小初は、み台のやぐらの上板に立ち上った。うでを額にかざして、空の雲気を見廻みまわした。軽く矩形くけいもたげた右の上側はココア色に日焦ひやけしている。腕の裏側からわきの下へかけては、さかなの背と腹との関係のように、急に白くやわらかくなって、何代も都会の土に住み一性分の水をんで系図を保った人間だけが持つえて緻密ちみつすごみと執拗しつよう鞣性じゅうせいふくんでいる。やや下ぶくれでくちびるが小さくいて出たような天女型の美貌びぼうだが、額にかざした腕の陰影いんえいが顔の上半をかげらせ大きな尻下しりさがりのが少し野獣やじゅうじみて光った。
 額に翳した右の手先と、左の腰盤ようばんに当てた左の手首の釣合つりあいが、いつも天候を気にしている職業人のみがする男型のポーズを小初にとらせた。中柄ちゅうがらで肉のしまっているこの女水泳教師のうすい水着下の腹輪の肉はまだ充分じゅうぶん発達しないさびしさを見せてはいるが、こしの骨盤ははち型にやや大きい。そこに母性的の威容いようたくましい闘志とうしとをひそましている。
 蒼空あおぞら培養硝子ばいようガラスを上からかぶせたように張り切ったまま、温気うんきこもらせ、界隈かいわい一面の青蘆あおあしはところどころ弱々しくおののいている。ほんの局部的な風である。大たい鬱結うっけつした暑気の天地だ。荒川あらかわ放水路が北方から東南へ向けまず二筋になり、葛西川かさいがわ橋の下から一本の大幅おおはばの動きとなって、河口を海へかしている。
「何というわからない陽気だろう」
 小初はつぶやいた。
 五日後に挙行される遠泳会の晴雨が気遣きづかわれた。
 西の方へひとみを落すとにぶほのおいぶって来るように、都会の中央から市街のかわら屋根の氾濫はんらんが眼をおそって来る。それは砂町一丁目と上大島町の瓦斯ガスタンクを堡塁ほるいのように清砂通りに沿う一線と八幡やわた通りに沿う一線に主力を集め、おのおの三方へ不規則に蔓延まんえんしている。近くの街の屋根瓦の重畳ちょうじょうは、おどってし寄せるように見えて、一々は動かない。そして、うるさいほどかたの数をそびやかしている高層建築と大工場。灼熱しゃくねつした塵埃じんあいの空に幾百いくひゃく筋もあかただれ込んでいる煙突えんとつけむり
 小初は腰の左手を上へ挙げて、額に翳している右の腕にえ、まぶしくないよう眼庇まびさしを深くして、今更いまさらのように文化の燎原りょうげんに立ちのぼる晩夏の陽炎かげろうを見入って、深い溜息ためいきをした。
 父の水泳場は父祖の代から隅田川すみだがわ岸に在った。それが都会の新文化の発展に追除おいのけられ追除けられして竪川たてかわ筋に移り、小名木川おなぎがわ筋に移り、場末の横堀よこぼりに移った。そしてとうとう砂村のこの材木置場の中に追い込まれた。転々した敗戦のあとが傷ましくずっと数えられる。だが移った途端とたんに東京は大東京と劃大かくだいされ砂村も城東区砂町となって、立派に市域の内にはちがいなかった。それがわずかに「わが青海流は都会人のたしなみにする泳ぎだ。決して田舎いなかには落したくない。」そういっている父の虚栄心きょえいしんを満足させた。父は同じ東京となった放水路の川向うの江戸川区えどがわくには移り住むのを極度におそれた。葛西かさいという名が、旧東京人の父には、市内という観念をいかにしても受付けさせなかった。ついに父は荒川放水を逃路とうろの限りとして背水のじんき、青海流水泳の最後の道場を死守するつもりである。
 このように夏かせぎの水泳場はたびたび川筋を変えたが、住居は今年の夏前までずっと日本橋区の小網町こあみちょうに在った。父は夏以外ふだんの職業として反物たんもののたとう紙やペーパアを引受けていた。和漢文の素養のある上に、ちょっと英語を習った。それでアドレスや請求文せいきゅうぶんを書いて、父はイギリスの織物会社からしきりにカタログを取り寄せた。中や表紙の図案を流用しながら、自分の意匠いしょうを加えて、画工にき上げさせ、印刷屋に印刷させて、問屋の註文ちゅうもんに応じていた。ちらしや広告の文案も助手を使って引き受けていた。
 だが地元の織物組合は進歩した。画工も進歩した。今更中間のブローカー問屋や素人しろうとの父の型のきまった意匠など必要はなくなった。父の住居きのオフィスは年々寂寥せきりょうを増した。しばらく持ちこたえてはいたが、その後いろいろな事業に手を出した末が、地所ぐるみ人に取られた。その前に先祖から伝えられていた金も道具もくしていた。だからこの夏期は夜番といつくろって父娘おやこ二人水泳場へ寝泊ねとまりである。
 駸々しんしんと水泳場も住居をも追い流す都会文化の猛威もういを、一面灰色の焔の屋根瓦に感じて、小初は心のずいにまでおびえを持ったが、しかししばらく見詰みつめていると、怯えてわが家没落ぼつらくの必至の感を深くするほど、不思議とかえって、その猛威がなつかしくなって来た。結局は、どうなりこうなりして、それがまた自分を救ってくれる力となるのではあるまいかと感ぜられて来た。その都会の猛威に対する自分のはらはらしたなつかしさは肉体さえもかかすくめられるようである。このなつかしさに対しては、去年の夏からたがいに許し合っている水泳場近くの薄給はっきゅう会社員の息子むすこかおる少年との小鳥のような肉体のたわむれはおかしくて、おもい出すさえじを感ずる。
 それに引きかえて、自分への興味のために、父の旧式水泳場をこの材木堀に無償むしょうで置いてくれ、生徒を世話してくれたり、見張りの船をいでくれたりして遠巻きに自分にからまっている材木屋の五十男貝原を見直して来た。必要がいくらかでも好みに変って来たのであろうか。小初は自分の切ない功利心に眼をしばだたいた。
 とにかく、父や自分の仇敵きゅうてきである都会文化の猛威に対して、少しも復讐ふくしゅうの気持が起らず、かえって、その逞ましさにふるえて魅着みちゃくする自分は、ひょっとして、大変な錯倒症さっとうしょうの不良むすめなのではあるまいか。だが何といっても父や自分のたましいの置場はあそこ――都会――大東京の真中よりほかにないのだから仕方がない、是非もない……。
「小初先生。時間ですよ。翡翠ショービンの飛込みのお手本をやって下さい」
 水だらけの子供を十人ばかり乗せ、櫓台の下へ田舟たぶねを漕ぎ近づけて、材木屋の貝原が、大声を挙げた。飛騨訛ひだなまりがそう不自然でなく東京弁に馴致じゅんちされた言葉つきである。
「お手本をも一度みんなに見せといて、それからやらせます」
 脂肪しぼうづいた小富豪しょうふごうらしい身体からだに、小初と同じ都鳥のもんどころの水着を着て、貝原はすっかり水泳場の助手になり済ましている。小初はいつもよりいくらかなめらかに答えた。
「いますぐよ。少しぐらい待ってよ」
 だが、息づまるような今までの気持からいくらか余裕よゆうをつけようとして、小初はもう一度放水路の方を見やった。一めん波が菱立ひしだって来た放水路の水面を川上へ目をさかのぼらせて行くと、中川筋と荒川筋のさかいつつみの両端をやくしている塔橋型とうきょうがたの大水門の辺に競走のような張りを見せて舟々はを上げている。小初の声は勇んだ。
「確かだわ。今晩は夕立ち、明日から四五日お天気は大丈夫だいじょうぶよ」
「まあ、そんなところですなあ。遠泳会はうまく行くね」
 てのひらを差し出して風の脈にれてみてから貝原は相槌あいづちを打った。
 肩や両脇りょうわき太紐ふとひもで荒くかがって風のけるようにしてある陣羽織じんばおり式の青海流の水着をぐと下から黒の水泳シャツの張り付いた小初の雄勁ゆうけいな身体がき出された。こういう職務に立つときの彼女かのじょの姿態に針一きの間違いもなく手間の極致をつくしてり出した象牙ぞうげ細工のような非人情的な完成が見られた。人間の死体のみが持つ虚静の美をこの娘は生ける肉体に備えていた。小初は、櫓板の端にすらりと両股りょうまたを踏み立て、両手を前方肩の高さにのばし、胸を張って呼吸を計った。やや左手の眼の前に落ちかかる日輪はただれたような日中のごみを風にはらわれ、ただ肉桃色にくももいろぼんのように空虚に丸い。
 ざわざわ鳴り続け出した蘆洲の、ところどころ幾筋も風筋に当る部分は吹きたおれてあわをたくさんかした上げ潮がぎあとの蘆洲の根方にだぶつくのがのぞける。
 青海流の作法からいうと翡翠の飛込み方は、用意の号令で櫓の端へ立ち上って姿勢を調え、両腕を前方へさし延べるときが挙動の一である。両手を後へ引いて飛込みの姿勢になるときが二で、ね出す刹那せつなが三の、すべてで三挙動である。いま小初はだまって「一」の動作を初めたが、すぐ思い返して途中とちゅうからの「二」と号令をかけ跳び込みの姿勢を取った。
 それは、まったく翡翠かわせみくいの上から魚影をうかが敏捷びんしょうでしかも瀟洒しょうしゃな姿態である。そして、このとき今まで彫刻的ちょうこくてきに見えた小初の肉体から妖艶ようえん雰囲気ふんいき月暈つきがさのようにほのめき出て、四囲の自然の風端の中に一不自然な人工的の生々しい魅惑みわくき開かせた。と見る間に「三!」とさけんで小初は肉体を軽く浮び上らせ不思議な支えの力で空中の一箇所かしょでたゆたい、そこで、見る見る姿勢を逆に落しつつ両脚りょうあしかじのように後へ折り曲げ両手を突き出して、どうはあくまでしなやかに反らせ、ほとんど音もなく水に体をき入れた。
 目を眩しそうにぱちつかせて、女教師の動作の全部を見届けた貝原は
「型が綺麗きれいだなあ」
 と思わず嘆声たんせいを挙げてやや晦冥かいめいになりかけて来た水上三尺の辺をい付きそうな表情で見つめた。
 都会の中央へもどりたい一心からゆめのような薫少年との初恋はつこい軽蔑けいべつし、五十男の世才力量にのぞみをかけて来た転機の小初は、翡翠型の飛込みの模範もはんを示す無意識の中にも、貝原に対して異性のわなを仕込んでいた。子供のうちから新舞踊ぶようを習わせられ、レヴュウ・ガールとも近附ちかづきのある小初は、こびというねたねたしたものを近代的な軽快な魅力に飜訳ほんやくし、古典的な青海流の飛込みの型にそっと織り込ますことぐらい容易である。生ぬるい水中へぎゅーんと五体がただ一つの勢力となって突入とつにゅうし、全皮膚ひふの全感覚が、重くて自由で、柔軟じゅうなんで、緻密な液体に愛撫あいぶされ始めると何もかも忘れ去って、小初は「海豚いるかよろこび」を歓び始める。小初の女学校時代からのたった一人の親友、女流文学者豊村女史にある時、小初は水中の世界の荒唐無稽こうとうむけいな歓びを、切れ切れの体験的な言葉で語った。すると友達はその感情に関係ある的確な文学的表現を紹介しょうかいした。

クッションというなら全部クッションだ。
羽根布団はねぶとんというなら全部羽根布団だ。
だが、水の中は、けて自由な
もっといいもの――愛。
ねて破れず、爪いて
掻き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしらりょうか――愛。
それで海豚イルカは眼を細めている。
一生、陸に上らぬ。

 これは希臘ギリシア擬古狂詩ぎこきょうしの断片をざっと飜訳したものだそうだ。それと同じような意味を父の敬蔵けいぞう老荘ろうそうの思想から採って、「渾沌未分の境涯きょうがい」だといつも小初に説明していた。
 まぶたに水の衝動しょうどうが少くなると小初は水中で眼を開いた。こどもの時分から一人娘を水泳の天才少女に仕立てるつもりの父親敬蔵は、かなり厳しいしつけ方をした。水を張った大桶おおおけの底へ小石をしずめておいて、幼い小初にくわえ出さしたり、自分の背に小初を負うたまま隅田川の水の深瀬ふかせに沈み、そこで小初を放して独りで浮き上らせたり、とにかく、水というものから恐怖きょうふを取り去り、親しみを持たせるため家伝を倍加して小初を躾けた。
 水中は割合に明るかった。磨硝子色すりガラスいろに厚みを保って陽気でも陰気でもなかった。性を脱いでしまった現実の世界だった。黎明れいめいといえば永遠な黎明、黄昏たそがれといえば永遠に黄昏の世界だった。陸上の生活力を一度死にさらし、実際の影響力えいきょうりょくなめしてしまい、まぼろしに溶かしている世界だった。すべての色彩しきさいと形が水中へ入れば一律に化生せしめられるように人間のモラルもここでは揮発性と操持性とを失った。いわば善悪が融着ゆうちゃくしてしまった世界である。ここでは旧套きゅうとうの良心過敏かびん性にかかっている都会娘の小初の意地も悲哀ひあい執着しゅうちゃくも性を抜かれ、代って魚介ぎょかいすっぽんが持つ素朴そぼく不逞ふていの自由さがよみがえった。小初はしなやかな胴を水によじり巻きよじり巻き、くまで軟柔なんじゅう感触かんしょくを楽んだ。
 小初はり下げた櫓台下の竪穴から浅瀬の泥底どろぞこへ水を掻き上げて行くと、岸の堀垣ほりがきこわれからくずれ落ちた土が不規則なスロープになって水底へかげをひくのが朦朧もうろうと目に写って来た。
 この辺一体にや蘆の古根が多く、密林の感じである。材木繋留けいりゅうの太い古杭がちてはうち代えられたものが五六本太古の石柱のように朦朧と見える。
 その柱の一本につかまって青白いいきものが水を掻いている。薫だ。薫は小初よりずっと体は大きい。あごほおすずしくげ、整った美しい顔立ちである。小初はやにわに薫のくびと肩をとらえて、うすむらさきの唇に小粒こつぶな白い歯をもって行く。薫は黙って吸わせたままに、足を上げ下げして、おとなしく泳いでいたが、小初ほど水中の息が続かないので、じきに苦悶くもんの色を見せはじめた。それからむやみに水を掻ききはじめた。とうとう絶体絶命の暴れ方をしだした。小初は物馴ものなれた水におぼれかけた人間のあつかい方で、相手にまといつかれぬようさばきながら、なお少しこの若い生ものの魅力の精をば吸い取った。

 借家を探しに行った父親の敬蔵が帰って来て雨上りの水泳場で父娘二人きりの夕飯が始まった。借家はもう半月もして水泳場が閉鎖へいさすると同時にたちまち二人に必要になるのだが、価値のあいなどで敬蔵はなかなか見つけかねた。場所はまだ下町の中央に未練があって、毎日、その方面へ探しに行くらしかった。帰って来たときの疎髯そぜんを貯えた父の立派な顔が都会の紅塵こうじん摩擦まさつされた興奮と、つかれとで、異様にゆがんで見えた。もしかすると、どこかで一杯いっぱいひっかけた好きな洋酒のいがまだ血管の中に残っているのかも知れない。
 都会育ちの美食家の父娘は、夕飯のぜんを一々伊勢丹いせたんとかその他洲崎すざき界隈の料理屋から取り寄せた。
 自転車で岡持おかもちを運んで来る若者は遠路をぶつぶつ叱言こごといったが、小初の美貌と、父親がてがう心づけとで、このごろはころころになって、何か新らしく仕込んだ洒落しゃれの一つも披露ひろうしながら、片隅かたすみ焜炉こんろで火をおこして、おわんしるを適度に温め、すぐはしれるよう膳をならべて帰って行く。
不味まずいものを食うくらいならいっそ、くたばった方がいい」
 これは、美味のないとき、膳の上の食品を罵倒ばとうする敬蔵のぐさだが、ひょっとすると、それが辛辣しんらつな事実で父娘の身の上の現実ともなりかねない今日この頃では、敬蔵もうっかり自分の言葉癖ことばぐせは出しにくかった。父娘は夜な夜な「最後の晩餐ばんさん」という敬虔けいけんな気持で言葉少なに美味に向った。
 いったいが言葉少なの父娘だった。わけて感情を口に出すのを敬蔵は絶対にけた。そういうことは嫌味いやみとして旧東京の老人はついにそれに対する素直な表現欲を失っていた。感情の表現にはむしろ反語か、遠廻しの象徴しょうちょうの言葉を使った。
となり近所にお化粧けしょうのアラを拾うやつもなくてさばさばしたろう」
 これが唯一ゆいいつの、娘も共に零落れいらくさせた父のびの表明でもあり、心やりの言葉でもあった。小初は父の気持ちを察しないではないが、「何ぼ何でもあんまり負けしみ過ぎる」と悲しくうとまれた。
 今夜はまたとても高踏的こうとうてき漢籍かんせきの列子の中にあるというふちの話を持ち出して父は娘に対する感情をカモフラージュした。
「淵には九つの性質がある。静水をじっとたたえているのも淵だ。流れて来た水のしばらくよどむところも淵だ。底からいた水が豊かにたまり、そしてまた流れ出るところも淵だ。したたって落つる水を受け止めているのも淵だ――」
 父親は大体こんなふうに淵が水を受け入れる諸条件を九つの範疇はんちゅうにまとめて、
「これを九淵の説と云って、水はいろいろの変化で向うが、それを受け容れる淵はたった一つなのだ。この淵の無心な気持ちになっていれば世間がどう変りこっちにどう仕向けようと、余悠綽々よゆうしゃくしゃくなのだ。ここのところをわが青海流では、
死屍しし水かかずしてよく浮く
といって、平泳ぎのこころだ」
「それは、よくおとうさんがおっしゃる、あの渾沌未分の兄弟か何かなの」
 小初は食後の小楊枝こようじを使いながら父親を弥次やじった。自分が人を揶揄やゆすることを好んで人から揶揄されることをきらうのは都会的諷刺家ふうしかの性分で、父親はそれが娘だとぐっとしゃくさわった。しばらく黙っていたが、ね返す警句を思いつく気力もなく、
「兄弟分でもなんでもない、全く一つのものだ」
 と低い声音に渾身の力をめて言った。これだけ真面目まじめに敬蔵が娘に云うことはめったにない。きゅうしてやむを得ずこれだけまともに言ったのだ。そのせいか、かれはそのあと急に気まりの悪いおとろえた顔つきをして、そっと汗をいた。
 父親は電球のひものばして、水泳場の下へ入って行った。そこでしばらくごそごそしている様子だった。
「いい具合に宵闇よいやみだ。数珠子釣じゅずこつりに行って来るかな」
 そういって、道具を乗せて田舟を漕ぎ出して行った。父のその様子を、小初は気の毒なはかない気持ちで見送ったが、結局何か忌々いまいましい気持になった。そして一人留守番るすばんのときの用心に、いつものように入口にかぎをかけ、電燈でんとうを消して、蚊帳かやの中に這入はいり、万一しのむものがあるときのおどしに使う薄荷はっか入りの水ピストルを枕元まくらもとへ置いた。小初は横になり体を楽にするとピストルの薄荷がこんこんにおった。こんこん匂う薄荷が眼鼻にわたると小初は静かにもう泣いていた。思えば都会偏愛へんあいのあわれな父娘だ。それがため、父はいらだたしさにさもしく老衰ろうすいして行き、自分は初恋からいやしく五十男に転換てんかんして行く……。くらやみの中で自分の功利心がぴっかり眼を見開いているのに小初の一方の心では昼間水中であじわった薫の若い肉体との感触をおもい出している……。
 少したつと小初はまた起き上った。父の様子を見ようと裏口の窓を開けた。雨上りの夜の天地は墨色すみいろの中にたっぷり水気をとかして、つやっぽい涼味りょうみ潤沢じゅんたくだった。しおになった前屈まえかがみの櫓台の周囲にときどき右往左往する若鰡わかいなの背が星明りにひらめく。父はあまり遠くない蘆の中で、カンテラを燃して数珠子釣りをやっている。洲の中の環虫類かんちゅうるいを糸にたくさんつらぬいて、数珠輪のようにして水に垂らす。蘆の根方に住んでいる小うなぎがそれに取りつく、をそっと引き上げて、未練に喰い下って来る小鰻を水面近くまでおびき寄せ、わきから手網てあみで、さっとすくい上げる。環虫類も何だか虫の中ではみにく衰亡者すいぼうしゃのように思えるし、鰻だとて、やはり時代文化に取り残されたような魚ではないか。衰亡の人間が衰亡の虫をおとりにつかって衰亡の魚をとらえてたのしみにする。その灯明り――何とあわれ深い情景であろう。むかし父親にとってこの方法の鰻取りは単なる娯しみに過ぎなかったが、今は必死の副業である。
「ゆうべ、少しれ過ぎてね。始末に困るんだよ」
 こんな鷹揚おうようなものの云い方をしながら父親は獲物えものを鰻仲買なかがいに渡した。憐れな父子と思いながら小初はいつか今夜の父の漁れ高を胸に計算していた自分が悲しかった。
 西空は一面に都会の夜街の華々はなばなしいものがおどりつ、打ち合いつ、くだけつする光の反射面のようである。特に歓楽の激しい地域を指示するように所々にむらがるネオンサインが光のなかへ更に強い光の輪郭りんかくを重ねている。さらにこの夜空のところどころにときどき大地の底から発せられるような奇矯ききょうな質を帯びた閃光せんこうがひらめいて、ことのかえ手のように幽毅ゆうきに、世の果ての審判しんぱんのように深刻に、夜景全局を刹那に地獄相じごくそう変貌へんぼうせしめまた刹那にもとの歓楽相にもどす。それは何でもない。間近い城東電車のポールが電力線にスパークする光なのだが、小初はながめているうちに――そうさ、自分に関係のない歓楽ならさっさと一ひらめきにほろびてしまうがいい、と思った。そのときどこからともなく、ハイヤーのすべって来るとどろきがして、表通りでまったらしい。
 がっしりした男の足音が、水泳場の方へのぼって来た。
「どなた」
 貝原が薄暗のなかでちょっとはにかんだような恰好かっこうで立ち止った。
「私ですよ。少しおそくなりましたが、街へ踊りに出かけましょう。出ていらっしゃいませんか」
「なぜ、裏梯子うらばしごから上っていらっしゃらないの」
「薄荷水をピストルで眼の中へはじき込まれちゃかないませんからなあ」
 小初は電球をひねって外出の支度をした。箪笥たんすから着物を出して、荒削あらけずりの槙柱まきばしらなわくくりつけたロココ式の半姿見へ小初は向った。今は失くした日本橋の旧居で使っていた道具のなかからわずかに残しておいたこの手のこんだ彫刻ぶちの姿見で化粧をするのは、小初には寂しい。小初はまた貝原に待たれているという意識から薫のことがしとしとと身に沁みて来た。だがそれはほんの肉体的のものである。少くともいまはそう思い直さねばならない。くず折れてはならない。すべては水の中の気持で生きなければならない。向って来るものはみんな喰べて、滋養じようにして、私は逞ましい魚にならなければならない。小初はぐっと横着な気持になって、化粧の出来上った顔に電球を持ち添えて
「これでは、どう」と窓の葦簾よしず張りからのぞいている貝原に見せた。
「結構ですなあ。さあ出かけましょう。老先生には許可を得てますよ」
 小初は電燈を消して、洲の中の父の灯をちょっと見返ってから、貝原と水泳場を脱け出した。

 貝原は夏中七八ぺんも小初を踊りに連れ出したことがあるので、ちょっとした小初の好きな喰べものぐらい心得ていた。浅夜に瀟洒な鉄線を組み立てている清洲橋を渡って、人形町の可愛かわいらしい灯の中で青苦い香気こうきのある冷し白玉を喰べ、東京でも東寄りの下町の小さい踊り場を一つ二つ廻って、貝原はあっさり小初の相手をして踊る。
 この界隈の踊り場には、地つきの商店の子弟が前垂まえだれを外して踊りに来る。すこし馴染なじみになった顔にたまたま小初は相手をしてやると、
「へえ、へえ、済みません」
 お客にするように封建的ほうけんてきをして礼をいう。小初はそれをいじらしく思って木屑臭きくずくさい汗のにおい我慢がまんして踊ってやる。
 ときどき銀座界隈へまで出掛でかけることもある。そうすると今度はニュー・グランドとか風月堂とかモナミとか、格のある店へ入る。そこのロッジ寄りに席を取って、サッパーにしては重苦しい、豪華ごうかな肉食をこの娘はうんうんる。貝原は不思議がりもせず、小初をこういう性質もある娘だと鵜呑うのみにして、どっちにも連れて行く。
 月が、日本橋通りの高層建築の上へかかる時分、貝原は今夜はめずらしく新川河岸かしの堀に臨む料理屋へ小初を連れ込んだ。
待合まちあい?」
 小初は堅気かたぎな料理屋と知っていて、わざととぼけて貝原にいた。貝原は何の衝動しょうどうも見せず
「そんなところへ、若い女の先生を連れて来はしません」と云った。
「でも、いま時分、こんなに遅く、いいのかしらん」
「なに、ちっとばかり、資金を廻してある家なので、自由が利くんです」
 涼しい食物のさらが五つ六つ並んで、腹の減った小初が遠慮えんりょなく箸を上げていると、貝原はビールの小壜こびんを大事そうに飲んでいる。ぽつぽつ父親のうわさを始めた。
「どうも、うちの老先生のようじゃ、とても身上しんしょうの持ち直しは覚束おぼつかないですねえ。事業というものは片っぽうで先走った思い付きを引締ひきしめて、片っぽうはひとところへかじり付きたがる不精ぶしような考えを時勢に遅れないように掻き立てて行く。ここのところがちょっとしたこつです。ところが、老先生にはこの両方の極端のところだけあって、中辺のじっくりした考えが生れ付き抜けていなさる。これじゃ網のまん中に穴があるようなもので、利というものは素通りでさ」貝原は、父親には、反感を持っていないようなものの、何の興味もないらしい口調だった。
「あたし、何にも知らないけれど、あんた、この頃でもうちの父に、何かお金のことで面倒めんどうを見ているの」
「いや、金はもう、老先生には鐚一文びたいちもん出しません。失くなすのは判っているんだから。それに老先生だって、一度あたしが保証の印をして、いまでもどんなに迷惑めいわくしているか、まさか忘れもしなさらないと見え、その後何にもいい出しなさりはしませんがね」
 貝原は宮大工上りの太い手首の汗をカフスににじませまいとして、ぐっと腕捲うでまくりして、煽風器せんぷうきに当てながら、ぽつりぽつり、まだ、通しものの豆をんでいる。
 小初は一しきり料理を喰べ終ると、いかにも東京の料理屋らしい洗煉せんれんされた夏座敷をじろじろ見廻しながら、
「あなた、道楽なさったの」と何の聯想れんそうからかいきなり貝原に訊いた。
「若いときはしました。しかし、今の家内をもらってから、福沢宗ふくざわしゅうになりましてね、堅蔵かたぞうですよ」
「お金をたくさん持って面白い」
「何とか有効に使わなくちゃならないと考えて来るようになっちゃ、もう面白くありませんな」
「そう」
 小初は、もう料理のコースの終りのメロンも喰べ終って、皮にたまった薄青い汁を小匙こさじの先ですくっていた。
 ふっとした拍子ひょうしに貝原と小初は探り会う眼を合せた。
「今夜、何か話があるの」
 小初の義務的な質問が、小初の顔立ちを引締まらせた。小初がずっと端麗たんれいに見える。その威厳いげんがかえって貝原を真向きにさせた。貝原は悪びれず、
「相当な年配の男のいうことですから、あなたも本気でいて下さい。これは家内とも相談しての上ですから――まあ、私だちちっぽけなりにも身上も出来てみれば、出来のいい品のある子供が欲しいです。うちに一人ありますが、ひと口に云うとから駄目だめなのです。人を扱いつけてる職業ですから私にはすぐ判ります。血筋というものは争われません。何代か前からきっと立派な血が流れて来ていて、それが子孫に現われて来るんですね」
「これは家内とも相談ですが」と貝原は再び儀式的の掛け合いのように念を押して、
「小初先生。世の中には、相当な知識階級の女でも、何か資金の都合のため、人の世話になるという手があります。先生をおもちゃにする気は毛頭ありません。あなたの持っている血筋をここに新らしく立てる私の家の系図へちっとばかり注ぎ入れて頂きたいのです」
 貝原の平顔は両顎がやや張って来て、利をつかむときのような狡猾こうかつな相を現わして来た。がそれもじきにまた曖昧あいまいになり、やがて単純な弱気な表情になって、ぎごちなく他所見よそみをした。
 小初は貝原の様子などには頓着とんじゃくせず、貝原の言葉について考え入った。――自分の媚を望むなら、それをあたえもしよう。肉体を望むなら、それを与えもしよう。魂があると仮定して、それを望むなら与えもしよう。自分がこの都会の中心に復帰出来るための手段なら、すべてを犠牲ぎせいに投げ出しもしよう。だがこの宮大工上りの五十男の滑稽こっけいな申込みようはどうだ。
「貝原さん、子供が欲しいなんて云わずに真直ぐに私が欲しいと云ったらどうですの」
「ああ。そうですか。でもあんまり失礼だと思いまして」
 貝原がようやくまともに向けた顔を真直ぐに見て、さびしい声で小初は云った。
「それで子供を生んでもらうためなんてしらじらしい、ありきたりのうそを云ったのですか。失礼とか恥かしいとか云っている世の中じゃないと思うわ。そんなことに捉われていたから、東京人は田舎者にずんずん追いこくられてしまったのよ。私たち必死で都会を取り返さなけりゃならないのよ」小初はきつい眼をしながら云い続けた。「それには私達、どんな取引きだってするというのよ」
 小初のきつい眼からなみだが二三てき落ちた。貝原は身の置場所もなく恐縮きょうしゅくした。小初は涙を拭いた。そして今度はすこし優しい声音で云った。
「でも貝原さん、何もかも遠泳会過ぎにして下さい、ね。私、あなたのいい方だってことはよく知ってるのよ」

 二三日晴天が続いた。川上はだいぶ降ったと見えて、放水路の川面かわも赭土色あかつちいろを増してふくれ上った。中川放水路の堤の塔門型の水門はきりっと閉った。水泳場のある材木堀も界隈の蘆洲の根方もたっぷりと水嵩みずかさを増した。
 普通ふつうの顔をして貝原は毎日水泳場へ手伝いに来た。自分の持ちものの材木の流出を防いだり櫓台のいかりに石を結びつけたりした。そして見ないようなりをして、やっぱり小初の挙動に気をつけていた。
 小初は四日目に来た薫を、ちょっと周囲から遠ざかった蘆洲の中の塚山つかやまへ連れて行った。二人は甲羅干こうらぼしの風をしながら水着のまま並んで砂の上にそべった。小初は薫をなじるように云った。
「あんた、何でもあたしの方から仕向けなければ……ずるいのか、意気地いくじなしなのか、どっちなのよ」
 小初の言葉のしんにはきりきり真面目さがとおっていながら手つきはいくらかふざけたように、薫の背筋のみぞに砂をさあっと入れる。
「よしよ。ぼく、今日苦しんでるんだ」
 薫はひじで払いけるが、小初はかまわず背筋へ入れた砂をぽんぽんと平手でたたらして、
「ちっとも苦しんでるように見えないわ」
「この間、水の中で君に…………、こんなにれた」
 薫は黒くなっている唇の角をそうっと大事に差し出して見せる。
「あら、それでおこってるの」
「違う――君はとても強い。なまじっかなこと云い出せないもの」
 じりじりと照りつける陽の光と腹匍はらばいになった塚の熱砂の熱さとが、小初の肉体を上下からはさんで、いおうようない苦痛の甘美かんびに、小初をおとしいれる。小初は、「がったん、すっとこ、がったん、すっとこ」そういいながら、あらためて前に組み合せた両肘の上に下膨しもぶくれの顔をせてねむりそうな様子をする。
「なに、云ってるの」
「機械のベルトの音」
 ちょうど、水泳場と塚山と三角になる地点に貝原の持ちの製板場があって、機械の止まっているのが覗かれる。
「きゅう、きれきれきれきれきれ。これは機械のこが木をく音」
「ふざけるの、よしよ。真面目な相談だよ。僕は知ってる」
「知ってる? 何を」
「どうせ貝原に買われて行くんでしょう」
だれが、どこへ」
「知ってる。みんな」
「そんなこと、誰が云った」
「誰も云わない。だけど、僕、その位なこと、わかる男だ」
 薫は女のようななまめかしい両腕で涙を拭いた。小初は砂金のようにこまかく汗の玉の吹き出た薫の上半身へ頭をもたれ薫の手をとった。不憫ふびんで、そして、いま「男だ」と云ったばかりの薫の声が遠いむかしから自分にさずかっていた決定的な男性の声のような頼母たのもしさを感じてうれし泣きに泣けて来た。
「許す?」
「許すも許さないもありゃあしない」
「薫さん、ついておでよ。東京の真中で大びらに恋をしよう、ね」
 小初の涙が薫の手のこうを伝って指の間から熱砂のなかに沁み入った。薫はそれを涼しいもののように眼を細めて恍惚こうこつと眺め入っていたが、突然とつぜん野太い男のバスの声になって
「そりゃ、貝原さんはいい人さ、小初先生と僕のことだって大目に見ての上で世話する気かも知れませんさ。だけど、僕あ嫌いです。いくら、僕、中学出たての小僧こぞうだって、僕あそんな意気地無しにあ、なれません」
「じゃあ、どうすればいいの」
「どうも出来ません。僕あ、どうせ来月から貧乏びんぼう老朽親爺ろうきゅうおやじに代って場末のエナ会社の書記にならなけりゃならないし、小初先生は東京の真中で贅沢ぜいたくらさなけりゃならない人なんだもの」
 ダンスの帰りの料理屋でのいきさつ――小初を世話する約束やくそくのほぼ出来上ったことを貝原は友達である薫の父親にゆうべ打ち明けに行ったことを薫はとうとう小初にはなした。
 薫の弱い消極的なあきらめが、むしろ悲壮ひそう炎天下えんてんかで薫の顔をあおく白ました。
「何も、決定的な事じゃあるまいし……」と小初は云ったが語尾は他人のように声が遠のいて行った。小初は今日まで、貝原との約束をどう薫に打ち明けようか、思いなやんでいたのである。それに自分だとてまだ貝原との約束を全然決定し切れない心に苦しめられていたのであるけれど、薫の方から、云い出されてかえって小初の心はしんと静まり返ってゆくのだった。そしてだんだん虚脱きょだつに似た無批判になってゆく心境のなかにいつか涼しい一脈の境界がとおって来た。父に聞いた九淵のはなし、友が訳した希臘ギリシヤの狂詩――水中に潜む渾沌未分の世界……「どうでもいいわ」……小初はすべてをぶん流したあとの涼やかさを想像した。小初の泣き顔の涙も乾いて遠くの葦の葉ずれが、ひそひそと耳にささやくように聞える。小初はまたしても眠くなった。
 薫は腹這はらばいから立ち上った。腰だけの水泳着の浅いひだから綺麗な砂をほろほろこぼしながらいい体格の少年の姿で歩き出した。小初はしばらくそれを白日の不思議のように見上げていた。小初は急に突きのめされるような悲哀ひあいおそわれた。自分の肉体のたった一つの謬着物こうちゃくぶつをもぎ取られて、永遠に帰らぬ世界へ持ち去られるような気持ちに、小初は襲われた。
 小初もあわてて立ち上った。小初は薫の後を追って薫の腕へぎりぎりと自分の腕を捲きつけた。
「薫さん、だけど薫さん、遠泳会にはきっと来てね。精いっぱい泳ぎっこね。それでおわかれならお訣れとしようよ」
「うん」
「きっとよ、ね、きっと」
「うん、うん」
 そして、薫がしおれてのろのろと遠ざかって行くのが今さら身も世もなく、小初には悲しくなった。
 小初は元の砂地にすわって薫の後姿を見送った。風のないしんとした蘆洲のなかへ薫の姿は見えなくなって行った。
 小初は眠れなかった。急に重くなって来た気圧で、息苦しく、むし暑く、寝返りばかりうっていたせいでもあるが、とてもじっとしていられない悲しい精力が眠気を内部からしきりに小突き覚ました。傍で寝ている酒気を帯びた父のいびきのどにからまって苦しそうだ。父は中年で一たん治まった喘息ぜんそくが、またこの頃きざして来た。昨今さっこんの気候の変調が今夜は特別苦しそうだ。明日の遠泳会にも出られそうでない……。だが小初にはそんなことはどうでも、遠泳会の後にひかえている貝原との問題を、どう父に打ち明けたものかしらと気づかわれる。薫とのつらい気持もをひいているのに、父を見れば父を見るで、また父の気持ちを兼ねなければならない……小初は心づかれが一身に担い切れない思いがする。父は娘を神秘な童女に思いして、自家偶像崇拝慾ぐうぞうすうはいよくを満足せしめたい旧家の家長本能を、貝原との問題に対してどう処置するであろうか。自分の娘は超人的ちょうじんてきな水泳の天才である。このほこりが父の畢世ひっせいの理想でもあり、唯一ゆいいつの事業でもあった。そのため、父は母の歿後ぼつご、後妻ももらわないで不自由をしのんで来たのであったが、かげでは田舎者と罵倒ばとうしている貝原からめかけに要求され、薫と男女関係まであることを知ったなら父の最後の誇りも希望も※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり落されてしまうのである。
 うっかり打ちあけられるものではない……。だが都会人の気の弱いものが、一たんひるがえると思い切った偽悪者ぎあくしゃになることも、小初はよく下町で見受けている例である。貝原もそれを見越みこして父に安心しているのではないか。案外もろく父もそこにちいらぬとも限らない。陥ちいってくれることを自分は父に望むのか。それを望むよりほか二人の生きて行く道はないのか……。
 船虫が蚊帳の外のゆかでざわざわさわぐ。野鼠のねずみでも柱を伝って匍い上って来たのだろうか。小初は団扇うちわで二つ三つ床をたたいて追う。その音に寝呆ねぼけて呼びもしない父が、「え?」と返事をして寝返りをうつ、うつろな声。――あわれな父とそしてあわれな娘。
 小初は父の脱いだ薄い蒲団をそっと胸元へ掛け直してやった。
 小初はやみのなかでぱっちり眼を開けているうちに、いつか自分の体を両手ででていた。そして嗜好しこうかたよる自身の肉体について考え始めた。小初は子供のうち甘いものを嫌って塩せんべいしか偏愛へんあいして喰べようとしなかった自分を思い出した。自分は肉体も一種を限ってのほか接触にはえかねる素質を持っているのではないかと考えられて来た。自分は薫をさまで心で愛しているとは思わない。それだのになぜこうまで薫の肉体に訣れることが悲しいのか、単純な何の取柄とりえもない薫より、世の中をずっと苦労して来た貝原にむしろ性格のたの甲斐がいを感じるのに、肉体ばかりはかえって強く離反りはんして行こうとするのが、今日このごろはなおさらまざまざ判って来た。
 自分の肉体がむしろにくい――一方の生活慾を満足させようとあせりながら、その方法(貝原に買われること)に離反する。矛盾むじゅん我儘わがままに自分をなやめ抜く自分の肉体が今は小初に憎くなった。――こんな体……こんな私……いっそなくなってしまえばいい……。小初は子供のように野蛮やばんに自分の体の一ヶ処をひねってみた。痛いのか情けないのか、何かうらみに似たような涙がするすると流れ出た。また捻った……また捻った……すると思考がだんだん脱落していって頭が闇の底の方へ楽々と沈んで行った。
 小初は朝早く眼が覚めた。空は黄色くにごって、気圧は昨夜よりまだ重かった。寝巻一重ひとえはだはうすら冷たい。
「秋が早く来過ぎたかしらん」
 小初は独りごちながら窓から外を覗いてみた。
 もやだ。
 よく見ていると靄は水上からだんだん灰白色の厚味を増して来る。近くの蘆洲は重たいつゆでしどろもどろに倒れている。
 今日は青海流水泳場の遠泳会の日なのである。
 小初は気が重かった。体もどこか疲れていた。けれども、父親の老先生が朝食後ひどく眩暈めまいもよおして水にはいれぬことになってしまったので、小初先生が先導と決った。
 十時頃から靄は雨靄と変ってしまった。けだるい雨がぽつりぽつり降って来た。
 小初は気のない顔をして少しずつ集って来る生徒達に応待していたが、助手格の貝原が平気な顔で見張船の用意に出かけたりする働き振りにみょう抵抗ていこうするような気持が出て、不自然なほど快活になった。
「みなさん。大丈夫よ。いまじき晴れて来ますわよ」
 小初が赤い小旗を振って先に歩き出すと、雨で集りの悪い生徒達の団体がいつもの大勢の時より、もっと陽気にはしゃぎ出した。
 薫も途中から来て交った。れた道を遠泳会の一行は葛西川かさいがわたもとまで歩いた。そこから放水路の水へすべんで、舟にまもられながら海へ下って行くのだ。
 小初が先頭に水に入った。男生、女生が二列になってあとに続いた。列には泳ぎ達者が一人ずつ目印の小旗を持って先頭に泳いだ。
 水の濁りはだいぶとれたが、まだ草の葉や材木の片があわに混って流れている。大潮の日を選んであるので、流れは人数のわずかな遠泳隊をついつい引き潮の勢いに乗せて海へいて行く。
 靄に透けてわずかに見える両岸が唯一の頼みだった。小初のすぐあとに貝原が目印の小旗を持って泳いで来る。薫はときどき小初の側面へ泳ぎ出る。黙って泳いでいる。生徒達は今日の遠泳会を一度も船へ上って休まず、コースを首尾好しゅびよく泳ぎおおせれば一級ずつ昇級するのである。彼は勇んで「ホイヨー」「ホイヨー」と、掛声を挙げながら、ついて来る。
 行く手に浮寝うきねしていた白い鳥の群が羽ばたいて立った。勇み立って列の中で抜手ぬきてを切る生徒があると貝原が大声で怒鳴どなった。
「くたびれるから抜手を切っちゃいかん」
 河口西側の蘆洲をかすめて靄のすきから市の汚水おすい処分場が見え出した。
 ここまで来ると潮はかなり引いていて、背の高い子供は、足を延ばすと、爪先つまさきがちょいちょい底の砂に触れた。
 小初は振り返って云った。
「さあ、ここからみんな抜き手よ」
 やがて一行はおうぎ形に開く河口から漠々ばくばくとした水と空間の中へ泳ぎ入った。小初はだんだん泳ぎ抜き、離れて、たった一人進んでいるのか退いているのか、ただ無限の中に手足を動かしている気がし出した。小初が無闇に泳ぎ抜くのは、小初が興奮しているからである。初め小初は時々自分の側面に出て来る薫の肉体に胸がおどった。が、その感じが貝原の小初を呼び立てる高声に交り合ううち、両方から同時に受ける感じがだんだんいまわしくなって来た。反感のような興奮がだんだん小初の心身を疲らせて来ると薫の肉体を見るのも生々しい負担になった。貝原の高声もうるさくなった。小初は無闇やたらに泳ぎ出した。生徒達の一行にさえ頓着なしに泳ぎだした。するうち小初に不思議な性根しょうねすわって来た。
 こせこせしたものは一切げ捨ててしまえ、生れたてのほやほやの人間になってしまえ。向うものが運命なら運命のぎりぎりの根元のところへ、向うものが事情なら、これ以上割り切れない種子のところに詰め寄って、掛値かけねなしの一騎打いっきうちの勝負をしよう。この勝負を試すには、決して目的を立ててはいけない。決して打算をしてはいけない。自分の一切をさいにして、投げてみるだけだ。そこから本当に再び立ち上がれる大丈夫な命が見付かって来よう。今、なんにもおしむな。今、自分の持ち合せ全部をみんな抛げ捨てろ――一切合財を抛げ捨てろ――。

 渾沌未分…………
 渾沌未分…………
 小初がひたすら進み入ろうとするその世界は、果てしも知らぬ白濁はくだくの波の彼方かなたの渾沌未分の世界である。
「泳ぎつくところまで……どこまでも……どこまでも……誰も決してついて来るな」
 と口に出しては云わなかったが、小初は高まる波間に首を上げて、背後の波間に二人の男のついて来るのを認めた。薫は黙って抜き手を切るばかり、貝原は懸命けんめいな抜き手の間から怒鳴り立てた。
「ばか……どこまで行くんだ……ばか、きちがい……小初……先生……小初先生……ばか……ばか……」
 風の加った雨脚あまあしの激しい海の真只中まっただなかだ。もはや、小初の背後の波間には追って来る一人の男の姿も見えない。灰色の恍惚からあふれ出る涙をぼろぼろこぼしながら、小初はどこまでもどこまでも白濁無限の波に向って抜き手を切って行くのであった。
(昭和十一年九月)

底本:「ちくま日本文学全集 岡本かの子」筑摩書房
   1992(平成4)年2月20日第1刷発行
   1998(平成10)年3月15日第2刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年〜1978(昭和53)年
初出:「文芸」
   1936(昭和11)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月29日作成
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