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はしがき
私は『博物館』といふ題で書くことになりましたが、何分博物館といつても、美術考古博物館もあり、科學博物館もあり、そのほかいろ/\の博物館があるので、それを一々説明すれば百科の學を講釋することになり、それは私には出來ない藝當であるのみならず、一册の本にはとうてい收め切れません。しかし幸ひ美術や自然科學のお話は、別に諸先生が筆を執られてゐることゝ思ひますから、私は博物館のうち考古學の博物館のことだけを書くことにし、この一册の本によつて若い人達に考古學の大體のお話しをすることにいたしました。たゞ何分書物の標題が『博物館』となつてゐますので、始めに少しばかり博物館全體のことを述べて置きます。
考古學のお話しをする爲めには、どうしても實物をお見せするか、せめて寫眞や繪をお目にかけなくてはよくわかりかねます。それで、この本にもわりあひにたくさん繪を入れて置きました。そのうち霜島正一郎[#「霜島正一郎」はママ]先生の手になつたものもありますが、便宜上私の描いた拙い素人畫もたくさんあるのは、おゆるしを願ふほかはありません。またこの本を書くにあたつて、松本龍太郎さんにいろ/\御厄介になつたことを、こゝで厚くお禮を申しあげて置きます。
昭和四年七月
濱田青陵
[#改ページ]目次
第一、序の卷
一、博物館とはどういふ所ですか
イ、博物館の種類
ロ、博物館の施設
二、世界各國の大博物館
イ、イギリスの博物館[#「博物館」は本文見出しでは「大博物館」]
ロ、フランス、ドイツその他の博物館
ハ、アメリカの博物館
ニ、世界で珍しい博物館
第二、考古博物館の卷(上)イ、博物館の種類
ロ、博物館の施設
二、世界各國の大博物館
イ、イギリスの博物館[#「博物館」は本文見出しでは「大博物館」]
ロ、フランス、ドイツその他の博物館
ハ、アメリカの博物館
ニ、世界で珍しい博物館
一、考古學とはどういふ學問ですか
イ、考古學と考古博物館
ロ、人類の始め
ハ、文化の三時代
二、舊石器時代室
イ、舊石器の種類
ロ、舊石器時代の繪畫など
三、新石器時代室
イ、貝塚と湖上住居
ロ、磨製石器と土器
ハ、巨石記念物
ニ、金屬の發見と使用
第三、考古博物館の卷(下)イ、考古學と考古博物館
ロ、人類の始め
ハ、文化の三時代
二、舊石器時代室
イ、舊石器の種類
ロ、舊石器時代の繪畫など
三、新石器時代室
イ、貝塚と湖上住居
ロ、磨製石器と土器
ハ、巨石記念物
ニ、金屬の發見と使用
一、日本先史時代室
イ、日本の石器時代
ロ、貝塚、墓地などの遺跡
ハ、石器と骨角器
ニ、土器と土偶
ホ、朝鮮と支那の石器
ヘ、青銅器と銅鐸
二、日本原史時代室
イ、日本の古墳
ロ、埴輪と石人
ハ、石棺と石室
ニ、上古の帝陵
ホ、勾玉などの玉類
ヘ、古い鏡
ト、刀劒と甲胄
チ、馬具、土器その他
リ、建築、彫刻、繪畫など
ヌ、古瓦と古建築
三、朝鮮滿洲の古墳室
イ、南朝鮮の古墳
ロ、北朝鮮及び滿洲の古墳
[#改丁]イ、日本の石器時代
ロ、貝塚、墓地などの遺跡
ハ、石器と骨角器
ニ、土器と土偶
ホ、朝鮮と支那の石器
ヘ、青銅器と銅鐸
二、日本原史時代室
イ、日本の古墳
ロ、埴輪と石人
ハ、石棺と石室
ニ、上古の帝陵
ホ、勾玉などの玉類
ヘ、古い鏡
ト、刀劒と甲胄
チ、馬具、土器その他
リ、建築、彫刻、繪畫など
ヌ、古瓦と古建築
三、朝鮮滿洲の古墳室
イ、南朝鮮の古墳
ロ、北朝鮮及び滿洲の古墳
博物館
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裝幀・恩地孝四郎
島田貞彦
口繪・霜島正三郎
繪・霜島正三郎
濱田青陵
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第一、序の卷
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一、博物館とはどういふ所ですか
(イ) 博物館の種類
皆さんは、博物館といふ所を見たことがありますか。博物館にはいろ/\の美しいものや珍しい品物が竝べてあります。皆さんのなかには、博物館に竝べてあるものは金錢で買ふことの出來ないといふことが、たゞ三越や大丸などのでぱーとめんと・すとあーと違つてゐるところだと思ふ人があるかも知れません。またそれらの店よりも面白いものや綺麗な物が少いところだといふ人があるかも知れません。しかし博物館とでぱーとめんと・すとあーとの違ひは、けっしてそのような點ばかりではないのです。でぱーとめんと・すとあーではお客の眼を惹くように、美しいものや珍しいものを、たいてい、なんの秩序もなく竝べ立てゝありますが、博物館の陳列品は皆、種類をわけ順序をつけ、その品物には一々わかるような説明をつけて、それを見て廻るうちに自然に學問が出來るようにしてあるのです。それで博物館は品物を買ひに行くところでもなく、また遊びに行くところでもありません。皆さんの學校と同じように勉強をしたり、學問をする場所なのです。もっとも學校と違ふところは、博物館には先生がをられません。また時間も一時間づゝきまつて勉強するようには出來てをりませんから、誰でも博物館に行つた人は、自由に勉強が出來、時間にしばられるといふ窮屈な思ひはありません。けれども、先生のように親切に教へて下さる人はなく、休みの時間にお友達と面白く遊ぶことが出來ないから、時には退屈することもありませう。
博物館には皆さんの知つてゐるように、種々の品物が竝べてありますが、たいていはある種類のものばかりを選んで、陳列してあるのです。例へば東京の上野公園や、奈良にある帝室博物館とか、また京都の恩賜京都博物館などには、古い繪畫や彫刻や、陶器などのような美術品ばかりが陳列してあります。このように美術品ばかりを陳列する博物館を美術博物館あるひはこれを略して美術館とも呼びます。それから歴史に關係ある品物ばかりを陳列した博物館は歴史博物館といひます。また鑛物や動植物のような博物學に關する標本類ばかりを陳列してある所は博物學博物館といふことが出來ます。その他貝殼ばかりを竝べた貝類博物館、電氣に關するものを竝べた電氣博物館といふように、陳列品の種類は大わけにも小わけにも隨意に區別することが出來ます。
[#「第二圖 京都恩賜博物館」のキャプション付きの図(fig18371_03.png)入る]
私達の知識を廣め學問の爲になる品物は千差萬別で、その種類は實に無限に多いのでありますから、これをみんな一つの場所に集めて陳列することは容易でありませんし、またさうした博物館をこしらへるには非常に大きな建て物が入る、それを見て廻るだけでも二日も三日もかゝり、かへって不便になります。だから世界のどの國でも、陳列物の種類によつて博物館をわけてをります。それで大きくわける場合はたいてい前に申した美術や歴史に關するものを一まとめにしたものと、博物學に關するものを一まとめにしたものとの二種類に區別するのでありまして、この二つの博物館がたいてい違つた場所につくられてをります。そのほか陳列品を小さく區別した特別の博物館がたくさんあることは申すまでもありません。もちろん大きな博物館の建て物は立派であつて、その國や町の飾り物としては結構でありますが、これを見物する人や勉強する人達には不便が多いのですから、それよりも小じんまりとした博物館で、内容の整つたものゝ方がよいといふことになるのであります。ちょうど皆さんの學校でも、あまり大きい學校はかへって勉強に不便のことがあるのと同じです。
(ロ) 博物館の施設
博物館は、最初にも申したとほり、たゞ珍しいものや美しいものをたくさんに竝べるといふところではなくて、それらがあるひは年代の順に、あるひは地方の別にといふふうに、品物を順序よく系統を立てゝ竝べ、これを見る人が知識を廣め學問をするために作られたものでありますから、博物館の良い惡いといふことはその所に竝べてあるものが多いか、少いとかいふことよりも、また珍しいものがあるとかないとかいふよりも、その竝べ方が良く出來てゐるかゐないかといふのできまるのであります。だからいくら珍しい品が多く、また良いものがたくさんに竝べてあつても、その竝べ方に秩序がなくめちゃ/\であつたりしては、學問をするのにいっこう役に立たないのであります。ほんとうに良い博物館は今いつたとほり、品物の竝べ方が系統的に出來てゐる上に、竝べてある品物の目録が完全に作られてゐなければなりません。さうでないとわれ/\は博物館で知識を廣め勉強することが工合よくまゐりません。それで博物館には、どうしても一つ/\の品物の名前、その他必要の事柄を書き記した目録が出版せられなくてはならないのであつて、その目録の中には簡單な品物の説明と、必要に應じて圖畫のようなものも挿し入れなければならぬのであります。世界の各國にある大博物館では、皆、さうした立派な目録が出版されてをりますから、博物館に行く人は、それらの目録を安く買ふことが出來、その目録と竝べてある品物とを照し合せて、容易く研究することが出來るのであります。
[#「第四圖 京城總督府博物館」のキャプション付きの図(fig18371_05.png)入る]
博物館では、また目録書のほかに、陳列品について手輕に知ることが出來るために、いろ/\の書物が出版されてあつたり、繪葉書なども作られてあつて、見物人が容易くこれを買ひ受けて記念にもし、また後日の想ひ出の緒にもなるようになつてゐます。繪葉書より大きな寫眞の必要な人には、その希望にまかせてそれ/″\の寫眞を賣るようにもなつてゐるのです。更に博物館では外より來た見物人や學者達に研究させるばかりでなく、博物館にゐる人自身がその陳列品を利用して研究を重ね、それに關する立派な書物をどし/\出版してゐる例がたくさんにあります。かように目録やそれ以外の書物が出版せられて、研究の結果が發表されるようにならなければ、眞の博物館の役目は達せられないのであります。大きい博物館をつくることは金さへあれば容易でありますが、良い博物館をつくることは金以外更に知識が必要でありますから、餘程困難なことになります。
また博物館が學問をするのにいくらつごうよく出來てゐても、館内の設備がよく調はねばだめです。冬の寒い日に暖房がなかつたりしたら寒氣のために落ちついて勉強することも出來ないのです。西洋の大きな博物館では、良い目録や良い研究書物が出版されてゐるばかりでなく、館内の設備も完全に出來てゐて、愉快に見物されるようになつてゐます。たいていの部屋には氣持ちのよい長椅子が置いてあつて、見物人はゆっくりと腰を下して美しい繪を見たり、彫刻をたのしんで眺めたりすることが出來、また暖房のあるために冬の日も館内は春のように暖く過すことが出來ます。そしてたいていの博物館の地下室には便利な食堂、かふぇーなどが設けられ、食事もできるし、お茶も飮めるしといふようになつてゐますから、戸外運動をしない人々は、日曜日には教會から博物館へ來て一日を愉快に暮すのであります。日本においても將來設けられる博物館は、かうした設備を整へる必要があると思ひます。さうでないと樂しんで博物館に行く人もなく、博物館は學校の教室よりも、一そう無趣味のところになつてしまひませう。
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二、世界各國の大博物館
(イ) イギリスの大博物館[#「大博物館」は目次では「博物館」]
わが國では、學校は大都會はもとより田舍の町や村にも立派なのがたくさんにあつて、日本ほど學校のよく整つた國は世界中にも少いといはれてをりますが、これに反して學校の名はなくても、學校と同じ役目をする博物館は實に貧弱であつて、わづかに東京、京都、奈良の三箇所に美術博物館がある外、これといふものもないのは甚だ殘念です。これは日本人がまだ學問をするには學校だけで十分であるといふような、間違つた考へを持つてゐることから來たものでありませうが、今後は學校以外に、圖書館や博物館が學校同樣に日本國中到る處に出來て、學校において先生から學問を教はりながら、また學校を出てから皆さんが自分で圖書館や博物館へ行つて、學問をやるようにならなければいけないと思ひます。
現在わが國にある博物館はその數が少いばかりでなく、殘念ながら世界に押し出して優れた博物館とは申すことが出來ません。そこで世界で指折りの博物館といへば、どうしても西洋にあるのを擧げなければならないのです。しかし、どの國の博物館が最も良いかといふようなことは、容易に斷言するわけにはまゐりません。各々博物館にはそれ/″\の特色があり、建て物がわりあひに粗末でも、陳列品に優れたものが多いとか、陳列の方法が良いとか、いろ/\の事情があつて、博物館の優劣をきめることは餘程困難ですが、なんといつてもヨーロッパにおいて有名な博物館は、まづ第一にイギリスのロンドンにある大英博物館を擧げなければなりません。こゝは美術と歴史の方面に關する品物だけを集めた博物館でありまして、今から四千年も五千年も前に開けたエヂプトやアッシリヤ、それからやゝ下つてギリシヤ、ローマ時代の文化を語る古美術品はもとより支那、日本のような東洋のものを多數、しかも優れたものを集めてあります。この博物館で一番珍しいものは何かとたづねられると、ちょっと返答に惑ひますが、エヂプト、ギリシヤ、アッシリアの古美術品は世界中どこの博物館にも、これに優るものは少いといはれてをります。あのエヂプトの繪文字を讀み始める手がゝりになつた『ロセッタ・ストーン』といふ石、ギリシヤの『パルテノン』といふ御堂にあつた彫刻もこゝにあります。それだけでも、いかに珍しいものがあるかといふことは推察出來るでせう。そしてこの博物館にはまた立派な圖書館が設けてありまして、勉強するにまことにつごうよく出來てゐます。こゝを一應見物するだけでも一日を要しますが、入場は無料であり、傘や杖を預つてくれても賃錢を取りません。毎日見物や勉強のために、入場する人々は非常にたくさんあつて、ちようど博覽會へ行つたほどの賑ひです。この大英博物館が專ら古代のものを蒐集してゐますのに對して、今少し新しい時代の美術品や歴史に關するものを陳列したものに、ビクトリア・アルバート博物館といふのがロンドンにあります。その大きさも大英博物館に肩を竝べるくらゐあつて立派な博物館です。
前の二つの博物館は美術と歴史の方面に關したものでありますが、ロンドンには博物學の方面の大きな博物館もあります。それは、サウス・ケンシントン博物館です。こゝには動植鑛物を始め、理科に關する標本が完備してゐます。そして子供や素人のためにいろ/\興味を惹くように竝べてありますので、年の若い學校の生徒なども大勢見物に出かけます。たとへば昆蟲の標本室にはひつて見ますと、珍しい蝶々や甲蟲などの變つた種類のものが驚く程たくさんに集めてあります。またその室の兩側の壁近くには、幾百といふ多くの引き出しがあつて、種類別に整理した昆蟲標本でいっぱいになつてをり、誰でも勝手に出して見ることが出來るので、自由に勉強が出來る設備になつてをります。そのほか大きな動物の標本には象や鯨もあり、鑛物や植物の標本もすっかり揃つてゐることは申すまでもありません。更にロンドンには古代の繪畫ばかりを集めた博物館だとか、肖像畫を專門に竝べた博物館だとか、ロンドン市に關する歴史の材料を集めた博物館だとか、インドに關する資料ばかりを集めた博物館だとか、昔から今日まで戰爭に使つた武器ばかりを陳列した博物館だとか、汽車、汽船、電車、飛行機のような交通に關する機械類を集めた博物館だとかゞ、こゝかしこにたくさんにありますから、これ等を一とほり見物して歩くだけでも、ロンドンで一週間ぐらゐは、大丈夫かゝるでせう。ロンドン以外では、スコットランドのエヂンバラを始めイギリスの大都市、地方の町や村にある博物館を一つ/\數へ擧ぐるならば數百にも達するくらゐであります。しかもロンドン以外の町にもわが東京の帝室博物館ぐらゐのものが無數にあるのは、なんと羨ましい[#「羨ましい」は底本では「羨ましい」]ことではありませんか。
(ロ) フランス、ドイツその他の博物館
フランスの都パリにも、またロンドンに劣らないほどの大きな博物館があります。それはルーヴル博物館です。こゝには古代の美術や歴史に關する物が陳列されてありますが、中でもギリシヤの彫刻だとか、アッシリアやエヂプトなどの古い品物では世界に比類のない程の立派なものが集められ、陳列品の價値ある點から見ても、大英博物館にけっして負けないのであります。ルーヴルには圖書館が附設されてない代りに、古い繪の博物館が含まれてをります。殊にこの古い繪の方では、他にこれと肩を竝べる程のものはないといはれてをります。たゞこの博物館は昔の建て物をそのまゝ使つてゐるので、光線の工合が少しく惡いのが缺點ともいへるでせう。ルーヴルの他にパリで有名なのは、歴史に關するものを竝べたクルニー博物館、郊外に出ますと、サン・ジェルマンの博物館といふ考古學の博物館があります。
つぎにドイツへ行きますと、首府ベルリンにはいふまでもなく多くの博物館があります。フリィドリッヒ帝[#「フリィドリッヒ帝」は底本では「フリィドノッヒ帝」]博物館などには古い美術品ばかりが集めてあり、ベルガモンといふ所から持つて來たギリシヤの彫刻を容れるため、すばらしい設備がしてあります。また日本支那その他東洋の美術品を集めた博物館だとか、世界各國人種の土俗品を網羅した博物館だとかゞこの大都會を飾つてをりますが、ロンドンやパリの大博物館に比べては、新しく出來たゞけに少し見劣りがするようであります。しかしドイツではベルリン以外の都會に、かへってベルリンよりも大きくて、しかも立派な博物館が少からずあります。その中でも名高いものには、ドレスデンの繪畫博物館、ミュンヘンの繪畫館、同彫刻館などを擧げなくてはなりますまい。ミュンヘンには、また自然科學、(理科)に關する方面の博物館で、世界中で一番よく整ふたものが近頃建てられました。ドイツ博物館といふのがそれです。この博物館には電車のことでも、汽車のことでも、飛行機のことでも、潜水艦のことでも、らぢおのことでも、また鑛山のこと、印刷のこと、その他なんでも理科の學問を應用した爲事に關する品物を、それ/″\その發達の順序に應じて竝べてあります。そして、見物人が自分で隨意にぼたんを押すときは、電氣仕掛けに通じて機械が動き出し、見物人自身で實驗が自由に出來るようになつてをります。ですからもし博物館を詳細に見て行つたならば、中學校や大學などに入學しなくとも、ひとりで學問が出來るであらうと思はれるぐらゐに、すべてに完備してゐるのにはまったく驚嘆せられます。
オーストリアのウインの町にも、ベルリンよりも一そう立派な博物館が二つもあります。イタリイに行きますと、ローマにはバチカン博物館を始め、古美術品を陳列した良い博物館が二つ三つありますし、ネープルスやフローレンス、ミランその他にも大博物館が無數にあります。イタリイは古い時代に文化の榮えた國でありますから、これ等の博物館に收めてあるものには秀れた品が多く、とうてい他の國々では見られないものがたくさんあります。毎年イタリイを旅行する人は非常に多いのでありますが、イタリイ滯在の半は、博物館で過し、あとの半はローマだとかポムペイだとかの舊蹟を巡遊するといふあり樣であります。以上の他、ヨーロッパではスペインのマドリッド、デンマルクのコウペンハーゲン、スェーデンのストックホルムといふような都市には、イギリスやドイツやフランス等にもあまり劣らない博物館があつて、よし國は小さくても博物館や圖書館だけは、大國と肩を竝べることが出來るくらゐのものがあります。軍艦や兵隊では競爭は出來なくとも、かうしたもので負けないで行かうといふのです。ロシヤにも昔から大きい博物館がありますが、モスコーやレニングラードにある博物館は、ヨーロッパ第一流のものに比べてけっして劣らないといはれてをります。トルコの都にも立派な博物館があつて、なか/\有名であります。
また、これはヨーロッパではありませんが、アフリカのエヂプトのカイロには、古いエヂプトの遺物ばかりを竝べてある大きな博物館があります。ぴらみっとや古い墓から出たいろ/\の寶物が一ぱいありまして、今から四五千年前の王樣のみいらも、そのまゝ見ることが出來ます。また近頃發掘されたツタンカーメンといふ王樣のお墓から出た黄金づくめのすてきな品物が山のように陳列せられて、見る人をびっくりさせてをります。
(ハ) アメリカの博物館
[#「第十圖 メトロポリタン博物館ギリシヤ室中庭」のキャプション付きの図(fig18371_11.png)入る]
アメリカといふ國は、皆さんも知つてゐるとほり新しい國でありますが、非常にお金持ちでありますから、ぜいたくをつくした立派な博物館が近頃たくさんに造られ、その建て物や設備においてはヨーロッパ諸國のとても及ばないものが少からずあります。その中でも大きい美術博物館としてロンドンの大英博物館、パリのルーヴル博物館に優るとも劣らないものは、ニューヨークのメトロポリタン博物館でありませう。こゝにはエヂプト、ギリシヤその他西洋の古美術はもとより、日本支那を始め東洋諸國のものを非常にたくさん集めてあつて、とうてい一日や二日では全部見て廻ることは出來ないのであります。しかもこの博物館で見物人を驚かすものは、そのギリシヤ、ローマの部屋の一部にイタリイのポムペイで發掘された昔の家の客間そのまゝを模造してあることです。眞中には庭園があり、噴水が絶えず水を噴き出し、あたりには青々と繁つた庭木も植ゑてあり、熱い夏の日でも涼しい感じを與へ、さながら昔の時代の人となつてポムペイにゐるような思ひがいたします。これはアメリカばかりでなく、ヨーロッパの博物館にもありますが、古い彫刻などは皆臺の上に乘せてあつて、ぼたんを押せばそれが自由に廻轉するようになつてをりますので、見物人は一つ所に立つてゐながら、前後左右からその品物を見ることの出來るのは實に便利な仕掛けではありませんか。またボストンには、メトロポリタンにも劣らない程の美術館があります。その日本部には日本においてさへ見られないような古い美術品もあり、日本の建築や床の間のようなものを作つて、陳列してあるのには感心されます。これらの品は日本人が美術の價値を知らない時代に海外へ賣つてしまつたものであつて、今では日本に買ひ戻すことも出來ないのです。またワシントンのフリヤー・ガレリーといふ美術館は、支那の古畫をもつて特色としてゐます。それからフィラデルフィアの大學附屬博物館にも、また支那の古い時代の彫刻などにすばらしい立派なのがあります。かようにアメリカの博物館はなか/\侮り難い勢ひをもつてゐるばかりでなく、近年は支那などから出る古美術品は金錢を厭はず購入するといふ状態ですから、ヨーロッパ諸國はこの點ではとても勝てないことになりました。
博物學方面の博物館も立派なのが各地に設けてありますが、ことにワシントン、シカゴ、ニューヨークなどにあるものはよく完備してをります。動物の標本は皆、ぱのらまの風景の中に、それをあしらつて、自然の景色の中にそれ/″\動物が棲んでゐる所を見せることに努めてをりますから、見物人は大人でも子供でも興味をもつてそれ/″\動物の生活状態を知ることが出來るのです。かような博物館は、アメリカの各州に一つや二つは必ず設けられてあるのは實に羨ましいと思ひます。せめて日本にこんなのが一つでも設けられたらと思はずにはゐられません。またアメリカには大きな博物館に附屬し、また獨立に兒童博物館といふのがたくさんあります。これは理科その他に關して、ごく簡單な知識を授けるために出來たもので、學校で習ふことを、一々實物に照して復習することが出來ます。それですからいつも熱心な男の子や女の子が一ぱいです。これも西洋で羨ましいものの一つであります。
(ニ) 世界で珍しい博物館
西洋各國にあるいろ/\の博物館の中で、一風變つた特色があつて非常に面白く感じたのは、ヨーロッパのスエーデン國のストックホルムにある民俗博物館であります。これはスエーデンの土地の風俗や習慣などを示す博物館であつて、ハゼリウスといふ一人の熱心な人が、古い風俗や品物がだん/\亡びて行くのを悲しんで、初めはわづかの品物を集め出し、それがだん/\大きくなつて行つて今日の國立の大博物館となり、北方博物館といふ名稱がつけられたのであります。建て物は三階建ての立派なもので、その一番下の部屋にはスエーデンの各地方の農家の状態をそのまゝこゝへ移してあつて、寢臺だとか爐邊の模樣などが地方々々別に區別して竝べてあるのです。また二階には家々の道具類が、あるひは織り物あるひは木器あるひは陶器といふように種類をわけて見られるようにしてあります。それから三階へ上ると、今度は時代順に竝べて、だん/\變つて來てゐるところを現してゐます。かように三種の竝べ方によつて、私共見物人はスエーデンの風俗や習慣の特質を十分にいろ/\の方面から研究することが出來るようになつてをります。ところがまたこの博物館のすぐ傍にスカンセンといふ丘陵があつて、それが野外博物館になつてをります。その丘の上にはスエーデンの各地方の植物を移植し、また特有の動物をも飼養してゐるところは、ちょっと植物園か動物園のようでもあります。そしてその間に各地方からそのまゝもつて來た農民の小屋があり、古い式の教會堂が木の間がくれに建つてゐるかと思ふと、面白い風車があり、倉庫のような古い建て物が昔のまゝに設けてあるといふ風であります。さてその農民小屋にはひつて見ると爐邊には薪が燃やされてあつて、その地方の風俗をした爺さんがたばこを燻らしてゐたり、娘さんはまた絲を紡いで熱心に働いてゐるといふ實際生活を見ることが出來、また料理屋や茶店も各地方にあるそのまゝの建築で、料理もまたその地方の名物を食はせ、給仕女は故郷の風俗をしてお客の給仕に出るといふふうになつてゐます。
[#「第十二圖 スカンセン野外博物館の一部」のキャプション付きの図(fig18371_13.png)入る]
これは單に旅人を面白く思はせるために設けられたものではなくて、だん/\文明に進むに從ひ、昔の良い風俗や面白い建築物が次第に滅んで行くのを保存するために出來たものであります。私は日本においても、文化の進むに從つて、田舍にある古い風俗や道具類が、次第に滅び行くことを殘念に思ふので、一日も早くかういふふうな民俗博物館が設けられることを希望するものであります。そして、このスエーデンの博物館を造つた人は、最初から多くの金錢を投じて着手したのではなく、少しづゝ集めて長い年月の間に一人の力でもつて完成させたことを思ふときは、誰でも熱心と時間とをもつてやりだせば、成しあげることが出來ることゝ信じます。このスエーデンの北方博物館とまつたく同じような博物館が更に北の國、ノールウエのオスロにもありますし、近頃この種の博物館は各國に設けられて來る傾向になつてをります。
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第二、考古博物館の卷(上)
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一、考古學とはどういふ學問ですか
(イ) 考古學と考古博物館
博物館を大別すると、美術、歴史、考古に關する品物を陳列した博物館と、博物、理科の方面の品物を集めた科學博物館の二つの種類に區別せられることは前にも述べたとほりでありますが、これらの博物館について一々詳しくお話しをすることは、この本の紙面が許さないばかりでなく、科學博物館や、美術、歴史の博物館に關しては、各々その題目について他の先生方が話されることになつてをりますから、私は第一の美術、歴史、考古に關する博物館の内、たゞ考古學に關する博物館のお話しをこれからいたしませう。
いつたい考古學といふ學問は、人間が世界に現れて以來今日に至るまでの長い年月の間にこの世界中に遺した種々の品物、それは人間の作つた道具とか武器の類、また建築、彫刻、繪畫その他一切の品物、これを私共は遺物といつてをりますが、その遺物によつて人間の過去の時代の生活の模樣だとか、文化の状態だとかを研究する學問であります。しかし新しい時代になるほど種々の書き物などが遺つてをりますので、それによつて昔のことがたいていわかりますから、遺物ばかりで調べる必要はありませんが、ずっと時代が古くなり、書き物があまりなかつたり、またまったくない古い時代になりますと、どうしても遺物ばかりで研究をするほか方法はありません。それで考古學では、遺物ばかりで研究しなければならぬごく古い時代、あるひは遺物を主に使つて研究しなければならぬ古い時代のことを專ら調べて行くのであります。ですから考古學の博物館といへば、遠い古い時代に人間の造つた品物を竝べて置くのでありますが、大きい家屋だとか洞窟だとかいふものになりますと、博物館の中へ持つて來ることが困難ですから、たいていは模型や圖面を陳列することになつてをります。
私は七八歳の少年時代から、昔の人の作つた石の矢の根などを集めて喜んだのでありましたが、その頃私は石の矢の根は人間の作つたものではなくて、水晶や何かと同じように自然に出來た石だとばかり信じてをりました。またある人は石の矢の根は天狗の作つたものだと話してくれました。しかしそれは、今日から四十年程前のことでありまして、その頃には日本のどこへ行つても考古學の博物館といふものは一つもなく、また石の矢の根のようなものについても、説明した書物がなかつたのであります。もしその頃考古學の博物館があつたならば、石の矢の根は自然に出來たものでもなく、また天狗の作つたものでもなくて、古い時代に人間が作つたものであるといふことがわかつたことでありませう。しかし四十年後の今日でも、日本では殘念ながら考古學博物館がどこにも設けられてゐませんから、皆さんはやはり先生に聽くか、書物を見るかしなければ、それらについて知ることの出來ないのは甚だ遺憾なことであります。
昨年私がドイツを旅行して、ミュンヘンといふ町へまゐりました時、そこにある大きい美術博物館の附近に、小さいけれども考古學博物館がありましたので見物に出かけました。そこはわづか二つか三つしか部屋がなく、ほんとうに小さいもので、爺さんがたゞ一人、つくねんとして番をしてゐました。その中へ私がはひつて行くと、陳列棚の陰の方に一人の少年がゐて、手帳を出して一しょう懸命に見たものについて筆記してゐました。私はこの少年の熱心さに感心したので、
「あなたはかういふ古いものがすきですか」
とたづねました。
「はい、私はこんなものを調べるのが一番好きです」
と答へて、なほも鉛筆を手帳の上に走らせてゐるのです。それで私は、
「あなたのような熱心な少年は、將來きっと考古學の立派な學者になりませう」
といつて別れたのでありました。日本にもよし小さくとも、こゝかしこに考古學の博物館が建てられてあつたら、このドイツの少年のように熱心な子供が出來て來て、それが將來考古學の偉い學者になるであらうと感じたのでありました。
(ロ) 人類の始め
[#「第十三圖 ピテカントロプスの頭蓋」のキャプション付きの図(fig18371_14.png)入る]
さて人間は下等動物からだん/″\進化して來たものであつて、われ/\は猿と同じ祖先から生れて來たものであらうといふことは、ダアウヰンが進化論を唱へて以來、餘程の頑固な人を除いてたいてい皆信ずることになりました。しかし、その人間と猿との共同祖先はどういふものであつたでせうか。またその共同祖先から今日の人間のようになつた最初の人間はどういふものであつたでせうか。このようなことを知るには、地中に埋まつてゐるその古い骨の化石を掘り出し、それを材料として研究する外はありませんが、さてさういふ猿と人間との中間のものゝ骨が今日までにいかほど發見されたかといふに、殘念ながら中々思ふように出てまゐりません。しかしたゞ一つ今から四十年前(一八九二年)にオランダの軍醫デヨボアといふ人が、南洋ジャ島のトリニールといふ所で發見した骨が、ちょうどこの人間と猿との中間にある動物の骨だといはれてをります。骨といつても、たゞ頭蓋骨の頂き、いはゆる頭の皿の部分と左の腿の骨の一部分と臼齒が出たばかりでありますが、これを調べて見ると、どうしても今日の類人猿とは違つて、餘程人間的の性質をおびてゐたことがわかるのです。ことに直立して歩行したものであることが、足の骨の性質によつて十分に想像せられます。それでその骨の持ち主である動物と、『ピテカントロプス・エレクツス』すなはち猿人、直立して歩行する猿人といふ名をつけたのであります。この骨を基礎として顏や體を造つて見ると、第十四圖にあるような猿人となるのです。これが猿の方に近いか、人間の方に近いかは、議論があるにしても、とにかく人間と猿との中間の動物といつて差し支へはありません。
[#「第十四圖 ピテカントロプス猿人」のキャプション付きの図(fig18371_15.png)入る]
その後、本當の人間と名のつけられる一番古い骨は、ドイツのハイデルベルグの附近で發見されました。それはたゞ一つの下顎骨でありますが、この骨は顎が内側に引込み、今日の人間とはよほど違つてゐますけれども、類人猿とは全く別種であり、もはや人間の仲間であることは明かであります。第十五圖をご覽なさい。たゞ一つの下顎骨から想像して見ると、こんな人間が出來上るのです。これを『ハイデルベルグ人』といつてゐます。
[#「第十六図 ハイデルベルグ人下顎骨」のキャプション付きの図(fig18371_16.png)入る]
その次ぎに古いものは、イギリスのピルツダウンで發見されたもの、それからドイツのネアンデルタール、ベルジュームのスピイなどで發見されたもので、これらのものは皆ハイデルベルグ人よりも餘程進歩してをりますけれども、現代の人類、日本人、支那人のような黄色人種、ヨーロッパやアメリカの白色人種、それからアフリカあたりの黒人まで含めた現代人類と比較して見ると、動物學上これら現代人と同じ一つの人種にいるべきものではなくて、それとは別な種に屬するほどの違ひを示してをりますので、われ/\はこれを『ホモ・プリミゲニウス』(原始人)と呼んでゐるのであります。第十八圖はネアンデルタールから出た骨から想像して見た、その時分の人間です。
[#「第十五圖 ハイデルベルグ人」のキャプション付きの図(fig18371_17.png)入る]
[#「第十七圖 ピルツダウン人」のキャプション付きの図(fig18371_18.png)入る]
その次ぎの時代に出て來た人間は、フランスのドルドンヌ州その他から發見された骨によつて代表されるものであつて、その中で主なるものはクロマニヨン人といはれるものです。この時代の人間になると、今日の人間とまったく同じ種に屬するものであり、またある點では今の野蠻人などよりは餘程進んだ頭腦の持ち主であつたことは、その頭の骨を見てもわかります。ですからクロマニヨン人は、われ/\と同樣、現代人といふ名をつけなければなりません。しかしその現代人に屬するクロマニヨン人が棲んでゐた時代はいつ頃だらうと申しますと、ずいぶん古い時代であつて明瞭にはわかりかねるのでありますが、まづ今日から七八千年乃至一萬年に近い以前であらうといふことです。從つてそれ以前の原始人だとか、ハイデルベルグ人だとかに至つては何萬年前であるか、にはかに見當がつかないくらゐです。まして人と猿の中間とも見られる猿人などは五十萬年、あるひはそれ以上の古い昔のものとしなければならぬのでありまして、かように考へて來ると人間の始めはなんとずいぶん古いものではありませんか。また人間の現れる以前の下等動物ばかり棲んでゐた世界はどれだけ古いことでせう。數千萬年をもつてかぞへても數へ切れない昔とは、實に驚くべきことであります。われ/\が歴史をもつてから今日まで、わづかに數千年といふ短時日でありますが、人間の始めて出現してから歴史の始まるまでと、歴史以後今日までとの長さの比例は、歴史以前の方が歴史以後の數十倍からあるといふことでわかるでせう。
(ハ) 文化の三時代
[#「第十八圖 ネアンデルタール人想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_19.png)入る]
さて人類が始めてこの世界に現れてから非常に長い間、歴史時代にはひるごく近い時代までも、人間は今日われ/\のように銅や鐵の金屬を使用して種々の器物を作ることをまったく知らなかつたのであります。それで最初は今日の猿などと同じく、たゞそのあたりにある木片だとか石塊だとかをもつて、穴を掘つて蟲をとつたり、あるひは木の實をわつて食ふといふような生活をしてゐたのでありませう。ところがだん/\進歩するに從つて石塊に多少の細工を加へ、手に握つて物を打ち壞すに便利な形にこしらへるようになりました。更にまたその石を磨いて美しい形の器物を造るようになり、あるひは自分の食つた動物の骨に細工を加へて、それを道具にしたりしたのでありますが、とにかく主として石で造つた器物を使用した時代が長らくつゞいたのです。それをわれ/\は石の時代、あるひは石器時代と呼んでをります。
[#「第十九圖 クロマニヨン人想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_20.png)入る]
ところが人類はまた偶然に岩石の間にある金だとか銅だとかのような金屬を發見して、こんどはその金屬をもつて器物を造るようになりましたが、これは石や骨の器物に比べると、非常につごうの良いことを知り、まづはじめにはたゞの銅を使ふようになつたのであります。ところがたゞの銅では柔かすぎ、鑄造もむつかしいので、銅に錫をまぜて青銅といふ金屬を作り、これを器物の材料としてゐた時代がありました。この時代を青銅時代あるひは青銅器時代と稱するのであります。そののち遂に鐵が廣く器物に使用される時代となつたのでありますが、その時代を鐵の時代、あるひは鐵器時代といふのです。今日においては鐵以外にあるみにゅーむその他いろ/\の金屬が發見されてまゐりましたが、やはり鐵が切れものや、何かに一番多く使はれてゐるので、廣い意味においては、今日も鐵器時代に屬するといふほかはありません。
[#「第二十圖 トムゼン氏」のキャプション付きの図(fig18371_21.png)入る]
かように人類が石から銅、あるひは青銅をへて、次ぎに鐵をもつて刃物をつくる時代となりました。この三つの時代を考古學者は、文化の三時代、あるひは文化の三つの階段と名づけるのであります。しかしこの三つの階段は、あらゆる人類が必ずこの順序でもつて通過するものではありません。ある場合には、石の時代から鐵の時代になつた例もたくさんありますが、ヨーロッパを始めアジアの諸國においては、大體この三つの時代を通過して、人類の文化が進んで來たのです。また世界中のあらゆる國の人類が、みな同じ時代に石から銅、銅から鐵といふふうに進んで來たのではなく、ある國では早く石から銅の時代になり、更に鐵の時代になつたものもあるし、また長い間石の時代に殘されてゐたのもありますが、とにかくこの三つの時代の動き方は、大體人類文化の順序を示すものといつてもよろしい。
かように人類の文化の三階段があるといふことを初めて唱へた人は、今日から百年ばかり以前に生きてゐた、デンマルクの學者トムゼンであります。またその弟子のワルセイが、先生の説を事實によつてだん/\證明して行つたのでありますが、どうしてこの北歐の一小國の學者が、かような説を出すに至つたかといふのに、北ヨーロッパ諸國には石の時代、青銅の時代が、他の地方より長くつゞいてゐたゝめに、その頃の遺物が多く存してゐたといふのが、その理由の一つであります。その後に至つて、この三時代を更に細かくわける學者が出て來ました。それはイギリスのラボックといふ人で、石器時代をば舊石器時代と新石器時代の二つにわけることになりました。今日われ/\はラボックのわけ方によつて、石器時代を二つとするのが普通であります。また石器時代から金屬使用時代にはひる中間時代を、金石併用期と名づける學者もありますが、かようにわけて行けば限りなくわけられますけれども、それらの細かいことは改めてお話しする時がありませう。要するにこの石器、青銅器及び鐵器の三つの時代によつて考古博物館は、その陳列する品物を區別し、時代別によつて人類の遺物を竝べて行くのが普通の方法となつてをります。
それで私は、これから皆さんに考古博物館を書物の上でつくり、そこへ案内して説明して行かうと思ふのでありますが、たゞ今述べた順序で進んで行くことにいたします。さあ皆さん、これから舊石器時代の陳列室にまゐりませう。
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二、舊石器時代室
(イ) 舊石器の種類
[#「第二十一圖 原器と舊石器」のキャプション付きの図(fig18371_22.png)入る]
この室にはひつて私共は、まづ中央の棚に竝べてある石器類をだん/\見て行きませう。一番初めにあるのは、いはゆる『原石器』と稱するものでありまして、これはちょっと見たところでは、その邊に轉がつてゐる石の破片と少しも變らない、たゞ角張つて打ち缺いた痕のあるように見えるだけのものでせう。(第二十一圖左上)これは皆さんも、果して人間が造つたものであるか否かについて疑ふのはむりがありません。學者の間にも種々意見がありまして、ある學者は、人間が手を加へて造つたものであるといひ、またある學者は、いや自然に石がぶつかったり、何かの機會に出來たにすぎないものだといふ。しかし、かような石の破片を持つて來て、これが原石器であるかどうかといふ確かなことは答へが出來ないにしても、人間が立派な石器を造る以前に、それよりも簡單な、ちょうどこんな粗末な石器を造つたことがあつてもよいし、またこんな石片の中にも、人間の手を加へたものが混じてゐることだけは認めなければなりません。
よしこの原石器に疑問があるにしても、その次ぎに竝べてある拳のような形をした石になると、誰が見ても(第二十一圖左下)かう根元が太つて先が尖つた石ばかりが、偶然にわれて出て來るとは思はれない。どうしてもこれは人間が造つたものとしなければなりません。これには人間の拳ほどもある大形のものが非常に多いのでありまして、一番古い石器といはれ、セイユ期の石器と呼ばれてゐるものであります。その次ぎに造られた石器は、その隣りにあるアシュウル期の石器です。(同上右上中)形は大體前のものに似てゐるけれども、製法が細かくなり、だいぶ美しく出來てをります。こんな石器は一體何に使用したものであるかといふに、全體が槌の役にもなり、尖つたところでは物を突き、角ばつたところでは軟かいものを切るといふように、あらゆることに用ひられたのでせう。これが次第に進んで來ますと使用の途も別になり、それ/″\適當の形になつて石槍とか石劍とか、あるひは石庖丁とかにわかれて行くのでありますが、この時代にはまだ、それがわかれてゐなかつたのであります。
[#「第二十二圖 骨牙器と彫刻物」のキャプション付きの図(fig18371_23.png)入る]
その次ぎに竝べてあるのは、皆さんの見られるとほりその造り方は、前のよりもかへって簡單であるようですが、しかも大きく打ちわつた表面を巧みに使つて、必要の部分を細かく打ちわつてあるのが氣につくでせう。薄く平たいもの、先が鋭利に尖つたものなども出來てきたのです。これをムスチェー期のものといつてゐます。なほ次ぎ々々に陳列してあるように、石器には非常に精巧なソリュートレ期のもの、また少し簡單で要領のよく出來てあるマデレエン期といふふうにだん/\變化して來てゐることがわかります。(第二十一圖左中及び右下)ところがこのマデレエン期になりますと、石器はあまり進歩したように見えないけれども、この時代にはひつて新しく盛んに出て來たものは、動物の骨だとか、角だとかで造つた品物であります。そこに竝べてあるような骨製の先の尖つたものや、種々のものがありまして、中には牙や骨の上に動物の形や人間の形を彫刻したものなどがあります。(第二十二圖)これには前の時代には見られなかつた品物です。そこに、大きな平たい骨のようなものゝ上に、象の形が彫刻してあるのを見るでせう。(第二十三圖)これは長い毛の生えた象であることはすぐ氣づくのでありまして、今日の象とは違つて、昔シベリアなどに棲んでゐたまんもすといふ大象の形を現したものであります。そのまんもすの形をまんもすの牙の上に彫つたもので、これは珍しい品であります。こゝにあるのはその模造品であつて、現物はフランスのある博物館に大切に保存されてあります。この他れんぢゃー(馴鹿)の上にれんぢゃーの形を彫刻したものや、人間の形などを彫つたものも少くありません。
[#「第二十三圖 まんもす牙上彫刻まんもす圖」のキャプション付きの図(fig18371_24.png)入る]
(ロ) 舊石器時代の繪畫など
[#「第二十四圖 スペイン・アルタミラ洞天井畫」のキャプション付きの図(fig18371_25.png)入る]
かように舊石器時代の中頃から、動物などの形を彫刻にして現すことが大そう上手になつて來ました。これらを見てもこの時代の人間を一概に野蠻人だとはいへない、たゞ金屬を使用することを知らなかつたといふにすぎないのです。この彫刻を造つた人間は、前に説明した古い人間の模型中にあつた『クロマニヨン』人に屬するのであります。『クロマニヨン』人は、頭腦も大きく恰好も整うてをり、けっして野蠻人といふことの出來ない體格の持ち主でありますからこそ、かようなものが造り得られたのです。更に『クロマニヨン』人は、彫刻をしたばかりでなく、大きな繪も描いたのです。その繪は今日まで遺つてをりますが、あちらの壁を御覽なさい。(第二十四圖)壁に懸つてゐる牛、馬、鹿などの繪はかれ等が洞穴の中の石壁に彫りつけたり、また描いたりした繪の寫しであります。かの牛はびぞんといふ牛で、今日の牛とはその形は異なつてゐますけれども、鹿や馬の形はなんとよく似て本物のようでありませんか。筆致の確かな點、全體が生き/\してゐるところ、實にこれがそんな古い一萬年前にも近い時代に出來たものであらうかと、誰も疑ふのもむりはありません。實際のところこれが今から五十年ほど前に、初めてスペインの北の海岸アルタミラといふ田舍の丘の上の洞穴で發見された時、たいていの學者は皆、これが一萬年もへた古いものでなく、ずうっと新しいものだといつて誰も信じなかつたほどです。しかしその洞穴をよく調べると、けっして新しい時代に人がはひつて作つたものではなく、びぞんといふ牛のような動物は、一萬年近くも前でなければ棲息してゐなかつたものであり、それをこれほど寫生的に描くには、實物によつて寫生したのでなければならぬといふことなどが、だん/\わかつて來たのみでなく、やがてはフランスの中部ドルドーンヌのフオン・ド・ゴームといふ所の洞穴などにまた、同じような繪のあることが發見せられたのです。それで今日では誰もこれを疑ふものはなくなつたのであります。
[#「第二十五圖 舊石器時代の人が洞穴に畫をかいてゐる圖」のキャプション付きの図(fig18371_26.png)入る]
私もこの間、スペインのアルタミラ[#「アルタミラ」は底本では「アルタミナ」]の洞穴へ行つて親しくその繪を見ることが出來たのでありますが、それはのろ/\とした丘の頂きに近く小さな口を開いた穴であつて、中にはひると十數疊敷きぐらゐの大きさの室があつて、その奧へ進むと二三十間ほどもはひつて行かれます。今の動物の繪はその大きい室の天井に描いてあつたが、石の凹凸を巧みに利用して突出部を動物の腹部とし、黒と褐色の彩色をもつて描いてあつて、それがあり/\と殘つてをります。一萬年前より今日までこのようによく保存されたとは思へないくらゐであります。また近年この洞穴を發掘して、昔彩色に使つた繪具も發見せられたので、それらは洞穴の傍にある番人小屋にある小さな陳列室に竝べてありました。昔の人は暗い室の内でどうしてこんな繪を描いたのでせうか。おそらく燈火を用ひたとすれば動物の脂肪をとぼしたことゝ思はれます。この洞穴の繪を發見したのに面白い話があります。發見者は偉い學者でも大人でもなく、一人の小さい娘さんであつたのです。今から五十年程前ん[#「ん」はママ](一八七九年)に、この附近にサウツオラといふ人が住んでゐました。その人は古い穴を調べることに興味をもち、ある日七八歳の女の子を伴れてこの洞穴の中へはひつたのです。穴の入り口は、今より狹くやう/\四ん這ひになつて中にはひつて行くと、女の子が、
「お父さん、あそこに牛が描いてあります」
と叫んだので、
「なに、そんなことがあるものか」
と打ち消しながらよく見ると、牛や馬の繪が續々と七八十程も現れて來たので、サウツオラは驚きました。そしてそれが原因で洞穴の研究をして、これを學界に發表しましたが、當時誰も信ずる者がなく、サウツオラは失望落膽し、殘念に思ひながら死んだのです。死後幾年かをへて、それが始めて舊石器時代の繪であることにきまり、今更サウツオラの手柄を人々が認めるようになりました。今もその洞穴の人り口に建つてゐる碑文にそのことが記されてあります。また當時の少女はまだ生きてゐて、そこからあまり遠くない村に住んでゐるといふことを番人の女から聞きましたが、定めしもう年よりのお婆さんになつて當時自分くらゐの娘の子の親となつてゐることであらうと思ひます。
アルタミラの洞穴の繪とごく似てゐる繪は、前にいつたフランスのフオン・ド・ゴームの繪であります。この洞穴は、アルタミラとは違つて、丈の高い奧の深い穴であつて、兩側の壁にやはり多數の動物の繪を描いてあります。こゝへも私は行きましたが、繪の出來は前のものより、少し劣るようでありますが、大體において同じ調子であります。その他フランスの洞穴には、これとよく似た繪や、少し趣を異にする繪が、無數にありますが、一風變つた描き方で舊石器時代の繪と認められるものは、東スペインの洞穴などに遺つてゐる繪であります。みな妙な恰好をした人間の繪で、それは今日南アフリカの土人ブッシュマンなどが描く繪と非常に似てゐるのです。
さて私たちは次ぎの室にはひる前に、ちょっと見落した石器類を一應見ることにいたしませう。そこにあるのは舊石器時代の最後の頃であるオリニヤック期のもので、その次ぎに來るのが、舊石器時代から新石器時代に移つて行く中間のアジール期のものです。石器の造り方などは別に進歩してゐませんけれども、それにもあるように文字のようなものを、石に朱で書いたものがあるのは珍しいと思ひます。(第二十二圖左下)
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三、新石器時代室
(イ) 貝塚と湖上住居
舊石器時代と新石器時代とは、人種上にも文化上にも關係がなくて、かけ離れた別のものであるといふふうに、今までの人は多く思つてゐましたが、近頃は、この舊新兩石器時代の間には聯絡があつて、けっして無關係のものとすることが出來ないといふふうに、だん/″\考へられて來たのであります。そしてまた學者の中には、この二つの時代の間に、中石器時代といふ中間のものを置く人もあります。それはとにかく、新石器時代は舊石器時代と比べて、人種の上にも文化の上にも餘程違つたものがあり、この時代になると、人種はもちろん現在の世界の人種とまったく同じ種に屬してゐるし、その他自然界の状態も非常に今日と接近して來ました。それで石器を使用したといふ點においては舊石器時代と變りはありませんが、その人種上からも、また一般文化の上から見ますと、かへって後の青銅器時代と深い關係があるのであります。また新石器時代のつゞいた年代は舊石器時代に比べて大へん短く、舊石器時代の十分の一にも足りないくらゐです。
[#「第二十六圖 ヨーロツパ新石器時代人想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_27.png)入る]
新石器時代になると氣候その他、世界の状態は今日と餘り變つたところなく、たゞ海岸線が今よりも陸地に入り込んでゐたといふくらゐに過ぎないのです。その時代に棲んでゐた獸類も、今日われ/\の見るものと大した變りはなく、あのまんもすといふ大きな象や、馴鹿がヨーロッパなどに棲んでゐるといふようなことはもうなくなつてしまひました。一體新石器時代の人間は、どんな所に住んでゐたかといひますと、もちろん洞穴に棲むものもあり、山間にゐるものもありましたが、海岸近くに住居して、魚や貝を捕へてその肉を食つたものが多いようです。それで、その當時の人が住居した跡が海岸附近に遺つてゐて、かれ等が食つてすてた貝殼や、魚や獸の骨などがたまつてゐる所があります。かういふ場所では、白い貝殼が一番よく目立つので、われ/\はこれを貝塚と呼んでをるのであります。貝塚の中からは貝殼や骨のようなものゝ他に、その時分の人間が使用してゐた石器だとか骨器だとか、また土器だとかの破損してすてられたものや、あるひは遺失したものなどが發見せられます。この貝塚は前に申しましたように、元來海岸に棲んだ人間の住居の傍に出來た塵埃すて場であります。ですから何しろ海岸に近い場所にあつたに相違ありませんが、今日では海岸から遠く、時には數里も離れた所にあることがあります。これはその後陸地が隆起し、海がひいてしまつたのです。またその反對にデンマルクなどのように、海が陸地ををかして來たので、今日では海中に貝塚が浸つてゐるところもあります。
この貝塚を始めて研究した人は、デンマルクの學者でありました。最初は、たくさんの貝殼は、果して昔の人がその肉を食つてすてたものか、どうかゞ疑問とせられたのでありましたが、ある學者が綿密に調査した結果、すてゝあるそれらの貝殼は、みな成熟した貝ばかりで、未成熟のものがなく、また二枚貝の一方だけのものが多いことなどがわかりました。もしも自然に貝殼がつもつたものとすれば、そのうちには、きっと食べられない幼ない貝も交つてゐなければならないはずだのに、大きい熟した貝ばかりであり、また貝殼の一方しかないといふことは、自然にたまつたものでなく、昔の人が食つて殼をすてたものであるといふほかはないのです。なほこの貝塚は、ヨーロッパの海岸地方ばかりでなく、アメリカその他世界各國にあります。日本にも多くありますが、日本の貝塚については、後にお話しいたしませう。
[#「第二十七圖 現代水上住居」のキャプション付きの図(fig18371_28.png)入る]
新石器時代の人間は、またあるところでは湖水の中に棒杙を打つてその上に小屋を設けて棲んでゐました。そしてその小屋が多く集まつて一つの村落をつくつてゐました。これを湖上住居、あるひは杙上住居と申します。イタリイの北部やスヰスあたりに多くこの遺跡があります。それはちょうど今日ボルネオのパプア人やシンガポールあたりの海岸で見かけるのと同樣、陸地との交通はたいてい小舟に乘つたものです。(第二十七圖)なぜこんな所に住むのでせうか。それには種々の理由があるでせうが、その一つは敵の襲撃を免れ、猛獸の害を避けるためであつたでせう。また陸上の家に住んで、穢い塵埃をあたりにすてると不潔なばかりでなく、いろ/\の病氣に罹ることを實驗して、不潔物を水にすて清潔な生活をするといふ意味もあつたかと思はれます。もちろんこの小屋は燒けたり壞れたりして、今日まったく殘つてをりませんが、その土臺の杙だけが水の中に遺つてゐるのです。今から數十年前のある年、スヰスの國のチュウリッヒ湖の水が今までになく減つて底が現れました。その底に棒杙が一萬本もにょき/\と立つてゐるのをケラーといふ學者が發見しまして、だん/″\研究した結果、これが昔の人の湖上住居の跡であることがわかりました。その證據にはその杙のある附近を掘つて見ますと、當時の人間が落したり捨てたりした石器や土器までが發見され、織り物や木の實の類までが、よく殘つてをりました。湖上住居は、しかし新石器時代ばかりでなく、次ぎの青銅器時代までも引きつゞいて行はれてゐたことは、湖水の一番深い底からは石器が發見され、淺い上の方からは青銅器が發見されたことによつて知ることが出來ます。
あすこの壁に懸けてある繪をご覽なさい。遺つてゐた土臺の杙から想像して湖上住居の小屋を描いたものであります。(第二十八圖)その隣りにある繪は、現在南洋において實行してゐる水上住居でありますが、いかにもよく似てゐることがわかりませう。(第二十七圖)なほイタリイの北の方などでは、水はなくても低い濕つぽい所に、湖上住居と同じような杙をたて、その上に小屋を作つて住んでゐた人間が、新石器時代から青銅時代にかけてをりました。
(ロ) 磨製石器と土器
さて新石器時代の人類はどういふふうな生活をしてゐたかといひますと、やはり舊石器時代の人間と同じように、石を割つたり、叩いたりして製作した極めて粗末な器物をも使つてゐたのでありますが、それ以外にこの時代には石を磨いてすべ/\した美しいものに造り上げることをやり出したのです。また石器の形も大體は前の時代よりは小形のものが多く、しかも石器の使ひ途によつて種々異なつた形のものがわかれて發達して來ました。例へば平たく刃が兩方から磨き出してゐる石斧、あるひは長い槍、あるひは庖丁といつたふうに、使用に便利な種々の形が出來たのであります。そしてそれらが皆、その後發達して今日の金屬の器物になつて行つたのです。またこの時代の一番大きな發明は、弓矢が始めて用ひられることであります。それは矢の先につける矢の根石があることでわかるのであります。投げ槍といふようなものは、あるひはありましたかも知れませんが、弓矢のような飛び道具は、舊石器時代には見られないもので、實に新石器時代の新式武器であります。この發見はちょうど近代における鐵砲の發明と同樣、當時の人間が狩獵や戰爭の場合、どれほど便利で、またどれほど有效であつたかといふことは、今から想像されます。たゞ今述べたところの石器は、この棚に陳列してあるように、世界の各國から出てゐるのでありますが、その形はたいてい皆よく似たもので、大した相違はありません。(第二十九圖)
[#「第二十九圖 ヨーロツパ新石器時代遺物」のキャプション付きの図(fig18371_30.png)入る]
また、この新石器時代になつてから、人類の發明した大切な品物は土器であります。土器といひますと粘土で形を造つて、それを火で燒いたものであります。もっとも今日のように堅い燒き物や、釉藥を用ひた品は出來なかつたので、いはゆる素燒きでありますが、とにかく土器が發明されてから、人間は生活上に非常な便利を得て來ました。今まで水を汲んだり、それを保存するには椰子の實の殼のようなものとか、貝類の殼とかを使ふことの他はなかつたのであります。これらのものは大きさも限りがあり、形も一定してをりますが、この土器になりますと、大きい容れ物でも思ふような形のものでも自由に造ることが出來ます。それで狩獵でとつて來た獸の肉は、壺の中に鹽漬けとして保存されるし、水やその他の流動物を瓶に入れて、自由に運ぶことも出來るようになりました。また以前水を湯に沸すことは非常に困難であつて、僅かに石のくぼみへ水を入れて、それに燒き石を投げ込むとか、貝殼に入れた水を火に近寄せて少しの湯を得たに過ぎなかつたのでありますが、土器の發明が出來てから、多量の湯を沸すことも出來るようになつたのであります。定めし舊石器時代の人類は、湯で身體をふくといふことはしなかつたので、身體も穢れて不潔だつたでせうが、新石器時代に至つては、よし浴場はなかつたとしても、湯でもつて身體を清潔にすることが出來るようになつたと想像せられます。(第二十九圖)
この土器の發明は更に大なる進歩を人間生活の上にもたらしました。それは、今までは食物をることを知らなかつた人間が、土器によつて動物の肉でも植物でも、自由にることが出來るようになつたので、今まで食べられなかつた品物や食物の部分も、て食べることになつたのであります。その結果、從來たゞ食物の材料を集めるために、一日中骨を折つて働いてゐた人間が、集めた食料の貯藏が出來るようになり、食料が豐になつたので働く力に餘裕が出來、それを他の方面に用ふることを得るようになり、從つて文明が一段と進歩することになつたのでありますから、土器の發明といふことは、人類の文明の歴史の上に一大事件でありまして、ある學者のごときは、土器を知らない人間生活を野蠻的生活、土器をもつ人間の生活を半開生活と稱して區別するくらゐであります。私共今日の生活から茶碗や壺などをなくしてしまつたならば、どれだけ不便なことであるかは、十分に想像が出來るのであります。
さて、かように大切な土器を誰がどこで發明したかといふことは容易にわからぬのでありますが、最初は粘土が水に濕されると軟かくなり、思ふ形に造られることが知られ、また濕つた粘土が火の傍に置かれると、固くなることを知つたといふことなどが發見の緒となつたかと想像せられます。また籠の外側とか内側とかに粘土を塗り込めて、籠と共に火で燒くといふ製法もあつたようであります。
(ハ) 巨石記念物
新石器時代に人類が造つたものには、前に述べました石器や土器などの他に、なほ非常に大きなすばらしい物があります。それは人間の體の幾倍もある大きな石をもつて造られた墓とか、あるひは宗教の目的に使つた場所とかいふものでありまして、それに使用された石が非常に大きいので、われ/\はそれを巨石記念物と名づけてゐます。これにはいろ/\の種類がありまして、その一つに立て石(めんひる)といふものがあります。(第三十一圖2)それはたいてい一本の大きな長い石が突き立てゝあるもので、その石の高さは五六尺のものもありますが、大きいものになると五六十尺もあるもの[#「あるもの」は底本では「あるのも」]があります。これはなんのために使つたのであるか、確かにはわかりませんが、この巨石を昔の人が神として崇拜したものであるか、または尊い場所の目標としたものであらうと想像するより外はありません。私は先頃フランスの西海岸にあるカルナックといふ所の大きい立て石を見に行つたのでありますが、今は三つにをれて地上に倒れてゐます。元は直立してゐたもので、高さは七八十尺もあつたものですが、二百年程前に雷が落ちたゝめに折れたのだといふことでありました。カルナックの立て石より小さいものは、フランスに數限りなくありますが、變つて面白いのは行列石(ありにゅまん)とでも稱するもので、六七尺から十二三尺くらゐの高さの石が幾百となく、一定の間隔をもつて竝び立つてゐるのであります。これもなんの目的のために出來たものであるかはわかりませんが、やはり宗教的の意味をもつて造られたものであらうと思はれます。カルナックにある行列石には、千二百本ばかりの石が兵隊のように竝んでをるのがありました。(第三十一圖1)
[#「第三十圖 巨石記念物」のキャプション付きの図(fig18371_31.png)入る]
また大きな石をもつて圓く輪のように竝べ廻してある環状列石(くろむろひ)といふのがあります。これには石の大小は種々ありますが、大きなものになると圓の直徑が一町くらゐもあり、石の高さは二三十尺に及ぶものもあります。今日世界で一番名高いものはイギリスのすとんへんじといふものでありまして、いま飛行場となつてゐるソールスベリーの廣い野原に圓く巨石を廻した不思議な姿が立つてをります。(第三十二圖23)大空高く飛行機が飛んでゐる下に、この大昔の不思議な遺物を見るときは、一つは二十世紀の現在、一つは紀元前二十世紀にも溯るべき古代のものを、同時に眼前に眺めて一種の感に打たれるのであります。このすとんへんじの中央に立つて東方を眺めるときは、太陽の出るのを眞正面に見られるから、太陽崇拜に關係ある宗教上の目的で造られたものであらうと説く人もありますが、實際なんのためにこの野原に、かようなものが設けられたか確かなことは知ることが出來ません。もっともこのすとんへんじは新石器時代の終りで、青銅が使用され出した時代に造られたものであるといはれますが、それはとにかく以上お話した巨石記念物は、いづれも新石器時代から作られたことには間違ひありません。
[#「第三十一圖 巨石記念物」のキャプション付きの図(fig18371_32.png)入る]
今一つ大きい石で造つたものに石机、すなはちどるめんといふのがあります。それは少しひらたい石を三方に立て、その上にやはりひらたい大石をのせた一見てーぶるの形をしたものであります。どるめんといふ語も、石の机といふ意味の言葉であります。このてーぶるの下に人間を葬つたので、これは疑ひもなく墓であります。(第三十一圖1)、(第三十二圖1)このどるめんは石器時代から、青銅器時代に亙つて行はれたもので、後には、だん/\石で造つた長い廊下のような室が出來、その石の上に土をかぶせて圓い高塚としたものが現れました。この石室のある塚は、新石器時代から次ぎの青銅器時代以後において、盛んに世界各國に行はれてゐたものでありまして、日本にもたくさんありますが、日本にはごく古い石器時代のどるめんはありません。(第三十七圖34)
いま申しました種々の巨石で造つた記念物に用ひられた石は、多くは山や谷にある自然石の恰好良いものを取つて來て、そのまゝ使用したもので、餘り人工を加へてありません。しかし、かような大きい石を運搬するには、餘程の勞力が必要であります。今日のごとく機械の力がない時代でありますから、たゞ多數の人間が力を合せて、時には牛馬の力を借りたかもわかりませんが、多くは人力をもつてなされたものに相違ありません。ですから當時において既に協同一致して爲事をする一つの團體、社會といふものが出來てをり、またそれを支配して行く頭、すなはち酋長のようなものがなくては、とうていかような爲事は出來ますまいから、この大工事の遺物を見たゞけでも、當時の社會状態が察することが出來ます。また二十尺も三十尺も高い石を兩側に立てゝ、その上に横に巨石を載せてあるものなどは、たゞ人力だけでもつてなされるものではなく、種々工夫を凝したものでせう。それには遠方より土を次第につんで傾斜した坂道を築き上げ、それへ石を押し上げてこれを縱に落し立て、それからその上に横石を載せたもので、坂道の土砂はその後除き去つたものと想像されるのです。
かような大きな巨石記念物は、博物館に運搬して來ることはとうてい出來ませんから、そこにある模型と寫眞によつて、皆さんはその大體を知る外はありませんが、たゞ館の中庭にはあのどるめんの小さいものを、原状のまゝ持つて來て据ゑてありますから、後程庭へ出て御覽下さい。そしてその石室にはひつて見られたならば、一番小さいどるめんでも、どれだけの大いさであるかゞわかり、從つて大きいものはどれほどあるかを想像することが出來ませう。
またどるめんといふ墓やめんひるといふ立て石などには、をり/\圓や三角だのゝ形を石の上に彫りつけたのがあつたり、ぽつ/\と大きなくぼみを彫り竝べたものがあります。それは何か宗教上の意味の現しであらうと思はれます。ヨーロッパの地中海にあるマルタ島の大きな石の墓、あれはどるめんがだん/\進歩して複雜な型になつたもので、ずいぶん珍しいものゝ一つであります。石の上にぽつ/\のくぼみが多くつけてあるので有名であります。その他巨石記念物といふものゝ中の風變りのものは、やはり地中海のサルジニヤ島にあるねるげといふもので、これは石を圓くつみ上げ根元は太く、先ほど少しづつ細くなつてゐる塔のようなもので、他の地方には見ることが出來ないものです。
(ニ) 金屬の發見と使用
人類は前に述べましたとほり、長い年月、石をもつて器物を造つて、金屬を使用することを知らなかつたのでありますが、その間に自づと天然に石の間に混入したり、あるひは砂の中に轉つてゐる金屬などを知り、遂にはそれを使用するようになつて來ました。そしてそれらの金屬をもつて造つた器物の方が、石で造つたものよりは工合のよいことを知つてからは、だん/\石の代りに金屬で造るようになりました。さて金屬の中で一番早く發見されたのはなんであるかと申しますと、金と銅と鐵の三種であつたようであります。しかし金は綺麗で裝飾にはなりますが、質が軟かくて刃物などにしては實際の役に立ちません。それで銅と鐵の二つの中、いづれかゞ使用されることになりましたが、果してどちらが先に使用されたかについては今なほ議論があります。一方には鐵の方が地中から掘り出すことが容易でありますから、早くから使はれたとの説がありますし、また一方にはエヂプトのごく古い時代に、もう鐵が發見されてゐたといふこともありますが、實際のところ今日遺つてゐる種々な器物から考へますと、銅と錫との合金である青銅が、一番早く石に代つて廣く使用されることになつたといふべきでありませう。
それならば、その銅は最初どこで發見されたかといふに、それはやはりはっきりわかりませんが、とにかくアジアの西方においてまづ盛んに使用されたし、それが南ヨーロッパに入り、遂には中央ヨーロッパから北ヨーロッパにだん/″\廣がつて行つたといふことだけは確かにわかるのであります。この銅、あるひは青銅を使つた人間は、前に申した新石器時代の人類とやはり同じ人種で、石で造つた斧のような器物を、初めはそれと同じ形に金屬をもつて造つたのでありますが、それがだん/\使用に便利な形にかへて行つたのです。また銅に錫をまぜると鑄るのに容易で、しかも堅くつて丈夫であるといふことも、最初は偶然に知つたらしいのでありますが、幾度かの經驗で銅九分に錫一分をまぜあはすと、器物としてはつごうが良いことをも知つたので、青銅器時代の終り頃には、混合の歩合がたいていこのわりあひになつてをります。かのエヂプトの進んだ文明も使用した器物からいへば、青銅を一般に多く用ひてゐます。またギリシヤの文明の開ける前に、クリートの嶋やその附近において發達した文明も、やはり青銅器の時代に屬するのでありました。ヨーロッパでは南の方には早く鐵がはひつて來ましたが、北方のデンマルクやスエーデンやノールウエなどでは、鐵のはひつて來るのが大分遲かつたがために、かへって青銅で器物を造ることが發達して、すばらしい青銅器が多く出來てゐます。御覽なさい、この壁にかけてある青銅器を見て行きますと、初めは石の斧から同じ形の銅の斧になり、それがだん/″\進歩して柄を差し込むところが出來たり、また短い三角の劍が長く平たい劍にと、進んで行つたところがよくわかるでありませう。(第三十三圖)
[#「第三十三圖 ヨーロツパ青銅器」のキャプション付きの図(fig18371_34.png)入る]
この青銅器の時代は、ヨーロッパばかりでなく、アジアにもありました。支那では周から漢の時代頃までは、青銅が重に使用されたのでありますが、その青銅は支那人自分で發明したものか、また西方の國から傳はつたのであるかどうかは、まだ十分に研究されてをりません。
ところが、人間が青銅を使つてゐる間に、鐵の方が銅よりも堅くて刃物などにはつごうの好いことを知つて來たので、遂に青銅に代つて鐵が用ひられるようになりました。これから後を鐵器時代といふのでありますが、ヨーロッパでは鐵器時代の最も古い時代をハルスタット時代と稱します。それはオウストリヤのハルスタットといふ所の古墳から掘り出された鐵器が、よくその特徴を現してゐたので、さういふ名をつけたのであります。それから少し後のヨーロッパの鐵器時代を、私共はラテーヌ時代と呼んでゐますが、これはスヰスのある土地の名でありまして、そこから掘り出されたものが代表的のものとせられてゐるからであります。かのギリシアの文明も、鐵器時代のものでありまして、今から三千年程前に鐵がギリシアにはひつて來て、前の青銅器時代の文明に代つて新しく立派な文明をつくり出したのであります。しかし鐵が初めて用ひられた頃は、銅ばかり使つてゐた前の時代よりは必ずしも文明が進んでゐたといふことは出來ません。前に申しましたとほり、かの立派なエヂプトの文明も、クリート嶋にあつたギリシア以前の非常に進んだ文明も、皆青銅の時代に屬してゐることを忘れてはなりません。そしてこの青銅器から鐵器の時代における文明の話になりますと、皆その國々によつて皆異なつた形で現れてをりまして、もう歴史以後の時代に入りますので、それらの時代に出來た品々を悉くこの博物館に竝べることはとうてい出來ません。それはまた別の博物館に陳列してありますから、皆さんはそこに行つて見て下さい。
それで、私共は、これから西洋やその他外國のものはこれだけにして、日本で出た石器時代からの古い品物を見に行くことにいたしませう。しかしちょっとお庭へ出て、私はたばこを一ぷくのみ、皆さんも一休みといたしませう。
[#改丁]
第三、考古博物館の卷(下)
[#改丁]
一、日本先史時代室
(イ) 日本の石器時代
さぁこれからは西洋の品物でなく、私どもの生れた日本の國の古い時代の品物を見、そのお話をするのです。ところが今まで述べましたような石器時代からだん/″\金屬器の時代に、人類の進歩して行つた順序は、日本においても西洋と同じようになつてゐるのです。けれども、初めに話しました一ばん古い舊石器時代といふ時代は、日本にもあつたかも知れないが、今日までその遺物が少しも見つかつてをりません。それゆゑ今までのところでは、日本で一番古いのは、新石器時代のものでありまして、それから金屬器の時代につゞいてゐるのであります。
さて日本はいつ頃まで石器時代であつたかと申しますに、よくはわかりませんが、少くとも今から二千年程前まで石器の使用が殘つてゐたようであります。そして、その前の千年間ぐらゐも石器時代であつたかと思はれますけれども、そのへんのことになると、殘念ながら年數を明かにすることが出來ません。
日本でも昔から百姓が土地を耕したり、山が崩れたりした時、ひょっこり石器の發見されたことが屡々ありましたが、昔はそれらの石器を人間が造つたものとは思はないで、石の斧を見て雷神が落したものであるとか、あるひは石の矢の根を見ては神樣が戰爭した時の矢であると考へたり、あるひは自然に出來たものであると信じたりしてゐました。
[#「第三十四圖 木内石亭翁」のキャプション付きの図(fig18371_35.png)入る]
もっともかように考へたのは日本ばかりでなく、西洋でも支那でも昔はみな同じように思つてゐたのでありました。またこの不思議な石をよせ集める物好きな人があつて、中にずいぶんたくさん集めた人もありました。中にも有名なのは、今から百年ばかり前に、近江に木内石亭といふ人で、これらの人達も多く集めてゐる間に、これは天狗の使つたものだとか神樣のものとかではなくて、人間が昔使用したものであらうと考へ出して來ました。また新井白石のような偉い學者は、これは昔北海道から樺太に棲んでゐた肅愼といふ民族が使用したものであらうと考へ、百年ほど前に日本へ來たシーボルドといふ西洋人は、これは昔のアイヌ人が使つたものだらうといつてをりました。
[#「第三十五圖 モールス先生」のキャプション付きの図(fig18371_36.png)入る]
しかし、この石器が人間の使つたものであり、また、かような石器を使つた人間が日本のこゝかしこにも棲んでゐたといふことを、現場を掘つて研究し、本當によくわかつて來たのは新しいことであります。それは今から五十年程前に、アメリカから日本の大學の教授になつて來たモールスといふ先生が、初めてわれ/\に教へてくれたのであります。この先生は動物學者でありまして、日本へ來る前に、アメリカのフロリダといふ所で石器時代の貝塚を掘つた經驗があり、その方面の學問にも詳しい人でありました。明治十二年に船で横濱に着きまして、その頃出來てゐました汽車で東京へ行く途中、汽車の窓からそこら邊の風景を眺めてをりました。ところが大森驛[#ルビの「おほもりえき」は底本では「おはもりえき」]の附近において線路の上に白い貝殼が多く散亂してゐるのを見つけまして、これはきっと石器時代の貝塚があるのに違いないと思ひ、それから間もなくこの大森へ發掘に出かけました。果してそれは貝塚でありまして、石器や土器が多數に出て來たのです。これが日本において貝塚を研究するために發掘した最初であります。モールス先生は、三四年前アメリカで亡くなられましたが、近頃この大森に先生の記念碑が建てられました。このモールス先生の弟子達や、またその後に出て來た學者達が、熱心に東京附近の貝塚を調査いたしまして、石器時代の事柄を研究したのでありますが、中でも今から十數年前に歿せられました、東京帝國大學の教授であつた坪井正五郎博士は、最も熱心に研究されたのであります。私なども中學生の時分から、坪井先生の教へを受け、それから一そうこの學問が好きになつたのであります。
[#「第三十六圖 坪井正五郎先生」のキャプション付きの図(fig18371_37.png)入る]
今日では日本全國の到る處、北は樺太北海道から本州全體四國九州、西は朝鮮、南は臺灣まで、どこでも石器時代の遺蹟の發見されぬところはありません。そして三千年五千年の前から日本の島々には人間が棲んでゐて、石器時代の文明を長くつゞけてゐたといふことがわかつて來たのであります。われ/\の祖先は、支那から進んだ文明を傳へて今日の日本を建設して來たのでありますけれども、その元はやはり石器を使用した文明の上に築きあげられたものにほかならぬのであります。それでは日本において石器を使つてゐた人間は、われ/\の祖先であるか、または別な人種であるかといふことになりますと、これはなか/\むつかしい問題でありますが、この石器時代の墓から出た人骨を調べますと、今日北海道に遺つてゐるアイヌに似た性質の骨もありますが、またむしろ今日の日本人に近く、アイヌとは大分違つた骨もありますので、その時代から日本の各地には少しづゝ變つた體の人間が棲んでゐたことがわかります。それで一方は、大體現在のアイヌに近い體質をもつてゐた人間が石器を使つてゐたと同時に、またわれ/\の祖先もまた石器を使つてゐたといふことも疑ふ餘地がありません。もっとも朝鮮と臺灣の石器時代は、日本内地の方とはまったく異つた、別の種族が棲んでゐたことは注意を要します。
(ロ) 貝塚、墓地などの遺跡
日本の各地で石器が多數に發見されるといふことは、たゞ今述べたとほりでありますが、それは一體どういふところから出るかと申しますと、種々ありますが、その中一ばん多いのは、ヨーロッパのデンマルクなどにあるのと同じ貝塚からであります。貝塚といふのは、前にも申したとほり、昔の人が海岸だとか、あるひは湖邊だとかに棲んでゐて、平常食つてゐた貝殼やその他の不用物をすてた掃き溜めの跡であります。貝塚は今日、海から遠く離れてゐるものが多いのですが、昔は海岸に近くあつたのです。これらの貝塚の廣さは、大きなのになると一町歩以上のものもあつて、貝殼のつもつた厚さは數尺以上に達してをります。ことに臺地の端だとか、斷崖の場所は十數尺の厚さに及んでゐるものさへあります。また貝塚は東京附近から東海道、山陽道、九州その他海に近い地方には、日本國中到る處に發見せられます。そしてまた海岸ばかりでなく、湖水の傍などにも淡水産の貝殼で出來てゐる貝塚があるのであります。遠江の蜆塚などはその一例で、蜆の貝殼などがあるので、こんな名がつけられたのです。一體貝類は動物中で比較的早く形を變へやすいものでして、蜆でも昔のものは今日よりは形も大きかつたのです。螺でも昔と今は角度が幾分相違してゐるようですし、赤貝でも線の數が少し變つてゐるといふようなことが、貝塚の貝殼を調べて見ればわかります。また貝塚から發見された貝で、今日もはやその近海にゐなくなつたものもありますが、これらの研究は考古學の範圍ではなく、動物學者または貝類學者の研究に屬するのでありますが、皆さんが貝塚に出かけたならば、種々異つた種類の貝殼を採集して來る必要のあることを忘れてはなりません。
それから貝塚の次ぎには、貝殼は見當らぬけれどもやはり人間の住居した跡と見えて石器やその他の遺物が土中に挾まつてゐる所がありまするし、またそれをその後百姓が掘り返し、田畑の表面に石器や土器の散亂してゐる所があります。皆さんが、もしさういふ所へ行つたならば、石の斧や石の矢の根などの落ちてゐるのを拾ふことが出來るのでありますが、昔はたくさんにありましたけれど、近頃は百姓達も石器であることを知るようになり、自分で拾ひ取つてしまひますし、またそれを集めに行く人も多くなつたので、容易に拾ふことが出來なくなりました。この貝塚の附近だとか、石器時代の人が棲んでゐた跡を發掘する時は、をり/\石でもつて取り圍んだ爐の跡だとか、または小屋を建てた時の柱を植ゑ込んだ跡だとかゞ圓く竝んでゐることがあります。しかしその小屋の柱だとか屋根などは朽ちやすいもので造つてあつたから、今日ではまったく遺つてゐません。それらは今日でも田舍において見かけます物置きとか、肥料入れの納家のような簡單な小屋がありますが、まあ、それと大した相違のない程度のものと思はれます。
ヨーロッパでは舊石器時代に氣候が非常に寒かつたので、洞穴の中に人間が棲んでゐたことがありました。日本でも新石器時代に棲むのに適當な洞穴のあるところでは、やはりその中に住居したことがないではありません。例へば越中氷見の大洞穴の中には、今は小さい社が祀られてありますが、その穴の中から石器時代の遺物がたくさんに出て來ました。その他にも各地でかような洞穴は發見されましたが、山腹に當つて二三尺ぐらゐの穴が竝んで設けられてゐるいはゆる横穴といふもの、これは石器時代のものでなく、もっと後の時代の墓でありますから、これは後にお話をすることにいたします。
しかし石器時代の人間もお墓を造りました。たゞそれは今申しました横穴でもなく、また高い塚山を築くのでもなく、普通は貝塚のある所、あるひは人間の住居の附近に、土地を二三尺掘つてそこに死體を埋めて置いたのです。そして墓標のようなものを造つたかも知れませんが、それも現在では何も遺つてゐませんからわかりません。それゆゑ私共が貝塚を掘つたり石器の散らばつてゐる所を掘つてゐますと、その下から石器時代の人間の骨が出て來るので、初めてそこが墓地であつたことが知られるのであります。このような墓場も今から十年前まではよくわからなかつたのでありますが、だん/″\わかつて來て各地において續々發見されてまゐりました。陸前松島の宮戸島だとか、三河の吉胡だとか、河内の國府だとか、備中の津雲だとか、肥後の阿高などでは、ずいぶんたくさん人間の骨が出て、ある一つの場所からは百體三百體以上の骨が、一間ほどの距離を置いて竝んでゐるといふようなあり樣であります。石器時代の墓場があり/\とこの世の中に現れたわけで、發掘に行つた私共も實に驚いたものでした。そして、それらの人間の骨はほとんど完全に、指先の骨まで遺つてゐる場合がすくなくないのであります。かへって後の時代の大きな古墳で、石棺の中に入れた人間は骨まで腐つてゐるのが普通でありますのに、この棺桶もなく土中に埋めた人間の骨が、よく遺つてゐるのは一見不思議に感ぜられますが、それは棺の中は空氣が侵入して腐り易いが、直接に土中に埋める時は空氣が入り難いので、かへってよく保存されるのであります。
[#「第三十七圖 日本石器時代遺跡」のキャプション付きの図(fig18371_38.png)入る]
この石器時代の人間は、どういふふうにして葬つたかといふに、足をまげて膝を體に着け、跪いたような形をして埋めたのが普通でありまして、體を伸ばして埋めたのは至つて稀です。中には胸のあたりに大きい石を置いたものもあります。この體をまげて葬るのは日本ばかりでなく、ヨーロッパでも石器時代に行はれてをりますし、今日の野蠻人の中にもまたそれが見出されますが、それは多分死んだ者が再び生き返つて來て、その靈魂が生きてゐる人間に惡るいことをしないために、足部をまげて縛るといふことがあつたものと考へられるのであります。また石器時代のごときまだ開けない時代でも、親子の情愛といふものは今日と變りはなかつたのですから、幼兒の死體でもけっして捨てゝはありません。赤子や兒童の死體は、大きい土器の壺に入れて特別に葬つてある場合が多いのです。また松島では、老母と少女とが抱き合せて葬つてありましたが、これは定めし祖母と孫娘とが同時に病死したものを葬つたものと思はれます。そしてその少女の頸には小さい石の玉を珠數にして飾つてありました。なんといぢらしいことではありませんか。
私共は、かような墓地を發掘して、その時分の人々がどんな宗教上の考へをもつてゐたかといふこともわかり、またその體につけてゐた種々の裝飾で、當時の風俗を知るばかりでなく、その骨を調べて、どんな人種に屬してゐたかといふことが考へられるのでありまして、それが今お話した石器時代の人種がなんであるかといふことの第一の材料となるのでありますから、この墓地の研究は、貝塚などよりも一そう大切なものになつて來るのであります。
(ハ) 石器と骨角器
日本の貝塚やその他の石器時代の遺蹟から發見される石器は非常な數であつて、よくもこんなにたくさん石器があるものかと驚くくらゐあります。なぜそんなに多くの石器が遺つてゐるかといふに、その後の時代に使用された金屬の器物になりますと、土の中で腐つてしまつてなくなつたり、あるひは腐つてゐないものは拾つて他の器物に造り直したりするといふことがある上に、昔の人がはじめから石器のように惜し氣もなく捨てることをしなかつたのです。しかるに石器は土の中にあつても腐ることはなく、また他の器物に改造することもほとんど出來ないのでありますから、昔から石器には餘り注意する者がなかつたのであります。また石器時代の人も一度石器が破損した場合には、たいてい捨てゝしまひ、これを改造するようなことはなかつた。これが今日多くの石器が發見される理由の一つでありまして、お蔭で私共が皆さんと共に石器を探しに行つても、獲物があるわけです。
石器には種々の種類がありますが、その棚に一つ一つ品物の種類によつて分類して竝べてありますから、これからだん/\それを見て行きませう。まづ第一は斧の形をしたものであります。これを石斧と呼んでゐますが、長さはたいてい五六寸あるひは二三寸ぐらゐのもので、形は御覽のとほり長方形であつて一方の端を削つて鋭くしてありますが、たいていは兩面から磨いて、ちょうど蛤の口のようになつてをります。ですから物を打ち切るためには餘り良く切れるものとは思はれません。また刃先が少し廣がつて三味線の撥のようになつてゐるのもあり、刃を一方からつけた鑿のような形をしてゐるのもあります。それらの斧には横側に刳りを入れたものが多いのであります。これらの石斧は皆よく磨いて滑かに光るように出來て、非常に精巧な造り方であります。中には長さが一寸ぐらゐもない、小さい美しい石で造つた斧がありますが、それは實際の役に立つものとは思はれません。多分大切な寶物の類であつたのでせう。またこれとは反對に、一尺にも近い斧がありますが、これもまだどうも實用には不適當です。おそらく寶物か、あるひは石斧を造る家の看板であつたかも知れません。鑿のような刃のついてゐる一寸ぐらゐの小さい石斧もありますが、これは石斧といふよりも、石鑿といつた方が適してゐるように思はれます。今申したような石を磨いて造つた石斧を私共は磨製石斧といつてゐます。(第三十九圖)
[#「第三十八圖 石器製作の圖」のキャプション付きの図(fig18371_39.png)入る]
それからまた石斧の中に、磨いて造らずして、たゞ石を打ちわつて造つたごく荒い粗末な斧があります。それには細長い短册型のものもありますが、時には分銅型のものもあります。これを打製石斧といつてゐます。しかし打製石斧には實際物を切るために役立つ刃がありません。それならば物を叩く槌に使ふものかといふに、それには餘り細工が過ぎてゐるようにも思はれるので、果して何に使はれたものか頗る疑はしいくらゐです。この打製石斧は、ある場所ではずいぶんたくさんに出ます。今から二十年程前に私共が東京の西、武藏の深大寺といふ村の附近を歩くと、一時間に何十本となく拾ひ得られました。その村の小學校には、生徒達が拾つて來た石斧を、教室内に竝べてある五六十の机の上に一ぱい山のように竝べてあるのを見ました。その數は二千以上もあつて實に驚いた次第でありました。こんなにたくさん打製石斧のあるのは、あるひはこゝで石斧の半製品を造つて、各地へ輸送したものかも知れないと思はれるのであります。かうした石斧などを探すのには、畑に轉がつてゐる石を片端から調べて見るとか、畑の傍の小溝の中の石塊とか、畦に積まれた捨て石の中を熱心に探すに限ります。しかし蛇だとか、蜥蜴だとかゞ、石の間から飛び出して驚かされることがありますから、注意しなければなりません。私は九州へ旅行しました時、田圃の溝の中に七寸ぐらゐもある大きな磨製石斧が潜航艇のように沈んでゐるのを發見して拾ひ取つたことがありますが、こんなやつを探し當てたときは非常に愉快です。一體これらの石斧を使用するときはどうしたかといひますのに、石のまゝ握つて使つたものもありますが、木の柄を着けた場合もありまして、稀には腐つた木の柄が附着した石斧を發見することがあります。(第三十九圖5)
[#「第三十九圖 日本發見石器」のキャプション付きの図(fig18371_40.png)入る]
石斧についでたくさんにあるのは、石の矢の根(石鏃)であります。石鏃は磨製もありますが、これは至つて數が少く、出る所も限られてゐまして、たいていは打製であります。燧石や黒曜石や、安山岩の類で造つたものが多いのでありますが、時には水晶や瑪瑙のような綺麗な石で造つたものもあります。とにかく石鏃は形も小さく可愛らしいので、これを採集するのが一番愉快であります。その形にも種々變つたのがあつて、長い木の葉形、柳の葉の形のようなものや、三角形のものや、また二つの脚のついたもの、その脚が長くなつてゐるもの、その他兩股の間に矢柄を差し込む脚のついたものといつたふうに、いろ/\の種類がありますが、このうち兩脚の出てゐるものは、一たんさゝると中々拔きにくゝ、敵を殺すにつごうがよいので、主に戰爭に使はれたといふことです。アメリカなどから出るような形の非常に異るものや大型のものは日本では餘り發見されませんが、たいてい一寸前後の大きさのものが普通であります。またこの棚に竝べてある柳の葉の形をした長さ三寸以上もある石鏃に似た大形のものは、普通石槍といつてゐます。それから小形で一方が膨れ、他の一方が尖つてゐるものがあります。それは石の錐(石錐)といふものです。また、石匙といふものがありますが、昔の人の天狗の飯匙といつてゐたものです。長い形と横にひらたいものとがありますが、双方共に一方につまみがあり、他側は切れるほど鋭くはありませんが、鈍い刃になつてゐます。現在の野蠻人などが、これと同じような器物を使つてゐるところから考へますと、この石匙は獸の皮を剥ぐために使用したものに相違ありません。獸の皮と肉との間にある脂肪をごし/\とかき取つて、皮を剥いで行くのです。(第四十圖)
[#「第四十圖 日本發見石器及び骨角器」のキャプション付きの図(fig18371_41.png)入る]
今まで申しました石器は、刃物か、それに類似のものでありますが、なほ他に刃物以外のものもあります。その中でも面白いのは、石棒です。これは五六寸から一尺ぐらゐの長さのものでありまして、圓い棒の頭の所が膨れてゐます。その膨れたところに、種々模樣の彫つてあるものもあります。この棒の大きくないものは、手に持つた棍棒かと思はれますが、太くて大きなものには、とうてい持つて振りまはすことの出來ないものがありますから、それは何か宗教上の目的に使用されたものだらうと思はれます。(第四十圖)
また錘石といふのがあります。それは平たい石塊の上下を少し打ち缺いて紐絲を懸けるのに便利にしてあるもので、網の錘とか、機織りに使用したものかといはれてゐます。それから石皿といふものや、砥石のようなものもあります。(第四十圖)また石で造つた裝飾品もありますが、その中には後程述べようと思ふ日本の私共の祖先が使つた勾玉の形に似た飾り物があり、日本に出ない美しい緑色の石(硬玉)で造つたものが少くありません。それらは當時支那から渡つた石材を取り寄せて、つくつたものと思はれます。またこの美しい楕圓形の石の眞中に、穴のあるものなどもあります。これらはみな裝飾品と思はれますが、果してどうして使つたものか、はっきりわかりません。かように、野蠻な時代でも美しい石材を他の地方から輸入して使用したことがあるばかりでなく、燧石だとか、黒曜石のようなものでも、その地方に産しない場合は、他の地方からこれを輸入して使つたのであります。私共は、この石の石質を調べることによつて、當時の交通とか貿易の跡とかをたどることが出來るのでありますから、皆さんも石器時代の石の性質を調査することが必要であります。(第四十一圖)
[#「第四十一圖 日本石器時代装飾品」のキャプション付きの図(fig18371_42.png)入る]
また石器時代といひましても、當時の人間が用ひてゐたものは、石器ばかりではなく、他の材料をもつて作つたものもないではありません。その主なるものは、かれ等が食物の材料として捕へた獸類の骨や角で作つた物であります。まづ石器と同じような刃物の類をやはり骨や角で作るのでありますが、もっともこれを作るには石器を用ひたのでありませう。この骨や角は石よりも軟かいのでありますけれども、また一方には石よりも強くてをれ易くないといふことがその特長であります。それがために物を突き刺したり孔をあける錐の類、ことに毛皮だとか織り物だとかを、縫つたり綴り合せたりするためには、石の錐は堅くてもをれ易くてだめですから、それにはどうしても、骨や角でつくつた錐に限ると思はれます。また魚を釣る時の釣り針だとか、魚を突き刺す時の銛にも、骨や角で作つたものでなければ役に立たないのでありまして、常陸の椎塚といふ貝塚からは、鯛の頭の骨に、骨で作つた銛がさゝつたまゝ發見せられたのがありました。これで骨製の器物が漁業に用ひられたことを證據立てゝをります。(第四十圖)
しかしこの骨角器は、當時においてはその數がたくさんあつたことでせうが、腐り易いために石器のように今日多く遺つてをりません。それから、これら骨角器によつて獸の種類を調べて見ますと、たいてい猪と鹿のものであることがわかり、また貝塚から出て來る骨や角の類を見ても、やはり猪や鹿が主なるものであります。それから推して石器時代の人間は貝や魚の他に、主に猪だとか鹿だとかを狩りして食料にしてゐたことが知られます。
また骨角器以外に貝殼で造つた器物もないではありませんが、それは主に裝飾に用ひられたもので、中でも一番多いものは貝の腕輪であります。これはたいてい赤貝の類の貝殼を刳り拔き、その周圍ばかりを殘して前腕にはめ込むでので[#「はめ込むでので」はママ]ありまして、石器時代の墓場から出る人骨に、この貝輪がそのまゝ腕骨にはまつてゐるのをたび/\發見されました。中には一方の腕に七つ八つも貝輪をはめてゐるのもありました。この貝輪を腕にはめる風俗は、今日でも南洋あたりの野蠻人の間に多く見受けられますが、たゞその貝輪はその刳り孔がわりあひに小さいので、掌を通して前腕にはめることは餘程困難であつたことゝ思はれます。今日私共が、その貝輪をとつて前腕にはめようとすると容易にはまりませんが、これは今日でも南洋あたりにあるように、うまく氣合でもつて手にはめ込む專門家があつたかと思はれます。このついでに他の裝飾品について述べますが、この時分の人は耳にも石や土で作つた大きな耳飾りをつけたのでした。それは石の環の一方が缺けたような形のものや、鼓の形をした土製品で、前に申した石器時代の墓場から、よく人骨の耳のあたりで發見されるのであります。(第四十一圖)
(ニ) 土器と土偶
日本の石器時代には土器が餘程盛んに使用されてゐましたと見え、どの遺跡にも多くの土器が發見されます。私共が石器時代の遺蹟を探すには、石器に眼をつけるよりも、田圃の中に散らばつてゐる土器の破片を見つけることが一番の早道だと思はれるくらゐであります。この土器も石器と同じように、あるひは石器よりもより以上に、一度破損した場合はとうてい修繕が出來ない。もっとも時には大形の土器に罅がはひつたり破れたりした時、兩側に孔をあけて紐で縛りつけたものがないではありませんが、多くは捨てゝしまつたものと見え、遺つてゐる土器はたいてい破れ物であります。もっとも墓場だとか、その他の場所に完全な土器が埋もれてゐることもありますが、私共の發見するのは多くは破片です。それは發掘する時、壞れるのでなくて、たいてい元から壞れてゐるのであります。
この當時の土器は、まだ完全な轆轤を使用しなかつたのでありますが、そのわりあひに形もよく整つて、歪んだものなどは甚だ稀であり、かなり巧みに造られてゐるように思はれます。それはおそらく平たい籠のようなものゝ上で、まはしながら作つたのでせう。その頃にはすでに土器を造る專門の技術者もゐたのでせうけれども、後の時代のようにたくさんの土器を一時に製造するようなことは少かつたらしく、粗末な仕入れものと見られるものは甚だ稀であります。それで形や模樣なども同じものが少く、一つ/\違つてゐるのが普通でありますが、この時分には、まだ土器を燒く窯が知られてゐなかつたと見え、後の時代のように綺麗な色に出來てをりません。素燒きでありますけれども、黒ずんだ茶色で爐に燻されたのが多いのです。そしてその土の質も細かい砂や、時には大粒の砂がまじつてゐるために平均してをりません。これら土器の形は、その棚に竝べてあるように、非常に種類が多いのでありまして、後の時代や今日のものと比べて、かへって變化が多樣を極めてゐるのには寧ろ驚かされます。たゞ皿の類は餘り見當りませんが、鉢、壺、土瓶、急須のたぐひから香爐型のものなどがあつて、それに複雜な形の取手や、耳などがついてをり、模樣はたいてい繩や莚の型を押しつけその上に曲線で渦卷きだとか、それに類似の模樣がつけてありますが、時には突出した帶のような裝飾をつけたものもあります。ごく珍しい例ではありますが、赤い繪の具で塗つたものさへ見かけられるのであります。しかし燒き方はどれも軟かい質ですから、水を入れるとたいていは浸み出します。それには當時の人も定めし困つたこともあらうと思はれますが、今日のように美しい座敷があつて疊の上にゐるわけではなく、少しぐらゐは水がしみ出して濡れたとて、さう困るようなことはなかつたでせう。ところが、この土器を長く使用してゐるうちに水垢がついたり、魚や獸の脂がしみ込んだりして、そのために水氣もしみ出さないようになりますので、當時はおそらく新しい土器よりも使ひ古された土器の方が大切がられたかも知れません。(第四十二圖)
當時の土器の模樣は、地方によつて多少の違ひがありますし、また時代によつても變つて來たようですから、それらを調べて見ることは面白いのであります。同じ日本の石器時代の人々のお互の交通とか、文化の關係などを知るには、土器の模樣や形などを研究することが必要であります。石器は作り方やその形もお互に似てゐて、ほとんど世界中、その變りは少いのでありますから、文化の關係その他の研究には土器ほどに役立ちません。ですから私共は石器時代の遺蹟に行つても、土器を熱心に採集し、小さい破片でも見遁さぬように注意してをります。
[#「第四十二圖 日本石器時代土器(繩紋式)」のキャプション付きの図(fig18371_43.png)入る]
それから、土器と同じく粘土で作つたものに土偶といふものがあります。すなはち土の人形です。それはたいてい二三寸から四五寸ぐらゐの大きさのものが多く、時には一尺以上もあるのを見かけますが、いづれも人間の形そのまゝの寫生的のものでなくて、模樣風に一種の型にはまつたものばかりであります。顏でも眼鼻口と明かに區別されてゐないのが普通であります。男と女の別は現されてゐますが、ことに女の土偶がたくさんにありますのは、この時分には女の神さまを崇拜したゝめに造つたものだといふ學者もあります。とにかく、何か宗教上のために造つたもので、玩具ではなかつたようです。もし玩具だつたら、人間の形をそのまゝ寫したものにしなければならないと思ひます。土偶の他に熊だとか猿だとかの獸類をつくつたものも稀には出ることがありますが、これは玩具と見えて、よくその形がそれらの動物に似てをります。とにかく日本の石器時代の土器は、外國の石器時代の土器に比べて、餘程進歩し巧妙に造られてをり、日本の石器時代の人間は、土器を造ることが上手でもあり、好きでもあつたと思はれます。(第四十三圖)
[#「第四十三圖 日本石器時代土偶」のキャプション付きの図(fig18371_44.png)入る]
今まで述べた土器の話は、主として關東から奧羽地方において出る土器について申したのでありますが、關西地方、あるひはその他の地方から、少しくこれと違つた種類の土器が石器と共に發見せられます。その石器には餘り變りはありませんが、たゞ石庖丁だとか刳りのある石斧などが、どちらかといふと多く出て來ます。これは、前の黒ずんだ色の土器とは異なつて、たゞの茶色の土器です。(第四十四圖)それは作る時の窯が、前のものより進歩して、燒く時に燻されなかつたからでありまして、土器の製作法が一段進んだものと見られますが、その土器の形からいひますと、前のものほど多くの種類がありません。壺とか鉢とかきまつた形のものばかりでありまして、ことに壺には尻の方が、つぼんだ無花果のような形をしたものが多いのです。また模樣はたいていありません。よしありましても、直線などを細く切り込んだもので、前に述べた土器のように、曲線だとか繩だとか莚だとかの形を押したものは見當りません。一般に形や模樣は單純であつて、前のものほど複雜でないといふことが出來ます。しかも同じ形をした土器が同時に多く出て來ますところを見ますと、これらの土器は、今日のように工業的に製造せられたものと想像することが出來ます。私共はこの種の土器を彌生式土器と呼んでをりますが、それは最初東京本郷の帝國大學の裏の所に當る彌生町にあつた貝塚から出た土器から名を取つたのです。これに對し前の形の土器を繩文式土器と稱してをります。かように二つの土器の種類があつて、互に違つてゐるのは、これを作つた民族の人種が同じでないためでありまして、すなはち彌生式の土器は、われ/\日本人の祖先の石器時代のもので、繩紋式の土器は、アイヌの祖先の石器時代のものであらうといふ人がありますが、あるひはさうであるかも知れません。また人種は同じでも、新しい文化がはひつて來たゝめに、土器に相違が出來て來たのかも知れないのです。だん/\調べて行きますと、この二つの中ほどのものも時々發見されるので、これを作つた人間に關する議論はなか/\むつかしくなりますから、こゝではそれは止しにいたします。
[#「第四十四圖 日本石器時代及び金石併用期土器(彌生式)」のキャプション付きの図(fig18371_45.png)入る]
(ホ) 朝鮮と支那の石器
さて今まで、日本の石器時代の遺跡と、そこから出る品物について述べて來ましたが、次ぎに日本に近い支那や朝鮮などの石器時代は、どういふふうであるかといふことをこれから、少しくお話いたしませう。また支那朝鮮の石器時代の遺物を參考のためにこゝに竝べて置きましたから、皆さん御覽下さい。
朝鮮では、南方からも北方からも石器時代の遺物が出ます。そしてこの國も、また古い石器時代から開けてゐたことがわかるのでありますが、日本に近い南朝鮮の邊には、日本の繩紋式土器に似たような土器はほとんど發見せられません。どちらかといひますと、彌生式土器に近いものが出まして、石器も磨製のもので、石斧以外に日本ではめったに見ることの出來ない綺麗に磨いた鋭い矢の根や、また石の劍が出て來ます。この土器も石器も、日本のものは餘程違つたところがありまして、石器時代の末、金屬が使用されるようになつた時代のものかも知れません。たゞ石斧の中には、日本の各地から出るのと同じように、刳りのはひつたものゝ出ることは注意すべきでありませう。北朝鮮からは石器も土器も出ますが、その土器は南朝鮮のものとは少し違つて、どちらかといふと日本の繩紋式土器に多少似た、あらい線の模樣のあるのが出るのであります。この南朝鮮と北朝鮮とは、果して同一人種が遺したものであるかどうかは、考へなければならぬことでありまして、私共はむしろ別の民族が遺したものかと思ふくらゐであります。(第四十五圖)
[#「第四十五圖 支那朝鮮新石器時代石器」のキャプション付きの図(fig18371_46.png)入る]
さて、支那にはひりますと、朝鮮に近い滿洲にも、旅順や大連あたりからも石器が非常に多く出るのでありますが、石斧の中には平たくて孔があり、角ばつた鑿のようなものがありまして、支那の内地から出るものと非常によく似てゐるので、どうしてもこれは支那人の祖先が使用したものらしく思はれるのであります。土器はやはり日本の彌生式に近い種類のものが普通でありまして、時には珍しく、だんだら模樣に彩色した美しいものが出ることもあります。支那では、また太い三本脚のついたれき(鬲)という形の土器が出ますが、これは支那や支那の文化の影響を受けた地方に限つて出るのであつて、やはり滿洲からも出ます。支那内地の石器時代のことはまだよく調べがついてゐませんが、山東省や陝西省その他からも石器が出て來ます。いまお話した滿洲より出るのと同じように、孔のあいた石斧などであります。土器では三本脚のれきなどでありますが、近頃にいたつて河南省や甘肅省あたりでは、墨色の繪の具で模樣を描いた美しい土器が、石器と一しょにたくさんに發見されますが、これは石器時代の末期にあつたものと思はれます。この土器は、滿洲から出る彩色の土器とは違つてゐて、餘程西の方の國から出るものに似てゐるところがありますから、古く西方諸國の文明が支那へ入りこんだものといふことが想像されて面白いものであります。(第四十六圖)
[#「第四十六圖 支那新石器時代土器」のキャプション付きの図(fig18371_47.png)入る]
支那では、たゞ今申したように新石器時代のものが出るばかりではなく、その北方黄河の流れが北へ曲つて、また南へをれて來るあたりでは、近年舊石器時代の古い遺物が發見されるといふことでありますし、なほ北方のシベリヤの南部においても、舊石器時代のものが現れて來たところから見ますと、支那にも古く舊石器時代から人間が棲んでゐたことがわかるのであります。しかし、何分支那は廣い國でありますし、またその東部は大河の流した泥だとか、風が吹き送つてきた小さい砂だとかゞつもつて、非常にそれが深いために、その下に石器時代のものがあるのですから容易に調べがつかず、今日までよく知られてをりません。それで、將來われ/\が一しょう懸命に調べて行つたら、きっと面白いことが發見されることゝ信じます。
それからもと支那の領地であつて、今は日本の一部になつた臺灣にも石器時代の遺物が出ますが、支那から出るものとよく似てをります。しかし琉球のものになりますと、臺灣とは似ないで、日本内地の繩紋式土器と同じ性質の土器と一しょに出るのであります。
以上述べましたように、支那や朝鮮の石器時代のものは、その土器の上から見て、日本のものとは關係を有してゐないようでありますが、たゞ彌生式土器のようなものになつて始めて少し似て來るといふのでありますから、まづ石器時代には、日本は朝鮮や支那とは獨立の發達をしてをつた民族が住んでゐたものと見なければなりません。それが石器時代の終り頃になつて、支那朝鮮を經て金屬の器物を使ふことが日本に傳へられまして、初めて日本と支那あたりの間に深い關係が生ずるようになるのであります。それらを證據立てる品物は、次ぎの室に竝べてありますから、そこへ行くことにいたしませう。
(ヘ) 青銅器と銅鐸
今まで申した日本の石器時代は、幾年ほどつゞいたかといふことは、確にはわかりませんが、けっして二百年や三百年の短い期間ではなくて、あるひは千年にも近い長い間のことゝ思はれます。そして石器時代の文明もだん/\進んで來ましたが、ちょうど今から三千年ほど前に、お隣りの支那では周の末から漢の初めにかけて、支那人の勢力が非常に盛んになつて、どし/\各地へ植民をしだしたと共に、今まですでに用ひてゐたところの金屬、銅や青銅で造つた器物の使用が東亞の諸國へ擴められることになりました。その結果滿洲から朝鮮日本に及び、それで日本も初めて支那の金屬を傳へて、石器時代の文化から金屬器時代の文化に進むことになりました。それでは支那から日本へ金屬が傳來したことが、なぜわかるかといひますと、それはちょうどその頃支那に出來た古い錢が、一しょに發見されるからであります。その古錢は小刀の形をした刀錢や鍬の形をした布泉といふものでありまして、それが周の終り頃に出來た錢であるといふので、年代が確にきめられるのであります。日本には滿洲や北朝鮮よりも少し後れて金屬がはひつて來たらしく思はれますが、それは今から二千年ほど前支那の王莽の頃出來た貨泉といふ錢が時々出るのでわかります。しかし金屬がはひつて來たからとてすぐに今までの石器を悉く捨てゝ全部金屬器を使ふようになつたのではありません。金屬も最初は分量が僅かで、貴重品とせられてをつたのが、年を經てだん/\石器に代つて行つたのであり、初めは石器と同時に使用せられてゐたものに相違ありません。かういふ時代を私共は金石併用期と呼んでをります。
[#「第五十圖 支那古錢」のキャプション付きの図(fig18371_48png)入る]
いま申したように、日本へ青銅器がはひつて來たのは支那からでありまして、それは多分滿洲朝鮮の海岸を經てはひつて來たものと思はれますから、從つて日本では一番西の九州に初めて傳はつたものと考へられます。それがだん/\に東へ東へと進んで行きまして、五畿内地方からその附近が金屬を用ひる時代になりましたが、東北地方にはその後長く、石器時代の文化が殘つてゐたものと思はれます。
さて日本に、青銅が傳はつて、どういふものがまづ造られたかと申しますに、初めはむろん支那あたりで造られた品物がそのまゝ持つて來られたものと見え、細い形の銅劍などは支那のものとまったく同じものが日本からも出て來ます。だん/\月日の經るに從つて日本でも青銅器を造るようになつたのでありますが、材料はやはり多くは支那から持つて來たものでありまして、時には支那から輸入した古錢を鑄つぶして、他の品物を造つたかも知れません。今では銅貨は補助貨幣でありまして、本當の價値だけ重分量をもつてをりませんけれども、昔は支那などでは、銅貨が主な貨幣でありましたから、地金と同じだけの價値があつたのです。ですからそれを地金として鑄つぶしたのはむりではないと思はれます。日本で最初造られた銅器は前よりは幅の廣い銅の劍や鉾の類でありまして、その一つはくりす型といふ劍で、この劍はつばに當るところが斜にまがつてゐます。これは支那の『戈』といふ武器と同じように、劍の頭を柄に直角に横にくっつけて使つたものと思はれるのであります。その次ぎは銅鉾といふもので、幅の廣い大型のものでありまして、實用に使つたものでなく、何か儀式にでも用ひたものと見え、刃のところも鋭くはなく、實際に使用するものとしてはあまり大きすぎるのです。(第四十七圖)これらの物が、日本で造られたといふ證據には、それを造る時に用ひた石の型が發見されるのでわかるのであります。この劍や鉾の類は九州が最も多く發見されます。その他では中國や四國などで出るばかりで、東の方東北地方には今日までまだ一つも發見されてをりません。とにかく支那のものと深い關係のあることはたしかです。また石でもつてこの銅劍などの形を作つたものが時々發見せられますが、やはりこの時代のものと思はれます。(第四十九圖)
[#「第四十七圖 日本青銅器」のキャプション付きの図(fig18371_49.png)入る]
次ぎに、大體この頃のものと思はれる銅器に、銅鐸といふものがあります。これは少し平たい釣り鐘のような形をしたもので、小さいものは四五寸、大きいものになると四五尺もあり、すてきに大きなものであります。その表面には袈裟襷といつて、坊さんの袈裟のように格子型に區畫した模樣をつけたものや、また流水紋といつて長い渦卷きの模樣をつけたものもあり、時には人間や動物の形を簡單に現したものがついてをります。この銅鐸は今まで古墳から出たことはなく、岩の間や、山かげなどからひょこっと出るのが普通であり、そしてたくさんの數が一度に出ることも時々あります。また九州地方からは一つも出たことはなく、主に畿内から東海道方面にかけて多く發見されるのであります。銅鐸はその形が、釣り鐘のようでありますから、やはり樂器ではあるまいかといふ人もありますが、さて樂器に使つた跡も見られませんので、何か寶物として持つてゐたものだらうと考へるより仕方がありません。劍や鉾のように、これを鑄た型が日本では發見されないので、あるひは支那の方から輸入したものだらうといはれますが、支那には、これと同じ品物がありませんので、やはり日本で造つたとするより外はないのであります。(第四十八圖)
[#「第四十八圖 日本銅鐸」のキャプション付きの図(fig18371_50.png)入る]
まづ今お話したように、劍と鉾と、それから銅鐸などが、青銅が初めて日本へはひつた時分の遺物でありますが、支那ではすでに漢の時代から盛んに鐵が使用されるようになつてゐたので、日本へも間もなく鐵がはひつて來て、刀その他の武器に鐵を用ひることゝなりました。それでヨーロッパの諸國や支那のように青銅器の時代といふものを區別するほどの間もなく、すぐに鐵器の時代に移つてしまつたのです。そして日本は歴史のある時代にはひつて、われ/\の祖先の遺した品物が、だん/\と現れて來るのであります。皆さん、こゝにある銅劍や銅鉾や銅鐸などを一巡御覽になつたら、次ぎの室に行くことにいたしませう。
[#「第四十九圖 日本及び朝鮮石劍」のキャプション付きの図(fig18371_51.png)入る]
[#改ページ]
二、日本原史時代室
(イ) 日本の古墳
石の器物ばかりを使つてゐた石器時代から、次ぎには少しづゝ金屬の器物を用ひた時期を過ぎて、日本も遂に金屬の利器を主に使用するいはゆる金屬時代にはひりました。そしてその金屬は前にも申したとほり、青銅だけを使用した時代は極めて短く、あるひはほとんどないくらゐで、すぐに鐵を使ふ時代になつたのであります。これと同時に、日本は歴史のない時代から、少しづゝ歴史がわかる時代になつて來たのであります。かようにまだ歴史が十分に明かではないが、ぼんやりわかつて來た時代を、われ/\は原史時代といふのであります。
日本の石器時代の遺物を殘した人間は、どういふ人種であつたかといふことについてはいろ/\議論がありますが、この原史時代にはひつて金屬の器物を使つてゐた人間になりますと、今日のわれ/\と同じ日本人であつたことが疑ひないのであります。さてこの時代の日本人の殘した遺跡には、どんなものがあるかと申しますと、古くから石や煉瓦で家屋を造つた外國などでは、家屋を始め他の建築物の遺蹟が多數に殘つてゐるのでありますが、日本では今日と同じように、多く木材で家を建てたので、その跡はまったくなくなつて殘つてをりません。たゞ、今少し後の時代のお寺や宮殿などから、柱の礎や瓦がたくさんみつかるだけであります。また日本は島國であつて、外國人から攻められるといふ心配もありませんでしたから、城を築く必要も少くなかつたので、さうした種類の遺蹟もたくさんはありません。たゞ遺つてゐるのは、その時分の人の造つたお墓であります。この墓は形も大きく大さう岩乘に造られてありますから、千年二千年後の今日まで、幸ひ元のまゝで遺つてゐるものがたくさんあり、古く日本人が住んでゐたところは、南は九州から北は東北地方に至るまで、どこでも必ずこの古い墓を見ることが出來ます。しかし墓の他には、僅かに陶器を造つた窯跡のようなものがあるくらゐで、ほとんどいふに足るものはありません。それで私も、これから皆さんと一しょに私共の祖先の造つた古いお墓がどういふものであつたか、またそのお墓の中からどういふものが發見されるかを見て行きたいと思ひます。そしてこれをよく調べると、その時分の人がいかなる文化をもつてゐたかとか、どういふ技術の所有者であつたかといふことがわかりますので、お墓を研究することは歴史の書物を讀むのと少しも變らないのであります。
[#「第五十一圖 日本古墳の外形」のキャプション付きの図(fig18371_52.png)入る]
さて日本人の古い墓は今日のように石碑や石塔を立てたのではなく、たいてい土饅頭のように高くなつてゐるので、私共はこれを高塚とか、古墳と申してをります。そのうち一番古い形で、また一番後まで遺つてゐたのは圓形の塚であります。一たい圓い塚は、どこの國でも昔からあるのでありまして、人間の死體をまづ地上に置いた上に土を盛りかけると、自然に圓い塚の形が出來るのでありますから、どこの國の人間でも、自然にかうした塚を造ることになるのであります。ところがこの圓い塚を、土で死體の上をおほふばかりでなく、次第に立派に造るようになりまして、高さも高くなり、周圍もだん/\大きくなつて行きまして、あるひは鏡餅を重ねたように、圓い塚に段々をつけたような形も出來てまゐりました。しかし、世界中どこにもあるこの圓い塚の他に、日本では他國に見ることの出來ない一種の型の塚が作られたのです。それは圓い塚の前の方が延びて四角になつた形で、ちょっと昔の口の廣い壺を伏せて、横から見たような形をしてゐるものであります。あるひはお茶をひく茶臼の形にも似てゐるところがあり、また車の形にも似てゐますので、罐子塚だとか、茶臼塚とか、車塚だとか、いろ/\の名がついてをりますが、私共は前方後圓の塚と呼んでをります。それは前が四角で後が圓いといふ意味であります。この塚の模型は特に置いてありますから、それを御覽になるとよくわかります。またその後の圓いところと、前の四角なところとのつなぎめのところの兩側に、小さい圓い丘がついてゐることがあります。それがいかにも車の兩輪に似てゐますから、昔の人が車塚といつたのは面白い見かただと思ひます。もっともこの形の古墳は、昔でも偉い人を葬るために造つたものでありまして、天皇樣だとか、皇族の方々の御墓に多く用ひたのでありまして、下々のものはやはり、圓い塚を用ひたのであります。その大きいものになりますと、周圍が十町以上のものもあり、外側に、たいてい堀をめぐらしてあります。この形の塚は日本に近い朝鮮や支那においても、けっして見ることの出來ない、實に日本獨特のものといつてよろしい。しかし、どうしてかような形の塚が出來たかといふことについては、種々議論もありますが、どうもはつきりはわかりません。(第五十一圖下)
また一方には古くからある圓い塚から、だん/\變化して四角な形の古墳も出來て來ましたが、この四角の形の塚は、支那では古く秦や漢の時代から天子の墓などにあつたもので、それを日本が支那と交通を始めてから後にまねたものが多いようであります。そして天皇の御陵などにこの四角の形のお墓が造られるようになりました。それですから日本の古い墓の形は、まづ圓いのと四角なのと、前方後圓なのとの三通りといふことが出來ます。その中最も古くからあつたのは圓塚、その次ぎに出來たのが前方後圓、それから最後に流行して來たのは四角塚でありますが、この前方後圓と四角な形はやがて廢れてしまつて、奈良朝時代からは、普通の圓塚が專ら行はれるようになりました。
さて今申したいろ/\の形の古墳は、今日遺つてゐるものには、たいてい松の木や他の樹木が生え繁つて、遠方から眺めると、こんもりした森のように見えるのですが、昔はそんなに樹木が生えてゐたわけでなく、たいていそれらの塚の上には、圓い磧石を載せて、全體を蔽うてをつたものでありました。ちょうど今日、明治天皇や大正天皇の御陵において拜めるように、樹木が生えないようにしてあつたのです。それが年月を經るに從つて石が崩れたり、その中に木の種が落ちて芽を出したりして、塚の上に樹木が茂つて來たのであります。もっとも墓の周圍などには、昔はおまゐりする時に、お供へ物をしたり、おまつりをするために、いろ/\のものが置いてあつたに違ひありませんが、それらの器物は今日ではたいてい土に埋もれて見えなくなつたり、壞れてなくなつてしまつて、遺つてゐるものは甚だ少いのであります。たゞ埴輪といつて、人の像や動物の形や壺の形を土で造つたものが竝べてあつたことは、その殘り物があるのでわかります。またこれらの墓の中には、死骸をぢかに入れたのではなく、石で造つた石棺だとか、石で造つた大きい石の部屋が設けられて、その中に石棺あるひは木棺に、死骸を納めて葬られたのであります。私はこれからまづ、墓の外にめぐらしてあつた、埴輪についてお話をいたしまして、それから墓の中の石棺や、石の部屋のことに話を進めませう。
(ロ) 埴輪と石人
さてお隣りの支那では、漢の時代頃から後、墓の中に土で作つた人形や動物の像、その他いろ/\の品物の形を入れ、また陵墓の前に石で造つた人間や動物の像を竝べて飾りとすることが流行だしましたが、日本でもまた古く前方後圓の古墳が造られた時分には墓の前などに、土で造つた人間や動物の像を竝べる習慣がありました。この土で造つた像を埴輪樹て物と申します。昔からの傳へによりますと、垂仁天皇の時に、天皇の御弟倭彦命が薨去になつた際、その頃貴人が死ぬと、家臣などが殉死といつて、お伴に死ぬ習慣がありましたので、多くの家臣が命のお伴をして生きながら墓場に埋められました。ところがなか/\死に切れないので、その悲しい泣き聲が、天皇の御殿にまで聞えて來ました。それで、天皇は殉死の風俗は甚だ人情にそむいた殘酷なことであるから、これはどうしてもやめなければならぬとお考へになりました。その後數年を經て、皇后日葉酢媛命が御崩御になりました時に、野見宿禰といふ者がありまして、天皇に今後は土でもつて人間の像を作り、それを人間の代りに埋めましたならば、古くから傳はつてゐる風俗をも保存し、また人間を生き埋めにするような、可愛そうなことをなくすることが出來ると思ひますと申し上げましたので、天皇は、それは眞によい思ひつきであると御賞めになつて、それからは土で作つた人間などの像を墓の側に埋めることになつたのだといふことです。元來墓の周圍に、一つは土が崩れないように、もう一つは飾りのために、土で作つた筒形の陶器を竝べて埋めるといふことは、その以前からもあつたように思はれますから、この野見宿禰のような人は、支那で行はれた石で造つた人間像や動物の像を墓側に立てる風俗を聞いて、それを土で作ることに考へついたのかも知れません。この野見宿禰といふ人は、あの相撲をはじめたといはれてゐる同じ人であります。とにかく埴輪といふものが垂仁天皇の御代前後から始まつて、四五百年ぐらゐもつゞいたことは確らしいのであります。この埴輪といふ言葉の埴といふのは粘土といふことで、輪といふのは輪の形に竝べることから出た名前だといふことであります。それで私共が古墳へ行つても、埴輪の人形や、筒形のものゝ破片などが發見された時には、その塚がごく古いこの時代のものであることを、推定することが出來るのであります。
[#「第五十二圖 日本古墳埴輪人物」のキャプション付きの図(fig18371_53.png)入る]
さて埴輪の筒形のものは、墓の丘のまはり、時には堀の外側の土手にも、一重二重あるひは三重にも、取り繞らされたのであり、また塚の頂上には家形や、それに似た大きな埴輪を置いたものであることは、今までもわかつてをりましたが、人間や動物の埴輪などはどこへ立てたものか、はっきりしたことが、わからなかつたのであります。ところが、最近に上野の國のある前方後圓の古墳では、周圍の堀の外側、ちょうど墓の前のところに、筒形のものを長い間二重に竝べ、その一部分に人間や馬や鳥の埴輪を集めて立てたのが發見されました。また、ある圓形の墓では塚のまはりに筒形を竝べ、その前のところに人形を立てゝあるのが掘り出されました。それでだいぶよくわかつて來ましたが、つまり墓の前とか、墓の周りの要所々々と思はれるところに、人間や馬や鳥などの像を竝べたものに相違ありません。
[#「第五十三圖 日本古墳埴輪動物」のキャプション付きの図(fig18371_54.png)入る]
[#「第五十四圖 日本古墳家形埴輪その他」のキャプション付きの図(fig18371_55.png)入る]
さてこの埴輪はどういふ燒き物かといひますと、細い刷毛目の線のはひつた赤色の素燒きでありまして、人間の像はたいてい二三尺くらゐの高さで、男子もあり婦人もあります。そして男子のものには、身に甲胄をつけ劍を佩いてゐる勇ましい形をしたのがあり、婦人の像には、髮を結びたすきをかけ、何か品物を捧げてゐるようなのもあります。そして顏には赤い紅を塗つたのだとか、少し口元を歪めて悲しそうな表情をしたものもあります。いづれも至つて粗末な簡單な人形で、脚の方はたいてい一本の筒形になり、足の先まで現してあるのは稀であります。しかし、そのうちに、なんともいへない無邪氣な顏つきや樣子をしてゐるところなど、いかにも昔の人の飾り氣のない心が窺はれるばかりでなく、當時の人の風俗だとか服裝なども、これによつて知ることが出來ますから、なか/\大切なものであります。次ぎに動物の像には馬が一等多く、それには轡だとか鞍だとかの馬具をつけてゐるところが見られます。また脚の方は、やはりたいてい筒形になつて實際の馬の脚のようには作られてをりませんが、そこにかへって面白味があります。馬の他動物の像には、牛だとか猿だとか猪だとか、また鴨や鷄などもあり、なか/\面白いです。その他のものには家の形もあり、その屋根には、今日私共が伊勢大神宮の建築で見るような、ちぎやかつをぎを載せてゐるのもありますが、また劍や靫や巴といふようなものを模してあるのも發見されます。とにかくこの埴輪といふものは、なか/\面白いもので、日本人の作つた一番古い彫刻物といふことが出來、昔の人の生活や風俗を知る上に最もよい材料の一つであります。また埴輪のあることによつて、その塚のごく古いこともわかるのでありますから、考古學の研究上非常に大切なものとせられてをりますが、何分お墓の外に立てゝあつたので、長い年月の間に雨風にさらされて壞れてしまひ、完全に殘つてゐるものが極めて少いのは殘念なことであります。この部屋には、たゞ今お話した人間や馬の埴輪の實物を始め、今までに發見された面白い埴輪の模型などが陳列してありますから、よく御覽になつて、今後古墳を調べる時に、こんなものゝ破片などが落ちてゐるかどうかを注意されるように望みます。(第五十二、三、四圖)
[#「第五十五圖 石人」のキャプション付きの図(fig18371_56.png)入る]
また埴輪の人形や馬と同じ形のものを、石で作つてお墓に立てたこともありました。これを石人、石馬などゝ申してをります。しかしこれは日本のごく一部に行はれたゞけで、九州の筑後や肥後などに時々見ることが出來ます。筑後には昔繼體天皇の御時、磐井といふ強い人がをつて、朝鮮の新羅の國と同盟して、天皇の命に背いたので、とう/\征伐されてしまひましたが、この人は生きてゐる時分から、石でお墓を作り、石の人形などを立てゝ、豪勢を示してゐたといふことが、古い書物にでてをります。ちょうどこの磐井のをつた地方に、今も石人石馬が多く殘つてゐるのは面白いことです。(第五十五圖)
(ハ) 石棺と石室
古墳の形と、それから外側に立つてゐた埴輪について、たゞいま一通りお話したのでありますが、これからは、古墳の内部にある石棺と石室のお話をいたしませう。日本の古墳は元來小高い丘の上なぞに少しく手を加へた圓い塚だとか、前方後圓の塚を築いたのでありまして、その頂上には石の棺を收めるといふのが普通のやり方でありました。また中には粘土で固めた棺のようなものもありました。そしてこの石棺といふものは、一番はじめは、自然の薄い板石を組み合せて作つた、小さな箱のようなものにすぎませんでしたが、それがだん/\大きな石を用ひることになり、遂には長さ一間以上もある、大きな長持のような形をしたものが造られるようになりました。こんな大きい石棺になりますと、その石を運搬するのに不便でありますから、石のまはりに疣のような突起を數箇所に附けて、運ぶのにつごうよくしてをりますが、後にはその突起がまた飾りの意味にも役立つことになつたのであります。またその次ぎには石を組み合せて棺を造ることをしないで、蓋と身とは別々として、石をくり拔いて、大きな棺を造るように進歩して來ました。この類の石棺の蓋は、家の屋根に似た形に出來てゐるのもあり、また竹を二つに割つた形をしてゐるのもあります。もっとも、この蓋にはやはり今お話した突起が四隅に附いてゐるのが普通であります。(第五十六圖)このような石棺はなか/\大きく、立派なものでありまして、その中には、死者のふだん所持してゐた大切な品物をも、一しょに收めたのでありますが、何分空氣が棺の中へ侵入するので、今日これを開けて見ても骨の遺つてゐるのはごく稀であつて、わづかに齒が殘つてゐるくらゐであります。しかし死者と共に葬つた品物はたいてい遺つてをります。それらの品物については後に述べることにいたします。この石棺の他に、陶棺といつて赤い埴輪のような燒き物の棺があります。それはごく古い時代にもあつて、その時分はたゞ大きな[#「大きな」は底本では「大きな」]甕や壺を合せて使つたのですが、後には石棺をまねて、やはり家形に似た大きな棺が出來ました。(第五十七圖)
[#「第五十六圖 日本古墳石棺」のキャプション付きの図(fig18371_57.png)入る]
[#「第五十七圖 日本古墳陶棺」のキャプション付きの図(fig18371_58.png)入る]
いまお話したような石棺を塚に藏めるときには、ぢかに土の中に埋めたものもありますが、たいていは石棺の周りに當る場所に、まづ石圍ひをして、その中に石棺を納れ、上に蓋をしたのであります。これを竪穴式石室と呼んでゐる人がありますが、實は石の部屋といふほどのものではなく、たゞ簡單な石の圍ひにすぎないのであります。ところが、その後多分朝鮮支那の風が傳はつたのでありませうが、横からはひる長い石の部屋が塚の中に造られることになりました。この石の室は、圓塚ではたいていその前の方(南に向いたものが多いのですが)に口を開いてをり、前方後圓の塚では、後の方の圓い丘の横に入り口を開いてゐるのが普通であります。この石室の大きさや形は、いろ/\種類がありますが、なかには綺麗な切り石で造つたものもありますし、また、さう手を加へない重さ何噸といふほどの大きな石を用ひて、造つたのも少くはありません。この石室の入り口は一體に低く狹くて、大人が體をかゞめてはひらねばならぬくらゐですが、内部は廣くて天井は人間の身長よりも高いのが普通で、中には身長の二倍ぐらゐのものもあります。この石室の作り方は西洋の『どるめん』あるひは『石の廊下』といふものに非常に似てゐますけれども、日本のは西洋のものゝように古いものではなく、また本當の『どるめん』といふほど簡單なものは、日本ではほとんど見當りません。(第五十八、九圖)
[#「第五十八圖 日本古墳石室」のキャプション付きの図(fig18371_59.png)入る]
[#「第五十九圖 日本古墳石室」のキャプション付きの図(fig18371_60.png)入る]
石室の中には、たいてい石棺を一つ入れてありますが、また二つ以上の石棺を入れたのもあります。例へば河内にある聖徳太子の御墓には、太子の母后と、太子の妃と三人の御棺を容れてあるとのことです。また中には死者を石棺でなく木棺にいれて葬つた石室も多くあります。これは木棺はくさつてしまつても、それに使つた鐵の釘などが殘つてゐるのでわかります。元來以前は一つの塚には一人しか葬らなかつたのが、この石室を造る時代になつてからは、一人だけを葬る場合もありましたが、家族の者をも一つの石室に葬る風が出來たかと思はれます。皆さんは、かような石の室にはひつたことがありますか。大きい石室は奧行きが十間近くもあり、室内は眞暗ですから大そう氣味の惡いものでありますが、蝋燭を點したり、懷中電燈を携へて行きますと、内部の模樣がよくわかります。内部は案外綺麗でありますから、ちょっとこゝで住居してもよいと思ふほどであります。道理で時には乞食などが、この石室に住んだりしてをります。冬は暖くて夏は涼しいので、住居には申し分がないといふことです。
[#「第六十圖 吉見[#「吉見」は底本では「横見」]百穴」のキャプション付きの図(fig18371_61.png)入る]
また古墳の中には横穴といつて、山の崖のようなところに、横に穴をあけたのがあります。つまり塚をこしらへるのを儉約して、自然の崖を利用し、たゞ部屋だけを作つたものといふことが出來ます。これはたいてい一つところに多くの穴が群集して、なかには蜂の巣のようにたくさんの横穴が遺つてゐるのもあります。その名高いものには埼玉縣の吉見の百穴といふのがあります。以前はこの横穴をば、人間が穴住居をしてゐた跡だと考へてをりましたが、やはり昔の人の墓場なのです。それですからこの横穴は古墳の石室と同じ意味のものでありまして、その作り方と大體[#ルビの「だいたい」は底本では「だいてい」]においてよく似てをります。しかしたいていはそれほど大きくはなく、四角あるひは圓い部屋が一つあるくらゐですが、時に珍しいのになりますと、横穴の中に石棺が造つてあつたり、石の床が三方に設けて死體を置くようになつてあつたり、天井に家屋の屋根をまねてあるのもあつたり、内部に刀劍の形を彫つたものなどがあります。しかしまづそんなのは例外であつて、普通はなんの裝飾もなく簡單な小さな穴に過ぎません。(第六十一圖)
[#「第六十一圖 日本古墳横穴」のキャプション付きの図(fig18371_62.png)入る]
(ニ) 上古の帝陵
今まで私はわが國の古墳の形と構造について述べてまゐり、次ぎには古墳から發見せられる、いろ/\の品物についてお話をするつもりでありますが、その前にごく古い時代の天皇樣の御陵、すなはち『みさゝぎ』について、少し申し上げたいと思ひます。
[#「第六十二圖 蒲生君平」のキャプション付きの図(fig18371_63.png)入る]
元來日本の古墳の研究は、かの高山彦九郎、林子平などゝ共に寛政の三奇士といはれた蒲生君平が、御歴代の御陵の壞れたり、わからなくなつてゐるのを歎いて、自分で各地の御陵を探索し、遂に『山陵志』といふ本を著したりした頃から、御陵の研究につれて起つたのでありました。そして明治の時代になつて、いろ/\日本の學者が研究をはじめ、また大阪の造幣局へ來てをつた英國人のゴーランドといふ人などが、やり出したのでありました。ところが古い時代の天皇の御陵は、日本の古墳のうちで最も大きく、また最も立派な代表的なものでありますから、古墳を研究するには、ぜひこれらの御陵を拜んで、それをよく調べなければならず、殊に古墳の時代を知るには、御陵が何よりの標準となるのであります。私なども少年のころ、御陵を巡拜するといふようなことから、つい/\考古學に興味を覺えるようになつた次第であります。
さて日本の上古から奈良朝ごろまでの御陵が、どういふ形の塚から出來てゐるかといふことをお話しいたしませう。かの神代の三神、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊それから草茅葺不合尊の御陵は、今日九州の南の日向、大隅、薩摩の方に定められてありますが、それは神代の御陵でありますから今は申しません。次ぎに第一代の神武天皇の御陵は、大和の畝傍山の麓にあることは皆さんも知つてをられるとほりであります。しかし、この神武天皇の御陵は久しく荒れはてゝをつて、實はその形もよくわかりませんし、場所についてもいろ/\の説がありますが、とにかくあまり大きくない圓い塚であつたと思はれます。それから六七代ばかりの天皇の御陵も大和の南の方にありますが、やはり圓い塚であつたらしいのです。第十代崇神天皇と、次ぎの垂仁天皇の頃から、前が角で後の圓い前方後圓の立派な車塚が、築かれるようになつたことは疑ひありません。その垂仁天皇の時に、あの野見宿禰が埴輪を造つたと傳へられてゐることは前に申しました。それから降つて景行天皇、成務天皇また神功皇后の[#「神功皇后の」は底本では「神后皇后の」]御陵などは、皆奈良の南あるひは西の方にありまして、やはり大きな前方後圓の塚でありますが、仲哀天皇、應神天皇に至つて、始めて河内の南方に御陵がつくられ、次ぎの仁徳天皇から三代ばかりは、昔は河内の國であつたが今の和泉の國の北方、堺の附近に御陵が設けられることになりました。ところがこの應神、仁徳兩天皇の御陵は、日本の御陵中でも一番大きい立派な前方後圓の塚と申すべきで、なかにも仁徳天皇の御陵の周圍は約半里くらゐもあり、世界中にかような大きな古墳は、エヂプトのぴらみっとを除いてはあまりないかと思はれます。そしてこの御陵のごときは、二重に堀をめぐらし、その周圍には陪塚といつて臣下の人だちの墓がたくさん竝んでをります。遠くから見ますと小山のようであり、近くに行きますと大きな松の木が御陵のまはりに生え茂つて實に神々しく、參拜者は誰でもその威嚴に打たれるのであります。(第六十三圖)
仁徳天皇の御陵と、應神天皇の御陵とは、その大きさが優れてゐるばかりでなく、歴史上から見ても最もたしかなもので、これが標準になつてわれ/\は、その頃日本に前方後圓の塚が盛んに行はれ、そして埴輪が飾られてをつたことなどを知ることが出來るのであります。それゆゑ考古學の上からも最も貴重な御陵と申さなければなりません。
それから六七代の間、かの佛教が日本にはひつて來た時分、敏達天皇頃[#ルビの「びだつてんのうころ」は底本では「びんたつてんのうころ」]までは、少し形は小さくなりましたけれども、やはり御陵はみな前方後圓の塚でありました。ところが用明天皇、推古天皇、すなはち聖徳太子の頃の天皇から天智天皇頃までは、支那の影響を受けた四角な塚が御陵に行はれて、まったく樣子が變つて來ました。いま申した天皇樣の御陵はたいてい大和から河内などにありますが、天智天皇御陵は山城の國京都の東の方にありまして、四角の塚で上部が圓くなつてゐるといふことであります。この天智天皇御陵にかたどつて、明治天皇、昭憲皇太后[#「昭憲皇太后」は底本では「照憲皇太后」]、大正天皇の御陵などもつくられたといふことであります。あなた方はこの御陵へは參拜したことがありませうが、あゝいふ風に出來てをつたのです。
その後奈良朝から平安朝の始めの御陵になりますと、また昔にかへって圓い形の塚になりました。そして佛教が盛んになつて來てからは御陵は一そう簡單になり、また後には火葬が行はれまして、小さな御堂や石の塔を御陵に建てることになり、ことに武家が勢力を占めるに至つた時代からは、皇室の御陵は甚だ小さなものになつてしまつたのです。それに引きかへて日光にある徳川氏の廟があのとほり立派なのを見て、蒲生君平などが憤慨して尊王の念を起したので、まことにむりのないことであります。それはとにかく、われ/\は日本の古い時代の御陵を巡拜すれば、一方日本[#ルビの「につぽん」は底本では「たつぽん」]の古墳の造り方の變遷をも知ることが出來、歴史の研究にも非常に役に立つわけでありますから、私は皆さんがたゞ高い山などに登るばかりでなく、遠足のときにはかういふ方面へも出かけることをおすゝめいたします。
(ホ) 勾玉などの玉類
さて話は前に戻り古墳の中には、どういふものが埋められてゐるかと申しますと、石棺あるひは石室の中、死體を收めてあつた所、しかももっともその體に近いところにあるものはその人の身につけてあつた著物と飾り物とであります。しかし著物はみな腐つてしまつて殘つてをりませんが、飾り物の中で一番眼に立つのは、まづ勾玉その他の玉類であります。これはたいてい堅い石かがらすで造つてあるので、その色もかはらず完全に保存せられてをり、それで發掘されたとき、誰にでもすぐに目につき發見されやすいのであります。
これらの玉類は、もとは結びつらねて、頸から胸あるひは手頸、脚頸など[#「など」は底本では「なと」]にめぐらしたものであることは、埴輪人形に現されてゐるのを見てもわかります。
さて玉類の中でも一番大切なものは勾玉であります。勾玉が、八坂瓊の勾玉と申して、三種の神器の一つにも數へられてゐることは、皆さんもよく知つてをられるでせうが、この玉の形は頭が圓くて尻尾が曲り、ちょっと英語の『,』のような形をしてゐます。大きなものになりますと、長さが三寸にも達するものもありますが、普通は一寸から一寸五分前後のものであります。そしてその石は、ごく古い時分には、日本に産出しない支那傳來の硬玉(翡翠、青瑯)といふ半透明の美しい緑色の石で作られてあつて、なか/\綺麗なものでしたが、やゝ後の時代になると、出雲の國あたりから出る碧玉といふ青黒い石が用ひられ、さらに後になると、赤い瑪瑙が普通に使はれるようになりました。またこの一番後の時代、奈良朝ごろになると、勾玉の形がコといふ字の形のように、角ばつて美しくありませんが、古い時代の勾玉はなか/\優美な形をして、その頭の孔のところに、三つ四つの切り目がつけてあるのが普通です。この切り目を丁字頭と申します。ですから皆さんは勾玉を見ても、どういふのが古いか、またどういふのが新しいかを、それで知ることが出來るのであります。また近頃作つた新しい勾玉の模造品は、その孔が眞すぐに筒形にあいてゐますが、古い勾玉はたいてい一方あるひは兩方から圓錘形に近い孔が開いてをり、この孔のあけ工合でも、ほんとうに古いものか、僞物であるかゞわかるのであります。
勾玉は、昔も非常に貴重にされたものと見えて、日本では一つの古墳から餘りたくさん發見せられません。これに反して、わりあひにたくさん出てくるのは管玉といふ玉です。これは管の形をした筒形の玉でありまして、その長さは一寸前後のものが普通です。石はみな出雲から出る碧玉で造つてあります。昔は管玉のことをたか玉といつたのですが、それは竹玉といふ意味であつて、この青い碧玉を用ひたのは、ちょうど青竹を切つて使つたのをまねたからだといはれてをります。なほ管玉の中でごく古いものには、非常に細くて、直徑が一分前後のものが多いのでありますが、時代がやゝ降りますと、だん/\太くなつてまゐります。
管玉の次ぎにたくさん出るものに、切り子玉といふのがあります。これはほとんどみな水晶で造つてありまして、六角あるひは八角の方錘形を、底の方で二つつないだ恰好になつてをります。その他の玉類には棗玉、丸玉、平玉、小玉など、いろ/\の種類がありますが、これらの小さい玉は多く紺色、あるひは緑色のがらすで造つてあるのが普通であります。これによつても、この時分からすでに色がらすがつくられたことがよくわかりますが、無色透明の板がらすはまだ世界中どこにもありませんでした。かような玉は古墳が發掘せられたとき、たいてい土の中に混つてゐますから、すぐに見つからないことがあります。それで土を篩にかけてよく探さなければなりません。(第六十四、五圖)
[#「第六十四圖 日本古墳發見勾玉」のキャプション付きの図(fig18371_65.png)入る]
[#「第六十五圖 日本古墳發見玉類及び金裝耳飾り」のキャプション付きの図(fig18371_66.png)入る]
いま申した、いろ/\の種類の玉の中で、勾玉は日本以外では、たゞ朝鮮の南方から出るだけで、他の國ではほとんど發見せられませんから、まづ日本獨特の玉といふことが出來ます。ところがこの面白い勾玉の形が、どうして出來たのであるかといひますと、昔の人が狩りをして獸をとり、その牙や齒に孔をあけて飾りにした風習が傳はつて、その牙や齒の形の曲つたのをまねて、次第に勾玉の美しい形になつたのだと、多くの學者はいつてをります。かういふ孔をあけた獸類の牙や齒は、日本の石器時代の遺跡や、また外國の遺跡からもずいぶんたくさん發見せられますが、勾玉のように美しい形の玉は、外國ではまったく見られません。また玉を體につけて飾る風習は、世界いづれの國にもありますが、日本は支那などに比べて、よけいに玉を愛したと見えて、支那の墓からはそれほどたくさんの玉が發見せられることはありません。なほ玉類のほかに體へつけた裝飾品には、金鐶といふ銅にめっきをした環がありまして、これはたいてい一對づゝ出るので、多分耳飾りなどに使つたものと思はれます。またこの鐶にはーと型などの細かい飾りがぶら下つてゐる、立派な耳飾りが時々出ることがありますが、これは南朝鮮の古墳からたくさん發見せられるもので、朝鮮風のものといふことが出來ます。(第六十五圖)
(ヘ) 古い鏡
古墳から銅で作つた鏡がたくさん出ますが、ことに古い時代の古墳には多數の鏡を棺の中に入れてあるのでありまして、時には一つの古墳に十枚二十枚或はそれ以上あることもあります。そして、その鏡はたいてい支那で出來たものであり、時にはまた日本で作つた鏡もありますが、それもまったく支那の鏡をまねて作つたものであります。ところが支那製の鏡は皆、その頃大陸から輸入されたものでなくてはなりませんが、不思議なことには朝鮮の南、昔の新羅の國の古墳は日本の古墳とよく似てゐて、その中から勾玉のような日本特有のものも出るにかゝはらず、鏡に至つてはほとんどまったく發見せられないのです。王樣の墓と思はれる立派な墓でも、鏡は一枚も掘り出されないのは、實に奇妙に思はれますが、まさか新羅の人でも鏡を使はず、お化粧をしなかつたとは思はれませんので、鏡は用ひてゐたけれども、死人の棺の中に、何かの理由で入れなかつたものと考へられます。しかし次ぎの高麗といふ時代の墓からは鏡がたくさん出ます。とにかく鏡は昔支那でも顏を寫すばかりのものではなく、これを持つてゐると、惡魔を除けるといふような考へがあつたので、墓に收めたのもさういふ意味があつたかも知れないのです。かように新羅の人は鏡を使つたにしても、墓に埋めないから、支那からたくさんの鏡がはひつて來たとは思はれません。それゆゑ日本へ來た支那の鏡は、朝鮮を經ないで恐らく南支那邊から、直接に來たものと思はれます。
さて支那では周のすゑ秦の時代頃から、鏡が作られてゐたらしいのでありますが、漢の時代になつてから非常にたくさんに作られ、六朝時代を經て唐の時代まで、盛んに立派な鏡が現れましたが、その後宋の時代からは、だん/\拙い粗末なものになつてしまひました。また鏡の形は唐の時代頃までは多く圓い鏡でありまして、あの花瓣のように周圍が切れてゐる八稜鏡とか八花鏡といふ形の鏡は、まったく唐の時代になつて初めて出來たものであり、また柄のついた鏡や四角な鏡も、唐や宋以後のものであります。それに世間では三種の神器の中にある御鏡を、八稜鏡のような恰好のものと思ふ人があるのは間違ひで、もちろん、たれもこれを拜した人はないのでありますが、古い時代の鏡でありますれば、必ず圓い鏡でなければなりません。(第六十七圖)
[#「第六十六圖 日本支那古鏡」のキャプション付きの図(fig18371_67.png)入る]
[#「第六十七圖 日本支那古鏡」のキャプション付きの図(fig18371_68.png)入る]
さて古墳の中から出る鏡は、ちょうど漢から六朝時代の鏡でありまして、その裏面、顏を寫す面の反對面には、たいてい圓い鈕があつて、その周圍にはいろ/\の模樣が刻まれてゐます。時代が變るに從つてこの紋樣もだん/\變つて行くのでありますが、漢の時代の鏡には、曲線や直線をあつめた模樣や、寫生的でない動物の形などが現れてをります。そこに竝べてある鏡を御覽になればよくわかりますが、かような模樣をつけた支那の鏡は非常によく出來てゐますのに、その頃日本で出來た鏡はまだ作り方が拙いので、大へん見劣りがいたします。例へば模樣の中にある支那文字でも、日本製の鏡にはなんだかわからない字の形になつたり、模樣もはつきりいたしません。それでこれをよく見ますと日本製か支那製かの區別はわかるのであります。またそれらの鏡をお墓に入れるときには、はじめは袋のようなものに納めて入れたに相違なく、いま發見される鏡の端に腐つた布のはしが着いてゐるのを見ても、それを知ることが出來ます。(第六十六圖)
古墳からは、漢から六朝頃までの鏡と、それを摸造した日本製の鏡とが出るだけで、唐以後の鏡はほとんど發見されないといつてもよろしい。しかし鏡は、もちろんその頃でも用ひられてゐたので、たゞ墓へ餘り入れなかつたものと思はれます。しかし日本では平安朝以後になりますと、唐の鏡の模樣をだん/\變化させて、遂にはまったく日本的のごく優美な模樣をつけた鏡を作るようになりました。さういふ鏡は古墳からは出ませんけれども、經塚といつて、お經などを埋めた後の時代の塚からよく發見されます。前には日本製の鏡は支那製に比べて非常に拙かつたのが、この平安朝から足利時代になつて、支那の同時代の鏡と比べて、かへって巧く出來、なか/\優れたところがあるのであります。この日本製の鏡を和鏡と申してをります。つまりそれは日本がその時代になつて、だん/″\文化が進んで技術も秀れて行つたことを示す、何よりもよい證據であります。
(ト) 刀劒と甲冑
いまお話した古墳から出る鏡は青銅で作つてあるので、青色の錆が出てをつても、腐つたものは少く、たいてい壞れないで土の中から出て來ます。ところが古墳に入れてあつた刀や劍の類になりますと、その數は非常にたくさんありますが、中身がみな鐵ですから赤錆になつて、ぼろ/\に腐つてしまひ、完全に取り出すことはよほど難しいのであります。たゞ鞘の上に飾つてあつた、金めっきをした銅などの部分だけが、わりあひによく殘つてゐるだけであります。さてこの時分の刀劍の身は、みな眞すぐで、後の時代の刀のように反りがありません。また源頼朝や義經などの時代から後になりますと、皆さんも知つてゐるとほり、日本刀といふものが盛んに作られて、支那へも輸出されたくらゐでありましたが、この古い時代ではかへって支那や朝鮮からよい刀劍が輸入されたであります。
刀劍の身の形は、たいてい大した違ひはありませんが、柄の形にはいろ/\異つたものがありまして、そのうち珍しいものには、『くぶつち』の劍といふのがあります。これは柄の頭が槌の頭、あるひは拳を曲げたような形をしてゐるもので、多くは金めっきをした銅で出來て、非常にきれいなものであります。かういふふうな作りの劍は、支那にも朝鮮にも見つかりませんので、まづ日本で初めて出來たものだらうと思はれます。その次ぎに環頭の劍といふのがあります。これは柄の頭のところが環の形をして、その中に鳥や獸や、あるひは花の形がついてゐるものであります。この種類のものは朝鮮や支那からも出ますので、多くはかの地から日本へ輸入して來たものか、またそれを摸造したものであると思はれます。それからまた、日本で作られたと思はれるものに、蕨手の劍といふのがありますが、これは大きな劍にはなくて、小さい刀にたくさんありまして、柄の頭が蕨のように曲つてゐるものであります。(第六十八圖)
[#「第六十八圖 日本古墳發見刀劔」のキャプション付きの図(fig18371_69.png)入る]
以上述べた、いろ/\の刀劍の拵へは、たいてい金めっきをした銅で作つたものであつて[#「あつて」は底本では「あつつて」]、その中には『くぶつち』のように日本獨特の拵へもありますが、多くは支那朝鮮のもの、もしくはそれをまねたもので、かような外國風のものを、その時分の人が喜んで用ひたのはむりもありません。しかしまた一方には、日本に古くから行はれてゐた作りの刀劍もやはり用ひられてゐたものであります。例へば劍の柄のところを鹿の角で裝飾し、その上に外國では見られない直線や弧線の組み合せた模樣をつけた日本風な刀劍が、外國的な刀劍と同時に用ひられてゐたのであります。これはそれらの刀劍が同じ墓から、一しょに發見されることでよくわかります。
昔の人は、今日田舍の樵や農夫が山へ行く時に、鎌や斧を腰に着けてゐるように、きっと何か刃物を持つてゐたものと思ひます。また皆さんが學校へ行く時、鉛筆をけづつたりする場合にないふが必要であるように、昔の人も常に小刀を持つてをりました。その小刀を刀子と申しますが、それが墓場からたくさん發見されます。この刀子は男ばかりでなく、女の人もお守りに持つてゐたと思はれますが、その鞘は木でつくつたものゝほかに、毛のついた皮を縫ひ合せてつくつたものが、一般に行はれてゐたようです。そしてお墓の中にほんとうの刀子を納めたばかりでなく、石でつくつた刀子で、ちょっと見るとなんの形だかわからぬ形をしたものをも、たくさん埋めたのでありました。それがやはり古墳から出て來るのであります。(第七十三圖)
さて刀劍が出るくらゐでありますから、甲胄もまた墓の中からたくさん出て來るのです。これはたいてい鐵で作つたものでありまして、後の時代の鎧や劍道のお胴に似たようなものであります。なにぶん薄い鐵の板でつくり、これを革の紐で結び合せたものでありますから、今ではぼろ/\に壞れて、完全に遺つてゐるものは稀であります。もちろんこの鐵の甲胄の他に、革製のものもあつたと思はれますが、これはとっくに腐つてしまひ、今は殘つてをりません。しかし、これらの甲胄をどういふふうに着けてゐたかといふことは、あの埴輪人形に甲胄を裝ふたのが遺つてをりますので、それを見て大體の恰好を想像することが出來ます。(第六十九圖)
[#「第六十九圖 日本古墳發見甲胄」のキャプション付きの図(fig18371_70.png)入る]
(チ) 馬具、土器その他
たゞ今までお話をしました玉や鏡や劍などは、たいてい古墳の中にある石棺の内か、石室の中の死體のごく側に、收めてあつたものでありますが、なほ石棺の外や石室の中には、その時代の人たちの用ひてゐたいろ/\の品物が收めてあります。その中でもまづ眼につくのは、馬に使つた馬具の類であります。これには鐵で造つた轡だとか鞍だとか、その他のものがありますが、轡には兩側の鏡板といふ部分にいろんな飾りがついてをります。また鞍にも金めっきした透し彫りの美しい飾りがあります。それから鞍から馬の胸のところや尻の方に廻つて行く革の帶には、杏葉といふ飾りがつけてありまして、その飾りはたいてい鐵の上に金めっきをした銅を張りつけ、美しい唐草などの模樣が透してあります。またこれに鈴がついてゐるのもあつて、餘程うまく出來てをります。そのほか、馬鐸といつて杏葉と一しょに、ぶら下げる鈴のようなものもあり、鈴が三つ聯なつた珍しい形のものもあります。(第七十圖)
[#「第七十圖 日本古墳發見馬具」のキャプション付きの図(fig18371_71.png)入る]
元來馬は日本の石器時代の貝塚からその骨が掘り出されるので、古くから日本にゐたことがわかりますが、しかし本當に乘馬に使ふ良い馬は、やはりその後朝鮮あたりから輸入されたものでありませう。それで馬具も馬と一しょに、朝鮮支那などで用ひてゐたものをそのまゝ日本で使つたらしいのです。これらの馬具をどういふ風に着けたかといふことは、あの埴輪の馬を見ればよくわかります。日本書紀といふ古い歴史の本に、次ぎのような話が書いてあります。むかし、雄略天皇の御時、河内の安宿郡の人に田邊伯孫といふ人がありまして、その娘が古市郡の人へかたづいてゐましたが、ちょうど赤ちゃんを産んだので、伯孫はお祝ひにその家へ行きました。その歸りがけ、それは月夜の晩のことでありましたが、あの應神天皇(伯孫の時から百年ほど前に當る)の御陵の前を通りかゝると、非常に立派な赤い馬に乘つてゐる人に出會ひました。自分の馬はのろくてとても叶ひませんので、その馬をほしく思ひ、いろ/\話をして馬を取りかへてもらひ、喜んで家へかへりました。ところが翌日厩へ行つてその赤馬を見ますと、驚いたことには、それは土の馬でありました。これはへんなことだと、伯孫はゆうべの應神天皇の御陵の所へ行つて見ましたら、自分の乘つてゐた馬は、御陵の前にある埴輪の土馬の間にをつて、主人をまつてゐた[#「まつてゐた」は底本では「まつてるた」]ので、またびっくりしましたが、やうやくその馬と土馬と取りかへて家へつれて歸つたといふ面白いうそのような話であります。これはその時分河内の役人から朝廷へ報告した事實でありまして、とにかく當時馬に乘ることが行はれてをり、また埴輪の馬が御陵に立つてゐたことを、われ/\に教へてくれる話であります。
馬具のほかに、古墳からたくさん出るものは土器であります。しかし、この土器はごく古い古墳からは餘り發見せられず、石室の出來た頃からの古墳にたくさん收められてをり、一つの墓から時には五六十も一度に土器の出て來ることがあります。それらの土器の燒き方は、前に申した彌生式土器に似たところの赭い色の軟かい素燒きのものもありますが、たいていは鼠色をした、ごく硬い陶器とでもいへる燒き物であつて、私どもはこれをいはひべ(祝部)土器と呼んでをります。この燒き方は朝鮮からはひつて來て、日本にだん/\行はれるようになつたのでありまして、その形はいろ/\あります。例へば坏といふ平たいお椀のようなもの、それに蓋のついたもの、またその坏に高い臺のついた高坏といふようなものなどたくさんありますが、それらはふだん食事のときに御馳走を盛つた道具だと思はれます。そのほか、壺にも頸の長いのや短いのや、いろ/\あります。また酒や水が五六升もはひるような大瓶があり、珍しい恰好のものには、丈の高い透し入りの壺をのせる臺だとか、壺と臺とくっついてゐるものだとか、口の周りに人間や馬の小さい形をつけた、飾りつきの壺だとか、また口のついたしびんのような形をしたものもありますが、なかにも不思議なのははさふといふ器物です。それは小さい壺の上に、朝顏形に開いた長い口があり、壺の横に小さい孔がついてゐるものです。何に使つたのかよくわかりませんが、ある人はその孔に小さい竹の管を差し込んで、中にある水とか酒とかを吸つたものだらうといひます。あるひはさうかも知れません。また横に長い俵のような恰好をして、そのまん中に口をつけた横瓮といふ壺がありますし、ひらべったい壺で紐をつける耳と口のついた提げ瓶といふのがありまして、これはちょうど今日あるみにゅーむ製の水筒と同じように水を入れて提げたものに違ひはありません。ちょうど皆さんが遠足に行くときに用ひる水筒と同じものでありますが、これは初めは獸の皮で作つた水袋からその形が出て來たのです。それで皮の縫ひめなどをちゃんと現した、皮袋形の土器が時々發見せられます。そのほか今日では使ひ方のわからないような品物もたくさん出るのでありますが、これを前に皆さんと一しょに見ました石器時代の土器に比べますと、大體があっさりとし、その飾りにしても、ごて/\した[#「ごて/\した」は底本では「ごて/\し」]曲線模樣などはなく、その形もたいてい一定してをります。かういふ點から見ますと、これらの土器は恐らく專門の土器製造人が、その工場で作つたのを各地に賣り出したものにちがひありません。それで美術的な目的よりも、まったく實用的になつたものが多いことがわかります。(第七十二圖)
[#「第七十二圖 日本古墳發見祝部土器」のキャプション付きの図(fig18371_73.png)入る]
古墳から普通發見せられるものは、今まで述べたようなものでありますが、その他に、時々發見せられるものには、銅に金めっきをした冠や、また同じく銅製めっきの靴があります。これは後ほどお話をする朝鮮の古墳からも出るもので、かような靴や冠は、もちろん平生使つたものでなく、儀式のときなどに用ひたものでありませう。また今日の下駄によく似て鼻緒の前の孔が右足は左に、左足は右にかたよつて出來た石の下駄が出て來ることがあります。これも平生は木の下駄をはいたものでありませうが、この時分の人は多くは草履や草鞋のほかに皮で作つた靴を履き、またこんな形の下駄を雨ふりなどには履いてゐたことがわかります。さうすると私共の下駄はずいぶん古くからあることがわかつて、なんと面白いではありませんか。また同じような石で作つた品物に鍬の形をしたものや、腕輪の形をしたものなどが出て來ますが、この中には果して何に使はれたものか、よくわからないものも多くあるのです。(第七十三圖)
[#「第七十三圖 日本古墳冠靴その他」のキャプション付きの図(fig18371_74.png)入る]
(リ) 建築、彫刻、繪畫など
私達は今まで日本の古墳と、その中から發見せられる樣々の遺物を見てまゐりましたが、これ等の品物は、みなこの古い時代の人の作つた美術品工藝品であつて、このほかに別に美術も工藝もないわけでありますが、いま改めてそれ等のものから、特にこの時代の建築はどんなものであつたか、彫刻、繪畫はどんなものであつたかを、述べて見ることにいたしませう。
第一に建築は、古墳の石室なども一種の建築ではありますが、人間の住み家などの類はどういふふうなものであつたかといふと、前にも申したとほり、屋根は草葺き、茅葺きあるひはまた板葺き、柱は圓い材木をそのまゝ、あるひは皮をむいて用ひ、柱の下には礎もない、掘立て小屋といふふうなものであつたので、今日その跡はなにも殘つてをりません。それゆゑ、これはたゞあの埴輪の家や、そのほかの品物に現れてゐる家の形と、歴史や歌の書物に書いてあるところで想像するほかには、今なほ神社や民家に殘つてゐる古い作り方を參考にするほかはありません。また倉のような建て物は、多くは今日も奈良の正倉院の御倉などに見るような、木を組みあはせた校倉といふものであつたと思はれます。
その次ぎに彫刻といふものはなんであるかといふに、これは埴輪の人形や動物の像または石人石馬などがそれであります。もちろんあの埴輪は、お葬式の時に作つて墓場に立てたもので、非常に骨ををつて作つたものではありませんが、その粗末な下手な作り方のうちにも、この時代の人の無邪氣な素直な心持ちがよく現れてをります。かういふ埴輪の人形を作つてゐる時に、朝鮮から佛教が傳はり、お釋迦さま、彌勒さま、觀音さまのような佛樣の像が持ちこまれたのですから、驚いたのはむりもないのです。これは立派なお姿だと感心して、佛教を信ずるものも多く出來たのですが、そのうち日本でも佛像を作るようになり、それから百年もたゝない奈良朝ごろになつては、その本家である支那朝鮮の佛像にも優るとも劣らない、立派な彫刻が出來たのであります。
それではこの時代の繪畫といふものは殘つてゐるかといひますと、もちろん襖や唐紙に描き、掛け軸にした繪などは、この時代にはないばかりでなく、またあつたからとて今日まで殘つてゐるはずはありません。またあのヨーロッパの舊石器時代の大昔のように、洞穴に描いたすばらしい動物の畫などはまったくなく、たゞ銅鐸の上に現してある簡單な子供が描いたような、しかし非常に面白い人物動物家屋の圖などの他には、祝部土器やその他の品物、または古墳の石室横穴の中の壁などに彫りつけた、まことに粗末な人物や盾、矢筒などの品物の圖が少し殘つてゐるだけでありまして、ごく昔の日本人はけっして繪が上手であつたとか、好きであつたとはいふことが出來ないのです。しかし、それは生れつき下手であつたといふわけではない證據には、後に支那朝鮮から繪畫が傳はつて來ると、すぐにそれを習つて、非常に立派なものを作り出すことになつたのであります。
次ぎに裝飾模樣の類も、石器時代の土器にあるような、曲線のごて/\した模樣のまったくないことは、前に申したとほりで、たゞ簡單な圓や三角の圖の他には、刀劍の柄の飾りにあつたような、直線と弧線とを組み合せた、不思議な模樣が目につくだけです。この模樣はまづ日本にしか見られないもので、古墳の内部やその他の品物にもよくつけてあるのですが、餘り珍しいので近頃西洋あたりで流行する模樣かと思ふ人があるくらゐです。(この本の表紙畫を御覽なさい)この他馬具や何かに支那朝鮮から傳はり、あるひはそれをまねた品物に、支那朝鮮風の模樣がついてゐるものもありますが、それはこの時代には、まだほんの借りものに過ぎなかつたのでした。
かういふふうに古墳から出る品物を見て、われ/\はその時分の人々が、どういふ心持ちでをつたか、どういふ趣味を持つてをつたかといふことがわかり、また支那あたりからはひつて來た文化のほかに、昔から日本人が持つてをつた固有の文化や趣味が、やはり殘つてゐたことが知られるのです。これは近頃西洋の文明がはひつて來ても同じことで、いかに西洋風を習つても、ある點には日本人には日本人らしい趣味と特質が、消えないのであります。またそれがなくなつては、日本人でなくなるのですから大へんです。
またこれらの古墳から出た品物を調べて知られることは幾らもあります。例へば昔の人はどういふ生活をし、どういふ風俗をしてをつたかといふことも、書物だけでははっきりわからぬことを、よく知ることが出來るのですから、古墳をやたらに掘つたりすることは惡いことでありますが、何かの拍子に壞れたりして、中から物が出た時には大切にこれを保存し、丁寧にこれを調べなくてはなりません。そしてかういふことを調べる人が考古學をやる學者なのです。なほ昔の風俗や生活のあり樣については、詳しいことをこゝでお話しする時間もなく、皆さんが歴史の本や他の先生から教はることゝ思ひますから、今日はこれだけでよして置きます。
[#「第七十四圖 銅鐸の模樣畫」のキャプション付きの図(fig18371_75.png)入る]
[#「第七十五圖 日本古墳装飾模樣圖」のキャプション付きの図(fig18371_76.png)入る]
(ヌ) 古瓦と古建築
日本の古墳から發見されてゐるいろ/\の品物は、皆さんと一しょに見てまゐりましたが、この日本の古墳と非常によく似てゐる朝鮮などの古墳についても、この博物館に參考として少しばかり品物や摸型を竝べてありますから、それらを見なければなりませんが、その前に、こゝにあります日本から出る古い瓦を、ちょっと見ることにいたしませう。
日本の古墳が造られた時代の終りの頃には、もはや朝鮮をへて日本へ佛教がはひり、それと一しょにお寺の建築が、だん/\出來かけてをりました。あの大和の法隆寺などの大きい伽藍が出來た時分に、今まで私共の見て來た古墳がなほつくられてをつたのであります。ところが支那のごく古い古墳には、墓の前にお靈屋のような建築があつたものもあり、それに使つた古い瓦などが發見せられるのでありますが、日本ではそんなものは一こうありません。しかし、この日本のお寺の瓦は、前に申した祝部土器とほとんど同じ作り方の、堅い鼠色の燒き物であつて、それは前に申したとほり、朝鮮からその製法が傳へられたのでありました。この古い瓦が古いお寺の境内や、古いお寺のあつた場所で今は畑となつてゐるところから、よく掘り出されるのであります。それで皆さんも古墳を見に行つたり、石器を採集に出かけたりするときには、さういふ古い瓦を拾ふこともありませうから、瓦の話を少し知つて置くのも、まったく無用ではありますまい。
あの支那では漢の時代ごろには、圓瓦の先に模樣や文字がつけてありました。瓦のこの部分を瓦當と呼んでゐます。中にはまたまんまるでなく半圓形のものもあります。しかし平瓦、後には唐草などが飾りにつけてあるところでありますから、これを唐草瓦といひますが、その端にはたいてい模樣がつけてありませんでした。日本の瓦はちょうど支那の隋といふ時代に、朝鮮から輸入せられたものでありまして、圓瓦の端には蓮華の模樣を飾りにつけてあり、唐草瓦にも蔓草の模樣などがつけてあります。その蓮華の模樣も中央の實の方が非常に大きい形のものもあり、花瓣の恰好も大そう美しく、蔓草の形も非常によく出來、その彫りかたも強く立派であります。また瓦は一體に大へん大きく、今日の瓦の二倍くらゐもあります。またその竝べ方も今日とは少し違つてをりました。聖徳太子の時代(飛鳥時代といひます)に用ひられた、かういふ立派な瓦も、だん/\時代をふるに從つて粗末となり、聖武天皇の頃(奈良時代あるひは天平時代といふ)を過ぎては、模樣は拙く意匠のまづいものになつてしまつたのは、不思議なことであります。それは、かような大きい瓦は屋根を葺くには重すぎるので、後には輕い瓦を作るようになつたことゝ、瓦師もなるだけ安いものをたくさんに造らうとしたので、惡いものが出來て來たものでいたしかたがありません。私共はこの瓦の形と模樣が、時代々々に異なつてゐるのを見て、その建築が、いつの時代のものであるかといふことがわかるので、美術や歴史の上から見て非常にためになることでありますが、そのお話をするとあまり長くなりますから、今はやめて置きます。また別の先生方からお聞きになる場合がありませう。なほ古いお寺のあつたところには、瓦のほかに大きな柱の礎石が殘つてゐることもあります。この礎の竝べ方を見て、そこにはどういふ形の御堂が建つてゐたかゞ知られます。もちろんこの時分のお寺の建築で、今日もなほ昔の礎の上に立つてゐるものも、たまには珍らしく殘つてゐます。あの法隆寺の金堂、五重の塔中門などが一番古いもので、千何百年も長いあひだ木造の建築がそのまゝ傳はつてゐるといふことは、世界にも餘り例のないことです。その次ぎに古いのは奈良の西にある藥師寺の塔、それから聖武天皇頃の建て物が奈良にちょい/\殘つてをります。これ等のお寺をよく見ると、皆さんはいろ/\造り方の違つてゐる點がわかり、また昔の建築がいかにも良く出來てゐることに氣がつくのですが、この建築のお話もまた別の時にすることにいたします。
しかしこゝでちょっと申して置くことは、かういふお寺の建築が支那朝鮮から傳はり、天皇の御殿や貴族の家屋もさういふふうに作られるようになりましたが、人民の家などはたいていやはり昔のまゝの形に造られたと思はれますし、ことに伊勢大神宮や出雲の大社のような神社は、ごく古い/\時代の日本の家の形をそのまゝに作ることゝなつてをつたのです。そして今日なほ大神宮は[#「大神宮は」は底本では「太神宮は」]なんべん建てかへても形だけは昔のまゝに、屋根は茅葺き、柱は掘立て、そして白木のまゝで、高くちぎとかつをぎが屋根の上についてゐて、いかにも埴輪の家の形を思ひ出させるのは、なんと神々しいことではありませんか。
[#「第七十六圖 日本朝鮮支那古瓦」のキャプション付きの図(fig18371_77.png)入る]
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三、朝鮮滿洲の古墳室
(イ) 南朝鮮の古墳
朝鮮にも石器時代の遺物が出ることは、前にお話したのでありますが、その後今から二千年程前支那の周の末から漢の始めにかけて、支那から金屬の使用が傳はつて來て、青銅器鐵器の時代となりましたのは、日本と大方同じ頃であります。ところがちょうどこの石器から金屬器にはひる頃に、朝鮮には大きな石で造つた西洋の巨石記念物のどるめんとよく似た古墳が、北から南の方へかけて、造られました。それは日本にもちょっと見られないすばらしい形のもので、下部を長方形の箱のように造り、その大きいものになると、上に載せてある一枚の天井石の長さが、三間以上にも及んでゐるものがあります。もっとも、かように大きいものは、さうたくさんはありませんが、そのうちもっとも見事なのは、北朝鮮の平安南道にあるものです。南朝鮮の方にも、やはりこれと大體同じようなものが、あちこちに見受けられます。(第七十七圖)
[#「第七十七圖 北朝鮮どるめん古墳」のキャプション付きの図(fig18371_78.png)入る]
その後、南朝鮮には三韓といふ小さい國が分立しまして、その内辰韓といふのが、新羅の國になり、弁韓は日本の植民地の任那になり、また馬韓といふのが百濟になつたのであります。ところが、これらの國の文化は、わが國の西南地方である九州邊の文化と大そうよく似てをりまして、その時代の古い墓から出る品物は、日本のものと大した變りはありません。中にも日本の植民地だつた任那や、新羅の古墳ではことにさうでありまして、どうしても南朝鮮にゐた人間は、日本の九州邊の人間と、民族の上から見ても大した變りはないように思はれます。しかし朝鮮には日本の古墳で皆さんが見たような、前方後圓の形をした塚はなく、たゞ圓い塚が二つくっついた瓢箪形のものがあるだけです。また南朝鮮のある所では、埴輪圓筒のようなものが發見せられ、また勾玉もたくさん出るので餘程日本風であるかと思ふと、また日本の古墳からは支那の鏡がたくさん出るのにかゝはらず、朝鮮の古墳にはこの鏡の姿をまったく見せないといふようなこともありまして、その間に多少異なつたところがあり、民族は同じでも、すでに違つた國をつくつてゐたと考へられます。
さて、南朝鮮には、あちらこちらに多數の古墳がありますが、中でも一番たくさん遺つてゐるのは、元の新羅の都慶州です。こゝは釜山から京城へ行く汽車に乘つて、一時間ばかりで大邱に着き、そこで下車して自動車で東の方へ三四時間も走るとすぐ行かれる所です。慶州には周圍に低い山があつて、一方だけ少し開けてゐる地勢は、ちょうど内地の奈良に似て、まことに景色のよいところであります。この町に着きますと、その低い朝鮮の家が立ち竝んでゐる間に、非常に大きい土饅頭がにょき/\と聳えてゐる景色に誰もが驚かされますが、これは皆、昔の新羅の王樣や偉い人の古墳なのです。その中でも一番立派なのは、慶州の町の中にある鳳凰臺といふので、これは高さ七十尺以上もある大きな圓塚です。この慶州の古墳からは、今日までいろ/\のものが發見せられましたが、私共をびっくりさせたのは、ちょうど今から十年ばかり前に、その鳳凰臺の西手にある半崩れの塚から出た品物であります。私共は、その塚を金冠塚と名づけましたが、そのわけは、この塚の中から、それは/\立派な金の冠が出たからであります。(この本の口繪を御覽なさい)この冠はまったく純金作りでありまして、その五本の前立てには小さな圓いぴら/\や、美しい緑色の翡翆の小さい勾玉が七十ばかりもぶら下つてをりまして、これを頭の上に載せてみると、それらがゆら/\と搖れて、なんともいへぬ美しさを見せます。そればかりではなく、冠の眞中からは鳥の羽根に似た長い金の飾りが後の方に立ち、また冠の兩側からも金の飾りがぶら下つて、その端に勾玉がついてゐるといふ、すばらしい立派な金の冠なのです。またこの冠を着けてゐた人の腰のあたりには、金飾りの美しい帶がありまして、その帶から腰のまはりには、十七本の金で作つた下げ物をぶら下げてをり、その下げ物の先には、香入れや魚の形の勾玉や毛拔きのような小道具がついてをります。そして、また腕には腕環、指には指環をつけ、足には金めっきした美しい銅の靴が添へてあるばかりでなく、この墓からは支那から渡つた銅器、がらす器の類をはじめ、馬具、刀劍、土器などが無數に出たので、實に見る人の眼を驚かしたのでありました。私もちょうどそれらが發見された時に、そこへ來合せてゐてその立派さに驚いた次第であります。しかし私は一度この金の冠を頭へのせて見たことがありましたが、こんな冠やいろ/\の飾りをつけてはその頃の人はさぞ重くて、きゅうくつなことであつたらうと思ひました。これは定めし新羅の古い王樣のお墓でありませうが、その王樣の名がわかりませんのは殘念です。しかし大體日本の欽明天皇前後(今から千四百年ほど前)の古墳と思はれます。(第七十九圖)
[#「第七十九圖 慶州金冠塚發見品」のキャプション付きの図(fig18371_80png)入る]
かような塚は、こればかりでなく、その後おひ/\と同じような金の冠を納められたのがたくさん現れました。あの鳳凰臺の南の方の小さい塚からも金冠が出たのです。それは形が小さく、また腰に下げた飾り物も小さく可愛らしいので、多分王樣の子供のお墓だらうと想像されます。また金冠塚のすぐ西の塚を、今から二三年前、スヱーデンの皇太子殿下が御出でになつたとき[#「なつたとき」は底本では「なつとき」]掘つてみました。これもまた金冠塚と同じような勾玉のついた金冠や金の飾り物が出ましたので、その品物をそのまゝ土の中に竝べて、殿下に御覽に入れましたが、朝日の光りを受けて金ぴかの品物が輝いてゐるありさまは、なんともいへぬ見物でありました。『日本書紀』の中にも、新羅の國は金銀のたくさんにある國であると書ゐてありますがそれは確にほんとうです。そしてこれほど金で作つた品物が墓にはひつてゐて出た例は、日本にはまだ一つもありません。しかし、それらのものは金で造つてありますけれども、その作り方はあまり精巧でなく美術的といふよりも、たゞ無闇に金を使つた趣味の低い品物といふ外はないのです。この慶州以外の古墳から、これほど立派な金づくめの品物は、今まで出たことはありませんが、耳飾りだけはいつも金で作つてあります。冠や帶飾りなどは同じ形でも、銅に金めっきをしたものや、銀で作つたものが出ただけです。餘りたくさんではありませんが、日本の古墳からもこれと同じ類の冠や帶飾りが、やはり出るのであり、ことに土器はまったく祝部土器と同じ燒き方のもので、これらはみな朝鮮から日本へ傳へられたものでありますが、勾玉は果してどちらからどちらへ傳はつたものかわかりません。
[#「第八十圖 古代新羅人服飾想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_81.png)入る]
いま申した古墳は皆圓塚でありまして、その中に漆で塗つた棺を埋め、その上を大きな石塊で包んだものであります。これを積み石塚といひます。新羅の古い墓は、かういふふうの造り方であつたのですが、その後石室をつくることになり、ちょうど日本にあるのと同じような古墳が朝鮮にも出來たのであります。とにかく南朝鮮の古墳が日本の古墳と非常によく似てゐることは、以上申したゞけでもおわかりでありませう。
(ロ) 北朝鮮及び滿洲の古墳
朝鮮の北の方は、今から千九百年ほど前滿洲の方からかけて、漢の武帝といふ強い天子が攻めて來てそこを占領し、樂浪郡などゝいふ支那の郡を四つも設けたところであります。ことに樂浪郡の役所のあつたところは、今日の平壤の南、大同江の向う岸にあつて、古い城壁のあともありますが、支那から派遣せられた役人がこゝに留まつて朝鮮を治めてゐたのであります。それですからその附近には、その頃の支那人の古墳がたくさんあるのであります。これはみな小さい圓塚であつて、中には木の棺を入れたものやあるひは大きな煉瓦(甎といひます)で室をつくつたものもありまして、その煉瓦にはいろ/\模樣があります。これらの墓を掘りますと立派な品物がたくさん出ますが、それには前に新羅の墓で見たような金ぴかものはありません。もっとじみな銅や玉でつくつた品物で、かへって美術的にはなか/\優れたものが大そう多いのです。新羅の人とこゝにゐた漢の人との、趣味の相違がよくわかつて面白いと思はれます。
ある墓の中からは、木棺内の死體の胸のあたりに、圓い玉で作つた璧といふものや、口の邊からは蝉の形をした玉の飾りなどが出て來ました。また玉の飾りをした劍や鏡、それから銅の壺なども出ましたが、なかにも立派なのは金の帶止めです。この帶止めは細い毛のような金絲と金の粒でもつて獅子の形をつくり、それに寶石をちりばめた細かい細工は、今日でもたやすく出來ないと思はれるほど優れたものであります。またこれらの墓からたくさん漆器の杯や盆、箱などが出ましたが、その漆器には、これを作つた時の年號や作つた人達の名が細かく彫りつけてあります。それによりますと、漢の初め頃支那の南方蜀といふ遠い地方で、作つたものであることがわかるのであります。また漆器の上に美しい繪を描いたものや、面白い人物を描いた鼈甲の小箱などがあり、支那の漢時代には美術が進んでをつたことが、歴史の本に出てをつても、まさか、これ程まで發達してをつたとは、今まで誰も想像が出來なかつたくらゐであります。なほ、ある墓からは漆器でつくつた化粧箱が出て、その箱の中には紅と白粉を入れた小さな蓋物が入れてありましたが、その頃の人も、かういふ道具でお化粧をしたことがわかります。(第八十一圖)
[#「第八十一圖 朝鮮樂浪古墳發見品」のキャプション付きの図(fig18371_82.png)入る]
さてその後、北朝鮮には高句麗といふ朝鮮人の國が建てられて、支那人の勢力がだん/\なくなつてしまひました。この高句麗時代の古墳は平壤附近のほか朝鮮の北、支那との國境にもありまして、そこには將軍塚などといふ名のついてゐる、石で造つたエヂプトの階段ぴらみっと[#「ぴらみっと」は底本では「ぴらっみと」]のような大きな墓があります。これは高句麗の古い頃の好太王といふ王樣のお墓であるといふことであります。この墓の内部には石で作つた部屋がありますが、古くその中を荒したものがあつて今は何も殘つてをりません。またこの墓から遠くない所にその王樣のことを記した自然石の大きな碑が立つてをります。それを讀むと、日本人が朝鮮へ攻めて行つたことが記されてありますが、多分神功皇后の[#「神功皇后の」は底本では「神后皇后の」]三韓征伐のときのことなどが書いてあるように思はれます。この將軍塚や碑のあるところは鴨緑江の北で、今日では支那の領地となつてゐます。高句麗は、その後この北の方から都を平壤に移しましたので、その後の古墳は平壤の西の方にたくさんあります。それらの墓の中には大きな石室がありまして、室内には實に驚くほど立派な繪が描いてあります。その繪は優れた支那風の繪でありまして、ちょうど支那の六朝頃の畫風を示してをります。これは實に日本の法隆寺の金堂の繪畫にも比ぶべき、立派な古い繪の遺りものであります。(第八十二圖)
[#「第八十二圖 朝鮮高句麗[#「朝鮮高句麗」は底本では「朝鮮高勾麗」]」のキャプション付きの図(fig18371_83.png)入る]
さて鴨緑江をわたり北の方へ行きますと、支那の領地の南滿洲でありますが、こゝは日清戰爭、日露戰爭などがあつて以來、日本と縁の深い土地であります。南滿洲には、やはり石器時代頃からすでに人間が住んでをりましたが、周の末から漢の初めに支那人が盛んに植民してゐたのです。そしてその頃の古墳があちらこちらに遺つてゐますが、あの旅順の西にある老鐵山の麓などには古い城壁がありまして、そのあたりには古い墓がたくさん散在してをります。その中には、煉瓦で造つた五つの室のある漢時代の墓がありました。それを今から二十年ほど前に、私が掘りにまゐりましたが、鏡だとか土で作つた家の形だとかゞ出て來ました。この墓は、その後壞してしまつて、今では跡方も殘つてをりません。また旅順の東、營城子といふところにも、漢時代の墓がありまして、平壤附近の墓から出るのと同じような漆器などが出ました。また北の方遼陽の北には石で大きな室をつくつた古墳があつて、その石室に繪を描いたのがありましたが、今は旅順の博物館に持つて來てありますから、容易に見ることが出來ます。そのほか南滿洲の各地には、小さな煉瓦造りの墓や石棺がありますが、ことに珍しいのは、貝殼でもつて四角に取り圍み、その中に死體を收めた墓であります。それを貝墓と呼んでをりますが、これは石器時代の貝塚とはまったく異なつたもので、中からは漢時代の品物や、その頃の古錢が出て來ます。これらの古墳やまたあちこちから出る周の終り頃の品物や古錢によつて、南滿洲にも古く周の終りから漢の頃に支那の文明が傳はつてゐたことを知ることが出來るばかりでなく、その頃の人は小さい舟に乘つて海岸傳ひにこの南滿洲から北朝鮮の樂浪を經て、南朝鮮にも支那の文明を傳へ、更に日本の西南へも來たのでありまして、その結果つひに朝鮮も日本も、長い石器時代の夢からさめて、金屬を使用する新しい開けた時代へ、だん/\進んで行つたものと思はれます。とにかく、この滿洲や朝鮮にある支那人の古墳は、餘り偉い人のお墓ではありませんが、今日まだ支那の内地の古墳をよく調べることが出來ないので、支那のことを知る上からも非常に大切なものであります。
博物館の見物も、だいぶ長くなつて皆さんも疲れたでせうが、私も話しくたびれました。まづこれで見物をやめて、お茶でも飮むことにいたしませう。しかし皆さんはこん後も暇があれば博物館へ來て、今まで見た品物を更に詳しく見て、わからぬことがあれば先生や博物館の人にお尋ねになることを希望いたします。それではさようなら。
(をはり)