一

 煉瓦工場からは再び黒煙が流れ出した。煤煙は昼も夜も絶え間なく部落の空をおおい包んだ。そして部落中は松埃まつぼこりで真黒に塗潰された。わけても柳、鼠梨、欅などの樹膚は、何れとも見分けがたくなって行った。桐、南瓜、桑などの葉は、黒い天鵞絨びろうどのように、粒々のものを一面に畳んだ。
 雨が降ると黒い水が流れた。何処の樹木にも黒い雀ばかりだった。太陽は毎日毎日熱っぽく煤ばんで唐辛子のような色を見せた。作物は何れもひどく威勢をがれた。殊にも夥しいのは桑の葉の被害だった。毎朝、くすんだ水の上を、蚕がぎくぎくうごめきながら流れて行った。
         *
「――おら家の鶏ども、白色レグホンだって、ミノルカだって、アンダラシャだって、どいつもこいつも、みんなはあ、黒鶏からすとりみてえになってるから。」
「何処の家のだって同じごった。俺家の鵞鳥がちょうを見てけれったら。何処の世界に黒い鵞鳥なんて……。俺は、見る度に、可笑おかしくてさ。」
「雪のように白かったけがなあ!」
「俺はな、ほんでさ、西洋鵞鳥! 西洋鵞鳥! ってれて、一つ、売りに行って見べえかと思ってるのだけっとも。」
「儲かっかも知れねえで。黒い鵞鳥! って言ったら、町場の奴等は珍しがんべから。」
「何んて言っても、腹の立つのあ、権四郎爺さ。」
「うむ。部落むらのためにゃあ、あの爺なんか、打殺ぶちころして了めえばいいんだ。」
 路傍の堤草どてくさに腰をおろして、新平と平吾とは、斯んな話をしていた。其処へ、同じ部落の松代が通りかかった。松代は、ひどく色の黒い娘だった。
「やあい! 松代さん。シャボン買いか? シャボンよりもいいもの教えっから、少し休んで行げったら。あ、松代さん。」
「余計なお世話だよ! 平吾さん。他人のごと心配するより、自分のどこの鵞鳥でも洗ってやったらよかんべね。」
 松代は応酬しながら寄って行った。
「俺家の鵞鳥、西洋鵞鳥だもの、烏と同じごって、幾ら洗ったって、白くなんかなんねえのだ。松代さんのように、地膚が白くて、洗って白くなんのなら、朝晩欠かさず洗ってやんのだげっとも。」
「知らねえど思って、何んぼでも虚仮こけばいいさ。何処の世界に、黒い鵞鳥だなんて……」
「嘘だってか? 西洋鵞鳥って、おめえ、随分と高値のするもんだぞ。」
 寝転んでいた新平が起上りながら言った。
「幾ら高値でも、松代さんが嫁に行げねえと同じごって、煉瓦場のために、売口が無くて困ってのさ。世間の奴等、俺家の西洋鵞鳥、煉瓦場の松埃で黒くなったのだと思っていやがるからな。松埃で黒くなった松代さんば、地膚がら黒いのだと思ってやがるし……」
「頭が禿げだって知らねえから。」
 松代はそう言って平吾の手を撲った。
 併し、松代は調戯からかわれながらも彼等の傍を立たなかった。
「本当に、何時まで続くもんだかな? 煉瓦場。――早く止めてくれねえど、本当に困って了うな。桑畠は勿論だども、俺は何時までも鵞鳥が売れねえしさ。松代さんは嫁に行げねえしさ。」
「そんなごとより、俺家では、何時あそごの土地を売られっか、判んねえわ。」
「何処の家でだって同じごった。」
「併し、新平氏、今度はあ容易にめねって話だで。」
 彼等は、ふざけながらも、真面目に語り合うのだった。
         *
 煉瓦工場はこれで最早三度目だった。最初は奥羽本線敷設の当時に、鉄板製の低い煙突を幾本も立てて、七年間に亘って黒い煙を流したのだった。そして何町歩かの、最良質の田圃の底が、赤い煉瓦に変えられた。仕事の続いている間、部落の女達は「ぺたぺた敲き」の日傭に出た。職工が煉瓦の型に固めあげた粘土を、崩れないように陽で乾しながら、へらで敲き固めるのだった。煉瓦を縛る縄をって売る者もあった。馬を持っている男達は駄賃に出た。工事列車の通る線路際まで煉瓦を運び出すのだった。――当時の部落の繁昌は、何時までも、彼等の思い出となった。彼等は自分の労力が、土地を通さず直ちに金銭になることを、初めて経験したからだった。そして竈の中に投げ込まれた何町歩かの田圃の底も、別して彼等の自給自足の生活を欠かさせなかったから。
 第二期は、陸羽線敷設の当時、九年間に亘った。鉄板製の煙突の代りに、赤い煉瓦造りの大煙突が、遠くの遠くから敵視の目標となった。黒煙は煙突から直かに雲に続いた。そして煤煙の被害は遠方の部落にまで及んで行った。煉瓦を積んだ荷馬車が、何台も何台も、工事中の仮駅へ向けて行列をつくった。道路には幾本もの深いわだちが立って、九年の間、苗代のような泥濘が続いた。最良質の田圃は片端から掘荒されて行った。質のいい米を結ぶ田圃の底からでなければ最上質の煉瓦は出来ないからだった。併し、耕地が減って行くのに、其処から投げ出された小作人達は、代りの職業が容易に見つからなかった。むしろ、絶対に! だった。第一期当時にあった煉瓦場の方の仕事「ぺたぺた敲き」や煉瓦運搬の駄賃や縄綯いなどは以前からの熟練した人々の手で沢山だったからである。そのために北海道の開墾地へ移住した者があった。部落の東北部を起伏しながら走っている丘の中腹に歯噛みつき、其処に桑園を拓いて、これまで副業にしていた養蚕を純然たる生業にした数家族があった。
 第三期は、第二期九箇年の後に、一箇年を置いて始められた。
 第一期第二期は何れも鉄道敷設の工事材料を目的に焼いたのだった。だから工事の完成と同時に竈は閉された。併し第三期の今度は、投資の目的で始めたのだった。同じような煉瓦造りの大煙突が三本になった。第一期第二期当時に完成された鉄道が、容易に運び去ってくれると云う点から、最早その土地の鉄道工事と云うような供給の対照を考慮に入れる必要は無かった。全国が供給の対照であった。粘土質の土地を手放す者さえあれば、何時まで続くかわからない事業だった。

       二

 地主の森山は鶏小屋から戻って来たところだった。そこへ権四郎爺が這入って来た。森山は縁側に座蒲団を出さして其処へ掛けさせた。今までに何度も持って来た権四郎爺の用件には、彼はどうしても応ずる気が無かったし、鶏小屋の方に残してある仕事が気になるので、早く帰って貰おうと思ったから。
「どうでがすね? 今年の雛鶏ひよっこ成績しいしきは?……」
 権四郎爺は※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にわとりの話を持出した。先ず森山の機嫌を取って置く必要があったからだ。
とりにかけちゃ、この界隈にゃ、且那に及ぶ者はねえってごったから……」
「雛鶏だってなんだって、斯う松埃をぶっかけられちゃね。今年は、まるで骨折損でごわした。」
「旦那等ほだからって、鶏を飼ったのが、儲けになんねえでも、暇潰しになって運動になればいいんでごあすべから。」
 斯う言って権四郎爺は、面白くもおかしくもないのに、顔中を皺だらけにして追従笑いをした。
「いや、そんな馬鹿なこと、絶対にござりせん。やっぱし成績のいい※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)をとりたいと思って努力してんのでがすから。」
 森山は馬が驚いたときのように鼻穴を大きくして反駁した。併し権四郎は追従笑いを続けた。
「ほだって、且那等は、遊んでても食べて行かれんのでごおすもの。」
「併し、遊んでても食べられる者は、骨折損なことをしてた方がいいて理窟はがすめえ?」
 森山は、世間の人達から、自分が素封家の道楽息子として育ち、その延長に過ぎない生活をしているように思われるのをひどく嫌がっていた。彼は積極的だった。それが何時も、真摯な考慮を基礎として出発し、積上げられているのだった。彼はそして非生産的なことを嫌った。主張としては、幾分消極的ではあるが、温情主義と見るべきだった。――だから彼は、父親の死と同時に地主の席を譲られると、真面目に農家の副業と云うことに就いて考えた。彼の家の小作人達が、小作米を自分の処へ持って来ると、後に残る米は一箇年間の飯米にも足りないほどで、買う物のために売る物の無いのに、ひどく困って居るのを気の毒に思ったからである。彼は養蚕をすすめて桑を植えさせた。それから養鶏を奨励した。そして彼は、彼の家の所有地を小作している小作人達のためにと、最早七八年もその実地研究を続けているのだ。――其処へ持って来て、権四郎爺の相談は、彼の明日をやみにしようとするようなもので、成立する筈は無いのだった。
「旦那は、やっぱり、煉瓦場近くの土地ば売って了った方が、徳だと思ってんでごあすベ?」
 権四郎爺は、今日も亦、話を斯んな風に何時ものところへ持って行った。
「徳にも損にも、あそこだけは、どんなことがあっても売るわけに行かねえのでがす。あそこを売るど、差当り、四軒の家の人達が食うに困んのでがすからね。」
「旦那は直ぐそう云うげっとも、売って了めえば、野郎共は又その時ゃその時でなんとかしますべで。今までだって、うんと例があんのでごおすし、心配することはごおせん。」
「それゃあ、私があそこを売ったからって、食わずに死ぬようなごとはがすめえがね。併し、皆んながああして、田圃ばかりじゃ足りなくて、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)を飼ったり養蚕をしたりして、一生懸命になって稼いでいでそんでも困ってのでがすからね。」
 森山は心の中で固く拳を握っていた。
         *
 路の両側から蛙の声が地を揺がしていた。煉瓦を焼く煙は、仄赤く、夜の空を焦していた。
 権四郎爺は、二間道路の路幅一っぱいに、右斜めに歩いては左斜めに歩き、左斜めに歩いては右斜めに歩き、蹌踉よろめきながら蛇行した。河北煉瓦製造会社の社長の家で、酒を呑まされて来てはいたが、別段酔っているのでは無かった。近頃彼が夜歩きをすると、部落の青年達がよく彼に突当って来るので、それを防ぐためだった。蛇行していれば、何方どっちから出て来て突当ろうとしても、何等自分の威厳を傷つけられた風に見せずに、身をかわして了えるからだっだ。
「ふむ! おかしくてさ。馬鹿野郎共め!」
 吐き出すようにして、権四郎爺は、何度も何度も言った。それで権四郎爺は幾分か自分の不安な気持を慰められたのであった。
「馬鹿野郎共め! おかしくて仕様ねえ。栗原権四郎はな、これでも……」
 其とき、誰かが、どんと右肩に突当った。
「おっとっとっとっと危ねえ! 誰だね?」
「気をつけやがれ! 老耄おいぼれめ! なんて真似をして歩きやがるんだ?」
 相手は闇の中から若い声を鋭く投げつけた。
「誰だね? 宮前屋敷の者かね? 夜路はお互に気をつけるごったな。俺は栗原権四郎だが、おめえ、宮前屋敷の誰だね?」
「貴様の名前なんか聞き度くねえや。老耄め! ほんでも俺様の名前を聞きてえんなら教えるべ。俺は宮前屋敷の藤原平吾様だ。今夜だけは許してやるから今から気をつけろ。棺箱さ片足踏込んでやがる癖に、何んの用があって煉瓦場さなど行きやがるんだ。老耄め!」
「まあまあ、夜路はお互に気をつけで……」
 権四郎爺はそう言って逃げ出した。
 併し権四郎爺は其処から五六十間も歩き去ると、そのまま黙ってはいなかった。
「馬鹿野郎! 平吾の馬鹿野郎め! 法律はな、そう無闇にゃ、許さねえぞ。善良な人民の交通を妨害しやがって、それで法律が許して置くか? 馬鹿野郎共め!」
 権四郎爺は散々に平吾を罵倒した。最早人家の多い宮前部落の、駐在所の近くまで来ているので、彼は気が大きくなっているのだった。同時に、法律に対する彼等の恐怖感をも唆らずには居られない気がした。――この前に煉瓦工場が繁昌したとき、彼が煉瓦工場と地主達との間を奔走して、宏大な良質の田圃の底を煉瓦にさせたと云うので、彼を脅かそうとした部落の青年達が、法律の名によってどんな目に会されたか? ――あの当時の彼等が、法律に対して抱いた恐怖観念に、部落の奴等をもう一度叩き醒ましてやらなければならないと権四郎爺は考えたのだった。
「なあ、野郎共! 法律は許さねえぞ。平吾の馬鹿野郎め! 善良な人民の交通を妨害しやがって、それで罪人でねえと云うのが? 平吾の馬鹿野郎! 犬野郎! 畜生! 猿! 栗原権四郎が罪人と睨んだ以上、法律が許して置くか? 平吾の馬鹿野郎め!」
「老耄め! なんだって他人ひとの悪口をして歩きやがるんだい? 高々と。」
 暗い生垣のところから、誰かが斯う言って、ぬうっと出て来た。其処は、平吾の家の杉垣と、平吾が鵞鳥を飼っている苗代とに挟まれてる場所であった。
「誰だね? おめえは誰だね?」
 権四郎爺は蹌踉き去りながら言った。誰かがまた自分に突当って来たのだと思ったからである。
「誰も糞もあっかい! 糞爺め! なんだって叫んで歩きやがるんだ? 苗代の泥の中さ突倒つきのしてくれるぞ。老耄爺め!」
「叫んで歩いだがらって、何も咎立したり、悪口したりしねえでもよかんべがね。法律は、言論の自由を許してるのでごおすからね。」
「ふむ。言論の自由ば、自分だけ許されてると思ってやがる。耄碌しやがって。貴様が、他人の悪口を言って歩いて、言論は自由だって云うんなら、俺だって自由だべ。糞垂爺め!」
「ほれにしたところでさ。別におめえの悪口をして歩いたってわけじゃあるめえしさ、年寄が酒に酔っ払って管を捲いて歩くのぐれい、大目に見でけろよ。なあ、俺が大声を立てて歩いたのが気に喰わねえって云うのだら、俺は一升買うどしべえで。」
「面白いごとを云う爺だな。今まで、平吾の馬鹿野郎、平吾の犬野郎って、俺さ悪口してやがって、それでも俺さ悪口をしねえって云うのなら、平吾って野郎をもう一人引張って来う! 俺の他に、平吾って野郎は一体この辺にいるがい? 考えで見ろ! 糞爺め!」
「おめえが本当の平吾がね? どうれで、先っきのは、なんだか新平に似た平吾だと思ったっけ。それは悪いごとをした。新平の野郎が、俺さ交通妨害をしやがって……兎に角、ほんじゃ間違えだで、俺が一升買うがら、一緒に茶屋さ行くべ。あっ? なっ!」
「その手に乗っかい! 法律が言論の自由を許している。糞爺! 犬爺! 猿爺!」
 平吾は斯う呶鳴どなって置いて、権四郎爺の胸をぐっと突飛ばした。権四郎爺は泥田の中へ蹌踉き落ちた。闇の中から鵞鳥が一斉に鳴き出した。
「西洋鵞鳥でも見物したらよがんべ。」
 平吾は、ふふっと笑って、何処へと云うあてもなく駈け出して了った。
「野郎! 人殺し野郎! 法律が許すと思うのが? 平吾の人殺し野郎め! 栗原権四郎に指を触れて、法律が許して置ぐと思うのが? 馬鹿野郎! 犬野郎! 人殺し野郎め!」
 権四郎爺は苗代の中の泥から足を抜き抜き、何時までも呶鳴り続けていた。
         *
「だがね、旦那! 旦那はそうして眼をかけてるげっとも、宮前屋敷の野郎共ったら、平吾にしろ新平にしろ、乱暴な野郎共ばかりで、今に屹度きっと、松埃がかかって収穫みのりが悪いがら、小作米を負けてくれとか、納められねえどか、屹度はあ小作争議のようごとを出かすに相違ねえ野郎共だから。そこを、ようぐ考えで。ね、旦那! 年寄は悪いごと言わねえがら。」
「若し、そんなごとしたら、法律が許して置きしめえから、大丈夫でがすべで。」
 森山はそう言って微笑んだ。
「法律は、それゃ、勿論許して置かねえにしても、そんなごとさかかわるより、土地ば売って了って、それを資本もとでにして、何か店を開いたら、なんぼよかんべ。――第一、土地持ってっと、税金ばかりかかって来て……」
 併しそれは、どうしても、森山には頷けない気持だった。
 損徳の問題からすれば、土地を売って了って、市街地へ出て商業に投資すべきであることは彼も無論知っていた。遥か以前に、あの煉瓦場附近の土地を売って、それを資本にして市街地に出た人達が、新しく始めた製造業なり醸造業なりで、相当の資財を積んだ実例から見てもそれは明らかなことだった。
 同時に彼は、小作人と同じところに盛衰を置いている小地主の自分を判然と知っていた。けれども、労力さえ加えれば永久に米が湧いて来る田圃の底を煉瓦に変えて了うと云うことは、森山には全く堪らない気持であった。
「何んと思っても、売れせんでがすね。」
「じゃ、もう一度ようぐ考えて。――何時かな?」
 権四郎爺は、帯の間から金側時計を引抜いて、それを覗きながら腰を上げた。
「おや! こんなどこさまで松埃が這入ってがる。ひでえには、ひでえんだな。見せえ、こら。」
 斯う言って彼は、森山の前に、自分の身体ごとその懐中時計を持って行った。時計の白い文字盤の上には、二つ三つの黒い斑点がとまっていた。
 幾ら考えても森山はあの土地を売る気にはなれなかった。田圃の底が煉瓦に変ると云うばかりでなく、そうして耕地を失った人々が、食物の生産から遠ざかって行くことがわかりきっているからだ。斯うして行ったら最後にはどうなるのだ? まさか煉瓦を食っているわけにも行くまい! 森山はそんな風に考えた。

       三

 煉瓦工場は黒煙を流し続けた。森山が土地を売らなければ、それで一時は中止するだろうと思われていたのだったが、そんなこと位で容易に怯んではいなかった。煉瓦工場では遠方にその材料の粘土をもとめ出した。あかい二つの触角は、森山の所有地を挟んで伸びて行った。
「煉瓦場の野郎共も、面白い野郎共だな。ほら、あの赭土を採った跡を見ろったら。煉瓦場の親父の頭の禿具合と、そっくり似たように拵えがったから。」
 部落の百姓達は丘の上から見下して斯んな風に話し合った。そして笑った。
 赭土の中に黒い地帯がひどく目立って来たのだった。額の両側から禿上って行く禿頭の、黒い髪が中央まんなかに残っている前額部の形だった。併しそれも長続きはしなかった。赭い触角は両側から次第に黒い地帯を抱込んで行った。そして二年の後には、黒い地帯を全くの浮島にして了った。
 黒い浮島は、それと同時に、最早完全な水田ではなかった。水田には水田が続き湿地が続いて、温い水を保つためには相互扶助的な作用がなければならないのに、黒い浮島は例えば丘の上の耕地のようなものであった。雨が降り続けば沼になり、炎天が続くと、粘質壌土は荒壁のように亀裂が立った。雑草が蔓延はびこった。その根がまた固くて容易に抜けなかった。そのために稲はひどく威勢をがれた。のみならず、開花期間はなどきもやっぱり煤煙が降り続いたので、風媒花の稲は滅茶滅茶だった。穂の長さは例年の三分の二ほどしかなかった。実のつきも無論悪かった。
「且那様。どう云うわけでごわすか、俺等の田は、今年は大へん出来が悪くて、小作米の半分も出来ねえのでごわすが、来春の春蚕はるごが上るまで待って項くわけに行きしめえか?」
 斯う言って捨吉爺は、地主の森山に泣付くより仕方が無かった。新平の家でも、松代の家でも、それから平吾の家でも、同じような結果だった。
「小作米は兎に角、作の悪かった原因がわかんねえようじゃどうも困るね。第一あんな竹の樋で水を運んでちゃ、駄目でがあせんか?」
「それゃ、且那様、俺等もそれ位のごとは知ってるのでごわすが、俺等にゃ竹の樋より上の分にゃ、手が出ねえもんでごわすから。」
「無論それは此方で拵えますがね。他人ひとから笑われねえだけのごとあしますべ。――やって置くだけのことやって置かねえど、小作米を貰うわげに行きせんでがすからね。」
 森山はそう言って笑った。併し、それは、彼の心臓から吐出された言葉だった。
「来年はまあ、箱樋でも拵えで見るがね? そんでいげねえようだったら、改めて鉄管なりなんなり引くとして。」
「箱樋を引いて頂けゃ、水はそれで十分以上でごわすもの、そしたら、肥料こやしもどっさり入れて、田の草取りなんかわらわらと、俺等は鬼のように稼いで、来年こそは、立派な稲にしてお目にかけしてごわす。」
 捨吉爺は、水に難儀をした今年の夏のことなどを思い出しながら、斯う言って、両方の眼をちかちかと潤ませた。
         *
 翌年の春になると、白い木製の箱樋が、赭土の窪地を乗越えて黒い浮島に渡された。水は用水堀から溝の中へと、どんどん流れ込んで行った。黒い地帯の小作人達は、急に気が弛んで溜息を吐いた。森山もそれで安心した。
「此方でだって、奴等に負けていねえさ。奴等のように資本をかけてやるつもりなら、どんなどこさだって、立派な田圃拵えで見せる。」
 併し、幾ら水を引いて来ても、秋になっての結果は思わしくなかった。冷たい水は稲の根を洗ってどんどん逃げて行った。のみならず、水は土地から肥料を盗んで行った。そして黒煙が流れ続き松埃が降り続いたからだった。粘質壌土ではあり、土鼠もぐら穴は十分に塞いだつもりだったので、これ以上は手の下しようが無かった。最早、四囲を掘荒されたためからの影響として、地盤が落着き、肥料が土地に馴染むまで、っと待つより他に途が無かった。
「仕方がねえさ! どうも。小作米はいいから、まあ、当分これで続けて見せえ。」
 斯う森山から言われて、其処の小作人達は、泣寝入の気持で細い収穫を続けて行った。今によくなるに相違ない! 今によくなるに相違ない! と思い続けながら。
         *
 所が、思いがけなかった大きな負担が、突然彼等を驚かした。水害で、用水堰は、その堤防までも流されて了ったからだ。
 以前には、用水堰が壊れると、煉瓦場附近一帯の田圃を所有している幾人かの地主がその費用を負担し、その小作人達が労力を供給することになっていたのだった。が、今ではその用水堰を必要とする土地と言えば、あの黒い浮島だけだった。当然、森山が一人でその材料費を出費して、僅か三四軒の小作人が、その労力を供給しなければならないのだった。
「旦那!あそこは、もうどうしたって、田圃にしていちゃ合わねえようでがすね。畠にでもして了っちゃどうでがすべ?」
 新平は斯う言ってひどく力を落していた。
 氾濫の激しい荒雄川の急流にコンクリートの堰を突出してまで水を持って来るほどのことだろうか? 森山はそんな風に考えざるを得なくなって来た。無論それは、明日の太陽をあの地帯にのみ望んでいた森山にしてみれば、全財産を傾けても水田として持続して行き度いのであった。
「――で、あそこを畠にして了っても、あんたがたは、やって行げるかね?」
「併し、無理して堰を拵えで見ても……」
「今になって畠にする位なら、あそこを売って、何処かいいどこの畠を買いばよかったのだども。」
 森山はそう言ったきり黙って了った。森山は泣いているのだった。

       四

 雪はまだ降り続いていた。最早五六寸も積っているのだった。戸を開けると、粉雪は唐箕とうみの口から吹飛ばされる稲埃のように、併しゆるやかに、灯縞ひじまの中を斜めに土間へ降り込んだ。
「何時まで降る気なんだかな? この雪は!」
 捨吉はそう言って雪の中へ飛出して行った。そして水を汲んで来て、直ぐに竈の下を焚付けた。娘のお房が立って行くので餅を搗こうと云うのだった。誰もその晩は碌に眠れなかった。皆んな一番鶏で起きた。子供達もそれを嗅ぎつけて、どんなに起すまいとしても、寝ては居なかった。
「おあ! ぜんこけろ。銭けろってばな。姉さ餞別しんのだからや。お母あ!」
 六つになる弟の亀吉が、何処からか餞別と言う言葉を覚えて来て、斯う強請ねだり出した。
「おっ! 亀は、姉さ餞別やって、お土産を貰うべと思って。亀! 俺の銭けんべか?」
 兄の鶴治が拳固を突出した。
あんつぁんの銭は、酒呑んだ銭だからんだ。」
「ううんだ。そら、見ろ! 銀貨だから。」
 鶴治は狡るそうに眼を丸くして、拳を開いて見せた。亀吉は手早く、鶴治の掌の中に光っているものを引浚った。
「嫌んだ! この銭は、皮が剥げるもの。」
「ほだべさ。その銭は、※(「くさかんむり/嘛のつくり」、第4水準2-86-74)はしかになってんのだもの。亀だって、※(「くさかんむり/嘛のつくり」、第4水準2-86-74)疹になったどき、身体中の皮が剥げだべ? ほして癒ったベ? この銭も、蟇口がまぐちさ入れて置けば、遣うどきまでに、ちゃんと癒ってんのだ。」
「嘘だから嫌んだあ! お母あ、銭けろ。」
 亀吉は強請りながら、銅貨の上に被せてあるバットの銀紙を、少しずつ剥取った。
汝等にしらが、姉さ餞別出来るようなら、姉は何も親の側から離れねえでもいいのだ。」
 母親は小豆鍋を掻廻しながら言っていた。
 竈の下を焚きながら、黙り続けて焔先ひさきを視つめていた父親の捨吉は、だんだん瞼が熱くなって来た。そして大粒の涙が一つ、するするっと頬の上へ転がり出した。
         *
 膳が並べられ出すと、息詰るような涙ぐましい気持で、捨吉爺はもう堪らなくなって来た。同時に、お房に対して、父親としての申訳を言わずには居られなかった。
「お房! にしあ、恨むんなら、煉瓦場を恨めよ。なあ。森山の且那が悪いのでも、俺等が悪いのでもねえ、煉瓦場が悪いのだから。」
「俺は、誰のどこも恨まねえもの。」
 お房は膳の前に坐りながら言った。
「煉瓦場は、冬休みがとっても長くて、いいもんだな。」
「この野郎は、そんなごとばかり。」
 鶴治は小学校の尋常一年生で、二週間の冬休みがあった。それに較べると煉瓦場の仕事の出来ない期間は全く長かった。
「冬休みなんか、なんぼ長くたって、糞の役にもなんねえ。夏休みが長げえのならだげっとも……」
 捨吉爺は、笑いながら、併し怒ったようにして言った。
「森山の且那等、何もかも判っているようだげっとも、物事を考えるのに、深く突詰めるってごとねえんだもの。ほだからのことさ。」
「お房や。小豆餅ばかりでなんなら、納豆餅でなりなんなり、どっさり食って行くんだ。東京さなど行ったら、餅などはあ、たんと銭でも出さねえと、れめえから……」
「俺は、何んにも食いたくねえも。」
「何も、先が暗いからって、おっかねえごとなんかねえだ。渡る世間に鬼は居ねってがら。」
「併し考えで見ると、森山の旦那が、あそこの土地を売らながったのだって、ああして困ってのだって、俺等を乾干ひぼしにしめえど思ってのごとなんだがらな。それを考えると、此方でだって、ああして困ってんのを見れば、全然小作米をやらねえじゃ置げねえがらな。お房には気の毒だげっども。」
「斯んなごとになんのなら、あそこを売ればよがったんだね。自分だけでも助かったのにさ。」
「売って、その金を此方さ廻してくれれば、問題は無かったのさ。それを森山の旦那は、他の地主等、土地を売払って小作人を困らせでるがら、自分だけは、意地でも売らねえって気になったのさ。ふんでも、皆んながああして売った処さ、自分だけ頑張って、島のように残して置いたって、何になんべさ。頑張るのなら、皆んなで頑張らなくちゃ。」
「ほだからって、恨みってえことは言われしめえ。殺すようなごとしてまで取立てる世の中なんだもの。」
「誰も、恨みごとなんか言わねえ。ふむ。旦那が気の毒だと思ってのごった。」
 鬱屈した気持の向け場に困っていた捨吉爺は、唇を尖らして、錆のある太い声で不機嫌に言った。
         *
 朝の一番の汽車に間に合うのには急がねばならなかった。併しお房は、何事も手に着かないらしかった。微かに身体を顫わしてばかりいた。荷物のことは、父親の捨吉と母親とで皆んな支度をしてやらねばならなかった。
「お房! お房! お房や!」
 斯う呼びながら、其処へ、腰抜け同様になって長い間床に就いているお婆さんが、襤褸ぼろを曳摺って奥の部屋から這出して来た。
「お房や! 行く前に、俺にも一目顔を見せで行ってくれろ。俺は、再度にどと汝とは会われめえから……」
 お婆さんはもう泣いていた。泣きながら、何か手にしていた襤褸で涙を拭った。
「可哀相に、遠くさやらねえで、森山の且那のどこさ、金をやる代りに、働きにやるってようなごと出来ねえのがえ? 東京だなんて、そんな遠くさ行って了ったら、俺は生きているうちに、再度と会われめえで……」
ばばさん! 丈夫になっていろな。五年や六年位は、すんぐに経って了うもの。そのうちに、鶴だの亀らが大きくなったら、俺家もよくなんべから。」
 お房はそう言いながら涙に咽せて来た。
「これは、お房や、汝が嫁に行くとき、半襟の一本もと思ってしまってだのだけとも、俺は汝に再度と会うべと思われねえから、汽車の中で飴でも買って食ってくれろ。」
 お婆さんは上り框まで這って来て、お房の腕に顔を押付けたりしながら、手にしていた襤褸をお房の手に握らせた。その中には幾らかの銅貨が包まれているらしかった。
「婆さん! いいから、いいから。婆さんこそ何か買って食ったら?」
 辞退してもお婆さんはきかなかった。
 お房はそれを貰って、涙を拭いながら、父親に送られて戸外に出た。荷物を背負った父親は、お房を先に立てて、雪の中へどふどふと這入って行った。門口のひいらぎの株を右に曲って、二人の姿が見えなくなると、母親は、わあっ! と声を立てて泣き出した。

       五

 雪が消えると、荒れ錆れた赭土の窪地の中に、黒土の一帯が再び島のように浮き出した。黒土地帯の中央には、直ぐに掘抜井戸の、高い櫓が組まれた。春先の西風は、唸って、それに突当って行った。併し櫓の上では、長い丸竹の機条竿が、幾日も幾日もぎちぎちと動いた。
「どうだね? まだ水脈さ掘付けねえがね?」
 森山は斯う言って、毎日幾度も訊きに来るのだった。一日中其処から離れないことが度度だった。自分で櫓へ上って、がちゃがちゃと、居ても立ってもいられないと云うようにして鑿竿せんかんを動かしたりした。
「なんだって此処は水が出ねえんだかな?」
 森山は最早常軌を逸していた。水! 水! 水! 彼の全身は渇き切っていた。彼の将来にかけた明るい希望は、黒い乾燥地帯に圧付けられていた。そしてその黒くからからに乾燥した地帯が、彼の意識の全部を埋め尽そうとしているのだ。彼の心臓までも侵そうとしているのだった。
「そろそろ、今に出ますべで。出ねえわけねえんですから。」
 井戸掘の人夫達も、それより、もう慰める言葉が無かった。
「あんなに一生懸命なのに、それで水が出ねえなんて、一体、法律が許して置くか置かねえが、権四郎爺に訊いて見べえかな?」
 斯んなことを言って、森山が帰って行くと、井戸掘人夫達は笑った。森山に対する気の毒な気持を掻消すためだった。
 併しその掘抜井戸からは、田圃の耕作が始まっても、水はとうとう出なかった。
「旦那! どうもこれじゃ出そうもごわせんな。一つ、水揚水車を拵えちゃどうでごわす? 窪地に、一っぺい水があんのでごわすから。」
「どうしても出ねえかね? どんなことをしても? 出ねえければ、それゃ、水揚げ水車でもなんでも拵えるより仕方がねえがね。娘を売ってまで小作料を持って来られちゃ、どんなことをしてだって水をあげてやらねえと……」
 森山はそう言って、全く力を落として了ったように、其処へべったりと腰を据えた。
         *
 粘質壌土の田圃の一部が掘崩されて、其処に小さな水揚げ水車が拵えられた。それは人間の足で踏んで水を揚げるように出来ていた。
 森山はその水揚げ水車に上って、雨の日でないかぎり、毎日毎日がちゃがちゃとそれを踏んだ。濁りを帯びた溜水は、鬱屈していた動物のように、どくどくと溝の中へ流れ込んで行った。それを見て、森山は、にやにやと、顔中に嬉しそうな笑いの皺を刻むのだった。
「旦那! 少し俺等もやんべかね?」
 新平等が斯う言っても、森山はかなかった。
「なあに、運動のつもりでやってんのだから。」
 併し森山は、炎天が続くと、夜も寝ずにその水車を踏み続けなければならなかった。そして、焼付けるような炎天の下で居眠りをしながら水車を踏んでいることがあった。煉瓦工場からの煤煙が、その上から、ひっきりなしに降った。白い肌襦袢へ、黒い羽虫のように一つとまり二つとまり、夕方までには灰色になるのだった。
「おっ! 森山の且那はどうしたべ?」
 或る激しい炎天の日の午後、田の草を取っていた平吾が、そう言って立った。
「今の先っきまで踏んでだっけがな。ほんとに?」
居眠ねぶかきして、水さ落ちたんであんめえかな?」
 平吾等は、田圃から上って、水揚げ水車のところへ駈けて行った。
         *
 森山が、疲労と睡眠不足との身体を炎暑に煎りつけられて、日射病系の急性霍乱かくらんで死んでから、そこの小作人達は、代る代るに水揚げ水車を踏んだ。
 併し、その翌年からは、誰もそれを踏むものが無かった。例え小作料を計算に入れないにしても、そんなことをして収穫したのでは、とても合わないからだった。都会の大工場が機械の力で拵えた沢山の物を生活に必要としている彼等が、それを買うために、そんな手数のかかる耕作をしてはいられないのだった。だから、そこは畠にするより仕方が無かった。
 黒い地帯は、併し、松埃が葉にこびりつくので、桑畠にもならなかった。仕方がなく、その一部が野菜畠にされた。全部野菜を作っても、それをさばく途が無いからだった。そして秋から、麦を作ることなどが話されていた。其処にそのまま残されてあった水揚げ水車は、毎日毎日松埃を浴びて、白木造りだったのが、真黒になって突立っていた。
――一九二九・一二・三――

底本:「日本プロレタリア文学集・11 「文芸戦線」作家集(二)」新日本出版社
   1985(昭和60)年12月25日初版
   1989(平成元)年3月25日第4刷
底本の親本:「黒い地帯」新潮社
初出:「新潮」
   1930(昭和5)年1月号
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2002年3月12日公開
2005年12月17日修正
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