我国の一大峡流である黒部川の全貌が完全に世に紹介されるに至ったのは、誰が何と言っても、これは立山後立山両山脈の山々とその抱擁する谷々とに限りなき興味を有し、就中なかんずく立山連峰と黒部峡谷とを礼讃して措かざるかんむり君の数年にわたりて惓むことを知らない努力の結果であることは、動かすからざる事実であり、またよく人の知っている通りである。さればわずかに黒部の片鱗を窺い見たに過ぎない私などは、いつもこれに対して感嘆久しうして止まないのであった。其当時はよく冠君の訪問を受けて、山の話に夢中になってしまった二人は、玄関に置いた靴や冠君の蝙蝠傘を盗み去られたことを、すぐ隣りのへやに居ながら少しも知らずにいたことなどもあった。話の落ち行く先は大抵黒部ときまっていた。そして探検の度毎たびごとに同君のもたらし帰る新しい黒部の秘境に聞き入りつつ私の心は躍った。しかし冠君のように時の自由を持たない私は、残念ながら同君と行を共にし得る機会は一回も無かったのである。
 黒部峡谷はく大正の末期から昭和のはじめにかけて、始めて探られたものであるとはいえ、旧加賀藩の時代に於ても山廻り役なるものがあって、数年毎に黒部奥山を巡視し、其間黒部川の一部に触れたことは、記録に存しているし、又天保頃の作と想われる絵図にれば、祖母ばば谷以下はながれに沿うて道が開け、中流はだいらより御前ごぜん谷の下手に至る路ありしものの如く、又針木はりのき谷の南沢を遡り、南沢岳より尾根を縦走して鷲羽岳に達し、黒部源流に下り、薬師沢を上りて薬師野(太郎兵衛平)を横切り、有峰を経て東笠西笠両山の間を水須みずしに出る路程、及びだいらより本流に沿うて東沢に入り、之を遡りて前記の尾根筋に合する路が記入されている。この巡検は軍事上よりも寧ろ森林の監視が主要なる目的であったものと私は考えている。鐘釣かねつり温泉の湯壺に浸ったことのある人は、温泉の湧き出している洞門の岩壁が更に大きく穹窿状きゅうりゅうじょうに拡がろうとする目の高さの処に、慶応三卯八月 山奉行辻安兵衛山廻伊藤刑部と書いた、かすかながらも残っている墨痕を見た覚えはないであろうか。この人々は恐らく最後の山廻り役であったろうと思う。私の北アルプスの旅には常に案内者であり、又冠君の黒部探検にも欠かさず案内者として、其成功に貢献する所の大きかった宇治長次郎の父は、山廻り役の人夫として同行したことがあるということを、同人からも弟の岩次郎からも聞いたのであるが、それがこの慶応の時であったかと云う事はさて措き、山行の様子などに就ても少しも知るに由なかった。
 登山者の間で最も早く黒部下廊下しものろうかの探究に心を惹かれた者は、私の知っている限りでは、友人中村君であった。しかし斯ういう事には後になって其権利を主張する多くの人が現われて来るものであるし、又それが正しかった場合も稀にはあるから、私は自分の知っている範囲と断って置く必要がある。勿論黒部川を横断したり或は其一部を上下した人は、以前にもすくなくないが、これは黒部川が目的ではなかった。
 中村君は大正四年の七月から十月まで鐘釣温泉に滞在して、画作のかたわら附近を跋渉し、其折そのおり案内者として同伴した音沢村の佐々木助七から、黒部に関する多くの知識を得て、益々ますます下廊下探査の素志を堅くしたらしい。其後幾度か計画が立てられて私も之にあずかった。しかし予想以上に嶮難の恐ろしいものがあると思われた為に、容易に実行の運びに至らなかったが、遂に大正八年七月下旬を期して二人で之を決行することになったのであった。
 今から当時を追想して見ると、私達の準備には多くの欠陥があった。綱なども三十米のものを一本しか携帯しない、それも本式の物ではなかった。天幕も五人用のもの一張に過ぎない。それに中村君は油絵の材料を忘れなかった。これに身廻りの品を合せると、五人しかいない人夫の中から一人を要した程の重さであった。私達は何と暢気のんきなことであったろう。これと云うのも前途に少しの油断を許さない、緊張した態度が絶対に必要である困難で危険な行程が幾日にも亘って続くであろうなどとは考えていなかったからである。つまり認識不足に陥っていたのであった。夫には理由がなくもなかった。私は曾て書上君から同君の訳した『マッターホンを争う』と題する書を贈られて之を一読し、気持が悪くなって読了するのが厭になったことを覚えている。今其てつを蹈んで、無邪気な山人の心を勝手に忖度そんたくし、而も夫をもって自己の不明を弁解するの具に供しようとすることは、真に恥ず可きの至りであるが、この際暫く読者の寛恕かんじょを得て筆を進めたい。
 案内者助七の話では、だいらの小屋まで一週間あれば行けるとの事で、自身も一、二度通ったことがあるらしい口振りであった。但し断言はしなかった様であるが、余分の荷などを持って行ける所ではないという注意も、また危険の程度やその場所に関して、具体的の説明もしくは指示をも受けなかったので、私達の危惧と不安とは畢竟ひっきょうするに自己の想像の所産であるかの如くさえ思われた。ただ仙人谷の出合で右岸に渡り、棒小屋沢(助七は之を東ゴリョウと呼び、それに対して劒沢を西ゴリョウと称していた。劒沢もツルギといわずツルガと発音した)を過ぎると再び橋を打って左岸に移るのであるが、此橋の打てるか打てぬかが遡行の可能不可能を決するもので、うまく打てればいいがと幾度も気懸りらしくつぶやくのであった。私達は仙人谷から先へは行かなかったので、其架橋地点が果しての辺であるかを確め得なかったが、冠君の蹈査した結果から推せば、仮に架橋し得たとしても、左岸の山側を辿ってだいらに出ることは、黒部別山べつざんえでもしなければ不可能である。そして黒部別山に登ることも其辺からは絶望に近い。それで私は果して助七はだいらまで通ったことがあるのであろうかとのうたがいが後に生じたのであった。勿論山谷の跋渉に慣れ切った者が身軽で歩けば、七日で足りるにしても、荷物のあることをかんがえに入れて、相当に準備することを怠ったものとすれば、案内者としては手ぬかりであったことを免かれないであろう。邪推すれば或は助七の黒部に関する既知の範囲は棒小屋沢附近迄に限られていたので、仙人谷まで案内して行程を打切る意図を初めから持っていたのではないかと想われるような曖昧な態度がないとは云えなかった。斯様な臆測はしかしよくない事だ。
 此外このほか私達の不注意からして人夫の調和が欠けていた事も見逃せない。黒部のような処へ入るには、谷歩きに熟練した者の一人でも多い方が心強い。それで多年同行して其技倆を信頼している気心の知れた大山村の宇治長次郎と、他に山田竹次郎の二人を呼び寄せた。助七は同じ村の佐々木作松と佐々木清助という二人の若者を連れて来た。勿論知らぬ同志であるから多少気まずい点はあろうと考えていたが、斯く迄に排他的であろうとは全く予想しなかった。例えば食料品を持った若者の荷は、日毎に其量を減じて、果ては殆ど空身にも等しくなるが、天幕や毛布などでいつも重い長次郎等の荷を分担しようとはしない。私は見兼ねて或朝、どうだね少し分けて貰ってはと言うと、助七は気色ばんで言下に「お前等荷を分けた時に、どれを背負うかと聞いたら、それを背負ったのではないか、初からの約束だ」とはねつけたような次第であった。
 案内者として頼みに思う助七であるから、黒部といえば自己の領域ともいう可き強味さえ加わって、我意に募ったとて止むを得ないにしても、目的達成という見地からすれば、なり重大な関係のある事であるのに、夫に就ては何の顧慮も払われていないらしいことが分ったので、私の心は暗かった。
 身贔屓みびいきな助七の言動につれて、二人の若者までも長次郎等を侮っていた。無口で暢気ではあるが、山や谷歩きにかけては誰に劣る可くもない自信のある長次郎は、心の中ではさぞ癪に触っていた事であろう。口数の多い助七の前に、温和おとなしい長次郎は愈々いよいよ無口となって、如何にも無能らしくただ黙々と随伴するのであった。
 一度、仕合しあい谷の南を限る山の鼻を踰える際、崖を下ってみぎわを辿れば三時間も近廻りとなるというので、私は下ろうではないかと長次郎に勧めて見た。ここで長次郎の技倆を発揮させて見たいと思ったのである。上部は幾分オーバーハングしてはいるが、四、五尺下に離れて、別に足場の確かな岩壁が屹立している。いつもの長次郎ならば、上を廻ろうと言っても「なに案じはねえ」と自ら進んで下ることを主張する筈であるに拘らず、例になく「荷は重いし、慣れぬ人夫衆が居るだで」と浮かぬ顔して断った。従順を装う彼の心の底から「今度はおとなしく何処までも引込ひっこんでいるぞ」と固き決意の閃きを感じて、これはしまったと思った。両雄ならび立たず、私は流を見詰めたまま暫く憮然としていた。二人を一緒に連れて来た事が間違っていたのであった。それはもあれ助七が初めて私達を比較的困難なく仙人谷まで導いてれた功労は、之に依って没しさる可きものではない。私は今も深く感謝の意を表している。
 此年は又丁度古河合名会社で、餓鬼の田甫たんぼから棒小屋沢までの路を作る最中であった。この一行には黒部の紹介に力を入れていた『高岡新報』の記者が同伴して居たらしい。それで私達をあたかも競争者であるかの如くに思い違え、かつ一行の案内を頼まれた助七が夫を断って置きながら、先約ではあったが、私達の案内者となったことも刺戟となってか、よくは知らないが何かとさかんに書き立てたそうである。このはしがきは当時を記憶している人の参考ともなるであろう。

 中村君と私の乗った上野駅発明石あかし行の列車は、七月二十七日の午前八時半に泊駅に着いた、長次郎と竹次郎が約の如くむかえに来ていた。例年ならばこの頃は快晴な登山日和の続く季節である。今年は如何したものか兎角とかく降り勝で、山登りには不適当な天候であった。殊に黒部の谷深く入り込もうとする私達には、絶えずその事が気遣われた。今日も汽車を下りて町をあちこち買物に歩いているうちに大雨が降って来た。昼頃に漸くんだが、小川谷の奥に朝日岳の雪がちらと見えたのみで、そうヶ岳や駒ヶ岳の連脈には雲が低く垂れていた。駅前の旅館で昼食を済し、荷が多いので女の荷持にもちを一人雇い、平坦な四里の道を歩いて、愛本橋のたもとの茶屋で一休みする。直ぐ上は謙信の物見山と呼ばれているそうだ。荷持の女は此処ここから返した。
 三十里の長い流程を、自ら穿った深い谷底に躍り狂い喚き叫んでいる黒部川も、この幅四十間あるかなしの峡口でぐいと引括ひっくくられた後、広い扇状地に向けて一挙に解放されている。それだけに此処は物凄い淵を成し、薄濁りを帯びた水が大きな渦を巻いて、ねじれた漏斗のような口を開きながら、底の方から気味悪るい音を吐き出している。崖にのり出した一本の松の下には、深さの知れない穴があって、竜宮に通じているのだそうだ。此穴に主が棲んでいる。此主へ愛本村の平三郎という人の娘が嫁に入った。いよいよ淵に入る段になると、狭霧さぎりが水面を立ちめて、少しも様子が見られなかったという。娘は屡々しばしば里へお客に来た。或時決して見ることはならぬといましめて、一間に籠ったのを、母親が怪んでひそかに覗き見ると、たらいの中でお産をして、三疋の竜の子を生んで居たそうである。それから娘はパッタリ来なくなった。此主は其後も時折村の娘を掠奪に来たそうだ。それには前兆があって、娘のある家の坐敷に、杯を添えた美酒が置いてある。それが七日の間続く。し酒に手を付けなければ何事も無くて済むが、少しでも其酒を飲めば娘はさらわれて行くのだそうだ。これは助七の話である。
 これから愛本温泉までは一里足らずの道で、五時半に温泉に着いた。延長五千八百間の木樋を用いて、黒薙くろなぎ谷の二見温泉を引いたものである。新築の二階建で甚だ気持がいい。此夜は白馬方面に電光の閃くのを見たが、里の光は冴えていた。ただし海の方は暗いので翌日の天気が心配になった。
 夜が明けて見ると果して雨である。此日は温泉に逗留して、案内者の助七が音沢村から来るのを待っていた。其間にも中村君と宿の二階から替る替る首を出して、其処から見られる黒部川を幾度か眺めた。水量はさして増した様子もないが、水の色は濁ったり澄んだりした、それと共に私達の心も暗くなったり明るくなったりする。其中に段々濁る一方になったので、私達の心もまた益々ますます暗くなって行くのは情なかった。昼過ひるすぎに助七が来て、打合せが済むと一風呂浴びて帰って行く。夜中に数声の雷鳴を聞いたが、雨は降らなかった様子である。
 二十九日。朝起きて見れば相変らず雲は低く垂れて、峡谷の風物嵐気霏々ひひとして頗るおだやかでない。昨日よりは夫でも幾分か模様が好いように思われたので、一行七人が黒部川の上流に向って愛本温泉を出発したのは午前九時半であった。
 道は左岸の段丘の上に通じて、暫くは喧しい瀬の音も耳にしなかった。宇奈月谷を過ると桃原である。十数年前までは一面の桃林であったというが、今はもう名残の木も見当らない。此処で釣橋を渡って右岸に移った。河の水はやや赤土色を呈して大石の間を凄じく奔下している。左手は森石山だ。其山の鼻が平たく潰れて段を成している所に茶屋があった。前には田なども作ってあり、対岸の尾沼谷にはとちの大木が多い。山頂は雲に掩われているが、日にてらされた谷の緑は燃えるように鮮かであった。一しきりヒグラシがさかんに鳴いた後で、鶯の声を聞くのも夏の山路らしい感じがした。
 茶屋から間もなく道は上りとなって、高い絶壁の上や横を通るようになる。其度毎そのたびごとに渦を巻いたり白い泡を立てたりして、矢のようにはしる川がちょいちょい脚の下にのぞまれる。峡勢窄迫さっぱくして、黒部川特有の廊下がそろそろ始まったのだ。
 午後十二時十分、仏茶屋で暫く休んで昼食を遣った。茶屋のそばの薄暗い木立の下を少し西に降ると、川に臨んだ絶壁の上に仏岩が立っている。今にも倒れ落ちそうで危い。ると荒削の仏像に似たようにも想える。岩には青苔が蒸して、台のあたりはギボウシが手向の花のように咲いていた。からびた妙な物が炉の上に吊してある。何かと聞いて見れば熊の臓物であるという。里程表に、五味平ごみだいらへ十九町、別道へ二十二町、黒薙温泉へ三十二町、二見温泉へ三十五町、鐘釣温泉へ二里二十二町と書いてあった。対岸に嘉々堂谷を見送り、行手に森石谷を迎えて、間もなく植林した落葉松林の美しい五味平を過ぎると、黒部川第一の貢流黒薙川の釣橋を渡った。上流はすぐ屈曲している高い岩壁に遮られて、ほんの一部しか望まれない。水の色は藍緑に冴えていた。
 これから少し河の縁を離れて、平な草地を辿ったり植林した杉林の中を通ったりする。此時雷鳴と共に大雨が降り出したので、七谷越の高い峭壁を横切る際には、上から落ちて来る滝のように急な谷川の水を頭から浴びたりした。稍下った処は猫又谷の出合で、崖から崖へと一ぱいに漲り溢れて急瀬を躍らしている本流の横へ、左から雨で水量の増した赤黒い色の濁流を石と共に押出していた。本流が濁るのはうした支流の影響であろう。
 谷筋を罩めていた霧が薄らいで、其中からみどりの濃い山の影がぼうっと行手に滲み出した。百貫ひゃっかん山である。幾多の平行した縦谷が骸骨の肋骨のように懸っている。山その物が既に岩の骸骨なのだ、針葉樹と闊葉樹と入り交って生えてはいるが、其前に東鐘釣山が釣鐘を伏せたようにうずくまっている。しかし高さ七十丈にも余る石灰岩の全石からなった絶大の釣鐘だ。頂上は黒木が茂っているが、胴から下はむき出しになって、黒い岩肌の所々が朱をなすり付けたように赤錆びている。道は其下を通って蔽いかぶさる青葉の中をだらだらと下り込むと、いきなり雷のような瀬の音が脚元から起って眼の前に釣橋が現れた。夫を渡って坂に懸ると、右岸の河に臨んだ岩の上に、まだ建てられて間もない新鐘釣温泉の二階屋が見えた。こっち側の岩間から湧き出す湯を水車仕掛のポンプで汲み上げて、樋で導くようになっている。右手の奥には不帰かえらず谷の落囗が岩壁に穿った洞門のように開いて、細いながれを注いでいる。周囲が余り峻酷なので安心して泊っている気になれそうもない。
 上り切ると狭いが平な段だ。木立までが奥深く続いている。見上ぐる谷の空は両方からのし懸る山と山との間に仕切られて、明り窓のように細長い。其筈である。向う岸は八百米もある百貫山の急斜面が手の届く程に近く、此方は又三名引さんなびきの山裾が西鐘釣山となった岩壁で、それも首の痛くなる程仰向かなければ頂上のあたりは眼に入らないのだ。脚の下深い谷底から唸りを持った水声が満谷の空気を揺がして衝き上って来る。体が痛い様に縮まる感じだ。こんな処に温泉宿があろうとは嘘のようにしか思われないが、山に沿うて建てられた幾棟かの客舎を見るに及んで、安心したように吃驚びっくりしない人はあるまい。鐘釣温泉に来たのだ。湯は水楢みずならなどの大木が茂っている川べりの岩壁の下からだぶだぶ湧き出して、清浄な砂を底とした天然の岩槽に湛えたまま、人の勝手に浴し去るに任せてある。全く周囲の自然と旨く融合している。宿からは直ぐ下に当るのだが、廻り道をするから一町ばかりの距離になる。今は浴客の込み合う時で、中村君と私だけは宿の人の居る隣の部屋に漸く泊めて貰った。

 三十日。朝起きると庭に出て先ず空を仰いだ。鼠色の雲が五、六本の白くされた枯木の立っている百貫山の一角を掠めて、のろのろい廻っていた。いつか飛行機射撃演習の行われた地点であるという。この狭い谷間で見られるものはそれだけだ。今日もまずいなと思う。それでも不足の食料品を補充し、支度が済んで出懸る頃には、雲が割れて久振りに青空が見られた。
 林道は依然として左岸に通じている。こぼれ懸る露にしとど濡れながら木の間を抜けると、忽ち崖下に黒部川の奔湍が現れる、水はもう濁った赤土色でないのは嬉しかった。空谷からたにを過ぎて、山かせぎなどする人の休場である山の鼻で一休ひとやすみする。桂、ぶなの大木が多い。この谷に這入って以来、強い期待をもって毎日のように嘱望して、いつも雲の為に妨げられていた雪を見たいという希望は始めて満たされた。上流に思いも寄らず池ノ平続きの山が残雪斑々たる姿を見せたのである。
 対岸の百貫山と名劒めいけん山を連ねた急峻な山稜を絶えず頭上に仰いで、横合から不意に落ち来る幾つかの支谷を越えた。独活うど谷、小屋ノ谷、蔭ノ谷などいうのがそれだ。支谷と支谷との間は此処ここでは必ずしもいだような山の痩尾根ではない、好い山ひらがある。中には荒廃した畑の跡かと想われる平もあった、小屋ノ平という。大きな桂や椈の葉蔭を洩れた日光が縞をなしている間を縫うて、サカハチチョウが飛んでいた。
 小黒部谷に着いたのは十時半であった。山の鼻と鼻とがぶつかり合っている間を、谷水は深く穿って、いきおいに任せて奔下している。危い崖道を上下し、釣橋を渡ってまた崖の縁を少し登ると、小黒部鉱山への道が岐れる。椈の大木に交ってつが黒檜ねずこなどが岩崖に生えている。石楠しゃくなげが出て来た。附近には野生の杉もある。杉と石楠を一所に見たのは初めてだ。黒部の本流は此処で三方から突き出した山裾に押狭められて、猿飛の奇峡を成している。路から下りて木につかまりながら覗き込むと、花崗岩の壁と壁とが二、三間の近く迄迫り合って、天井の抜けた絶大な洞穴を作り、声を潜めて暗緑に沈んだ水が音もなくその中に吸い込まれて行く。白い壁面は磨いたように光沢を帯びて、下から反射する水の色がそれへほのかに青く映っている。凄美の極だ。十二時、本流と祖母谷との岐れ道に着いて昼飯にした。黒部峡谷の人跡稀な幽絶境はこれから始まるのである。
 午後十二時半に此処を出発した。暫くは欅平けやきだいらの古い林道を辿るのであるが、たまに林区署の役人か又は猟師などが入り込む外は、常人の来る所ではないから、道とも判らぬ程荒れに荒れている。助七が先登に立ってアカソ、イラクサ、よもぎなどの丈なす中を押分けて行く。湿っぽい草の香が鼻から這入って、ツーンと頭へ抜ける。矢張やはり人気の無い所だけあるなと思う。太い蔓などが灌木とからみ合って邪魔をしている所では、頭にカギのある幅広のなたがキラリ閃く、そんな事が度々たびたびあった。道のある所だと云ってもこの通りだ。こりゃ楽ではないわいとそぞろに不安の念が漂う。其癖そのくせ心はぐいぐい奥の方へ引張られて行くのだ。途中助七は蝮蛇まむしを一疋見つけて、ちょいと頭を叩いて打殺し、杖の先にかけてぽんと川に投げ込んでしまう。無造作なものだ。
 欅平の谷へ来た。前面がにわかに開けて高い岩の上に導かれた。上流奥鐘おくかね山の絶壁の突端から、きわどく身を交しながら忽然と走り出した黒部川は、ここに全容を曝露して、白泡を噛んで六、七町の間を躍り狂って来るが、一度足元の崖下にのめり込むと、ワーッと声を揚げたままもう何処へ行ったか判らない。雲間を洩れた太陽が強烈な光を投げて、瀬も淵も岩もまばゆいまでに輝いていた。水の涸れた九月には、ここから下りて河の中が歩けるという。これから針金や桟道の残っている岩壁の横を二度ばかり通って、草の茂った急崖を一息に下ると、しじみ谷の落口に当る本流の底に立った。そしてまじまじと四辺を見廻して悸とせずには居られなかった。
 右岸奥鐘山の絶壁は、三百米もあろうと思われる花崗岩の一枚岩で、それと相対した蜆坂も決して低いものではない。鴨緑おうりょくを溶かした水は其根から根を洗って、無造作にすういと流れている。力強いうねりの外はろくに波も立たない。幅は狭いようでも四十間近くはあろう。蜆谷はと見れば、水こそ少ないが三、四丈の瀑を成している。全く行詰った感がある。人夫の一人が何処を登るのかと聞く。一服やっていた助七は、瀑から左手の崖へとあごでしゃくって、あこを登るのだと答える。途端にホウあこを登るのかと驚嘆の声が洩れた。音沢から来た二人の若い人夫は、此処は深いだで泳げるとか、せいが強いで泳げないとかいう意味のことを大声で口早に話し合っていた。中村君と私とはたっぷりと河に浸した手拭で顔の汗を洗い流し、改めてた四辺を見廻した。
 この山奥に蜆谷の名があるので、場所がらといい念の為に蜆の化石でも出るのかと聞いて見た。助七は笑って答えない。強いてただすと、以前荒ごなしの材木を搬出する際に若い女達もこの急崖を上下した。それを見上げてふと思い付いた名であるという。若い娘だで蜆ずらと大笑する。何さま幾十年を黒部の山谷に過した助七のことである。気まぐれの戯言ざれごとが其儘地名となったものも少くあるまい。滝倉谷の奥にある駒ヶ岳なども、形が独楽こまに似ているので付けた名だそうだ。其時に助七は「俺が居なくなれば誰も知っている者が無くなるで、後に残そうと思って、名前の訳を書いている。出来たら旦那方に送って見て貰おう」と話した。是非送ってれと約束したが、いまだに果されないでいる。
 やがて綱が出された。身軽になった助七は夫を肩にかけて、瀑が退縮する際に残したものらしい瀑の左岸の崖を攀じ登って、綱を付けると下りて来た。夫を手頼って皆無事に瀑の上の狭い段へ登り着いた。振返って見ると奥鐘山は、いつの間にか大屏風を拡げたように高大な峭壁の全面をあらわして、東の空を占領している。最も高い所で六百米、低い部分でも二百米は下るまい。実に言語に絶した素派すばらしいものだ。表面はやや黒ずんだ灰色で、それへ白く輝く数条の竪縞を織り出している。大雨の際に瀑の懸る水筋の跡であろうと思った。ギボウシや矮小な木が其処此処の凹くなったり襞になったりした所に、ちょぼちょぼ生えてはいるが、そんな物は到底此壁面の偉大なる単調を破るに足るものではない。
 岩に腰掛けて一息入れる間もなく、劒岳の方面で雷が鳴り出した。皆急いで蜆坂の登りに取り懸った。坂とはいうものの傾斜の少し緩い絶壁であるから、足で登るよりも手で登る場合の方が多い。しかし下から見上げて考えた程危険では無かった。岩は堅くて凹凸がある。五分の手懸り足懸りも安全に生命を保障して呉れる。勿論いささかの油断を許さない、刻一刻と移動して止まない体重の中心を、微妙に調節するあらゆる筋肉のはたらきと、集注的な強い意識とを必要とする。
 一滴二滴と雨が落ちて来た。たちまちにして太い銀針のような雨脚があたりを真白にしてしまう。折々電光が物騒しく動揺する大気を掠めて、仄に赤く眼を射る。雷鳴は左程ひどくもなかったが、岩に獅噛しがみついて崖の中途を蝸牛のように這い上っていた私は、叩きすくめられたように立ち留って、岩を伝う滝の如き雨水を頭上から浴びた。雨具と思うけれども、人夫とは離れているし、よし又近くにいても、銘々が自分の身一つを守るより外には余念のない瞬間なのだ、如何なるものでもない。漸く百米余りを上って尾根の一端にすがり着いた。早速荷を解いて雨具を着けたがもう遅い。雨が復た強く降り出したので、とある大岩の根方に逃げ込んでわずかに夫を凌いだ。岩の軒からは私達をめぐって雨垂れが太い水晶簾を懸る。それを水呑に受けて渇いた喉を潤した。るいが旨い味だ。
 雨がまばらになると谷があかるくなって、正面に向い合った奥鐘山の絶壁から、忽ち一条二条続いて五、六条の大瀑布が、虚空を跳って滾々こんこんと崩落するのを木の間越しに望んだ。根なし雲が時々瀑のなかばあたりを往ったり来たりする。其壮大にしてしかも痛快なる景色は眺めて飽くことを知らない。二百丈もある瀑が人も碌に通らない谷筋の奥で、年に幾回となく出現することが嘘のような事実であるのが面白い。
 もう四時を三十分過ぎている。さいわいに雨はんだが、動かないでいた所為せいであろう薄ら寒くなって来た。見ればずぶ濡れの全身から湯気が立っていた。私は心の内に、焔をあげてパチパチ燃え上るさかんな焚火を想像して、早く泊り場所へ着きたいものだと思った。しかし今日の難関は未だ切抜けられた訳ではなかった。此処からシデや令法(方言、牛の糞)やかえでなどの茂った山の横をからみながら少し行くと、雨樋をてたような潜り戸の狭間が待ち構えていた。夫はがっくり落ち込んだ谷の側壁へ、たとえば大きなのみで縦に溝を穿ったものと想像すれば大抵当っている。岩と岩との間は四尺位しかない。底は土が多い上に雨の後であるから滑るに決っている。思い切って一気に滑り落ちれば造作なく片はつく、が、それっ切りだ。
 また綱が下げられた。十丈余りの長さはあるが、底までは届かない。中途の右側の段を成している所で、立木につかまりながら皆の下り終るのを待って、再び綱を下げる。今度は木があるので、身軽な中村君や私には楽であった。小さい沢を渡り、両面羊歯の繁りに茂った薄暗い森林の中を横さまに通り抜けて、沢伝いに下り着いた所は、仕合谷の落口より少し下流の河原であった。五時五十分。
 河原は水が退けてまだ間もないのか、蹈むとじめじめして心地が悪い。仕合谷の方にも好い野営地がないので、今下りた沢の突き当りの大岩が堰き止めた乱石の上を平にして泊り場所とした。蓬やかやを大分刈り取って下敷にしたが、体が痛んで、それに黒部に入って初めての野営であるから、目も冴えて、此夜はとうとう安眠されなかった。河床に乱れ伏す大岩を躍り越え跳ね返りながらたぎり落ちて来る黒部川の水声は、地響を打って、終夜私達の仮寝の床を震蕩していた。

 三十一日。依然として天気模様は好くない。風の方向も不定である。ただ割合に雲が高いのでやや心強い。気はせいても支度に手間が取れて出発したのは午前八時半であった。
 野営地から仕合谷までわずか二町ばかりの距離は、河原を歩いたり岩の上を伝わったり、または水際の崖をへずったりした。仕合谷を渡ると河の中へ乗出した大岩の胴のあたりを攀じ登って、椈の森林に分け入った。ヒグラシが鳴く。この大岩の先端は鉾のように尖って高くそばだち、向う岸の奥鐘山の絶壁から独立して一層高く聳えた巨大なる岩柱と相対して、幅五、六間の峡門を成している。後に夫婦岩と名付けられたのはこれであろう。森林は河に沿うて六、七町も続いた。足場はたしかであるが山は急斜面の崖だらけであるから、手を出すにも足を運ぶにも気は許せない。崖には黒檜、米栂、姫小松などの黒木が多い。脚下は直立の峭壁で、水面迄は思ったよりも近く、三十米位のものである。対岸の奥鐘山は昨日と違って、絶大な三角形を呈した真黒な岩の斜面を見せ、まるでピラミッドの一面を望むようだ。その面には多少の草木が生えている。あすこは登れそうだなと助七に問えば、登れると答えた。
 林が尽ると、薬研やげんを少し伏せて立てたようにえぐれ落ちた懸崖の上に出た。川に下って近道を取るか、尾根を登って遠いが安全な道を辿るか、どっちかを選ばなければならなかった。が、結局遠くとも安全な道に就くことにした。長い長い羊腸の登りが始まる。この道は八年前に助七のつけたものだそうだ。森の中は思った程ひどい藪ではなかった。木立が密蔽しているので、下木は余り伸びられないのだ。しかし登りは飽きる程長い。途中水楢の大木の根元が洞穴になっているのを見た。熊の穴だそうだ。羚羊かもしかの寝た跡もあった。一時間半を費して漸く黒木の多い尾根の頂上に出た。前面が目隠しを取ったように開けて、眼下に今宵の泊場所と決められた折尾おりお谷が望まれた。其右岸の高い所にある岩壁に大きな洞窟ががっくり口を開けている。高い山は雲に掩われたり近い前山の蔭になったりして、あの心をそそる雪の姿は牛首山あたりに少し光っているのが眼に入ったのみで、黒部の本流もまた出入の激しい幾重の山裾に深く包まれて、唯一箇所赤茶化た崖の下に青白い水面をチラとうかがい得たに過ぎなかった、アゾ原あたりであったろうか。
 何処をどう下りたかは知らない。何でもはじめは急な山腹を木につかまりながら無暗むやみ横搦よこがらみに下りた。谷らしい溝に出る。そこで助七が濡れ腐った落葉の塊を引掻廻して、十数疋の蚯蚓みみずを掘り出したことを覚えている。岩魚を釣る餌にするのだという。暫く下ると河原が現れ、続いて岩が多くなった。其処そこで先に崖を下りて河を伝う路が上って来るのと合し、右に槭の茂みを押分け、闊葉樹に交って栂や黒檜の生えている崖の間の岨を下り気味に横巻にして、河に臨んだ絶壁の縁に辿り着く。抜足で縁を通りながら叢を通り抜け、大虎杖おおいたどりを薙ぎ倒して、横に長く河岸にわだかまっている大磐石の背に躍り上った。折尾谷に着いたのである。午後二時三十分。振り返って今下りて来た山側を見上ると、青木黒木の紛糾している間に露岩の錯峙した急崖である。あんな所をよくも通り抜けたものだと自ら感心したが、何処を通ったのか一向に見当はつかなかった。
 此処は思の外に谷が開けて、河幅も四十間を超え、河原も少しは露出している。下流は正面に谷を塞いで、例の奥鐘山の三角形の斜面が両岸に続く青葉の中に益々ますます黒い。上流は近く三十間の距離に在る小屋程もある大きな根無し岩が、此方側即ち左岸に近く立ちはだかって、上に一本の流木を戴いていた。大水の際に置き残されたものであろう。其岩の左は黒部川の全流が七、八尺の瀑を成してどっと落ちている。其落口のまるく盛り上った水線の動揺は実に壮なものだ。そこで一旦淵と湛えた水は更に下手で向う側の一層巨大な岩に行手を阻まれ、逆に引返して、中央に峙つ巨岩の為にまたも堰かれて二派に分れ、左は二丈ばかり、右は三丈あまりの急湍をなして奔下し、相合して私達の立っている大磐石に横さまに撞き当り、真白な泡のながれが半町も続いている。ると白い泡と泡とが噛み合って虚空に跳っているものは、淡い紫紅色を帯びていた。一、二間離れるとお互の話声などは、もう蚊の唸る程にも聞かれなかった。
 大磐石と更に高い岩壁との間に大岩がささ[#「掌」の「手」に代えて「冴のつくり」、U+725A、460-3]えられて、其下に好い平な砂地がある。居ながら瀑が見られるので其処を泊り場所とした。助七は長い間釣に余念も無かったが、とうとう尺許の岩魚を一尾釣り上げた。過日の洪水に流されて魚は薩張さっぱり居なくなったという。五時頃雨が降って来たが間もなくんだ。
 明くる八月一日は、場所が気に入ったので、貴重な一日ではあるが滞在してつかれを休めることにした、実際又其必要があったのだ。朝と夕方に雨がまた降り出したが、大降りにはならなかった。昼前助七は折尾谷で尺三もある大きな岩魚を釣って、私達の食膳を賑わした。釣った場所は落口に近い一坪にも足らぬ小さな瀑壺であった。折尾谷もこのあたりでは明るい谷で、水は細い。この岩魚も大水に置き残されたものであろうという。私は初めますかと思った。夜中に眼が覚めて外を覗くと、鬱陶しかった谷の空はいつの間にか星が銀砂子を撒いていた。

 二日。晴れ渡った空には一片の雲もない。今迄め付られていた胸が一時に拡がるような快感がある。午前四時頃から起きたので、六時四十分には出懸けられた。旭の光は既に対岸の餓鬼奥鐘の連嶺の頂を超えて、此方の山の中腹を段だらに染分けていた。山の裾を直ぐ登りに懸って、脚の下に河を見ながら進む。絶壁の上を通ったり下を廻ったりする。木が無ければとても通れぬ所がある。黒味を帯びた岩壁も水に洗われる所までは、白く研磨されてなめらかに光っている。山の傾斜が緩い処ではシデ、椈、水楢などの大木が茂り合って、其下には両面羊歯が大きな葉を四方に拡げて隙間もなく生えていた。森の空気がひやりと冷い。うした山の鼻を一時間余り横にからんで河原に下りた。水は向う岸の四、五丈もある花崗岩壁の下を瀬を成し淵を成して流れている。色は益々ますます冴えて来たようだ。絶壁には横に大きな襞が幾つかあって、そこにはギボウシの花が咲いているのを見た。河原伝いの気楽さを沁々しみじみ味いながら、二町も遡ると対岸で餓鬼谷が合流している。この峡谷の支流としては落口が誠に穏かだ。硫黄の臭いが風に連れて鼻を衝く。合流点から半道程の上流に温泉があるのだという。
 また山の裾を登り始める。木は生えているが、地膚は堅い岩の壁が、表面は苔に被われて水気付いているからく滑る。九時五分尾根の一角に達して、其儘そのまま石楠の多い山の背を登って行くと、栂、かんばなどの大木が出て来る。南に劒沢の北を限る仙人山続きの尾根が鋸歯を苛立たせ、其左に五竜鹿島槍続きの山が物凄い色をした雲の厚襖をすっぽりと被っている。何処からともなくピューピューと口笛を吹くような妙な声が聞える。鳥でも蝉でもないようだ。登って行くうちに山稜は細く痩せて、痛ましく岩骨を曝露している。こんな処にはきまって石楠、姫小松、黒檜、米躑躅こめつつじなどが生えているものだ。瘤のような岩の隆起をえてから、尾根の側面に沿うて下ると奥ノ平に出た。緩傾斜の地で、大きな椈の純林がある。下には根曲竹や羊歯が多い。最前聞いたのと同じ妙な声が間近で復聞またきこえる。訝る間もなく一疋の羚羊が飛び出して一散に逃げて行った。小さな沢に出る。横を巻いて尾根の頂上に達し、少し上って又同じような横搦みを続け、岩多き斜面を過ぎ、最後に沢を伝って下りて行くと、岩面の小さな孔からプツプツと息を切って、水蒸気と共に熱湯が沸き出している、あたりの岩の裂目からも湯が滲み出して、硫黄の華が真黄色な素麺を流したように沈澱している。立ち留ると草鞋まで熱くなって来る。減水の折は餓鬼谷の出合から右岸に移り、河伝いに此処まで辿り得るとのことである。右に木立を衝き抜け、なり水量のある沢が三、四丈の瀑を成している上を徒渉としょうし、向う側を左に下るとアゾ原に出た。そして不思議な光景に目を奪われた。午後二時四十分。
 私達の下りた処は、河に沿うて長く延びた大岩磐が歩廊のようになっている上であった。水面からは二、三丈の絶壁であるが、上流の方は低く階段状を成して河原に続いていた。岩は花崗岩でも、質の悪い朱のように赤く錆びて、見るから怪しげな荒けた有様を呈している。岩の歩廊は二町余も続いて、其間到る処に湯が湧き出しているのだ。或者は直径三尺もある熱湯の池を湛え、其中央に径五寸位の円丘を築き上げて、其処から二、三尺の高さに湯玉を飛ばしている。或者は河底から湧き出る清水のように、池の底ですなをモクモク吹き上げている。又或者は岩壁の表面に多量の沈澱物を堆積して、自身は其奥に潜まってしまったものもある。そうかと思うと又或者は岩の狭間から微な鳴動と共にさかん濛々もうもうたる白烟を噴出している。さながら温泉の化物屋敷の縮図だ。十間とは隔てぬ向う岸には硫黄の沈澱している処がすくなくない。恐らく河の中からもまた湧き出しているのではあるまいか。岩の裂目という裂目は、湯の沈澱物でセメントを填たように塞っていることから考えても、此附近に湯の噴出の多い事が察せられる。
 歩廊の突き当りは高い絶壁となって、上流の河身は鋭く左に一曲し、下流も亦高い絶壁の間を河は右に折れて、するりと姿を隠している。全く袋の底に閉じ込められた感じだ。どうもがいても容易に出られるものではない。
 今日も時間はまだ早いが、此処に泊ることにした。平地が無いから河原に小屋掛けして、茅を厚く敷きならしたので少しも体が痛くない。河原と岩壁との間に湛えた豊富な湯に河の水を堰き入れると、好い頃合の温泉になる。岩磐は裸足で歩けない程熱いから、そこを付け込んで、汗に汚れた物を皆洗って岩の上に拡げて置く。あくる朝になって見ると果してのしをかけたように乾いていた。実に贅沢な野営であった。

 三日。今日も快晴である。出懸けに一風呂浴びて、午前七時名残惜しい野営地を後にした。岩壁の上を河に沿うて仙人谷に出たいと思ったが、それには半日以上を要するというので、昨日下りた瀑のある沢を暫く登ってから、沢を離れて左に雑木の茂った斜面を一時間程上ると尾根の上に出た。南東に鹿島槍ヶ岳、牛首山、岩小屋沢岳などが見え、南には仙人山の尾根が間近く聳え立ち、北には餓鬼奥鐘の連嶺の上に猫又山の雪がまばゆい光を放っていた。
 此処ここから瞰下みおろした仙人谷は、予期に反して思の外に明るい谷であった。陰鬱で暗い、そして木はあっても岩巣いわすだらけで、一寸ちょっと途方に暮れるのではあるまいかと想像して、心をときめかしていたこの谷が、しかも黒部本流への落囗に近いこのあたりで、くも打ち開けたなごやかな姿をしていようとは誰が思ったろう。仙人山から東へ続く山稜の一峰二一七三米の三角点から派出された対岸の尾根こそは、木立の繁った急峻な側崖が押し迫ってはいるが、此方こっち側の中腹から谷底へかけては、割合になだらかな斜面で、雑草や灌木が青々と生い茂り、こんもりと盛り上った椈の大木が疎らに散生して谷風にそよいでいるさまは、人里近くの谷地やちにポプラの木が生えているような感じである。しかしこれには大きな犠牲が払われているのだ。尾根の側面を薙ぎ取った恐ろしい大崩壊にって、地貌が一変したものであることは、脚の下に赭色の岩膚を露出している大きなガレから察せられる。谷間に点在している椈の木などは、恐らく土や岩と共にくずれ落ちた若木の生長したものかも知れない。歳月という自然に取りて唯一の良医は、この大疵おおきずを殆どそれとも分らぬ迄に癒してしまっているが、流石さすがに赭色の大ガレのみは、夏は真向から直射する強烈な日光に、冬はまた頻発するであろう雪崩の為に妨げられて、どうにも手に負えぬものか、当時を物語る記念として、赤裸のままに残されている。その真下よりはや上手に当って、四、五丈の瀑が全容をあらわしながら、白く懸っているのがのぞまれた。
 黒部本流に目を移すと、上流は仙人山の岩瘤だらけな山稜に遮られて見る由もないが、東谷の出合あたりから右斜に折れて、仙人谷の右岸をなす尾根の岩壁の下まで来ると、其裾を洗って溢れ漲る※(「靜のへん+定」、第4水準2-91-94)らんてん色のながれが初めて眼に入る。岩壁の高さは二、三丈に過ぎないであろう。其上は闊葉樹の茂った斜面が上るに従って次第に傾斜を増すと共に、針葉樹が多くなって、其間から白くされた岩骨が剥き出している。水に臨んだ岩壁の一箇所に、木を組んで七、八尺程河に迫り出したかけはしめいたものがある。二週間ばかり前に劒沢を目指して出発した近藤君が目的の沢が通れなかったので、仙人谷を下って案内者の平蔵に黒部を泳ぎ渡らせたという場所に違いない。実際それから下は河の落差が急に加わって、水勢一段と激しく、白く泡立つ大うねりが仙人谷の出合附近で巨岩に扼せられ、其両側を渦まき流れている。し止むなく河を泳ぎ渡るものとすれば、其外に適当と想われる場所はないのである。此附近は黒部川の河身が甚しく屈曲している所で、左右から突出した山の鼻づらをこづきながら、不恰好な弓字状をなして、岩崖の底深く一条の活路を開いている。椈やシデ、槭などの闊葉樹が岩の斜面にしっかりと根を下して、緑の蔭をかざしている木の間伝いに、どこからともなく大嵐の吹きすさぶに似た音が響いて来るが、この尾根の高所に居てさえ、河身を縦観し得るのは、わずかに其あたり数町の間に過ぎない。
 尾根に立ったまま三十分余を眺望に費して、いざ谷に下ろうとする時、助七から「旦那方これからどうするね」と声をかけられてハッとした。どうするもこうするもない。私達の目的は初めからだいらまで遡上することにきめてある。今更案内者からこんな相談を受けようとは思わなかった。しかし朧気ながらこの事あるを予期しないこともなかったのである。これから奥へ進むには、是非とも右岸に渡らなければならない。それには仙人谷の出合に近い河の中の巨岩に橋を架けてこれに移り、岩の上を足溜りとして、更に其橋を引いて対岸へ渡すのである。これは気骨の折れる上に、なり危い仕事であるにきまっている。何時間を要するか見当もつかない。私は緊張した重苦しい気持で架橋の説明を聞きながら、滝津瀬をなして奔流する河の中に横たわった大岩を見詰めたまま、斯様かような際にいつも長次郎から聞く「なに、案じはねえ」というような頼母たのもしい声のかかるのを空しく、実に空しく待っていたのであるから。
 それはしかしもうどうでもよかった。一行の糧食は辛うじて三日を支え得るに過ぎない。これから上流の遡行は、今迄の経過から推して、二日や三日で容易に為し遂げられるものでないことが判明したし、して斯様な旅に何より大切な人夫の和を得ていないことから考えて、此儘行進を続ける気には如何してもなれなかった。それで希望の幾分なりともみたし得たことに満足して、思い切って本流を離れ、仙人谷を遡って、立山の室堂に出ることを心の中では既に思い定めていたのであった。
 かくも谷へ下りることにして、脚の下の赭いガレを右に横断してから、草原を真直ぐに下った。この下りは案外容易で、十五分とはかからぬうちに、上から眺めた谷地のような処に着いた。丈高い草や矮小な灌木が叢生して、ごつごつした大岩に掩いかぶさっている。これはデブリーであるに相違ない。其中を押し分けて行くと、歩くたびに足をすくわれて漸く谷底近くまで辿り着く間に、幾度となく前にのめったり横に倒れたりした。もう此時は誰も口に出しては言わないが、此処から引き返すのが当り前のことであるような顔をしていた。
 それから身軽になって、黒部本流の渡場を見物に行った。仙人谷の落口には大きな瀑が懸っているが、上からでは望めない。槭などの古木が茂っている右岸の崖を下りて、斜にのり出した木の枝に※(「馮/几」、第4水準2-3-20)もたれながら、横さまに見上げる。それでも深くえぐれ込んだ岩壁の奥にあるので、瀑身は全部見られなかった。五、六丈の高さであろう、※(「革+堂」、第3水準1-93-80)とうとうの響は近いだけに黒部本流の瀬の音も紛れない。瀑壺から溢れた水は、又低い瀑となって本流に躍り込んでいる。後に冠君の撮した劒沢の落口の写真を見て、よく似ていると思った。
 本流の左岸は絶壁が続いて、其上は樹木の茂った急崖である。横をからむのは非常に困難らしい。平蔵が体に綱を結び付けて、其上から跳び込んだという俄造にわかづくりのかけはしは、一町とは離れぬ上手に、太くもない木組みがふらふらになって残っていた。其下は青藍色の迅流が対岸に斜に横たわる大岩床の表面とすれすれに駛走しそうしている。川幅は五間とはあるまいと思った。深淵の底は蒼黒く沈んで深さが測られない。しかしよく見れば流の動揺の激しいのにおどろく。水面ばかり見詰めていた目を川から離すと、あたりの物は忽ち羽が生えて飛ぶように逆に走り出す。立っている地面までが夫にひかれてぐらぐらと動く。目が眩んで倒れそうになる。不思議な魔力を湛えながら沈黙している水の姿は凄いものだ。此処に跳び込んで泳ぎ渡った平蔵は、さすがに剛の者程ある。
 対岸の大岩床は、其根を長く水底に突き出して河床に段を成しているらしく、流はそこで急に大きく波を打って白い波頭の立ち続く激湍と化し、少しく右斜に流れて、仙人谷の出合に近付くと、河の殆ど中央にわだかまる巨岩に思うさま衝き当って、ときの声と共に水烟を揚げてうねり狂って行くが、すぐ右に曲って絶壁の間に身を潜めている。助七はこの巨岩を指して、あこへ橋を架けて向う側へ渡るのだが、水が多いとむつかしい仕事だと若者に話していた。架橋の困難は一目で知られた。これがうまく成功すれば、右岸は岩はあっても壁ではないし、傾斜は緩く、森林が水際近くまで寄せている所もある。河が左に曲ろうとするあたりに岩の崩れがあって、其先には草原らしい明るい緑の斜面が見えていた。まず東谷までは無難であろう、夫れから先は殆ど想像もつかない。対岸の岩間からは、湯の烟が二筋ばかり白く立ち昇って、河風に吹き※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)げられては消えて行った。
 荷物を置いた所に戻って、うら淋しい昼食を済し、午後十二時半に出発して仙人谷を上りはじめた。尾根の上から見下ろした瀑は、近付くと五段に分れて落下している大瀑で、其中第二段のものが最も高く、尾根から見たのはこの瀑であった。左に瀑を見ながら藪の中を進み、頃合をはかって谷に下ると、うまく瀑の上に出られた。
 狭い谷は全く滝と奔湍との連続で、河床には圭角けいかくの鋭い岩が乱れ立ち、水は其間を狂奔している。河の中に淵が続いて通れなくなると、岸に追い上げられて、根曲り竹や灌木につかまりながら、崖の横を搦んだりした。それも長くは続かず、足場が悪くなってまた河に追い下ろされる。直立した岩壁は高くはないが二丈位はある。綱がなければ如何にもなるまい。こんな事を二、三度繰返したので、小うるさくなって、つくづく雪渓の恋しさが身にしみて思い出された。
 此谷にも仙人ノ湯の外に、湯のにじみ出している処が数ヶ所ある。いずれも湯垢が岩壁の面に奇怪なさまざまな線を描いている。其中の一箇所ではやや湧出量が多く、岩の間の河原になみなみと湛えていた。一浴を試みたい気持に駆られたが、すぐまた汗になることを考えて思い止った。
 一時二十分。待ち憧れていた雪渓に達した。もう占めたものだ。顧ると谷の正面を限る後立山山脈には、積雲の大塊がたむろしてさかんに活動している。もくもく湧き上る白銀をとかしたような頂のあたりには、領布雲が二すじ三すじ横になびいていた。行手を仰ぐと仙人山の尾根には雲が低く垂れて、一雨来そうな気配である。遠雷の響が何処からともなく聞えて来る。雪渓を吹き下ろす冷い風に、蒸し暑い谷の瘟気おんきがとれて、久し振りに蘇ったような気持になった。左岸の大虎杖の林の中では珍らしく鶯が囀っていた。
 一時間も上るともう雲の領であった。丁度そのあたりで雪渓が二に岐れている。左の渓の入口に近い右岸から、白い烟が雲にも紛れず濛々もうもうと立ち昇っていた。それが仙人ノ湯である。泊るにはまだ少し早いし、先を急ぐ必要があるので、惜しくも夫を見捨てて右の本谷に入った。朗かな駒鳥の鳴声が沈滞した谷の空気を振わして、爽快な音波を鼓膜に伝える。夫に和して大瑠璃の囀りが近くの木の間から洩れ聞えた。この四、五日荒っぽい河音にいじけ切った耳には、何と微妙な調であったろう。暫くして渓が又二分する。左を取って行く間もなく又二つに岐れた。今度は右を取った。眺望がないので足の進みもおのずと早い。傾斜が次第に緩くなって、雪が絶えると深山榛みやまはんのき七竈ななかまど、白樺などの生えた草地に、紅花イチゴ、日光黄菅にっこうきすげなどが咲いていた。この草地は尾根の上まで続いて、其処は広い平になっている。木立もあるが森林という程ではなかった。四時十分。左に少し行くと仙人ノ池が叢に埋もれた一面の古鏡のように光っている、野営には誂向きの場所だ。其畔りに天幕を張り小屋を掛けて、火にあたりながら夕飯を済ますと、七時頃に大雨が降って来た。連日の疲れで今夜はぐっすりとよく寝た。夜中に時鳥ほととぎすの鳴く音を聞いたような覚えはあるが。

 四日。午前五時頃目が覚めた。外では焚火がパチパチ音を立てて燃えている。天幕から出て空を仰ぐと、曇ってはいるが高い巻層雲だ、眺望は四方に開けていた。間近い劒の八ツ峰から三窓さんのまどの頭へかけて簇立そうりつした岩峰の群が真先に目を惹く。此処ここから見ると三窓の頭は、三つばかりの尖峰が鋭く天を刺して直立している、一群の王者だ。右に三窓を隔てて小窓の頭が蹲踞そんきょし、左に続くやや低いが根張りの大きい頭の尖った二、三の峰は、近習であろう。それから一段低く六つ七つの岩峰が一列に押し並んで、円味まるみを帯びた峰頭を北に傾けて、稽首けいしゅしているかのさまがある。襞という襞は雪に埋められ、堅剛な肌は偃松に掩われて、ざらざらの岩屑などは何処にも見られない。何という素派らしさであろう、思わずヤアと声をかけて、のけ反らないではいられない気持になる。南には別山、真砂、富士の折立から、遠く野口五郎、南沢岳などが見え、北より東にかけては、猫又山から、朝日、白馬、やり、奥不帰、唐松岳に至る後立山山脈の山々が望まれた、さまざまな形をした残雪が山の特長を語っているのが懐しい。
 七時四十分、池ノ平に向って出発する。附近の林の中で鶯や目細めぼそしきりに鳴いていた。それに交って郭公かっこうの声らしいものも聞えた。草原を右に登って仙人山の頂上に立つと、東に五竜、鹿島槍の二山が仙人尾根の上に頭をもたげ、黒部別山の右に、舟窪の尾根を超えて、はるか大天井おてんしょう、常念あたりが朧げな姿を雲間に垣間見せていた。
 此処で助七の一行三人と別れることにした。今日の中に小黒部谷を下って村まで帰るのだという。用意に残りの米を与えその労をねぎらって、急ぎ足に遠ざかり行く後姿を暫く見送った。私達四人は荷を造り直すと、池ノ平の鞍部へは出ずに近道をして池の畔に下り、そこから右に岩径いわみちを伝いて小窓の雪渓に出で、やがて三窓の雪渓と合した北俣の河原を辿って、劒沢との出合に達した。九時四十五分。
 このあたりの様子は、四年前に来た時とは見違える程に変っていた。誰もがよく天幕の代用とした大岩の根元などは、大小の石に埋められて、河原も同様である。これから上流の劒沢も雪渓から下は木が繁り河筋も変って、全く面影を異にしていた。この狭い谷の中でさえ変れば変るものだと思った。八ツ峰の麓に当る雑木の茂った小山の裾を廻ると、河は稍右に折れて長い雪渓が始まる。まだ十一時で少し早いが昼食をすまし、一時間ばかり休んで雪渓を上りはじめる。真砂沢を過ぎ、長次郎谷を送り、平蔵谷を後にして、何処までも雪の上を辿って行く。登るに従って勾配の緩くなった雪渓は、次第に左へ廻って南を指すようになる。谷はいつしか扇形に開いて、岩が現われ雪が絶えると、間もなく別山裏の平に達した。この高原状の草地では、いつもゆっくり休みながら四辺を見廻して、山に来た幸福をしみじみ味わっていたのであるが、今日は天候が怪しく時間も遅いので、荷は重いが其まま歩み続ける。
 急な雪田を登って、別山乗越に着いたのは午後四時であった。北俣の出合から普通四時間の行程であるが、荷が重いので六時間余を費している。こんな重い荷を背負って谷を上ったのは初めてだ。三窓も長次郎谷も先年より雪が少ないように思われたが、地獄谷から室堂方面にかけては例年と変りはないようである。多数の噴湯丘を取り巻いて、離合集散する曲線と化した地獄谷内部の残雪のむれは、依然として縄紋土器に見られるような模様を現わしていた。午後から次第に荒れ気味となった空には雲が低く垂れて、雨気を含んだ南風が吹き募って来た。休んでいると汗にまみれた肌がべッとりとして余計に気持が悪い。それでもよく休むので、午後六時に疲れ切って漸く室堂に辿り着いた。
 五日は豪雨を伴った南の暴風が未明から荒れ狂っていた。一日滞在しようかとも考えたが、早朝ずぶ濡れになって登山した百余名を合せて、二百五十人に余る参拝者で、室堂の中は蜂の巣を突ついたような騒ぎだ、横になる席もない。中村君と相談して下ることに決め、返りの人夫を一人雇って午前八時に結束して下山の途に就いた。幾つかの小さな谷に沿い又谷を横切っている路は、濁流が滝のように奔下して、深さ膝を没し、どれが路やら河やら区別がつかず、足もとの危ないこと甚しい。上からは篠突く雨が横なぐりに叩きつける、全身濡れ透ってしまったが、それでも歩調はゆるめなかった。十二時、椈坂の茶屋にて中食。午後四時芦峅あしくらに達して、私達二人は宝泉坊に宿り、長次郎達は家が近いので帰って行った。麓では風は強くもなかったが、雨は終夜まなかった。
 明くる六日は曇っていた。朝春蔵(平蔵の弟)が訪ねて来ての話に、昨日雨を衝いて雄山おやまに登った参拝者の中に行方不明の者が二人あったということだった。午前八時頃迎いに来た長次郎達に送られて、昼頃五百石に着いた。そしてお互に黒部の谷奥で昨日の嵐に遭わなかった幸運を心から喜んだのであった。(大正八年十月稿、昭和十年七月七日補筆)
(昭和一〇、九『登山とはいきんぐ』)

底本:「山の憶い出 上」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年6月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 上巻」龍星閣
   1941(昭和16)年再刷
初出:「登山とはいきんぐ」
   1935(昭和10)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2013年10月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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