遺言文学

    無名作家Nの情熱(上)

 プロレタリア作家が、現在、どんなに困難な道を歩いてゐるか、といふ事は、クド/\と述べ立てる必要の無い事であらう。
 それにしても、私は、今、一つの話をしないではをれない。
 私たちの友人のNは、無名作家である。Aといふ批評家が紹介して、私たちのグループに入つたのだつた。
 このNは、もう三十を越してゐるのであるが、体が小さくて細くて、けいれんの発作があつて、その上、視力が、常人の三分の一しか無いのである。視力の不足なのは、幼少の時からの絶えざる栄養不良と、不足から来たのであつた。
 炭坑夫をしたり、刑務所の内を潜つたり、しながら、東京へ流れついて、私たちのグループに入つた。体が小さくて、弱い病身ではあるが、火のやうな階級的情熱を持つてゐる。
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 Aでも、Mでも、私でも、借家争議といふ事になると、いつも、このN君を留守番に頼んで、闘つてもらふのが常であつた。
 ところが、目的は、プロレタリア作家として、その闘争力を、ペンと紙とを通じて、読者に訴へることにある。だが、この点になると、Nのペンは、心臓の速さに追つつけないのであつた。いつでも書くものが、主観的に、自分で先にカンシャク許り起してゐるものだから、読者に分らないのであつた。
 私たちは、お互に、励まし合ひ、研究し合つたが、私にも、Nにも、カン所がつかめなかつた。
 そのうち私一家は、一時田舎に落ちのびて、留守は、N君とH君とに委せて置いた。落ちのびた私たちも、留守の両君も、現在の失業者のなめるのと、同じ悩みを味つたのはいふ迄も無い。
 ところが、私の居ない間に、私たちの属してゐた、文学上のグループが、どういふ訳だか、グラつき始めた。私は、遠く、離れて居たものだから、単に、経済上の問題であらう、と思つてゐた。
 その問題ならば、自分が帰つたところで、手ブラで帰つたのでは、邪魔になるだけなのだから、それよりも、年来の目論見である、水力発電所に関する長編でも、書きあげようと、発電所の見おろせる鳥屋にガン張つてゐた。
 そのうちに、同志のSやIなどが、「あつさりやめた。心配するな。帰つたらゆつくり話す」といふ、簡単極まるハガキを、私の旅先きに寄越した。Sは、私たちのグループの中で、文学的にもであるが、生活的に、全身的に、階級闘争に、もつともピッタリくつついてゐる男である。Iも、文学的に野心が多く、闘争の中にすつかりはまり込んだ、といつた風な男である。
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 私は、文学の上では、兎も角、運動の上では、他の人たちを捨てても、Sたちと行動を共にしなければならないと思つた。
 で、私は、田舎から慌てて帰つて来た。
 そして、別れなくていゝものなら、別れないやうにしようと、いろいろ、骨を折つて見た。
 が、後で、いろいろ、理論めいて、えらさうな事はいへようが、そんな名目論や、ゴマ化しで無いものが、底の方に流れてゐる、といふ事が、二三日して、ぼんやり私にも分つて来た。

    空家に籠つてこの一念(中)

 Sや、Nを、文学的ルンペンなどと、たつた一ヶ月前まで位、一緒にやつて来た者で、ぬけ/\といふ奴もあるが、そんなのは、いつでも、私が、面の皮をヒン剥いてやる。ペンや、口でなら、何とでもいへる。
 今まで、我々と分れて、えらさうな口を利いて、消えて無くなつた者が、どの位あるかを考へた方がよからう。そこで、その深い、底の方を流れてゐるものは、「何」であるか、といふ事を、私は探求しにかゝつた。そして、それが、ひどく文字には現し難い気持ちではあるが、「捨て身」なもの、であるといふことが分つた。
「Sは、捨て身でやつてゐないだらうか?」「いや、やつてる!」
 と私は考へた。
 そこで、私は、この「捨て身」で階級闘争の中に入つてゐる、同志と別れることは、出来ないと考へた。
 さういふ訳で、いくらか、余裕を持つて、やらうといふ者と私も別れてしまつた。
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 それから、私たちは、残つた連中にいはせると、「組織もヘチマも無い居心地のいゝ『クラブ』に尻を落ちつけたのである」
 私たちの「挨拶状の本質は、隅から隅までのルンペン的、芸術至上主義的偏向をバクロした」
 よろしい。いくらでも、張りよい、小型のビラを、僕等の背中に張りつけるがよい。
 今東光を、藤森成吉を、片岡鉄兵を、中条百合子を、信用しようとも、しもしなかつた私たちである。
 私自身についていへば、諸君のいふ通り、「隅から隅までルンペンである」かも知れない。それは、私も、絶えず、私に反問し、反省してゐる所である。だが、さういつたのは誰であるか。
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 それから、私たちは、文学の事はクラブで、政治、経済上の闘争は、それ/″\の所属の団体で、とハッキリして、運動に入つた。
 文士といふ、ハンデキャップをつけて、政治上経済上の闘争に、さ迷ひ込まれては、お互に迷惑だ。
 今、「ルンペン共」は、社会大衆党の内部で「右翼的偏向」と闘つてゐる。
 さて、本題に立ち帰つて、「どうすれば、真実な意味の、強いプロレタリア文学が生れるか」
 私は、調べた芸術とか、プロレタリアリアリズムとか、難かしいもつともらしい文句から、全つ切り、傍道へ外れ込んだ。
 私には、文学士の肩書も無ければ、それらしい何にも無い、参考にすべき外国の書籍も読めない。
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「えゝい! 捨て身でブッつかれ!」と、私は又、捨て身を引つ張りだした。その「捨て身」から、何と、私は、「遺言文学」といふ、文句を思ひついちまつたのだ。
「遺言文学」の文句を思ひついたのは、妻子を田舎に残して、私は一人で、間借りしてゐる、空家の二階であつた。家主も、世智辛くなつたと見えて、空家の分割貸しを始めやがつた。

    これこそプロ文学を守る道(下)

 Nに、私は、この「遺言文学」を奨めたのである。それは、Nに自殺を強ひるにも等しい程、惨酷な事であつた。
「だが、君といふ肉体は、一つの遺言も残さないで死ねば、それつ切りだ。だが、君が、現在の世の中に対して持つてゐる、支配階級へのじゆそ、君と同じやうに踏みくだかれてゐる者への愛情や涙、この不合理から自分自身を解放する為の組織、さういふものを、死を決して、遺言として残す積りでかゝれば、必ず人を打ち、動かすものが書けると思ふ。僕たち、労働者出の作家には、それ以外に何の材料も無いでは無いか。小細工を弄する時ではない、と僕は思ふ。実際、君にしろ、僕にしろ、皆が、自殺か何かを考へないではゐられない時代なのだからねえ」
 さう、私はいつてしまつて、後で、Nの顔を見る事が出来なかつた。
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 文学は惨酷なものである。
 もし、「遺言の積りで書いたもの」が、人を感動させる事も、面白くも可笑しくも、無いものであつたら、どうであらう。
「それは、まだ君が、『遺言の積り』であつて、『真実の遺言』で無いからだ、と、真実の遺言を書かせちまはなければ、プロレタリア文学はならないだらうか?」
 まだしも、「それはルンペンだ」とか、「それは右翼的偏向だ」とか、何だかだといはれてる方が、楽な気持であらう。
     *
 Nは、それから、一ヶ月許り姿を見せなかつた。私は、非常に心配した。で、絶えず、空家の二階から、おとし穴のやうなNの借間を訪問した。Nは、党支部の仕事でゐない事が、間々あつた。
「遺言文学なんて出たら目を、気にかけないでゐてくれるやうに」と、私は願つてゐた。だが遺言よりもいゝものを書いて、苦しんでゐる、プロレタリア農民を、鼓舞し、慰め、立ち上らせてくれるやうな、素晴らしいものを、創り上げてくれるやうに、とも願つてゐた。
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 それから、一ヶ月の後に、私たちの、プロレタリア作家クラブで、朗読会をやつた。その時は、各々自作の作品を朗読するのであるが二つの素晴らしい作品が、朗読された。その一つは、私の心配してゐた、Nのものであつた。Nの小説が、中途までくると、私は、仰向けに寝転がつて、溢れる涙をそうつと、たもとでふいた。が、ふいてもふいても、ふき切れない程の、涙が、腹の底から沸きだした。
 Nが読み終つた時、長い、深い、沈黙があるだけだつた。咳もしなかつた。
 暫くして、同志Sが、やうやく口を切つた。
「あゝ、またおれは追ひ抜かれた!」
「素、素、素晴らしい!」
 と、叫んだ。私の声は、まるで私の子供のと、すつかり同じ泣き声だつた。
     *
 この小説は、外の、捨て身な作品と共に、私たちの生活を、文字通りに食ひ込む雑誌の創刊号に発表される。
 私たちは、困難な時代に生きてゐる。そして、プロレタリア文学の道は、全く、困難な道を行き悩んでゐる。だが、私たちは、「捨て身」で、「遺言」の積りで、プロレタリア文学の道を守つて行かうと思つてゐる。

底本:「日本の名随筆 別巻17 遺言」作品社
   1992(平成4)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「葉山嘉樹全集 第五巻」筑摩書房
   1976(昭和51)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:渡邉つよし
校正:もりみつじゅんじ
2000年11月6日公開
2006年3月17日修正
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