去年おしつまってから肉体派小説、中間小説の作者と一部の作家・批評家との間に、ちょっとしたやりとりがあって注目をひいた。
 その討論に、三好十郎も出場して「小豚派作家論」という題をもつ彼一流の毒舌的な評論をかいた。肉体派、中間小説派の作者たちとその作品のそまつな戦後的商品性を、へど的にむき出してその安価さを排撃した。けれども、「小豚派作家論」と題してきり出された勇ましいその評論も、すえは何となししんみりして、最後のくだり一転は筆者がひとしおいとしく思っている心境小説の作家尾崎一雄を、ひいきしている故にたしなめるという前おきできめつける、歌舞伎ごのみの思い入れにおわった。ジャーナリズムの上に一年間も八方に向って文学的へどをはきつづけることのできた強壮な三好十郎が、どうして「小豚派作家論」の終りは、そのように我からしんみりとなって、とどのつまりは尾崎一雄におもてを向け、結局君なんかがもうすこし、しっかりしないからいけないのだ、と半ばたしなめ、半ばあきらめて歎息することになったのであったろう。
 三好十郎は、いわゆる肉体派作家、中間小説を主張する作家の多くの人々の人生態度と作品の安易な商品性を明らかに軽蔑する。けれどもその軽蔑にもかかわらず、他の一面では、彼の名づける小豚派文学の、発生の社会的起源について、否定しきれないものをもっている。はげしい前線の生活も経験して来た壮年の一部の作家たちが、戦後日本の錯雑した現実に面して、過去の私小説的なリアリズムの限界の内にとどまっているにたえないのは必然である。日本の社会現実を全面的にすくい上げようとして彼ら一部の作家たちは新しい投げ網をこころみている。少くとも、その必然と大胆さは認めてやらなければならない、と。過去の私小説やそのリアリズムにあきたりない思いは、三好十郎自身のうちに烈しく存在している。その共感にひかされて、三好十郎の毒舌も、しまいはブツブツ、現在の肉体派や中間小説が、現代文学の新しい局面を展くためには、無益であるばかりか有害でさえあるという事実を批判しきれなかった。
 その討論の時期に、伊藤整も東京新聞の文芸欄で発言した。肉体小説、中間文学に対する彼のもの言いは、非常に機智的であった。否定するかとみれば、一部の肯定もあり、さりながら単純な肯定一本で貫かれているという見解でもなかった。伊藤整を、そのように複雑なもの云いにさせたのは何であったろう。彼にも、過去のリアリズム否定と、狭い日常性に封じこまれて来た、日本の私小説への反逆がある。彼の知性が、よりひろく、強靭であろうと欲している、その角度から少くとも、私小説的な要素を否定している意味での中間小説に対して、単純な断定をさけさせたのであったと考えられる。
 昨年十二月号『群像』の月評座談会で、林房雄は、宇野浩二の書いた「文学者御前会議」(文学者が天皇に会ったときの記録)にふれ、宇野という作家の私小説的作家性をやっつけた。人も知る天皇主義者である林房雄は、宇野浩二というその人なりのリアリストが、その人なりのリアリズムで天皇とその周囲の雰囲気をなみの人間の目やすから観察し、描き出したのを、文学のために生活そのものをたねにする私小説作家気質と罵った。吉田健一の「英国文学論」を引いて、イギリスでのように文学は日常生活のふち飾りであるべきだと、林のこんにち的内容をもった「大人の文学」論をのべている。そして、同座の中野好夫に向って、あなたもこれから批評家としてやって行くためにはこの点だけはよく心得ておきなさい、といった意味を、きわめて高びしゃに申しわたしている。批評家中野好夫は、林の僭越さにむっとしたからこそ沈黙をもって答えたのだったろう。しかし、読者としては、中野好夫が沈黙で答えたもう一つの理由も感じとられなくはなかった。中野好夫の場合にも、前にふれた二人の作家と同じように、私小説と私小説的リアリズムを否定している自分が自覚されている。その自覚におさえられて宇野のリアリズムは別の問題として林のこんにちの「大人の文学」論の本質に迫ることをしなかった。
 昨年は一般に批評の沈滞した年としてかえりみられている。民主主義文学運動が沈滞して、批評の沈滞がひきおこされた点からだけ見ようとしているひともあったようだ。しかし、批評が無力であった根本の原因は、ある人のいうように、民主主義文学も「たかがしれた」からだけではない。戦後、すべての批評家・作家・読者は過去の私小説とその手法では再現されきれない社会の現実とその心理があることをいら立たしく意識しているのに――肉体派小説、中間小説の商品性に対してはおのずから批判が感じられているのに――さて、それならば爪先をそろえて颯爽と、どのようなより社会的な創作の方向に進んでゆくかとなると、三好十郎のところでも、伊藤整のところでも、自身の文学の課題として解決が見出されていない。したがって、批評家である中野好夫の足も、私小説とその方法の否定という線であしぶみをくりかえすことになっているからであった。
 現代文学における各作家の社会認識或は社会感覚と各自の創作方法との間には、おおいがたいギャップがある。その歴史的な亀裂の間から、肉体派小説論、中間派小説論が日本小説のフィクション性を主張して湧き出たが、その文学の空虚な実体があきられて、記録文学の流行を導き出し、その目新しさも忽ち古びて現在では実名小説がはやりはじめた。その実名小説も多くは、高見順をして「これはなかなか死ねないぞ」と苦笑させるほどの人生的文学的程度である。
 こんにち、文壇の作家たちが、めいめいの特色となっている角度やニュアンスを失うまいとしながら社会の現実観と自己の創作方法との間に生じている悲劇的な裂けめにはさまって苦闘しているばかりではない。現代文学のその裂けめから、おびただしい土砂崩壊がおこっている。それがより若い文壇の世代の足を埋めているばかりか、不可避的にそれらの文学の読者であるよりひろい人民層の中から新しく別個の社会的素質をもってのび立って来ようとしている民主的な文学の芽生えさえも、その成長を歪め、畸型にする作用を及ぼしている。いわゆるかすとり小説の影響がどんなにひどいかということは、さきごろ国立癩療養所の病者によってつくられた作品集をよんでも、まざまざと感じられた。これらの不幸な人々は、自身の不幸についてさえまともな人生問題、社会問題として正面からとりくむ態度を、いわゆる流行小説の手法にはぐらかされている。安価なフィクションとよみもの的な情景の設定で、人間の悲痛を猟奇にすりかえてしまっている。
 勤労者としての生活を営んでいる人々の「文学ずき」が、同じく現代文学におこっているなだれの下じきになっている。そして「細雪」は「天然色映画のようにたっぷりして、刺戟がなくて、たのしめるもの」(東京新聞)として数十万部をうりつくしていると語られている。ある種の人々は、日本の現代文学を植民地化される人民の日常生活のふち飾りと化して、現実の生活では見たこともないのびやかな生活の語られる白昼夢のようなものにしてしまうことをいとっていない。むしろそれに拍車をかけている。けれども、ここに一つ、人間の理性と文学の真実にとって、おもしろい現実がある。それは、ひごろ「細雪」の世界に随喜して、最大限のほめ言葉を惜しまない人々でも、ノーベル賞、世界平和賞のために日本から送られるべき候補作品としてはただ一人も「細雪」を推薦しなかった事実である。炬燵こたつの中の雪見酒めいた文学の風情は、第二次大戦後の人類が、平和をもとめ、生活の安定をもとめてたたかっている苦痛と良心に対して、さすがにあつかましく押し出すにたえ得なかったのであった。
 この実例は、ある人々の日ごろの社会的、文学的態度の安易さがばくろされたモメントとして見るよりは、むしろ、現代文学のこの崩壊にかかわらず、やはり文学につながる理性と人間的良心のうちには、くらましきれない責任感がのこされている、という角度から観られてよいと思う。なぜなら、この一つの事実の中にも、現代文学に要求されているのは、社会性であるという確実な証拠があらわれているからである。
 三好十郎の毒舌が呟きに終り、中野好夫が沈黙するのも、現在より多く否定的な文学現象でしかあらわされていない文学の動きの中にさえ、明日の文学がよりひろい社会的実在として展開することを期待する心が働いているからである。
 民主主義文学の運動が、この四年間の活動にもかかわらず、こんにち、現代文学全般のこの危期に、必要なだけ積極的影響をもち得ないでいるということが許されるだろうか。
 一九四七年・八年・九年と、新日本文学会の批評活動は、表面からみるとたしかに下り坂を辿った。民主的な文学運動と互にかかわりあうものとして現代文学の全野に亙って作品を評価し、文学現象をしらべ系統的発展のために発言する能力は、すくなかった。けれども、これは、あながち新日本文学会の批評家・評論家が全く無力であったということにはならない。
 一九四六・七年には日本の民主革命の目標がやや曖昧に示されていた。したがって、民主的文学の成長をたすけるために主導力たる階級の文学をおし出し(プロレタリア文学の伝統を発展的にうけ入れること)、同時にその連関をもって具体的に現代文学の全野にふくまれているより大きい社会性への可能を、それぞれの道の上に安心して花咲かせるために協力するというよろこばしい活力を発揮し得なかった。
 一九四七年以後は、総体として日本の民主革命の目標の不明瞭さはそのままで、一方から民主主義文学は即ち労働者・勤労者の経済・政治闘争に利用されるものでなければならないという一面に傾いた見解がつよくおこった。ある種の文化・文学活動家たちがこの見解の支援のためにうごかされたことも、職場の文学サークルの分裂がある意味ではそこからひき出されたことも、この数年間民主主義文学運動にたずさわって来ていた人が公平にかえりみるならば、すべて理解するとおりである。
 ジャーナリズムにはあらわれることのなかったこの期間の努力で、民主的文学の基本的理解の転覆は防がれたのであった。昨年の新日本文学会第五回大会で行われた窪川鶴次郎の報告「批評の任務」は、少くともそのようないきさつを経た上での報告であった。同時に、この第五回大会は、民主的作品をこめる現代文学の創作に関しての報告をぬきにした。その点で最もつよく新日本文学会の弱点の示された大会でもあった。

 わたしたちは、率直に、民主主義文学批評の方法は、こんにちではさびついた部分をもっているという事実を認めていいと思う。多くの民主的批評家を我ながらぎごちなく感じさせているにちがいないさびつきの徴候は、一九四七年第三回新日本文学会大会にあらわれた。この大会で民主的な文学作品について報告する責任をもった佐多稲子は、小説部会の評価が各作品について全く対立的である場合が多い、評論部会は、民主的文学の評価の基準について検討をするように、と要求した。評論部会はそれを課題としたわけであったが、様々の理由からそれはたやすい仕事でなかった。民主的な評論家たちの次のより深い危機は、太宰治の死に際して歴然とした。太宰治は、現代の広汎な読者の心理に影響をもっているから、簡単にやっつけてはいけないというような理由で、民主的評論家の発言がひかえられた。
 考えてみれば、これほど妙なことはないわけだった。大衆の心理に――理性でもなければ、歴史的認識でもない破壊された生活気分に――つながるものであればこそ、民主的な批評家が、多くの人の、その気分とその気分を商品化する文学の枠の外から、太宰治という一人の人生と文学の悲劇らしいものを客観的に検討してゆく任務があるはずであった。しかも、発言をおさえる傾向が、民主的批評家はやっつけるだけ、という風な自己評価から出発しているとすれば、批評家は、自分たちの批評の方法について、重大な省察と再検討をするべきであったと思う。だが、それはなされなかった。波は岩の上をザーと流れただけだった。
 文壇的な評論家や批評家が、私小説とそのリアリズムを否定した先の創作の方法について、より社会的なひろがりにたつための具体的前進の道を示しかねていたこの年々、文学上のひろばである創作方法の研究は、民主的批評家たちによっても、決して十分鋤きかえされたとは云えない。プロレタリア文学運動は一九三二年ごろまでに、一応社会と文学、階級と文学、世界観と文学、文学の客観的評価の基準、文学の課題と創作方法などの関係について原則を見出した。その原則を原則なりに新しい文学の基礎認識として普及しようとしていた時代の社会科学的批評の方法を、一九四五年以後の民主的文学運動はどのように発展させることができただろう。新しい現実にふさわしくしなやかで、機能の高い関節をどんなにふやすことができただろうか。まけおしみぬきで、事実を事実として見るならば、民主的文学運動におけるこの地点には、思いのほかの地すべりがある。
 太宰治の死に際して、受動的な形であらわれた民主的批評の実質についての危機は、つづいて一昨年の初夏、多くの文学者が、反ファシズムと戦争反対の要求にたって民主的陣営との統一的な動きにすすんで来てから、今日にまでの民主的批評家の活動にあらわれている。
 こんにちファシズムに反対し、世界平和を求め、原子兵器使用の惨虐に抗議している文学者は、その数において、科学者よりも少いとは考えられない。これらの文学者は、それぞれ日本と世界平和とすべての民族の独立のためのアッピールに署名しているし、ふさわしいと考えられる団体に加わってもいる。けれども、文学者として、創作されつつある文学的成果が、同じひとの社会的行為としての平和運動への参加などと、まるでかけはなれたものであるとしたらどうだろう。場合によっては、彼の署名そのものを否定しているような客観性をもつ作品であるとしたら、その矛盾は何と見られたらいいのだろうか。科学の研究は、その方法において個人の才能の発揮さえも集積的な経過をとる。文学の作品がうまれる過程は、どんなに社会的であるにしろ個人的である。(佐多稲子が「わたしたちの文学」で云っているとおり創作の過程、手つづきとしてはそうである)。だが、文学は、遂にはそこにとどまらないで社会的なものとして実在しつづける。古典文学が歴史に耐えて生きつづけている秘密はここにある。そのように、文学はどんなに社会的であっても個人としての過程を通過してでなくては生れず、社会的なものとして実在することもあり得ない本質であるからこそ、現代文学に求められている社会性の課題の困難は複雑なのである。
 これは、文壇的な経歴の中にある作家ばかりが感じている困難ではない。民主的な文学の領野にも深刻にあらわれている。民主的な評論活動の任務は、そのどちらの困難も具体的にとりあげて、民主的方向の独自性に立ちながら、現代文学の全般に見られる社会認識、あるいは社会観と文学の方法との分裂から、作家を救い出すことにある。現代史のふたまたにかかってひき裂かれるにまかせておいたり、さもなければ、生きようとする本能と最少抵抗線をたどりやすい日本の精神の体質にまかせて、どっちかの木の股にすがりついてしまうにまかせておくことは歴史の前に許されない。その責任を痛切にわが日々の文学活動において感じれば、民主的批評の方法が、もっともっと民主的人民の理性として、その感情にまで血肉化されたものとならなければならないことを見出さずにいられないと思う。民主的批評は、よい文学として、それをよむ人々の胸に訴え、おちいっている矛盾からの発展的脱出を意欲させ得るものでなければならない。批評も、平和のためにたたかい民族の愛のためにたたかいつつある人民的な人格の力と火とをもたなければなるまい。

 過去の文学に生い立った作家のもっているいくつかの困難の一つは、その文学の根がただ一つ個性をよりどころとしていて、より社会的なものを展望しても、展望そのものが性格の枠を脱しきれないところにある。知性さえも先ず個性的な造型であらなければならなかった。
 民主的な文学をこころざして生れようとしている作家たちにとっての困難は、人民的な立場として共通な現実観の客観的な同一性(階級の人としてだれも大体同じな世界観)のうちに、集団的行動とその経験のうちに、その人としての人間的実感、人生への発言をどのように整理し表現してゆくかという課題である。民主的な文学のきのう、きょう、そして明日を通じてこの困難は簡単であり得ない。なぜなら、職場で積極的な労働者は殆ど常に組合であれ何であれ、自分たちの組織で有能なひと達であり、ある意味で指導的な人たちである。すべての組織の活動がその日々の現実において、いつもその人にとって歴史における労働者階級の任務のよろこばしさ、勇気、よりひろく高い階級の知慧の感じで実感されるとは限らない。当然矛盾が見出され、失敗とよばれ成功とよばれるものについても疑問が湧き、自分と周囲との見くらべがおこる。それこそ、階級人としての精神――肉体あるイデオロギーの成長のモメントである。ところが、かりに、その人が労働者であり、組合員であり、また他の組織に属しているという条件から、その多忙な活動について、むずかしく考えることなんかいらないんだ、云われることさえどんどんやればいいんだ、という風に習慣づけられるとしたら、そのひとの階級人としての成長とその文学の可能はどうなるだろう、ここに階級的民主的文学のむずかしい現実がひそんでいる。
 労働運動の波が高まった年々の間に、たくさんの職場から若い作家が生れかけた。小説は、勤労する人民としての個々の日常生活を題材とし主題としたものが多かった。組合活動とはなれる職場作家という問題は、その根源に、文学のそとの複雑な基本的諸問題をふくんでいる。民主的な文学の陣営に属しているいくたりかの既成作家の文学活動がそのよくない影響によってそういう結果をひき出しているという強弁が一時流布したことがあった。そして一方に、文学に対する経済主義の偏向があらわれた。民主的評論、批評の活動は、あやまった一方的な見かたを正しい関係におき直すために多くのエネルギーを費さなければならなかったが、いわば、そこで息切れした。田中英光の「オリムポスの果実」からはじめられて「少女」「地下室にて」を通り「野狐」その他に到った過程の検討を、民主的批評がとりあげることも必要であった。しかしそれはたいしてされないままであった。現代文学はいつの時代よりも創作態度が意識的になっている。その意識性は、現在大部分がそこに陥っているように商品としての独自性を形成してゆく意企として存在するばかりではないはずである。
 私小説的リアリズムを否定したからと云って、いきなりシュール・リアリズムと社会主義的リアリズムとが対決をもとめられるという現実もあり得まい。社会主義的リアリズムは、度のくるった近眼鏡のように一定の距離をもって遠くにあるものを目まいのするほど近づけて見せる方法でもないであろうし、魔女の箒のように、一定の観念にまたがって、歴史の現実をとび越すすべを奨励するものでもないはずである。社会主義的リアリズムを、別のことばで表現すれば、それはとりもなおさず、前進する人類社会の歴史の見とおしにたって、いりくんで発言されている階級及び個人の主観的主張の裏にまでかいくぐり、現実の諸過程の様相と本質(表現と主題、題材と主題)とを統一的に把握し再現してゆこうとする客観的な方法である。民主的文学運動は、靴の中に一つの痛い魚の目をもって歩いている。文学における政治の優位性という概念規定の非科学的な、したがって非現実的な解釈のしこりの疼きである。民主的な文学の困難さは、微妙な形で中野重治の「五勺の酒」にあらわれている。異った角度からいくつかの問題を示唆して「三度目の世帯」と島尾敏雄の「ちっぽけなアヴァンチュール」との対照、そこからひきおこされている批評の性格などがある。
 批評の基準の確立ということは、一本の棒ですべての作品をくしざしにする意味でないことは、云うまでもない。民主的な文学運動の方向にたって現代文学の全野のできごとに――もとより作品にふれて、絶えず活溌な照明を働かせ、それぞれ異った作品と作品との間に発見される課題を、作家と読者との前にはっきり示して、それについて作家と読者とが、現代に生きるという角度から精神活動をいきいきと刺戟され、自発的な一歩の前進を誘われずにいないような仕事の基準のわけである。
 民主的批評は、たしかに、新しくてしなやかに若い四肢をもとうとしている。多面的であろうとしている。しかし、それがたやすい仕事でないことは、たとえば『新日本文学』六月号瀬沼茂樹の作品評に示されていたと思う。瀬沼茂樹は去年の末、批評の無力論に抗して歴史の課題とてらしあわせて見る態度を失わなければ、錯雑した文学現象のうちに、おのずから見えて来るものはある筈だと語っている。しかし、六月号の批評では、大岡昇平がスタンダール研究者であるという文学的知識に煩わされて、その作者が誰の追随者であろうとも、作品の現実として現代の歴史の中に何を提出しているかという点が、力づよく見きわめられなかった。火野葦平の「悲しき兵隊」、林芙美子の「軍歌」をまともに分析検討しないなら、文学者の平和運動への協力は、どこに実感の真実性をもつだろう。佐多稲子の作品をかたるとき、批評は生活派らしい座りかたになり、地声となっているが、論点は作者と読者を肯かせるところまで掘り下げられていなかった。大岡昇平、火野、林などの作家にふれた前半と後半とはばらばらで、きょうの日本とその人民が歴史的におかれている大きい背景をもって諸作品が有機的に評価されるためには何かが足りなかった。
 創作の方法は、世界観から規定されると云われたのは一九三〇年代のはじまりからである。しかし、生活と文学との現実にあるこの逆の道行きについていつ語られただろう。すなわち、創作方法は、その作家が歴史をどう生きるかの課題であるから、ある人々にとっては、創作方法の真摯で客観的な追究を通じて、より社会的な世界観への戸口をひらかれる可能もある、ということについて。――
 現代文学がよりひろくつよい社会性に解放されようとする意欲において真実ならば、現代文学のすべての創作方法が、きょうは、その研究のひろばにあつまって、文学の精神のより世界史的覚醒のために協力しあっていい時だと思われる。
 民主主義文学の「独自の線」は、現在の過程のうちに見えている。そのような要因を前進の方向でとらえ、発展のための仕事を準備し具体化してゆくことのうちに貫かれる。文学におけるたたかいとは、いつのときも、より歴史の真実とそこに生きるより多数の人民の実感に迫った作品を生み出してゆくことであり、生み出させるようなモメントを提出してゆくことであると思う。
〔一九五〇年八月〕

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「新日本文学」
   1950(昭和25)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。