実際どんなに忙しくても、雑誌記者の訪問をうけると、その日の芥川のように高飛車に断われるものではない、断るにも、どこか謝まるような語調を含めるのが礼儀であった。芥川は旭日的な声名があったし、雑誌には、その二枚三枚の小説でも、巻末を飾るためのはればれしさを持っていたから、この雑誌記者の苦慮がおもいやられた。最後に記者は、では来月号に執筆する確約をうけとると、やっと座を立った。怒りも失望もしない真自面一方のこの人は、「改造」にいまもなおいる横関愛造氏であることを、あとで知った。その時代でもこんな烈しい断り方を誰もしていなかったし、いまの時勢にもこんな断り方をする作家は一人もいないであろう、雑誌記者は原稿をたのむときはどうかお願いするといい、書いて原稿をうけとると有難うといってお礼をしてゆく人である。その場合、作家が上手のようであるが、実際は作家というものは雑誌記者が怖い者の一人であり、一等先きに原稿をよんで原稿がよく書かれているかどうかを、決める人なのである。作家という手品使いが最初につかう手品を見分ける雑誌記者に、いい加減な手品をつき付けるということはあり得ない、雑誌記者は原稿の字づらをひと眼見ただけで、内容とか作品の厚みとかをすぐ読み分けるかんを持っているから、油断がならないしおっかない人なのである。流行作家芥川龍之介はその名前の変てこなのが、逆効果を見せて隆盛をきわめていた。その日、そこに居合せた私の手前、私にちょっとくらい偉さを見せてやろうという気なぞ、少しも持っていない、書けないものを断るまじめさと、次第に昂じる困惑さをみせていた。横関愛造氏があれほどねばっていたのも、山本実彦氏の厳命をうけていたからであったろう。
中央公論の滝田哲太郎氏ほど芥川の原稿を喜んで読んだ人は、稀であろう。毎日三枚か四枚かを夕方使に取りに遣り、その原稿を大切にしまい込み、有名な画家の絵のようにこれを愛撫していたことは、原稿というものの歴史の上にも、これまた稀なことであった。手垢のついた指ずれの少しよごれた原稿は、かさだかにいえば、滝田氏には乱鶴乱雲の間をさまよう体に見え、一代の文学者というものの原稿の貴とさをみきわめた人であったろう、彼はこれを経師に裏打ちをさせ、一冊の書巻として保存していた。私はこれをいちど見たが、ああいう製本された原稿は、いまは何処の誰が所有しているのだろうか、その装本には、たしか芥川は表題をいちいち書きしるし、滝田氏は後代にそれが何万金の値打ちのあるものに、ひそかに思いを潜めていたものであろう。そしてそれらは此頃では実際に於て何万金も投げなければ、入手出来ないのかも知れない。
芥川の原稿は継ぎ張りを施したものもあったが、原稿紙の上で戦った感じをよく出している「かぎ」や「消し」や「はめこみ」もあって、壮烈感があった。すらすらと書きながしの出来ないためか、一度、書き損じると何枚も書きなおしているのもあった。書き損じの原稿は成稿した枚数よりもたくさんあって、芥川はそれを破棄しないで、重ねて机の端の方に置いてあった。夏目漱石も書き損じは取って置いたそうであるが、漱石の故事を学んでそうしていたのかも知れない。
〔一九五四年十一月〕