単に文芸批評だけではない。総ての評論風の批評は直接感受した印象の追跡を建前とする。ただその印象が芸術的な印象ではなくて、理論的印象や科学的印象である時、普通これを印象とは呼ばないまでで、この場合、印象の持っている印象らしい特色には別に変りがない。印象はそれを感受する人間の感覚的性能如何によって大変違って来る。印象とは刺戟に対する人格的反作用のことであろうが、そうした特色には、科学的労作を批評する場合にも極めて大きな役割を演じている。科学に於ける所謂素人や、或る意味に於ける独学者が、往々暴露する欠陥は、正にこの科学的理論的印象能力の薄弱さに関っている。本質的に高い仕事と本質的に低い仕事とを甄別するのは、この印象の確実さである。印象はその人の眼の高さのバロメーターである。この印象の追跡が一般的に批評だ。
 芸術(作品、作家、芸術、現象、を含めて)に対する批評が、印象の追跡であることは、改めて云う必要はない。或いは又、いく度云っても云い過ぎる心配のないことでもあると思われる。――でこの意味に於て、批評は凡て印象批評であると云ってよく、所謂「印象批評」なるもののヒドラのような不屈振りも亦、ここに由来する。この点与えられ想定されている条件である。問題はいつもその先から発生する。ここから先が、初めて批評の問題になるのである。
 まず印象の追跡ということである。だが印象自身と印象の追跡ということとは、ハッキリ別のことではない。作品を読むという活動の意味にも色々あろうが、優秀な読者は二度も三度も同じ作品を読むだろう。若い時読んだものを年取ってから読み直すということはごく普通の現象だ。一遍読んですぐ又読み直すという人もいる。そうしないまでも、前へ戻りながら念を押して読むということは、誰でも必ずやっていることだ。途中でやめたり、飛ばして読んだり、新聞小説など逆に読んで行ったり(私はかつて偶然そういう機会を持ったが作家のかくされた制作過程を知るには大変いい参考になるようである)、そういうことは、散文などでは必ずしも乱暴な読み方とは云えないらしい。もし、随意に繰り返すことが出来るということが散文の特色だとすれば、こういう読み方にも意味があるだろう。して見ると、印象と云っても決して一遍カッキリの印象ばかりを問題にするべきではない。
 もし一遍カッキリの印象を直接印象と呼ぶなら、ここで問題になる印象は、抑々、必ずしも直接印象ではないと云わねばならぬ。直接印象でないとすれば、云わば間接印象(?)、と云って悪ければ、念を押され確かめられ点検された印象なのだ。即ちこの印象は実はすでに追跡された印象だ。印象があって、之を追跡するだけではなく、所謂印象そのものが、すでに追跡された印象だ。心ある読者は、単に読むという活動自身に於て、印象追跡者である。批評家である。批評家とは、そういう最も普通な、併し誰でも可能だという意味に於ける誠実さを持った、読者の代表者である。読み手として優れているか特色があるか、それとも優れていなくても特色がなくても、それに職業的か習性的かの経験や訓練を有とうと心掛けて生活しているもの、之が所謂批評家だ。批評家は読者代表である。批評家が作家の教師になったり鞄持ちになったり侍医になったりすることは、それから後のことで、批評家は先ず第一に読者の先輩であるというわけである。
 こう考える限り、印象は即ち印象追跡であり、即ち又、印象追跡とは単に実際の印象それ自身のことでしかないようだ。もしこれで話しがすむなら、批評は凡て印象批評であるばかりでなく、批評は凡て、括弧づきの所謂「印象批評」であると云い切ってかまわない筈だろう。併しそうなると私は、もう一遍印象と印象追跡ということを観察し直さねばならなくなる。印象の強みは、批評の母胎となり批評の端緒(ヘーゲルやマルクスが尊重したあの端緒の意味に於ける)となるものが他ならぬ印象だというその強みは、即ち又それ独特の弱みでもある。印象は個人的なものでありパーソナルなものだ。それ故に、その限りの人間的真実と誠実とを約束しているが、併しそれだけの主観的制限を脱することは出来ない。勿論どんなものでも、いやしくも夫々の人間が身を以て当っている事柄と、主観的制限のついていないものはない。もしそんなものがあるなら、それは偽物であり嘘の世界のものだ。だが、そういう言葉が許されるのも、主観的制限を主観みずから何とかして出来る限り脱皮しようという努力と、無意識的にせよ組織的にせよ、試みた上でのことだ。主観的制限の裏に寝そべっていたり馳け回ったりしていいということには、勿論ならぬ。
 印象が追跡された印象であると云った。点検され確かめられ念を押された印象だと云った。今このことは、印象が自分自身の主観的制約を脱皮しようとする努力を意味するのだということが判る。主観的な偶然性を消去するために、印象を繰り返し、つつきまわし、比較し、実験し、等々して見るのである。之によって自分の自分らしい個性ある印象が、次第に明白になって来る。印象の明白感と自明感とによって心内的実験が確立される。之で少なくとも自分自身にとっては、出来るだけ客観的な印象となるわけだ。自分にとってだけは、主観の偶然性をそれだけ脱皮した(偶然性を主観に由来するというラプラス以来の古典的偶然論の誤りを今仮に度外視するとして)客観性と必然性とを、この印象は持って来るのだ。
 もし批評というものが身辺的なものに止まっていていいならば、批評はこのような意義に於ける印象の内に終止してよいわけである。つまりこの場合は、所謂印象批評の上乗のものであるわけだが、勿論こういう印象批評であっても、批評のあり得べき一つの親しい様式として、大いに意味のあることは否定出来ない。もしこの意味での印象批評を身辺心境小説やその意味での私小説に存在理由があるように、所謂印象批評も一定の右のような条件の下に、それに相応しい価値を持っているだろう。
 だが、元来身辺小説やその意味での私小説の文芸道に於ける不満や不充分さと思われるものはどこにあるか。それは散文文学としての小説の要求を充分に充たすことが出来ないという点だ。恐らく韻文特に抒情詩ならば身辺的なものでよく、わたくし的なものでいいかも知れない。この韻文精神が抒情詩ならぬ小説というジャンルに適用されたために起きた矛盾か何かが、私小説に対する懐疑を産んだのだ。処でこの身辺小説的精神が、そのままのアナロジーを以て、批評精神に持ち込まれて、それで充分であるという保証はどこにもない。小説さえ私小説に満足出来ないものがある。なぜというに、それは詩から遠いからだ。して見ると益々詩というジャンルから離れているだろうクリティシズムが、韻文精神にぞくする身辺性ばかりを以てしては満足出来ないのが、あたり前ではないだろうか。
 要するに批評に於ては、それの身辺小説的なアナロジーとも云うべき「印象批評」はそれが仇名のものでなくて上乗のものであっても、決してクリスティシズムそのものの上乗であるとは云うことが出来まい。そこでは印象が、批評家の「自分」にとっては、充分に客観化され必然化されている。勿論これはこの批評家の「自分」なる個性が顕著になるということと少しも矛盾はしない。性格の特殊化なしに、ここで客観化も必然化も、一般に無意味だ。だが主観的印象の主観による整理検討、つまり主観的印象の印象自身の地表に於ける整理検討は、客観的であるにしても単にインターサブジェクティヴな客観性を出ることは出来ない。なる程内心的実証と直接印象的な接着味とを絶対唯一の守護神とすれば、これ以上の客観化は、単に上ずることであり、嘘であり、抽象であるとしか考えようはなかろう。だが私に云わせれば、印象の追跡に於ては、一種の抽象こそ、必要なのだ。従って又、印象そのものの身辺密着性に於てさえ、抽象ということが大切なのだ。この抽象が単にインターサヴジェクティヴな客観性を踏み越えさせ、内心的実証の必然性を超克した云わば世界的実証の必然性をば、批評の機能に齎すのである。
 作品に対する極度に豊富な経験、それに基く理想的に陶冶された人間的感受性、これは印象を模範的たらしめる条件であるが、そういうものが実際に望むことの出来ないユートピアに過ぎないばかりではなく、仮にそれに近い場合を仮定しても、そこからインターサヴジェクティヴな客観性以上の客観性を惹き出すことは出来ない。つまり一切の批評が印象だけに片づくような、そういう印象は、印象がどんなに理想的であっても不可能だというのだ。印象の追跡は印象への追随であると共に、そればかりではなくて、印象から距離をつくることであり、印象を直ちに疑うことであり、印象を仮構的に破壊することであり、印象をつきはなすことである。それがなければ印象は、少なくとも真に客観的な方向へは、追跡されない。「印象批評」の上乗なるものと雖も、多少とも之をやらずには批評にならぬが、その自覚に於ては印象追随が取りも直さず印象追跡の凡てであるかのように想定されているようだ。
 印象批評という言葉には三つの意味がある。一つは一切の批評は印象から出発するという根本事実をそういう言葉でやや不用意に云い表わすものである。第二は、即興的放言を以て批評に代えうると考える処の、括弧づきの所謂「印象批評」だ。之は仇名である。第三は、身辺私小説の持つ厳しさになぞらえ得るような上乗の印象批評だ。だがどの場合でも変らぬ点は、印象からの距離と印象からの抽象というのが如何に批評にとって重大かということへの、関心の不足であると云っていい。
 印象の成立に、読者乃至批評家の教養がどんなに大きな役割を演じているかは誰でも知っている。色々の云い方もあろうが、要するに教養が印象を決めるのだ。印象の内には教養が融け込んでいる。それはそれでいい。だが、教養の内でもまだその時々の印象の内に融け込めずにいるものもあるのだ。印象や直覚や好みなどに融け込んでいない教養は教養でないと云って了えばそれまでだが、それは教養の教育的な過程を無視することになる。教養は身についたものでなければ本物ではあるまいが、併し身につくまでは大いに自他によって教育されたものなのだ。極端に云えば、教えたり覚えたりすることが先行して、時あって教養は初めて身につくことも出来る。教育のある人間が教養があるという常識は之を物語る。
 この何でもないようなことは、意外に重大な個処であることを注意しなければならぬ。覚えた知識が何か、と云う。教え込まれたものは身につかないとも云う。それは嘘ではない、と共に真理の全体でもない。身についているものと教え込まれたものとの間の距離、背反、を問題にしないような身につき方は、嘘だ。教え込まれたもののために、身についているものを切り捨てることが誤りであると共に、身についたもののために、教え込まれたものだからと云って切り捨てるのも、大いに誤りだ。もしそれでいいなら結局身についた印象や直覚や好みの変化や進歩を理屈の上では否定することにならざるを得ない。なぜというに、印象や直覚や好みという、そうした直接的なものも、家庭や学校や友人や社会や又自分自身によって、計画や考案を通じて、教え込まれたものの無自覚の結果なのだから。直接な印象其の他は実は直接的でない抽象作用の間接の結果であるという、印象の発育史を頭におくことが必要だと思う。
 で印象に対しては、すでに印象にとけ込んで了っている教養ばかりでなく、まだ印象の肉となっていない仮定的な教養(生まな知識や常識やどっか他から来た理想や要求などを含めて)も、印象と大いに関係があるのだ。之は印象に対しては抽象的だ。印象からは一続きには行かない。距離がありギャップがある。之は印象自身にとっては決して親切なものとも限らないし、安易なものとも限らない。之は印象に対してフレムトなものだ。だが之は印象を変革し進歩させ成長させるものとなり得る。主観的印象同志をどんなに印象という媒質自身の中でつき合わせても出て来ないものが、この主体的な印象と非主体的な抽象との二つのフレムトなるものを連関づけるという労作から、初めて出て来る。つまり印象批評では出て来ないものが、印象に対するこの抽象を媒介にして出て来ることが出来る。之が印象自身と印象追跡とに於ける抽象力の働きだ。
 公式や学殖というものも、批評に於ては印象からの抽象力として、一定の意義を有っている。公式主義やペダントリーのような弊害を理由にして、公式や教師的学殖の正常な役割を、観念的にゴマ化して了うことは許されない。――さてこうした印象批評の限界から、科学的批評と呼ばれているあの問題が発生するのである。批評が、印象の単にインターサヴジェクティヴにすぎぬ客観性を如何に突き破るか、又、これを突き破って普遍必然性を齎し得るような批評の処方は何であるかという、あの問題だ。

 印象批評が何かしら判ったもののように考えられるに反して、科学的批評の方はあまりハッキリしている観念ではない。芸術乃至文学の社会的批評が科学的批評であるかのように考えられたこともある。そして之がマルクス主義的批評であるなどとも、説かれたことがあるし、そういうものとして反対されたこともある。今でもその余波は残っている。例えばいつか亀井勝一郎氏が、社会的常識で芸術を片づける私などがよろしくない、というような意味のことを書いたが、之は私の短所とも長所とも全く関係のないことで、如何にあてずっぽうな噂話しにすぎないかを示すものであるが、氏のような批評家がこういう当てずっぽうを書くのも、今云ったような「科学的批評」についての常識が余波として残っていることの、参考資料になることだ。
 実を云うと、科学的批評という観念は、之をくさす人にとっても、之を提唱する人によっても、思ったほどハッキリしていないのではないかと思われる。批評が科学的であるとはどういうことなのか、批評の科学性とは何か。社会的認識とか、所謂思想性とか、社会科学的公式とか、芸術史的考察とか、そういうものらしいものがあれば科学的で、なければ科学的でない、とでも云うような、極めていい加減な観念ではなかったろうか。科学的な批評でないと云って非難する時もそうだが、又科学的批評だと云って非難される時もそうだ。更に又、科学的批評一向「科学的」でない、と云って皮肉る場合もそうだ。世間では何によらず科学的であるということが、即ち公式主義的であるとでもいうような、周章てた常識が横行している。こういう常識にかかると、科学的批評とは即ち公式主義的批評だということになりそうだ。事実、所謂括弧づきの「印象批評」が存在すると同時に、之に劣らず括弧づきの所謂「科学的批評」も実在している。そこで之こそ科学的批評という奴だということになる。こうなると、科学的批評という観念自身がごく幼稚でありながら、意外に大人ぶった「科学的批評」批判も出来ようというものである。これは少し困ったことだ。
 思うに批評が科学的であることの、最も手近かな特色は(そして恐らく最も形式的な特色である)、それが組織的体系的だということにあるだろう。印象自身は必ずしもシステマティックなものではなく、まして印象の追跡の際に於ける印象相互の関係も、そのままでは組織的なものではない。処でここに何かしらシステムが働いていることが、取りあえず科学的な事情を齎す。尤も、どんな批評家でも、少なくとも一人前の批評家ならば、必ず何等かのシステムを持っている。システムと云えば不動な屋台骨だろうなどと考えるのは下等な常識で、そんなものは組織力を持たないからシステムではない。だからみずから印象批評家を以て許す多くの優れた批評家も、実は、どこかに自分がいつも立ち還って来る或るシステムを持っている。そうでなければただ一言の批評も吐くことは出来ない筈だ。だから優れた意味のある批評は、その限り、たとい印象批評というレッテルが貼ってあろうとも、決して非科学的であるとは云うことが出来ない。
 ただこういう非科学的でない処の印象批評の特色として、まず第一に、少なくともそのシステムを外に現わさない。外に現わさないばかりではなく、時とすると自分でもそれとして取り出すことが出来ない。自分で気づかないことさえある(之はこの批評家自身を批評する場合には暴露されねばならぬものだ)。だからその限り、之を特に科学的批評と呼ぶ必要がないわけだ。――印象から距離を作り、印象を之と無縁なものへの媒介とすると云ったあの抽象力が、このシステムによって動かされる最も目立った能力であるが、この抽象が自覚されていないか、外部へ紹介されていないか、夫は必ずしも科学的批評の名を必要とはしないのである。それを印象批評と呼ぼうと何と呼ぼうと、人々の自由だ。と同時に、之が科学的であることに対する反証にもならぬし、まして之が科学的批評一般への反対の足場にもならぬのだが。
 さてシステムがどういうものかに従って、科学的批評にも色々の種類と段階とが出て来る次第である。かくされたシステムによるものは今も云った通り、かくされた科学性を結果する。科学性が匿されていようといまいと、印象を忠実に記録するという批評の目的にそえばそれでいいではないか、それ以上、それが科学的であるとかないとかは、批評にとっては無用の穿鑿で、目的を果した批評は、もし科学的ということが目的にかなったことででもあるなら、もうそれだけで科学的と云っていいではないか、と考えられるかも知れない。印象を忠実に受け取って忠実に記録したら、それが何より科学的ではないか、という一種の論法もある。併しこの議論は或る一つのことを忘れているようだ。
 批評がなぜ科学的であることを要求されるかということ、批評が持っている或る特殊の啓蒙的教育的な用途に関するからだ。と云うのは、批評は読者代表が一般読者へ、作品を紹介し見方を先導することであって、つまり一つ一つ読書術を教えるという教訓性を脱し得ない文芸の一ジャンルと考えられる。すると教え得るということと学び得るということとが、他の文芸ジャンルとは多少異る意味で、批評に要求される資格をなす。そこに特に批評の「科学性」への要求の一つがあるのだ。批評はどこかこれが先生味を持っている。老俳優も若輩の批評家を先生と呼ぶのである。批評家は数え得ることを要求される。つまりその意味での科学性を要求される。この教え得ることの材料となるものが、例のシステムである。システムを批評家は読者に教える。読む(或いは又書く)システムを。それが一種の教育可能性を持った普遍的客観性を結果する。例の抽象力はこういう風に働くのだ。
 批評の科学性の最も手近かな特色であったシステムから、教育可能な抽象力を見出したが、この先生味の勝った(ペダンティックな)システムは、現に、芸術史乃至文芸史の学殖に基く体系の如きものだ。だからこの段階の科学的評論家は、アカデミックな芸術史家や史家としての文芸学者である。尤もただの芸術史家や史家としての文芸学者は、事実上、必ずしも評論はやらない場合が多いから、そのままでは科学的「批評家」ではない。こういうアカデミックな学殖を背景とした批評家が、だから初めて、この段階の「科学的」批評家であるわけである。
 だが学殖を背景とすると云っても、この学殖だけで批評がやれるのではない。批評の対象はいつも現下の事物を以て正規とする。古代の作品でも之を直接に現下の作品との連関を目標として省察するのが批評家だ。之に反して古代の作品を比較的に単なる古代の作品として省察するのが、文献学者や古典学者である。批評家の精神は時局性(アクチュアリティー)の精神であることを忘れてはならぬ。そうでないと、批評家と学校教師とを区別している特色が見失われるだろうからだ。
 そこで又、科学的批評に於けるシステムの内容が、改めて問題になるのである。時局性の精神は、社会常識と可なり近いものだ。だから普通の社会常識を多少整頓しても批評のシステムは一応出来る。そういう常識式批評家も非科学的批評家であると云うことは出来ない。だが常識は遂に常識であって、特に科学的ではない。社会常識は社会認識にまで深められねばならず、その社会認識は現実性のある社会科学的認識にまで掘り下げられねばならぬ。だがシステムの規定がここまで来れば、この批評の科学性については、今は多くの人が知っているのである。世間で公式主義的な批評と呼ぶものの多くは、この内の一部分に含まれる。
 芸術史的学殖がこの社会科学的認識と結びついた場合もあれば、結びつかない場合もある。前者は芸術社会学から始めて芸術の史的唯物論などを含む。後者は之に反して、精神史的な芸術史に終る。だがいずれにしても、まだそれでは芸術の批評ではない。科学的ではあるかも知れないが科学的批評ではない。批評は時局性の精神に立つ。単に芸術史が社会的連関によって研究叙述されるばかりでなく、それは現下の芸術作品の時局的意義に結びつかなくては、科学的批評とはならぬ。即ち現下の作品の社会的産出とその芸術的(美学的)価値とを解明するシステムがなくてはならぬ。それがなくては、科学的批評ではない。
 尤も、芸術的価値の精神史は云うまでもなく、芸術的価値の現下に適用されそうな任意のシステムは、生理学的生物学的なものであろうと心理学的なものであろうと、又文献学的古典学的なものであろうと、哲学的なものであろうと、科学的でないのではない。私は夫々の代表者を挙げることは省略するが、彼等が科学的でないとは云えない。システムをとに角ハッキリ持つ以上はである。そして又彼等が批評家でないとも云い切れない。美学的価値の尺度を確立しようとする限りはだ。だが、問題はその時局性の如何に関わる。真に時局的なリアリティーを有つためには、明敏な社会常識と、之を深める社会理論の開発とがなくてはならぬ。そして初めて、批評は科学的となる。以て、批評の科学性に於ける時局性(アクチュアリティー)の意味を知るに足りよう。批評のシステムはアクチュアリティーの体系であることを必要とする。そう云うと、最も印象批評的な放言と雖もアクチュアリティーを有つと云われるかも知れないが、真にアクチュアルな体系に於ては、社会的認識そのものがまず体系的でなくてはならぬ。そういうシステムが印象追跡の抽象力となる時、まず科学的な批評と一応云っていいようだ。
 批評の啓蒙的特色を述べたが、併し科学的批評によって、批評家は何を教えようというのであろうか。システムを伝えるのだが、何のための批評のシステムだろうか。つまり批評は終局に於て何のために存在するのか。之は妙に大ざっぱな問題だが、回避してはならぬ。処で私はこう考える。文芸なら文芸として、その批評の目的は、文芸的認識の反省を与えることにあると。認識の反省、認識に含まれる世界観や方法の抽出による省察、之が一般に批評=クリティシズムの目標であろう。文芸(一般に芸術)も亦一個の認識の一大分野であるということ、一個の大きな思想の世界であるということ(文芸は裸の思想へ肉をつけたものではなくて夫自身思想を材料とし思想を形式とするものだ)、之を明白な自覚の下に置いて、印象を組織立て省察を推進させることが、一般に文芸批評の目標であろう。否、これこそが科学的な文芸批評の建前である筈だ。――文芸が一つの認識であるということを自覚することが、文芸批評の「科学性」を保証する最後のものだと云ってもいいようだ。文芸を実在認識と考えない処からは、何等の科学的批評も導かれ得ない。
 もし文芸学というものがみずから認識論としての建前へ基かねばならぬとすれば(文芸学が認識論につきるというのではない、それ自身が認識論を想定して出発しなければいけないだろうというのが私の主張なのだが)、文芸批評が科学的であるということは、つまりこうした文芸学を想定とした批評でなくてはならぬということだ。そういう認識論と哲学(併しどういう立場に立つ認識論や哲学かは重大な点だが)を想定することが、批評を科学的であるとする感想の動機をば事実上なしているものではないだろうか。独り社会科学や、歴史科学との関連ばかりではない、自然科学や、技術学との関連に於ても、文芸作品(一般に芸術作品)の相貌を個々に明らかにすることは文芸を「認識」の一つと見る観点以外からは導かれ得ないだろうと思われる。凡ての批評は文明批評である、文化の批評である、生活の批評である、と云われている。文芸批評が文明批評、文化批評、人生批評、の内に編成され得るのも、専ら文芸を一つの認識として検討する広範義に於ける認識論を俟つ他ないと思うが、そうするためには、おのずから批評が科学的であるという相貌を呈せざるを得なくなるだろう。科学的批評の要求と、リアリズムの問題とが、必ず相伴って登場する理由が之だ。
 さて以上は、批評の科学性という観念が持っている形式的な――システムということの要求から出発した――特徴にすぎない。実際の科学性の内容は、他にある。それは芸術的表象と科学的カテゴリーとの連関にあると云ってもいい。そしてそこから導かれる思想上の一定傾向のことでもあるのだ。併しそれについて私はこれまで何遍か述べた。ここではただ、科学的と考えられるかというその形式について、少し検討して見ただけだ。そしてここでの私のさし当りの結論はこうである。芸術的印象は系統的な認識論を想定した上で追跡されるべきだ。それが批評の唯一の道だ。その名を科学的批評と呼ぶことは、案外人々のこの言葉に対する若干の期待に沿うているかも知れないのだ、と。
(一九三七・一二)

底本:「戸坂潤全集 第四巻」勁草書房
   1966(昭和41)年7月20日第1刷発行
   1975(昭和50)年9月20日第7刷発行
初出:「文芸」
   1938(昭和13)年1月号
入力:矢野正人
校正:青空文庫(校正支援)
2012年7月27日作成
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