巨大な四角いビルディングである。
 窓という窓が残らずピッタリと閉め切ってあって、へやという室が全然、暗黒を封じている。
 その黒い、巨大な、四角い暗黒の一角に、黄色い、細い弦月が引っかかって、ジリ、ジリ、と沈みかかっている時刻である。
 私はその暗黒の中心に在る宿直室のベッドの上に長くなって、隣室と境目の壁に頭を向けたまま、タッタ一人でスヤスヤと眠りかけている。
 私は疲れている。考える力もないくらいむたがっている。
 私の意識はグングンとゼロの方向に近づきつつある。無限の時空の中に無窮の抛物線を描いて落下しつつある。
 その時に壁一重ひとえ向うの室からスヤスヤという寝息が聞こえて来た。私の寝息にピッタリと調子を合せた、私ソックリの寝息の音が……静かに……しずかに……。
 ……壁一重向うの室にモウ一人の私が寝ているのだ。私の頭の方に頭を向けて、私の寝姿を鏡に映したように正反対の方向に足を伸ばしつつ、スヤスヤと睡りかけているのだ。
 ……その壁の向うの私も疲れている。考える力もないくらいむたがっている。そうしてその意識がグングンと零の方向に近付きつつある。無限の時空の中に、無窮の抛物線を描いて……グングンと……。
 私はガバと跳ね起きた。眼がパッチリと醒めた。隣の室がのぞいてみたくなった。
 しかし私は闇暗くらやみの中で半身を起したまま躊躇ちゅうちょした。もし隣の室を覗いた時に、私と同じ私がスヤスヤと寝ていたとしたら、それはドンナに恐ろしい事だろう……とはいえ又、万に一つ隣の室に誰も居なかったとしたら、その恐ろしさが何層倍するだろう……と……。
 私はそう思い思い何秒か……もしくは何分間か、眼の前の闇暗くらやみの核心をジーッと凝視していた。凝視していた……。
 ……と……そのうちに或る突然な決心が私に襲いかかった。その決心に蹴飛ばされたように私は、素跣足すはだしのまま寝台を飛び降りた。宿直室を飛び出して、隣の室に通ずる、暗黒の廊下を突進した。
 ……するとその途中で何かしら真黒い、人間のようなものと真正面から衝突したように思うと、二つの身体からだがドターンと人造石の床の上にたおれた。そのままウームと気絶してしまった。
 巨大な深夜のビルディング全体が……アハ……アハ……アハ……と笑う声をハッキリと耳にしながら……。

底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年8月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:しず
2000年5月19日公開
2003年10月24日修正
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