(一) 闇の収獲

 自分は画家であるが自分の最も好む事は絵を描く事でなくて『夜の散歩である』[#「『夜の散歩である』」はママ]。彼の都を当てどもなくあちこちとうろつき廻る事である。殊に自分は燈火すくなき場末の小路の探偵小説を連想せしめる様な怪しき暗を潜る事が無上に好きである。或冬の夜であつた。九時の時計の打つのを聞くとまた例の病がむら/\と頭に上つて来た。『さうだ。また今夜も「闇の収獲」に出掛けよう。』と外套をかぶつて画室の扉を出た我が足は、それから三十分の後には都の東北なる千住の汚き露地の暗中を歩いて居た。すると自分の前を一人の矢張り黒外套を被つた黒帽の男が行く。自分はその男が痛く酔つて居るのを見た。そして追ひ付いて抜け過ぎる瞬間、その男の横顔を覗き見た自分は思はず一条の水の奔ばしる様な戦慄を禁じ得なかつた。この世の物とも見えないばかりに青いその顔は、酒の為か不思議な金属的光沢を帯びて居る。暗中でよくはわからないが、真珠の如く輝くおぼろなる其眼の恐ろしさは、一秒も見続ける事が出来ない程だ。背高く年三十代の全体に何となく気品ある様子が自分の好奇心をひいた。自分はそこまでわざと男の後になつてそれとなく尾行して行くと男はあつちへよろめきこつちへよろけつゝ約一丁ばかり歩いたが、そこの見すぼらしい居酒屋の障子を見ると立止まつた。そして顫ふ手で障子を開けて中へ入らうとする途端『あゝまたいつかの狂人が来たよ。』といふ声が聞えて、男は力一杯外へ突き出された。そしてどすんと自分の胸に撞き当つた。自分は『どうしたのだ。』と酒屋へ這入つて問うた。『何あに、是は正真の狂人なので乱暴して困る物ですから。』とお神さんが弁じるのをなだめて、自分はこの男を酒屋へ連れ込んだ。ランプの光はこの男の全体を明かにした。自分は更に驚いた。狂人と呼ばるゝこの男の外貌に、如何にも品よき影の見える事である。自分は直覚的にこの男が或容易ならぬ悪運命の底を経て来た人間である事を見てとつた。そして非常に興味を持つて来た。『まあ君飲み給へ。』と杯を差せば男の恐ろしい容貌には或優し味が浮び、たゞ一息に呑み乾した。そしてじつと自分を見守つたが『ね君。俺は狂人ぢやあ無いんだ。決して決してさうではないんだ。』と言つたその眼には涙がにじんだ。その刹那自分はこの酔漢が溜らなく哀れになつて来た。抱きしめてつく/″\泣きたい様な気持になつて来て『さうとも、君が狂人な物か。』と叫んだ。徳利を更へる時分には自分はこの男を今夜わが家に連れ帰る事に決心してしまつた。『ねえ君。僕のうちへ行つてまた飲まうぢやないか、え、僕は独りぽつちなんだ。淋しくて溜らないんだ。君来て呉れるね。君。』すると此男はしばらくぼんやりした大きな眼で自分を見たが強くうなづいた。自分はすぐ二人で此居酒屋を出た。この男を扶けながら電車通りまで出ると、もう十一時であつた。リキユールを一本買ひ電車に乗りやがて自分の画室に帰り着いた。這入るなり彼は『お前は好い絵描だねえ。』と叫んで自分の首を抱いて頬を吸つた。ストーブを燃やしリキユールの杯を前にした時、彼は如何にも酔ひ果てて居た。その眼は何処か物哀しく何処か優しく何処か恐ろしく輝いた。そして自分に杯を差しながら『君はきつと聞いて呉れる、わかつて呉れる。お前にだけ話すのだからきいて呉れ。俺の愚痴を聞いて遣つて呉れ。』と言ひながら長々しいその経歴を物語つた時自分はこの男の正体の余りにも奇怪なのに戦慄した。以下はその物語であり文中『僕』としたのは彼自身の事である。

   (二) 考古学者と伯爵令嬢

 僕は名を戸田元吉と云ふ一考古学者である、と云へば却々偉さうに聞こえるが実はほんの道楽者である。と云ふのが僕の家は可成りの資産家で次男に生れた僕にも一生の生活には決して困らない丈けの分前がある所から大学を出は出たが、何一つ学んだ所なく出てからも何一つ是と云ふ仕事もしないで遊んで居るのである。しかしとに角職業に選んだ丈けに考古学や歴史には随分熱心であり小さな研究は絶えず遣りそれが為一年の三分の二は旅行に費やした。大学を出て二年目に僕は或伯爵の娘を妻に貰つた。この妻の豊子は少年時代からの知合で僕の世界中で最も好きな女であつた。僕は豊子の事を語り出づる時激しい苦痛なしでは居られない。此最愛の女を僕の此手が殺してしまつたのではないか、其薔薇色なりし頬、ルビー色なりし唇や、またそのあでやかに肥りたる肉体にめぐつた血液が、僕のこの手に惜し気もなく滴り落ちたのではないか。しかし僕はまた豊子の事を思はずには生きて居られない。たとひ自分の悪業の回想の苦痛に全生活の幸福を犠性にするとも、決して決して自分は豊子の事が忘れられない。彼女は実に立派な女であつた。そして活溌で男性的で大胆であつた。僕の生涯は彼女と一所になるに及んで忽ち燦爛と輝き始めた。かくて楽しき新婚生活の一年後の夏となつた。未だ子なき気楽なる二人は今年の避暑地の相談をした。『山と海とどつちが善いだらうな。』と言つた時彼女は『山。』と即座に答へたのである。そして彼女が行つて見たいと云ふ一地名を挙げた。それは信濃の山中にある。其処に豊子の友人の貴族の別荘がある。其れを借りようと云ふのである。僕も賛成しその貴族を訪ねて聞いて見た時一寸不安な気持がした、その人の話に依ると斯うである。その山荘は一族中の大層物好きな人の建てた物で大変な山の中にある。そして近来五六年はその周囲の山々に一大賊が手下を連れて出没し、方々の町村へ下りては殺人強奪を行ひ警察も手の付け様の無い有様。現在は別荘番夫婦を置いたのみで打棄てゝあると云ふのである。そして言を極めて行つてはならぬと忠告した。僕もそれで思ひ切る事にし、帰つて話すと豊子はきかない。何でもその山へ行かうと云ふ。そこで僕も強てその山荘を借り受ける事にし、いよ/\二人で出掛けた。
 同行は女中一人。今から思へば実に悪運命の始まりであつた。麓の村へ着いて頼んだ案内者は僕等がその山荘に一夏を過ごすと聞いて非常に恐怖の表情をした。そしてよした方が好いとすゝめた。何でもその賊は一種異つた人間で強奪を行ふ時必ず人を殺す、その方法は常に同一で鋭利な短刀で心臓を見事に刺してある、だから未だ曽て一人でも実際に賊を見たと云ふ者がない。見た者は必ず殺されるからである。故にその頭領は『人殺しの行者』と呼ばれて居る……。
 かゝる話を聞いて僕の不安は更に募つた。しかしさて別荘に着いて見ると僕等はそんな不安をすつかり忘れ果てた程満足に感じた。

   (三) 不可思議極まる石崖

 別荘は麓村から二里ばかり上つた所にある。深い谷に臨んだ崖の上に立つて居る、西洋建築で青く塗られた頑丈な家である。その二階から谷と共に向ひの山が真正面に見渡され実に絶景である。豊子は子供の様に悦んで自分の眼利きを誇つた。
 或時僕はこの辺り一体の山々の脈状を見て来ようと思ひ立つた。そして早く別荘を出た。『呉々もあつちの山へお這り[#「お這り」はママ]なさいますな。』と云ふ老人の声が何となく神秘的に聞こえるのをあとに残して別荘の上の山へと上つて行つた。この辺の山々は人が多く這入らぬので道は殆んど足あとの続きに過ぎぬ。僕は唯一人道を求め求め上つた。夏の晴れた日だから、随分上るのに息が切れて、丁度その山の頂上と思はれる地点に来た時は午後一時時分であつた。しばらく休んでからまた下り始めた。すると、僕は知らぬ間に道を見失つてしまつた。そして非常にわづらはしい雑木林の中へ落つこちてしまつた。仕方なく磁石を頼りにずん/\其中を伝ひ下つた。するとやがて一つの傾斜した谷へ出た。其処で憩つて居る時僕は興味ある事を発見した。それはその渓谷に沿うて一列の石が走つて居る事である。それは決して自然に出来た物ではない。人工で立体に切つた石の列である。そして非常に年代を経た物である、自分は興味に乗り出した。この列石はよく考古学者の問題となる称類に属する物であるからだ。そこでその列石を尾けてこの谷を下り始めた。石は或は地に埋没し或は木にかくれつゝ、谷に沿うていくらでも続いて行く。およそ一里許りも行つたかと思ふ中にいつしか見失つてしまつた。そしてぼんやりして向ふを見るとすこし上つた所に変な石崖が見える。確に人工の物である。僕はすぐそこまで上つて見た。そしてよく調べると、その石崖の一寸一目で分明らない部分に一つの小さな入口がある。そして扉が開いて居る。それは諸国にある穴居の遺蹟によく似通つた物である。僕の好奇心は湧いて来た。すぐその小門から中へと這入つて行つた。這入つて暫らくは、道は水平で這はなければならぬ程狭い所もあり、中途でずつと広くなつて、中腰で立つて歩ける様になると共に傾斜し始めた。そして所々で角になつて居る。よく考へると道は螺線状に這入つて行くらしいのだ。懐中電燈の光でずん/\と伝つて行く。

   (四) 物をも言はず捕縛

 やがて余程這入つたかと思ふと道が尽きて大きな石室へ出た。懐中電燈の光で照して見ると、此処はすつかり石で張つた高さ一間半四方位の室で、内部は空虚であり右手に次の室に通ずる口がある。一体何の為に地下にかゝる室があるのだらう。古代の墓かそれとも住居か。地上を探して見るが何の紋様もない、土器の破片の外何も落ちて居ない。そこで右の入口から次の室へ這入つた。次の室もほゞ同形である。懐中電燈の光を中央部に向けた時僕は昂奮した。そこには長方形の石棺が置かれてある。して見ると此は古代の墓所であつたのだ。それに近づいてよく検査した時『是は意外な発見だ』と思つた。それには推古時代の物と推定し得る紋様がある。そして奇妙な唐草が棺の蓋に着いて居る。『どうしてこんな山中にこんな貴族的な棺があるのだらう』と思ひつゝその唐草を精密に見て居ると僕はふと奇妙な事を発見した。それはその石蓋の横面に当つて一つの石の割目が着いて居てそれから垂直に棺に線が這入つて居る。驚いた事には棺の横面は一枚の戸になつて居るのだ。変だなと思つてその戸をいぢつて見るが開かない。ふと偶然に手が蓋の隅にある一つの花の彫物にさはつた。するとその花ががた/\動くのである。僕が指でそれをぐつと推した時不思議や棺の横はがたんと下へ下りた。そして覗き込むと棺の下は縦坑になつて居るのであつた。その中から微かに灯の光が反射する。僕はぎよつとした。『この中に人間が居る。』と思ふと同時に忽ちあの賊の噂を思ひ出した。さては俺は別荘番の言つた向ひの山へ這入つたのだなと思つてよく考へると確かにさうである。山はU字形になつて居る物だから、あの谷を伝ふ内にこつちへ這入つてしまつたのであつた。して見るとこの中には賊共が居るのだ。さう考へると一条の戦慄が全身を襲つたが、しかし僕は随分胆は太い方であり旦その場合非常に落着いて来た。一つそつと中の様子を見てやらうと思ひ立つた。この縦坑は四五尺で横坑になつて居る。灯はその先からもれるのである。僕はそつと身をしのび入れた。そして横坑へ下りた。身を屈めて灯の方へ這つて行くとこの横坑の先は或大きな室の壁と天井との境に開いて居るのを悟つた。そつと首を出して室内を見下ろさうとした刹那、何者かの太い手が僕にとびついたかと思ふと僕はずる/\と室内へひきずり落された。有無を言はせず僕の身体は二人の恐ろしい相貌の男に縛られてしまつた。そしてその室の左手の戸を開いて次の室へと突き出された。僕はびつくりした。この室は実に華麗な室で壁は真紅の織物に張られ瓦斯の光晃々として画の様である。中央の椅子に一人の立派な男が坐して居る。男達は僕をその前に引据ゑた。その時僕は顔を上げてこの男の顔を見上げるとふとその顔に見覚えのある様な気持がした。そしてじつとその顔を打眺めた。未だ三十代の、若い鋭い顔立の如何にも威ある男である。その眉は濃く眼は帝王の様な豪放な表情を有つて居る。忽ち僕は思ひ出した。『さうだ。是は彼だ。是こそ久しく会ひたく思つて居た彼の野宮光太郎だ。』と。

   (五) 不良少年と美少年

 此で僕は話をすこし変へなければならない。それは未だ僕が中学の三年時分であつた。僕は当時中学によくある様に美少年だと云ふ評判を専らにして居た。多くの年長者から愛せられたが此野宮光太郎程僕に深い感銘を与へた人物は無かつた。彼は当時五年級であつた。教師側からは蛇蝎の様に思はれて居た不良少年であつたが、奇体に生徒間には神の様な権力を振つて居た。まつたく彼には不可思議なチヤームがあつた。彼は沈黙家で色青白く常に恐ろしくメランコリツクな顔つきをして居た。腕力は恐る可き物があり柔道撃剣ランニングあらゆる運動に長じて居た。彼はよく争闘をしたが非常に遣口が残忍執拗で、彼と喧嘩した者は必ず恐るべき苦患を受けなければならなかつた。学校教師さへ彼に向つては何事も命令されない位彼を恐ろしがつた。成績は劣等であつたが何故か数学のみには異常な才能を持つて居り、またそれを好んだ。僕と彼との交際は一年生の時から始まつた。彼は僕に恋し僕を自分の家へ始終いざなつた。そして毎日彼とばかり遊んだ。彼は両親なく独りぽつちで、或寺院の一室を借りて可成り贅沢に暮して居た。僕には決して悪い事を教へなかつたから僕はすこしも彼の悪い感化を受けなかつた。しかし僕の家庭では野宮と遊ぶ事を禁じたが、禁じられる程僕は彼に執着し、遂には病的な強い恋情をさへ起す様になつた。丁度野宮が五年級の始めあたりから彼は催眠術の研究をしきりに遣り始めた。そして僕は常にその相手をさせられた。常時野宮に依つて眠らされる事が異常な快楽であつた。眠れる間何んな事をしたかはすこしも覚えないのであるが、野宮が様々な力法を眠らす為に施す時言ひ知らぬ嬉しさを感じた。そして遂には野宮の一瞥で全然自己意識を失つてしまふ位になつた。野宮の方でも余程この術に巧になつたらしかつた。かくて僕が四年級に上つた春彼はもう学校を出なければならなくなつた。彼は或数学の学校に這入ると言つた。その学校は東京にあり我等の中学は九州の田舎にあるのだから、二人の別れる可き日は来た。別れる日彼は真実に涙を眼に浮べて僕の手を握つたので僕も泣いてしまつた。その時彼は次の如き事を厳かに言つてきかせた。『俺は俺自身で或恐ろしい運命が未来に横はり、俺はどうしてもその運命の中に生きなければならない事を直覚する。そして君も必ずその運命にたづさはる事であらう。我等の再会は必ずさう云つた場合に来るであらう。』と。僕はどう云ふ意味だかよくわからなかつたが、そのまゝ別れた限り遂に今まで会はなかつた。彼が東京へ出て間もなく、ある争闘をして人を斬り行衛不明になつたと云ふ噂と共に彼の消息は絶えてしまつた。僕はやがて高等学校に入り東京で生活する様になつてからも、彼の事は決して忘れる事が出来なかつた。彼の名を思つても涙がにじむ程の思慕が、いつになつても止まなかつた。それは大学を出る頃までも続いた。そしてどうかして一目会ひたい会ひたいと思ひ度々探して見たがわからなかつた。しかし妻を貰つてからは一度も彼の事を思はぬ様になつて居た。その彼に、あゝ今この怪しい地下室で遇ふとは実に夢の様である。

   (六) 俺は人殺しの行者

『おゝ君は元さんではないか。』と彼も叫んだ。そしてすぐ僕の縛しめを解いて呉れた。『随分年をとつたね。』と言ひながら別の椅子を僕にすゝめ、さて席定まつて彼と僕とはつく/″\と見つめ合つた。僕はたゞ茫然として何の考も出ない。唯彼の相貌が著るしく鋭利に神経的になつた事に特に気がついた。そして段々見て居ると彼が如何にも美しくなつた事がわかる。僕は嬉しくなつた。長い間気に掛け会ひたく思つて居た彼に、かく相対し得たと云ふ満足が彼の現在の位置に関する疑問をも僕の心に起させなかつた。
『君と此処で会はうとは思はなかつた。』と僕は言つた。すると彼は静に言つた。
『否。俺はこの再会をとうから予想して居た。よく君は来て呉れた。そらいつか俺が君と別れる時言つた言葉を覚えて居るか。あの時君が必ず俺の或運命にたづさはる可き事を予言したが果して[#「果して」は底本では「果した」]君は来たね。是は実に必然の事であつた。』かく彼が言つてその眼光を僕の心の底深く投げた時、僕ははつと此奇異なる地底の人物が僕と昔容易ならぬ交情のあつた人物である事を意識しそれと共に『現在の彼』に対する責任と疑問と警戒の念慮が胸に湧き起つた。非常に不安になつた。『全体君は現在何の為にこんな所に居るのだ。』と問ひ掛けると彼は微笑した。そしていきなり椅子を進めて僕の両手を握り占めた。『俺が何故こんな場所に居るか。現在の俺が何であるかを君に明に話さう。俺の事をこの辺り一体の人間共が「人殺しの行者」と異名して居る。それは真実だ。俺は人を殺したい為に此んな穴の中に潜んで居るのだ。』
 僕は青くなつた。さてはかの噂に聞いたる大賊の首領と云ふのは実は僕の常に慕つて居た昔の義兄弟であつたのか。僕は昂奮して勝ち誇れるが如き彼の面を見つめた時に突如強い意志が心中に現はれた。すでに僕には今最愛の妻がある。今此処に居る美しく強力なるわが友は嘗てはわが世界の占有者であつた。しかるに今はわが世界は豊子の物である。野宮はすでに他人である。しかも悪む可き大犯罪人である。僕は断じてこの友に抗しよう。僕が沈黙せるを見て彼は再び怪しく微笑んだ。そして握つた手を固く振つて言つた。『君は今まで一刻も僕の事を忘れた事が無かつたらう。僕も一刻も君を忘れ得なかつた。そしてかくも再会の日は来た。君と僕とはまた相別れる事なく共に生きて行かうではないか。僕が今切実に君に教へる事がある。それは実に地上最高の歓楽だ。それは殺人の歓楽を君に教へようと思ふのだ。』僕はぎよつとした。彼の音楽的なる言葉は僕をみるみる内にひきつけようとする。彼はかの不思議なる中学時代の魔力に更に十倍した魔力を以て僕を自分へ引つけようとするのだ。しかも僕は[#「しかも僕は」はママ]握られたる手を払ひ退けた。そして彼を睨みつけて叫んだ。『君は何を言ふんだ。僕と君との親交はすでに昔の事だ。今は僕に妻がある。僕はその女を熱愛して居る。彼女以外僕の生活には何物もない。犯罪者の弟子には僕は勿論ならないのである。早く僕をこの坑から外へ出して呉れ。君と僕とはもう永久に友人とならないのだ。』

   (七) 奇怪なる暗示

 彼は依然として微笑した。そして僕をなだめる様に手を振りながら説き始めた。『君はさう言ふのか。それは当然だ。すでに君が俺に執着のない以上決して強ひてとは言はない。しかし俺は永劫に君に執着して居る。俺は必ず君にまた僕に対する[#「僕に対する」はママ]執着を持たして見せる。それで俺は俺の思想を一言君に物語らう。堅く君に告げよう、およそ君にとつて殺人ばかりの快楽は此世界に求められないのだ。君が若し人生の美味なる酒を完全に飲み乾したければ君の手は殺人に走らなければならない。俺の友とならなければならない[#「ならなければならない」は底本では「ならければならない」]。俺はすでに二百九十八人の人間を殺した。俺の此殺人の修道は世界の最も秀れた芸術であり最も立派な宗教であることを信ずる。君よわが見たる内最も美麗なる少年なりし君よ。その美しき手を生命と共に奔ばしる人間の鮮血に濡らす気はないか。』『否。否。其様な恐る可き事をもう僕の耳に入れて呉れるな。決して入れて呉れるな。』と耳に手を当て僕は叫んだ。彼はそのまとひたる金色の着物の間から一声から/\と打笑うた。恰もその様な悪魔が何物かを嘲笑するに似て居た。そしてすつくと立上つて静かに僕の顔を打見守つた。
 僕も怒りに顫へてその面を睨みつけると不思議や忽ち眼前に一切は雲煙と化して、恐ろしい二つの眼が星の如くに光るかと思ふ間に、全然意識は消え失せてしまつた。
 ふと耳元に或さゝやきを聞いて再び眼を開いて見れば僕はいつの間にか別荘の門前に横はつて居る。驚いて起き上ると薄暮の暗中に立てるは彼野宮光太郎であつた。起き上ると同時に、厳かな声で次の如く叫んだかと思ふと忽然彼の姿は見えずなつた。『さらば第五日の夜半にまた会はう。』僕はしばらくあと見送つたがまず/\家へ帰れたと思ふと嬉しくなりそのまゝ中へ駆け込んだ。豊子は帰りの遅いのを心配して居た矢先大変悦んだ。彼女の顔を見て始めて生きかへつた様な気持になつた。しかし僕は出会したこの怪しい事物に関しては誰にも何事も話さなかつた。何だか言つては悪い様に感じたのである。それにしても僕はどうして知らない間にこゝまで送り返されてしまつたのであらう。僕は気が付いた。さうだ。彼は催眠術を使つたのだ。催眠術――此言葉は僕を非常に不安ならしめた。若しかすると僕は何かの暗示を受けてしまつたかも知れないぞ。彼はいつか睡眠中の暗示が覚醒後尚有効なる事を語つた。その後多年必ず彼は多くの方術を体得したに相違ない。彼はしかも『第五日の夜にまた会はう。』と言つた。僕は俄に恐ろしくなつた。その夜豊子にもう帰らうと提議したが豊子は大に笑つて僕の臆病をくさした。豊子だつて僕が山中で会つた事を話せば必ず帰京に同意したらう。けれども僕はどうしてもその事を人に言ひ得ないのであつた。一種不思議な力がわが唇を止めたので。

   (八) 眼が血走つて来た

 その翌日から僕は何となく変調を呈して来た。何となくぼんやりし直ぐ眠たくなる。その癖発陽性が著しくなり、見る物聞く物皆面白い。嬉しくて手先が独りで躍り出す。頗る突飛な幻想が絶えまなく頭を襲ふ、僕は我知らず大声で唄つたり別荘の周囲を子供の様に馳け廻つたりした。豊子もすこし驚いたが彼女が元来活溌な性質なのでかへつて悦こんだ。僕はまた豊子に対する愛着が激しくなり毎日々々彼女と共に別荘近くを散歩しては花を摘んだり小鳥を撃つたりした。家へ帰ると一所に酒壜を傾けて飲んだ。こゝは高地であるから夏とは言ひながら春の様な気候である。僕はこの快さが無暗に好きになつた。そして目前にある危険がせまりさうなのをよく悟りながらこの山中を去らうとしないのであつた。こゝに一つの不思議なことがあつた。それはそれからと云ふ物僕が殆んど毎夜同じ夢を見る事である。その夢と云ふのは斯うである。僕は一人或山頂に立つて居る、右と左とに大きな谷がある。右の谷底には実に美麗な都会がぴか/\輝いて居る。然るに左の谷底は大きな湖水になつて居る。よく見るとそれは血の湖水だ。また空を仰げば真紅の星が一箇魔女の眸ざしの如く明かに澄み輝いて居るのである。自分は唯ぼんやり腕組してたゝずんで居る。是だけの事である。その夢を毎夜きつと見るのである。しかしいつもの自分ならそれを変だと感じもしようが妙ちきりんな状態にある僕はそんな事は格別気にも掛けないで矢張りのらりくらりと絶えず落着かず、少し本を読んだかと思ふとすぐ煙草を眩ひする程吹かす、画を描くかと思ふと鉄亜鈴をいぢる、その内に眠る、すぐ醒める、殆んど狂噪の状態であつた。かゝる状態にあると云ふ事は自分によくわかつて居るのである。しかもそれを好んで遺る様な二重の精神状態になつて居るのであつた。
 こんな有様で四日は過ぎた。五日目の朝になると僕は激しく四日前山中で会つた事物を思ひ出した。そして何とも言ひ難い恐怖に打たれた。『この山荘に居ては必ず何か危険があるのだ。第五の夜半にはつまり今夜にはまたお前は野宮と顔を合はせなければならぬのだ。だから早く今日の内に山を下りてしまへ。一刻も早く早く。』と内心の声が僕を叱咤する、その癖僕は相不変のらくらとその日を送つてしまつた。その日妻は殊の外打沈んで居たがじつと自分の顔を見つめては、『貴方どうかなさりはしなくつて。眼が妙に血走つてゝよ。』と云ふのである。豊子は余り僕の調子が異常なのですこし心配し始めたのである。
『何あに、何でもないのさ。唯僕は愉快なんだ。べらばうに。俺が愉快な時にはお前も愉快にしなければ不可ない。』と変に踊りながら庭園を歩いた。然るにその日の午後四時頃になると僕は自分の脊髓が妙に麻痺するのを感じた。そして眠たくなつた。強ひて眼を開けて居ようと思ふがどうしても開いて居られない。遂に寝室へ這入つて寝台の上に打倒れたまゝ昏々と眠つてしまつた。やがてふと夢から覚めた、見廻すとすでにすつかり夜となり横の小卓の上にはラムプが点つて居る。懐中時計を見るともう十一時である。隣の寝台の上には豊子が静な寝息を通はせて眠つて居る。僕ははね起きてしばらくじつと頭を押へて居ると今夜の僕の心は非常に澄み切れる事を感じた。何だか今から庭園を散歩したくなつた。
 そこで横に眠れる豊子をゆり起した。『何あに。』と純白の寝衣姿なる豊子は起き上つた。『今から庭をすこし歩いて見よう。』すると是まで決して僕に逆らつた事のなかつた彼女が今夜はどうした物か『妾今夜は止します』と言つてまた横になる。僕は大変腹立たしくなつた。そして『ぢや勝手にしろ。』と言ひ棄てて独りで出掛けようとすると豊子も矢張り起上つて『ほんとに変な方ね。』と言ひながら尾いて来た。

   (九) 青鞘の短刀で一刺

 我々の家の庭前は崖の上にあつて面積が随分大きい。そして起伏限りなく夜などは懐中電燈でもなければ危険である。僕は豊子に言ひつけて懐中電燈を洋服のポケツトからとりに遺つた。彼女は走つて行つたが、やがて手に電燈と、もう一つ変な物とを持つて帰つて来た。それは青い皮の鞘にはまつた一振の短刀である。
『貴方これどうなさつたの。洋服のポケツトから出てよ。』僕はびつくりした。『俺も知らないよ。一寸見せろ。』調べて見ると、是は刺すのに使ふ西洋式の実に鋭利な短刀である。変な事もある物だ。あの洋服ももう四五日着ないのだが、ひよつとするとあの山中の洞穴の中で入れられたのかも知れない。恐ろしい気持でそれを懐中し二人は庭に出た。今夜の天はすこし雲つて真の暗黒である。かなたを見ると山の影がおぼろに黒く空に立つて山中の深夜の威圧は限りなく身にせまつた。二人は無言で歩き廻つた。やがて庭園の最端谷を直下に見下ろす場所に来た時谷を見下ろして居た僕はふと一つの真紅の燈火が向ひの山の中腹の辺に点つて居るのを見つけた。よくよく見るとその燈火がしきりに右に動き左に動く。こゝから山までの距離に依つて考へて見るとそれは確に大きな提灯を人が振るのである。眺めて居る内に僕の連想はいつしかかの怪しき星の夢に来た。あの星だ。さうだ。あの赤い星にそつくりだ。尚じつと見て居るとその燈は輪状に或は上下に打振られる。その燈は何かの信号を伝へて居るのだ。僕の心は怪しくも打慄へた。段々見て居る内に僕は妙な気持になつて来た。忽ちはつとなつた。見よあの燈は明かに豊子を殺せと叫んで居る。『豊子。豊子。お前にはあの燈が見えるか。』と豊子に言ふと豊子は僕によりそつて暗をすかし見た。その刹那僕の懐中した手がさつと空を指したと思ふや否や水の様な悲鳴が僕の喉の下で起つた。
 吾に帰れば驚ろくべきかな僕は最愛の妻豊子をかの青鞘の短刀で一撃の下に殺害した後であつた。短刀は見事に豊子の心臓を刺し貫いたので、僕の手は真赤な熱い血に濡れた。夜目にも白いその顔を上に向けてがつくりと地に横たはつて居る。僕は茫然としてしまつた。懐中電燈を拾ひ上げてつく/″\と豊子の顔を照らし見た時涙は眼中に満ちて来た。何故俺は豊子を殺したのであらう。遂に殺人者になつてしまつたかと云ふ事の外何を考へる余地もなかつた。力なく立上つて山の方を見つめるとかの怪しき信号の燈はもう消えて居た。ぽんと背中を打つ者がある。驚ろいて振りかへると、そこには黒装束をした者が盒燈を提げて立つて居た。『誰だ。』と僕が顫ふ声で叫んだ時人物は燈を高く差上げて自己の顔を照らして見せた。野宮光太郎の鋭い相貌が真青な光を帯びてそこに笑つて居た。

   (十) 殺人行者の仲間入り

 僕はその夜の内にかの山中の洞穴へ連れて行かれた。今から考へて見ると僕の真の意識はかの野宮に始めて会ひ人事不省に落ちた時以来野宮の恐る可き催眠術の為に何処かへ隠れてしまつて居たのであつた。実に浅ましい事には僕は妻を殺害した事に就て或感動は受けたが、何の悔恨の情も起らなかつた。
『さあもう俺は君を君の妻君の手から奪ひとつたのだ。是から君はこの洞穴に住まはなければならないのだ。』野宮が言つた時僕はもう此うなれば仕方がない。俺は野宮の云ふ通りにならうと決心してしまつた。そして野宮に是から永久に離れまいと答へると彼は満足げに微笑した。そして二人は酒を飲み再び兄弟の約束を誓つた。野宮はすつかり彼が首領たる賊団の秘密を語つた。それに依ると彼には十人の秀でた手下がありその下には尚無数の手下がある。それ等は此洞穴と同じ様な隠れ場所が七つこの一帯の山脈中のかなたこなたにあるがそれに住んで居るのである。彼等はすべて青鞘の短刀を持つて居る。是は仲間だと云ふ印にもなるのである。彼等ははるか遠方の町々にまで下りて行つて殺人強奪を事として居る、彼等の殺人は強奪の為の手段ではなくして殺人の為の殺人である。是が野宮の恐るべき手段なのである。あゝ僕も実にその夜からこの宗教の信者となり終つた。翌日手下の一人はかの別荘の偵察をしたが別荘では豊子が矢張り野宮一団の手に殺害され僕もそれと同時に何処かへ連れ去られたか殺されたかにして居る。女中は泣く泣く豊子の死体と共に今朝山を下り麓の警察では大騒ぎをして居ると云ふ事をしらせた。それを聞いて僕は当時殆んど平然として居りむしろ鼻で笑つて居た。何と云ふ浅ましい事であつたらう。
 それから以後僕が如何なる所業をして居たかは好奇なる我画家よ、どうか僕を許して呉れ。僕は一々回想する苦痛に耐へないのである。
 風の如く飛び去つてしまふ事が出来た。
 かくして僕は以後五箇月山中にかゝる残忍至らざるなき生活をした。その間で僕は二十三人の男女を手づから殺害したのである。実に僕は不思議に殺人に対する才能をこの山に入りこの行者と共に生活する内に得てしまつたのであつた。かくて僕も遂に『殺人行者』となりすました。そして僕の一生はこの残忍なる快楽生活の内に盲目とならうとした。
 あゝしかし天は僕を救つた。今の此苦痛の海中を潜るが如き生活にしろ兎に角尋常の生活に僕を復して呉れた天に僕は感謝する。五箇月目の或雪の日僕は独り今は全然廃荘となつて鼠一つ住まぬかの山荘へ来た。そして妻を殺した場所に独り佇んだ。その時俄に発した全身痙攣の為に地上にひつくりかへつた僕は、そこの大きな岩で酷く頭を打つて一時気絶してしまつた。ふと眼が覚め痛む身体を押へつゝ立上つた。

   (十一) 狂人か将酔漢か

 僕はほつと息をしつゝあたりを見まはした。其時僕は始めて覚めた。一切から覚醒した。野宮の恐る可き魔術の暗示は今頭を岩で酷く打つた拍子にその効果を失つたのであつた。僕は静に過去の悪行を考へた。第一に豊子の事を思ひ、涙はさめ/″\と凍れる我頬の上を伝つた。『許して呉れ。豊子。』と僕は叫んだ。二度も三度も大声で叫んだ。俺はわが妻を殺したのだ。何十人と云ふ罪なき生命をうばつたのだ。たとひそれが野宮の暗示に依つて行はれたとは云へ現在この自分の手からそれ等の人々の黒血はわが良心に向つて絶えざる叫びを上げるのである。僕は無自覚なりし以上五箇月の所業を自己意識を得て後悉く明かに回想し得るのである。是れ程残酷な事がまた世にあらうか。
 僕はそのまゝ痛む身体を以て麓まで下りた。けれど警察では僕の言を信じなかつた。僕は東京へ送り帰された。僕は極力自己の罪ある事を述べ立てたが誰も信ずる者はなかつた。僕の所業一切は彼野宮光太郎の所業として扱はれた。そして警察は僕が妻の死を悲しんだ余り精神錯乱せる者と見倣してしまつた。僕は遂に狂人にされてしまつた。
 以上がこの酔漢の物語りであつた。自分は聞き終つた時世の運命の残酷なる斯の如きものあるかと思つて慄然たらざるを得なかつた。翌朝目覚めたる彼は自分の留めるのもきかず無言のまゝで出て行つた。自分はあとを追つて外へ出て見るともう彼の姿は見えなかつた。自分の心は何となく暗くなつたのである。それから二日目の朝の新聞紙に彼の失踪広告が出て居た。自分はすぐ彼が自分の画室に宿つた事を知らせて遣つた。然るにその手紙も未だ着かざる可きその日の夕刊にて自分は彼哀れむ可き考古学者戸田元吉が佐竹廃園の丘上に他殺されその死体が発見された事を知つた。そして思はず自分の眼に手をやつた。数行の記述は次の如くであつた。『長さ約八寸青き柄の鋭利なる短刀心臓を見事に貫き其まゝに残しあり。』あゝかの恐る可き『殺人行者』の一味は未だ暗に活躍しつゝあるのである。

底本:「村山槐多全集」彌生書房
   1997(平成9)年3月10日増補2版発行
※『夜の散歩である』は、おそらく括弧は「夜の散歩」だけにかかると思われる。
※「お這り」は、「お這入り」と思われる。
※「しかも僕は」は、「しかし僕は」と思われる。
※「僕に対する」は、「俺に対する」と思われる。
入力:小林徹
校正:高橋真也
1999年3月2日公開
2006年4月24日修正
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