準戦時体制、或いは寧ろ戦時的体制の下に、事実上今日各部面の動員が行なわれている。軍事的動員を中心として、経済的、財政的動員、政治的動員、社会的動員、等々が行なわれつつある。戦時的体制や準戦体制というよりも、寧ろ動員体制と呼んだ方が適当であるかも知れない。北支事変が、準戦時体制乃至戦時体制をばこの動員体制にまで推進させたことは云うまでもない。かくて言論界に於ても動員令が下されたと見ることが出来る。独り言論動員ばかりでなく、一般に思想動員、文化動員が行なわれ始めたと見ねばならぬ現状である。
 この思想動員、文化動員、又言論動員は、夫がなる程一種の動員と見られる限り、何と云っても臨時体制という性質を免れないように見える。動員体制とはつまり戦時体制の極致であるわけだから、今日の日本の事実に於ける戦時体制が、半永久的なものでなければならぬという要求から、臨時的に見える戦時体制という言葉の代りに、ワザワザ準戦時体制という言葉で呼ばれているのかも知れぬ。それはとに角、動員体制と云う限り、半永久的な安定状態を指すには不適当だ。勿論今日の日本の準戦時体制・戦時体制・動員体制・は半永久的なものでなければならぬと、この体制の主張者達は考えているのが事実だが、又他面の事実として、半永久的に動員体制にあるなどということは、何と強弁しようと、社会の不健康を意味する他あるまい。一般に動員とは、何と云っても一時的な現象を指さねばならぬ約束である。
 思想動員・文化動員・言論動員も一見この点では変りがない。だがもし一旦、実際に思想動員が実行されたとするなら(之は後に見るようにそう決して容易に実行され得るものではないのだが)、その動員の状態は恐らく、何よりも確実に半永久的な物として効果を止めざるを得ないのが事実だろう。撤兵によって軍事的動員の一部分が解消すべきであるように、又議会が自由討論の意思を恢復することによって政治的動員の一部分が解消され得るように、そういう具合には思想動員は解除になることが出来ない。思想というのはただの観念ではなくて傾向的組織をもった観念のことだが、そういう思想なるものの動員は、一旦実行されたが最後、そう容易に動員解消にはなり得ない。いや動員解消になっても、動員によって発育した限りの思想自体は殆んど解消にはならぬ。ばかりではない、その思想はその後も或る程度まで動員された方向に向かって依然として益々組織的発育を遂げて行くだろう。その点思想動員が産業動員や交通動員などと異る処だ。
 このように、思想動員が一旦実施された暁は、いつまでも体系的な執着力を持っているという関係は、之をその裏から云えば、思想動員などというものはそう簡単に実現出来るものではないということをも告げているわけである。無論思想動員を行なおうという試みや企ては常に実在する。だがそれの成功的な実現は、そう容易に見られるものではないのだ。つまり思想の動員というのは、一時的な思想体制のことではあり得ないだけに、それだけ実は動員という性質を充分に備え得ないものだから、他の領域で比較的簡単に行なえるような意味での動員も之を思想について行なうことは、普通世間が想像しているほど安直に成立はしないわけなのである。
 この点は後々のために記憶して貰っておくこととして、少なくとも今日の日本で思想動員と呼ばれていい事態が濃厚に急迫しつつあることを、誰しも疑う者はいない。私などはこの動員が(夫には色々の内容がある)成功するとは考えていないのだが、それの試みと企てとが圧倒的であることに目をつむるものはいない筈である。思想統制・文化統制・それから言論統制、ということは之までよく口にされた。それは恰も経済上・政治上の統制ということが合言葉になった時期のことだった。処が最近では、経済上・政治上・の統制などということは常識になって了って、もはや誰も利き目のある言葉には数えなくなった。それに代わって現われた戦時体制という言葉が支配するようになったからである。そして先に私は後者を寧ろ動員体制と呼びたいと云った。さてこの経済上政治上の合言葉の推移に応じて、思想・文化・言論の上でも事態は推移を経ているのである。と云うのは、思想統制・文化統制・言論統制・等々は、もはや単なる「統制」ではなくて、或る意味に於ける(やや不適切な言葉ではあっても)「動員」という特色を持って来たからだ。思想統制から思想動員へ、というわけである。
 こう云って、統制と動員とどう違うかというような問題も出るだろう。私はかつて統制なるものの一般的な性質を規定して、之が構成に対立するものである所以を説いた。その意味で統制というものは専ら受容的な反省的な否定的なもので、自分で内容を造り与えてやるものではないことを説いた。と云う心算は、統制の名によって、何か積極的な独自の内容を被統制者に押しつけるような最近の所謂「統制」現象を理解しようとすることは間違いで、今日の所謂「統制」なるものは実は統制以外又は統制以上の或るものであることを注意せねばならぬ、と主張したからである。この似而非統制の積極的内容が然るに何であるかに至っては、日本の支配者の間でまだ充分に熟した考察はない、ということを云いたかったのだ。処がひとの書く論文の初の方しか頭に這入り切らない批評者達には、統制と構成とは反対物だなどと判り切ったことを云う、と云って批難した向きもあったが、要点はそんな概論にあったのではなくて、この似而非統制(「統制」と呼ばれながら統制以上の或るもの)の内容が何に向かって動きつつあるかの見極めにあったのである。そして今、かつての私の問題が改めて意味を有って来たのだ。それを見たい。
 文化面に於けるこの「統制」又は似而非統制は、本来の操縦的な統制ではなくて、一種の積極的な強制内容を押しつけるものであったわけだが、さてその内容を如何にするかという点になると、支配者層に初めから具体案があったわけではない。その内容は、最近数年間の日本の時局が進展するに沿うて、次第に発見、開拓、負荷させられて来た。支配者層のこのみずから産んだ苦心の跡は、注目に値いするものがあるのである。
 まず最も幼稚な段階は「思想善導」と呼ばれるものであった。この言葉がよく云い現わしているように、すでに発生した悪思想を、あとから、つまり消極的に、反省的に導くことが善導であり、統制なるもののもつ嚮導原理(構成原理の反対だ)らしい響きを持っている点が面白いが、併し導くやり方には予め一定の予断があるのであって、要するに何か善い思想なるものへ導こうというのである。善人に育てようというような教育方針は今日では時代おくれで実際的な教育効果がなく、最も実質的な教育の過程はそれぞれの性能や性格を誘導することにあるというのが、近代的な人間嚮導の[#「人間嚮導の」は底本では「人間響導の」]原則であるが、この近代的な教育では人間を何か積極的なタイプへ近づけようというようなことは考えない。陶冶は強制することではなくて育成することを意味する。所が思想善導なるものは、こうした近代的な自由主義的(?)教育観とは可なり隔りのあるものなのだ。自然な思想を是正して行くことではなくて、之を一定の予断された善思想へ強制して行くことなのだ。
 こうした模範的モデルへ強制しようという広義の教育観は、実際、この思想善導と一緒に、この頃社会教育を支配し始めたように見える。乃木大将・二宮尊徳・等々という具体的な歴史的人物から始めて、学識よりも人格の高い青年とかヒトラー青年団的青年、更に模範青年と云ったようなものに至るまで、この模範的モデルの種類は色々だが、とにかくこういう教育の独断的目標を設けることが、この頃の社会教育観だ。否、学校教育も亦とめどもなくここにずり落ちて行きつつある。少し真面目に考えて見れば、こんな教育方針が矮小で卑小なものであることは明らかなのだが、「思想善導」という常識社会で甚だ尤もらしく用いられた言葉は、恰もこの種の偽教育観と全く同じ本質のものだった。それは誘導・育成・の名の下に、善思想と仮定されたものへ、自然な思想を追い込むことだったのだ。――而して之が思想統制なるものの最初の段階である。以てこの場合の統制という言葉が、如何に紛らわしいものであるかを知るに足りよう。慈(イツク)しむということは厳(イツク)(イカメ)しいということと同じだとするような、ああいう種類の政治的紛らわしさが、ここにあることを忘れてはならぬ。
 だがそこへ善導さるべきであったその善思想という積極内容は、一体何であったか。之は誰にも判らないことだった。一体善とか悪とかいう言葉はそれ自身の内容から云えば全く無意味なものだろう。善い思想へ導くという、或いは思想を善へ導こうというその善きものは何か。之は子供だましでなければ誰にも判らぬ。そこで支配者当局は、「国民精神」という内容をそこへ持って来た。之が思想統制の第二段である。今は単なる善悪ではない、国民精神と名のつくものにあやかるのが善で、そうでないのが悪思想だという風に制定された。国民精神作興の類が之であり、農村精神作興などがその農村対策版であったわけだ。この思想統制内容の積極性は相当なものであったので、現に当時文部省に国民精神文化研究所なるものが出来たのでも知ることが出来るし、学生課がそれと同時に思想局となったことでも知れる。この両者は相俟って、所謂悪い思想の駆逐と共に、善い思想である国民精神の研究(?)と宣伝に従事することが出来た。思想善導の場合のような、ただの寝言ではなかった。
 だが国民精神と云っても、実は少しもハッキリしないものだ。国民精神がハッキリしていないからではなくて、国民精神の内から何か特別な「国民精神」を区別して取り出そうというのだから、ハッキリしないのである。丁度日本の内から「日本的」なものを区別することが滑稽な試みに終ったと同じに、このような「国民精神」が遂に何であるかは、国民精神文化研究所という超大学を以てしても奥を究めることが出来なかった。正にこの頃は、他方に於て所謂民間(実は文武官輩やその亜流のバックがあるのである)に於ける封建的なファッショ団体による「日本主義」思想がジャーナリズムの一角に於てさえ全盛を極めた時期であったが、この「日本主義」も亦、国民精神と同様に、内容が結局少しもハッキリしない、且つマチマチでバラバラなものであった。この封建ファシスト団体の多数の相互間に、対立と反目とがつきものであったのは、単に国粋会式な親分子分と繩張り仁義との結果だけではない。
 処が封建ファッショ諸団体は、その社会的な対抗はとに角として、やがて一種の共通なイデオロギーを発見することによって、統一の希望を持てるようになって来た。之は他ならぬ「国体明徴」主義なのである。国民精神というのは極めて曖昧だと云われても抗弁の仕方を知らない。事実いくらでも研究と解釈の自由との余地はあるものなのだ。処が国体なるものは、少なくとも必要な最小限度に於いて、日本の憲法の成文が説明する処であるから、之ならば明々白々、明々徴々たるものなのだ。と同時に、この位い具体的な積極内容は、これまでの思想統制内容にはなかったわけだ。かくて「国民精神」は「国体明徴」主義へと推進した。之が第三の段階である。
 尤も国体明徴主義と明徴なる国体そのものとの間には、必ずしも必然的な一致があるわけではない。なぜというに国体は不動であるに拘らず、国体明徴運動は之までの歴史で忘れられたり怠られたりした。であればこそ今更になって、明徴なる国体をワザワザ明徴たらしめようというような意外な運動が起きたり何かするのである。だから、議会で国体明徴声明などというものを殊更らしく行なった政友会総裁鈴木喜三郎にとっては、夫が彼の政治的没落の声明となったとさえ、私は考えている。
 さて以上、「思想善導」、「国民精神作興」、「国体明徴運動」は、思想統制(文化・言論・統制も之に準じる)の三つの推進段階であった。そして之は、不適切にも統制と呼ばれて来ている。にも拘らず之は何と云っても統制と呼ぶに相応わしい或る点のあることを、見落してはならない。と云うのは、之はまだ要するに支配者層自身の活動に止まっているのであって、精々支配者層に直接間接バックされた一部の「民間」がこの活動の趣旨を奉賛したに過ぎなかったからである。まだ必ずしも民衆一般、或いは民衆層に対する充分な働きかけを意味しなかったからである。云うまでもなく民衆への下知的な働きかけはこの思想統制の目的そのものであったのだが、その目的を果すに必要な社会常識をこの統制は持つことが出来なかった。つまり国民乃至民衆を「統制」し得たにしても、事実上之を「動員」するだけの接着性を有っていなかったものだ。
 事実思想善導と云っても国民精神作興と云っても、又国体明徴運動と云っても、夫が為政者や類似為政者の仕事を指すものではあっても、一般の民衆と何か関わりのあるものだというような印象は受け取ることが出来なかっただろう。それは民衆の日常生活が与り知ったことではなくて、どこかの官辺と官辺寄生者との事務上のモットーのようなものでしかなかった、というのが正直な感銘であったろう。特にその内容が最も具体的に鮮明且つ積極的になった処の国体明徴運動の如きは、林内閣の手によって祭政一致という超俗的な神職的神話に結びつけられ、夫によって政治感覚全体を著しく形而上学化したので、凡そ国民そのものとは縁のない呪物に祭り上げられて了った。之と同時にこうした思想統制は、国民に対する呪文的恐喝に近づいて来たので、国民のとがった感情を刺激することは出来ても、国民を動員するに足るだけの政治的同類感を催すためには、この上なく不都合なものとなって了ったのである。思想「統制」の最高段階に立ちながら、その思想統制を遺憾なく漫画化した点に於て、林内閣は思想政策上、特筆に値いするものであったろう。
 そこでこの思想統制の「独善」振りに方向転換を与えたものは、近衛現内閣なのである。近衛内閣の思想政策上の功績は、従来の内閣の独善的思想統制の伝統を思い切って振りすてて、思想統制に著しい動員性を与えたことにあるのだ。この内閣の一種の好評は正にこれに類する聡明さにあるのであって、日本型ファシズムの推進のためには絶対に不可欠な合法的仮面と近代的民衆常識の利用とを心得ていたことがその強みであろう。果して北支事変が発生するや否や、政府は財界・政界・並びに言論界、の代表者を集めて、之に経済的、政治的、社会的、及び思想的(文化言論)・「挙国一致」を要求し、喜んで夫に協力するという言質を取って了ったのである。例えば政党の首領が議会外に於て政府当局に一定の政治的誓約を与えるということは何を意味するか。特に、政府の政策を批判すべき国民的任務のある政党が、漠然たる意味に於ける挙国一致一般をその行動の誓約としたことは何を意味するか。それは要するに今七十一議会に於ても明らかであったように、正常な意味での質問をさえ遠慮するという誓約に他ならなかったのだが、そういう重大結果にも拘らず、近衛内閣のこの挙国一致要求は、挙国一致的に、支配層全般ばかりでなく凡庸な民衆にとっても評判がいいのである。これはすでに、政治的にも、近衛内閣の統制力が正に動員力を持つに至った証拠と云わねばならぬ。
 特に言論機関の代表者に対する挙国一致要求は、重ねて警保局の通達となって現われたから、もはやただの懇請や談合ではなくて、国権的命令に他ならない。之によって即日、日本領土の新聞という新聞は、一斉に退屈この上ない貧弱な官報と化した。ばかりではない、夫々自分の貧弱な官報にセンセーションをくっつけようと試みるものだから、空疎で而も文学的に見て嘘八百な与太記事を好んで載せることになって来た。之は例えば、よろしくやって呉れと上官から頼まれた下端役人が、思い過ごしから強いて上官の意を迎えるような行政をやるのと、全く同じ風情と見る他あるまい。こうなると、もはや政府の言論統制はただの統制ではない、明らかに半ばジャーナリストの自発的な言論動員なのである。自然な言論を行政的に統制しコントロールするだけではなく、一定の官製ニュースと官許ニュースとを提供することであり(それが前に言った似而非統制であるが)、それだけではなく、この積極的な統制ニュースに自発的に輪をかけた社会面記事などを載せざるを得なくなった。之は言論統制がその極に於て統制の名実を全く踏み越えて、正に言論動員の段階に這入ったことを意味する。そしてこの種の現象を、今日の俗間常識では、挙国一致だと考えているわけだ。
 だが思想動員は勿論言論動員につきるのではない。所謂言論の中心と考えられる新聞紙は、思想の世界に於ては必ずしも中心に座してはいない。思想動員は文化動員と連関しないでは結局無内容で無意味なのだ。処が、之は特に記憶しておかなければならぬ点なのであるが、日本の官憲は、文化に対しては極めて無知で無見識なものであるのを特色とする。日本の官憲にとっては、ミリタリーに対するシヴィルという意義が極めて薄い。従って所謂思想統制に力を入れない内閣はないに拘らず、文化統制となると之に尤もらしい心得のある内閣は極めて乏しい。文化勲章制定と帝国芸術院の創立とは、日本の非シヴィルな政府としては、驚くべき飛躍であったのだ。併し文化統制は出来ても、文化動員と、従って本格的な思想動員とに自信のある政府は、まだ遂に出現しない。――だから今日の文化動員・思想動員・は、半官憲的勢力に委任されざるを得ないのである。
 云わば司法省系の一二の思想転向機関による思想活動は今無視しよう。又それに事実上深い関係のある若干の団体や人物も無視しよう。話を日本文化中央連盟に限定していいだろうと思う。蓋し該連盟は、思想動員・文化動員・の、最も大きな機関となろうとしているらしいからであり、そして之が旧来の思想統制・文化統制・の、最後の統一的な推進の発展段階だと見られるからだ。
 松本学氏が文芸懇話会を解消する理由として、帝国芸術院が出来たからもう要らなくなったと云ったとか伝えられるが、勿論それは理由にならぬ。なぜなら帝国芸術院は或る批評家も云う通り、芸術の養老院ではあっても、必ずしも芸術の正常なアカデミーではない。否、芸術のアカデミーではあっても、思想的な文化力を有つ機関では決してあり得ない。元来がアカデミーなるもののアカデミックな機能は、思想的文化力とは無関係なのであり、従って又この点で殆んど全く無力なものなのだ。帝国芸術院が養老院にしろ類似アカデミーであるにしろ、とに角文化勲章的存在のものであることには議論の余地がない。文芸懇話会は、処が決して、客観的に見る限りそういうものではなかった。夫は実際に於ては全く無能力ではあったが、客観的な評価からすると、一種の思想文化上の社会的闘争機関であった。恐らく或る一群の文士達の社会的なバカさ加減をテストする実験室であったかも知れない。して見ると文芸懇話会が解消になったことと、今回の日本文化中央連盟との間には恐らく内面的関係があるのだと見ねばならぬ。尤も文芸懇話会や松本学氏はどうでもいい。
 日本文化中央連盟なるものは、決して官設ではない。実際官設ではこうした文化活動は出来ないのである。日本の政府は、そこまで文化的に達者ではないのだ。そこでこの機関は一応民間のものであり、財団法人なのである。ここにこの連盟の文化動員力・思想動員力・が横たわる。つまり一方に於ては民間の文化常識を援用することにより、他方に於ては官憲的名士による国権的権威によって、文化上の挙国一致主義とも云うべき支配者的意図に基いて「日本原理」に樹つ思想文化を民衆の間に動員しようというわけだ。日本の民衆の凡庸層は、お上の胆煎りで自分達が独り立ちでやれることなら何でも好んでやりたがる。この民衆に対する思想文化動員のための機関は、正に松本主義に立つことを理想とするであろう。彼の第五インターナショナルの説や邦人説の如き、之に較べればアマチュアの道楽に過ぎまい。
 かくて現下の日本の思想動員・文化動員・従って又言論動員が、特に半国権的・半官半民的・な通路を辿らずには行なわれないということは、注意しなければならぬ点だ。例えば日本の放送協会が丁度そうだ、いやそれよりも大事なことは、もし日本に日本特有の型のファシズムが発達し、日本型文化ファシズムが盛んになるとしたら、それは必ずやこういう軌道を辿ってであろうということだ。
 さて併し、こうした半官憲的文化動員・思想動員が、その作為的なポーズに拘らず、自然な文化的信用を民衆の間に博するかどうかは、実際極めて疑問と云う他ない。日本の国民はなる程官憲的なものには容易に腰を屈するエティケット(儀礼)を知っている。エティケットだけではない、そういう習い性さえ持っている。だが之は信用の表現とは別物だ。又彼等にはお上の文化を権威あるように思う癖はある。だがお上の文化に権威を発見することは、みずから思想を所有し得ない場合のことだ。国民が少しでも思想的な能力を持ち始める限り、お上の文化であるが故に貴しとはしないようになるのである。実は逆に、抑々初めから文化的な信用などの全くない国権的名士達が、集って造り上げた文化活動機関に、或る何かの文化上のゴマ化しを直覚するのが、国民の正直な眼だろうと思う。この直覚された何かのゴマ化しを、国民は文化動員・思想動員・の名の下に、或る本質的に億劫なものとして見出すだろう。根本的に億劫がられただけでも、思想動員はまず駄目と見ねばならぬ。――思想文化の動員は、兵士の動員や軍需工場の動員のように簡単には行かぬものである。こうした意味の思想動員は恐らく困難であろう(日本文化中央連盟に対する注文を私は去る八月九日の『東京日々』の夕刊に書いたから省く)。
(一九三七・八)

底本:「戸坂潤全集 第五巻」勁草書房
   1967(昭和42)年2月15日第1刷発行
   1968(昭和43)年12月10日第3刷発行
底本の親本:「日本評論」日本評論社
   1937(昭和12)年9月号
初出:「日本評論」日本評論社
   1937(昭和12)年9月号
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年9月24日作成
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