おごそかに明るくなって行く鉄工場の霜朝しもあさである。
 二三日前からコークスをき続けた大坩堝おおるつぼが、鋳物いもの工場の薄暗がりの中で、夕日のように熟し切っている時刻である。
 黄色い電燈の下で、汽鑵ボイラー圧力計指針はりが、二百封度ポンドを突破すべく、無言の戦慄せんりつを続けている数分間である。
 真黒くすすけた工場の全体に、地下千しゃくの静けさが感じられる一刹那せつなである。
 ……そのシンカンとした一刹那が暗示する、測り知れない、ある不吉な予感……この工場が破裂してしまいそうな……。
 私は悠々と腕を組み直した。そんな途方もない、想像の及ばない出来事に対する予感を、心の奥底で冷笑しつつ、高い天井のアカリ取り窓を仰いだ。そこから斜めに、青空はるかに黒煙を吐き出す煙突を見上げた。そのななめに傾いた煙突の半面が、あさひのオリーブ色をクッキリと輝かしながら、今にも頭の上に倒れかかって来るような錯覚の眩暈めまいを感じつつ、頭を強く左右に振った。
 私は、私の父親が頓死とんしをしたために、まだ学士になったばかりの無経験のまま、この工場を受け継がせられた……そうしてタッタ今、生れて初めての実地作業を指揮すべく、引っぱり出されたのである。若い、新米しんまいの主人に対する職工たちの侮辱と、冷罵れいばとを予期させられつつ……。

 しかし私の負けじ魂は、そんな不吉な予感のすべてを、腹の底の底の方へ押し隠してしまった。誇りかな気軽い態度で、バットを横啣よこぐわえにしいしい、持場持場についている職工たちの白い呼吸を見まわした。
 私の眼の前には巨大なフライトホイールが、黒いにじのようにピカピカと微笑している。
 その向うに消え残っている昨夜からの暗黒の中には、大小の歯車が幾個となく、無限の歯噛はがみをし合っている。
 ピストンロッドは灰色の腕をニューと突き出したまま……。
 水圧打鋲機だびょうきは天井裏の暗がりをにらみ上げたまま……。
 スチームハムマーは片足を持ち上げたまま……。
 ……すべてが超自然の巨大な馬力と、物理原則が生む確信とを百パーセントに身構えて、私の命令一下いっかを待つべく、飽くまでも静まりかえっている。
 ……シイ――イイ……という音がどこからともなく聞こえるのは、セーフチーバルブの唇をるスチームの音であろう……それとも私の耳の底の鳴る音か……。
 私の背筋を或る力が伝わった。右手がおのずから高くあがった。
 職工長がうなずいて去った。

 ……極めて徐々に……徐々に……工場内に重なり合った一切の機械が眼醒めざめはじめる。
 工場の隅から隅まで、スチームが行き渡り初めたのだ。
 そうして次第次第に早く……ついには眼にも止まらぬ鉄の眩覚が私の周囲から一時に渦巻き起る。……人間……狂人……超人……野獣……猛獣……怪獣……巨獣……それらの一切の力を物ともせぬ鉄の怒号……如何いかなる偉大なる精神をも一瞬のうちに恐怖と死の錯覚の中に誘い込まねばかぬ真黒な、残忍冷酷な呻吟しんぎんが、到る処に転がりまわる。
 今までに幾人となく引き裂かれ、切り千切ちぎられ、タタき付けられた女工や、幼年工の亡霊をあざける響き……。
 このあいだ打ち砕かれた老職工の頭蓋骨ずがいこつ罵倒ばとうする声……。
 ずっと前にヘシ折られた大男の両足を愚弄ぐろうする音……。
 すべての生命を冷眼視し、度外視して、鉄と火との激闘に熱中させる地獄の騒音……。
 はるかの木工場からむせんで来る旋回円鋸機せんかいえんきょきの悲鳴は、首筋から耳の付け根を伝わって、頭髪の一本一本ごとみ込んで震える。あの音も数本の指と、腕と、人の若者の前額ぜんがくを斬り割いた。その血しぶきは今でも梁木はりきの胴腹に黒ずんで残っている。

 私の父親は世間から狂人扱いにされていた。それは仕事にかかったが最後、昼夜ブッ通しに、血も涙もない鋼鉄色の瞳をギラギラさせる、無学な、醜怪な老職工だからであった。それがこの工場の十字架であり、誇りであると同時に、数十の鉄工所に対する不断の脅威となっていたからであった。
 だから人体の一部分、もしくは生命そのものを奪った経験を持たぬ機械は、この工場に一つもなかった。真黒い壁や、天井の隅々までも血の絶叫と、冷笑がみ込んでいた。それ程左様さようにこの工場の職工連は熱心であった。それ程左様にこの工場の機械は真剣であった。
 しかも、それ等の一切を支配して、鉄も、血も、肉も、霊魂も、残らず蔑視して、木ッ葉の如く相闘わせ、相呪わせる……そうして更に新しく、偉大な鉄の冷笑を創造させる……それが私の父親の遺志であった。……と同時に私が微笑すべき満足ではなかったか……。
「ナアニ。やって見せる。児戯に類する仕事だ……」

 私は腕を組んだまま悠々と歩き出した。まだまだこれからドレ位の生霊を、鉄の餌食えじきに投げ出すか知れないと思いつつ……馬鹿馬鹿しいくらい荘厳な全工場の、叫喚きょうかん、大叫喚を耳に慣れさせつつ……残虐を極めた空想を微笑させつつ運んで行く、私の得意の最高潮……。
「ウワッ。タタ大将オッ」
 という悲鳴に近い絶叫が私の背後に起った。
「……又誰かやられたか……」
 と私は瞬間に神経をえかえらせた。そうしておもむろに振り返った私の鼻の先へ、クレエンに釣られた太陽色の大坩堝が、白い火花を一面にちりばめながらキラキラとゆらめき迫っていた。触れるもののすべてを燃やすべく……。
 私は眼がくらんだ。ポムプの鋳型を踏み砕いて飛び退いた。全身の血を心臓に集中さしたまま木工場のドアに衝突して立ち止まった。
 私の前に五六人の鋳物工が駆け寄って来た。ピョコピョコと頭を下げつつ不注意を詫びた。
 その顔を見まわしながら私はポカンと口をいていた。……額と、頬と、鼻の頭に受けた軽い火傷やけどに、冷たい空気がヒリヒリと沁みるのを感じていた……そうして工場全体の物音が一つ一つに嘲笑しているのを聴いていた……。
「エヘヘヘヘヘヘヘヘ」
「オホホホホホホホホ」
「イヒヒヒヒヒヒヒヒ」
「ハハハハハハハハハ」
「フフフフフフフフフ」
「ゲラゲラゲラゲラゲラ」
「ガラガラガラガラガラ」
「ゴロゴロゴロゴロゴロ」
「……ザマア見やがれ……」

 T11と番号を打った単葉の偵察機が、緑の野山を蹴落しつつスバラシイ急角度で上昇し始めた。
「……オイ……。Y中尉。あの11の単葉ならせ。君は赴任匆々そうそうだから知るまいが、アイツは今までに二度も搭乗者が空中で行方不明になったんだ。おまけに二度とも機体だけが、不思議に無疵むきずのまま落ちていたといういわく付きのシロモノなんだ。発動機も機体もまだシッカリしているんだが、みんな乗るのをいやがるもんだから、天井裏にくっ付けておいたんだ……止せ止せ……」
 そう云って忠告した司令官の言葉も、心配そうに見送った同僚の顔も、みるみるうちに旧世紀の出来事のように層雲の下に消え失せて行った。そうして間もなく私の頭の上には朝の清新な太陽に濡れ輝いている夏の大空が、青く青くてしもなく拡がって行った。

 私は得意であった。
 機体の全部に関する精確な検査能力と、天候に対する鋭敏な観察力と、あらゆる危険を突破した経験以外には、何者をも信用しない事にきめている私は、そうした司令官や同僚たちの、迷信じみた心配に対する単純な反感から、思い切ってこうした急角度の上げかじを取ったのであった。……そんな事で戦争に行けるか……という気になって……。
 だが……ソンナような反感も、ヒイヤリと流れかかる層雲の一角を突破して行くうちに、あとかたもなく消え失せて行った。そうして、あとには二千五百米突メートルを示す高度計と、不思議なほど静かなプロペラのうなりと、何ともいえず好調子なスパークの霊感だけが残っていた。
 ……この11機はトテモ素敵だぞ……。
 ……もう三百キロを突破しているのにこの静かさはドウダ……。
 ……おまけにコンナ日にはエア・ポケツもない筈だからナ……。
 ……層雲が無ければここいらで一つ、高等飛行をやって驚かしてくれるんだがナア……。
 ……なぞと思い続けながら、軽い上げ舵を取って行くうちに、私はフト、私の脚下二三百米突の処に在る層雲の上を、11機の投影が高くなり、低くなりつつ相並んですべって行くのを発見した。
 それを見ると流石さすがに飛行慣れた私も、何ともいえない嬉しさを感じない訳に行かなかった。大空のただ中で、空の征服者のみが感じ得る、澄み切った満足をシミジミ味わずにはいられなかった。……真に子供らしい……胸のドキドキする……。
 ……二千五百の高度……。
 ……静かなプロペラのうなり……。
 ……好調子なスパークの霊感……。
 私の眼に、何もかも忘れた熱い涙がニジミ出した。太陽と、蒼空あおぞらと、雲の間を、ヒトリポッチで飛んで行く感激の涙が……それを押ししずめるべく私は、眼鏡めがねの中で二三度パチパチとまたたきをした。
 ……その瞬間であった……。
 ちょうどプロペラの真正面にピカピカ光っている、大きな鏡のような青空の中から、一台の小さな飛行機があらわれて、ズンズン形を大きくしはじめたのは……。

 私は不思議に思った。あまりに突然の事なので眼の誤りかと思ったが、そう思ううちに向うの黒い影はグングン大きくなって、ハッキリした単葉の姿をあらわして来た。
 私は心構えしながら舵機だきをシッカリと握り締めた。
 ……二千五百の高度……。
 ……静かなプロペラのうなり……。
 ……好調子なスパークの霊感……。
 私は驚いた。固唾かたずを呑んで眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。向うから来るのは私の乗機と一りん違わぬ陸上の偵察機である。搭乗者も一人らしい。機のマークや番号はむろん見えないが……。
 ……二千五百の高度……。
 ……静かなプロペラ……。
 ……好調子なスパーク……。
 ……青空……。
 ……太陽……。
 ……層雲の海……。

 私はアット声を立てた。
 私が大きく左かじを取って避けようとすると、同時に向うの機も薄暗い左の横腹を見せつつ大きく迂回うかいして私の真正面に向って来た。
 私の全身に冷汗ひやあせがニジミ出た。……コンナ馬鹿な事がと思いつつ慌てて機体を右に向けると、向うの機も真似をするかのように右の横腹をまぶしく光らせつつ、やはり真正面に向って来る。
 ……鏡面に映ずる影の通りに……。

 私の全神経が強直した。歯の根がカチカチと鳴り出した。
 その途端に私の機体が、軽いエア・ポケツに陥ったらしくユラユラと前に傾いた。……と同時に向うの機もユラユラと前に傾いたが、その一刹那せつなに見えた対機むこうのマークは紛れもなく……T11……と読まれたではないか……。
 ……と思う間もなくその両翼を、こっちと同時に立て直して向うの機は、真正面から一直線に衝突して来たではないか……。

 ……私はスイッチを切った。
 ……ベルトを解いた。
 ……座席から飛び出した。
 ……パラシュートを開かないまま百米突メートルほど落ちて行った。
 私と同じ姿勢で、パラシュートを開かないまま、弾丸のように落下して行く私そっくりの相手の姿……私そっくりの顔を凝視しながら……。

 ……はてしもない青空……。
 ……眩しい太陽……。
 ……黄色く光る層雲の海……。

 大東京の深夜……。
 クラブで遊び疲れたあげく、タッタ一人で首垂うなだれて、トボトボと歩きながら自宅の方へ帰りかけた私はフト顔を上げた。そこいら中がパアット明るくなったので……。
 ……そのトタン……飛び上るようなサイレンの音に、ハッと驚いて飛び退く間もなく、一台の自動車が疾風はやてのように私を追い抜いた。……続いて起る砂ほこり……ガソリンの臭い……4444の番号と、赤いランプが見る見るうちに小さく小さく……。
 ……ハテナ……あの自動車のぬしは人形じゃなかったかしら……あんまり綺麗過ぎる横顔であった。着物はよくわからなかったが、水の滴るような束髪そくはつって、真白に白粉おしろいをつけて、緑色の光りの下にチンと澄まして……黒水晶のような眼をパッチリと開いて、こころ持ち微笑ほほえみを含みながら、運転手と一緒に、一直線の真正面を見詰めて行った。あのになった澄まし加減がイカニモ人形らしかった……と思ううちに又一台あとから自動車が来た。
 私はすぐに振り返ってみた。
 その自動車の主はパナマ帽をかぶった紳士であった。あから顔の堂々と肥った、富豪の典型のような……それが両手をチャンとひざに置いて、心持ち反り身になったまま、運転手と一緒に、一直線の真正面をニコニコと凝視しながら、私の前をスーッと通り過ぎた。自動車の番号は11111……。
 ……人形だ人形だ。今の紳士はたしかに人形だった……ハテナ……オカシイゾ……。
 ……と考えているうちに私は又、石のように固くなったまま向うから来かかった自動車の内部を凝視した。
 ……今度は金襴きんらんの法衣を着た坊さんであった。若い、品のいい宮様のように鼻筋のとおった人形……それが心持ち眼を伏せて、両手を拝み合わせたままスーッと辷って行った。
 私はブルブルと身震いをした。あたりは森閑しんかんとした街路……大空は星で一パイ……。
 ……深夜の東京の怪……私がタッタ一人で見た……。
 私は、私の周囲に迫りつつある、何とも知れない、気味のわるい、巨大おおきな、恐ろしいものを感じた。一刻も早くうちに帰るべくスタスタと歩き出した。
 その時に私の前と背後うしろから、二台の自動車が音もなく近付いて来た。
 ……私と……。
 ……私の夢の……。
 ……結婚式当日の姿……。
 私は逃げ出した。クラブの玄関へ駈け込んで、マットの上にぶッ倒れた。
「助けてくれ」

 私はいつの間にか頑丈がんじょうな鉄のおりの中に入れられている。白い金巾かなきんの患者服を着せられて、ガーゼの帯を捲き付けられて、コンクリートの床のまん中に大の字なりに投げ出されている。
 ……精神病院らしい。
 しかし私は驚かなかった。そのまま声も立てずにジット考えた。ここが精神病院だとわかれば、騒いでも無駄だからである。騒げば騒ぐほど非道ひどい目に合う事がわかり切っているからである。おまけに今は深夜である。かなり大きい病院らしいのにコットリとも物音がしない。……騒いではいけない、おこってはいけない。いな々。泣いても笑ってもいけないのだ。いよいよキチガイと思われるばかりだから……。
 私はそろそろとコンクリートの床のまん中に坐り直した。両手を膝の上に並べて静坐をして、眼を半眼に開いて、檻の鉄棒の並んだ根元を凝視した。神経をしずめるつもりで……。
 果して私の神経はズンズンと鎮静して行った。かなり広い病院の隅から隅までシンカンとなって……。
 その時であった。私が正面している鉄の檻の向うから誰か一人ポツポツと歩いて来た。それは白い診察着を着た若い男らしく、私が坐っているコンクリートの床よりも一尺ばかり高くなっている板張りの廊下を、何か考えているらしい緩やかな歩度ほどでコトリコトリと近付いて来るのであったが、やがて私の檻の前まで来るとピッタリと立ち止まった。そうして両手をポケットに突込んだまま、ジット私を見下しているらしく、爪先を揃えたスリッパ兼用の靴が、私の上瞼うわまぶたの下に並んだまま動かなくなった。
 私はソロソロと顔を上げた。
 その私の視界の中には、まず膝の突んがったしまのズボンと、インキの汚染しみのついた診察着が這入はいって来た……が……それはどこかで見た事のある縞ズボンと診察着であった……と思ってチョット眼を閉じて考えたが……間もなく私はハッと気付いた。眼をまん丸くき出して、その顔を見上げた。
 それは私が予想した通りの顔であった。……青白く痩せこけて……髪毛かみのけをクシャクシャに掻き乱して……無精髪ぶしょうがみ蓬々ぼうぼうやして……憂鬱な黒いを伏せた……受難のキリストじみた……。
 それは私であった……かつてこの病院の医務局で勉強していた私に相違なかった。
 私の胸が一しきりドキドキドキドキと躍り出した。そうして又ドクドクドク……コツコツコツコツと静まって行った。
 診察着の背後うしろの巨大な建物の上を流れ漂う銀河が、思い出したようにギラギラと輝いた。
 ……と……同時に私は、一切の疑問が解決したように思った。私を精神病患者にして、この檻に入れたのは、たしかにこの鉄格子の外に立っている診察着の私であった。この診察着の私は、あまりに自分の脳髄を研究し過ぎた結果、精神に異状を呈して、自分と間違えてこの私を、ここにブチ込んだものに相違なかった。この「診察着の私」さえ居なければ私は、こんなにキチガイ扱いされずとも済む私であったのだ。
 そう気が付くと同時に私は思わずカッとなった。吾を忘れて、鉄檻の外の私の顔を睨み付けながら怒鳴った。
「……何しに来たんだ……貴様は……」
 その声は病院中に大きな反響を作ってグルグルまわりながら消え失せて行った。しかし外の私は少しも表情を動かさなかった。診察着のポケットに両手を突込んだまま、依然として基督キリストじみた憂鬱な眼付で見下しつつ、静かな、澄明ちょうめいな声で答えた。
「お前を見舞いに来たんだ」
 私はイヨイヨカッとなった。
「……見舞いに来る必要はない。コノ馬鹿野郎……早く帰れ。そうして自分の仕事を勉強しろ……」
 そういう私の荒っぽい声の反響を聞いているうちに私は、自分の眼がしらがズウーと熱くなって来るように思った……何故なぜだかわからないまま……しかし外の私はイヨイヨ冷静になったらしく、その薄い唇の隅にかすかな冷笑を浮かべたのであった。
「お前をこうやって監視するのが、俺の勉強なのだ。お前が完全に発狂すると同時に俺の研究も完成するのだ。……もうジキだと思うんだけれど……」
「おのれ……コノ人非人にんぴにん。キ……貴様はコノ俺を……オ……オモチャにして殺すのか……コ、コ、コノ冷血漢……」
「科学はいつも冷血だ……ハハ……」
 相手は白い歯を出して笑った。突然に空を仰いで……うそぶくように……。
 私は夢中になった。イキナリ立ち上っておりの中から両手を突き出した。相手の白い診察着のえりを掴んでコヅキ廻した。
「……サ……ここから出せ……出してくれ……この檻の中から……そうして一緒に研究を完成しようじゃないか……ね……ね……後生ごしょうだから……」
 私は思わず熱い涙にせんだ。その塩辛い幾流れかを咽喉のどの奥へ流し込んだ。
 けれども診察着の私は抵抗もしなければ、逃げもしなかった。そうして患者服の私に小突かれながら苦しそうに云った。
「……ダ……メ……ダ……お前は俺の……大切な研究材料だ……ここを出す事は出来ない」
「ナ……ナ……何だと……」
「お前を……ここから出しちゃ……実験にならない……」
 私は思わず手をゆるめた。その代りに相手の顔を、自分の鼻の先に引き付けて、穴の明く程覗き込んだ。
「……何だと! モウ一ペン云って見ろ」
「何遍云ったっておんなじ事だよ。俺はお前をこの檻の中に封じめて、完全に発狂させなければならないのだ。その経過報告が俺の学位論文になるんだ。国家社会のために有益な……」
「……エエッ……勝手に……しやがれ……」
 と云いも終らぬうちに私は、相手のモシャモシャした頭の毛を引っ掴んだ。その眼と鼻の間へ、一撃を食らわした。そうして鼻血をポタポタと滴らしながらグッタリとなった身体からだを、力一パイ向うの方へ突き飛ばすと、深夜の廊下におびただしい音を立てて……ドターン……と長くなった。そのまま、死んだように動かなくなった。
「……ハッハッハッ……ザマを見ろ……アハアハアハアハ」

 曇り空の下に横たわる陰鬱な、鉛色の海の底へ、静かに静かに私は沈んで行く。金貨を積んで沈んだオーラス丸の所在をたしかめよ……という官憲の命令を受けて……。
 潜水着の中の気圧が次第次第に高まって、耳の底がイイイ――ンンと鳴り出した。続いて心臓の動悸がゴトンゴトン、ボコンボコンという雑音を含みながら頭蓋骨の内側へ響きはじめる。それにつれて、あたりの静けさが、いよいよ深まって行くような……。
 ……どこか遠くで、お寺の鐘が鳴るような……。
 灰色の海藻の破片がスルスルと上の方へ昇って行く。つづいて、やはり灰色の小さい魚の群が、整然と行列を立てたまま上の方へ消え失せて行く。
 眼の前がだんだん暗くなり初める。
 ……とうとう鼻をつままれても解らない真の闇になると、そのうちに重たい靴底がフンワリと、海底の泥の上に落付いたようである。
 私は信号綱を引いて海面の仲間に知らせた。
 私は潜水かぶとに取付けた電燈の光りをたよりに、ゆっくりゆっくりと歩き出した。まん丸い、ゆるやかな斜面を持った灰色の砂丘を、いくつもいくつも越えて行った。
 しかし行けども行けども同じような低い、丸い砂の丘ばかりで、見渡しても見渡しても船の影はおろか、貝殻一つ見当らなかった。……のみならず私は暫く歩いて行くうちに、そこいら中がいつともなく薄明るくなって、青白い、りんのような光りに満ち満ちて来たことに気が付いた。……沙漠の夕暮のような……冥府あのよへ行く途中のような……たよりない……気味のわるい……。
 私は静かに方向を転換しかけた。何となく不吉な出来事が、私の行く手に待っているような予感がしたので……。けれども、まだ半廻転もしないうちに、私はハッと全身を強直さした。
 ツイ私の背後の鼻の先に、いつの間に立ち現われたものか、何ともいえない奇妙な恰好かっこうをした海藻の森が、てしもない砂丘の起伏を背景にして迫り近付いている。
 ……海藻の森……その一本一本は、それぞれ五六尺から一じょうぐらいある。頭のまん丸いホンダワラのような楕円形をした……その根元のくくれたところから細いひもで海底に繋がっている。並んだり重なり合ったりしながら、お墓のように垂直に突立っている。蒼白あおじろい、燐光りんこうの中に、真黒く、ハッキリと……数えてみると合計七本あった。
 私は唖然あぜんとなった。取りあえずドキンドキンと心臓の鼓動を高めながら、二三歩ゆるゆるとあとじさりをした。
 するとその巨大な海藻の一群ひとむれの中でも、私に一番近い一本の中から人間の声が洩れ聞えて来た。
 低い、カスレた声であった。
「モシモシ……」
 私は全身の骨が一つ一つ氷のように冷え固まるのを感じた。同時に、その声の正体はわからないまま、この上もなく恐ろしい妖怪に出遭ったような感じに囚われたので、そのままなおもジリジリと後じさりをして行った。すると又、右手に在る八尺位の海藻の中から、濁った、けだるそうな声が聞えて来た。
「……貴方あなたは……金貨を探しに来られたのでしょう」
 私の胸の動悸が又、突然に高まった。そうして又、急に静かに、ピッタリと動かなくなった。……妖怪以上の何とも知れない恐ろしいものににらまれていることを自覚して……。
 すると又、一番向うの背の低い、すこし離れている一本の中から、悲しい、優しい女の声がユックリと聞えて来た。
「私たちは妖怪じゃないのですよ。貴方がお探しになっているオーラス丸の船長夫婦と……一人の女のと……一人の運転手と……三人の水夫の死骸なのです。……今、貴方とお話したのは船長で、わたしはその妻なのです。おわかりになりまして……。それから一番最初に貴方をお呼び止めしたのは一等運転手なのです」
「……聞いてくんねえ。いいかい……おいらは三人ともオーラス丸の船長の味方だったのだ」
 と別の錆び沈んだ声が云った。
「……だから人非人ばかりのオーラス丸の乗組員の奴等に打ち殺されて、ズックの袋を引っかぶせられて、チャンやタールで塗り固められて、足におもりわえ付けられて、水雑炊みずぞうすいにされちまったんだ」
「……………」
「……それからなあ……ほかの奴らあ、船の破片を波の上にブチいて、沈没したように見せかけながら、行衛ゆくえくらましちまやがったんだ」
「……………」
「……その中でも発頭人ほっとうにんになっていた野郎がワザと故郷の警察に嘘をきに帰りやがったんだ。タッタ一人助かったようなつらをしやがって……ここで船が沈んだなんて云いふらしやがったんだ……」
「ホントウよ。オジサン……その人がお父さんとお母さんの前で、妾を絞め殺したのよ。オジサンはチャント知っていらっしゃるでしょ」
 という可愛らしい、悲しい女の児の声が一番最後にきこえて来た。七本のまん中にある一番たけの低い袋の中から洩れ出したのであろう……。あとはピッタリと静かになって、スッスッというすすり泣きの声ばかりが、海の水に沁み渡って来た。
 私は棒立ちになったまま動けなくなった。だんだんと気が遠くなって来た。信号綱を引く力もなくなったまま……。
 私が、その張本人の水夫長だったのだ……。
 ……どこかで、お寺の鐘が鳴るような……。

 世界のはての涯まで硝子ガラスで出来ている。
 河や海はむろんの事、町も、家も、橋も、街路樹も、森も、山も水晶のように透きとおっている。
 スケート靴を穿いた私は、そうした風景の中心を一直線に、水平線まで貫いている硝子の舗道をやはり一直線にすべって行く……どこまでも……どこまでも……。
 私の背後のはるか彼方かなたそびゆるビルデングの一室が、真赤な血の色に染まっているのが、外からハッキリと透かして見える。何度振り返って見ても依然としてアリアリと見えている。家越し、橋越し、並木ごしに……すべてが硝子で出来ているのだから……。
 私はその一室でタッタ今、一人の女を殺したのだ。ところが、そうした私の行動を、はるか向うの警察の塔上から透視していた一人の名探偵が、その室が私の兇行で真赤になったと見るや否や、すぐに私とおんなじスケート靴を穿いて、警察の玄関から私の方向に向って辷り出して来た。スケートの秘術をつくして……つるを離れた矢のように一直線に……。
 それと見るや否や私も一生懸命に逃げ出した。おんなじようにスケートの秘術をつくして……一直線に……矢のように……。
 青い青い空の下……ピカピカ光る無限の硝子の道を、追う探偵も、逃げる私もどちらもお互同志に透かし合いつつ……ミジンも姿を隠すことの出来ない、息苦しい気持のままに……。
 探偵はだんだんスピードを増して来た。だから私も死物狂いに爪先を蹴立てた。……一歩を先んじて辷り出した私の加速度が、グングンと二人の間の距離を引離して行くのを感じながら……。
 私は、うしろ向きになって辷りつつ右手を拡げた。拇指ぼしを鼻の頭に当てがって、はるかに追いかけて来る探偵を指の先で嘲弄ちょうろうし、侮辱してやった。
 探偵の顔色が見る見る真赤になったのが、遠くからハッキリとわかった。多分歯噛はがみをして口惜くやしがっているのであろう。溺れかけた人間のように両手を振りまわして、死物狂いに硝子の舗道を蹴立てて来る身振りがトテモ可笑おかしい……ザマを見やがれ……と思いながらも、ウッカリすると追い付かれるぞと思って、いい加減な処でクルリと方向を転換したが……私はハッとした。いつの間にか地平線の端まで来てしまった。……足の下は無限の空虚である。
 私は慌てた。一生懸命で踏みとどまろうとした。その拍子に足を踏み辷らして硝子の舗道の上に身体からだをタタキ付けたので、そのまま血だらけの両手を突張って、自分の身体を支え止めようとしたが、しかし今まで辷って来た惰力が承知しなかった。私の身体はそのまま一直線に地平線の端から、辷り出して無限の空間に真逆様まっさかさまに落込んだ。
 私は歯噛みをした。虚空を掴んだ。手足を縦横ムジンに振りまわした。しかし私は何物も掴むことが出来なかった。
 その時に一直線に切れた地平線の端から、探偵の顔がニュッと覗いた。落ちて行く私の顔を見下しながら、白い歯を一パイに剥き出した。
「わかったか……貴様を硝子の世界からい出すのが、俺の目的だったのだぞ」
「……………」
 初めて計られた事を知った私は、無念さの余り両手を顔に当てた。大きな声でオイオイ泣き出しながら無限の空間を、どこまでもどこまでも落ちて行った……。

底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年8月24日 第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」日本小説文庫、春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
初出:「文学時代」
   1931(昭和6)年10月
   「探偵クラブ」
   1932(昭和7)年6月
入力:柴田卓治
校正:しず
2000年6月9日公開
2012年5月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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