死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた。
 死人の家への道には、自動車の混雜が次第に増加して行つた。そしてそれは、その道幅が狹いために、各々の車は動いてゐる間よりも、停止してゐる間の方が長いくらゐにまでなつてゐた。
 それは三月だつた。空氣はまだ冷たかつたが、もうそんなに呼吸しにくくはなかつた。いつのまにか、もの好きな群集がそれらの自動車を取り圍んで、そのなかの人達をよく見ようとしながら、硝子窓に鼻をくつつけた。それが硝子窓を白く曇らせた。そしてそのなかでは、その持主等が不安さうな、しかし舞踏會にでも行くときのやうな微笑を浮べて、彼等を見かへしてゐた。
 さういふ硝子窓の一つのなかに、一人の貴婦人らしいのが、目を閉ぢたきり、頭を重たさうにクツシヨンに凭せながら、死人のやうになつてゐるのを見ると、
「あれは誰だらう?」
 さう人々は囁き合つた。
 それは細木さいきと云ふ未亡人だつた。――それまでのどれより長いやうに思はれた自動車の停止が、その夫人をさういふ假死から蘇らせたやうに見えた。するとその夫人は自分の運轉手に何か言ひながら、ひとりでドアを開けて、車から降りてしまつた。丁度そのとき前方の車が動き出したため、彼女の車はそこに自分の持主を置いたまま、再び動き出して行つた。
 それと殆ど同時に人々は見たのだつた。帽子もかぶらずに毛髮をくしやくしやにさせた一人の青年が、群集を押し分けるやうにして、そこに漂流物のやうに浮いたり沈んだりして見えるその夫人に近づいて行きながら、そしていかにも親しげに笑ひかけながら、彼女の腕をつかまへたのを――
 その二人がやつとのことで群集の外に出たとき、細木夫人は自分が一人の見知らない青年の腕にほとんど靠れかかつてゐるのに、はじめて氣づいたやうだつた。彼女はその青年から腕を離すと、何か問ひたげな眼ざしを彼の上に投げながら、
「ありがたうございました」
 と言つた。青年は、相手が自分を覺えてゐないらしいことに氣がつくと、すこし顏を赤らめながら答へた。
「僕、河野です」
 その名前を聞いても夫人にはどうしても思ひ出されないらしいその青年の顏は、しかしその上品な顏立によつていくらか夫人を安心させたらしかつた。
「九鬼さんのお宅はもう近くでございますか」と夫人がきいた。
「ええ、すぐそこです」
 さう答へながら青年は驚いたやうに相手をふりむいた。突然、彼女がそこに立ち止まつてしまつたのだ。
「あの、どこかこのへんに休むところはございませんかしら。なんだかすこし氣分が惡いものですから……」
 青年はすぐその近くに一つの小さなカツフエを見つけた。――そのなかに彼等がはひつて見ると、しかしテエブルは埃のにほひがし、植木鉢は木の葉がすつかり灰色になつてゐた。それをいまさらのやうに青年は夫人のために氣にするやうに見えたけれど、夫人の方ではそれをそれほど氣にはしてゐないらしかつた。鉢植の木の葉の灰色なのは自分のかなしみのためのやうに思つて居るのかも知れぬと青年は考へた。
 青年は夫人の顏色がいくらかよくなつたのを見ると、すこし吃りながら言つた。
「僕、ちよつとまだ用事がありますので……すぐまた參りますから……」
 さうして彼は立ち上つた。

 そこに一人ぎりになると、細木夫人はまた目をとぢて死人の眞似をした。
 ――まるで舞踏會かなんぞのやうなあの騷ぎは何といふことだらう。私にはとてもあの人達の中へはひつて行けさうもない。私はこのまま歸つてしまつた方がいい……
 それにしても夫人はいまの青年の歸つてくるまで待つてゐようと思つた。何だかその青年に一度どこかで會つたこともあるやうな氣がし出したから。さう言へば何處かしら死んだ九鬼に似てゐるところがあると彼女は思つた。そしてその類似が彼女に一つの記憶を喚び起した。
 數年前のことだつた。輕井澤のマンペイ・ホテルで偶然、彼女は九鬼に出會つたことがあつた。その時九鬼はひとりの十五ぐらゐの少年を連れてゐたが、彼はその少年にちがひないと思ひ出した。――その快活さうな少年を見ながら、彼女がすこし意地わるさうに、「あなたによく似てゐますわ。あなたのお子さんぢやありませんの?」さう言ふと、九鬼は何か反撥するやうな微笑をしたきり默りこんでしまつた。その時くらゐ九鬼が自分を憎んでゐるやうに思はれたことはない……


 河野かうの扁理へんりは事實、その夫人の思ひ出のなかの少年なのだ。
 扁理の方では、勿論、數年前、輕井澤で九鬼と一しよに出會つたその夫人のことを忘れてゐる筈はない。
 その時、彼は十五であつた。
 彼はまだ快活で、無邪氣な少年だつた。
 九鬼が夫人をよほど好きなのではないかしらと思ひ出したのは、ずつと後のことだ。その當時は、ただ九鬼が夫人を心から尊敬してゐるらしいのだけが分つた。それがいつしか夫人を彼の犯し難い偶像にさせてゐた。ホテルでは、夫人の部屋は二階にあつて、向日葵ひまはりの咲いてゐる中庭に面してゐた。そしてその部屋の中に、ほとんど一日中閉ぢこもつてゐた。そこへ一度もはひる機會のなかつた彼は、日向葵の下から、よくその部屋を見上げた。それは非常に神聖な、美しい、そして何か非現實なもののやうに思はれた。
 そのホテルの部屋は、その後、彼の夢の中にしばしば現はれた。彼は夢の中では飛ぶことができた。そのおかげで、彼はその部屋の中を窓ガラスごしに見ることができた。それは夢毎にかならず裝飾を變へてゐた。或る時はイギリス風に、或る時は巴里風に。
 彼は今年二十になつた。同じ夢を抱いて、前よりはすこし悲しさうに、すこし痩せて。
 そしてさつきも、群集の間から、自動車のなかに死んだやうになつてゐる夫人をガラスごしに見たときは、彼は自分が歩きながら夢を見てゐるのではないかと信じたくらゐだつた……


 告別式の混雜によつてすつかり死の感情を忘れさせられながら、その式場から歸つてきた扁理は、埃だらけのカツフエのなかに、再びその死の感情を夫人と共に發見した。
 彼にはそれらのものが近づき難いやうに思はれた。そこでそれらに近づくために彼は出來るだけ悲しみを裝はうとした。だが、自分で氣のついてゐるよりずつと深いものだつた、彼自身の悲しみがそれを彼にうまくさせなかつた。そして愚かさうに、彼はそこに突立つてゐた。
「どうでしたか?」夫人が彼の方に顏をあげた。
「え、まだ大變な混雜です」彼はどぎまぎしながら答へた。
「では、私、もうあちらへお伺ひしないで、このまま歸りますわ……」
 さう言ひながら夫人は自分の帶の間から小さな名刺を出してそれを彼に渡した。
「すつかりお見それして居りましたの……こんどお閑でしたら、宅へもお遊びにいらしつて下さいませ」
 扁理は、自分が夫人に思ひ出されたことを知り、その上さういふ夫人からの申し出を聞くと、一そうどぎまぎしながら、何かしきりに自分もポケツトの中を探し出した。さうしてやつと一枚の名刺を取り出した。それは九鬼の名刺だつた。
「自分の名刺がありませんので……」さう言つて、ものぢた子供のやうに微笑しながら、彼はその名刺を裏がへし、そこに
河野扁理
といふ字を不恰好に書いた。
 それを見ながら、さつきからこの青年と九鬼とは何處がこんなに似てゐるのだらうと考へてゐた細木夫人は、やつとその類似點を彼女獨特の方法で發見した。
 ――まるで九鬼を裏がへしにしたやうな青年だ。
 このやうに、彼等が偶然出會ひ、そして彼等自身すら思ひもよらない速さで相手を互に理解し合つたのは、その見えない媒介者が或は死であつたからかも知れないのだ。


          ※(アステリズム、1-12-94)


 河野扁理には、細木夫人の發見したやうに、どこかに九鬼を裏がへしにしたといふ風がある。
 容貌の點から言ふと彼にはあまり九鬼に似たところがない。むしろ對蹠的と言つていい位なものだ。だが、その對蹠がかへつて或る人々には彼等の精神的類似を目立たせるのだ。
 九鬼はこの少年を非常に好きだつたらしい。それがこの少年をして彼の弱點を速かに理解させたのであらう。九鬼は自分の氣弱さを世間に見せまいとしてそれを獨特な皮肉でなければ現はすまいとした人だつた。九鬼はそれになかば成功したと言つていい。だが、彼自身の心の中に隱すことが出來れば出來るほど、その氣弱さは彼にはますます堪へ難いものになつて行つた。扁理はさういふ不幸を目の前に見てゐた。そして九鬼と同じやうな氣弱さを持つてゐた扁理は、そこで彼とは反對に、さういふ氣弱さを出來るだけ自分の表面に持ち出さうとしてゐた。彼がそれにどれだけ成功するかは、これからの問題だが。――
 九鬼の突然の死は、勿論、この青年の心をめちやくちやにさせた。しかし、九鬼の不自然な死をも彼には極めて自然に思はせるやうな殘酷な方法で。


 九鬼の死後、扁理はその遺族のものから頼まれて彼の藏書の整理をしだした。
 毎日、黴臭い書庫の中にはひつたきり、彼は根氣よくその仕事をしてゐた。この仕事は彼の悲しみに氣に入つてゐるやうだつた。
 或る日、彼は一册の古びた洋書の間に、何か古い手紙の切れつぱしのやうなものの挾まつてあるのを發見した。彼はそれを女の筆跡らしいと思つた。そしてそれを何氣なく讀んだ。もう一度讀みかへした。それからそれを注意深く元の場所にはさんで、なるたけ奧の方にその本を入れて置いた。覺えておくためにその表紙を見たら、それはメリメの書簡集だつた。
 それからしばらく、彼は口癖のやうに繰り返してゐた。
 ――どちらが相手をより多く苦しますことが出來るか、私たちは試して見ませう……


 夕方になると、扁理は自分のアパアトメントに歸へる。
 彼の部屋は實によく散らかつてゐる。それは彼が毎日九鬼の書庫を整理するのと同じやうな根氣よさで、散らかしたもののやうに見える。――或る日、彼がその部屋へはひつて行くと、新聞とか雜誌とかネクタイとか薔薇とかパイプなどの堆積の上に、丁度水たまりの上に浮んだ石油のやうに、虹色になつて何かが浮んでゐるのを彼は發見した。
 それは、よく見ると、一つの美しい封筒だつた。裏がへすと細木と書いてあつた。そしてその筆跡は彼にすぐこの間のメリメ書簡集のなかに發見した古手紙のそれを思ひ出させた。
 彼は丁寧に封筒を切りながら、ひよいと老人のやうな微笑を浮べた。何も彼も知つてゐるんだと言つた風な……
 ――扁理はそんな風に二通りの微笑を使ひ分けるのだ。子供のやうな微笑と老人のやうな微笑と。つまり、他人に向つてするのと自分に向つてするのとを區別してゐたのだ。
 そしてさういふ微笑のために、彼は自分の心を複雜なのだと信じてゐた。


 扁理にとつて、細木夫人との二度目の面會が、その前のときよりもずつと深い心の状態においてなされたのは、さういふエピソオドのためだつた。細木夫人の部屋は、彼の夢とは異つて、裝飾などもすこぶる質素だつた。決してイギリス風でも、巴里風でもなかつた。そしてそれは彼に何となく一等船室のサロンを思はせた。
 ときどき彼が船暈ふなよひを感じてゐる人のやうな眼ざしを夫人の上に投げるのに注意するがいい。
 だが扁理の心理をそんなに不安にさせてゐるのは、さういふ環境のためばかりではなしに、細木夫人とともに故人の思ひ出を語りながら、たえず相手の氣持について行かうとして、出來るだけ自分の年齡の上に背伸びをしてゐるためでもあつたのだ。
 ――この人もまた九鬼を愛してゐたのにちがひない、九鬼がこの人を愛してゐたやうに。と扁理は考へた。しかしこの人の硬い心は彼の弱い心を傷つけずにそれに觸れることが出來なかつたのだ。丁度ダイアモンドが硝子に觸れるとそれを傷つけずにはおかないやうに。そしてこの人もまた自分で相手につけた傷のために苦しんでゐる……
 さういふ考へがたえず扁理を彼の年齡の達することのできない處に持ち上げようとしてゐたのだ。
 ――やがて、ひとりの十七八の少女が客間のなかに入つてくるのを彼は見た。
 彼はそれが夫人の娘の絹子であることを知つた。その少女は彼女の母にまだあんまり似てゐなかつた。それが彼に何となくその少女を氣に入らなく思はせた。
 彼は自分のいまの氣持からは十七八の少女はあんまり離れ過ぎてゐるやうに思つた。彼はその少女の顏よりも彼女の母のそれの方をもつと新鮮に見出した。
 絹子の方でもまた、少女特有の敏感さによつて、扁理の氣持が彼女から遠くにあることを見拔いたらしかつた。彼女は默つたまま、二人の會話にはひらうとしなかつた。
 彼女の母はすぐそれに氣づいた。そして彼女の微妙な心づかひがそれをそのままにしておくことを許さなかつた。彼女は母らしい注意をしながら、その二人をもつと近づけようとした。
 彼女はそれとなく扁理に娘の話をしだした。――或る日、絹子は學校友だちに誘はれるままに初めて本郷の古本屋といふものに入つてみたといふ。彼女がふとそこにあつたラフアエロの畫集を手にとつて見ると、その扉には九鬼といふ藏書印がしてあつた。そして彼女はそれを非常に欲しがつてゐた……
 突然、扁理が遮つた。
「それは僕の賣つたものかも知れません」
 夫人たちは驚いて彼を見上げた。すると彼は例の特有の無邪氣な微笑を見せながらつけ加へた。
「九鬼さんにずつと前に貰つたのを、あの方の亡くなられる四五日前に、どうにも仕樣がなくなつて賣つてしまつたんです。今になつてたいへん後悔してゐるんですけれども……」
 さういふ自分の貧しさをどうしてかういふ豐かな夫人たちの前で告白するやうな氣になつたのか、扁理自身にもよく分らなかつた。だが、この告白は何となく彼の氣に入つた。彼は自分の思ひがけない率直な言葉によつて、夫人たちがひどく驚いてゐるらしいのを、むしろ滿足さうに眺めた。
 さうして扁理自身もまた、自分自身の子供らしい率直さにいつか驚き出した……


          ※(アステリズム、1-12-94)


 それまで彼の夢にしか過ぎなかつた細木家といふものが、急に一つの現實となつて扁理の生活の中にはひつてきた。
 扁理はそれを九鬼やなんかの思ひ出といつしよくたに、新聞、雜誌、ネクタイ、薔薇、パイプなどの混雜のなかに、無造作に放り込んでおいた。
 さういふ亂雜さをすこしも彼は氣にしなかつた。むしろそれに、彼自身に最もふさはしい生活樣式を見出してゐたのだ。

 或る晩、彼の夢のなかで、九鬼が大きな畫集を彼に渡した。そのなかの一枚の畫をさしつけながら、
「この畫を知つてゐるか?」
「ラフアエロの聖家族でせう」
 と彼は氣まり惡さうに答へた。それがどうやら自分の賣りとばした畫集らしい氣がしたのだ。
「もう一度、よく見てみたまへ」と九鬼が言つた。
 そこで彼はもう一ぺんその畫を見直した。すると、どうもラフアエロの筆に似てはゐるが、その畫のなかの聖母の顏は細木夫人のやうでもあるし、幼兒のそれは絹子のやうでもあるので、へんな氣がしながら、なほよく他の天使たちを見ようとしてゐると、
「わからないのかい?」と九鬼は皮肉な笑ひ方をした……
 扁理は目をさました。見ると、散らかつた自分の枕もとに、見おぼえのある、立派な封筒が一つ落ちてゐるのだ。
 おや、まだ夢の續きを見てゐるのかしら……と思ひながら、それでもいそいでその封を切つて見ると、手紙の中の文句は明瞭だつた。ラフアエロの畫集を買ひ戻しなさいと言ふのだ。そしてそれと一しよになつて一枚の爲替が入つてゐた。
 彼はベツドの中で再び眼をつぶつた。自分はまだ夢の續きを見てゐるのだと自分自身に言つてきかせるかのやうに。


 その日の午後、細木家を訪れた扁理は大きなラフアエロの畫集をかかへてゐた。
「まあ、わざわざ持つていらつしつたんですか。あなたのところに置いておけばおよろしかつたのに」
 さう言ひながらも、夫人はそれをすぐ受取つた。さうして籐椅子に腰かけながら、しづかにそれを一枚一枚めくつていつた……と思ふと、突然、それを荒あらしい動作で自分の顏のところに持ち上げた。そしてその本のにほひでも嗅いでゐるらしい。
「なんだかたばこのにほひがいたしますわ」
 扁理は驚いて夫人を見上げた。咄嗟に九鬼が非常に莨好きだつたことを思ひ出しながら。さうして彼は夫人の顏が氣味惡いくらゐに蒼ざめてゐるのに氣づいた。
「この人の樣子にはどこかしら罪人と云つた風があるな」と扁理は考へた。
 その時、庭の中から絹子が彼に聲をかけた。
「庭をごらんになりません?」
 彼は夫人をそのまま一人きりにさせて置く方が彼女の氣に入るだらうと考へながら、ひつそりとした庭のなかへ絹子のあとについて行つた。
 少女は、扁理を自分のうしろに從へながら、庭の奧の方へはひつて行けば行くほど、へんに歩きにくくなり出した。彼女はそれを自分のうしろにゐる扁理のためだとは氣づかなかつた。そして少女のみが思ひつき得るやうな單純な理由を發見した。彼女は扁理をふりかへりながら言つた。
「このへんに野薔薇がありますから、踏むと危なうございますわ」
 野薔薇に花が咲いてゐるには季節があまり早すぎた。そして扁理には、どれが野薔薇だか、その葉だけでは見わけられないのだ。彼もまた、いつのまにか不器用に歩き出してゐた。


 絹子は、自分ではすこしも氣づかなかつたが、扁理に初めて會つた時分から、少しづつ心が動搖しだしてゐた。――扁理に初めて會つた時分からではすこし正確ではない。それはむしろ九鬼の死んだ時分からと言ひ直すべきかも知れない。
 それまで絹子はもう十七であるのに、いまだに死んだ父の影響の下に生きることを好んでゐた。そして彼女は自分の母のダイアモンド屬の美しさを所有しようとはせずに、それを眺め、そしてそれを愛する側にばかりなつてゐた。
 ところが、九鬼の死によつて自分の母があんまり悲しさうにしてゐるのを、最初はただ思ひがけなく思つてゐたに過ぎなかつたが、いつかその母の女らしい感情が彼女の中にまだ眠つてゐた或る層を目ざめさせた。その時から彼女は一つの祕密を持つやうになつた。しかし、それが何であるかを知らうとはせずに。――そして、それからといふもの、彼女は知らず識らず自分の母の眼を通して物事を見るやうな傾向に傾いて行きつつあつた。
 そして彼女はいつしか自分の母の眼を通して扁理を見つめだした。もつと正確に言ふならば、彼の中に、母が見てゐるやうに、裏がへしにした九鬼を。
 しかし彼女自身は、さういふすべてを殆ど意識してゐなかつたと言つていい。


 そのうち一度、扁理が彼女の母の留守に訪ねて來たことがある。
 扁理はちよつと困つたやうな顏をしてゐたが、それでも絹子にすすめられるまま、客間に腰を下してしまつた。
 あいにく雨が降つてゐた。それでこの前のやうに庭へ出ることもできないのだ。
 二人は向ひ合つて坐つてゐたが、別に話すこともなかつたし、それに二人はお互に、相手が退屈してゐるだらうと想像することによつて、自分自身までも退屈してゐるかのやうに感じてゐた。
 さうして二人は長い間、へんに息苦しい沈默のなかに坐つてゐた。
 しかし二人は室内の暗くなつたことにも氣のつかないくらゐだつた。――そんなに暗くなつてゐることに初めて氣がつくと、驚いて扁理は歸つて行つた。
 絹子はそのあとで、何だか頭痛がするやうな氣がした。彼女はそれを扁理との退屈な時間のせゐにした。だが、實は、それは薔薇のそばにあんまり長く居過ぎたための頭痛のやうなものだつたのだ。


          ※(アステリズム、1-12-94)


 さういふ愛の最初の徴候は、絹子と同じやうに、扁理にも現はれだした。
 自分の亂雜な生き方のおかげで、扁理はその徴候をば單なる倦怠のそれと間違へながら、それを女達の硬い性質と自分の弱い性質との差異のせゐにした。そして「ダイアモンドは硝子を傷ける」といふ原理を思ひ出して、自分もまた九鬼のやうに傷つけられないうちに、彼女たちから早く遠ざかつてしまつた方がいいと考へた。そして彼は彼獨特の言ひ方で自分に向つて言つた。――自分を彼女たちに近づけさせたところの九鬼の死そのものが、今度は逆に自分を彼女たちから遠ざけさせるのだと。
 そしてさういふ驚くほど簡單な考へ方で彼女たちから遠ざかりながら、扁理は再び自分の散らかつた部屋のなかに閉ぢこもつて、自分一人きりで生きようとした。すると今度は、その閉ぢ切つた部屋の中から、本當の倦怠が生れ出した。しかし扁理自身はその本物も贋物もごつちやにしながら、ただ、さういふものから自分を救ひ出してくれるやうな一つの合圖しか待つてゐなかつた。
 一つの合圖。それはカジノの踊り子たちに夢中になつてゐる彼の友人たちから來た。
 或る晩、扁理は友人たちと一しよにコツク場のやうな臭ひのするカジノの樂屋廊下に立ちながら、踊り子たちを待つてゐた。
 彼はすぐ一人の踊り子を知つた。
 その踊り子は小さくて、そんなに美しくなかつた。そして一日十幾囘の踊りにすつかり疲れてゐた。だが、その自棄氣味で、陽氣さうなところが、扁理の心をひきつけた。彼はその踊り子に氣に入るために出來るだけ自分も陽氣にならうとした。
 しかし踊り子の陽氣さうなのは、彼女の惡い技巧にすぎなかつた。彼女もまた彼と同じくらゐに臆病だつた。が、彼女の臆病は、人に欺かれまいとするあまりに人を欺かうとする種類のそれだつた。
 彼女は扁理の心を奪はうとして、他のすべての男たちとふざけ合つた。そして彼を自分から離すまいとして、彼と約束して置きながら、わざと彼を待ちぼうけさせた。
 一度、扁理が踊り子の肩に手をかけようとしたことがある。すると踊り子はすばやくその手から自分の肩を引いてしまつた。そして彼女は、扁理が顏を赤らめてゐるのを見ながら、彼の心を奪ひつつあると信じた。
 かういふ二人の氣の小さな戀人同志がどうして何時までもうまくやつて行けるだらうか?
 或る日、彼は公園の噴水のほとりで踊り子を待つてゐた。彼女はなかなかやつて來ない。それには慣れてゐるから彼はそれをそれほど苦痛には感じない。が、そのうちふと、踊り子とは別の少女――絹子のことを彼は考へ出した。そして若しいま自分の待つてゐるのがその踊り子ではなくて、あの絹子だつたらどんなだらうと空想した。……が、その莫迦げた空想にすぐ自分で氣がついて、彼はそれを踊り子のための現在の苦痛から囘避しようとしてゐる自分自身のせゐにした。

 扁理の亂雜な生活のなかに埋もれながら、なほ絶えず成長しつつあつた一つの純潔な愛が、かうしてひよつくりその表面に顏を出したのだ。だが、それは彼に氣づかれずに再び引込んで行つた……


 絹子はといへば、扁理が自分たちから遠ざかつて行くのを、最初のうちは何かほつとした氣持で見送つてゐた。が、それが或る限度を越え出すと、今度は逆にそれが彼女を苦しめ出した。しかし、それが扁理に對する愛からであることを認めるには、少女の心はあまりに硬過ぎた。
 細木夫人の方は、扁理がかうして遠ざかつて行くのを、むしろ、彼に訪問の機會を與へてやらない自分自身の過失のやうに考へてゐた。しかし夫人には扁理を見ることは樂しいことよりも、むしろ苦しいことの方が多かつた。さうして月日が九鬼の死を遠ざければ遠ざけるほど、彼女に欲しいのは平靜さだけであつた。だから、彼女は扁理がだんだん遠ざかつて行くのを見ても、それをそのままにして置いたのだ。
 或る朝、二人は公園のなかに自動車をドライヴさせてゐた。
 噴水のほとりに、扁理が一人の小さい女と歩いてゐるのを、彼女たちが見つけたのはほとんど同時だつた。その小さい女は黄と黒の縞の外套をきてゐて、何か快活さうに笑つてゐた。それと竝んで扁理は考へ深さうにうつむきながら歩いてゐた。
「あら!」と絹子が車の中でかすかに聲を立てた。
 と同時に彼女は、彼女の母がもしかしたら扁理たちに氣づかなかつたかも知れないと思つた。さうして彼女自身もそれに氣づかなかつたやうな風をしようとした。
「なんだか目の中にゴミがはひつちやつたわ……」
 夫人は夫人でまた、絹子が扁理たちを見なかつたことを、ひそかに欲してゐた。さうして、ほんたうに目の中にゴミかなんか入つて彼等を見なかつたのかも知れないと思つた。
「びつくりしたぢやないの……」
 さう言つて、夫人は自分の心持蒼くなつてゐる顏をごまかした。


          ※(アステリズム、1-12-94)


 その沈默はしかし、二人の間にながく尾をひいた。
 それからといふもの、絹子はよく一人で町へ散歩に出かけた。彼女は心の中のうつたうしさを運動不足のせゐにしてゐたのだ。さうして母からも離れて一人きりになりたい氣持や、かうして歩いてゐるうちにまたひよつとしたら扁理に會へるかも知れないといふ考へなどの彼女にあつたことは、少しも自分で認めようとはしなかつた。
 彼女は扁理とその戀人らしいものの姿を、下手な寫眞師のやうに修整してゐた。その寫眞のなかでは、例の小さい踊り子は彼女と同じやうな上流社會の立派な令孃に仕上げられてゐた。
 彼女はさういふ扁理たちに對して何とも云へないにがさを味つた。しかし、それが扁理のための嫉妬であることには、勿論、彼女は氣づかなかつた。何故なら、彼女は扁理たちのやうな年輩のどういふ二人づれを見てもその同じやうなにがさを味つたからだ。そして彼女はそれを世間一般の戀人たちに對するにがさであると信じた。――實は、彼女はどういふ二人づれを見ても知らず識らず扁理たちを思ひ出してゐたのだが……
 彼女は歩きながら、飾窓シヨウヰンドウに映る自分の姿を見つめた。さうして彼女は、いますれちがつたばかりの二人づれに自分を比較した。ときどき硝子の中の彼女は妙に顏をゆがめてゐた。彼女はそれを惡い硝子のせゐにした。


 或る日、さういふ散歩から歸つてくると、絹子は玄關にどこか見おぼえのある男の帽子と靴とを見出した。
 さうしてそれが誰のだかはつきり思ひ出せないことが、彼女をちよつと不安にさせた。
「誰かしら」
 と思ひながら、彼女が客間に近づいて行つてみると、その中から、こはれたギタアのやうな聲が聞えてきた。
 それは斯波しばといふ男の聲であつた。
 斯波といふ男は、――「あいつはまるで壁の花みたいな奴ですよ。そら、舞踏會で踊れないもんだから、壁にばかりくつついてゐる奴がよくあるでせう。さういふ奴のことを英語で Wall Flower といふんださうだけれど……斯波の人生における立場なんか全くそれですね」――そんなことをいつか扁理が言つてゐたのを思ひ出しながら、それから、彼女はふと扁理のことを考へた。……
 彼女が客間に入つて行くと、斯波は急に話すのを歇めた。
 が、すぐ、斯波は、例のこはれたギタアのやうな聲で、彼女に向つて言ひだした。
「いま、扁理の惡口を言つてゐたところなんですよ。あいつはこの頃全く手がつけられなくなつたんです。くだらない踊り子かなんかに引つかかつてゐて……」
「あら、さうですの」
 絹子はそれを聞くと同時ににつこりと笑つた。いかにも朗らかさうに。そして自分でも笑ひながら、こんな風に笑つたのは實にひさしぶりであるやうな氣がした。
 このながく眠つてゐた薔薇を開かせるためには、たつた一つの言葉で充分だつたのだ。それは踊り子の一語だ。扁理と一しよにゐた人はそんな人だつたのか、と彼女は考へ出した。私はそれを私と同じやうな身分の人とばかり考へてゐたのに。そしてさういふ人だけしか扁理の相手にはなれないと思つてゐたのに。……さうだわ、きつと扁理はそんな人なんか愛してゐないのかも知れない。もしかすると、あの人の愛してゐるのはやつぱし私なのかも知れない。それだのに私があの人を愛してゐないと思つてゐるので、私から遠ざからうとしてゐるのではないかしら。さうして自分をごまかすためにきつとそんな踊り子などと一しよに暮らしてゐるのだ。そんな人なんかあの人には似合はないのに……
 それは少女らしい驕慢な論理だつた。しかし、大抵の場合、少女は自分自身の感情はその計算の中に入れないものだ。そして絹子の場合もさうだつた。


          ※(アステリズム、1-12-94)


 ときどき鳴りもしないのにベルの音を聞いたやうな氣がして自分で玄關に出て行つたり、器械がこはれてゐてベルが鳴らないのかしらと始終思つたりしながら、絹子はたえず何かを待つてゐた。
「扁理を待つてゐるのかしら?」ふと彼女はそんなことを考へることもあつたが、そんな考へはすぐ彼女の不浸透性の心の表面を滑つて行つた。
 或る晩、ベルが鳴つた。――その訪問者が扁理であることを知つても、絹子は容易に自分の部屋から出て行かうとしなかつた。
 やつと彼女が客間にはひつて行くと、扁理は、帽子もかぶらずに歩いてゐたらしく、毛髮をくしやくしやにさせながら、青い顏をして、ちらりと彼女の方をにらんだ。それきり彼は彼女の方をふりむきもしなかつた。
 細木夫人は、さういふ扁理を前にしながら、手にしてゐる葡萄の皿から、その小さい實を丹念に口の中へ滑り込ましてゐた。夫人は目の前の扁理のだらしのない樣子から、ふと、九鬼の告別式の日に途中で彼に出會つた時のことを思ひ出し、それからそれへと樣々なことが考へられてならないのだが、彼女はそれから出來るだけ心をそらさうとして、一そう丹念に自分の指を動かしてゐた。
 突然、扁理が言つた――
「僕、しばらく旅行して來ようと思ひます」
「どちらへ?」夫人は葡萄の皿から眼を上げた。
「まだはつきり決めてないんですが……」
「ながくですの?」
「ええ、一年ぐらゐ……」
 夫人はふと、扁理が、例の踊り子と一しよにそんなところへ行くのではないかと疑ひながら、
「淋しくはありませんか」と訊いた。
「さあ……」
 扁理はいかにも氣のない返事をしたきりだつた。
 絹子はといへば、その間默つたまま、彼の肖像でも描かうとするかのやうに、熱心に彼を見つめてゐた。
 さうして彼女の母が、扁理の、くしけづらない毛髮や不恰好に結んだネクタイや惡い顏色などのなかに、踊り子の感化を見出してゐる間、絹子はその同じものの中に彼女自身のために苦しんでゐる青年の痛々しさだけしか見出さなかつた。


 扁理が歸つた後、絹子は自分の部屋にはひるなり、思はず眼をつぶつた。さつきあんまり扁理の赤い縞のあるネクタイを見つめ過ぎたので、眼が痛むのだ。するとその閉ぢた眼の中には、いつまでも赤い縞のやうなものがチラチラしてゐた……


          ※(アステリズム、1-12-94)


 扁理は出發した。
 都會が遠ざかり、そしてそれが小さくなるのを見れば見るほど、彼には出發前に見てきた一つの顏だけが次第に大きくなつて行くやうに思はれた。
 一つの少女の顏。ラフアエロの描いた天使のやうにきよらかな顏。實物よりも十倍位の大きさの一つの神祕的な顏。そしていま、それだけがあらゆるものから孤立し、膨大し、そしてその他すべてのものを彼の目から覆ひ隱さうとしてゐる……
「おれのほんとうに愛してゐるのはこの人かしら?」
 扁理は目をつぶつた。
「……だが、もうどうでもいいんだ……」
 そんなにまで彼は疲れ、傷つき、絶望してゐた。
 扁理。――この亂雜の犧牲者には今まで自分の本當の心が少しも見分けられなかつたのだ。そして何の考へもなしに自分のほんたうに愛してゐるものから遠ざかるために、別の女と生きようとし、しかもその女のために、もうどうしていいか分らないくらゐ、疲れさせられてしまつてゐるのだ。
 さうして彼はいま何處へ到着しようとしてゐるのか?
 何處へ?……
 彼は突然、汽車が一つの停車場に停まると同時に、慌ててそこへ飛び降りてしまつた。
 それは何かの藥品の名を思ひ出させるやうな名前の、小さな海邊の町であつた。
 そしてこの一個のトランクすら持たぬ悲しげな旅行者は、停車場を出ると、すぐその見知らない町の中へ何の目的もなしに足を運んで行つた。
 彼はしかし歩いてゆくうちに、ふと變な氣がしだした。……通行人の顏、風が氣味わるく持ち上げてゐる何かのビラ、何とも言へず不快な感じのする壁の上の落書、電線にひつかかつてゐる紙屑のやうなもの、――さういふものが彼になにかしら不吉な思ひ出を強請するのだ。扁理は或る小さなホテルにはひり、それから見知らない一つの部屋にはひつた。あらゆるホテルの部屋に似てゐる一つの部屋。しかし、それすら彼に何かを思ひ出させようとし、彼を苦しめ出すのだ。彼は疲れてゐて非常に眠かつた。そして彼はそのすべてを自分の疲れと眠たさのせゐにしようとした。彼はすこし眠つた。……目をさますと、もう暗くなつてゐた。窓から入つてくる、濕つぽい風が扁理に、自分が見知らない町に來てゐることを知らせた。彼は起き上り、それから再びホテルを出た。
 さうしてまた、さつき一度歩いたことのある道を歩きながら、あの時から少しも失はれてゐない自分のなかの不可解な感じを、犬のやうに追ひかけて行つた。
 突然、或る考へが扁理にすべてを理解させ出したやうに見える。さつきから自分をかうして苦しめてゐるもの、それは死の暗號ではないのか。通行人の顏、ビラ、落書、紙屑のやうなもの、それらは死が彼のために記して行つた暗號ではないのか。どこへ行つてもこの町にこびりついてゐる死のしるし。――それは彼には同時に九鬼の影であつた。さうして彼にはどうしてだか、九鬼が數年前に一度この町へやつてきて、今の自分と同じやうに誰にも知られずに歩きながら、やはり今の自分と同じやうな苦痛を感じてゐたやうな氣がされてならないのだ……
 さうして扁理はやうやく理解し出した、死んだ九鬼が自分の裏側にたえず生きてゐて、いまだに自分を力強く支配してゐることを、そしてそれに氣づかなかつたことが自分の生の亂雜さの原因であつたことを。
 さうしてこんな風に、すべてのものから遠ざかりながら、そしてただ一つの死を自分の生の裏側にいきいきと、非常に近くしかも非常に遠く感じながら、この見知らない町の中を何の目的もなしに歩いてゐることが、扁理にはいつか何とも言へず快い休息のやうに思はれ出した。
 ――そのうちに扁理は、強い香りのする、夥しい漂流物に取りかこまれながら、うす暗い海岸に愚かさうに突立つてゐる自分自身を發見した。さうして自分の足もとに散らばつてゐる貝殼や海草や死んだ魚などが、彼に、彼自身の生の亂雜さを思ひ出させてゐた。――その漂流物のなかには、一ぴきの小さな犬の死骸が混つてゐた。さうしてそれが意地のわるい波にときどき白い齒で噛まれたり、裏がへしにされたりするのを、扁理はぢつと見入りながら、次第にいきいきと自分の心臟の鼓動するのを感じ出してゐた……


          ※(アステリズム、1-12-94)


 扁理の出發後、絹子は病氣になつた。
 さうして或る日、彼女はとうとう始めて扁理への愛を自白した。彼女は寢臺の上で、シイツのやうに青ざめた顏をしながら、こんなことを繰り返へし繰り返へし考へてゐた。
 ――何故私はああだつたのかしら。何故私はあの人の前で意地のわるい顏ばかりしてゐたのかしら。それがきつとあの人を苦しめてゐたのだわ。さうしてこんな風に私たちから遠ざからせてしまつたのにちがひない。それに、あの人は始終自分の貧乏なことを氣にしてゐたやうだけれど……(そんな考へがさつと少女の頬を赤らめた)……それで、あの人は私のお母さんに誘惑者のやうに思はれたくなかつたのかも知れない。あの人が私のお母さんを怖れてゐたことはそれは本當だわ。こんな風にあの人を遠ざからせてしまつたのはお母さんだつて惡いんだ。私のせゐばかりではない。ひよつとしたら何もかもお母さんのせゐかも知れない……
 そんな風にこんぐらかつた獨語が、娘の顏の上にいつのまにか、十七の少女に似つかはしくないやうな、にがにがしげな表情を雕りつけてゐた。それは實に彼女自身への意地であつたのだけれども、彼女には、それを彼女の母への意地であるかのやうに誤つて信じさせながら……


「はひつてもよくつて?」
 そのとき部屋の外で母の聲がした。
「いいわ」
 絹子は、彼女の母がはひつて來るのを見ると、いきなり自分の狂暴な顏を壁の方にねぢむけた。細木夫人はそれを彼女が涙をかくすためにしたのだとしか思はなかつた。
「河野さんから繪はがきが來たのよ」と夫人はおどおどしながら言つた。
 その言葉が絹子の顏を夫人の方にねぢむけさせた。今度は夫人がそれから自分の顏をそむかせる番だつた。
 ――この頃、細木夫人はすつかり若さを失つてゐた。そして彼女には、自分の娘が何んだか自分から遠くに離れてしまつたやうに思はれてならないのだつた。彼女はときどき自分の娘を、まるで見知らない少女のやうにさへ思ふことがあつた。そして今も、さうだつた……
 絹子は、海の繪はがきの裏に、鉛筆で書かれた扁理の神經質な字を讀んだ。彼は、その海岸が氣に入つたからしばらく滯在するつもりだ、と書いて寄こしたきりだつた。
 絹子はその繪はがきから、彼女の狂暴な顏をいきなり夫人の方にむけながら、
「河野さんは死ぬんぢやなくつて?」と出しぬけに質問した。
 細木夫人はその瞬間、自分の方を睨んでゐる、一人の見知らぬ少女の、そんなにもこはい眼つきに驚いたやうだつた。が、その少女のそんな眼つきは突然、夫人に、彼女がその少女と同じくらゐの年齡であつた時分、彼女の愛してゐた人に見せつけずにはゐられなかつた自分の恐い眼つきを思ひ出させた。さうして夫人は、その見知らない少女がその頃の自分にひどくてゐることに、そして、その少女が實は自分の娘であることに、なんだか始めて氣づいたかのやうに見えた。夫人は溜息をしづかに洩らした。――娘は誰かを愛してゐる。自分が、昔、あの人を愛してゐたやうに愛してゐる。そしてそれはきつと扁理にちがひない……
 細木夫人は、しかし次の瞬間、自分のなかに長いこと眠つてゐた女らしい感情が、再び目ざめだしたやうに感じた。九鬼の死後、彼女の苦しんでゐた樣子が、絹子の中にそれまで眠つてゐた女らしい感情を喚び起したのとまつたく同じの心理作用が、今度は、その反作用ででもあるかのやうに起つたのだ。そしてそれは、夫人もまた絹子と同じやうに扁理を愛してゐるかのやうに、彼女に信じさせたくらゐの新鮮さで。――
 二人はそのまましばらく默つてゐた。そしてその沈默が、絹子の今しがた言つた恐しい言葉を、そつくりそのまま肯定してゐるかのやうに思はれさうになつた時、細木夫人はやうやく自分の母としての義務を取り戻した。
 さうして夫人はいかにも自信ありげな微笑を浮べながら、答へたのである。
「……そんなことはないことよ……それはあの方には九鬼さんがいてゐなさるかも知れないわ。けれども、そのために反つてあの方は救はれるのぢやなくつて?」
 河野扁理にはじめて會つた時から、夫人に、彼の生のなかには九鬼の死がよこいとのやうに織りまざつてゐることを、そしてそれが彼をして死に見入ることによつて生がやうやく分るやうな不幸な青年にさせてゐることを見拔かせたところの、一種の鋭い直覺が、いま再び彼女のなかに蘇つて來ながら、さういふ扁理の不幸を絹子に理解させるためには、いま言つたやうなごく簡單な逆説パラドツクスだけで充分であることを彼女に知らせたのだ。
「さうかしら……」
 絹子はさう答へながら、始めはまだ何處かしら苦痛をおびた表情で、彼女の母の顏を見あげてゐたけれども、そのうちにぢつとその母の古びた神々しい顏に見入りだしたその少女の眼ざしは、だんだんと古畫のなかで聖母を見あげてゐる幼兒のそれに似てゆくやうに思はれた。

底本:「堀辰雄作品集第一卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年5月28日初版第1刷発行
底本の親本:「聖家族」江川書房
   1932(昭和7)年2月20日
初出:「改造 第十二巻第十一号」
   1930(昭和5)年11月号
※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。
「聖家族」(入力:kompass、校正:松永正敏)
入力:大沢たかお
校正:岡村和彦
2012年9月30日作成
2012年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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