いかつい石垣が向い合って立っていた。子供の目には恐ろしく高く見える。石垣の上は四角く平らになっていた。昔はぶっさきばかまの侍がその上に立って、四辺を睥睨へいげいしたであろう。石垣に続いた土手は、ゆるい傾斜で、濠の水面まですべっていた。水は青いぬらでよどんでいた。菱の葉が浮いていた。夏は紅白の蓮の花が咲いた。土手には草が蓬々ほうほうと茂っていた。が、濠端を通る人影はまばらだった。日影のすくない、白ちゃけた道が、森閑しんかんとして寂しく光った。葭簀張よしずばりの店もなかった。『氷やこ――り、こ――り』今は全くなくなった、呼び売の氷屋の声が、時たまあたりに響く位だ。
 冬は勿論、人通りは尠くなった。街灯もなかった。月のない晩は凄いほど暗かった。ただ、見附のワキに出る煮込みすいとんの屋台の光が、ようやくほっと息をつかせる位だった。
 それが私の子供時分の四谷見附だったのである。荒廃してはいたが、江戸城外廓の趣は残っていた。
 木村町の高力松、現在では救世軍の学校と変圧所がある、あのあたりは、昔は辻斬のあったという場所である。赤坂離宮横、喰違い見附の向うの土手には、首縊くびくくりの松という松があった。実際よく死んだらしい。太い枝が、土手の傾斜に添うて、人間のたけより少し高く、工合よく突き出ていた。あの松の下を通ると何となく、死にたくなる、といって人々は恐れていた。紀の国坂下の濠には河童かっぱがいるというのであった。雨の降った晩には、笠をかぶって徳利を下げた小僧が歩くとか、人力で坂を上ると途中で急に重くなるとか、それがみんな河童だった。
 高力松から喰違い見附まで、あの濠端は、子供の頭に無気味な印象を深く残した。
 が、しかし今日では、濠は、大半埋められた。土手の下には公設市場さえ立った。電車が走り自動車が飛ぶ。喰違い見附下の、活動写真館の電気は、夜も濠を明るく照らす。河童も死神も、存在の余地を全く失ってしまっている。
 甲武線の開通は、文明開花の光によって、この辺の陰気な空気を破った第一歩だ。明治二十何年かはっきりとは憶えていない。それから後も、狸が汽車の真似をしてひき殺されたというような、滑稽な話はあったが、以前のような凄みはなくなった。出来たてのトンネルの赤煉瓦あかれんがに、かぶとの飾りをつけたのが、子供の眼には物々しく美しかった。
 工事中に明治天皇の銀婚式があった。工事の土で、田圃のように埋った濠の中に、大きな鶴と亀との細工物が出来た。人間の二、三倍も大きな物だったような記憶がある。
 汽車は全く珍しかった。鉄道馬車もガタ馬車もない土地の子供には、非常な驚きと喜びだった。殊に離宮下を貫く長いトンネルは、どうして掘れたのか子供には判らなった[#「判らなった」はママ]。開通当時は汽車の方も呑気のんきだった。時間も間違う代わりに五厘出しても一銭出しても、信濃町までの切符をくれた、お客は大半子供だった。
 汽車がトンネルに入ると、『わーっ』という叫びを揚げる。真暗な場所に来ると闇の中で息をひそめる。出口の光がほのかにさし込むと、歓声は再び揚がる。信濃町で降りててく/\歩いて帰るのである。何しろ戻りの汽車は、それから一時間も待たなければならなかったからである。
 信濃町停車場前には、輜重兵しちょうへい連隊があった。今の慶応病院である。隊の裏に竹藪があって、竹馬の季節になると、そこへ竹を切りに行った。竹屋で売る竹よりも節が高くて、さんをつけるに工合がよかった。考えて見ると、竹馬も長崎凧も、根っ木も、ブン/\も、私達子供の頃は皆自分の手で作った。小刀で手をよく切った。が、今の学校の手工より実用的だったかも知れない。

 見附と相対して、新宿駅附近が今日の四谷区の西端となっているが、誰が今日の盛観を、予想した人があるだろうか。
『新宿は』と一口にいったものだ。南の方は御苑があって片側道に等しい。北の方は、北裏、大久保、その先は戸山が原だ。踏切の先は水道浄水場のために町は淋しくされている。到底発展の余地のない場所である。とこれが、大体の予測だった。
 新宿の裏通り、新宿園となった土地は、往年白銅将軍とうたわれ鉄管事件で雨宮敬次郎と共に疑獄ぎごくの一人となった、浜野茂の邸宅だった。邸内には池があり、鴨場があった。一時は松村辰次郎の手に渡り、再び浜野のもとに帰った因縁つきの邸であるが、機を見るに敏な浜野といえども、今日の殷賑いんしんな光景は恐らく予想し得なかったところであろう。
 私が子供時分の新宿駅附近といったら、四谷見附と相対して、更に一層荒涼たるものだった。五つか六つの時の事だからはっきりとは憶えていない。が、私は車夫の背中に負われて十二社の滝へ行った。寂しい町を長く歩いた。やがて広々として竹矢来をめぐらした所に出た。矢来の中にはたけなす草が蓬々と生えているばかりである。矢来に添って歩く道がまた馬鹿に長かった。炎天が背中を照りつけて、熱い砂が濛々もうもうとたった。いつまで行っても同じような矢来と草だ。私は遂に泣き出した。
『もうじきだよ坊ちゃん、もうじき滝だ』
 車夫が背中をゆすってくれた。そうしてやっと滝についた。竜の口や、蝦蟆の口から出る滝壺は暗かったが池には大きな鯉がいた。茶店が二、三軒並んでいるだけで、池のまわりは薄暗い森だった。十二社も寂しかった。
 帰りにはまた長い矢来に添うて歩いた。その矢来の中が、今の浄水場になったのである。
 原っぱを眼先に控えている踏み切りの手前の寂しさも、大方想像のつく所である。
 が然し、今日では、布袋屋、三越の建物が、素晴らしい勢いでそびえている。小さな建物は、片っ端から壊される。そのあとには、段々高い建物が建って行く。武蔵屋、三越が近くまた、一層どえらい奴を建てる計画になっているそうである。何とか座という芝居も出来るし、武蔵野館は踏み切り向うに引越しても、なお圧倒的封切によって、シネマ・ファンを吸収するに違いない。中村屋の店頭にはいつも暮の売出しのように人がたかっている。売れ高、東京随一の実利的名声は、遂に黒光女史の名声までを圧してしまった。それにしてもあの裏の洋館はどうなったか。ワシリー・エロシェンコがさびしそうにぽつねんと住んでいた。国木田独歩の娘さんもここにいた。仲村つねの絵も可なりあるという話だ。愛嬌者の新島栄治が、にや/\笑って菓子を包んでいた事もある。私達には、東京随一とならなくとも、忘れ難い店である。
 昔は酎割ちゅうわり葡萄割ぶどうわり、ウィ、ブランの強烈な奴から、腹にもたまるどぶろくが安価なので、腹掛袢纏はらがけはんてんの客を呼んだ甲州屋も、遂にレストランとなってしまった。豊田、明菓が出来てコーヒー党を競って呼ぶし、支那料理の豊竜や一部の人には有名になった。書店紀の国屋の階上には、当代画壇の大家展覧会が随時に開かれるし、聚芳閣の店頭には、最近思想界の傾向を示す書類が遺憾いかんなく陳列されている。――実用、娯楽、思想、美術、歓楽――
 浅草も銀座も上野もいらない、あらゆる需要を一手に供給しようという、一大デパートメントストアを形造るような町の状勢、これが今日の新宿である。新宿御苑があって片側町であろうとも、浄水場が控えていようと、手近に多摩川、吉祥寺への近郊があり、四谷、赤坂、牛込から吸収し、遠く甲信、小田原の人々をここで食い止めようという努力である。誠に大東京の繁盛を最も顕著けんちょに物語っている場所となった。

 追分から少し四谷の方へ戻ってくると、左側に電車の車庫がある。車庫の横町の突き当りに以前は新宿警察があった。日露戦争後はもうすでに電車も引けて、車庫もあった。車庫といっても今日のように立派な鉄板でかれたものではなく、何だか原っぱに、電車が置きっぱなしになっている感じのするものであった。
 講和条約に不満を持った国民が焼打ちを初めた第二夜だった。四谷見附の交番も焼かれた。電車が二台、立往生して、大横丁の角で燃えていた。群集は大通りの交番を焼き払いながら、遂に新宿の車庫まで来た。車庫の角には右に薪屋まきや左側に材木屋があった。群集はその前まで来ると、町をはさんで警察と相対した。警察の前には白服の警官が整列していた。電灯もないやみをすかして群集はざわめいた。
 やがて誰かが石を投げた。続いてぱら/\と無数に飛んだ。警察の前で号令の声が響いた。『第一列とっか――ん』サーベルがやみに光った。
『わ――っ』という叫びと共に一列の巡査が突貫して来た。群集は両側に散らばった。巡査は長追いをしないで元に戻った。幾度も同じ事が繰返されている中に、誰がやったか、薪屋の松薪が往来に投げ出されて、石油を注いで火をつけられた。今度は火のついた薪が飛んだ。警察側の形勢は危険になった。群集を食い止めようと、大手を広げて演説をはじめた千駄ヶ谷の壮士は、かえって巡査のために後頭部に切りつけられて、血だらけの手で頭を抱えた。四谷から子守に背負わせた子供を探しに来た男は、うろ/\している中に腰を切られた。群集は益々殺気立って来た。燃える松薪が盛んに飛びはじめた時、一小隊ほどの輜重兵しちょうへいが駆けつけて来た。群集は、万歳を叫んで兵隊を歓迎した。
 兵隊は突貫もしなかった。小隊長は群集に向って
『諸君が乱暴するなら止むを得ず発砲する』と声明した。然し群集は、かえって非常な親しみを以て、兵卒の前の焚火の廻りに集まった。警察はしんとして音も立てない。兵卒は退屈らしく欠伸あくびをしていた。
 が、然し、これは電車が引けてからの出来事である。私は更にそれ以前の、往来の狭かった、宿場のままの新宿にさかのぼりたい。私が少年時代には、四谷と新宿の境界は大木戸によって判然とかくされていた。新宿御苑の前の木立は、今より一層暗く茂って、それに続く、憲兵隊の森と竹やぶが、昼間でも暗い影を往来に投げていた。四谷も大木戸附近に来ると追々とさびしくなったが、ここできちんと終りの句点を打たれたような有様だった。従って盆と正月に、太宗寺の閻魔様えんまさまの縁日のあるほかは、新宿は全く用事のない場所であった。
 太宗寺の閻魔様は、その体格の偉大な点において、東京でも有名である。盆と正月の十六日には、閻魔堂の格子が開いて、がらんとした暗い堂の正面に、朱顔に金の眼を光らせ、赤い口をかっと開いて、しゃくを持っていきり立った閻魔大王の姿を、しみ/″\と眺める事が出来るのだ。そのかたわらには、しょうつかの婆が、白髪頭に黒い口で、意地の悪い眼を光らせて片膝を立てている。線香の煙がもう/\とあたりをこめ、威嚇的いかくてきな鐘の音が、かん、かんと鳴り通した。
『嘘をつくと舌を抜かれる』と聞かされていた、その恐ろしい閻魔の顔が、どういうものか見たくって、私はいつも堂のそとからそうっと覗いた。
 太宗寺へ来る新宿の町の両側には、のれんを掛けた、風呂屋のような暗い家が沢山あった。時には赤い裏のきたない布団が、二階の欄干らんかんにほしてあった。一緒に行った姉にいても、汚い家だといって教えてはくれなかった。

 ことに年少の私に不思議な感じを与えたのは、それ等の家の中でも土蔵造りになっている二階の壁には、那須の与一が弓を引いているところとか、或いは竹に虎とか、浪に朝日とか、まるでたこの絵みたいな漆喰細工しっくいざいくの飾り絵がしてある事だった。今後再び私達は、ああいう素朴な飾りのある家を見る事は出来ないだろう。が然し今になって考えて見ると、あの漆喰細工の幼稚な装飾は、如何いかにも当時の宿場らしい感じを出していたように思われる。夜店の盛んなので有名だった四谷の大通りでも、夜はカンテラの黒煙が、臭気を立てて黒く長く、闇の中に尾を引いていた時代である。夜の新宿は暗く、朝の宿場は府中、八王子辺から来る馬力が轣轆れきろくとして続いたに違いない。その時分の流行歌に、――一時二時までひやかす奴は、御所の馬丁か宿無しか――というのがあった位だ。那須の与一、竹に虎、と共に宿場らしい記憶を私に残している。
 電車が敷かれて道路改正と共に漆喰細工も姿を消した。更に貸座敷が現在の場所に移転してから、何々医院があとを占め、丸共商会の家具陳列場等になったのは好いとしても、竹に虎だか、与一だかの家のあとが鉄道院寄宿舎か何かになって、修養寮という標札の出ていたには、誠に不思議な感じがした。そういえば、貸座敷のあとは病院となるに適したらしく、根津大八幡のあとも現在は何とか病院となったそうだが、それ以前には、貸席とも料理屋ともつかないものとなった事がある。明治三十年頃には、柴明館と称して温泉旅館となっていた、と荷風氏は書いておられるが私の行ったのは三十七、八年頃で、家の名は覚えていないが、その家の座敷に、壺中春、という額のかかっていたのを覚えている。物心のわかりかけた私はそれを見て変な気がしたものだった。修養寮の諸君、果してどんな感があるか。
 大木戸を越えて四谷に入った所に、水道の記念碑がある。以前は四谷では、新宿よりの方を上といった。祭りの時にも、あちらの方の若い衆を上若衆と呼んだ位だ、私の知ってる婆あさんは、西に京都があったから、京都の方を上というのだといったが、果してそうか、或いは上水の上流を意味するものか、私は知らない。ともかくこの辺一帯は、流れのよどみのように新宿、四谷の間に介在して、ガクリと寂しい場所だった。
 大木戸の少しこちらに、内藤横丁、豚屋横丁がある。私も東京は可なり歩いたが、四谷程横丁の多い所を他に見ない。麹町から新宿へ四谷を貫く大通りから左右に入る横丁には大抵色々な名称がつけられていた。津の守横丁、荒木横丁、忍原横丁、地蔵横丁、お仮屋横丁、憲兵横丁、小達横丁、だいち横丁、等、一寸考え出してもこの位ある。けだし、どの横丁にも各自固有の名称があったらしい。
 塩町に近く、津の守へ曲る角から二、三軒目に、伊勢虎がある。今は町の向う側まで突き抜けて堂々たる料理店になっているが[#「なっているが」は底本では「なっいるが」]、私の子供の時分には、四谷でただ一軒の鰻屋だった。伊勢虎の鰻、都寿司、福本のそば、そんなものがたまさか、麻布、神田、本郷などから訪ねて来る、親戚の婦人などへの饗応のたねだった。今から思うと如何いかにも単調で変化の乏しい生活だった。こちらから出掛けて行っても、麻布に鳴門寿司だとか、更科とか、神田は神田川の鰻だとか、いずれも同じような物であったが、その代り、どこかにローカル・カラーといって好いような、食物の上にもいちじるしく異なった個性が現れていたようである。
 伊勢虎の横を曲ってから、更に裏通りへ入って芸妓屋町のあたりへくると、私は全く往時を追想する手がかりも失ってしまう。四谷見附の土手には松があるし、大木戸には御苑の森があるが、ここにはもう、滝も池もとうの昔に姿を消して、ただ、盆地のへこみの底の底まで一杯に家が建っているだけだ。

 私は先日四谷廻りをした時、伊勢虎の二階でT君とその事を語り合った。この坂を少し下って行くと、右側に木立が繁っていた。木立の下には名ばかりの茶店があった。茶店の下が崖で、不動尊の像か何かあった下の竹の筒から、細い滝が落ちていた。津の守の滝といった。その辺り一帯は、今も残る通りの凹地くぼちであって、底には池があった。周囲の崖には昼も暗い程大木が矗々ちくちくと茂っていた。夏は赤く水の濁った池で子供が泳いだ。巡回の巡査が時々廻って来て子供を叱る。『お廻り来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる』悪たれ口をついて、子供達は裸で逃げ出した所である。秋になると、崖ぶちの恐ろしく高い木に、藤豆のような大きな平たいさやの実がった、簪玉かんざしだま位な真紅の美しい実のなる木もあった。クルミもあった。私達はよくそれを拾いに来たが、夕方近くなると恐ろしくなるような所だった。それに荒木町よりの崖のところには、誰かの家で幽閉した気狂の部屋があって、終日鳥のような声を出して怒鳴どなるのが、崖や木立に気味悪くこだました。余り英語を勉強して気狂になったという話だった。
 この池の辺には芝居小屋の建ったこともあった。焼けたのか潰れたのか、色々に小屋が変った。時折は角力すもうもかかった。天一の手品もあった。一度は大女、というのがやって来て、太い声を出して、丼で水を呑んで、男のようにしこを踏んで見せたりしたが、銭湯でついにかの女は男であることを発見されて、警察へ引っ張られて、見世物はおじゃんとなったことなどもあった。
 津の守坂の下に水車小舎があった。往来から見えるくぼみの下で、水車がぎい/\廻っていた。暗い家だったが、水車の水は、池の水が廻って来るという話だった。水車小舎について左の方、河童坂かっぱざかの下を通って、現在の刑務所に行く。谷町通りにはまだ、水田があった。秋の夕方、家の庭で空を仰いでいると、雁やその他の渡り鳥が、その方面から飛んで来るので、子供の私はあの辺に雁や鴨は巣喰っているものと信じていた。
 津の守の坂下、右手の方は昔は蓮池ととなえた。私は蓮を見た記憶はないが、恐らく池はあったであろう。
 夕方になると、士官学校の校庭から、『わ――っ』という喚声かんせいがわき上って、谷一つへだてた、北伊賀町のあたりへ響いて来た。
 生徒が食後の運動だったそうである。寂しい町に、前後の連絡もなく、『わ――っ』と上がって、それ切り消える響き、夏は夏らしく、冬は冬らしい感じを与えた。
 水田のあった谷町を通り、牛込余丁町の方へ抜けるとこには、大きな竹藪と赤土の崖があった。晩春、つつじの咲く頃、小学校の運動会は、大久保のつつじ園に開かれた。今考えると戸山ヶ原の附近であろう。富士山の形をした山のあるつつじ園で、私達は駈けっこをした。晴れた空と咲き誇ったつつじと、競技場の紅白の幕が、今もなお明るく鮮かに私の記憶に残っているのを見ると、当時の子供は、全く薄暗い世界で生活していた感じが、しみ/″\する。団子坂の菊も、東京の人間の記憶から亡びた事を、浩祐氏によって語られて、私は亡びたつつじ園を一層強く回想した。『津の守にも、今は随分待合や芸妓家がふえたらしいが、僕の子供の時分には、四谷には芸妓家が二軒だった』とその晩T君に私は語った。が、しかもその二軒が、一軒は小学校の門前に一軒は校庭の垣根の後ろにあったのだから変である。三日月お蝶という、額に傷のある女が、学校用品店の隣の御神灯を下げた家から出て来たり、運動場の隅に立ってると、おさらいの三味線の音が聞こえてくるなどは、今日ならば必ず教育上の問題として、区会の議題位にはなったであろう。

 日清戦争後、大横町の角に、永田という薬屋が出来た。銅張りの建築で、その時分は全く珍しく、周囲の古ぼけた建物の中に異彩を放った。主人は四谷在住の男ではなかったらしい。が、薬屋らしい山気と広告本能が強かったのであろう。開店祝いの時には、武源楼といった料理屋に、知人を招待して四谷芸妓を総揚げにして、揃いの裾模様の着物を着せて、踊りをおどらせたものであった。
 昼は楽隊でぶか/\やり、夜は二階の障子をはらって踊りというのであるから、見物は武源楼の前に群がった。全く四谷のようなとこでは、未曾有みぞうの事だったのかも知れない。が、更に二、三日たつと、大通りの絵双紙屋の店に、当夜、四谷芸妓が揃いの裾模様で踊っている所が、三枚続きの絵となって現れたものであった。活動写真だのニュースだのというもののない、当時の絵双紙屋は、今日のそれの地位に相当したようなものがあった。原田重吉の玄武門でも、松崎大尉の戦死でも、石版刷の絵によって我々は感興を新たに深くされたのだ。その店に、薬屋の開店祝いの踊りの絵がぶら下ったのだ。私はこの絵が、四谷以外のよその絵双紙屋にも果して出たものかを子供心にも疑った。
 後で聞くと、揃いの着物はみんな木綿だったそうだが、木版の三枚続きでは中々奇麗だった。それは無論、永田という人間の商略から出た事であろうが、今日それ位の事をした所で、誰もかえりみる人はないであろうのに、絵双紙屋も平気でそれを並べれば、人々も、
『ああ永田の開店祝いだ』などと面白がって眺めたのだ。永田は山がうまく当らず、間もなく没落してしまった。頓狂な男だったという感じがする。武源楼も同じく潰れて、四谷倶楽部クラブとなってしまった。
 再び堀端まで返って来た。肉屋の三河屋は今日では、四谷というより東京での存在になってしまった。先代は大日様を信仰して、あれ程立派な店になった、という大日様が、私の子供の時分私の家のそばにあった。三河屋のそばに大泉という貸席があって、そこの二階で、千島群島でつかまえた、おっとせいだという広告で、四角な水槽の中で泳いでいた、かわうそを見せられたり、初めて来た活動写真で、汽車から降りた人の煙草の煙が本物同様にたなびくのを、珍しがって見たものだが、いずれ二度と再び帰って来ない、馬鹿気た昔の話である。
 私は先日そんな事を考えながら仲町から以前の学習院うらの山岡の原の方へ歩いて行った。学習院のなくなったのはもう古い昔だ。それと同時に、山岡の原にも家が建った。その原は、私の生れた伝馬町からの突き当りで、原の前に伊庭塾があった。子供の時前を通ると、竹刀しないの音がすぐ聞えた。星享の殺された時、刺客伊庭想太郎の名前を見て、私はあの高い塀と、塀の中の竹刀の音を思い出した。伊庭孝君と知り合になったのは、それから十四、五年も後の事で、逢えば四谷の事を話し合う事もある。
 離宮わきの坂を下ると、紙器会社のある所は、以前は赤土の山で子供が戦ごっこをする長井の山という山であった。私達はあの山を越えて、青山の練兵場から、またのトンネルという溝川の方まで泳ぎに行った。
 四谷の須賀神社の祭礼と神輿、山の手方面ただ一つのとりいち、等についても語りたかったがもう紙数がつきた。
 更に赤坂に入って書く筈だったので、青山練兵場について考えると、明治天皇時代の観兵式、年老いた大尉の号令、――それから英照皇太后の御葬儀、古い事が頭に浮ぶ。しかしその青山も、昔日の姿はもうなくなった。そして明治神宮外苑のトラックに、スポーツの興味を集めている。私は余り古きを書き過ぎたようであるが、新興現時の東京は、誰が歩いてもすぐに如実に眼に映ることだから。

底本:「大東京繁昌記」毎日新聞社
   1999(平成11)年5月15日
初出:「東京日日新聞」
   1927(昭和2)年10月4日〜9日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年8月9日作成
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