、之が教学としての一つの文化型を意味するようになったのは、徳川期の文化観念の特色を物語っている。かくて元来一定文化内容であった教学という観念は、もっと一般的に文化全般のイデーとなり指導的な尺度となるに及んだ。漢籍の素養や仏教教典の知識、神道乃至国学的思潮は勿論のこと、之につらなる詩歌、和歌、俳句、更に義理人情の教えとして公的解釈を与えられた※(「王+爭」、第4水準2-80-78)瑠璃歌舞伎までが、直接間接に教学を支配者的文化尺度としていることを、見落してはならぬ。で教学は徳川封建期的の社会支配に於ける文化イデーであったのだ。尤も民衆自身の文化意識は必らずしもそこから出発はしていない。だがそれが社会的な公認性を得る時には、必ず何かの形でそこへ結びつけられる。芝居や戯曲が勧善懲悪のためだというような民間ドラマツールギーは、そういう公認用被服の嘘から出た真実のようなものであったろう。
 儒教をとって見ても、仏教をとって見ても、その教学的本質は、すでに旧く日本以前に、又日本以外に、行われたものだ。少くともそれが支配社会のための文化的イデーとして社会的実在性を得た時には、忽ち教学的性能を発揮し、民衆教化の武器となった。アショカ王による仏教、それ以来のチベット支那そして日本仏教の多くがそうである。叡山高野山の仏教にせよ、浄土宗や浄土真宗のものにせよだ。孔子や孟子自身はとに角として、漢代に這入って制定された儒教が正にそうだ。大陸の文化的一環であった日本への儒教伝来は又、初めから教学の政治的教化性能と結びついていた。そして徳川期に於ける朱子学、古学、陽明学などは、最も典型的な士大夫(恐らく古代支那=西周に於ては君子と共に社会支配の幹部を指す)の政治的にも実践すべき教学であった。古来東洋では「文学」(フィロロジーと訳すべきもの)とはこの教学伝承の文化技術と文化イデーとのことであり、所謂学者とは正にかかる教学や文化の文字官僚に準じるものを云う。日本で今日、文芸作家を指して、意外にも文学者と呼ぶのはここに関係がある。之は文人であり且つ先生(教員のことではない)であるという教学的教化者の意味なのだ。――だが凡そこういうことが最も著しくハッキリしたのは、何と云っても近世日本の封建期である徳川時代なのである。
 教学は、少くとも封建的な或いは寧ろアジア的な社会機構と、何か一定の函数関係を有つと見てよい。今すぐに之を断じることは私には出来ないが、そういう見解の見透しを持つ理由が多々ある。そして之が更に、その封建的乃至アジア的な社会の、支配権力とよく結びついているのを見逃してはならぬ。支配権力と結びつくように出来ていると云うよりも支配権力と結びついて初めて出来上ったものなのである。教化という性能が最もよく之を物語っている。之は民衆に対する文化的支配のために、民衆に一定の道徳的道義的倫理的説教教えを与え、それの反作用として教化者自身に文飾的人格的人道的な権威を齎すものである。この権威はおのずから、其の支配権力を文化的に云い表わしたものに他ならない。教学に於ける特有な理論と実践との統一は、当然この教えの必要不可欠な内容である。教化者相互の間には又、先生や古賢に学ぶという文化的支配伝承の特別な技術があるのである。そして注目すべきは今日の殆んど一切の宗教も亦、文化宗教であろうが迷信宗教であろうが、既成宗教であろうが[#「あろうが」は底本では「あらうが」]「新興」「類似」宗教であろうが、皆一応この教学の機構を真似ているということだ。
 で教学という文化のイデーに[#「イデーに」は底本では「イデー」]よると、文化とは凡そ以上のように倫理的・道徳的・宗教的なものでなくてはならぬ。之はそのまま権威的政治のイデーである。と云うのはあくまで文化は政治と共に、技術的乃至生産機構的なものから解放されたものでなくてはならぬということである。人格的であるとか精神的であるとかいうのは、専らそれだけの意味である。なる程近代的技術から全く孤立していた日本近代封建制の社会に於ては、之で充分に文化イデーとしての信仰を博し得たのは自然である。――だがすでに之は、決して今日の吾々日本人の文化のイデーではない。少くとも日本の民衆自身の持つ文化意識のものではない。吾々は文化という観念、の下に「文学」(文芸のことだ)や「芸術」や「科学」(自然科学も社会科学も歴史科学も這入る)や「技術」を考えている。この観念を捨てることは文化の観念が自殺することだ。処がこの文学や芸術や科学や技術は凡そ教学というものと本質的に別であるばかりでなく、教学からは増々離れて行く方向にあるか、それとも真正面から教学のイデーと衝突するものでしかない。教学は科学や技術と対立する。そして文学や芸術が亦科学や技術から独立に存在し得ない本質のものだとすると、つま科り[#「つま科り」はママ]一切の現代文化は教学の正反対物だということにならざるを得ない。同じ漢文学も之を支那文学乃至支那哲学として研究するのと、儒教という教学として教え学ぶのとでは、全く文化精神が反対だ、と云ったような具合なのである。
 日本の現代文化は、この教学というような封建的乃至資本主義前的文化イデーと、今日之が排撃し又を[#「又を」はママ]止揚しようとする処の、科学や芸術というものが云い表わす資本主義後的文化イデーとの、固執対抗の下にあるのだ。この解決は、後者の文化イデーによる前者の文化イデー(個々の文化現象自身ではない)の止揚の途にしかない。だが、そういう外見の下にも、なお根本制約として教学精神がみずからを固執するだろうことを、忘れてはならぬ。そこで日本に於ける最近の政治上の文化政策は、反作用的にも、教学精神の昂揚によって、この文化対立思想対立を乗り切ろうとすることになる。そして之こそが日本的なものであり、又東洋的なものでもあるという。だがそれが少しも民衆自身の文化イデーにかかわりない事はすでに述べた。一体近代産業に於ける生産技術を少しも説明出来ないような文化イデーが、国民の信用を博し得ないのは当然だろう。又之が日本の伝統文化であるという。だが少くとも日本国民自身はそういうものを伝統として生かす気になるかどうか問題であろう。伝統という以上、おのずから尊重され信任されるものでなくてはならぬ。押しつけられたものは、伝統であっても、単に桎梏としての伝統でしかない。そういうものは伝統の名に抑々値いしないのである。日本の文化伝統が、教学其他之に基準を置く一切のもののような文化イデーとして、みずからを固執し、嫁いびりの姑のような意味ない役割を果す時、それは伝統の尊重ではなくて、伝統の名に於て自分の失われ行く旧い権威を護るべく、悪く旧いものを次から次へとかつぎ出してコワモテしようとする、そういう伝統主義、即ち反動的保守主義、以外に意味のあるものではない。日本に於ける文化対立は、こういう姑根性では到底真面目な解決は出来ない。日本文化についての伝統主義が、日本の伝統文化を行きづまらせている。そうでなければ、どんなにギャップのある伝統文化に対しても、必ず解決の途はあるものだ。
(一九三七・一一)

底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「歴史」
   1937(昭和12)年11月号
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年7月13日作成
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