煤けた板壁に、痴呆のやうな口を開いた硝子窓。空のどこから落ちて来るのか知ることの出来ぬ光が、安硝子の雲形の歪みの上にたゆたひ、半ばは窓の内側に滲み入る。人間の脚の載つてゐない、露き出しの床板。古びた樫の木の大卓子。動物の体腔から抽き出された、軽石のやうな古綿。うち慄ふ薄暮の歌を歌ふ桔梗色の薬品瓶。ピンセツトは、ときをり、片隅から、疲れた鈍重な眼を光らせる。
私はその部屋の中で蛇を見た。鷲と、猿と、鳩とを見た。それから日本の動物分布図に載つてゐる、さまざまの両生類と、爬蟲類と、鳥類と、哺乳類とを見た。
かれらはみんな剥製されてゐた。
去勢された悪意に、鈍く輝く硝子の眼球。虹彩の表面に塗つてあるのは、褐色の彩料である――無感覚によつて人を噛む傷心の酵母。これら、動物の物狂ほしい固定表情、怨恨に満ちた無能の表白。白い塵は、ベスビオの灰のやうに、毛皮の上に、羽毛の上に、鱗の上に積もつてゐた。
私は、この建物に近づかうか、近づくまいかといふ逡巡に、私自身の手で賽を投げなかつたことを心から悔いた。が、すべては遅かつた。怖ろしい牽引であつた。私を牽くのは、過ぎ去つた動物らの霊だと知つた。牽かれるのは、過ぎ去つた私の霊だと知つた。私はあらゆる世紀の堆積が私に教へた感情を憎悪した。が、すべては遅かつた。
私は動物らの霊と共にする薔薇色の堕獄を知つてゐた。私は未来を恐怖した。
さはれ去年の雪いづくにありや、
さはれ去年の雪いづくにありや、
さはれ去年の雪いづくにありや、
………………………………………意味のない畳句が、ひるがへり、巻きかへつた。美しい花々が、光のない空間を横ぎつて没落した。そして、下に、遙か下に、褪紅色の月が地平の上にさし上つた。私の肉体は、この二重の方向の交錯の中に、ぎしぎしと軋んだ。このとき、私は不幸であつた、限りなく不幸であつた。さはれ去年の雪いづくにありや、
さはれ去年の雪いづくにありや、
一つの闇が来た、それから、一つの明るみが来た。動物らは、潤つたおのおのの涙腺を持つて再生した。かれらは近寄つて来た。歩み、這ひ、飛び、跳り、巻き付き、呻き、叫び、歌つた。すべての動物が、かれらの野生的の書割を携へて復活した。出血する叢や、黄金の草いきれが、かれらの皮膚を浸した。これは、すさまじい伝説的性格の饗宴であつた。私はわれからとそれに参加した。そして、旧約人のやうにかれらを熱愛した。平生から私に近しかつた蛇が、やはり一ばん私に親密であつた。かれは、その角膜の上に、瑪瑙の嬌飾に満ちた悪意を含めて、近々と私の眼をさし覗いた。鷲は……ああ、長々しい、諸君が動物園に行かれんことを! とにかく、私は慰められてゐた……
このとき、私は、下の方に、浚渫船の機関の騒音のやうな、また、幾分、夏の午後の遠雷に以た響を聞いた――私のために涙を流した女らの追憶が、私の魂の最低音部を乱打した。私は、私が、鮮かな、または、朧ろな光と影との沸騰の中を潜つて、私の歳月を航海して来た間、つねに、かの女らが私の燈台であつたことを思ひ出した。私は、かの女らが、或るものは濃緑色の霧に脳漿のあひまあひまを冒されて死んでしまつたり、或るものは手術台から手術台へと移つた後に、爆竹が夜の虹のやうに栄える都会の中で、青い静脈の見える腕を舗石の上に延ばして斃死したり、または、かの女らが一人一人発見した、暗い、跡づけがたい道を通つて、大都会や小都会の波の中へ没してしまつたことを思ひ出した。殊に、私が弱くされた肉体を曳いて、この世界の縁辺を歩んでゐるやうに感じ出してこのかた、かの女らは、私の載つてゐるのとはちがつた平面の上に在つて(それが私の上にあるのか、下にあるのか、私は知ることが出来ない)、つねにその不動の眼を私の方へ送つてゐたことを思ひ出した。私は、退屈な夜々に、かの女らの一生を、更に涙多きものとするために、私のために流された涙の、一滴一滴を思つて泣いた。が、かの女らの眼は冷く、美しく、剥製された動物らのそれと、その無感覚を全く等しくしてゐた。私は心臓が搾木にかけられたやうに感じた。
私は努力して、私が、日本の首府の暗い郊外にある、或るうらぶれた鳥獣剥製所の一室にあることを思ひ返した。私は、このみすぼらしさの中に、魔法の解除を求めようとした。(私は動物らの饗宴から逃れゝば、これらの眼から逃れられるものと信じてゐた。)私は、あの窓を、床を、卓子を、古綿を、ピンセツトを、ありのまゝのみすぼらしさに於て見た。が、なんといふすばらしい変位だらう! これらの物象は、そのみすぼらしさのまゝ、動物らの喚び出した燦々とした書割の中に溶け込んでゐた。さうして、その輝かしさの一合唱部を歌つた。さうだ、あれらのみじめな物体は、もうそれ自身輝かしかつたのだ。私は、自分をその輝かしさに堪へないやうに感じた。
動物らに至つては、もう私は何ともすることが出来なかつた。かれらは、蜜蜂の唸りのやうな饗宴の度を高めて、私のまはりに蝟集した。私は、かれらが剥製されてゐるのでなく、天然の背景の中で、生きた眼を持つて活動してゐるのだつたら、こんなことにはならなかつたらうと考へた。私は剥製術といふ悪徳を呪つて身を悶えた。が、何も変らなかつた。私はもうすべてを変改しがたいものと諦めた。そして、自分の身を、この音と光と熱との過度の狂乱の中に投げ出した。
私は、先刻からの追憶が、みんな、この動物らの燥宴の中で見続けられて来たことをもう一度考へた……ああ、こゝにもまた、そこにも、熱の無い炎のやうなかの女らの眼。時間によつて剥製され、神秘な香料によつて保存されたかの女らの眼。私は、このとき、これらの眼が、あの動物らの霊とちがつた世界から出て来たものでないことを悟つた。そして、動物らの霊と同じく、その苦痛に満ちた魅惑の力を永久に私の上から去らないであらうと悟つた。
かう考へたとき、私は腹立たしく、狂暴になつて、かの女らの眼に一つ一つ唾を吐きかけた。さうして、新しく泣いた。なにもかも消えた――或は、闇が来たのだつたかも知れない。燥宴はすべての光と熱と音とを失つた。が、あれらのすさまじい揺蕩の一々は、空気分子の動揺として、私の皮膚に、そのありのまゝなる消息を伝へた。私は、温泉場の浴場の周囲を流れるやうな、生暖い、硫黄の臭気を持つた液体が、この私の居る建物の周囲を流れるやうに感じた。また、それは、私の皮膚のまはりを流れてゐるやうでもあつた。私はそれを弁別しようと努力したがどうしてもわからなかつた。私は、黒い眩暈の中に、更に一つの薔薇色の眩暈を認めた……
……流水よ、おんみの悲哀は祝福されてあれ! 倦怠に悩む夕陽の中を散りゆくもみぢ葉よ、おんみの熱を病む諦念は祝福されてあれ! あらゆる古日本の詞華集よ、おんみの上に、明障子に囲はれたる平和あれ!……新らしい眩暈に屈服するためにか、或は、さうでなくてか、私はこの時宜に適はぬ訣別の辞を、何とも知れぬものゝ上に投げかけた。動物らの魅惑は、また下の方から上つて来るであらう。炎上する花よ、灼鉄の草よ、毛皮よ、鱗よ、羽毛よ、音よ、祭日よ、物々の焦げる臭ひよ。
さはれ去年の雪いづくにありや、
さはれ去年の雪……いづくに……
さはれ去年の雪……いづくに……
さはれ去年の…… Hannii ― hannii ― hannii ― i ― i ― i ― i ………
bidn ! bidn ! bidn !
私は手を挙げて眼の前で揺り動かした。そして、生きることゝ、黄色寝椅子の上に休息することが一致してゐるどこか別の邦へ行つて住まうと決心した。