良心という言葉は、いろいろの意味に解釈されている。ある人はこれを苛責と解釈しているが、この苛責すなわち remorse の re は再びを意味し、morse は噛むを意味しているところから、学究的にむつかしく考える人は、良心のことを「再び噛む」というのである。それからまた、一方では良心をごく気楽に考える人もあって、そんなことが、幸福と幸福でないことの、決定的な要素のように思われている。
 むろん、良心というものを気楽に考える人にも、理窟がないことはないが、そこに大きな問題があるのである。こちこちの固い良心をもった人は、柔かい良心の人だったら「再び噛む」に痛めつけられるようなみじめな状態におちいっても、案外けろりとしているようなこともある。それからまた、ある少数の不運な人は、良心というものを全然もっていないのもあるが、これは普通人の精神的有為転変を超越できるマイナスの賜物といえるだろう。
 そのいい例が、サイラス・ヒクラーである。善意にかがやく、いつもにこにこ笑っている彼のほがらかな丸顔をみては、だれだって彼を犯罪者とは思わない。わけても、しょっちゅう機嫌がよくて、家のなかで気がるに喋り、食事の時に気のきいた冗談をとばす彼を、いつも見ているはずの、彼のうちの尊敬すべき高教会派の家政婦は、彼を信じきっていたのである。
 だが、このサイラスという男は、じつのところは、その控えめではあるが不自由のない収入を、泥棒の技術でえていたのである。それは不安定で危険な仕事にはちがいなかったが、判断をあやまらず慎重にふるまえば、そう危険とばかりはいえなかった。そして、もともとサイラスは、判断力をもった男だったのだ。彼はいつも一人で行動した。だれにも相談しなかった。これが共犯者のある犯罪者だったら、法廷で困ってきたりすると、共犯者をおとしいれるような証言もしようが、彼には共犯者がないので、そんな心配もなかったし、また、なにかの拍子に怒って密告するために、警視庁にとびこむような女ももっていなかった。それかといって、多くの犯罪者のように、強慾でもなければ、つかんだ金を湯水のように使うくせもなかった。周到な計画のもとにひそかに行なう彼の犯罪のみいりは、わりにすくなく、かつ犯罪と犯罪とのあいだに、相当の期間をおくというふうだったが、そのかわり彼はそのみいりを控えめに生活費につぎこんだ。
 若いころ、ダイアモンド関係の仕事をしたことのあるサイラスは、いまでも時々ではあるがそれに手をだすので、どうかするとダイアの密売者とうたがわれたり、また二三の不謹慎な業者は、彼のことを盗品故買者だと蔭でささやいたりする。でもサイラスはにこにこ笑いながら自分の道をすすんだ。彼には彼の考えがあったし、アムステルダムの宝石商人は彼と取り引きしながら、べつに彼のことをせんさくしもしなかった。
 サイラス・ヒクラーはそんな男だった。ある十月の夕方、ほのぐらい自分のうちの庭を歩きまわる彼は、どうみても、つつしみぶかい中産階級の人としかみえなかった。大陸へ渡る時に着るいつもの旅行用の服を着て、荷造りのできた鞄は、シティングルームのソファのうえにおいてあった。彼のチョッキのポケットのなかには、ダイアの包みがあったが、それはこっそりではあったが、とにかくサザンプトンで正直に買った品物だった。右の靴のかかとの、くりぬいた穴のなかには、もっと高価な包みがかくしてあった。一時間半ほどしたら、船に連絡する汽車にのらねばならぬが、それまでは、こうして薄暗い庭をそぞろあるきしながら、来るべき商談をどう進行させるべきかというようなことを、考えるよりほかになすべきことがなかった。家政婦は週にいちどの買物でウェラムへ行き、十一時ごろまでは帰らぬはずだったので、彼は家のなかに一人でやや退屈だった。
 家のなかにはいろうとしていたら、庭さきの道、それは、時々人が歩くので自然に道のようになったところだったが、そこに人の足音がきこえた。立ちどまって耳をすました。近くに人のすみかはないし、またその道は庭のそばだけで、ちょっと行くと立ち消えになっているような道だった。来客だろうか? だが、サイラス・ヒクラーのうちには、めったに来客がないので、いまどきそんな者が来ようとも思われなかった。石だらけの固い土を踏む足音はしだいに近くなる。
 サイラスが好奇心にかられて、門に近づいて外をのぞいてみたら、煙草の火にてらされた人の顔がみえ、それからその人影は、うす暗がりを近づいて、彼のまえにたちどまった。その男は口にくわえていた巻煙草をとり、ぷっと煙をはきだして、
「この道を行くと、バドシャム駅へ出られますか。」ときいた。
「いいや、」とヒクラーはこたえた。「この道はだめですが、もっと向うのほうに、駅へ出る細い道がありますよ。」
「細い道ですか?」と、その男はうんざりしたようにいった。「もう細い道にはこりこりしました。町から駅へ出ようと思って、キャトリーへまわったのですが、途中で近道があると教えられて迷いこんだのがもとで、もう三十分もこんなところをうろうろしているのです。目がわるいもんですからね。」
「何時の汽車におのりになるんです?」ヒクラーはきいた。
「七時五十八分です。」
「そんなら、私も同じ汽車にのるのですが、まだ一時間いじょうもありますよ。駅はここから一マイルもないんです。なんでしたら、うちへはいってお休みなさい。いっしょに行きましょう。そしたら道を迷う心配はないですよ。」
「そうですか、それはどうも――」その男は眼鏡ごしに暗い家をみて、「でも――まあ――」
「駅でお待ちになるのも、ここでお待ちになるのもおなじでしょう。」
 そうサイラスは愛想よくいった。ドアを大きくあけると、その男はちょっとためらったあとで門をはいり、煙草のすいがらをすてて、すたすた彼のあとについて、カテージふうの家へ歩きだした。
 シティングルームはまっくらで、煖炉に消えのこる火が赤くみえるだけだったが、サイラスはさきにはいって、マッチをすって、天井からぶらさがるランプに灯をつけた。ランプに灯がついて小さい部屋が明るくなると、二人ははじめて好奇的な目で相手をみあった。
「なんだ、この男はブロズキーじゃないか! なるほど目がわるいというし、もう長年あわずにいるから、おれが分らないとみえる。」そう心につぶやいたが、口にだしてはていねいに、「まあお掛けなさい。いまウィスキーでもだしますから。」といった。
 ブロズキーは口のなかでなにやらつぶやきながら、この家の主人が戸棚をあけているまに、部屋のすみの椅子に固い鼠色の中折帽をおき、テーブルの端に鞄をのせ、そのそばに蝙蝠傘をたてかけて、小型の腕椅子に腰をおろした。
「ビスケットをおあがりになりますか?」
 ヒクラーはそういいながら、ウィスキーの壜と、サイフォンと、とっときのグラスを二つテーブルのうえにおいた。
「それはどうもありがとう。これから汽車にのるのですし、ずいぶん歩きましたから――」
「腹がへっていちゃいけませんよ。オートケイキをめしあがりますか? ほかになにもないのですが。」
 そうヒクラーがいうと、ブロズキーはそれがなによりの好物だといって、自分でウィスキーにサイフォンのソーダ水を入れて、さも美味そうにオートケイキを食べはじめた。
 ブロズキーはゆっくり物を食べる流儀らしかったが、この時はかなり食べることに気を取られているらしく、始終口をもぐもぐ動かすので、話が留守になりがちだった。自然喋ることはヒクラーにお鉢がまわるわけだが、そんなに話題があるはずはなかった。こんな場合当然ブロズキーの旅行先の地名や旅行の目的をきくべきものだろうが、ヒクラーはそれをきくきになれなかった。というのは、彼にはその二つともがよく分っているからだった。
 ブロズキーは大がかりにダイアを取り扱う、かなり名をしられた商人で、主としてまだ加工しない原石を買いとるが、目がよくきくというので評判だった。彼はいつも普通より大型の、値も高い石を買いとり、そんなのが一定の量に達すると、自分でアムステルダムへ持っていって、そこの職人が磨くのを監督した。そんなことをよく知っているヒクラーは、こちらからきかなくても、彼がなんのため、どこへ行こうとしているかよく分った。どちらかというと、見すぼらしいこの男の服のどこかには、数千ポンドの高価な紙包みが隠してあるにちがいなかった。
 あまりものをいわないで、ブロズキーは機械的に口を動かしながら坐っていた。彼とむきあって坐るヒクラーは、魅惑されたように相手をみながら、しょっちゅう神経質らしく喋りつづけ、時々大声をだした。彼は金物、たとえば銀食器なぞは取扱わなかった。金も金貨以外は手を触れようとしなかった。ただ靴の踵に入れて運ぶことができ、絶対安全に売却することのできる、宝石だけが彼の専門だった。だのに、いますぐ目の前に、彼の十回分の収獲を一つにしたような貴い包みを、ポケットにいれた男が坐っているのだ。その宝石の値段はおそらく――そこまで考えて、彼はわれにかえって、まとまりもないことを、急速度に喋りだした。彼の言うことにまとまりがないのは、話のあいまに、話とはまったく別のことを考えているからだった。
「晩方になると冷えるようですな?」ヒクラーはいった。
「そう、冷えますね。」ブロズキーはそれだけいうと、またゆっくりと噛みはじめ、呼吸するごとに、相手に聞えるほど鼻をならした。
「すくなくも五千ポンド。」意識の奥のほうで考えた。「ことによると六千ポンド。それとも一万ポンドかな。」椅子にすわってサイラスはもじもじした。興味のある話題に精神を集中したいとおもった。なんだか、今までとはちがったことばかり考えようとする自分が腹立たしかった。
「あなたは園芸に趣味をおもちですか?」
 そう彼はきいた。ダイア、それから毎週金をたくわえること、そのつぎに彼が好きなのはフクシアを栽培することだった。
 ブロズキーは苦笑して、「べつに花をつくらなくても、すぐそばにハットン・ガードンがあるので――」といいかけたが、急に話をかえて、「私、ロンドンに住んでいるんです。」といった。
 話しかけてやめたことが、サイラスにぴんときた。やめた理由はよく分った。大金を身につけて旅をする人間は、むやみなことはしゃべれない。
「そうですね。ロンドンに住んでいちゃ、花なんか作っちゃいられませんね。」
 サイラスは気がなさそうにそういったあとで、また心のなかで勘定しはじめた。かりに五千ポンドとすれば、一週間の収入がどのくらいだろう? 自分は貸家の最後の仕上げに、一軒二百五十ポンドを支払い、それを一週十シリング六ペンスで貸したが、その計算でいくと、五千ポンドは一週十シリング六ペンスで二十軒もつことになり――一日一ポンド八シリング――一年五百二十ポンド――それが一生。かなりの資産だ。今までのものにこれだけ加えれば、なんの不足もない。それだけ収入があれば、商売道具を川にすて、余生を安全気楽にすごせようというもの――
 そっと彼はテーブルのむこうに坐る男の顔を見たが、すぐその目をそらせた。目をそらせたのは自分の心のなかに、ある衝動、まがうべくもないある衝動をかんじたからだった。こんなことを考えてはならぬと彼はおもった。人間にたいする暴力は、気違いざただと考えてきた彼だった。なるほど、ウェイブリジで警官にたいするちょっとした事件があったことは事実だが、あれは不慮の避けがたい出来事、しかも責任は警官がわにあった。それからエプソムの老女中――あれは老女中の馬鹿が悲鳴をあげたのが悪かったのだ。つまり、あれは悲しむべき不慮の災難で、それをもっとも気の毒がっているのは自分なのである。だが、暴力で人の物をうばったり、計画的に人を殺したりすること――それは気違いじみた行いでなくてなんであろう?
 だが、もし自分がそんなことを問題にしない人間だったら、ここに生涯の幸運をつかめる機会があるわけだ。無限の富、空屋、付近に家がなく、人の通る大道から遠くはなれていて、時刻もおあつらえむきの薄暗い夕刻――ただ、死体の処置だけは考えなければならぬ。こいつがいつも問題なのだ。さて、死体はどうしたもんだろう? ――この時、家の裏の原っぱの、線路の彎曲したところを通過する、上りの急行の轟音がきこえた。その轟音をきいた彼は、あることを思いついた。なにもしらず、むっつり顔でウィスキーをすするブロズキーを見ながら、彼はつぎからつぎと考えた。やがて急に椅子から立ちあがると、消えかかった煖炉に両手をかざして、マントルピースの上の時計をみた。奇妙な感情のうずまきにたえかねて、家をでたくなった。寒さよりもむしろむし暑さを感じながら、ちょっと身震いして、ドアのほうに視線をむけた。
「風がはいるようですな。」いいながらサイラスはまた身震いした。「ドアはしまっているのかしら?」部屋をよこぎってドアをあけて庭をみた。むやみに彼は家の外へでたいという欲望をかんじた。家の外へとびだして、頭のなかのけがらわしい考えをふりすてたかった。
「まだ駅へ行くのは早いでしょう。」そういいながら星のない夜空をみあげた。
 ブロズキーは体をおこしてマントルピースを見て、「この時計はあっているのですか?」ときいた。
 サイラスはたぶんあっているだろうとこたえた。
「駅までどのくらいかかります?」ブロズキーはきいた。
「二十五分か三十分ですな。」無意識に距離を大袈裟にいった。
「まだ一時間いじょうあるんなら、駅で待つよりここで待つことにしましょう。あまり早く行ってもつまらん。」
「そうですとも。」サイラスは調子をあわせた。なかば得意、なかばむねんがるような、妙な感情が、頭のなかで渦をまいた。しばらく彼は戸口にたって、ぼんやり夜の闇をみつめていた。それから静かにドアをしめて、機械的に音のしないように鍵をかけた。
 また彼はもとの椅子にかえって、だまりがちのブロズキーに話しかけたが、その言葉はしどろもどろで、とぎれがちになり、顔がほてって、頭が充血して、たえず耳のおくで、なにか鋭いものが、かすかに鳴っているようにおもわれた。彼はあらたな、恐ろしい興味でその男を見つめている自分にきがついた。むりにその男から目をはなすと、またいつのまにかいっそう恐ろしい興味で見つめていることにきがついた。そして、血もあれば腕力もあるこの目のまえの男が、どんな抵抗をするだろうと、たえずその光景を、想像で心にえがいた。そのおぞましい犯罪は、彼の想像のなかでしだいに細部がこまかく完成され、つぎからつぎと順をおって行われるその手順が、合理的に噛みあうようになった。
 目はその男にそそいだまま、彼はおちつきなく椅子から立ちあがった。それは高価な宝石をかくし持っている男と、向きあって坐っているにたえられなくなったからだった。不安と驚きをともなう心のなかの衝動は、自分でも制御できないほど、一刻一刻と大きくなった。だからこのまま坐っていれば、その衝動にうちまかされ、ついには――あまりの恐ろしさに彼は身震いした。身震いしながらも、宝石をつかみたさで指先がむずむずした。つまりは、このサイラスという男が、生れつきの犯罪者だったからである。生きたものを殺して食う野獣みたいなものなのだ。彼の生活費は、額に汗してかせいだものではなかった。盗んだり暴力をもちいたりして獲得したものだった。生れつきの本能が食肉獣的なので、なんの防禦もない宝石を身近にかんずると、それに手をださずにいられないのだ。このままその宝石が、自分の手のとどかぬ、遠いところへ行ってしまうというようなことは、とても彼にはしのべないことだった。
 それにもかかわらず、サイラスはもいちどそれから逃れるように、努力してみたいと思った。いよいよ出発という時刻がくるまで、ブロズキーの前から、座をはずしていたいと思った。
「ちょっと私はもっと厚い靴にはきかえてきますよ。」と彼はいった。「日でりがつづいたので、天気が変るかもしれませんし、足がぬれると気もちが悪いですから。」
「そう、ぬれちゃいかんです。」ブロズキーはいった。
 サイラスはとなりの台所へはいった。そこのうす暗いランプの光で、きれいに掃除した丈夫な編上げ靴があるのがみえた。靴をはきかえるために台所の椅子に腰をおろした。だが、むろん、靴をかえる気はなかったのだ。いまはいている靴の踵にはダイアが隠してある。ただ靴をかえるまねをして、気をかえたり、時間を空費したりしたかった。大きな溜息をした。とにかく、別の部屋へきたということは、彼にとって気の休まることにちがいなかった。しばらくここにいれば、あるいは誘惑をしりぞけることができるかもしれぬ。ブロズキーは一人で出かけるかもしれぬ――彼はむしろ一人で出かけてくれることを望んだ――すると、すくなくも、心の激動だけは感じないですむ――そして機会はうしなわれる――ダイアをつかむ機会――
 静かにいまはいている編上げ靴の紐をときながら、顔をおこしてとなりの部屋をみた。彼の位置から、となりの部屋のブロズキーが、こちらに背をむけて、テーブルにむかって坐っているのがよくみえた。もう食べるのはやめて、煙草の紙を巻いていた。サイラスは大息をし、編上げ靴をぬいで、しばらくじっと坐ったままその男の背をみた。それから目はその男にそそいだまま、片方の編上げ靴の紐をとき、それをぬいで、しずかに床のうえにおいた。
 ゆっくりと煙草を包みおわったブロズキーは、唾をつけて紙を巻くと煙草入れをしまい、膝のうえに落ちた煙草をはらいおとし、それからポケットに手をつっこんで、マッチをさがしだした。サイラスはどうにもならぬ衝動にかられたように立ちあがり、ぬき足さし足、シティングルームのほうへ歩きだした。足に靴下をはいているだけなので、すこしも音はしなかった。口をあけたまま静かに息をして、猫のように音をたてずに歩いて、そっと部屋の入口に立った。顔は充血して黒ずみ、大きく見ひらいた目はランプの光にぎらぎらときらめき、耳に鼓動が槌でたたくように高くひびいた。
 ブロズキーはマッチをすった。サイラスの見たところでは、それは蝋マッチにちがいなかった。煙草に火をつけると、マッチの炎を吹き消して、煖炉にほうりすて、そのマッチの箱をポケットにしまって煙をふかしはじめた。
 しずかに、音もたてず、サイラスは猫のように一歩ずつ足をはこんで、部屋のなかにはいった。その男のまうしろまで接近したので、呼吸する息でその男の髪の毛がゆらぐのを防ぐために、顔を横にむけなければならぬほどだった。三十秒ほど彼は殺人者の立像のようにそこに立って、ぎらぎら光る恐ろしい目で、なにも知らずにいる男を見つめ、口をあけてはげしく呼吸し、怪物の触手のように指をうごめかしていた。それから、来た時とおなじように、音も立てずに後がえりして、台所へかえった。
 大息をした。危ないところだった。ブロズキーの生命は一本の絲につながっているようなものだった。サイラスにとっては、それはわけなしに事を行える瞬間で、もし椅子のうしろに立っているその瞬間、彼がなにか武器――たとえば金槌、あるいは石のようなものを持っていたら――
 彼は台所をみまわした。温室工事をした工夫の残した鉄棒が目についた。それは煉鉄の鉄棒の切れはしで、長さが約一フート、厚さ一インチたらずの四角な棒だった。あの時、この棒を持っていたら――
 彼はその鉄棒をとって、頭のうえで振りまわしてみた。これはなによりの武器だと思った。そのうえ音もしない。すでに頭のなかで組み立てている計画とぴったり合った。くそっ! こんな物はすててしまえ!
 だが、彼はすてなかった。それを持ったまま部屋の入口から覗きこむと、ブロズキーはあいかわらずこちらに背をむけて坐って、煙草をふかしながら瞑想にふけっている。
 急にサイラスは決心した。顔をほてらせ、頸の血管を浮きあがらせ、額にふかいしわをよせて懐中時計をだしてみ、またそれをしまった。それから足音をしのばせて、急いで部屋にはいった。
 椅子の一歩うしろまでくると、立ちどまって落着いて狙いをさだめた。静かに鉄棒をふりあげたつもりだったが、かすかな音はたてたかもしれぬ。なぜというに、その鉄棒をうちおろす瞬間、ブロズキーはふりむいたのである。そのため狙いがはずれて、鉄棒は彼にかすりきずを負わせるだけという結果になった。ブロズキーは悲鳴をあげてとびおき、死にもの狂いでサイラスの両腕にしがみついた。
 それから恐ろしい格闘がはじまり、二人は抱きあったまま、押しあいへしあい、前になったり、後にしりぞいたりした。椅子が倒れて転び、テーブルから空のグラスが転び、床に落ちたブロズキーの眼鏡は誰かに踏まれてみじんにくだけた。格闘しながらブロズキーは三度ほど、世にもあわれな、死にものぐるいの叫声をあげて、夜の空気を震動させたが、そのたびにサイラスは、誰かが付近を通行して、怪しく思わねばいいがとひやひやした。彼は最後の力をふるいおこし、ブロズキーをあおむけにテーブルの上に押し倒し、また悲鳴をあげようとしたブロズキーの[#「ブロズキーの」は底本では「ブロズギーの」]口のなかに、テーブルクロスの端をつっこみ、ぎゅうぎゅうそれを押しつけた。ほとんど身動きもしないで、彼らは二分間ほどそのままの姿勢でいた。恐ろしい犯罪の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵そのままの光景だった。そのうち抑えつけられた男は、筋肉をぴくつかせなくなった。サイラスが手をはなすと、ぐったりとなった体が、音も立てずに床に崩れた。
 終りだった。よいことだろうが悪いことだろうが、それでおしまいだった。はげしい息づかいをしながら、サイラスは体を起して顔の汗をぬぐい、置時計をみた。針は七時に一分前を指さしていた。三分間とちょっとの時間を要したわけだった。後始末をするのに、まだ小一時間の余裕がある。彼の計画に織りこまれている貨物列車は、二十分過ぎに通過するはずだった。線路までは三百ヤード。でも時間を空費してはならぬ。いまの彼はすっかり落着いていた。ただブロズキーの悲鳴を、誰かが聞きはしなかったかというのがただひとつの気掛りだった。そのほかにはなんの心配することもなかった。
 身をかがめて死人の口からテーブルクロスをとり、そのポケットをさぐった。目的の物をさぐりあてるのには時間がかからなかった。紙の包みを指でつまむと、なかにいくつかの小さい固い物が触れあうのが感じられた。それと同時に、いままでのかすかな悔恨が、まあ好かったという安心感にかわった。
 時々時計に目をやりながら、彼はなにか仕事でもする時のような敏速さで後始末をはじめた。テーブルクロスのうえに数滴の血がしたたり、死人の頭のそばの敷物にかすかな血の汚れができていた。サイラスは台所から水をもってきて、ブラシやぼろを使って、テーブルクロスやその下のもみ材のテーブルの面を掃除し、床の敷物の血もきれいにふきとった。それからテーブルクロスを伸してテーブルの上に拡げ、椅子を起し、こわれた眼鏡をひろってテーブルの上におき、格闘中に踏みにじった煙草のすいがらをひろって煖炉にすてた。それから彼はガラスのこわれたのを塵取にとった。ガラスの中には酒を飲んだ時に使ったグラスの破片もあれば、眼鏡の小さい破片もあった。彼は紙をひろげてそのうえにガラスの破片をうつし、丹念に眼鏡の破片をひろいあつめて、それを別の紙に包んだ。残ったガラスはまた塵取にいれ、急いで編上げ靴をはいて、塵取のガラスを裏の埃箱にもっていってすてた。
 ぼつぼつ時刻になった。彼は紐ばかりはいっている箱のなかから、一本の紐をとりだした。こんな場合、大抵の人が長ければ長いでかまわないのだが、几帳面な性分の彼は、余分の部分を急いで切りすて、それで死人の鞄と傘をゆわえて肩にかけた。それから眼鏡とその破片の包みをポケットにいれ、最後にブロズキーの死体を背負ったが、百二十ポンドをこさぬ痩せた小男の死体は、サイラスのような力の強い大男には、たいして重荷ではなかった。
 夜は暗かった。裏門をでて線路につづく荒地をすかしてみたが、二十ヤード先は見えなかった。立ちどまって耳をすました。物音はどこからも聞えなかった。門を出るとすばやくドアをしめ、でこぼこの道を用心しながら歩いた。なるべく静かに歩こうとしたが、小石が多くて、いちめんに短かい草が生えていて、足音はそんなに響かなくても、肩にひっかけた傘と鞄がたえず動揺して、それが妙に不愉快な音をたてた。だから、彼の行動は、死体の重みにはばまれるよりも、その不愉快な音にはばまれるといったほうがよかった。
 鉄道線路まで三百ヤードあった。いつもだったら、それが三、四分で歩けるのだが、重いものを背負っているうえに、時々立ちどまって耳をすますので、線路のそばにある、横木の三本ある垣まで達するのに六分かかった。その垣のそばまでくると、また立ちどまって耳をすましたり、闇のなかをすかしてみたりしたが、あたりはひっそりとしずまりかえって、生きたものが動いていようとは思われなかった。ただ遠くのほうから汽笛がひびいてきたので、ぐずぐずしていられないと思っただけだった。
 やすやすと彼は死体をかついで垣を乗りこえ、そこから線路の曲ったところまで数ヤード歩いて、そこに死体をうつぶせに横たえ、左がわの線路に頸がのるような姿勢にした。それからナイフで傘の結びめを切り、つぎに鞄の結びめを切って、傘と鞄を死体のそばに投げすて、紐はポケットにしまったが、結びめを切った時にできた小さい紐の輪だけは、下に落ちたままにしといた。
 やがてだんだん近づく貨物列車の、しゅっしゅっ喘ぐ音や、かたんかたん車輪の鳴る音が聞えだした。サイラスは急いでポケットから、ひん曲った眼鏡のふちと、ガラスの破片の包みをとりだし、眼鏡のふちは死体の顔のそばにおき、包みのなかの破片をそのぐるりにふりまいた。
 待っている間はなかった。すでに汽車のあえぎはまぢかにせまっていた。そばに立って結果を見ていたかった。殺人が災難または自殺に変るところを見ていたかった。けれども見ているのは安全でなかった。誰にも発見されぬ場所に遠のくほうがよいと思った。次第に近づく汽車の音を聞きながら、急いで垣をのりこえた。
 家の裏門に近づいた頃、彼は線路からくる音を聞いて、急に立ちどまった。長い汽笛の唸りにつづいて、ブレイキの音、それから貨車と貨車の触れあう大きな音が聞えたからである。汽罐は喘ぐのをやめて、しゅうと鋭く連続的に蒸気を吐きはじめた。
 汽車は停った!
 しばらく、サイラスは息を殺し口をあけたまま、石のように立ちすくんでいたが、気をとりなおして急いで門のドアをあけ、なかにはいって掛金をかけた。ひどくおびえていた。なぜ汽車が停ったのだ。彼らが死体を見つけたことは明らかだが、汽車をとめてどうしようというのだ? この家へくるだろうか? 彼は台所へはいった。いつ誰が訪ねてきて、ドアをノックするか分らないと思ったので、耳をすました。それからシティングルームへはいって見まわした。部屋の様子に異状はなかった。ただブロズキーを殴るために使った鉄棒が転んでいるのが目についた。それを取りあげて、ランプのそばでよくみたら、血はついていなかったが、髪の毛が一、二本ついていた。彼はテーブルクロスでそれをふきとり、裏庭にでて塀ごしに外の草むらに投げすてた。それは、なにもその鉄棒から手のつくことを心配したのではなく、ただ犯罪に使った道具を、けがらわしく思ったからだった。
 もう駅へ行ってもよかろうと彼は考えた。まだ時間にはなっていなかった。七時を二十五分すぎたばかりだった。ただ、いつ誰が訪ねてくるかもしれぬと思うと、それが嫌だった。ソファの上に彼の中折帽と鞄があった。鞄には傘がむすびつけてあった。彼はその中折帽をかぶり、鞄と傘を持って、部屋を出かけて、灯がつけっぱなしであることに気がついた。それで、あとがえりして、灯を消そうと思って、ランプに手をのばしたら、ふと彼の目が部屋のすみの椅子の上にある、ブロズキーの灰色の中折帽に落ちた。それは、ブロズキーが部屋へ入った時おいたものだった。
 サイラスは身動きすることもできなかった。氷のような汗が額からにじみでた。これから灯を消して、駅へかけつけようと思っていたのに――椅子のそばへよって、帽子をとりあげてみた。帽子の裏にあざやかに「オスカー・ブロズキー」と書いてあった。危ないところだった。これに気づかず出かけたら、こっちの負けになるところだった。いまにもどやどや人がこの家にはいりこんできたら、自分は絞首台にのぼらなければならぬ。
 それは恐ろしいこと。考えただけで手足が震えだした。だが恐怖は感じても、そのため落着きを失いはしなかった。すぐ台所へとんでいって、火をつける時に使うための、乾いた小枝を取ってきて、火は消えているがまだ温味ののこる煖炉にいれ、それからブロズキーの頭の下に敷いていた新聞紙をしわくちゃにまるめ――それにかすかに血の汚れが残っていることに、この時初めてきがついた――それを小枝の下にいれて、蝋マッチをすって火をつけた。薪木が燃えだすと、彼は帽子をナイフで小さく切って、すこしずつ燃やしていった。
 いつ発見されるかも知れぬと思うと、手は烈しく震え、胸は早鐘のように動悸をうった。帽子のフェルトは容易に燃えないで、どうかするとちぢれてかたまって、くすぶりがちだった。そのうえ人間の髪を燃やすような、やにっこい悪臭を発散するので、台所の窓を開けなければならなかった。台所の窓は開けても、表のドアまで開ける気にはなれなかった。そして、ぱちぱち音をたてながら燃える炎で、小さく切った帽子を焼きながら、いつ恐ろしい人間の足音、運命のまねきのようなドアをノックする音がするかもしれぬと思って、はらはらしながらきき耳をたてた。
 容赦なく時がたった。八時に二十一分前! ぼつぼつ出かけねば汽車に乗りおくれる。出発前に台所の窓をしめる必要があったので、彼は帽子のふちを火にくべると、二階にかけあがって、窓を一つあけた。二階からおりてみたら、帽子のふちは、黒い、かさかさした塊となって、ぷすぷす音をたてて焼けながら、臭い煙を煙突に吐きだしていた。
 八時に十九分前! いよいよ出かけなければならぬ。彼は火箸で灰の塊を小さくくだき、くすぶる薪木の灰といっしょに掻きまぜた。そしたら煖炉に変ったところは認められなくなった。いままで手紙や不要の物を煖炉で焼いたことは何度もあった。だから家政婦が帰ってきて怪しむ心配はなかった。おそらくかの女が帰る頃には、煖炉は完全な灰となって、くすぶらないであろう。帽子に金具のようなものがついていないことは確めておいたから、そんな物が灰のなかに残る心配はなかった。
 また彼は鞄をとりあげて、部屋のなかを見まわした。それからランプの灯を消し、ドアをあけて、ちょっとそのままの姿勢で立っていた。それから外へでてドアをしめ、鍵をかけてその鍵をポケットにいれた。あとから帰ってくる家政婦は合鍵を持っているはずだった。そして急ぎ足で駅へむかった。
 ちょうどいい時刻に駅へついた。切符を買うとプラットフォームへでた。まだ到着の信号はなかったが、ただならぬ気配が感ぜられた。乗客がフォームのかたすみに集まって、みな一様に線路のむこうに目をそそいでいた。不安な、気持のわるい好奇心を感じながら、彼がその方へ歩いていくと、二人の男が暗い斜面からプラットフォームへあがってきたが、その二人は防水布でおおった担架をかついでいた。担架がプラットフォームへあがると、人々は両がわにしりぞいて道をあけて、そのごわごわした防水布をみつめた。担架がランプ室にはいると、人々はそのあとから、プラットフォームへあがってきた赤帽に注意をむけた。赤帽は鞄と傘をもっていた。
 ふいに群集のなかから、一人の男が前にでて、
「これ、あの人の傘なの?」ときいた。
「そうです。」赤帽は立ちどまって傘をみせた。
「そうだ!」と、その男は鋭どくつれの背の高い男をふりかえり、「これはブロズキーの傘ですよ。まちがいない。ブロズキーをあなた覚えていましょう?」息をはずませていった。せの高い男はうなずいた。その男はまた赤帽にむかい、「この傘には見覚えがある。ブロズキーという人の傘ですよ。帽子を調べてみてください、名前が書いてありますから、あの人はいつも帽子に名前をかくんです。」
「帽子はまだ出てこないんですよ。駅長さんに話してみてください。」赤帽は駅長をふりむいて、「この人は見覚えがあるといってますよ、この傘に。」
「そうですか、」と、駅長はいった。「誰の傘か知ってらっしゃるんですか。そんならランプ室へいって、誰だか見てください。」
 その男はしりごみするような恰好で、
「傷は――傷は――ひどいのですか?」と、どもりがちにきいた。
「汽車が停る前に、機関車と貨車が六つも通りましたからね、首はちぎれてしまいました。」
「ひどいことをやったな! でも、私は見なくてもいいと思うんですが。」背の高いのをふりかえり、「ねえ、見る必要はないでしょう?」
「見たほうがいいです。まず第一に死人が誰かということを確かめなくちゃ。」
「じゃ、行ってみようかな。」その男はいった。
 ふしょうぶしょうに、その男は駅長のあとについたが、おりから列車到着を知らせるベルが鳴りはじめた。サイラス・ヒクラーは、群集にまじって、ランプ室のしまったドアを見ていた。しばらくすると、さっきの男がまっ蒼な顔でドアからとびだし、せの高い男のそばにかけよって、興奮した声で、
「やっぱりそうでした。ブロズキーです! 可哀そうなことをした! ひどいことになった! ここで落合って、いっしょにアムステルダムへ行こうと思っていたんだが。」
「商品をもっていたんですか?」せの高いのがきいた。そばで聞いていたサイラスは耳をそばだてた。
「それは石は持っていたんでしょうが、どんな石か、そいつは分らんですな。もっとも、店の者にきけばすぐ分るでしょうが。それより、あなた、この出来事を調べてくれませんか。これがほんとの災難かどうか知りたいんです。ブロズキーと私は昔からの友だち、同じ町の人間なんです。どっちもワルソー生れなんです。だから、真相を調べてくださると都合がいいんですが」
「よろしい。」高いのがこたえた。「みかけの事実だけなのか、それともなにか秘密があるのか、よく調べて知らせてあげましょう。それでいいでしょう?」
「ありがとう。そうしていただけると大助かりなんです。あ! 汽車がきた。あなた、ここに残って調べるの、迷惑じゃないですか?」
「いやいや、私たちは明日の午後までに、ワーミントンへ着けばいいのです。それまでには必要なことだけは、調べられると思うんです。」
 サイラスはその背の高い偉そうな男を、好奇心をもってながめた。おれにとっては生命をかける将棋、その将棋におれと向きあって坐るのはこの男なのか! 自信のありそうな、落着いた男の、思慮ぶかそうな鋭い顔を見つめながら、サイラスはこれは恐るべき敵だと思った。汽車に乗ってからも、彼はこの恐るべき敵をふりかえった。そしてブロズキーの帽子のことを思いだして気をもんだり、ほかに過失はなかっただろうかと考えてみたりした。
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医者クリストファー・ジャーヴィスの談話
 つねからソーンダイクは、法医学上の問題で、一つ二つ世間の人が気づかずにいることがあるといって嘆いていたが、それが重要であることは、ハットン・ガードンの有名な宝石商人、オスカー・ブロズキーの死因を調べるときに明らかになった。では、それはどんな問題であるか、それはわが友ソーンダイクに、適当な時機に話してもらうことにして、いろんな点でこの事件は示唆にとんでいるので、これから時間的に順を追って話すことにしよう。
 ソーンダイクと私が、たった二人で喫煙室にすわって、ラダムの小駅にさしかかった頃には、十月の日が暮れかかっていた。汽車がとまると、私たちは窓から首をのぞけて、プラットフォームにむらがる人たちをながめた。だしぬけに、ソーンダイクは驚いたように、「あれはボスコウィッチじゃないか!」といったが、彼がそういうと同時に、むこうも私たちを認めたものか、きびきびした小男が、転がりこむように私たちの部屋にはいりこみ、
「お邪魔をしてすみません、」と、快活に握手し、乱暴に鞄を棚におしあげて、「あなたがたが窓から顔をだしていらっしゃったので、ここへ入ってきました。」といった。
「いや、ちょうどいいぐあいでした。しかし、どうしてこんなところにおいでになったのです、ここは――ええと――ラダムでしたかね?」ソーンダイクはきいた。
「この近所に兄が住んでいますので、そこに二三日逗留したのです。」ボスコウィッチは説明した。「バドシャムで港行きに乗りかえて、アムステルダムへ行くところなんですよ。あなたがたはどちらへ? 例の緑色の箱が棚の上にのっかっていますな。またなにか複雑な犯罪でも調べにおでかけですか?」
「いや、」ソーンダイクは答えた。「そんな用事じゃない。つまらん用事でワーミントンへ行くんです。明日そこで検屍審問がありますので、グリフィン生命保険会社にたのまれて、それを見に行くんですよ。」
「でも、あの箱は?」ボスコウィッチは棚の上を見あげた。
「どっかへ行く時には、いつもあれを持ちまわるのです。いつどんなことが起るか分りませんのでね。まさかの時のことを考えると、手足まといになるぐらい、なんでもないですよ。」
 ボスコウィッチは、しばらくカンヴァス張りの鞄を見つめていたが、
「チェルムスフォードの銀行で人殺しがあった時にも、この箱を持っておられたので、あの時、なにが入っているんだろうと、不思議に思ったんです。警察もあなたの働きには感心していたようですが、あれは大変な事件でしたね。」なおも鞄を見つめるので、ソーンダイクはそれをおろし、蓋をあけて見せてやった。それは親切気からばかりでなく、ひとつには、彼はこの「携帯用実験室」が自慢なのだった。それはいろんな物をちぢめるだけちぢめたようなもので、厚さ四インチ、一辺一フートほどの四角のなかに、大抵の実験に要する、ありとあらゆる用具がそろえてあった。
「面白いもんですな!」反応を試験する薬剤の小壜、小型試験管、小型アルコールランプ、小型顕微鏡、その他の小さい物ばかりの諸道具が、きれいに並べてあるのを見ながら、ボスコウィッチは賛嘆した。「まるでこれは人形の家だ。なにもかも望遠鏡をさかさにして覗いたように小さい。こんな小さい物が役に立つんですか? こんな顕微鏡が――」
「ある程度までは拡大して見えます。」ソーンダイクはいった。「おもちゃの顕微鏡のようでも、レンズだけは大したものなんです。むろん大きいほうが便利はいいですよ。でも大きいのは厄介だから、たいていはポケットレンズですますのです。ほかの諸道具もそれと同じで、まず、ないよりは増しというところでしょうな。」
 ボスコウィッチは物珍らしげに道具箱をのぞきこみ、そっと指でつついてみては、いろんな質問をした。そんなことをしているうちに、三十分ほどの時間がたって、汽車は速度をゆるめだした。
「あっ!」と叫んで、ボスコウィッチは立ちあがって、自分の鞄をとった。「もう乗換駅についてしまった。あなたがたもここでお乗りかえになるんでしょう?」
「ワーミントン行きに乗りかえます。」ソーンダイクはいった。
 プラットフォームにおりたら、そこで何事か起ったことがすぐに分った。たくさんの乗客や赤帽や駅員が、フォームの一端に集って、暗い線路のいっぽうを見つめている。
「なにか事故ですか?」と、ボスコウィッチは駅員にきいた。
「一マイルほどさきで、貨物列車が人をひいたらしいので、駅長が担架をもっていったのです。いま帰ってくる灯がそれなんです。」
 その灯はちらちらと動揺し、またたいて、時々線路に反射して、それをぎらぎらと光らせた。私たちがそんなものを見ていたら、一人の男が切符を買って、プラットフォームにでてきて、群集に混った。あとで考えてみるのに、私がこの男に注意をはらったのには、二つの理由があった。そのひとつは、丸々とした愛想のいい顔をしているのに、ただならぬ目つきで、まっ蒼になっていたこと、ひとつは、非常な興味で線路を覗きこみながら、一口もその理由をきかなかったことだった。
 ゆらめく灯影はしだいに近くなって、まもなく防水布でおおった担架や、それをもつ二人の男や、防水布のしたの人間の形が見えだした。彼らは斜面をふんでプラットフォームへあがった。担架がランプ室のほうへむかうと、群集はそのあとにつづく鞄と傘をもった赤帽に注意をむけた。カンテラをもった駅長はいちばんあとからプラットフォームへあがってきた。
 赤帽が前を通ると、ボスコウィッチは興奮して前にふみだして、
「これ、あの人の傘なの?」ときいた。
「そうです。」赤帽は立ちどまって傘をみせた。
「そうだ!」と、ボスコウィッチは鋭くソーンダイクをふりかえり、「これはブロズキーの傘ですよ。まちがいない。ブロズキーをあなた覚えていましょう?」息をはずませていった。
 ソーンダイクはうなずいた。ボスコウィッチは赤帽にむかい、「この傘には見覚えがある。ブロズキーという人の傘ですよ。帽子を調べてみてください、名前がかいてありますから。あの人はいつも帽子に名前をかくんです。」
「帽子はまだ出てこないんですよ。駅長さんに話してみてください。」赤帽は駅長をふりむいて、「この人は見覚えがあるといってますよ、この傘に。」
「そうですか、」と、駅長はいった。「誰の傘か知っていらっしゃるんですか。そんならランプ室へいって、誰だか見てください。」
 ボスコウィッチはしりごみするような恰好で、
「傷は――傷は――ひどいのですか?」と、どもりがちにきいた。
「汽車が停まる前に、機関車と貨車が六つも通りましたからね、首はちぎれてしまいました。」
「ひどいことをやったな! でも、私は見なくてもいいと思うんですが。」ソーンダイクをふりかえり、「ねえ、見る必要はないでしょう?」
「見たほうがいいです。まず第一に死人が誰かということを確かめなくちゃ。」
「じゃ、行ってみましょうかな。」ボスコウィッチはいった。
 ふしょうぶしょうに、ボスコウィッチは駅長のあとについたが、おりから港行きの列車到着を知らせるベルが鳴りはじめた。死体をちょっと見た彼は、蒼くなってランプ室をとびだし、ソーンダイクのそばにかけよって、
「やっぱりそうでした。ブロズキーです! 可哀そうなことをした! ひどいことになった! ここで落合って、いっしょにアムステルダムへ行こうと思っていたんだが。」
「商品を持っていたんですか?」ソーンダイクはきいた。すると、私の注意をひいた先刻の男が、返事をきこうとして、いっそうそばへよってきた。
「それは石は持っていたでしょうが、どんな石か、そいつは分らんですな。」ボスコウィッチはこたえた。「もっとも、店の者にきけば分るでしょうが。それより、あなた、この出来事を調べてくれませんか。これがほんとの災難かどうか知りたいんです。ブロズキーと私は昔からの友だち、同じ町の人間なんです。どっちもワルソー生まれなんです。だから、真相を調べてくださると都合がいいんですが。」
「よろしい。」ソーンダイクがこたえた。「みかけの事実だけなのか、それともなにか秘密があるのか、よく調べて知らせてあげましょう。それでいいんでしょう?」
「ありがとう。そうしていただけると大助かりなんです。あ! 汽車がきた。あなた、ここに残って調べるの、迷惑じゃないですか?」
「いやいや、私たちは明日の午後までに、ワーミントンへ着けばいいのです。それまでには必要なことだけは調べられると思うのです。」
 ソーンダイクがそういうと、今までそばできき耳を立てていた例の男が、好奇的な目でじろじろソーンダイクを見つめて、汽車が停まるのも知らぬげだったが、停ってしまうとあわててその汽車にかけこんだ。
 その汽車が発車すると、ソーンダイクは駅長に、ボスコウィッチから事件調査をたのまれたことを告げ、「むろん、警察官が来るまでは手出しができないわけですが、警察へは通知したのでしょうね?」ときいた。
「ええ、すぐ署長に通知しました。ですから、もう署長か警部が来るはずなのです。はて、もう来てるんじゃないかな。」そういいながら駅長が一人で歩きだしたのは、ソーンダイクに確答するまえに、警官と相談するのが目的らしかった。
 駅長が立ち去ると、私はソーンダイクと二人で、汽車が出たあとのがらんとしたプラットフォームをぶらぶら歩いたが、彼は新しい事件の調査に取りかかるまえのいつもの癖で、問題の要点を、ぽつりぽつりと考えながら話すのである。
「この事件は、あやまちか、自殺か、他殺か、この三つのうちのどれか一つだよ。」ソーンダイクはいう。「そして、その三つのうちのどれであるかということは、つぎのような三つのことがらを調べたあとで決めなければならぬ。第一はこの事件のいっぱんの事実、第二は死体を調べて分る材料、第三は死体が発見された場所を調べて分る材料。ところで、いまいっぱんの事実で分っていることは、死んだダイアモンド商人が、商用で旅をする途中だったということだけで、おそらく小さくて高価な商品を持っていたと想像されるのだが、この事実は自殺説に不利で、他殺説に有利なのだ。あやまちであるかどうかを決めるには、死体を発見した場所に、踏切りがあるかどうか、通路があるかどうか、垣のとぎれたところがあるかどうか、その他の状況を見て判断しなければならんわけだが、まだそんな状況は、すこしも分っていない。」
「そんなら、鞄と傘を持ってかえった赤帽にきいてみようじゃないか?」私がいった。「いまあの男は駅夫に面白そうに話している。あすこへ行ってみよう。」
「そうか。そんなら行ってみよう。」私たちは見てきたことを話している赤帽のそばへよった。
 ソーンダイクがたずねると、彼はこう説明した。
「こうなんです。あすこは線路が急に曲っているんですが、そこを曲りかけたとき、機関士は線路になにか横になっているものを見つけたんです。ヘッドライトが強くなると、それが人間であることが分った。それで、その機関士は、すぐスティームをとめ、汽笛を鳴らしていっしょうけんめいにブレーキをかけたんですが、ご承知のように、貨物列車はそう急には停まりません。停まったときには、機関車と六つの貨車が、死体のうえを乗りこしてしまっていたのです。」
「その機関士は見なかったのですか、どんな姿勢をその男がしていたか?」ソーンダイクはきいた。
「見えたそうです、ヘッドライトが明かるかったので。左の線路に頸をのっけて、下にむいてふさっていたそうです。つまり、頭は線路と線路のあいだ、体は線路のそとになるようにふさっていたのですが、わざとふさったような姿勢だったそうですよ。」
「そのへんに踏切りがあるのですか?」ソーンダイクはきいた。
「ないんです。踏切りも、道も、人が通れるぐらいの細道も、なにもないんです。ただ原っぱから垣をのりこえて、線路のそばへ来ただけなんです。ですから、はじめから自殺するつもりだったのでしょう。」
「で、いままであなたが話したようなことは、どうして分ったのですか?」ソーンダイクはきいた。
「それは機関士が二人で、死体をわきへ取りのぞいたあとで、近くの信号所へ行って、電報で知らせてきたのです。それを、私たちが現場へかけつける途中、駅長さんが話してくれたのです。」
 赤帽の知らせてくれたことにたいして、ソーンダイクは礼をいった。そしてランプ室へ行く途中、いまの話について、彼はこんな意見をのべた。
「いま赤帽は、あやまちでないといったが、それはほんとだとぼくも思う。その男が目が悪いうえにつんぼだったとか、あるいは白痴だったというのならべつだが、あやまちに垣をのりこえて、汽車にひかれるというようなことはありそうもないことだ。線路に横たわっていた姿勢から考えると、まず二つの中の一つということになる。すなわち、赤帽がいったように、自殺したのか、そこへつれてこられる前に殺されていたかどちらかだ。しかし、警察が死体を見ることを許してくれるかどうか分らんが、この問題には、死体を見るまで触れないことにしよう。駅長と警官がこちらへ歩いてくる。話を聞いてみよう。」
 駅長と警官は、外部からの援助はことわる決心をしているもののようだった。医者は土地の医者でまにあうし、知りたいことがあったら、警察でいつでも知らせるというのだった。だが、ソーンダイクが名刺をだすと、彼らの態度がすこしは変った。警部は名刺を見ながら、口のなかでなにやらぶつぶつつぶやき、しばらく決しかねている様子だったが、結局死体を見せることだけは許すといった。私たちは駅長のあとについて、ランプ室にはいった。先にはいった駅長はガスの灯を明かるくした。
 担架は壁のそばにおいたままで、死体にはまだ防水布をかけてあった。そばの大きな本箱のうえには、靴や傘やガラスのぬけおちた眼鏡のふちなぞがおいてあった。
「この眼鏡は死体のそばにあったのですか?」ソーンダイクはきいた。
「そうです。」駅長はこたえた。「頭のそばに落ちていて、ガラスはくだけて、小石のうえにちらかっていたのです。」
 ソーンダイクはそんなことを手帳にかきとめた。警部が防水布をはらいのけると、担架のうえの頭と体と別々になった気味わるい死体があらわれた。警部が大きなカンテラの光をその死体にあびせると、ソーンダイクはほとんど一分間ほど、しゃがんだまま身動きもしないでそれを見つめていた。やがて立ちあがった彼は、「三つの仮定のうち、二つは除外しなければならん。」と、低い声で私にささやいた。
 警部は彼をふりむき、なにか質問をするような気配をみせたが、この時ソーンダイクが鞄のなかから、解剖用の小型鉗子とピンセットをとりだしたので、
「まだ解剖はできないことになっていますが」[#「なっていますが」」はママ]と注意した。
「むろん解剖はできません。ただ口のなかをみるだけなんです。」
 そういって、ソーンダイクは鉗子で死人の唇をもちあげて、その粘膜や歯並をのぞきこんでいたが、
「ジャーヴィス君、レンズをかしてくれたまえ。」
 私が自分の二重レンズを彼にわたすと、警部はいっそうカンテラをちかづけて死人の顔をてらした。
 いつもの規則ただしい順序をふんで、彼はやや乱れた鋭い歯を一本ずつ見てゆき、最後に上顎の前歯を、しばらく見つめたあとで、上顎の前歯と前歯とのあいだにピンセットを突込んで、小さい物をとってレンズで覗きこんだ。彼のいつもの手順をしっている私は、箱のなかから解剖用の針と顕微鏡用のスライドをとって渡した。彼がその小さい物をスライドにのせ、針でその位置をなおしているあいだに、私は棚の上で顕微鏡の用意をした。
「ジャーヴィス君、ファラントを一滴と、スライドの上につけるガラスをたのむ。」そう彼はいった。
 私が壜をだして渡すと、彼はその一滴をスライドの上にたらし、ガラスをその上に当てて、顕微鏡にさしこんで、熱心にのぞきこんだ。
 警部はにやにや笑っていたが、なにかの拍子で私と視線があうと、急に笑うのをやめて弁解がましい口調で、
「夕食になにをたべたか、そんなことを調べる必要があるでしょうか? 中毒のために死んだのじゃないと思うんですが。」
 にっこり笑って、ソーンダイクは顔をおこし、
「こんな事件では、あらゆることを調べなくちゃなりません。どんな事実でも、なにかの関係をもっているわけですから。」
「しかし、首をちょん切られた人間の食べた物を調べたって、なんにもならんように思いますが。」警部は反対した。
「そう思いますか?」ソーンダイクはいった。「殺された人間が、最後に食べた食物に、興味がもてませんか? この死人のチョッキの上に、菓子屑の粉のようなものが散らかっていますが、あなたはそんな物に興味がもてないんですか?」
「そんなものを調べたって、なんにもならんでしょう?」
 ソーンダイクは、菓子屑のようなものを、ピンセットで一つずつひろい、それをスライドにのせてレンズで覗き、つぎにそれを顕微鏡にさしこんだ。
「この人は死ぬちょっと前に、オートミールのはいった粗麦粉でつくったビスケットのような物を食べたな。」
「そんなことはどうだっていいですよ。」警部はいった。「問題はこの男が死ぬまえになにを食べたかということでなく、死の原因はなんであるかということなんです。すなわち、自殺であるか? 過失の死であるか? 他殺であるか? この三つです。」
「他殺ということは分っているのです。」ソーンダイクはいった。「残っている問題は、誰が、どんな理由で殺したかいうこと。私はそのほかの問題は、すでに解決されていると思う。」
 自分の耳を疑うように、警部はいぶかしげにソーンダイクを見つめていたが、
「それは速断じゃありませんかね。」といった。
「いや他殺であることは間違いなしです。殺人の動機は、この人が宝石商だから、持っていた宝石を狙われたんでしょう。いちおうポケットをお調べになったらいかがです?」
 死人のポケットと聞くと警部は気味わるそうな顔をし、「なるほど、宝石商で宝石を持っていたから、それで殺されたとおっしゃるんですか。」不平そうな目つきで、ちょっとソーンダイクをみて、「むろん、死体のポケットはしらべますよ。しらべるために私はきたのですからね。しかし、いっときますが、これは刑事上の問題ですよ、安っぽい新聞の懸賞問題じゃありませんよ。」
 私たちのほうへ尻をむけて、彼は死人のポケットを順々にさがして、なかにある物を、鞄や傘のおいてある木箱の上にならべはじめた。
 警部がそんなことをしているあいだに、ソーンダイクは死人の体全体を調べ、靴の裏をレンズで覗いたりしたが、それをみた警部はにやにや笑って、
「靴の裏は大きすぎて、肉眼じゃ見えないでしょう。」仔細らしい目を駅長にくれて、「それとも近眼ですかな。」
 ソーンダイクは怒りもしないで笑っていた。警部がポケットから出した物を箱の上におくと、彼は順々にそれを見ていった。財布や手帳は警部以外の者が手を触れることはできないと思ったので、ソーンダイクは見ようとしなかった。ただ読書用の眼鏡、ナイフ、名刺入れ、その他の小さい物を注意して見た。警部は時々尻目でソーンダイクを見ながら、彼のすることにひそかな興味を感じている様子だった。ソーンダイクは眼鏡の度をしらべ、煙草入れのなかをのぞき、煙草を巻く紙の透かし模様をみ、銀のマッチ箱のなかのマッチまでしらべた。
「煙草入れのなかに、なにがあると思いました?」警部は鍵束を死人のポケットから出しながらきいた。
「煙草があると思いました。」ソーンダイクは平気だった。「しかし、ラタキーアの刻みが入っているとは思わなかった。私はまだラタキーアの刻みを巻いてすう人にはお目にかかったことがない。」
「妙なことに興味をお持ちになるんですね」いいながら、警部はむっつり顔の駅長に目をくれた。
「ええ、興味を持ちますよ。ダイアは出てこないらしいですな。」ソーンダイクはいった。
「ことによると、最初から持っていなかったのかもしれない。ここに鎖のついた金時計と、スカーフどめのダイアのピンと、財布がある。」財布のなかのものを片手のてのひらにうつしながら、「金貨で十二ポンドある。これは窃盗が目的じゃないらしいですな。あなたどう思います?」
「私の意見は前と同じです。」ソーンダイクはいった。「死体発見の場所を見たいもんですな。機関車は調べたんですか?」駅長にきいた。
「調べるよう、ブラドフィールド駅に打電しときました。もう返事がきているかもしれません。現場へ行くまえに、返事がきているかどうかきいてみましょう。」
 一同がランプ室をでると、ドアの外に駅員が、電報をもって立っていた。駅長はそれを手にとって読んだ。
「機関車点検した。左前の車に血痕、次の車にかすかな血痕をみとむ。そのた異状なし。」
 読み終ると、さぐるような目つきでソーンダイクを見た。
 ソーンダイクはうなずいて、「線路へ行ってみても、これとおなじかしら。」
 駅長はいぶかしげな顔で、なにかきこうとしたが、すでに死人の持物を大切に包んで自分のポケットにしまっていた警部は、彼をせきたててすたすたと歩きだした。ソーンダイクは自分から申しでてカンテラをもち、私は彼の緑色の鞄をもって、一同プラットフォームをおりて、線路づたいに歩きだした。
「ぼくにはちっとも見当がつかん。」警部や駅長から、ずっとおくれて歩きながら、私は低い声でいった。「君は案外早く決論をだしたじゃないか。自殺でなくて他殺であるということが、どうしてそんなに早く分ったの?」
「それはなんでもないことだ。そしてまちがいなしだ。左のこめかみのへんに擦過傷があったのは、君も見ただろう? あのくらいの傷は汽車にひかれたってできるわけだが、しかしあの傷からは血が出ている。かなり長いあいだ出血したらしい。その血の線は二つ残っていて、どちらも半ば乾いて固まっているが、ここで考えなくちゃならんことは、首を切断されているということなんだ。もしこの傷が機関車に触れてできたものなら、それは首を切断された後ということになる。なぜというに、汽車が右からきたのに、傷が左がわのこめかみにできているからだ。ところが、切断されている首からは出血していない。だから、このこめかみの傷は、汽車にひかれる前にできたものであるということになる。」[#「いうことになる。」」は底本では「いうことなる。」]
「だが、その傷は出血しているというだけでなく、二つの血の線がたがいに直角になるように流れている。血の量をみれば、二つの血の線のうちの、どちらが最初にできた線であるということが分るが、その最初の線は、まっすぐに頬をつたって頸のほうへ流れ、第二の線は後頭部にむかって流れている。地球の引力には例外がないんだから、ジャーヴィス君、この二つの線をみたら、君にもたいてい想像できるだろう。血が頬をつたって頸に流れていたら、その時その男は立っていたのだし、血が後に流れていたら、この男は上向きに倒れていたのだ。ところが、汽車がひくまえに見た機関士の報告によると、その男は下向きにはいふさっていたという。だから、当然こんな決論になる、すなわち、その男は傷を受ける時には、立っていたか坐っていたか分らないが、とにかく体を起していた。そして、そのあとで、まだ生きているうちに、血が後頭部に流れるほどのかなり長い時間、あおむけに寝ていた。」
「なるほど。それに気づかなかったぼくはうかつだった。」私は口惜しげにいった。
「早く観察して、早く決論をえるのは、熟練のおかげだよ。あの顔をみたら、君もあることに気づいただろう?」ソーンダイクはいった。
「窒息の症状だろう?」
「そう。」ソーンダイクはうなずいた。「あれは窒息のために死んだ人間の顔だ。それからまた、君も見ただろうが、舌が恐ろしくふくれあがって、上唇の内がわに歯のあとが残り、一つ二つ、歯のためにできた傷もついていたが、これはなにかで力一杯口を抑えた証拠なのだ。ところで、これらの事実を頭の傷と結びあわせて考えてみたまえ、ぴったりあうから。もしある男が頭を殴られ、殴った男と格闘して、最後に押しつけられて、窒息させられたとしたら、いままで見てきたことがぴったり符合するのだ。」
「それはそうと、君が歯のあいだから、ピンセットで取ったのはなんだい、ぼくは顕微鏡を覗く機会がなかったのだが?」
「あれか!」ソーンダイクはいった。「あれはある仮定を確実にしてくれたのみでなく、さらに新しい事実を知らしてくれた。あれはなにか織物のようなものの繊維なのだ。顕微鏡でみたら、いろんな変った色に染めた、いろんな変った繊維だった。大部分は赤く染めた羊毛で、それに青い木綿、ごくわずかの黄色く染めたジュート麻の繊維が混っていた。だから、いろんな色を織りまぜた、婦人服かとも思われるが、しかし、ジュート麻が入っているところから判断すると、むしろ粗末なカーテンや敷物と考えたほうが当っているように思われる。」
「それにどんな意味があるの?」
「もし衣類の繊維でないとすれば、家具の一部の繊維ということになり、したがって住宅を意味することになる。」
「どうも、それだけでは――」私は反対の色をみせた。
「それだけでは不確実なようだが、ほかの事実と組み合せると、確実なものとなる。」
「なに?」
「死人の靴の裏と組み合せるんだよ。ぼくは靴の裏を丁寧にみたけれど、あの付近の荒地を歩いたはずであるのに、砂も小石も土もついていない。ついているのは、煙草の灰と、葉巻か巻煙草を踏みつけたような黒いしみと、ビスケットの屑を踏みつぶした跡と、それから靴の裏の鋲のそばに、絨毯の繊維のようなものがついているだけだった。それだけ証拠がそろえば、その男が繊維をしいた家の中で殺され、そこから死体となって、線路まで運ばれたものであることは明らかだと思う。」
 しばらく私は黙っていた。ソーンダイクの人となりをよく知ってはいたが、いまさらのように彼の筋道の通った理論に驚かずにいられなかった。彼と調査にでるごとに、私はいつもこの驚きを新たに経験する。一見無意味に思われる小さいことを巧みに順序よく配列して、合理的な一つの決論をくみたてる驚くべき手腕は、私にはまったく不思議なことで、そんなことにでくわすごとに、私はいつも驚かずにいられないのである。
「君のその推理が当っているとすれば、この事件の謎はとけたようなもんだ。家の中に踏みこんでみれば、もっとたくさんの証拠が残っているはずだ。ただ厄介なのは、どの家かということだ。」
「その通り、」と、ソーンダイクはいった。「それがただ一つの問題、そしてとても厄介な問題なのだ。家の中にはいって一目見さえすればすぐ分るのだが、その家の中にはいる方法がない。殺人の行われた家かどうか、当てずっぽで人の家にはいるわけにはいかんからね。ここでわれわれは急に道を遮断されたわけなんだ。遮断された道のむこうには、殺人の行われた未知の家がある。この二つの道をつながないことには、いつまでたっても問題は解決されない。なぜというに、オスカー・ブロズキーを殺したのは誰かというのが、窮極の問題なのだから。」
「では、どうするつもり?」私はきいた。
「これからやることは、ある特殊の家とこの犯罪を結びつけるのだ。それをやるには、あらゆる小さい事実を掻き集めて、そのおのおのの意味を考えてみなくちゃならん。その特殊の家と犯罪を結びつけることができないなら、それはこの調査が失敗したわけだから、ばんじ新規まきなおしだ――こんどはアムステルダムへんから調査をはじめるんだね、ブロズキーが宝石を持っていたとすればね、持っていたことは間違いなしと思うんだが。」
 目的の地点についたので話をやめた。駅長は立ちどまり、警部は自分のもっているカンテラで、左がわの線路を調べだした。
「血は案外すくないようですな。いままでときどきこんなことがあったんですが、そんな場合たいてい機関車にも線路にもたくさん血がつくんですが、これは妙にすくない。」駅長がいった。
 すでに血の問題に関心をもたなくなっているソーンダイクは、線路ははじめから見ようともしなかった。彼がカンテラで照しながら見てまわったのは、小石や白堊のまじった線路ぎわの柔らかい土地だった。線路のそばにしゃがんでいる警部の靴裏を指さして、
「ジャーヴィス君、これをみたまえ、」と彼は小声でいった。
 私はうなずいた。その靴の裏には、小石の粒や白堊が、いちめんについているのだった。
 ソーンダイクは、線路ぎわから短かい一本の紐をひろいあげ、
「まだ帽子はでてこないんですか?」ときいた。
「まだです。そのうち、どこからか出てきますよ。あなた、また手掛りをお見つけになりましたな?」警部は紐をひろったソーンダイクを見て笑った。
「手掛りになるかどうか分らんですが、後で参考になるかも知れんと思うので、大切にしまっとくことにします。これは緑色のよりの混った麻紐の切れはしのようです。」ソーンダイクはポケットから小さいブリキの箱を出し、そのなかから草花の種でも入れるような[#「入れるような」は底本では「人れるような」]封筒をだして、それに紐をいれて表に鉛筆でなにか書きこんだ。にこにこ笑いながら、それを見ていた警部は、また線路に注意をむけた。ソーンダイクも彼といっしょに線路をしらべた。
 警部は眼鏡の破片を指さして、
「この男は近眼だったんだな。だから線路に迷いこんだのだ。」
「そうかもしれません。」ソーンダイクはいった。すでにこの時の彼は、枕木や砂利の上に散乱しているガラスの破片に目をつけていた。彼はまたブリキの箱から別の封筒をとりだし、「ジャーヴィス君、ピンセットを一つかしてくれ。君もピンセットで、この眼鏡のこわれたのをひろってくれないか。」
 私がいわれた通り、ピンセットでひろおうとすると、警部は不思議そうに、
「それが死んだ男の眼鏡ということは、もう分っているんですよ。あの男が眼鏡をかけていたことは確かです。鼻の上に眼鏡のあとがついていた。」
「それでもね、やっぱり確実に調べたいのです。」ソーンダイクはそういったあとで私にむかい、「目に見える破片は、どんな小さいのでも、全部ひろってくれ。大切なことなんだから。」
「どうして大切なの?」カンテラの光でこまかい破片をひろいながら私はきいた。
「分らない? この破片をよく見てくれ。大きいのもあるが、枕木の上に落ちているのはみじんにくだけている。ずいぶんたくさんの数にくだけているじゃないか。こんな眼鏡が、こんなこわれかたをするもんじゃないよ。これは凹面レンズだけれど、こんなにこまかくくだけるはずはない。いったい、いつこわれたんだ? 目からはずれ落ちてこわれたのじゃない。落ちたのなら、大きい破片が二つか三つできるだけだ。それかといって、車輪にひかれたのでもない。車輪にひかれたのなら、ガラスが粉になって、線路のうえに残るはずだ。それに、君も見ただろうが、眼鏡のふちについても同じことがいえるわけで、ただ落ちただけなら、あんなにふちが変形するはずはないし、また汽車の車輪にひかれたのなら、ふちだってぺちゃんこになる。」
「そんなら、どうしたんだろう?」私はきいた。
「どうも眼鏡の様子から判断すると、踏みつぶしてこわしたものらしい。だから、もし死体をどこからか運んできたのなら、その前からこわれていたのだ。なぜというに、踏みつぶしたものとすれば、ここで踏みつぶされたと考えるより、二人が格闘中に踏みつぶしたと考えるほうが、本当らしいからだ。だからこのガラスは一粒も残らずひろわなくちゃならん。」
「どうして?」私は自分の血のめぐりの悪さを意識しながらきいた。
「それはだね、ここにまき散らされている全部のガラスをひろって、それをつなぎ合わせてみて、足りない破片があるとすれば、眼鏡がこわされたのはどこかよそに於てであって、残りの破片はその場所にあるのだ。そうでなくて、ここに全部の破片があるなら、眼鏡はここでこわされたということになる。」
 私たちが破片をさがしているうちに、警部と駅長は、帽子をさがして付近をうろついている様子だったが、目に見えるかぎりの破片はひろってしまい、しまいにはレンズを使って調べてみても、ガラス屑が見えなくなった頃には、彼らのカンテラは鬼火のように遠くはるかになっていた。
「あの連中がこちらへ向ってくるまえに、ひろったガラスを調べてみよう。鞄を垣のそばの草の上においてくれ。テーブルのかわりだ。」ソーンダイクは遠くの灯を見ながらいった。
 私はいわれた通りにした。ソーンダイクは紙をだして鞄の上にひろげ、すこしの風も吹かないのに、二つの石をその上において紙が動かないようにし、封筒のなかからガラス屑をそのうえに移して、しばらくじっとながめた。妙な表情を彼はうかべた。急に彼は名刺を二枚ならべ、まず最初に大きい破片をそのうえにおき、つぎに驚くべきすばやさで、小さい破片をその隙間に順序よく並べていった。私は二つの名刺の上に、だんだん二つのレンズが形成されていくのを興奮して見ながら、彼がまた一つの新事実発見の一歩てまえにあることを感じた。
 やがて二つの名刺の上に、二つの卵型ができたが、まだ一つ二つの隙間は残っているのに、手元に残る破片は、あまり小さくてどれがどれだか分らないので、その隙間を埋めることはできなかった。
 ソーンダイクは顔をおこしてかすかに笑い、
「思わぬ結果になってしまった。」
「どうしたの?」私はきいた。
「君、気がつかない? ガラスが多すぎるとは思わないか? レンズは二つともほとんどできあがったのに、ここにはまだこんなにガラス屑が残っている。」
 私は残っているガラス屑をみたが、なるほど、そこには彼のいう通り、隙間を埋めるには多すぎる屑が小さい山をつくっていた。
「これはおかしい。どうしてこんなことになったのだろう?」私はきいた。
「残ったガラスをよく調べたら分るかもしれない。」
 そういいながら、彼は手紙と二つの名刺を取って土の上におき、鞄の蓋をあけて小型顕微鏡をだして、対物レンズと対眼レンズの度を最低にし、拡大単位を十倍ぐらいにした。それからスライドの上に破片をのせカンテラを近づけて覗きこんだ。
「これは面白いことになったぞ!」しばらく見つめていた彼は叫んだ。「破片がたくさんあるようにみえていて、じっさいは足りないんだ。というのは、レンズの破片がここに一つ二つあることはあるが、それだけでは隙間を埋めることはできない。そのほかのここにある破片は、みな柔らかい、荒い、お粗末きわまるガラスで、ぴかぴかする固い光学ガラスとは、似てもつかないガラスばかりなんだ。表面がすこし曲っているから、たぶん酒を飲む時に使うグラスのようなものの破片だろう。」
 スライドを一、二度動かして、彼はまたつづける――
「運がよかったよ、ジャーヴィス君。この破片には模様の角が二つついている。これは確かに八つ光線のある星型模様のついていたグラスだ。ほら、こんどは三つ光線の角のあるのが見つかった。これでグラスの原形が想像できる。小さい星をたくさん描いた薄い水のみグラスがよくあるじゃないか。時によると上に線の輪をいれたのもあるが、まずたいていは光線が八つある星ばかりだ。ちょっと見てくれ。」
 私が顕微鏡を覗いていると、ちょうどそこに警部と駅長がかえってきたが、線路ぎわにしゃがんで顕微鏡を覗く私たちをみると、警部はさもおかしげに笑いだした。
「ごめんなさい。笑ってすみません。しかし、私みたいに、こんな事件に度々出会った者からみると、どうも――いっちゃ失礼だけれど――ちょっとおかしくて――顕微鏡は面白い物にはちがいないですが、こんな事件には役に立ちませんよ。」
「それは役にたたぬかもしれませんね。帽子はでてきましたか?」ソーンダイクはきいた。
「いや、まだです。」警部はてれくさそうだった。
「そうですか。そんなら私たちも探してみましょう。ちょっと待ってください。」
 ガラスの破片を名刺に密着させるため、彼はそのうえにキシロール・ボールサムを二三滴おとし、そんな物や顕微鏡を、鞄にしまって立ちあがり、
「ちかくに家か村がありますか?」と駅長にきいた。
「いちばん近いのが、コーフィールドで、ちょっとここから半マイルというところですな。」
「道はどこにあるのです?」
「ここから三百ヤードほどある一軒家のそばに、わるい道があるのですが、それはビルディングを建てるつもりで道をつくりかけて、ビルディングは中止になるし、道も半ばできかけて放ってあるのです。そこから人が通れる細道が駅までつづいています。」
「そのほかには、近くに家はないのですか?」
「ありませんね。半マイル以内にあるのは、その家だけで、道もそのほかにはないのです。」
「そんなら、ブロズキーはその方面からきたんですよ。線路に寝ていた位置も、そっちのがわの線路になっていますから。」
 警部もその説に同意したので、私たちは駅長を先頭にたて、途中しじゅうりょうがわに[#「りょうがわに」」は底本では「りようがわに」]気をくばりながら、その一軒屋にむかった。荒地のところどころに、すかんぼや、いらくさが繁っていた。警部は、そんなものを足でふみわけ、カンテラをかざし、帽子をさがしながら進んだ。三百ヤード進むと小さい家が見つかった。庭のぐるりを低い塀がとりかこんでいた。黒々と塀の外にしげるいらくさを、警部は力まかせに足で蹴った。すると、その拍子にかたい物が足に当って、かたんという音をたてた。警部はむこうずねをなで、顔をしかめて立ちのいて、
「どこの馬鹿だい、こんな物を草のなかにいれたのは!」とののしった。
 ソーンダイクがそれを手にとり、カンテラに照らしてみると、太さ一インチたらず、長さ一フートの鉄棒であった。しげしげ彼はそれを見たあとで、
「これは前からここにあったのじゃない。すこしも錆びていない。」
「前からあったのでなくても、こんなところにすてるのはよろしくないですよ。こいつですてた奴の頭を殴りつけてやろうかな。」警部はいった。
 ソーンダイクは警部の足の痛みには頓着せず、なにもいわずに鉄棒を見つめていたが、しばらくするとカンテラを塀の上におき、レンズをだして鉄棒を調べはじめた。それをじれったく思った警部は、びっこをひくような危っかしい足どりでそこを立ちのき、駅長と二人で塀をまわって、表のほうへまわった。まもなくドアをノックする音がきこえた。
「ジャーヴィス君、スライドの上にファラントを一滴たらしてくれ。鉄棒に繊維のようなものがくっついている。」ソーンダイクはそういった。
 私は塀の上でスライドの用意をし、そのうえにのっけるガラスや、ピンセットや、針をだし、それを顕微鏡のそばにおいた。
 ソーンダイクは顕微鏡をのぞいたまま、
「警部さんには気の毒だったが、お蔭で大変なものが見つかったわけだ。君、これをのぞいてみたまえ。」
 顕微鏡をのぞいた私は、しずかにスライドを動かして、目的物の全部の形をみて、
「赤い羊毛と、青い木綿の繊維と、ジュート麻みたいな黄色い植物繊維らしい。」
「そうだよ。」ソーンダイクはいった。「死人の口のなかから出てきた繊維とおなじだ。だから、たぶん、ブロズキーを、窒息させたカーテンか敷物で、この鉄棒をふいたのだろう。こうなったら、どうしてもこの家へ入らなくちゃならんから、鉄棒はあとあとの証拠品として、この塀の上においとくことにしよう。これはなによりの証拠品だ。」
 いそいで顕微鏡そのたを鞄にしまい、私たちは警部らのあとをおって表にまわった。彼ら二人はそこにたたずんで、ぼんやり道をながめていた。
「家のなかに灯はついているんだが、誰もいないらしいんです。」警部はいった。「何度ノックしても返事がない。考えてみると、こんな家の人にきいてみたところで、どうにもならん。帽子はたぶんあの線路の近くに落ちているんでしょう。だから、明日の朝、あらためて捜索することにしたらどうでしょう。」
 ソーンダイクは返事をせず、つかつか庭にはいって石段をあがり、静かにドアをノックして、しゃがんで鍵穴に耳をあてた。
「誰もいないんですよ。」警部はもどかしげにいった。それでもソーンダイクが、身動きする気配もみせないので、彼はぶつぶついって外にでた。
 ソーンダイクはカンテラでドアを照してみ、つぎに敷居をみ、それから石段をおりて、小さい花壇をみた。私はその花壇から、彼がなにかひろいあげるのをみた。
「面白いものを見つけたよ。ジャーヴィス君。」そういいながら、彼は門のほうへむかう途中で、先のほうだけすってすてた手巻煙草をみせた。
「どうしてそれが面白いの? どんなことがそれで分る?」私はきいた。
「いろんなことが分る。先のほうだけすって、すぐすててしまったのは、その人間が急に気を変えたのだ。花壇は入口に近いから、誰かが家にはいりかけて投げすてたのだ。その男はよそから来た男にちがいない。家の者だったら、煙草をくわえたままはいる。そして最初は家にはいる気がなかったにちがいない。はいる気だったら、煙草に火をつけないわけだから。煙草の状態をみて、それだけのことが分るわけだが、こんどはこの煙草の性質を考えてみることにしよう。この煙草を巻いた紙は『ジグザグ印』だ。それは透かしを見ればすぐ分る。ところが、ブロズキーが持っていた煙草の紙が、やはり『ジグザグ』だった。この印の紙を『ジグザグ』というのは、一枚一枚の紙を、ジグザグ型にたがいちがいに折りたたんであるからなのだ。つぎに中に巻いてある煙草を調べてみよう。」
 彼は巻煙草の吸いくちのほうから、黒っぽい茶色のきたない刻み煙草を、ピンでほじくりだして私に見せた。
「ラタキーアの刻みだ。」私はすぐにいった。
「そうだよ。だから、ここにブロズキーの煙草入にはいっていたと同じ、あまり人の用いぬ煙草があり、それがブロズキーの持っていたと同じ、あまり人の用いない紙で巻いてあったということになる。だからこれは、三段論法で、オスカー・ブロズキーが巻いた煙草と考えてよかろう。しかし、とにかくもっと他の方面からも証拠がためをしていこう。」
「他の方面というと?」私はたずねた。
「君も見たはずだ。ブロズキーは丸い木軸の蝋マッチを持っていた。あれも普通の人が持っているのとは、ちょっと変ったマッチだ。この門の近くで火をつけたものらしいから、探せばそれが見つかると思うんだ。だからこの家の付近を探してみよう。」
 私たちは、カンテラで照しながら、ゆるゆる道路を探していったが、十歩ほどあるくと、でこぼこの道にマッチが一本落ちていた。それは木軸の蝋マッチにちがいなかった。
 ソーンダイクはマッチの軸をよく見たあとで、手巻煙草のすいがらといっしょに、彼の「採集箱」ともいうべきブリキ罐のなかにいれて、また家のほうへあとがえりしながら、「ジャーヴィス君、ブロズキーがこの家で殺されたものであることはもう疑えない。あの殺人とこの家を結びつけることには、すでに成功したわけだから、このうえは無理にでもこの家の中にはいって、証拠をつかまなければならん。」
 家の裏手へまわってみたら、浮かぬ顔の警部が駅長と話しこんでいた。
「どうです、もう帰ろうじゃありませんか?」と警部は私たちをみるといった。「なんのためにこんなところへ来たのか分らん――あ! そんなことをしちゃいかん!」
 警部が不意にそういったのは、ソーンダイクがなんの前ぶれもなく、軽々と身をもたげて、その長い足で塀の上に馬乗りになったからだった。
「家の中にはいってもらっちゃ困りますな」と警部はいった。だが、ソーンダイクはそれに構わず、塀の向うがわの庭におりて、塀ごしにこちらを見ながら、
「警部さん。ブロズキーがこの家に入ったことは確実なんです。なんでしたら、その証拠をごらんにいれてもいい。しかし、証拠がためには一刻の猶予もできないから、いまはなにもいいません。私はすぐ家の中にはいろうというのじゃない。ただ埃箱をしらべてみたいだけなんです。」
「埃箱!」と、警部はあえぐようにいった。「あなたは面白いことをいわれる人ですな。埃箱のなかになにがあるんですか?」
「酒を飲む時につかうグラスのこわれを見つけたいんです。薄いグラスで、八つ光線のある小さい星が、たくさんかいてあるグラスです。そのこわれたかけらが、埃箱にすててなかったら、家のなかにあるはずなんです。」
 はじめ警部はためらったが、確信のあるらしいソーンダイクにさからう気にはなれなかった。
「そんな物が埃箱のなかにあるのなら、探してみたらすぐ分りまさあ。グラスのかけらが、ブロズキーの死んだことと、どんな関係があるのかしりませんが――」
 警部は塀をのりこえて、庭へおりた。駅長と私も庭へおりた。
 ソーンダイクは、しばらく門のあたりを探しまわったが、なにも目新しいものは見つからなかったらしい。彼と私が家のほうへ歩きかけたら、警部が興奮した声で私たちを呼んだ。
「ここです、ここです。」
 そう呼ぶ警部の声に近よってみると、彼は駅長と二人で、埃棄場に立って、驚いたような顔をしているのであった。警部のもつカンテラは、星型模様のあるグラスの破片を照していた。
「どうしてグラスのこわれたのが、ここにあるのが分ったのです? こんなものがここにあったら、どうしたというんです?」警部の声には、ソーンダイクにたいする新たな尊敬の念がこもっていた。
「ただ、証拠の鎖のひとつの輪が出てきたというにすぎないのです。」鞄からピンセットをだしてしゃがみ、「まだなにか出てくるかもしれませんよ。」小さいグラスの破片をひろってみてまたすてた。ふと彼の目が、埃の山の片方に光る小さいガラスの破片に落ちた。彼はピンセットでそれをつまみあげ、灯に近づけて、レンズを覗いてみた。「そうだ、」しばらくして呟いた。「ぼくが探していたのは、これなんだよ。ジャーヴィス君、さっきの二枚の名刺を出してみてくれ。」
 私は眼鏡の破片を貼りつけた二枚の名刺をだして、鞄のうえにおいて、カンテラでそれを照らした。ソーンダイクはしばらく熱心にそれを見つめ、それから手にもつ破片を見たあとで警部をふりかえり、「あなた、いま私がこのガラスをひろうのを見たでしょう?」
「見ました。」
「それから、この眼鏡の破片が誰のもので、どこでひろったのかということも覚えているでしょう?」
「そう。死んだ男の眼鏡で、あなたが死体のそばでひろったのです。」
「よろしい、」と、ソーンダイクはいった。「そんならこれを見てください。」
 警部と駅長が口をあけたまま、前かがみになって覗きこむと、ソーンダイクはその破片を名刺のうえにおき、それからピンセットの先で静かにそれを押した。するとそれが、今まで空白だったレンズの隙間に落ちこんで、そのふちや尖った角がぴったり合って、完全なレンズの形ができあがった。
「これは驚いた! どうしてそんなことが前から分ったのです?」警部は叫んだ。
「あとで説明します。それより早くこの家に入ってみることです。この家のなかには、必ず足で踏みつぶした手巻煙草――あるいは葉巻のすいがらがありますよ。それから粗麦粉でつくったビスケット、木軸の蝋マッチもあるかもしれない。ことによったら、あなたの探していられる帽子もあるかもしれない。」
 帽子ときいて、警部はすぐさま裏手にまわって、そこのドアをあけようとしたが、鍵がかかっていてあかなかった。窓を外からつついたが、そこにも戸じまりがしてあった。私たちはソーンダイクの言葉にしたがって玄関へまわった。
「ここもしまっている。思いきってぶっこわすかな。ちょっと嫌だけれど。」警部はいった。
「窓をもっとよく調べてみてください。」と、ソーンダイクはいった。
 警部はまた窓の下へ行って、その隙間にナイフを突込んでさぐっていたが、すぐまた帰ってきて、
「だめです。だから思いきって――」
 といいかけたが、急に言葉をきった。それはソーンダイクが苦もなく玄関のドアを押しあけ、なにかポケットにしまっているのを見たからであった。
「この人は感心だ。鍵の掛っているドアでさえあけるんだから。」
 そういいながら、警部は駅長や私といっしょに、ソーンダイクのあとについて、玄関をはいった。ソーンダイクは小さいシティングルームへはいった。そこには芯を落した薄暗いランプがともっていた。
 私たちがどやどやその部屋にはいると、彼はランプの芯をひねって明るくした。テーブルの上にはウィスキーの壜、サイフォン、グラスが一つ、それからビスケットの罐がおいてある。彼はその罐を指さして、
「このなかをみてください。」と、警部にいった。
 警部がその蓋をとると、駅長もあとから肩ごしに覗きこんだが、警部はちょっとなかをみると、びっくりしたようにソーンダイクをふりかえり、
「こりゃ不思議だ! この家に粗麦粉のビスケットがあるということが、どうしてお分りになりました?」
「種明しをしたら、警部さんは、なんだつまらないといいますよ。でも、これをみてください。」ソーンダイクは、煖炉のなかの、踏みつぶしてある巻煙草のすいがらと、丸い木軸の蝋マッチを指さした。警部は不思議そうな顔で、黙ってそれをみ、駅長はほとんど迷信的なおそれといったような表情で彼をみた。
「死んだ男の持物は、あなたが持っているんでしょう?」ソーンダイクはきいた。
「そうです。大事な物ですから、もしものことがあってはと思いましてな。」警部はこたえた。
 ソーンダイクは煖炉からつぶれた煙草のすいがらをひろい、
「そんなら、ちょっと煙草入れを見せてくださいませんか?」
 警部が煙草入れを出して、なかをあけると、ソーンダイクは鋭いナイフで煙草のすいがらの紙を切りひらき、
「煙草入れのなかには、どんな煙草がはいっています?」
 警部は煙草をつまんで、嫌な顔をしてそれを嗅いでいたが、
「臭い。混合煙草につける匂いがついている。これはラタキーア煙草だな。」
「そんなら、これはなに煙草です?」ソーンダイクはすいがらの煙草をだした。
「やはりラタキーアです。」
「煙草が同じときまったら、つぎに煙草を巻いた紙を比べてみましょう。」
 警部は煙草を巻く紙ばかり重ねた小さいブック――これは別々の紙をたくさん重ねたものだから、ブックというよりパケットといったほうがよいかもしれない――をだして、見本として一枚ひきぬいた。ソーンダイクがそのそばに、すいがらの紙を伸しておくと、警部は二つの紙をとって、灯にすかしてみた。
「これはよく分る。どちらにもジグザグのすかしがはいっている。この煙草が死んだ男の巻いたものであることは疑いの余地がありません。」
「もひとつ。」ソーンダイクは燃えのこりの蝋マッチの軸をテーブルの上においた。「あなたのマッチの箱のなかのと比べてみてください。」
 警部はポケットから、死人の小さい銀のマッチ箱を出し、そのなかのマッチと、ソーンダイクが出した燃え残りの軸を比べてみて、ぱちんと音をさせて銀の箱をしめた。
「あなたの証明は完全です。これで帽子が出てくるともうしぶんなしなんですが。」
「帽子はもう出てきているともいえるのです。煖炉の灰をよく注意してごらんになってください。石炭の灰ばかりじゃないですから。」
 警部はすぐ煖炉のそばによって、火の消えたあとの灰を掻きさがした。「まだ灰は暖いようですな。ほんとだ。石炭の灰ばかりじゃない。石炭の上で薪木を燃やしたんだ。この黒い塊は石炭でもなければ薪木でもない。帽子を焼いたのかもしれないが、どうもそこまでははっきりしない。眼鏡のこわれたのはつなぎ合せられますが、灰から帽子を作るわけにはいきませんでな。」いいながら彼は小さい、黒い、海綿のような形にかたまった灰を持ちあげて、ソーンダイクにみせた。
 ソーンダイクはそれをとって、紙を拡げたうえにおき、「灰から帽子は作れませんが、この灰がなにを燃やしたものかということは、実験すればすぐ分るのです。ことによると帽子の灰ではないかもしれない。」
 蝋マッチをすって、黒焦げになった灰の一部をむしりとって火をつけると、ぷすぷす音を立てて、黒い濃い煙が立ちのぼり、樹脂のような強い悪臭にまじって、動物の毛を焼くような匂いが鼻をおそった。
「ニスのような匂いだ。」駅長はいった。
「そう。シュラックです。この実験はらくでしたが、つぎの実験は手がかかる。」
 彼は緑色の鞄のなかから、マーシュの砒素試験に使うような、安全排気管のついた小さいフラスコと、小型の折りたたみ式の三脚と、アルコールランプと、伝熱砂盤がわりになる石綿の盤なぞをとりだし、黒焦げの灰を手にとってよく調べたあとで、その一片をとってフラスコに入れ、あとからアルコールを入れて、石綿の盤にのせ、それを三脚の上にのせて、その下のアルコールランプに火をつけて、フラスコの中のアルコールが沸騰するのを待った。
「もひとつ、小さいことだけど、知っておいてもらいたいことがあるのです。」ソーンダイクはフラスコが泡立つのを見ながら、「ジャーヴィス君、ファラントを一滴たらしてスライドを出してくれ」
 私がスライドの用意にとりかかると、ソーンダイクはピンセットでテーブルクロスの繊維をむしりとり、「さっき見た繊維はこれらしい、」いいながら、スライドにはさんで顕微鏡にいれ、対眼レンズに目をあてて、「そうだ。さっきのと同じだ。赤い羊毛と青い木綿と黄色いジュート麻だ。ほかの見本にまぎれるとこまるからすぐ札をつけとかなくちゃならん。」
「どうです、あの男がどんな死にかたをしたか見当がつきますか?」警部がきいた。
「見当はたいていつきますよ。ブロズキーをこの部屋に誘いこんで、殺人者はあなたが坐っている椅子に坐り、ブロズキーは小さい安楽椅子に坐って、二人で酒を飲んだんですよ。それから、あなたが草むらのなかで探した鉄棒をもって、不意にブロズキーを殴りつけたが、一度では死なず、二人がこの部屋で格闘して、最後にテーブルクロスで窒息させたのです。あなたに見せたいものがまだあるんです。この紐に見覚えがあるでしょう?」ブリキ罐のなかから、線路のそばでひろった紐をだした。警部はそれをみるとうなずいた。
「うしろをむいてごらんなさい。これとおなじ紐がありますから。」
 警部が後をふりむくと、マントルピースのうえの、紐の箱が目についた。彼がその箱を床におろすと、ソーンダイクはそのなかから、青線のまじる紐をぬきだして、手に持つ紐とくらべてみた。
「どちらにも青線がまじっている。この紐は傘と鞄をつないだのですよ。死体を背負っていたので、紐でつながないと、いっしょに持っていけなかったのです。さて、もうできたはずだが。」三脚からフラスコをはずし、はげしくそのフラスコを振ったあとで、レンズで覗いてみた。フラスコのなかのアルコールは、すっかり焦茶色ににごって、どろどろの液体となっていた。「まあ、いまのところこのくらいの実験でまにあうでしょう。」
 彼はそういってピペットとスライドをとり、ピペットをフラスコにつっこみ、底の液体を一二滴吸いとって、スライドのうえにうつし、そのうえにガラスをのせて、顕微鏡にいれた。一同黙って彼のすることをみていた。
 顕微鏡をのぞいていたソーンダイクは、警部をふりむいて、
「フェルトの中折帽は、なんで作るか知っていますか?」
「よく知らないんです。」警部はこたえた。
「上等のフェルトは兎の毛なんですよ。兎の荒い毛のしたにはえている棉毛をシェラックで固めて作るんです。この黒い灰にシェラックがふくまれていることは確実ですな。したがって、この灰がフェルトの帽子を焼いた灰であることは確実なのです。そして、毛は染めてないらしいから、たぶん灰色の帽子だったと思うのです。」
 この時、窓のそとの庭に、急ぎ足の靴音がきこえた。一同が驚いてドアに顔をむけると、一人の年増の女が戸口に姿をあらわした。
 唖然となって、女はしばらく一同の顔をみていたが、
「あなたがた、どなたですか? なにしていらっしゃるんです?」
 警部は椅子から立って、「私は警察の者です、奥さん。いまちょっとここへきた理由はいえないのですが、失礼ですけれど、あなたは?」
「ヒクラーさんのうちの家政婦でございますよ。」
「ヒクラーさんはすぐお帰りですか?」
「すぐにはお帰りになりますまい。海峡を渡る船に連絡する汽車で、今夜おたちになったんですから。」
「アムステルダムですか?」ソーンダイクはきいた。
「そうでしょう。どうしてそんなことをおききになるのか知りませんけれど。」
「ヒクラーさんは、ダイアのブローカーか商人でしょう? そんな人がよくあの汽車にのるのです。」ソーンダイクはいった。
「ええ、ダイアを取り扱っていらっしゃるらしいんです。」
「そうですか。ジャーヴィス君、帰ろうじゃないか。用事はこれですんだわけだから、どこかの宿屋へでも泊ろう。警部さん、ちょっと。」
 ソーンダイクが呼ぶと、前とちがってすっかり彼に心服してしまって丁寧になった警部は、私たちのあとについて庭にでた。
「すぐこの家に監視をつけて、家政婦には自由行動をとらせぬようにしないとだめです。家の中の物は、なにも動かしてはなりません。煖炉の灰や、埃棄場もつついてはなりません。それから部屋を掃除しないように。駅長さんか私が警察に知らせて、誰かかわりの者をよこさせますから、それまであなた、見張っていてください。」
 友好的な「さようなら、」をいいかわして、私たちは駅長といっしょにその家をでた。そして、それと同時に、この話もおしまいになるわけだが、サイラス・ヒクラーは、船が向うへ着くと同時に逮捕され、オスカー・ブロズキーから盗んだダイアの包みも、無事にとりもどせた。でも、彼は法廷へは出ずじまいだった。というのは、彼を護送する船がイギリス海岸に近づいた時、ちょっとの警官の隙をみて、彼は海へ飛びこんだからであった。そして、それから三日たって、オーフォードネスの海岸に、手錠をはめた死体が打ちあげられたので、初めて人々はサイラス・ヒクラーの運命を知ったのだった。

「奇怪でもあれば、同時に典型的でもある、この事件の結末は、適切かつ劇的だったといってよかろう。これで、ジャーヴィス君、君の見聞もひろまり、そしてまた、君は一つ二つの犯罪捜査の定義といったようなものをつかんだはずなんだ。」
 ソーンダイクは、読んでいた新聞をしたにおきながらそういった。
「どんなにでも、法医学の功徳を自慢するがいい。」
 私は彼の顔をみながら、皮肉な微笑をうかべた。
「君はものごとをもっと突っこんで考えないといかんよ。」真顔で彼はさとした。「この事件はこういうことを教えてくれるのだ。第一は時機をのがしてはならんということ。へなへなしたこわれやすい手掛りが、蒸発してしまわないうち、電光石火的に行動せねばならぬ。ぐずぐずしていると、材料をつかみそこなう。第二は、眼鏡の例でもわかるように、つまらんと思うようなことでも、徹底的に追求すること。第三は、ぼくみたいな熟煉した科学者が、警察に協力すること。そして、さいごに、」彼はにっこり笑って、「いつも緑色の鞄を手ばなしてはならんということ。」

底本:「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社
   1957(昭和32)年1月10日初版
入力:sogo
校正:小林繁雄
2013年8月20日作成
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