都門ともんの春はもう余程深くなった。満目の新緑も濁ったように色が濃くなって、暗いまでに繁り合いながら、折からの雨に重く垂れている。その中に独り石榴ざくろの花が炎をあげて燃えている火のように赤い。それがややもすれば幽婉ゆうえんの天地と同化して情熱の高潮に達し易い此頃このごろの人の心を表わしているようだ。此際頬杖でも突きながら昔の大宮人のように官能の甘い悲哀に耽るのも、人間に対する自然の同情を無にしたものではなかろうが、自分は一度試みてそれが忘られぬ思い出となっている五月の山の旅、あの盛んな青葉の中を縦横にもぐり歩きたい。渦まく若葉の青い炎に煽られて、抑え難きまでにはやる心は、一方ではまた深い淵のように無限の力をうちに湛えた緑の大波に揉まれ揉まれて、疲れ果てた体を波の弄ぶに任せながら、身辺に溢るる生命の囁きを感じつつも、力なくさりながらいささかの不平もなく、不思議に慰安と満足とを得るのである。自分は石榴の花をぼんやり見詰めながらそんなことを考えていた。そこへ折よくも訪れて来たのは田部たなべ君である。同君も矢張やはり五月の秩父の旅で受けた深い印象を忘れ兼ねたのであろう。頻りに秩父行をすすめる。相談は立どころに一決した。中村君も強制的に同行させる筈であったが急に南洋へ行くことになってしまった。秩父の青葉よりも南洋の青葉の方が一層さかんであるに相違なかろう。どうせ行くなら南洋の方がいいなと思ったが仕方がない。秩父で我慢することにして、差し迫った用事を徹夜して片付け、五月三十一日に翌日の晴れを見越して、雨の中を午後十一時飯田町発の汽車に乗る。
 笛吹川の上流西沢を遡ることが此旅行の主眼であった。このことは今迄不可能であると言われていたが、なりの困難を予期したならば、石塔尾根を登ってから沢へ下り込むようなことをせずとも、或は通れぬということもあるまいと想像して、次のような計画を立てた。西沢を遡って国師こくし奥仙丈二山の間の鞍部三繋平みつなぎだいらに登り、荒川に沿うて御岳みたけ方面へ下ろうというのが第一案で、三繋平へ登ったならば、国師岳をえて金山沢を下り、更に釜沢に入り、甲武信こぶし岳から林道を栃本に出ようというのが第二案であった。しかしどれも皆知らぬ沢である上に、どうも楽に通れそうにも思えぬ。これに於てか流石さすがの田部君も、後者は四日の旅には余り大袈裟であるというので否決し、先ず荒川を下ることに極めて置いて、し西沢の遡行がむずかしい場合には釜沢入りを決行しようということになった。
 塩山駅で下車すると案の如く空は雲切れがして程なく晴れそうな気配だ。いつも五月の秩父の旅では出懸に降られても、山に這入ってからは天気の好くなることを信じている田部君は、てんで雨の用意などはしていない。自分は大きな油紙に重い雨合羽まで支度して、役にも立たぬ苦労をした。
 此処ここから広瀬に至るまでの道は、正面に奇怪なる乾徳けんとく山の姿を眺め、ついで途中一ノ釜の壮観も見られるし、滑沢ノ瀑も立派であれば、更に上流の岩崖には、藤や躑躅つつじの花が時を得顔に咲き匂って、笛吹川の碧潭に影を※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)ひたしているなど、捨て難い風情はありながら、何度となく通り慣れては飽きる程長い。広瀬に着いたのは六月一日の午前十時十五分。この寒村に宿屋のなかった頃は、各自に家からわざわざ米を持って行ったものであるが、今度は其労を省いて、此処で米二升四合を買い入れた。六食二日分の量にしては少し多いのであるけれども、前回の苦い経験にかんがみて、余分の糧食を携えたのである。空は晴れたが雲は頻りに飛んで、間近く見える筈の破風はふ木賊とくさも姿を露さない。
 バラ平を過ぎて子酉ねとり川が左に折れるあたりから、道は河に沿うて木立の中に這入って行く。頬を撫でる若葉の風に迎えられて、青笹川を渡るともう陰森の気が迫って来る。下蔭に笹が多い為であろう。森林の笹の中を辿るのは妙に淋しいもので、どうかすると薄気味わるくさえ感ずるものである。十一時四十五分ナレイ沢の右岸を降りて、子酉川の河原に出で、岩魚釣りの小屋に休んで昼食にする。小屋というても木の枝を編んで造ったものであるから、露天よりはましという位の程度のものに過ぎない。小屋の上には大きな木が差し懸って、葉裏を洩れた日光が、黄金の雨のように落ちて来る。無数の羽虫がぶんぶん呻りながら、この大木を取り巻いて枝端から枝端へと飛来飛去している。く見ると小さな白い花が咲いているのだ。水を汲みに飯盒を下げてみぎわへ下り立つと、向う岸は崖をなして、其下は深くはないが淵になっている。崖には日蔭躑躅が咲いて、薄黄色の上品な花の影がくっきりと水に映っている。それが波のゆらめくに連れて、絨氈じゅうたんの模様のように拡がったりする。とろりとして油のような水の面には、ほぐれ落ちたほうや鱗片の類が、時には何かの花弁や青い葉なども交って、みお筋を後からも後からもと列をなして浮いて流れて来る。自分はやおら水を汲み上げながら、如何に生命の盛なる活躍が今行われつつあるかを想うて、ひとみを上流の山々に向けずにはいられなかった。
 これから子酉川の河原を遡らなければならぬ。白い御影石の河原は、初夏の日光に照りはえて、ぎらぎらと陽炎が燃えている。青葉に慣れた眼が眩しさに思い切って瞳孔括約筋を引きめる。河上から折々雲がおろして来て、谷の空気が潮の退くようにほのかに薄曇ると、濃藍色をした深い上流の山の端から、翠の影がさっと谷間を流れて、体がひやりと冷たくなる。鶏冠とさか山の真黒な岩壁にはいつもながら緑の大波が渦を巻いてぶつかっている。そして何でもこの時知らぬ顔の岩が根を埋没しないでは止まないといったように、幾重にも重り合って犇々ひしひしと押し寄せているさまだ。古城の塔の如くに聳えた岩壁の尖頂は、胸から上を抜き出したままきっとして動かない。
 暫くして左から大きな沢が落ち合っている。水量も伯仲の間にある。れが西沢に相違あるまいと断定して、不安と期待とに騒ぐ胸を押し鎮めながら、落ち口の大きな岩を蹈み越えて、其方へと足を向けた。此処は黒部川の東沢と似かよっている。ただ規模が彼に比して小さい。
 河原は思ったよりも開けていて、可なりの広さがある。これなら何の心配もあるまい。噂とは大分相違して案外楽に行けるぞと早合点して、何か落し物でもした時のように、軽い失望の気が起らぬでもない。二、三町にして左から可なりの沢が六、七丈の滝をなして注ぎ入るのを見た。大窪谷というのだと後に聞いた。オヤと思いながらそれを通り過ぎて、不図ふと前面を見渡すと、一町ばかりの先の所で急に両岸が峭壁をなして狭まり合い、行手に見透せていた空も木立に遮ぎられて、河のながれは何処へ向っているのか、まるで袋の底に行き詰ったようで、更に見当が付かなくなった。さてはいよいよ始まったなと急に気が引き緊って来る。行ける所まで行って見よう。これが当り前なので、今迄が暢気のんき過ぎていたのだと話し合いながら、そばまで行くと驚いたことには河が急に右に折れて広さ八、九尺高さ五、六丈の峡谷を形造り、四、五間にして再び俄然右に曲ると共に、吹き上げるしぶきの中から耳をろうする※(「革へん+堂」、第3水準1-93-80)とうとうの響が聞える。殆ど河床を塞ぐばかりに大きくわだかまって、左右に小瀑布をかけ連ねた巨岩を辛くもにじり上り、正面に廻って見ると狭い上流の峡谷から逃れ出た水が、二、三丈の瀑布(魚留瀑)をなして一躍碧潭に奔下している。全く狭い、一間位しかあるまいと思った。鳥でも鷲のような大きな翼を持ったものでは、あの狭い谷の中を飛び行くことは不可能らしい。其上両岸は叢のように繁った木立である。危険を冒して瀑と向い合っているザラザラの急斜面を攀じ登れば、旨く瀑の上へ出られるにしても、横をからんで遡行することは容易な仕事ではない。二升四合の米ではとても遣り切れないと腹の中でそろそろ逃げ支度にかかりながら、顔だけは平気を装って、オイ如何どうすると聞いて見る。如何するったってこれじゃ仕様がないよと返辞が此方の思う壺だ。そこで、これから上が全部この通りと仮定すると、京沢の小屋まで行くに二日は懸ると見なければなるまいから、西沢は断念して釜沢へ入ることにしよう、そして甲武信岳へ登って栃本へ下ろうではないかと正直な所を白状する。午後十二時三十分に出発して一時四十分頃また西沢の落口に戻って来た。往復一時間許りを費した訳である。この翌年の五月天科村の広瀬庄太郎を案内者として同じく釜沢を登ったかんむり君の書面にると、西沢も遡れぬことはないそうである。他にも参考になる事が少なくないからここに其文を引用することにする。

御庇を以て東沢の新緑美を昧ひ候段深く御礼申上候。然る処釜沢の上流にて、不覚にも沢一つ右へ入り、木賊山の頂に登り申候。人夫は釜沢の途中迄しか入りしことなく、小生の地図の見方の悪かりしと、霧深く候ひし為とにて、この間違ひを生じたる事と存じ候。釜沢は立派な沢だと思ひ候。夏天幕を張り、西沢と東沢の上流に魚釣りがてら遊び度相成候。西沢はたしかに登れるとのことにて、其途中には束沢のものより遥に大なる池の如き釜がある由に候。貴兄御一行の泊られし東沢の釜は、土人はホラノ貝と申候。釜がホラ貝に似てゐる為だとかいふことに候。釜沢の上流は所々雪に埋められ、木賊山の頸あたりは大石楠の密叢の中を雪をふみ込んで登るのが困難に有之候。然し木賊山へ登る尾根は比較的なだらかにて、案外楽を致し候。甲武信の信州側は小舎まで全く雪に封じられ、戦場ヶ原の一時間行程の処まで所々に残雪有之候。東沢は釜沢の途中まで新緑滴るが如く、石楠、つつじ、日蔭つゝじなど美しく、釜沢では桜花が満開に有之候ひし。
行程は廿三日(五月)飯田町夜行。廿四日午前四時半塩山出発、午前八時天科着(広瀬庄太郎を雇ひ)東沢の小舎泊り。廿五日釜沢を上り、木賊甲武信を経て梓山泊。廿六日午前五時三十分梓山発、日野春に至り、午後三時五十四分の上り汽車に乗りて、午後十時少し過飯田町着。帰宅。

 又河原を辿り始めた。東沢を遡るのはこれで三度目である。はじめての時は何処迄も河原を辿ろうとして大困難をした。そして偶然ホラノ貝へ下り込んで泊ったのである。二度目には鶏冠谷の入口から左岸に路のあることを知って、広河原まで二時間許りで行くことを得た。然し此路も去年より一層分りにくくなったようである。岩の上に積った落葉などは其儘そのまま濡れ腐ってはやなかばは土に化している。本年はまだ誰も通った人は無いらしい。其処を登ってからも右に行く路と離れて河に沿うようになってからは、笹が掩い被さって来たし、崖に寄せ掛けた丸太なども朽ちて危ないのがある。もう年々壊れる一方であろう。広河原には冠君の話に拠ると河原から少し離れて鶏冠山の側に、二、三人は泊れる岩窟があるとのことである。広河原からまた河原を伝って二十分足らずで小屋に着いた。いつもは三十分程かかったのであるが、満一年間寝足にして置いた割合には存外早かった。四時十五分である。
 小屋は昨年よりも綺麗になっていた。入口に林区署員の外みだりに入るべからずという意味のことが立てかけた板に書いてある。去年は見なかったものだ。むを得ないから片隅を借用することにした。田部君は夕食の支度にかかる。私は燃料を集めた。なたも鋸も邪魔だから持って来なかった。その為手近に枯木はあっても、遠くまで流木を拾いに出懸けなければならない。日は蒼茫と暮れて、烟のなびく南の方の少し開けた間から、夕栄えした樺色の雲が高く望まれた。明日は上天気だ。用もないから早く寝ることにする。

 六月二日。午前四時から起きて支度し、去年に懲りて昼食の分も炊いて、六時三十分に小屋を出た。暖いように思っても日の指さぬ朝の谷間は河風が寒い。空は瑠璃色に冴えて、仰ぐ梢からは露がちて来る。崖(麹岩の名がある)からのり出した日蔭つつじの黄花が、薄暗い木蔭にほんのりと暖い色を浮べる。深山酸漿草みやまかたばみの美しく咲きこぼれた草原を通り抜けてまた河原を辿って行く。
 飛鳥川ならぬ東沢は一年の間にさして変った様子も見えなかった。この狭い一枚岩の河床から成る峡谷では、変りたくも容易に変れるものではない。唯だ削り出された石の屑が所定めず漂積するに過ぎない。行く行く豪壮の景を賞しながら、七時半釜沢の出合に達した。一時間半は懸ると思ったのが三十分早く着いた。此処は大井川の支流信濃俣のガッチ河内と中俣との合流点から、中俣を見た景色に似ている。岩壁が高く、谷が狭く急に折れて、奥はどれほど深いか、どんな恐ろしい所が蔵されているか、入口を覗いただけでは分らないが、それでいて物凄い何物かを暗示している所までそっくりだ。唯水量は中俣の方が余程多い。
 釜沢の釜は入口から二、三十間を遡った所にある第一瀑の瀑壺から始まるのであるが、此沢は釜より寧ろ滝の方が多いから、たる沢とか滝の沢とか名付ける方が至当であるらしい。然し最初の瀑壺はおおきさといい深さといい又周囲の工合といい、四、五丈の瀑には勿体ない程の素派すばらしい釜である。この釜あるが為に釜沢と呼ばれているのかも知れぬ。釜の周りを取巻いている峭壁は、かんなをかけたように滑かで、襞もなければ皺もない、全く一続きの岩である。北から落ち込んだ水は、上流から運び来った無数の巨岩塊を釜の南側に山と堆積して、一曲して西側を押し破って流れ出ている。其処を徒渉としょうして黒木の繁った急傾斜を攀じ登り、瀑の西側を乗り越えて上流に下り込むより外に手段はないと思った。後に冠君の話を聞くと、普通猟師などの入り込む路は、かえつて東側に在って割合に楽だとの事であった。自分等は木こそ生えているがあの岩壁はとても通れぬと思っていた。所が冠君は自分等の通った方をとても通れぬと思われたそうである。結局両方とも通れることになったのである。お瀑壺の南側の木立の中には七、八人も泊れる大岩窟があって、如何なる天候にも安全なる避難所であるという。唯周囲が周囲だけに陰気であるのを免れないそうである。
 成るべく瀑壺の縁に近い所を登って突端に出ると、向う側はにわかえぐれて急斜面の中央に細い段のような所がある。其処に旨く路が通じていた。たしかに人の通った路である。この沢へも入り込む人があるのかと不思議でならなかった。下りた河床は花崗岩らしいが、しかも著しく青味を帯びた一枚の大磐石である。左右が少しく開けて、木は繁っているが明るい感じのする所だ。暗緑に沈んだ水は音も立てずするするとすべって行く。岩の肌には水苔がなめらかに生えて、其上を歩くと人までがよく辷る。
 平な河床は然し長く続かなかった。また滝がある、夫を踰える、また滝があるといった調子に、何でも四つ許り滝を越した。いずれも小さいのでさしたる困難はない。それでも水際ばかりは通れないので、或時は右側の藪を濳って倒木にくるしめられ、或時は左側の草の生えた崖を登って上を廻ったりなどする。
「誰が通った跡だね、こんなに枝が折ってある」
「慥に人だよ、釜沢へも這入る者があるのかな」
今まで人跡未蹈と独りめで信じていた自分等は、あれ程立派な道形があったにもかかわらず、人が通ったことのない沢として置きたいので、仰山らしくこんな言葉をいい交わした。 
 森林は愈深くなって、空から反射する弱い光線は、青木黒木の蔭に吸い込まれて、吐き出されたの下闇のみが宙にさ迷うているに過ぎない。高く昇った筈の太陽も、更に高い鶏冠山の峰頭に遮られて、自分等は今朝から未だ一度も其光に浴することが出来ないのだ。不安らしい顔を見合して二人とも黙って行く。河が左に折れて右岸に小高い砂地が現れる。洪水の際に水が置き残したものであろう。中央の稍や平な所に黒い塊があるのに気が付く。よくると焚火の跡である。誰か野営したものに相違ない。今迄まさかと思って半信半疑であった二人の心は、このたしかな証拠を目の前に突き付けられても、敢て反感を抱かなかった程淋しい頼りないような感じに支配されていたのであった。
 河はすぐ又右に折れて北を指すようになるが、気の所為せいか険悪の度を減じて来た様に思われる。両岸も少し開けて、水辺には滴る様な青葉を枝一ぱいにかざした闊葉樹が鬱蒼と生え続いている。岩も小さくなった。水は浅い瀬を成して淙々そうそうと流れて行く。あの力任せに岩をこづきながら奔下するいきおいはまるでなくなっている。苔の匂いと若葉の吐く息の香とが、其処ら一面に漂うている森林の一端に足を蹈み入れた時は、うっとりと気も遠くなる程であった。こんな安逸が何時いつまでも許されようとは元より期していなかったが、八時五分、前面に展開した不思議な光景に対して、釜沢の深い秘密に今更のように驚嘆してしまった。
 行手は高い絶壁に限られて、其下には万斛ばんこくの藍を湛えた大きな釜がぐらぐらと冷く煮えくり返っている。其処へ左右から河が落ち合っているのだ。左は五丈乃至ないし六丈もあろうと思われる瀑の太い水柱が、奇妙に抉れた岩の樋からぐいと押し出されるはずみに、二度三度虚空に捩れて、螺旋状にひろがりながら霧の如き飛沫を噴いて、大釜に跳り込んでいる。仰ぎ見ると上流は、かんばつがの類が崖の端から幹と幹、枝と枝とをすり合せて奥へすくすくと立ち並んでいるのが眼に入る許りで、水は何処をどう流れて来るのか皆目分らない。それではじめは岩の裂罅から地下水が迸り出ているのではないかと想った。然しよく視ると此谷らしくはない森林の山ひらに似た所に、極めて狭いそして折れ曲った銚子の口のような一道の隘溝あいこうが通じていることに気が付いた。
 右の瀑は高さは三、四丈に過ぎないであろうが、幅は一丈近くもある。滑かな岩肌をするすると辷り落ちる水は、途中幾つかの岩の襞に遮られて、玉を転すように弾ね返ってまたするすると大釜にのめり込んでいるから、練絹を垂れたようだとも云い兼ねるが、孰れかといえばこの大釜の一半を領する主人公としては優しいものである。水量は左瀑よりも多いかと思われた。これが若し大雨の後であったならば、奔放の勢は反て左瀑に勝るものがあろう。両門ノ瀑という名のあることは後に冠君から聞いた。
 大釜の向う側こそ絶壁であるが、其他に人を威嚇する何等の道具建てがないのは実にさいわいである。若し両岸に一丈近くの絶壁が四、五十間も続いていたならば、単に夫だけで私達は此奇景をあくまで嘆賞した後、悄然として帰途に就くより外に方法はなかったであろう。勿論左の谷を登ることは容易に行われそうもないが、本流と思われる右の沢は大釜の手前の浅い所を徒渉して左岸に移ると、其処に大石を積み重ねて足場のようなものが造ってあり、人の蹈んだらしい跡がある。何処か登り口はないかと夫となくあたりを見廻していた二人の眼は、期せずして其処に止った。あれを登れば大丈夫行けると目当めあてが付いたので、安心して荷を卸したまま十五分許り休憩した。
 八時二十分出発して右の瀑の上を右岸に移る。足跡は何時か消え失せて、これから甲武信岳の頂上に達するまで遂にそれらしいものに出遇わなかった。其時は別に注意して確めもしなかったが、察する所これは水止みずしから南方に派出している尾根を上下する為のものであるらしい。去年誤って水止から此尾根に迷い込んだ時、可なりの路が通じているのを見た。そして余程下った所に焚火の跡さえあったことから推すとこの推測は当っているように思われる。
 瀑から少し行って河が左に折れると又五丈許りの瀑がある。それを踰えるとすぐ又四丈許りの瀑があった。其瀑は一丈も落ちると突出せる岩に撞き当って、あたりに白沫をちらしながら飛舞するさまが壮快であった。此瀑は二つとも左岸が急ではあるが岩壁ではないので、難なく越えられた。其上は河原がや開けて、行手に初めて甲武信岳の頂上が仰がれた。三、四町も行くと落葉松の多い平坦地に出る。自分等が東沢へ入り込むようになったのは、この落葉松林に惹き寄せられた為であるというてよい。曾て国師甲武信二山の間の山稜を縦走した際、東俣ノ頭(東梓山)の東北に在る岩峰(両門岩)の上に休んで、ふと脚下を見ると黒木の鬱蒼と茂った東沢の深い谷間に、浅緑の色觧かな落葉松の木立が、並木状をなして稍開けたらしい河原のほとりに立ち並んでいるのを見た。あすこへ行って見たいというねがいが誰の胸にも湧いた。信州沢にもこれに似た所がある。其時見たのは孰れであったか未だに判然しないが、それ以来東沢の奥で落葉松を見ると何となく懐かしい。八時四十五分で昼には余程早いのであるが、三十分余り休憩して食事をした。天気はよく晴れて殊に南方の空は碧の色が一しおあざやかである。それを蒼黒い石塔尾根が真一文字に横切って視界を遮断している。
 此処から一時間足らずの間は、河を右に左に渡りながら斜面に沿うて進んだ。木につかまらなければ水に落ち込みそうな場所などもあった。両岸が急に迫って不安を感ぜしむることも一再ではなかった。しかし水量が少なく、其上高い岩壁は最早もはや現れることはあるまいと思われたので、前途に対する危惧の念は薄らいだものの、相当に骨の折れたことは言う迄もない。途中いつ河を離れたとも知らぬ間に藪になった広場へ出て、不図気が付くと河が見えないので驚いたことがある。此処で河をなくしては困るから二人で探しにかかる。刺の生えた木苺きいちごが邪魔で仕方がない、地面も凹凸があって歩きにくい、水の流れた跡は幾筋もあるがどれも新らしいものではなかった。耳を澄しても水の音などは更に聞えぬ。右にも左にも大きな沢らしい窪はある。木の間を仰ぐと甲武信岳の頂上が見えたので、構わず左の方を辿って行くとまた流に出た。つまり此所で河は地下水となっていることが分った。翌年冠君が霧の為に沢を右に取って木賊山に出られたのは、この右の沢を上られたのではあるまいか。鶏冠山の側に可なり大きな雪渓の喰い込んでいるのを見たのもまたこの途中であった。
 闊葉樹は次第に少なくなって、針葉樹の間に灌木状をなして散在するに過ぎない。それも春まだ浅く芽がほぐれ切らずにいる。草などは今漸く冬のねむりから醒めてほの紅い角芽つのめ立ちを見せたまま※(「澎」の「彡」に代えて「寸」、第3水準1-87-17)じゆじゆとふる春雨を待っているさまだ。しかし針葉樹林も真ノ沢の上流のように頭上が暗い程には茂っていない、余程明るい感じがする。十時十分、又一の瀑に出遇った。幅も高さも相応にあるが水は少ない。右側の枯草がしな垂れている崖を登ると思ったより楽に通過された。上は一枚の大磐石であって直ぐ左から一つの沢が合している。此は水止の東南にあるガレの下から発するものであるらしい。これから上は河床を辿って五、六町は歩いたろう、すると沢が二分して、水量も大さも殆ど同じ位である。そして其間の尾根は非常に幅が狭く、しかも一町位の先で終っていそうに思えた。それでこれは一つの沢に抱かれた島のようなもので、どちらを取っても間もなく一緒になると想像して、左に入って暫らく行って見たが、一つになる様子はない。それ所か沢は俄然狭く急になって、両岸に岩壁が現れ、ついに全部雪渓となってしまった。其雪が上るに従って氷のように堅く凝結して、其上を水が流れている。それも暫しの程で、間もなく浅碧あさみどりに冴えた氷の滝が行手を塞いでいる。水は依然として其上を流れているが、滑って危険で到底之を登る訳には行かぬ。初めは面白い景色になったと喜んでいた二人も、是に至って止むなく少し引返して、崖をしゃにむに攀じ上り、先の痩尾根の上に立って一休みした。
 尾根は石楠しゃくなげ其他の灌木に栂や唐檜とうひの若木が交って邪魔をする。時々振り返って後を見ると、南アルプスの雪が木の間に白くきらりと光る。左下の谷にいつか東沢のホラノ貝で見た熊の穴に似たようなものがあったので、双眼鏡で覗くと果してそれらしい足跡までが柔い地面に印せられていた。五百米足らずの登りも、相応にくたびれるのでよく休む。其間に中食も済した。尾根の形が失せて山のひらに移った頃から、針葉樹の密林の下には諸所に残雪が現れ、しかも六月の秩父には珍らしい程の量がある。もう余程来た筈であるが、の辺であるか更に見当がつかない。何でも高い方へ登りさえすれば甲武信岳へ出られるというので、成るく雪を避けるようにして左へ巻きながら登った。藪が一きわ烈しくなって、石楠の密叢へ行き当る。夫を突き抜けて左の方へ五、六歩行くと、ひょっくり甲武信岳の頂上へ出た。午後十二時二十分である。
 想えば釜沢を遡って見たいという希望は久しいものであった。甲武信岳の頂上へ来るたびに、いつも果されざるうらみもつて、すぐ脚の下に瞰下みおろしたまま空しく過ぎ去るに止まっていた其沢を、うして無事に遡ることが出来たと思うと、見慣れた此山の頂上も自分等には新らしい意味を以て迎えられた。殊に今日は上天気である。白馬岳の附近と奥上州方面とを除けば、此処から見られる筈の山は皆一望の下に集った。小川山の上からは木曾の御岳が覗いていた。八ヶ岳と蓼科山との間に奥穂高、常念、大天井おてんしょうから鹿島槍、五竜に至る北アルプスの大立物が、銀光さんとして遥かの空際を天馬の如く躍っている。籠ノ塔の後には岩菅いわすげ山らしいものさえも望まれた。
 頂上にとどまること約一時間にして、午後一時十五分林道を栃本に向って下り始める。十間も行くと雪が二、三尺も積っているのに驚いたが、更に進むともう何処も真白に雪に埋れて、地面の露れている所などは少しもない。路筋さえも一向いつこうに判然せぬ。油断して林道を踏み外すと全身雪の中に埋没してしまう。二時十五分漸く三宝さんぽう山の下まで辿りついたが右に下る道筋が容易に見付からないので、雪を掻いて地面を改めたりなどした。膝から下は既に感覚を失って、埋れ木に向脛やあしのうらなどを払われたり打ち付けたりしても少しも痛さを感じない。甲武信岳の頂上に着いた時、誰が捨てたものか蓑が一つ置いてあるのに気が付いた、勿論多少の雪は覚悟していたのであるから、あれで支度をして来ればよかったと後悔しても、今更どうすることも出来ない。一層のことまた去年のように真ノ沢を下ろうかと思った。けれども水のある所へ達する迄は四、五尺の積雪を踏み分けて行くのが困難である。寧ろ不可能と称してよい。二、三十分も迂路付うろついた果てに林道が通じているらしい木立の間を少し辿って見ると、慥にそれであることが分ったので安心はしたものの、雪の尽きる所まで二十町許の間を非常に困難して、三時半辛くも雪から脱れ出た時は、久振りで土を踏んだような気がして嬉しかった。
 早速火を焚いて凍えた体を暖め、濡れたズボンや脚絆を乾した。見ると向脛には幾所か紫色の斑点があり、跖にはとげが二つ許り刺さっていた。田部君は脚絆と足袋の間が隙いていたので、其部分は凍傷に罹っていた。時間が遅いから余りゆっくりしていられない。三十分許休んで出発する。暫くして道は二つに岐れ、一は右の方へ沢に下って行く。尤も此は後にまた尾根の道と合するらしく、可なり下った所に右から一径の来るのを見た。自分等は始めから左の道を取って、五時二十分頃木賊沢の合流点に在る小屋に着いた。
 小屋の修繕や掛樋の手入れをして、晩飯を済すと横になったが、寒いのと体が痛いのとで旨く寝付かれない。近くの木で何鳥か頻りにゼニトリゼニトリと鳴くのが聞える。この鳴声は曾て中村君が黒部の谷で初めて聞いたと言って話したが、自分等は今夜秩父で初めて耳にした。其後南アルプスの方で聞いたことを覚えている。広く山地に棲息しているものらしい。小さい鳥で本名は知らないが、ゼニトリといえばあああれかと合点のゆく人が多いであろう。後になってそれは目細めぼそであることを知った。

 六月三日。今日は栃本泊りであるから、ゆるゆる支度して午前八時に出発した。途中例の通り木賊瀑の見物や石楠の花に見入ったりして、いつも朽ちていやせぬかと心配の種である松葉沢の橋も無難に通り越し、赤沢の合流点に着いたのは丁度十二時であった。途中の闊葉樹林は主としてぶなであるが、直径二、三尺以上にも及ぶものが少なくない。黒平くろべら方面から金峰山に登る間や、雁坂かりさか旧道の椈の林と共に奥秩父の最も美しい闊葉樹林と称して差支ないであろう。此辺で落ち付いて休みいという平素の願の通り、今日は此処で昼飯を炊いて気持の好い河原の石の上に横たわりながら、飯の熟するのを待っていた。日蔭は少し寒いし日向は少し熱い。晴れた青空に拡がるだけ枝を伸した水楢みずならなどの大木の若葉が、日光にとおって豊麗な生々した黄金色に冴えている。飛び交う羽虫の翼が其間からひらひら閃めく。実に長閑のどかな晩春の行楽であった。自分等はすっかり満足した。
 かくして栃本に着いたのは午後五時を過ぐること十五分であった。(大正六年六月)
(大正九、一一『山岳』)

底本:「山の憶い出 上」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年6月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 上巻」龍星閣
   1941(昭和16)年再刷
初出:「山岳 第15年第2号」
   1920(大正9)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2013年5月7日作成
2013年7月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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