数年前、私がソヴェトから帰って間もない頃のことであった。或る日何年も会わなかった女の友達が訪ねて来ていろいろ現在のソヴェトでの女の暮しぶりについて話の末、その友達は不図思い入ったように、だけれど、一体ロシアというところは、昔から男より女の方がしっかりしていたところなのかしら、と云って小首を傾けた。
 私は、そんな片手おちのような疑問が何だか可笑しく、どうしてさ、と笑い、わけを訊ねたら、その女友達は遠慮ぶかい性質から、私なんかほんとに不勉強なのだが、と前おきして、ツルゲーネフの小説なんかを読むと、わたし何だかそんな風に思われるんですよ、と答えたのであった。
 昨今ツルゲーネフの名を又きくにつれ、私はその女友達の言葉を思い出した。そしてその短い言葉を含味するにつれ、素朴に表現されたその感想の中には、作家ツルゲーネフという人の生活なり当時の社会と彼との関係なりを今日のわたし達の目で理解する上に興味ある暗示がふくまれていることを感じるのである。

 イ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)ン・ツルゲーネフは、韃靼出の古い貴族の息子として一八一八年アリョール県の所有地で生れた。一八八三年、六十五歳の時脊髄癌を病ってパリで死ぬまで、ツルゲーネフは有名な農奴解放時代の前後、ほぼ三十年に亙るロシアの多難多彩な社会生活と歴史の推進力によって生み出される先進的な男女のタイプとを、世界的に知られている小説「猟人日記」、「ルージン」、「その前夜」、「父と子」、「処女地」等において描こうとしたのであった。
 ブランデスは、ツルゲーネフが死んだ年非常に情愛のこもったツルゲーネフの評伝を書いた。その冒頭に「ツルゲーネフはロシアの散文家中最大の芸術家である」と云っている。
 ブランデスがその評伝を書いた時から今日まで、既に五十一年の歳月を経、しかも一九一七年以後には、人類の歴史がその一部を書きかえられた程、社会的に巨大な発展を遂げている今日、ツルゲーネフをロシア散文家中最大の芸術家とするには、当然多くの異論を生じるのである。
 しかしながら、ヨーロッパに於ける新しい社会運動の動力であったロシアを何かの形で世界に紹介したという点から見ても、ツルゲーネフは、当時オストロフスキー、トルストイ、ドストイェフスキー、ゴンチャロフ、ニェクラーソフなどと共にロシア文学史上の「七星」の一人と数えられただけの特色を持っており、規模も小さからぬ作家であったことは認めなければならない。
 初めて、ツルゲーネフが「猟人日記」を当時ロシアの進歩的雑誌であった『現代人』に発表したのは二十九歳の年であったらしい。大体、ツルゲーネフの少年・青年時代を生活したロシアの四〇年代は、ロシア解放運動史の上ではまことに意味深い黎明期であった。先ずツルゲーネフが七歳の一八二五年に有名な十二月党デカブリストの叛乱があった。この少壮貴族・将校を中心とする叛乱の計画は一貴族の卑劣な裏切りによって悲劇的失敗をとげ、その後一時沈滞した解放運動は、四〇年代になるとモスクワ大学の研究会となって、再び若々しく甦って来た。ゲルツェン会とスタンケウィッチ会とがそれであった。ツルゲーネフは、はじめてモスクワ大学で勉強し、後、ペテルブルグ大学にうつり、ゲルツェン会の活動にも或る程度参加した。彼は、サン・シモンの今日から見れば空想的な社会主義を勉強した急進的学生として、特にロシア民族の発達のために農奴制廃止を熱心に主張した一人であった。
 一八四二年にゴーゴリが死んだ。その時、ツルゲーネフは極めて自然の感情の発露によってゴーゴリの功績を讚えた哀悼文を書き、それをモスクワの或る新聞へよせた。すると、日頃ツルゲーネフに目をつけていた官憲はその文章が不穏であるという咎で、ツルゲーネフを、ペテルブルグ要塞監獄へいれた。監禁は僅か一ヵ月であった。が、体の弱いツルゲーネフはすっかり打撃をうけ、しかも居住制限によってその後何年か自分の領地スパツコイエに釘づけにされるという不法の拘束をうけたのであった。
 やっと自由を恢復してから、ツルゲーネフはドイツやフランスへ遊学した。そして、再びロシアに帰って来はしたが、その時の彼はロシアを自分の生きて、闘って、而して死すべき場処として考えることは出来なくなっていた。貴族でなければ出来ないパリとロシアとの間の往復がはじまった。晩年の十二年間ツルゲーネフはパリから動こうとさえしなかった。二度と外国へふらつき出さぬようなものとして完全にロシアへかえって来たのはツルゲーネフが遺骸となった時であった。
 当時のロシア作家としては全く特殊なパリへの半移民的生活をもってツルゲーネフが一生を終るに至った動機は、抑々そもそも何であったのであろうか。
 ツルゲーネフは、そのことに関し回想記の中でこう書いているそうである。「私は自分の憎むものと同じ空気を呼吸することが出来なかった。それには性格の強さが足りなかったのであろう。わたしは敵に対してより強い打撃を加えるために、自分の敵から遠ざることが必要であった。この敵は私の目に一定の現象を備え、一定の名をもっている。――それはほかならぬ農奴制度である」
 これは彼の心持の真実の一面であろう。ツルゲーネフはゲルツェン会の伝統をもってニェクラーソフ、ベリンスキー等とともに西欧派に属するユートピア的社会主義者であり、当時のロシアよりも早く資本主義が発達しているヨーロッパ諸国、特にフランス・インテリゲンツィアの理想主義的解放論に深く影響されていた。その上彼自身が率直に認めている性根の弱さ、そして彼に関するあらゆる伝記者がツルゲーネフの進歩的なものに対する敏感さとともに特筆している意志の弱さ、優柔不断な気質などが作用して、彼は同時代の西欧派に属する芸術家、思想家でもニェクラーソフやベリンスキーがしたように、ロシアの中でツァーリズムの暗黒と日夜闘いつつ果敢に新しい時代を啓いてゆく仕事に従事することには堪えず、自身は遠のいてパリからの目で「ロシアの破船的状態」を憂わしげに観察し、そこから無限の努力を経て頭をもたげ新しい歴史を担おうとする若いロシアの男女のタイプを観察し、小説に描くことになったことも理解されるのである。
 ブランデスは、同じ評伝の中で、ツルゲーネフがロシア散文家中最大の芸術家となったと思われた理由をこう云っている。「それは彼等のうちで、彼が一番多く外国に住ったからのことであろう。彼が本国から齎した詩の泉は、永くフランスに滞在したことによって増されはしなかったが、それによって彼の芸術を硝子と額縁とに入れる術を学んだのである」と。
 この観察は、ツルゲーネフの生涯とその文学活動を理解するために非常に深く鋭い示唆を含んでいると思う。何故ならば、パリの半移民として獲得したこの術によって、ツルゲーネフは「ルージン」を、「その前夜」を、そして「父と子」、「処女地」などを書いたのであろう。が、全くその同じ原因によって、これらの諸作は当時ロシアの現実に生き、生長しつつあった真面目で急進的な青年男女のタイプを真に描いているものでないという猛烈な反対を各時代の先進分子から蒙ったのであった。

 特に有名な「父と子」のバザーロフに対する読者の憤激は深刻なものがあった。ツルゲーネフは、様々に弁明したが、新しい合理的な社会組織を探求する献身的な六〇年代の青年男女の理想と実践とを、一面的な観念的な解釈によって歪め、妙に不自然なものとしてバザーロフの中に鋳かためてしまったのは今日みても否定し難い事実である。ツルゲーネフは「父と子」とを外国にあって、手帳の上で人工孵化した。チェルヌイシェフスキイの「何をなすべきか」のように、身をもって六〇年代を生きぬいて書いたのではなかった。一八六〇年の或る日、ドイツを汽車にのって旅行していたツルゲーネフは、その汽車の中で一人のロシアの医者に会った。その若い医者との会話のうちに彼は或る独創的な新しい世界観の閃きを認め、深い興味を感じたことがキッカケとなり、バザーロフという人物を思いつき、ツルゲーネフは「バザーロフ日記」というものを拵えはじめた。毎日の生活の中で何か際立った印象をひき起した事件や人物があると、ツルゲーネフは、彼がバザーロフのタイプとして型をつけた一定の考えかたにはめこんで、批判し、書きつけて行った。
 ツルゲーネフ自身の毎日の暮しぶりとは関係なく、このような方法でこしらえられたバザーロフが、畸形的であり、漫画的なものとなったのは、さけがたい当然の結果であろう。「父と子」において六〇年代の溌剌たる青年男女をとらえようとしたツルゲーネフは、自分たちを現実主義者と名づけ、宗教、私有財産制、そこから生じる一切の不合理、暗愚と偽瞞をとりのぞいて知慧の光に輝く社会の共同生活を発見しようとしている若い急進的青年を「ニヒリスト・虚無主義者」という名で、批判したのであった。保守派、反対派は欣喜雀躍してツルゲーネフのそのよびかたを、それから適用するようになった。ツルゲーネフは最も急進的な作品を描こうとして、実際においては反動的効果に陥った。
 ところで、こんなにもツルゲーネフの一生にとって重大な意味をもっているパリは、何によって彼をそのように牽きつけ、魅惑したのであろうか? 果して、ツルゲーネフが回想に書いているだけがその全部の理由であったのだろうか。

 ここで、我々の前に、パリに住んでいる声楽家でありピアニストであり、作家ルイ・ヴィアルドオの妻であるヴィアルドオ夫人の存在が浮び上って来る。ツルゲーネフは彼より三つ年若いヴィアルドオ夫人が、ペテルブルグへ演奏旅行に来たとき知り合いとなった。このヴィアルドオ夫人こそ、「彼の半生以上をその傍に根つけにしてしまった」魅力の根源なのであった。既に一八四八年、三十歳のツルゲーネフは家庭の友としてヴィアルドオ夫妻とヨーロッパ旅行をやっている。その前年、ツルゲーネフに少年時代から沁々農奴生活の悲惨を感じさせた専横な女地主である母親が、外国で日を暮しているツルゲーネフに立腹して送金を拒絶した時、彼を助けて金を出してやったのは、ヴィアルドオ夫人である。
 ヴィアルドオ夫人の美と才能とに対する傾倒、崇拝、女としての魅惑に対する愛着はもとよりのことであったろうが、ツルゲーネフはこの中流出身で芸術家としての処世上の苦労も知っているヴィアルドオ夫人なしでは全く何をどうすることも出来なかったらしい。ツルゲーネフは実際的などんなことでも夫人に相談し、その処置については云われるとおりにした。彼は、恐らく勝気で賢くあったであろう自分の美しい支配者に悉く満足し、ヴィアルドオ夫人の舵とりにまかせた安易な生活の幸福に浸った。友達が世渡りの辛苦を訴えると、真面目に答えた、「僕がしているとおりにしたまえ、私は支配せらるるままにしている」と。
 これには流石さすがのブランデスも些か驚歎して、「純粋のスラヴ人で、感受性に鋭く、智的に多産でありながら、殆ど意志の力を欠いていた」ツルゲーネフであったから「彼は自分の生活に美しい支配者を得て幸であった」と云っている。
 今日の目で見れば、ツルゲーネフの顕著な特徴となっている意志の力の欠乏を一口にスラヴ的と概括することは出来ないことである。同じスラヴ人の同時代人には二十年の流刑に堪えたチェルヌイシェフスキーをはじめ、七〇年代八〇年代以降今日に至るまでに、人類の中で最も堅忍と不撓不屈の意力によって歴史を押しすすめた更に多くの誇るべき大人物がスラヴ人の中から出ているのだから――。
 ツルゲーネフは、このヴィアルドオ夫人にめぐり会うまでに、多くの女を知っていた。二十歳前後でベルリンにいた頃は、ある裁縫をする小娘といきさつがあって、一緒に住んでいたバクウニンを大分煙ったく思った経験があるらしい。
 ヴィアルドオ夫人と知ってから後もロシアに住んでいた五〇年代の初め三年間ばかり、ツルゲーネフは非常な美人であるが、文盲な農奴の娘であるアブドーチャ・イワーノ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)と同棲していたことがある。アブドーチャはツルゲーネフの娘を生んだ。ツルゲーネフは結局この女を捨てた。後、娘が二十を越して或るフランス人と結婚するようになった時もツルゲーネフはその娘の母であるアブドーチャの行方は知らなかった。地主の旦那であるツルゲーネフにすてられてからその女は、どこかの目立たぬ役人の妻となって暮していたのである。この農奴の娘に対する無責任な交渉も、ツルゲーネフにとっては、のちのちまで心にかかるような深刻な問題として印象にのこる種類のものではなかったらしい。
 こういうたちのツルゲーネフを器用なヴィアルドオ夫人が自身の芸術上の教養やパリの爛熟し、錯綜した社会の間で練られた世渡りの術やによって、こまごまと、嘘とまことを綯いまぜつつ賢く統帥して行ったであろう光景は、さながら一幅の絵となって髣髴と目に浮ぶようである。ヴィアルドオ夫人は「従妹ベット」がパンセラスの仕事を督励したとは別の方法で、言葉で、宝石の沢山はまった奇麗な白い手で、恐らくはツルゲーネフの芸術活動と、その成功を刺戟し、部分的には精神的共働者でもあったであろう。ぐうたらなツルゲーネフが「全生涯を通じて、少年時代の自由の信念を忠実に持し得たのは偏にヴィアルドオ夫人のおかげである」。
 たださえ「力よりも寧ろ優美さにおいてまさる」文章をかくツルゲーネフが、上述のような生活環境にあって、作中に女の人物を書く場合特殊な情緒の集注をもって描いたのは自然なことである。
 ヴィアルドオ夫人とのこの独特な結合は、ツルゲーネフを一種の恋愛偏重論者にしたかのように見える。彼は、男でも女でも、それぞれの人物が人間として最も光彩を放つのは、それぞれの人物が日夜たずさわっている仕事の裡においてではないと考えた。人はただ恋愛においてだけ個性の輝きを示し、独創性をも発揮し得るものである。ツルゲーネフはそう確信していたらしい。多分「ルージン」に対してであったと思う。同時代の批評家が、ルージンが既成の社会と闘争してゆく日常活動の様々の面が作品に扱われていないことについてそれを遺憾とし、批判した時もツルゲーネフは、自身の恋愛一義的態度を主張したのであった。
 ツルゲーネフのこの見解は、彼の死後十八年を経て、恐らく彼自身予想もしなかったであろう、一人の同感者を見出している。ロシアの歴史的なアナーキストであり、地質学者でもある公爵ピョートル・クロポトキンが一九〇一年に、ボストン市で「ロシア文学の理想と現実」という講演をやったことがあった。そのときクロポトキンは、ツルゲーネフの諸作品の重要なモティーヴが殆ど皆恋愛におかれていることに聴衆の注意をひき「ルージン」の扱い方では作者にすっかり同意を示した。クロポトキンは、語調に熱さえふくめてこう云った。「マッジニイとラサールは同じような仕事をした。しかし彼等はその恋愛において、如何に異っていたであろう! 諸君はラサールとハッツフェルド伯爵夫人との関係を知らずしてラサールを識ることは出来ぬ。」と――
 成程、われわれは、帝政時代のロシア貴族階級が生んだ国際的な作家の一人である伯爵イ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)ン・ツルゲーネフの生涯を語るには、彼の娘を生んですてられた美しい、字の書けない農奴の娘アブドーチャの存在を知らなければならない。更に、彼の半生を支配してパリにしばりつけるほどの魅力の根源となった婦人、彼によって描かれるばかりでなく、彼をして書かしめる力となった活溌な、美貌の歌手ヴィアルドオ夫人との微妙な関係を知らねばならない。
 しかしながら、現実の生活において何が彼等を斯くもはなれ難く結びつけたかといえば、それはツルゲーネフやクロポトキンが文学的には書く価値のないものと考えた、日常の仕事を中心とする生活環境そのものではなかったろうか。
 ツルゲーネフが二十を越したばかりのロシアの富裕な貴公子で、天性優美と不決断とを持った西欧主義者として当時ペテルブルグの華やかな社交界に余暇の多い日々を送っていたればこそ、舞台以外のヴィアルドオ夫人と親しくする機会をもち、彼とは対蹠的であったらしい夫人の溌剌とした性格、処世術の魅力によって、生涯を支配されるに至ったのである。
 恋愛において個性が燃え立つのは、恋愛があらゆる場合、その個性の属する社会層の思想、習慣等の集約的表現だからである。様々の階級的感情、社会の一般的情勢に制約されつつ、或る者は恋愛をモメントとして自己の階級から脱離し、或る者は一層かたくそれと結合する。その相剋の間に、各々の個性が最も覆いもなく独特の調子、やりかたをもって発動し、それを大きく社会的に観れば自分の所属する階級の崩壊へ、或は前進への必然の道を遂行するのである。
 ツルゲーネフは、恋愛を制約する社会性というものの力を洞察し得なかった。当時のロシアの民衆の生活はゴーリキイの幼年時代によって明らかなように野蛮な暗い農奴制ののこりものである家長制に圧しつけられていた。農民、労働者の間に個性の自由や恋愛ののびのびした開花は無智と窮乏によって、貴族と小市民との間にあっては封建的なしきたりで、それが凍らされていた。
 個性の解放を欲求した面でツルゲーネフは全く生々しい若いロシアの要求を表現したのであるが、それを恋愛の行為にだけ納めて自分から納得したところに、彼の徒食階級の作家らしい非現実性が見られるのである。
 ツルゲーネフの見かたに従うと、或る一つの恋愛がこの社会にあって歴史の発展とどういう関係で結ばれているかということは、作品の主要な問題ではない。恋愛のいきさつ一般が人生の波瀾の中心事であると考えられている。従って、作者の腹に入って見ると、「その前夜」に描かれている恋愛の本質を「春の水」のマリヤの気まぐれな恋愛と比べて見た場合、どちらが社会的な価値において高いという、はっきりした選択と主張はされていない。
 あれを書き、これも書きという風にツルゲーネフは、自分の気分に応じてそれぞれ全く相反する「父と子」や「煙」を書いている。
 ロシアの急進的な若い男女は、階級と階級との益々明らかな対立、そこから生じる現実の烈しい鍛錬によって、「ルージン」の時代から「その前夜」「処女地」へと推移した。ツルゲーネフも、それにつれて外側から観察しそれぞれの時代の作品を書いて行ったが、パリにおける自身の生活の実践ではヴィアルドオ夫人に支配され、始めの時代のものうい形態から本質的には何の飛躍もしないままに残ったのである。
 同じように婦人のために生涯多くの経験をもったバルザックの生きかたとツルゲーネフの生きかたとを思い合わせると、私は実に活々した興味と教訓とを覚える。
 ツルゲーネフより十九年上のバルザックは、ベルニー夫人やアブランテス公夫人との様々な交渉の間に、自分の経済的必要から、種々の或る場合は極めて筋のあやしい事業にまで手を出し遂に悲劇的な生涯を終ったが、それらの社会的実践の間にバルザックは嶮しく現実の社会で対立する利害と渡り合い、あのようなリアリストとして、自身自覚しなかった役割を歴史の上で果した。
 ツルゲーネフは、自分の社会生活においての消極的な面、従って作家としても非現実的に陥り易い面を一番傷けず、苦しめずにおく温床のようなヴィアルドオ夫人との交渉の裡にすっかりうずまって、自分の文学的才能にだけたよって暮した。彼はパリへまで吹きつけて来るロシアの若い時代の嵐を、自身は温室の硝子の内から観察したのであった。

 ツルゲーネフが、女を非常に同情的な態度で描いたことは、彼の作品の顕著な一つの特色であろう。私達はヴィアルドオ夫人がツルゲーネフに与えた深い影響をそこにも感じるのであるが、果して同時代の急進的な若い婦人達は、どんな感想をもって、ツルゲーネフによって描かれたエレーナやマリアンナを読み合ったであろうか。
 七〇年代、八〇年代といえばロシアは「人民の中へ」の運動から「人民の意志」党などの活動へ移った時であり、有名なヴェラ・フィグネルなどを先頭に夥しい数で社会の各層の若い婦人が解放運動に身をもって投じた時代である。世界的な権威ある数学者で、魅力のある文章をも書いたソーニャ・コバレフスカヤが、まだ若い娘で勉強のため教授コバレフスキーと旅券結婚をしてスウィスへ行ったのもこの時分のことである。これらの、ロシア的情熱に燃え、つよい意志をもった新時代のチャンピオンたちは、本当にどんな感想で、あまり単純でロマンティックなエレーナを、或は何か非現実的で丸彫りでないマリアンナを、自分たちの激しい前進的な生活とひきくらべつつ読んだであろうか。
 ツルゲーネフの諸作品が、所謂「美文学」としてハンディキャップをつけてよまれ、一方チェルヌイシェフスキイの「何を為すべきか」が行動の指針として有能な若い男女の間で読まれたということも、おのずから今日肯けるのである。
 ツルゲーネフとトルストイとの衝突は既に文学史的な出来ごとである。二人の大作家が十五年間も意志の疏通を欠いたばかりか、或る時は本気で決闘までしかねまじい程激昂したには種々の原因があったに違いない。が、対立の原因となる多くの見解の相違中のただ一つ、恋愛や婦人に対する二人の考えかたの違いだけを見ても、私は十分ツルゲーネフとトルストイは和睦のない対立に置かれたであろうと考える。
 何故なら、ツルゲーネフは、恋愛や婦人についての見解においてはどこまでも所謂西欧主義者である。フランスの一応恋愛を尊重するかのように見える習慣、婦人に対してつくす男の騎士道などというものを疑わず、その上に安住して、流麗な、傍観的態度でどっちかといえば甘い、客間で婦人たちに音読してきかせるにふさわしいような文章の作品を書いて行く。
 社会的な光に照して見れば、彼とヴィアルドオ夫人との結合にも、いろいろの問題がふくまれている筈である。然し、ツルゲーネフは生活的な力で例えばその点にさえ突こんで行こうとせず、謂わば当時のブルジョア的な社交界の調子の低い物の見かたに跟いて、起るべき自身の苦悶をやり過して暮している。
 芸術家としては最小抵抗線を行くものであるツルゲーネフのこの態度が、血気旺なトルストイを焦立たせたということは、実によくわかる。ツルゲーネフがヴィアルドオ夫人やその夫と共にパリの客間で「スラヴ人の憂愁」について語っていた時分、十歳年下のトルストイはセバストウポリの要塞で戦争の恐ろしい光景を死屍の悪臭とともに目撃していた。パリでトルストイに一生忘られない戦慄を与えたのは娼婦のあでやかな流眄ではなくて、ギロチンにかけられた死刑囚の頭と胴とが別々に箱の中にころがり落ちる時の重い響きであった。トルストイは作家仲間と酒をのみ、ジプシーの歌をききながらも、ツルゲーネフがそれを疑わず、それによって苦しみもせず平然としているばかりか、或る点では尊崇さえしている資本主義ヨーロッパ文明そのものに、猛烈な懐疑をひき起された。その文明にある酷薄な偽善を観破し、終生つきまとった苦悩に足をふみ入れている。
 女というものをも、トルストイはツルゲーネフの考えていたように、純情、献身、堅忍と勇気とに恵まれたもの、その気まぐれ、薄情、多情さえ男にとって美しい激情的な存在という風に理想化して理解してはいない。もっと動物的に、或は愚劣に、或は恐ろしく、美醜をかねそなえた具体的な人間の女性として把握している。
 水っぽいサロン的常識の埒を越えないツルゲーネフのそういう考え方にトルストイが癇癪を爆発させたであろう様子を想像すると、思わず破顔さえ覚えるのである。トルストイは、食いあき飲みあき懶怠にあきた上流社会の美しく装った男女が、馬車の中で、花園でする恋愛に一つの社会的腐敗の悪臭をかぎ出している。持参金つきの商略的結婚制度に、外見上の一夫一婦制に、大きな虚偽を見出している。
 これらの、本質においては極めて健康なそして尊敬すべきそれらの懐疑を発展させて、解決させるに当って、トルストイは自身の大地主、大貴族的生活からの考えかたや感情に制約され、すべてを人類の霊魂の高まりによって解決しようとした。そして宗教へささり込んだ。トルストイは、自身の全存在をかけて雄渾に且つ悲劇的に自身の懐疑ととりくみ、そのことに彼流の矜恃をも感じているのである。ツルゲーネフが、自身の生活はなまあたたかく動揺のないところに引こめておいて、傍観的な人生に突っこみの足りない態度で小説を書いて行くその生きかたが、トルストイには全く気にくわなかったのであろう。
 ガルシンはこの二人の喧嘩についてこう書いた。「ツルゲーネフの言によると、トルストイがツルゲーネフのことで一番癪にさわっていたのは、極めて冷静に文学的著作に従事しているその態度であった。」そして、「ツルゲーネフが善事に向って進むという、その善良なるものを絶対に信じなかったのだ」と。ツルゲーネフがガルシンに云った冷静という言葉の内容、トルストイが信じなかった善事というものの内容は、トルストイの側から見れば、大体以上のような性質のものとして映っていたのであったろうと推察されるのである。
 後年チェホフが、たしかクニッペルにあてた手紙か何かの中で、ツルゲーネフは俗人であるという意味のことを云っているのを思い出す。
「その前夜」や「処女地」のような作品の主題と、作者としての生活的実践との間にある深刻で鋭い社会的なギャップを、ツルゲーネフが或る種の通俗的な作家たちのするように苦悶なく滑って行っているところを見ると、チェホフの短い評言は、ツルゲーネフにとって痛い一本のモリであろう。有名なドン・キホーテとハムレットとの考察も、彼はそれを自身の現実に組みついて来る熾烈な積極的な要素の上に立つ懐疑として行ってはいないのである。

 トルストイが、社会の矛盾の根源を人間の本能に帰して、当時のロシアの解放運動とそこに生き死んだ卓抜な男女の生活に冷淡であり、ツルゲーネフが、却って彼の受動性、感受性によってそれらの新しい社会的現象に注意を喚びさまされながら、しかもその受動性によってヴィアルドオ夫人とパリとの生活から離れられず、真実にロシアの新しい人間の価値を知ることが出来ずに「父と子」も「処女地」をもその主題の故に不朽であると共に同時代人から受けた巨大な非難の故に有名な作品として残しているというのは、意味深い事実である。
 今から見ると、ヴィアルドオ夫人の力は、ツルゲーネフにいくたの作品を書かしめた力であったと同時に、多くの作品の中で最も歴史的に積極的な価値をもつ主題の大きい作は、遂にそれが書かれなければならぬようには書かせぬ力となっていたことがわかるのである。
 晩年、健康を害したツルゲーネフは「処女地」以後のロシアの解放運動の流れに対する関心からはすっかり離れ、懐疑的な「散文詩」「クララ・ミリッチ」などを書いた。
 ツルゲーネフの遺骸がロシアにかえって来た時、官憲はその葬式を大衆的にやることを禁じた。ロシアの政府は、実践的には様々の問題をふくんでいる一作家ツルゲーネフの葬式さえ公然とその市街をねり歩かし得ない程自身の矛盾によって危くされ、大衆を恐怖していたのであった。
〔一九三四年十一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「文化集団」
   1934(昭和9)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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