会員の待望によって、『唯研ニュース』が創刊される運びになった。会員諸氏は多分之を喜んで呉れるだろう。然し或細心な会員達の内には、同時に財政上の困難が心配になると云う人がいるかも知れない。今まで出していたニュースは、「唯研」全体のものだったのに、事実上は「唯研」の研究組織部の研究予報に過ぎなかった。この不充分を補うために出たのが、この『唯研ニュース』なのだが、之を出すようになっても、矢張時々「号外」として研究会予報を会員の手許に送らねばならない場合が少くないだろう。そう考えればこのニュースを出すことによる経済上の負担はあまり小さいものではない。
 然し多少の財政的な犠牲のために、会と会員とにとってニュースが絶対必要だという根本的事実を犠牲にすることは出来ない。
 機関誌『唯物論研究』は相当多数の一般読者を持っているが、それにも拘らず何よりも先に夫が会員のものでなければならぬということは、今更ここで云うまでもない、処がこのニュースは、より以上に会員のものであり、より以上に会員の身辺に接近したものである。
 例えば総会の詳しい記事とか、研究会の活々とした状況描写とか、会員の科学上の細かい様々な仕事とか、更に会員親睦の材料になるような身辺の消息とか、そう云った一種の私的な報道は、機関誌に載せることは出来ない次第だが、併し会員には極めて大切なニュースだろう。そういうニュースを送る役目を果す機関が、特にこの会には必要なのだが、この『唯研ニュース』でこの必要を充したいと考える。――で之は、会と会員とのための日記という意味を先ず第一に有たなければならぬ。
 会員にとって割合私的な個人的な報道がこのニュースで送られるわけであるが、もう一つ指摘しておかなければならないこのニュースに独特な職能がある。それは機関誌発行と次の機関誌発行との間の期間に発生した臨時の問題で、機関誌の発行に先立って会員に報道したいものがある場合、これを逸早く載せることの出来るのは、このニュースでなくてはならぬ。迅速を要するアップ・トゥー・デートな記事はここに載せるわけで、仮にこの点から『唯研ニュース』は唯物論研究会の新聞と見做してもいいだろう。
 会員の研究や形の整った考察は、各々研究会の方に廻すべきだし論説や討論や研究上のノート、コレスポンデンスなどは機関誌に載るだろう。処で会員の一寸とした思いつきや、希望や、凡そ感情や意志の形のままで現われるような内容には、このニュースがスペースを提供する。会員が会員に対してやや公式な然し私的な手紙を書こうとすれば、恐らくこのニュースを通じて行われる外はないだろう。そう考えれば『唯研ニュース』は会員に手紙として役立つだろう。
『唯研ニュース』は唯物論研究会とその会員とにとっての、日記であり、新聞であり、又手紙でもある。ただ、月に大体二度しか出ない(毎月五日と二十日発行)処に、特色と云えば特色、欠点と云えば欠点があるわけで、時を得たならば、或は本当の新聞にまで、本当の日誌にまで、手紙としては頻繁過ぎる程頻繁な手紙にまで、成長するかも知れない。
 日記には普通あまり理屈は書かないものだし、手紙でも近代的な手紙には議論は書かない。単行本や雑誌の出版が小規模だった近世初期には、日記や手紙は論文や論争の形式を取ったものも多かったが、現代ではもうそうではなくなった。新聞でも近代新聞の現状では、理屈や議論は重大な役目を持っていない。わが『唯研ニュース』も亦、そういう意味での現代的な日記、手紙、現代式な新聞に、多分なるだろう。会員は角を立てずに四角ばらずに、自由に社交的に、この『ニュース』を利用出来るだろう。
 尤も今度のこの『ニュース』は創刊号のことでもあり、又事務的な記事が多過ぎたので、一寸今云ったような理想的(?)な紙面を提供することは出来なかったが、問題は今後にあるのだ。
 重ねて云っておきたいのだが、この『ニュース』は吾々会員自身のものだということを、念頭に刻んでおいて欲しい。だから各会員は、丁度、銘々が日記をつける義務があり、毎日新聞を読む責任があり、時々手紙を書く義理があると同じに、この『唯研ニュース』に対して義務、責任、義理を負担しているわけで、但しそれ以上の義務も責任も義理もないわけだが、とにかくそういう限度で、会員にとっては、この『ニュース』に対する負担が課せられているのである。素直に云い換えれば、会員各位が振って、本『ニュース』のために援助を与え、特に進んで御投稿あらんことを、期待して止まないのである。
「非常時」時局の折柄、わが唯物論研究会の研究活動は、弥が上にも意義の重大性を加えつつある。今日程「唯物論」が理解されず、今日程「唯物論」が誤解されている時代は、なかったとさえ云っていいかも知れない。世間の心ある人士はわが唯物論研究会のこの客観的意義をば最近頓に「認識」するに到った結果であろう、わが研究会は最近着々として有力なメンバーを加えつつある。『唯研ニュース』の創刊は期せずして、当会のこうした積極的な情勢を反映するものである。
(一号、一九三三・一一・二〇)
 新潟行きの連絡船は佐渡の両津を昼の一時に出帆する。I氏夫妻と一緒に乗り込んだ私は、なるべく陽の当らないそしてどう間違っても盗られる心配のなさそうな位置にトランクを置いてから、その上に帽子と背広の脱いだのを載せて見たが、帽子が飛ぶといけないと思って、改めて背広を帽子の上に掛け直した、そこで初めて安心して旅行者の気分になるのである。他の女客達は出帆までにまだ十五分もあるのにサッサと甲板に横になって眼をつぶって了うのだが、坐席のことは後からどうにでもなるだろうと思って、まず一服という心算で、東京朝日と東京日日とを買い求めた。
 両津の波止場まで見送って来て呉れたH氏の宅に世話になっていた二三日は、わざと新聞をあまり見ないようにしていたので、新聞は新鮮な味覚を唆る物珍らしい生き物に見えた。
 新潟版の処を開けて地方色を漁ろうとしていた私は、だが忽ち苦笑と一緒に半ペラの新聞紙一枚をI氏に手渡しせずにいられなかったのである。新潟版にはI氏と私とがその日新潟で講演会を開くという記事が載っているのである。私は元法政大学教授として、I氏は新進の評論家として、紹介されている。もう一つの新聞の方には吾々両名が佐渡の夏期大学で講義を終えてその帰りに新潟で大講演会をやるように書いてあるのである。
 佐渡の夏期大学云々というのは全くウソで、所謂大佐渡のシベリヤ寄りの海岸線を彷徨したり、偶然来合わせた一組の女学生上り達と一緒に「おけさ」を見たり御馳走にあずかったり(尤も一夕座談会はやったが)しただけだったが、何にせよ之は大変なことになったと思ったのである。それとなく見ているとI氏もどうやら次第に不安になるらしい。
 尤も断髪のI氏夫人だけは屈託なさそうに、桟橋の上をのぞき込みながら、ハンケチを振っているのである。
 佐渡へ渡る前に新潟を通った時、沼垂あたりから見える信濃川の河港や工場地帯や、新潟駅から万代橋を渡るモダーン植民地風の風景は、新潟を張り切った小都会のように見せたのだが、それが今度帰りに新潟に上陸して見ると全く憂鬱な街に見え出したのは意外だ。古町通りを一通り歩いて見たけれども、どうも何かしら楽しまない。それに途々古本屋にも新本屋にも寄って見たが『唯研』を売っている店さえが一軒も見当らなかった。心はいよいよ重々しくならざるを得ないわけだ(但し『唯研』を売っている店はあるにはあるそうだ)。
 新潟での大講演会というのは、実は座談会に過ぎないのである。そしてその座談会の会場はイタリヤ軒というレストランなのである。処が驚いたことにはこのイタリヤ軒なるものが、新潟の市街のみすぼらしさに引きかえ、実に堂々たる華々しい四階立てのかまえなので吾々は思わず足を止めてしまった様な次第だ。処が玄関に近づいてもっと驚いたことには、「戸坂潤氏と巌木勝氏に物を訊く会」(会費五十銭)という立札が、之又堂々と街頭に面してそびえ立っていることだ。よく見ると本屋の立札のように、ペンキで青赤に書き分けてある奴なのである。
 私はここまで歩いて来る内に多少度胸も出来て(それに腹にも物を入れたから)今更あわてなかったが、I氏即ち巌木氏などは極度に狼狽して、そうこうとして夫人を派して、鞄をあずけてある処から書きかけの原稿を取り寄せた程だった。無論之を朗読する決心である。
 私の次にI氏という順で、大きなステージの幕の降りたのを背景にしながら『信江文芸』関係者二十五六人を相手にして、一場の、正に一場の、講演をして除けた。その内容は今一寸云えないが、I氏の方が背が高いだけに音吐朗々たるものがあったことだけは報告してもさしつかえない。
 河岸をかえてビールを飲みながら、全協で働いていて「ナカ」で親鸞に転向した某氏と無神論論争をやっていたので、宿舎の高等下宿に辿りついたのはやがて翌朝の三時だった。
 七時にはもう新潟発の上りに吾々三人は乗っていた。処が佐渡以来、全く偶然なめぐり合わせで、つかず離れず行を共にしていた例の女学生上りの一行が、又々隣りの車に乗っているのである。その引率者は京都帝大の日本美術史の先生なのだが、女学生を引率しているのが何か気がとがめたらしく、吾々の処へそれとなく挨拶に来て呉れた。私は一行の一人から飴を貰ってツイ喰べて了った件もあるので、別れ際に、同じく挨拶に行かなければならない義理があった。
 この義理を果すことによって、吾々の佐渡新潟にかけての大講演旅行なるものが完結するのである。(終)
(三〇号・一九三五・八・二九)
 私は先日或る代議士候補者の応援演説というものをやって見たが、弁士の控室にいると、一人のよっぱらいが這入って来て、是非自分にも応援演説をさせろと云って承知しない。諸君のような学者の話しは固くて大衆向きでない、諸君は大衆というものを知らぬ、大衆に向っては、よろしく、天に輝く星よ、地に咲く一輪の花よ、という調子でやらなければいかん、というのである。
 誰もこんな酔払いの云うことは相手にしなかったが、併し大衆というものが実際何であるかをつぶさに知ることの少ない私などは、この酔払いの主張するような説の内には多少は真理があるのではないかというような譲歩の気持ちもないではなかった。なぜというと、要するにこの酔払いは世間一般の連中(政治屋や新聞記者や床屋のお客など)の通念を代表してそう云っているのだからである。
 それに之までの理論家の多くによると大衆という言葉が何か特別に都合のよいような意味に用いられてはいなかったかという懸念もなくはなかった。進歩的な無産者だけを大衆という概念の代表として選んで、社会の大多数の人々は大衆の名に値いしないかのように片づけてしまっていたという憾みがあったかも知れない。
 そういう次第でその場に居合わせた私などは、事実多少懐疑的にもなったのだが、処が併し、実際に演説をやって見ると意外にも決してそうではないということが判って来た。下手な講義のような私の咄し、理屈や数字で以て説明を縷々としてやる咄し方、そういうものでも聴衆は可なり熱心に耳を傾けるのである。要所要所では拍手をやる。聴衆は小商人や職人が多かったのに。
 尤も政壇演説の聴衆をすぐ様大衆だとは云えないかも知れない。併し総選挙に於ける投票者は少くとも大衆と見做して、まず差支えはあるまい。その結果によると、少くとも理屈っぽい数字入りの説得が確に大衆に対して効果があったということが判る。言論の威力とか云うが、それが現実の生活に触れる限り、如何に複雑な理論も簡潔な説得力を持つものだということを、之は証明しているのである。
 今日の大衆は確に理論的な被説得力を持っている、或いは科学的に説得され得る可能性を獲得するに到った、という発見をして私は非常に愉快だったのである。
 大衆の頭脳は、今や理論的で科学的だ、彼等の生活がそれを要求している、之を知らないものは、例の酔払いの類だけだという結論になる。酒を須いずしてすでに酔払の範疇に入る者とは誰と誰か。
 総選挙の結果は一見無産派の前途を祝するように見られる。だが議会に於ける少数の無産派(?)議員を以ってしては実際へは何等の議決上の実力を持たないだろう。それを他にしての政治的機能についてはここでは政治を論じるつもりはないから触れないが、少くとも所謂無産派の進出なるものは、政治教育の上から云って、極めて大きな教育的な効果と啓蒙的な意義のあるものだと云わねばならぬ。つまり大衆は理論的な被説得力の所有者だぞという、政治常識に対する教育と啓蒙なのだ。
 だが之は云うまでもなく大衆の事柄であって、大衆を指導したり支配したりする社会の一部の人達のことではない。だから之によって「世間」そのものが理論的な被説得力を有つようになったとも結論出来ないし、又もつようになるだろうとも結論出来ない。世間というものが現わす現象は、正にその正反対であるかも知れない。
 それにこの大衆自身でも、今日有っているこの理論的被説得力がいつもそのまま身についたものだと即断することは危険だろう。大衆がこの理論的被説得力の裡に、超理論的な妄動性の一面を、可能性として持っていることを忘れるならば、被説得能力の誤算となるだろう。大衆に対する理論的説得力の問題は、大衆のこの妄動性(デマゴギー)の可能性をもその内に計算したものでなくてはならぬ。――大衆の理論的説得力の次には対デマゴギーの問題が現に来つつあるのだ。
(四三号・一九三六・三・一五)
『唯研ニュース』五〇号に唯研創立当時の思い出を書かなければいけないそうである。ニュースの思い出ではなくて、会自身の思い出だが、そうなると、思い出すことが沢山ありすぎて何から書いていいか判らない。
 併し創立当時の事を思い出して忘れることの出来ないのは、三枝博音君の功績だろう。岡邦雄氏に唯研創立のはなしを持ち込んだのも同君だが、そういう云わば政治的活動の方面は別として、まず第一に三枝君でなくては出来ないのは、事務所さがしの一件であった。初め新宿の何とか荘という怪しげな六畳の日本間を仮事務所として契約したが、金を借りて手金にすべく持って来る筈の、同君の姪が約束通りにやって来ない。どうしたのかと思っていると、二時間程おくれて、あれはもう止めて他の処にしようという話なのである。
 折角決めたのにと私は残念に思ったのだが、その時にはもう、東北ビルという東京で一等土地の善いそして一等安いビルが選定してあったのである。三枝君は不思議なほどマメな人物である。いつも約束の時間を一時間や二時間間違えられても腹は立てられぬと思った。
 これが今事務所のある東北ビルだが、当時は二階のごく小さな室で、机が一つしかないので、創刊号の原稿を、三枝君は椅子を机にして床に膝をついて書かなければならなかった。同君の原稿紙を美学的に観察すると、まるでトルクシブの工事のように、乱雑たる統一である。
 三枝君は茶飲み茶わんを買って来て、水道口で之をゴシゴシ洗っていた。そして頼まれるままに名筆を振って唯研の表札を書いた。「唯物論研究所事務所」という今でもそのまま掲っている表札である。三枝君は睡眠不足と頼まれた用事がいつも山のようにあるので、大抵こういう誤植をやるのである。三枝君の名誉ある誤植を記念するために、この表札は決して取りかえないように希望する。
 之が今から四年ほど昔の唯研の一表情である。その頃は進歩的思想の動きは一つの峠の上にあった(一九二七年)。唯研の成立はJ・O・A・Kで放送した位だ。
(一九三六・六)
(五〇号、一九三六・七・一)
 唯物論研究会に課せられるべき仕事は山ほどあり、どれに就いても手不足の憾みが深い、だがその一つとして文学理論、即ち文芸学の樹立は色々の側面から考えて、今は唯研にとって甚だ必然性があると思う。
 唯研の機関誌の上では之まであまり充分に文学の問題を取り扱っているとは考えられない。各部の研究会としては芸術部門は事実上、会の成立当初からなり立っていたし、最近では芸術の特別研究会も盛大に行われているが、機関誌に於ける取り扱い方は、まだまだごく非組織的だった。一見芸術文芸関係の文章が載りすぎるという感さえあるかも知れないが、それは却って断片的なものが載るから、そう感じられるにすぎない。或る意味では文芸は最も大衆性に富んだ文化形態なのだから、啓蒙的な文化活動の点から云っても、『唯研』誌上に文芸のスペースを計画的にわりあてることが、必要だと思う。
 尤も之までこの点について機関誌『唯研』が大して積極的でなかったのは、この方面の力の不足によるばかりでなく、世間では他に文芸研究のグループに近いものも少くなく、又文芸雑誌も多いから、文芸研究の活動はこの方面に委せて然るべきだと考えたからであるが、併し飜えって考えて見ると、文芸理論乃至芸術理論が事実上あまり確実な前進をしていないことは認めねばならぬ処であり、而も文芸の基礎的な研究を行おうという建前に立った研究団体は殆んどないと云っていいのではないかと思われる。――だからこの際、唯研が研究会と機関誌とに於て、文芸の基礎的理論を専門的に試みることは、可なり当を得た事ではないだろうか。文芸学の樹立を唯研に提案する所以である。
 文芸学が今日如何に不可欠な科学であるかは、ここに説明するまでもあるまい。世間では文芸学のハッキリしたものを用意されていないから、文芸評論其他に於て、思わぬ誤謬に引っかかったり、積極的な仕事が出来なかったりするのである。――幸にして唯研は相当多数の文芸学者、芸術学者、文芸評論家、及び作家を会員として持っている。今文芸学樹立のために動員すべき専門の会員を挙げて見ると、江口渙、森山啓、窪川鶴次郎、中野重治、新島繁、甘粕石介、高沖陽造、本間唯一、伊豆公夫、徳永泰を始めとして、決して人数と力量に不足はないと思う。日本の文化水準に照してそう云っていいと思う。だから必要なのは単に『文芸学』というテーマが現下の唯研にとってウッてつけの課題だということを、お互にハッキリ自覚して之を認定することだ。各個銘々のやり方でもいいから、早速研究会や機関誌誌上で、この課題の線にそうて活動を集中して行けばよい。とに角立派なやり甲斐のある仕事だと思う。
 唯研が悪く文学化したなどと云う勿れ。悪く文学化すということは、正に文芸学の貧弱から来る結果に他ならぬ。それから唯研は文芸に偏愛を示そうというのでもない。文芸学の樹立の仕事は、哲学や社会科学や自然科学に就いての研究にも大きなインパルスを与えるだろう。とにかく、色々の意味で、唯研での文芸学の研究は、壺にはまった仕事である。
(五四号、一九三六・九・一)

 堀伸二、森宏一の二氏と私とは、佐渡旅行のついでに高田と直江津とに寄って八月十七日夜上越地方の青年有志と座談会を開いた。佐渡旅行中の秘話についてはこの厳粛なる学芸新聞紙上(?)では割愛しなければならぬ。私はかまわないが他の両氏に気の毒なので。こういうと両氏は怒るかも知れないが、そうしたらこの次のニュースに両氏に抗議を書いて貰うことにする。
 閑話休題、場所は高田の某旅館。そこのお主婦さんは歌人とかで、吾々一同揮毫を求められたが、どれも歌人になる資質がないと見えて、俗悪見るに耐えない筆跡である。いや又失礼、両君は例外だが。だがとに角之は茶代にはなったろうと考えている。
 さて閑話休題、集まるもの無慮二十名。お互に顔見知りの人達であるらしい。相当遠方から泊りがけで来た人もいた。呉服屋さん、運送屋さん、郵便屋さん(?局員である)、自動車屋さん、其他其他というわけで、実際の生活を有った人達だから話しが愉快に出来て、判りがいいのである。しばらく前婦人文芸の講演会が高田であって、生田花世、松田解子、森三千代の諸氏が来たそうだが、この人達が云った処によると、この地方の文化的有志は非常に素朴で純真だという話だったそうだ、尤も此の三氏の方もゴソゴソしていたのでこの有志達から女工さんと間違えられたというから、あてにはならぬ。
 三たび閑話休題、座談会は私と堀氏とが話しをさせられた。二人の話しが長かったもので、森氏は喋らずに済んだ。私は佐渡に滞在中、巨人的な鼾声で以て両君を恐怖せしめたから、その罪滅しに精々長くやったのである。
 私の話はモラルと大衆性と文学とのつづき合いというようなものであり、堀氏のは最近のスペインの政治史の精しいものであった。質問や意見の交換があって、解散したのは十一時を過ぎていたと思う。解散後も話しに花が咲いて止まる処を知らなかったという次第。
 その翌日は東道の主、岩崎氏に従って春日山に上杉謙信の墓所を訪ねた。謙信の墓の前で一同写真を撮ったから、いずれお眼にかけることが出来るだろう。堀君はどう思ったか、謙信公の墓石の上に腰をかけて写した。
 その午後、沢山のおみやげを貰って東京行きの列車に乗ったのである――会ったのは主に『上越文学』の人達だった。『唯研ニュース』を配ったので、唯研に対する認識は徹底することが出来たと思う。終りに岩崎氏其他の有志諸氏に厚くお礼申しあげる。(終り)
(五四号、一九三六・九・一)
 岡邦雄氏の恋愛論は、即ち又唯物論研究会の恋愛論であるか、というような照会に時々接することがある。勿論そうではない。それはここで改めて断るまでもないのである。
 或る日私の友人達三人がフーフー云って私を訪ねて来た。留守だったので次の日曜かに又三人づれで私を訪問した。どんな重大問題かと思ったら、岡氏の恋愛論は批判を必要とするものだから、唯研其他で取り上げたらばどうか、就いてはその批判なり展開なりの打ち合わせを岡氏と共にやりたい、というのである。それで都合五人が集まって恋愛論批判展開の色々の方針を立てて見た。併し之は個人的な話し合いにすぎなくて唯研としてはまだ何も着手するには到っていない。唯研ではまだ何も方針が決してないからである。
 岡氏の終始変らぬ論敵は神近市子氏である。処が氏も実は亦唯研の会員であり、旧年度には幹事の一人でさえあった、ということを世間はあまり知らないかも知れない。だが私に云わせれば、神近氏がやっつけられても岡氏がノビても(?)唯研がやられたことにはならないのである(?)。唯研は寧ろ、二人の論争を利用して(?)社会科学的な恋愛理論の考察に資したいと考えているまでだ、と云ってもよいのだ。
 先日の『婦人公論』に岡氏達が銘々の立場を述べていたが、その内の、岡氏の奥さんが書かれたものの内に、唯研の人が岡氏に唯研として忠告したり唯研とその処置を講じたりしたかのように取れる個処があった。岡氏の友人の四五人の集まりでやったことは、決して唯研でやったことにはならぬのだから、この点念のためお耳に入れておきますと云って、私は個人的に奥さんへまで注意を促しておいたようなわけだ。勿論唯研が岡氏の個人関係とは無関係であることを、奥さんは理解して下さったのである。で唯研はまだ岡氏の理論に賛成もしていなければ又反対意志表示もやっていない。唯研の建前から云って、もしこの問題を取り上げるとすれば、単に賛成とか反対とかと云うのではなくて、批判と展開とが吾々の課題でなくてはならない筈だ。
 とにかくまだ「唯研の恋愛論」は出来ていない。この点を一寸明らかにしておきたいのである。
 というのは、最近訛伝が中々横行しているからである。訛伝即ち所謂デマであるが、先日も高沖陽造先生についてのデマが某紙に載っていたので私は驚いた。高沖君のことは本当かどうか知らないが、この「下情に通じないシェクスピヤ」を訓練してやろうとした主謀者が私であるというのは、全くの訛伝なのである。本当は匿れた人物がチャンと控えているのである。凡そデマ乃至訛伝とはこうした間の抜けたものなのである。
 或る先輩の身辺が心配だというデマが飛んだので、私の家内が見舞に行った。処が先方が驚いて了って、戸坂君はどうかしましたか? と云うのである。先輩は自分に関するデマは知らずに、私に関するデマだけを知っていたのである。つまりデマとはニュース配分の不平等から発生するものであるらしい。等々。
(一九三六・一二)
(六二号、一九三七・一・一)
 劇と映画を比較することは、或いは無意味であるかも知れないけれども、私はと角二つを比較して見たくなる。その際私は劇の側に極めて多くの不自由さを感ぜざるを得ない。物質上の制限が舞台には多いのだ。文化的には之が約束とか伝統とか、又観る側からすれば教養とかにもなるものだが、之が多分に舞台というジャーナリズム様式の物的制限の不自由さに基いたものであるという点を、率直に承認すべきだろう。併しそれにも拘わらず、私は劇(主に広義の新劇だが)を観た直後に映画を見る気はしないのである。何も之は映画が芸術的に低いとか、文芸的価値に乏しいからというわけではない。仮にそういう価値が低くても乏しくても、映画に対する私のひいきに変りはない。で色々自分を検査して見て判ったように思われるのだが、劇が映画の追随を許さぬ魅力を有つ点は、正に色彩の自由という処にあるのである。
 最近「ラモナ」や「沙漠の花園」が来たことを機会にして、色彩映画或いは特に天然色映画に対する関心が大いに高まったようだ。私は「ラモナ」だけしか見ないが、無条件に天然色映画の左袒者になれると思う。天然色と雖も染料の濃度は着色法が自由なわけだから、多少の誇張はありがちらしいが、併しこの種のデフォルマションは絵画的である以上、悪くないことだし、又却って良いことかも知れぬ。無色映画だって、ただの実感よりもズット陰影が誇張されていて、それが写真の魅力をなしていることを思わねばならぬ。尤も映画固有な現物的なリアリズムから云って、色彩の或る程度以上の誇張はインチキ性を孕んで来るが、併し写真機の暗箱の底に写る倒影に見られる程度の光彩の集中は、慥かに良いものだ。
 テクニカラーと色彩別を利用した立体映画とは、技術的に両立しない。だがテクニカラーを見てまず気のつく点は、色彩のおかげで遠近法も著しくハッキリするということだ。之は相当に立体感を再現しているから、或る程度まで立体映画の代りをつとめる。少くとも例の「飛び出す映画」の如き「立体映画」よりも却って立体性に於てリアリスティックなのだ。
 天然色映画が無条件に優れているに拘わらずまだ支配的にならぬのは、恐らく全く経済的(その意味で又技術的でもある)困難からだろう。だが或る程度の数の天然色映画が造られ始めたら、もはや天然色映画でなければ商売にならなくなると思う。私の素人感ではまず二三年で天然色時代が来るような気さえする。
 トーキー出現当時にサイレント映画の芸術的優秀性を立証しようという妙な「美学」もあったらしいが、天然色映画に対しても無色映画を讃美する「美学」があるらしい。だが夫は、貧乏の方が心が静かでよい、というような倫理学の類だ。
(一九三七・四)
(七〇号、一九三七・五・一)
 中野重治君と一緒に上野を発ったのは、今月の一日の夜である。翌朝の七時前後に富山に来た時、朝飯が食べたくなり、高岡まで何分かかるかと中野君に尋ねたら、一時間だというので駅弁を買ったのだが、食べ始めない内に高岡駅へ着いて了った。十五分程しか間がなかったのである。富山が高岡よりも先だと思って富山までの切符を買ったような中野君に、相談したのは僕の失敗だった。そのため吾々二人は、嵩の高い駅弁を大事そうに擁しながら、出迎えの高岡市の文化人諸氏に初対面することとなった。その弁当には遂に手をつける機会がなく、そのくせ終日胸にモテた。旅館に訪ねて来たお客さんたちと話をしながらも、床の間においてあるそいつに気が取られて話しに身が這入らなかった始末である。この気のおちつかない処を、氷見の海岸へ案内された。講演の仕度が出来ていないので、唐島という離れ島に涼しくなるまで遊んでいることが出来なかったのが残念である。旅館に帰って講演の準備なるものを大いにやろうとしていると、富山県庁から吾々両人に敬意を表すべく警部さんが訪ねて来た。歓談数分に亘った後、後会を約して別れたが、そのおかげで講演準備は台なしとなり、中野君は宿屋のキングを読み、僕は座布団を枕にしてウツラウツラして了った。何でも、この様子では、聴衆はよくて百人、悪ければ五十人位ということだ。
 会場は高岡商工会議所で、申し分のない処だが、その暑さは天下一品で蚊の数も人数よりは多かったらしい。それでも入場者は百五六十名以上はあったろう。汗の落ちるのを抑え抑え、中野君はこの頃の新日本派の文学の批判をやり、僕は科学的精神の話をした。あとの座談会も三十名以上の出席者があったから、この講演会はまず成功だったろう。
 翌三日の夜は富山市で講演会の予定の処、之は座談会に変更するように指令が来た。入場者も五十名を限るというのである。前売切符の人は皆入れたらしいので、七十名位にはなった。併し前日中野君にこの日の会場を熱心に尋ねていた美しい女詩人?が遂に姿を見せなかったのは中野君のために遺憾である。初めに各々三十分位ずつ吾々が座ったまま話しをして、それから質問に移った。これは相当新しい形式で、対談も成功の方だったが、県当局も、まけてはいず会場の写真を幾枚も撮るという独創的な形式を用いたものだ。その晩は友人の富山の永崎君の処に一泊、翌四日の夕刻から福野という人口五六千の町の座談会だが、之は人員二十名に制限されて了った。その上、座談の初めに当っては五分以上の話を試みてはならず、そればかりではなく、出征兵士の員数其の他や、風俗壊乱に亘ることはいけない、という念の入った達しなので、吾々一同大変恐縮して了った次第である。富山県下では文化講演会の類は極めて前例に乏しく、この町などでは座談会という形式も物珍らしいとかいうことだったがどうもあまり調子よくは行かなかったようだ。
 段々尻つぼまりとなる吾々のプログラムは、五日の金沢に於ける講演の取りやめによって、あえなく終りを告げた。無念と云えば無念である。東道の主たる巌木君など柄になく心臓を弱らし、注射を打たなければならなかった程だ。
 私もアイスクリームの食べすぎで下痢を始め、田甫の真中の巌木君の家で、丸一日の静養を必要とした。中野君はプロ文学の愛読者である厳父の下に走ったが、僕は悄然として、七日の早朝、上野のホームに下り立ったわけである。
 富山県の文化人諸君に会って土地の文化状勢を聞くことの出来たのは、かけがえのない利益であった。聞けばその後同人雑誌のプランも熟したとかいう。この地方を開拓(?)したことは、何と云っても愉快な記憶として残る。
(一九三七・八)
(七七号、一九三七・八・一五)
『土』を読んだのは、もう二十年近くの昔であるように思う。何でも四六判よりも小さくて厚い四角な本だったと思う。読む気になったのは、漱石の有名な言葉に従ってである。俺の娘が大きくなって帝劇だの三越だのと云い出した時、この小説を読ませてやりたいというような意味だった。帝劇は当時高級劇場だった。
 併し読んで見て、正直な処、読みづらくて退屈であったという印象が今でも消すことを得ない。それでその後読み直して見るという程の勇気も出なかった。中野重治氏が繰返し読んで人物の様子を彷彿させていたという文章を見て、流石は専門家だけあるなと感心した位だ。
 芝居の咄しに、原作を持ち出すのはいいことか悪いことか知らないが、併し上演されたのを見て、よくこれだけに纒まった脚色が出来たものだと、之又感心したものである。抑揚のない作品だったと思われるものに、劇らしい緊張と山とが見出されたのは、やや意外でさえあった。之ならもっと早く見て来るのだったと思った。尤も幕切れの一種のハッピーエンドは見ていてどうも解決とは感じられなかったが。
 方言が相当板についた(と思われる)点、勘次とおつうと爺とのトリオの優秀な点、云われている通りだ。おかみさんの東京下町人らしい不自然さ、父と娘との鍬打つ手つきの反力学性、幕合の比例を失して長すぎることなど、すでに指摘されていたと思う。小旦那がやや水中の油に似た感じも、或いはすでに注意している批評家はあろうと思う。
 割合貧弱な舞台装置で、貴族やブルジョアの豪奢な生活をリヤライズすることはむつかしい。特に外国ものの場合そうだ、そういう条件に注目して見ると、この劇などは大変得が行っているのである。あれだと、無理にイデオロギーなどを貼りつけなくても、「リヤリズム」自身が観照の方針に助言をして呉れるという効果がある。勘次は最も得役でもあり、事実成功でもあった。之に反しておつうは或る程度、ファンらしい同情心に期待せざるを得なかったと云っていいようだ。だが、関心の中心をおつうに置きがちな或る種の観衆があるとすればそういう観衆を是正するには、却ってよかったかも知れない。
(一九三七・一〇)
(八二号、一九三七・一一・一)
『映画創造』十二月号の上野耕三氏による「芸術的認識について」(三)を読んで、私は意外な感に打たれた。以前にもこの人の文章を読んで、特に私の意見に触れた処に来ると、思いもよらない批評にぶつかって驚いた記憶があるが、今度も亦そうだ。氏に云わせると私が『唯物論研究』で発表した「認識論としての文芸学」によれば「文芸の認識論は科学の認識論でなければならぬという訳になり従ってこの認識論は芸術一般には適用出来ない、とされている」と云うのである。併し之はとんでもない誣告である、或いは少くとも甚だしい(半故意の)誤解だと私は考える。
 文芸の認識論が科学の認識論であるなどという主張は、私と何等の関係のないことで、私はあそこで、文芸が如何に科学でないかを説いたのであり、そういう問題を決定するものこそ「認識論」だということを主張したのである。認識論というと「科学の認識論」のことだとでも氏は決めてかかっているのだろうか。それに「この認識論は芸術一般には適用出来ない」とかいうのは、つまり文芸は絵画や音楽ではないからなので、〔数字不明〕、認識に関するとは異った認識理論があるのは当然ではないか。一般の芸術にはこの認識論が適用出来ないと云ったから、それだから文芸の認識論は科学の認識論だとでも云ったように考えることは、乱暴も甚だしい。
 文芸的認識が科学的認識と如何に異るか、そしてもし上野氏のお気に入るように云い直せば、文芸や一般に芸術が、如何に科学より「高い」認識をやるものか、ということを、私は拙著『道徳論』でかなり執拗に書いた心算だ。上野氏が今後私の文芸関係理論や芸術観を紹介又は批評又は一材料として応用する場合には、本書を読んで貰うことにしたい。そうすればああいう見当違いなことは思いつかないだろう。私の文章が、上野氏の敵本対象が決して氏の捏造でないことを第三者に証明する役目を果すことは、少しばかり光栄であるが、それによって私の見解の骨子と輪廓までも捏造されることは、苦痛である。
 どうも上野氏は何かの思い込みがあって、それに支配されているようだ。つまり俺は芸術家だぞとか、俺は生え抜きの芸術理論家だぞとかいう、一種の我慢が、その篤実な考察の合間合間に顔を出すのではないかと思う、そうでなければああいう誤解は一寸出来にくいように私は考える。その上、氏は『認識論』という言葉を私が理解しようと企てている処とは別のものとして持ち合わせているようだ。それは一応私にとって構わないことではあるが、併し氏自身のその観念で以て、私の分を推定して貰っては、困るのである。要するに私は「芸術的認識」というものをも論じるものが、認識論の全般にぞくすると考えている。この点認識という言葉については益々そうだ。だから私は氏のように「科学の全本質全目的乃至全価値がその認識にあるように、芸術の全本質全目的全価値が、丁度そのように認識だけになるかどうか」というような問題の出し方をまず第一の誤りだと思うのである。これではまるで、認識とは即ち科学的認識だと決めてかかっているようなものだ。すると文芸の認識論は科学の認識論であるという説として紹介されている私の説は、やはり私の説ではなくて氏の「捏造」であったと云いたくなる。私の本当の説はこうだ。芸術は「認識」「思想」に血肉を与えたり之を具体化したり、つまりワザワザ後から「形象化」したりして、初めて芸術的認識や芸術的思想になるのではない。初めから形象として捉えられたものこそが初めて芸術的認識であり、芸術的思想なのである。という考えだ。表現は認識とは別だなどという種類の考え方は、表現なしに認識出来るとでも考える処の認識論で、そういう認識論は私の意図からすれば正に最もナンセンスな認識論である。
(一九三七・一二)
(八六号・一九三八・一・一)
 吾々は去る一月八日、突如として唯研の変質に関する声明を発表した。会員その他会に深い関係を持つ人達にとっては、恐らく青天の霹靂であったかも知れない。が又ある会員達にとっては、却って当然な現象にすぎぬという感じがしたかも知れないのである。寧ろこのことの余りに遅かったことを批難する人さえいるだろう。
 世間では唯研転向を云々している。併し吾々は今回の変質が所謂転向であるかどうか、知る処ではない。研究集合活動の或るものを停止して、会を営業単位の方向へ変質させたことは、勿論、広義に於ける一個の転向である。だが機関誌の編集方針を一層学術研究雑誌として徹底することにしたことは、本来の面目を重ねて明らかにしたものにすぎない。ただ従来評論活動にも相当な重点を置いていたのを、これを機会に清算することにしたのだ。そうしないと、色々と思いもよらぬ愚劣な誤解を招くからである。
 以上の点を別にして、所謂転向なるものを唯研が行ったとか行わなかったとか見ることは、いずれにしてもあまり意味のある見方ではないだろう。唯研は研究団体から営業体へ転向したのである。ただそれだけだ。そしてこの転向目標たる営業体は、他ならぬ愈々研究的な学術雑誌を発行することを経営の基本としようというのだ。これによって会員其他の学徒に研究発表機関を確保すると共に、間接に生活地盤の一端をも提供出来たならば、と思うのだ。
 処で、今日まで唯研を経営して来るのに、直接心掛かりになったものは何だろうか。唯研に対して善悪共に異状な関心を寄せられた天下のインテリ諸氏の、その関心のあるもの自身なのだ。唯研に対する親切から来る、又自己からの距離感から来る、一種の評判がそれなのだ。無責任なデマが唯研の経営を妨害したことは、唯研経営の当事者が少なからず心痛したことなのだ、悪くすると唯研は親愛なる一部の人達の配慮そのものによって却って誤られるのではないかとさえ思われることがある位だ。徒らに判断をあせらず、もっと泰然とするか、毅然とするか、している方が、却って利巧なのではないかとさえ思ったことも少くはなかった。
 私は岡邦雄氏と共に、幹事を辞任した。之は全く個人的な理由からで、少しでも唯研そのものに迷惑がかかってはならぬと思う節があったからである。ジャーナリズムの一部分を通じて事実上吾々二人(其他にも沢山のジャーナリストがそうなのだが)に下った禁筆令?の件を顧慮してのことである。併し吾々二人の件は、要するに個人的な事情である。というのは唯研にとっては直接関係のあることではない。世間の一隅では、唯研は岡、戸坂でやっているように考えていた向きもあるが、勿論之は飛んでもない認識不足で、唯研がそんな個人的なものでないことを知る人は知っている。
 私は思うのだ。唯研は今後、益々堂々たる武歩を進めて行くものであると。営業経営の細心精密な実施は、そのために就中必要だ。会員諸氏や読者諸氏の、援助を切望してやまない。以上、私は旧幹事の一人として、茲に聊か衷心を吐露するものだ。
(一九三八・一)
(八七号、一九三八・一・一五)
 一九三八年二月十二日、唯物論研究会はいよいよ解散になった。会設立以来、正に五カ年五カ月、多少の感慨なきを得ない処であるが、この際感傷的になるのは、あまり道徳的ではない。それよりも雑誌『唯物論研究』が『学芸』と改題されて眼新らしい編集の下に出版される予定だというから、そのことでも胸に描きながら、未来を楽しんだ方がいいと私は考えている。
 君は全くオプティミストだねと感心する友人に対して、私はいつもこう説明する。俺の楽天主義には科学的なレーベンスワイスハイト(「哲学」)がある。何しろ人生は賭けだということを、まず呑み込んでもらおう。奇(チョウ)と出るのが五〇パーセント、偶(ハン)と出るのが五〇パーセントなら、奇偶どちらか景気のよい方へかける。そうした方が、景気の悪い方へ賭けるよりも、得をするという計算だ。パスカル氏は神様についてそう云っている。私だけの「哲学」ではないことがわかるだろう、そこでは私は、いつも楽観することに決めている。
 遊び人のように奇偶の理を省察すると共に、私は香具師のようにアバンチュールの徳に対し尊敬を払っている。別に恋のアバンチュールに限るのではないが、ひと仕事やるには、いつもアバンチュール好みは私の楽観説と離すことは出来ない。楽天説がなくては冒険などする気になる筈はない。
 さて私は、広く私の仕事の上の友達等に、この楽天説と冒険主義とからなるロマン主義と理想主義とをお勧めしたいと考える。唯物論研究会が解散になるに際して、このロマン主義と理想主義とをお勧めするのも、一寸面白いではないかと思うが、諸君どうです。それから序でに、もう一つ、よろしくないものをお勧めしたいと思う。それは或るニヒリズムとシニズムだ。唯研がなくなった、ああそうか、と云っていればいいではないか。悲壮なものなど糞喰えだ。少くともその方が「得」なのである。私は損得から専ら物を考える。之を唯物主義と云わば云え。――こう云っている内に一種の唯物主義をも亦、お勧めしたくなった。どうなることかと思いすごしする類は、たしかに唯物主義の敵である――こう云っている内に、私はありとあらゆる怪しからぬものをお勧めしたくなる。私は梯のくせがあるので、誰か止めてくれないと夜があけそうだ。
 では諸君、充分いびきをかいて安眠なさい。安眠は永生きの秘密です。
(一九三八・二)
(八八最終号 一九三八・二・一五)

底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「唯研ニュース」
   1933(昭和8)年11月20日号〜1938(昭和13)年2月15日号
※各評論の文末にある日付は、原則として初出誌の掲載年月号を表しています。ただし、改行した次の行にも日付が書かれていることがあります。その場合、前の日付は執筆時の日付、後の日付が「唯研ニュース」での掲載年月号を表しています。
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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