是れより先き、平民社の諸友切りに「火の柱」の出版を慫慂せらる、而して余は之に従ふこと能はざりし也、
三月の下旬、余が記名して毎日新聞に掲げたる「軍国時代の言論」の一篇、端なくも検事の起訴する所となり、同じき三十日を以て東京地方裁判所に公判開廷せらるべきの通知到来するや、廿八日の夜、余は平民社の編輯室に幸徳、堺の両兄と卓を囲んで時事を談ぜり、両兄曰く君が裁判の予想如何、余曰く時非なり、無罪の判決元より望むべからず、両兄曰く然らば則ち禁錮乎、罰金乎、余曰く余は既に禁錮を必期し居る也、然れ共幸に安んぜよ、法律は遂に余を束縛すること六月以上なる能はざるなり、且つや牢獄の裡幽寂にして尤も読書と黙想とに適す、開戦以来草忙として久しく学に荒める余に取ては、真に休養の恩典と云ふべし、両兄曰く果して然るか、君が「火の柱」の主公篠田長二を捉へて獄裡に投じたるもの豈に君の為めに讖をなせるに非ずや、君何ぞ此時を以て断然之を印行に付せざるやと、余の意俄に動きて之を諾して曰く、裁判の執行尚ほ数日の間あり、乞ふ今夜直に校訂に着手して、之を両兄に託さん入獄の後之を世に出だせよ、
斯くて九時、余は平民社を辞して去れり、何ぞ知らん、舞台は此瞬間を以て一大廻転をなさんとは、
余が去れる後数分、警吏は令状を携へて平民社を叩けり、厳達して曰く「嗚呼増税」の一文、社会の秩序を壊乱するものあり依て之を押収すと、
四月一日を以て余は判決の宣告を受けぬ、四月二日を以て堺兄の公判は開廷せられぬ、而して其の結果は共に意外なりき、余は罰金に処せられたり、堺兄は軽禁錮三月に処せられたり、而して平民新聞は発行禁止の宣告を受けたるなり、平民社は直に控訴の手続に及びぬ、
其の九日の夜、平民社演説会を神田の錦輝舘に開けり、出演せるもの社内よりは幸徳、堺、西川の三兄、社外よりは安部兄と余となりき、演説終つて後、堺兄の曰く、来る十二日控訴の公判開かれんとし花井、今村の諸君弁護の労を快諾せられぬ、然れ共我等同志が主義主張の故を以て法廷に立つこと、今後必ずしも稀なりと云ふべからず、此際我等の主張を吐露して之を国権発動の一機関たる法廷に表白する、豈に無益のことならんやと、一座賛同、而して余遂に其の選に当りて弁護人の位地に立つこととなれり、
十二日は来れり、公判は控訴院第三号大法廷に開れぬ、堺兄に先ちて一青年の召集不応の故を以て審問せらるゝあり、今村力三郎君弁護士の制服を纏ひて来り、余の肩を叩いて笑つて曰く、君近日頻りに法廷に立つ、豈に離別の旧妻に対して多少の眷恋を催ほすなからんやと、誠に然り、余が弁護士の職務を抛つてより既に八星霜、居常法律を学びしことに向て遺憾の念なきに非ざりしなり、今ま我が親友の為めに同志を代表して法廷に出づるに及び、余が不快に堪へざりし弁護士の経験が、決して無益に非ざりしことを覚り、無限の歓情禁ずべからざりし也、
既にして彼の青年の裁判は終了せり、而して堺兄は日本に於ける社会主義者の代表者として「ボックス」の中に立てり、
判事の訊問あり、検事の論告あり、弁護人の弁論あり、而して午後二時公判は終了を告げぬ、
越えて十六日、判決は言ひ渡たされぬ、堺兄は軽禁錮二月に軽減せられたり、而して発行禁止の原判決は全然取り消されたり、
吾人は堺兄の為に健康を祈ると共に、「発行禁止」の悪例の破壊せられたることを深く感謝せずんばあらず、
桜花雨に散りて、人生恨多き四月の廿一日堺兄は幼児を病妻に托して巣鴨の獄に赴けり、而して余は自ら「火の柱」の印刷校正に当らざるべからず、是れ豈に兄が余に出版を慫慂し、而して余が突嗟之を承諾したる当夜の志ならんや、只だ「刑余の徒」たるの一事のみ、兄と余と運命を同ふする所也、
三月の下旬、余が記名して毎日新聞に掲げたる「軍国時代の言論」の一篇、端なくも検事の起訴する所となり、同じき三十日を以て東京地方裁判所に公判開廷せらるべきの通知到来するや、廿八日の夜、余は平民社の編輯室に幸徳、堺の両兄と卓を囲んで時事を談ぜり、両兄曰く君が裁判の予想如何、余曰く時非なり、無罪の判決元より望むべからず、両兄曰く然らば則ち禁錮乎、罰金乎、余曰く余は既に禁錮を必期し居る也、然れ共幸に安んぜよ、法律は遂に余を束縛すること六月以上なる能はざるなり、且つや牢獄の裡幽寂にして尤も読書と黙想とに適す、開戦以来草忙として久しく学に荒める余に取ては、真に休養の恩典と云ふべし、両兄曰く果して然るか、君が「火の柱」の主公篠田長二を捉へて獄裡に投じたるもの豈に君の為めに讖をなせるに非ずや、君何ぞ此時を以て断然之を印行に付せざるやと、余の意俄に動きて之を諾して曰く、裁判の執行尚ほ数日の間あり、乞ふ今夜直に校訂に着手して、之を両兄に託さん入獄の後之を世に出だせよ、
斯くて九時、余は平民社を辞して去れり、何ぞ知らん、舞台は此瞬間を以て一大廻転をなさんとは、
余が去れる後数分、警吏は令状を携へて平民社を叩けり、厳達して曰く「嗚呼増税」の一文、社会の秩序を壊乱するものあり依て之を押収すと、
四月一日を以て余は判決の宣告を受けぬ、四月二日を以て堺兄の公判は開廷せられぬ、而して其の結果は共に意外なりき、余は罰金に処せられたり、堺兄は軽禁錮三月に処せられたり、而して平民新聞は発行禁止の宣告を受けたるなり、平民社は直に控訴の手続に及びぬ、
其の九日の夜、平民社演説会を神田の錦輝舘に開けり、出演せるもの社内よりは幸徳、堺、西川の三兄、社外よりは安部兄と余となりき、演説終つて後、堺兄の曰く、来る十二日控訴の公判開かれんとし花井、今村の諸君弁護の労を快諾せられぬ、然れ共我等同志が主義主張の故を以て法廷に立つこと、今後必ずしも稀なりと云ふべからず、此際我等の主張を吐露して之を国権発動の一機関たる法廷に表白する、豈に無益のことならんやと、一座賛同、而して余遂に其の選に当りて弁護人の位地に立つこととなれり、
十二日は来れり、公判は控訴院第三号大法廷に開れぬ、堺兄に先ちて一青年の召集不応の故を以て審問せらるゝあり、今村力三郎君弁護士の制服を纏ひて来り、余の肩を叩いて笑つて曰く、君近日頻りに法廷に立つ、豈に離別の旧妻に対して多少の眷恋を催ほすなからんやと、誠に然り、余が弁護士の職務を抛つてより既に八星霜、居常法律を学びしことに向て遺憾の念なきに非ざりしなり、今ま我が親友の為めに同志を代表して法廷に出づるに及び、余が不快に堪へざりし弁護士の経験が、決して無益に非ざりしことを覚り、無限の歓情禁ずべからざりし也、
既にして彼の青年の裁判は終了せり、而して堺兄は日本に於ける社会主義者の代表者として「ボックス」の中に立てり、
判事の訊問あり、検事の論告あり、弁護人の弁論あり、而して午後二時公判は終了を告げぬ、
越えて十六日、判決は言ひ渡たされぬ、堺兄は軽禁錮二月に軽減せられたり、而して発行禁止の原判決は全然取り消されたり、
吾人は堺兄の為に健康を祈ると共に、「発行禁止」の悪例の破壊せられたることを深く感謝せずんばあらず、
桜花雨に散りて、人生恨多き四月の廿一日堺兄は幼児を病妻に托して巣鴨の獄に赴けり、而して余は自ら「火の柱」の印刷校正に当らざるべからず、是れ豈に兄が余に出版を慫慂し、而して余が突嗟之を承諾したる当夜の志ならんや、只だ「刑余の徒」たるの一事のみ、兄と余と運命を同ふする所也、
枯川兄を送れるの日、毎日新聞社の編輯局に於て
木下尚江
時は九月の初め、紅塵飜へる街頭には尚ほ赫燿と暑気の残りて見ゆれど、芝山内の森の下道行く袖には、早くも秋風の涼しげにぞひらめくなる、「ムヽ、是れが例の山木剛造の家なんか」と、石造の門に白き標札打ち見上げて、一人のツブやくを、伴なる書生のしたり顔「左様サ、陸海軍御用商人、九州炭山株式会社の取締、俄大尽、出来星紳商山木剛造殿の御宅は此方で御座いサ」
「何だ失敬な、社会の富を盗んで一人の腹を肥やすのだ、彼の煉瓦の壁の色は、貧民の血を以て塗つたのだ」
「ハヽヽヽ、君の様に悲観ばかりするものぢや無いサ、天下の富を集めて剛造輩の腹を肥すと思へばこそ癪に障るが、之を梅子と云ふ女神の御前に献げると思もや、何も怒るに足らんぢや無いか」
「貴様は直ぐ其様卑猥なことを言ふから不可んよ」
「是れは恐れ入つた、が、現に君の如き石部党の旗頭さへ、彼の女神の為めには随喜の涙を垂れたぢや無いか」
「嘘言ふな」
「嘘ぢや無いよ、僕は之を実見したのだから弁解は無用だよ」
「嘘言へ」
「剛情な男だナ、ソレ、此の春上野の慈善音楽会でピアノを弾いた佳人が有つたらう、左様サ、質素な風をして、眼鏡を掛けて、雪の如き面に、花の如を唇に、星の如き眸の、――彼女が即ち山木梅子嬢サ」
「貴様、真実か」
と彼の書生は、木立の間なる新築の屋根を顧みつゝ「何うも不思議だナ、僕は殆ど信ずることが出来んよ」
「懐疑は悲観の児なりサ、彼女芳紀既に二十二―三、未だ出頭の天無しなのだ、御所望とあらば、僕聊か君の為めに月下氷人たらんか、ハヽヽヽヽヽ」
「然かし、貴様、剛造の様な食慾無情の悪党に、彼いふ令嬢の生まれると云ふのは、理解すべからざることだよ」
「が、剛造などでも、面会して見れば、案外の君子人かも知れないサ」
「そんなことがあるものか」
丸山の塔下を語りつゝ、飯倉の方へと二人は消えぬ、
客去りて車轍の迹のみ幾条となく砂上に鮮かなる山木の玄関前、庭下駄のまゝ枝折戸開けて、二人の嬢の手を携へて現はれぬ、姉なるは白きフラネルの単衣に、漆の如き黒髪グル/\と無雑作に束ね、眼鏡越しに空行く雲静かに仰ぎて、独りホヽ笑みぬ、
今しも書生の門前を噂して過ぎしは、此の女の上にやあらん、紫の単衣に赤味帯びたる髪房々と垂らしたる十五六とも見ゆるは、妹ならん、去れど何処ともなく品格いたく下りて、同胞とは殆ど疑はるゝばかり、
「ぢや、姉さんは何方が好だと仰しやるの」と、妹は姉の手を引ツ張りながら、面顰めて促がすを、姉は空の彼方此方眺めやりつゝ、
「あら、芳ちやん、私は好も嫌も無いと言つてるぢやありませんか」
「けれど姉さん、何方かへ嫁くとお定めなさらねばならんでせう、両方へ嫁くわけにはならないんだもん」
「左様ねエ、ぢや私、両方へ嫁きませうか」と、姉は振り返つて嫣然と笑ふ、
「酷いワ、姉さん、からかつて」と、妹は白い眼して姉を睨みつ、じつと身を寄せて又た取り縋がり「ね、姉さん、松島様の方にお定めなさいよ、私、松島さん大好きだわ、海軍大佐ですつてネ、今度露西亜と戦争すれば、直ぐ少将におなりなさるんですと――ほんたうに軍人は好いわ、活溌で、其れに陸軍よりも海軍の方が好くてよ、第一奇麗ですものネ、其れでネ、姉さん、昨夜も阿父と阿母と話して在しつたんですよ、早く其様決めて松島様の方へ挨拶しなければ、此方も困まるし、大洞の伯父さんも仲に立つて困まるからつて」
「芳ちやんは軍人がお好きねエ」
「ぢや、姉さんは、あの吉野とか云ふ法学士の方が好いのですか、驚いたこと、彼様ニヤけた、頭ばかり下げて、意気地の無い」
「左様ぢや無いの、芳ちやん」と、姉は静に妹を制しつ
「私はネ、誰の御嫁にもならないの」
妹は眼を円くして打ち仰ぎぬ「――ほんたう」
折柄門の方に響く足音に、姉の梅子は振り返へりつ、
「長谷川牧師が光来しつてよ」
色こそ褪せたれ黒のフロックコート端然と着なしたる、四十恰好の浅黒き紳士は莞爾として此方に近き来る、是れ交際家として牧師社会に其名を知られたる、永阪教会の長谷川某なり、
妹の芳子は頬膨らし、
「厭な奴ツ」とツブやくを、梅子は「あら」と小声に制しつ、
牧師は額の汗拭ひも敢へず、
「これは/\、御揃ひで御散歩で在らつしやいまするか、オヽ、『黒』さんも御一緒ですか」と、芝生に横臥せる黒犬にまで丁重に敬礼す、是れなん其仁、獣類にまで及べるもの乎、
「エヽ、本日罷り出でまする様と、御父上から態々のお使に預りまして」と、牧師は梅子の前に腰打ち屈めつ「甚だ遅刻致しまして御座りまするが、御在宅で在らせられまするか」
妹嬢は黙つて何処へか去つて仕舞ひぬ、
「御光来を願ひましたさうで御座いまして、誠に恐れ入りました」と、梅子の言ふを、
「イエ、なに、態々と申すでは御座りませぬ、外に此の方面へ参る所用も御座りまする、其れに久しく御父上には拝顔を得ませんで御座りまするから」
牧師は身を反らしてニヤ/\と笑ひぬ、
梅子に導かれて牧師は壮麗なる洋風の応接室に入りぬ、
待つ間稍々久しくして主人は扉を排して出で来りぬ、でつぷり肥りたる五十前後の頑丈造り、牧師が椅子を離れての慇懃なる挨拶を、軽くも顋に受け流しつ、正面の大椅子にドツかとばかり身を投げたり、
「御来宅を願つて甚だ勝手過ぎたが、少こし御注意せねばならぬことがあるので」と、葉巻莨の烟多く棚引かせて
「他でも無い、例の篠田長二のことであるが、近頃何か頻りに非戦論など書き立てて居るさうだ、勿論彼奴等の『同胞新聞』など言ふものは、我輩などの目には新聞とは思へないので、何せ狂気染みた壮士の空論、元より歯牙に掛ける必要もないのだが、然かし此頃娘共の話して居た所を聞くと、近来教会に於ても、耶蘇教徒は戦争に反対せにやならぬなど、無法なことを演説すると云ふことだが、」
牧師は恐る/\口を開き「さ、其件に就きましては私も一方ならず、心痛致し居りまするので」と弁せんとするを、剛造は莨の灰もろ共に払ひ落としつ「其に梅子などは何やら其の僻論に感染して居るらしいので、大に其の不心得を叱つたことだ、特に近頃彼女の結婚に就て相談最中のであるから、万一にも社会党等の妄論などに誤られる様なことがあらば、其れこそ彼女ばかりでは無い、山木一家に取つて由々しき大事なのである、で、今日君を御呼び立て致したのは、社会党を矢張り教会に入れて置かるゝ御心得か如何を承つて、其上で子女等を教会へお預けして置くか如何を決定したいと思ふのである」
牧師は俯して沈黙す、
剛造はジロリ其を見やりつ「苟も山木の家族が名を出して居る教会に、社会党だの、無政府党だのと云ふバチルスを入れて置かれては、第一我輩の名誉に関することで、又た彼の様な其筋で筆頭の注意人物を容れ置くと云ふのは、教会の為めにも不得策だらう、彼様乱暴な人物も耶蘇教信者だと云ふので、無智漢の信用を繋いで居るのだから」
牧師は僅に頭を擡げぬ、
「御立腹の段は誠に御尤で、私に於ても一々御同感で御座りまする、が、只だ何分にも篠田が青年等の中心になつて居りまするので」
「さ、其のことである」と、剛造は吻を容れぬ、「危険と言ふのは其処である、卵の如き青年の頭脳へ、杜会主義など打ち込んで如何する積であるか、ツイ先頃も私が子女等の室を見廻はると、長男の剛一が急いで読んで居た物を隠すから、無理に取り上げて見ると、篠田の書いた『社会革新論』とか云ふのだ、長谷川君、少しは考へて貰ひたいものだ、教会へは及ばずながら多少の金を取られて居る、而して家庭へ禍殃の種子を播かれでも仕ようものなら、我慢が出来るか如何だらう」
牧師は頻りに額の汗を拭ひつ、
「御尤で御座りまする」
「元来を言へば長谷川君、初め篠田如き者を迂濶に入会を許したのが君の失策である、如何だ、彼の新聞の遣り口は、政府だの資産あるものだのと見ると、事の善悪に拘らず罵詈讒謗の毒筆を弄ぶのだ、彼奴が帰朝つて、彼の新聞に入つて以来、僅か二三年の間に彼の毒筆に負傷したものが何人とも知れないのだ、私なども昨年の春、毒筆を向けられたが――彼奴等の言ふ様な人道とか何とか、其様単純なことで坑夫等の統御が出来るものか、少しは考へて見るが可いのだ、石炭坑夫なんてものは、熊か狼だ、其れを人間扱ひにせよと云ふのが間違つて居るぢや無いか、彼の時にも君に放逐する様に注意したのだが、自分のことで彼此云ふのは、世間の同情を失ふ恐があるからと君が言ふので、其れも一理あると私も辛棒したのだ、今度は、君、少しも心配するに及ぶまい、日露戦争に反対するのだから、即ち売国奴と言ふべきものでは無いか」
牧師は額押へて謹聴し居たりしが、やがて少しく頭を揚げつ「――一々御同感で御座りまするので――が、何分にも御承知の如き尋常ならぬ男なので御座りまするから、執事等も陰では皆な苦慮致し居りまするものの、誰も言ひ出し兼ねて居るので御座ります――如何で御座りませう、御足労ながら貴方から一言教会へ直接に御注意下さりましては、多分一同待ち望んで居ることと思はれまするので――」
「私が教会などへ行つて居れると思ふか」と、剛造は牧師を睨みつ「私は体の代りに黄金を遣つてある筈だ――イヤ、牧師ともあるものが左様に優柔不断ならば、私の方にも心得がある、子女等も向後一切教会へは足踏みもさせないことに仕よう」
「ア、山木さん、御立腹では恐れ入りまする」と、牧師は周章しく剛造をなだめ、
「宜しう御座りまする、私も兼ねて其の心得で居りましたのですから、早速執事等とも協議の上、至急御挨拶に及ぶで御座りませう」
「ウム、ぢや、早速左様云ふことに」
剛造の面和ぎたるに、牧師もホとばかりに胸撫で下ろしつ、
「ツイ失念致し居りまして御座りまするが、京都育児慈善会から貴方へ厚く御礼申上げ呉れる様にと精々申して参りました、沢山に義揖を御承諾下ださいましたので、京阪地方の富豪を説くにも誠に好都合になりましたさうで、我国でのモルガン、ロックフェラアと言べきであらうなど、非常に貴方を称讃して寄越まして御座りまする」
「なに、ロックフェラアか、いや、ロックフェラアも近頃の不景気では思ふ様に慈善も出来ない」と、剛造は反り返つて呵々と大笑せり、
牧師も愈々笑傾け「新聞で拝見致しましたが、今回九州地方の石炭会社の同盟して露西亜へ石炭販売を禁止なされたのも、貴方の御発意と申すことで、実業界から斯かる愛国の手本が出ますると云ふのは、実に近来の快事で御座りまする」
「ハヽヽヽヽ」と剛造は一ときは高笑ひ「商売にしてからが、矢ツ張り忠君愛国と言つたやうな流行の看板を懸けて行くのサ」
剛造はやをら立ち上がりつ、
「長谷川君、伝道なども少こし融通の利くやうに頼みますよ、今も言ふ通り梅子の結婚談で心配して居るんだが、信仰が如何の、品行が如何のと、頑固なことばかり言うて困らせ切つて仕舞ふのだ、耶蘇でも仏でも無宗教でも構ふことは無い、男は必竟人物にあるのだ、さうぢや無いか、一夫一婦なんてことは、日本では未だ時期が早いよ――ぢや、君、今の篠田の一件を忘れないやうに、是れで失敬する、家内の室ででも悠然遊んで行き給へ」
莨の煙一抹を戸口に残してスラリ/\と剛造は去りぬ、
牧師は独り思案の腕を組みつ、
夜は十時を過ぎぬ、二等煉瓦の巷には行人既に稀なるも、同胞新聞社の工場には今や目も眩ふばかりに運転する機械の響囂々として、明日の新聞を吐き出だしつゝあり、板敷の広き一室、瓦斯の火急し気に燃ゆる下に寄り集ふたる配達夫の十四五名、若きあり、中年あり、稍々老境に近づきたるあり、剥たる飛白に繩の様なる角帯せるもの何がし学校の記章打つたる帽子、阿弥陀に戴けるもの、或は椅子に掛かり、或は床に踞り、或は立つて徘徊す、印刷出来を待つ間の徒然に、機械の音と相競うての高談放笑なかなかに賑はし、
三十五六の剽軽らしき男、若き人達の面白き談話に耳傾けて居たりしが、やがてポンと煙管を払ひて「書生さん方、お羨ましいことだ、同し配達でもお前さん達は修業金の補充に稼ぐだが、私抔を御覧なせい、御舘へ帰つて見りや、豚小屋から臀の来さうな中に御台所、御公達、御姫様方と御四方まで御控へめさる、是で私が脚気の一つも踏み出したが最後、平家の一門同じ枕に討死ツてつた様な幕サ、考へて見りや何の為めに生れて来たんだか、一向合点が行かねエやうだ」
踞んで居たる四十恰好の男「さうよ、でも此の新聞社などは少こし毛色が変はつてるから、貧乏な代りに余り非道も遣らねいが、外の社と来たら驚いちまはア、さんざん腹こき使つた上句、体が悪くなつたからつて逐つ払ひよ、チヨツ、誰の為めに体が悪くなつたんだ」
フカリ/\烟草を吹かし居たる柔順やかなる爺「年増しに世の中がヒドくなるよ、俺の隣に砲兵工廠へ通ふ男があつたが、――なんでも相当に給料も取つてるらしかつたが、其れが出しぬけにお払函サ、外国から新発明の機械が来て、女でる間に合ふからだと云ふことだ」
彼の剽軽なる男「フム、ぢやア逐々女が稼いで野郎は男妾ツたことになるんだネ、難有い――そこで一つ都々逸が浮んだ『私ヤ工場で黒汗流がし、主は留守番、子守歌』は如何だ、イヤ又た一つ出来た、今度は男の心意気よ『工場の夜業で嬶が遅い、餓鬼はむづかる、飯や冷える』ハヽヽヽ是れぢや矢ツ張り遣り切れねい」
「所が、お前、女房は産後の肥立が良くねえので床に就いたきり、野郎は車でも挽かうツて見た所で、電車が通じたので其れも駄目よ、彼此する中に工場で萌した肺病が悪くなつて血を吐く、詮方なしに煙草の会社へ通つて居た十一になる娘を芳原へ十両で売て、其も手数の何のツて途中へ消えて、手に入つたのは僅たお前、六両ぢやねいか、焼石に水どころの話ぢやねエ、其処で野郎も考へたと見える、寧そ俺と云ふものが無かつたら、女房も赤児も世間の情の陰で却て露の命を継ぐことも出来ようツてんで、近所合壁へ立派に依頼状を遺して、神田川で土左衛門よ」
「成程そんな新聞を見た覚もある」と誰やらが言ふ、
「あんな大した腕持つてる律義な職人でせエ此の始末だ、さうかと思もや、悪い泥棒見たいな奴が立身して、妾置いて車で通つて居る、神も仏もあつたもんぢやねエ」
秋の夜の更け行く風、肌に浸みて一座粛然たり、
「だから貴様達は馬鹿だと云ふんだ」突如落雷の如き怒罵の声は一隅より起れり、衆目驚いて之に注げば、未だ廿歳前らしき金鈕の書生、黙誦しつゝありし洋書を握り固めて、突ツ立てる儘鋭き眼に見廻はし居たり、漆黒なる五分刈の頭髪燈火に映じて針かとも見ゆ、彼は一座怪訝の面をギロリとばかり睨み返へせり「君等は苟も同胞新聞の配達人ぢやないか、新聞紙は紙と活字と記者と職工とにて出来るものぢやない、我等配達人も亦た実に之を成立せしめる重要なる職分を帯て居るのである、然るに君等は我が同胞新聞の社会に存在する理由、否な、存在せしめねばならぬ理由をさへ知らないとは、何たる間抜けだ、……人生の目的がわからぬとは何だ、――神も仏も無いかとは何だ、其の疑問を解きたいばかりに、同胞新聞はこゝに建設せられたのぢやないか、吾々は世の酔夢に覚醒を与へんが為めに深夜、彼等の枕頭に之を送達するのぢやないか、――馬鹿ツ」彼は胸を抑へ、情を呑みて、又其唇を開けり「君等には篠田主筆の心が知れないか、先生が……先生が貧苦を忍び、侮辱を忍び、迫害を忍び、年歯三十、尚独身生活を守て社会主義を唱導せらるゝ血と涙とが見えないか――」
「君、さう泣くな、村井」とポンと肩を叩いて宥めたるは、同じく苦学の配達人、年は村井と云へるに一ツ二ツも兄ならんか、「述懐は一種の慰藉なりサ、人誰か愚痴なからんやダ、君とても口にこそ雄いことを吐くが、雄いことを吐くだけ腹の底には不平が、渦を捲いて居るんだらう」
少年村井も首肯きつ、「ウム、羽山、まあ、さうだ」
「それ見イ、僕は是れで三年配達を遣つてるが、肩は曲がる、血色は減くなる、記憶力は衰へる、僕はツクヅク夜業の不衛生――と云ふよりも寧ろ一個の罪悪であることを思ふよ、天は万物に安眠の牀を与へんが為めに夜テフ天鵞絨の幔幕を下ろし給ふぢやないか、然るに其時間に労働する、即ち天意を犯すのだらう、看給へ、夜中の労働――売淫、窃盗、賭博、巡査――巡査も剣を握つて厳めしく立つては居るが、流石に心は眠つて居るよ、其間を肩に重き包を引ツ掛けて駆け歩くのが、アヽ実に我等新聞配達人様だ、オイ村井君、君の崇拝する篠田先生も紡績女工の夜業などには、大分八ヶ間敷鋭鋒を向けられるが、新聞配達の夜業はドウしたもんだイ、他の目に在る塵を算へて己の目に在る梁木を御存ないのか、矢ツ張り、耶蘇教徒婦人ばかりを博愛しツてなわけか、ハヽヽヽヽヽ」
「是りや羽山さん、出来ました」「村井さん如何です」「ハヽヽヽヽヽ」
隣れる室の閾に近く此方に背を見せて、地方行の新聞に帯封施しつゝある鵜川と言へる老人、ヤヲら振り返りつ「アハヽ村井さん、大分痛手を負ひましたナ、が、御安心なさい、此頃も午餐の卓で、主筆さんが社長さんと其の話して居られましたよ」
「ドウだ羽山、恐れ入つたらう」と村井は雲を破れる朝日の如く笑ましげに、例の鋭き眼を輝やかしつ「僕は僕の配達区域に麻布本村町の含まれてることを感謝するよ、僕だツて雨の夜、雪の夜、霙降る風の夜などは疳癪も起るサ、華族だの富豪だのツて愚妄奸悪の輩が、塀を高くし門を固めて暖き夢に耽つて居るのを見ては、暗黒の空を睨で皇天の不公平――ぢやない其の卑劣を痛罵したくなるンだ、特に近来仙台阪の中腹に三菱の奴が、婿の松方何とか云ふ奴の為に煉瓦の建築を創たのだ、僕は其前を通る毎に、オヽ国民の膏血を私せる赤き煉瓦の家よ、汝が其礎の一つだに遺らざる時の来ることを思へよと言つて呪てやるンだ、けれどネ羽山、それを上つて今度は薬園阪の方へ下つて行く時に、僕の悩める暗き心は忽ち天来の光明に接するのだ」
羽山は笑ひつゝ喙を容れぬ「金貨の一つも拾つたと云ふのか」
「馬鹿言へ、古き槻が巨人の腕を張つた様に茂つてる陰に『篠田』と書いた瓦斯燈が一道の光を放つてるヂヤないか、アヽ此の戸締もせぬ自由なる家の裡に、彼の燃ゆるが如き憂国愛民の情熱を抱て先生が、暫ばしの夢に息んで居られるかと思へば、君、其の細きランプの光が僕の胸中の悪念を一字々々に読み揚げる様に畏れるのだ」
「一寸お待ちなせエ、戸締の無い家たア随分不用心なものだ、何れ程貧乏なのか知らねいが」と彼の剽軽なる都々逸の名人は冷罵す、
「君等に大人の心が了つてたまるものか」と村井は赫と一睨せり「泥棒の用心するのは、必竟自分に泥棒根性があるからだ、世に悪人なるものなしと云ふのが先生の宗教だ、家屋の目的は雨露を凌ぐので、人を拒ぐのでないと云ふのが先生の哲学だ、戸締なき家と云ふことが、先生の共産主義の立派な証拠ぢやないか」
「キヨウサンシユギつて云ふのは一体何のことかネ」と剽軽男は問ふ、
村井は五月蝿と云ひげに眉を顰めしが「そりや、其のあれだ、手短に言へば皆ンなで働いて皆ンなで用ふのだ、誰の物、彼の物なんて、そんな差別は立てないのだ――」
「ヘエー其奴ア便利だ、電車の三銭どころの話ヂヤねいや」
頭を台湾坊主に食はれたる他の学生、帽子を以て腰掛を叩きつゝ「だが、我輩は常に篠田さんが何故無妻なのかを疑ふよ」
突然異様の新議案に羽山は真面目に首を傾けつ「何でも先生、亜米利加で苦学して居た時に、雇主の令嬢に失恋したとか云ふことだ、先生の議論の極端過ぎるのも其の結果ヂヤ無いか知ラ」村井は首打ち振りつ、「僕は必ず社会革新の為に、一身の歓楽を犠牲にせられたのだと思ふ」
時に例の剽軽男、ニユーと首を延して声を低めつ「嬶も矢ツ張り共産主義ツた様な一件ヂヤ無いかナ」
一座思はずワアツとばかりに腹を抱へぬ、鵜川老人は秘蔵の入歯を吹き飛ばせり、折から矢部と云ふ発送係の男、頓驚なる声を振り立てて、新聞出来を報ぜしにぞ「其れツ」と一同先きを争うて走せ出だせり、村井のみ悠々として最後に室を出て行けり、
「先生、在らつしやいますか」と大きなる風呂敷包を抱へて篠田長二の台所に訪れたるは、五十の阪を越したりとは見ゆれど、ドコやら若々とせる一寸品の良き老女なり、男世帯なる篠田家に在りての玄関番たり、大宰相たり、大膳太夫たる書生の大和一郎が、白の前垂を胸高に結びて、今しも朝餐の後始末なるに、「おヤ、まア大和さん、御苦労様ですこと――先生は在らつしやいますか」
松が枝の如きたくましき腕を伸べて茶碗洗ひつゝありし大和は、五分刈の頭、徐ろに擡げて鉄縁の近眼鏡越に打ちながめつ「あア、老女さんですか、大層早いですなア――先生は後圃で御運動でせウ、何か御用ですか」
「なにネ、先生と貴郎の衣服を持つて来ましたの、皆さんの所から纏まらなかつたものですから、大層遅くなりましてネ、――此頃は朝晩めつきり冷つきますから、定めて御困りなすつたでせうネ」
「ハヽヽヽ僕も先生も未だ夏です、では其の風呂敷の中に我家の秋が包まれて居るんですか、どうも有難ウ」
「大和さん、男は礼など言ふものぢやありません、皆さんが喜んで張つたり縫つたり、仕事して下ださるんですから」
「しかし老女さん、そりや先生の為めにでせう、僕は御礼申さにやなりませんよ」
「まア、貴郎は今時の書生さんの様でもないのネ」
目を挙げて見れば、遠く連れる高輪白金の高台には樹々の梢既にヤヽ黄を帯びて朝日に匂ひ、近く打ち続く後圃の松林には未だ虫の声々残りて宛ながら夜の宿とも謂ひつべし、碧空澄める所には白雲高く飛んで何処に行くを知らず、金風そよと渡る庭の面には、葉末の露もろくも散りて空しく地に玉砕す、秋のあはれは雁鳴きわたる月前の半夜ばかりかは、高朗の気骨に徹り清幽の情肉に浸む朝の趣こそ比ぶるに物なけれ、今しも仰で彼の天成の大画に双眸を放ち、俯して此の自然の妙詩に隻耳を傾け、樹の間をくぐり芝生を辿り、手を振り体を練りつゝ篠田は静かに歩みを運び来る、市に見る職工の筒袖、古画に見る予言者の頬鬚、
「先生、渡辺の老女さんがお待ちなされてです」と呼ばれる大和の声に、彼は沈思の面を揚げて「其れは誠に申訳がありませんでした」
「イヽエ、先生どう致しまして」と老女は縁の障子を開けぬ、
彼は書斎へ老女を招致せり、新古の書巻僅に膝を容るゝばかりに堆積散乱して、只だ壁間モーゼ火中に神と語るの一画を掛くるあるのみ、
「毎度皆様の御厄介に成りまするので、実に恐縮に存じます」
老女は手もて之ぞ遮り「なんの先生、貴郎に奥さんのお出来なさる迄は婦人会の方で及ばずながら御世話しようツて、皆さんの御気込ですから――」
「しかし老女さん、最も良き妻を持つ世界の最も幸福なる人よりも、私の方が更に幸福の様に思ひますよ」彼は茶を喫しつゝ斯く言ひて軽く笑ふ、
「飛んだこと、何んなダラシの無い奥様でも、まさか十月になる迄、旦那様に単衣をお着せ申しては置きませんからネ」とハツハ/\と老女は笑ひ興ず、
「クス/\」と隣室に漏るゝ大和の忍び笑に、老女は驚いて急に口を掩ひ「まア、先生、御免遊ばせ、年を取ると無遠慮になりまして、御無礼ばかりして自分ながら愛想が尽きましてネ」
言ひながら、ツイと少しく膝乗り出だし、声さへ俄に打ちひそめて「ほんとにまア、先生、大変なことに成つて仕舞ひましたのねエ、――昨夜もネ、井上の奥さんが先生の御羽織が出来たからつて持つていらつしやいまして、其の御話なんです、私はネ、そんなことがあるもんですか、今ま先生をそんなことが出来るもんですかつて申しました所が、井上の奥様がサウぢやない、是れ/\の話でツて、私なぞには解からぬ何か六ヶ敷事仰つしやいましてネ、其れでモウ内相談が定まつて、来月三日の教会の廿五年の御祝が済むと、表沙汰にするんだと仰つしやるぢやありませんか、井上の奥さんは彼ア云ふ気象の方なもんですから大変に御腹立でしてネ、カウ云ふ時に婦人会が少し威張らねばならねのだけれど、会長が何しても山木さんで、副会長が牧師の奥さんと来て居るんだから、手の出し様が無いツて、涙を流して怒つて居らつしやるのです、私も驚いてしまひましてネ、明日は早朝に参つて先生の御量見を伺ひませうツてお別れしたのです、先生まア何うしたら可いので御座いませう」
懸河滔々たる老女の能弁を鬚を弄しつゝ聴き居たる篠田
「老女さん、其れは何事ですか、私には毫もわかりませぬが」
「先生、何です御わかりになりませぬ――まア驚いたこと――先生、貴郎を教会から逐ひ出す相談のあるのを未だ御存知ないのですか」
「あア、其ですか」と篠田の軽く首肯くを、老女は黙つて穴の開ばかりに見つめたり、
渡辺の老女は不平を頬に膨らして「あア其れですかどころぢや有りませんよ、先生、貴郎が今ま厳乎して下ださらねば、永阪教会も廿五年の御祝で死んで仕舞ひます、御祝だやら御弔だやら訳が解からなくなるぢやありませんか、貴郎ネ、井上の奥様の御話では青年会の方々も大層な意気込で、若し篠田さんを逐ひ出すなら、自分等も一所に退会するツてネ、井上様の与重さん抔先達で相談最中なさうですよ、先生、何うして下ださる御思召ですか」
篠田は僅に口を開きぬ「私の故に数々教会に御迷惑ばかり掛けて、実に耻入る次第であります、私を除名すると云ふ動機――其の因縁は知りませぬが、又たそれを根掘りするにも及びませぬが、しかし其表面の理由が、私の信仰が間違つて居るから教会に置くことならぬと云ふのならば、老女さん、私は残念ながら苦情を申出る力が無いのです、教会の言ふ所と私の信仰とは慥に違つて居るのですから――けれど、老女さん教会の言ふ所と私の信仰と、何らが神様の御思召に近いかと云ふ段になると、其を裁判するのは只だ神様ばかりです、只だ御互に気を付けたいのは、斯様なる紛擾の時に真実、神の子らしく、基督の信者らしく謙遜に柔和に、主の栄光を顕はすことです――私の名が永阪教会の名簿に在ると無いとは、神の台前に出ることに何の関係もないことです、教会の皆様を思ふ私の愛情は、毫も変はることが出来ないです、老女さんは何時迄も老女さんです」
老女は何時しか頭を垂れて膝には熱き涙の雨の如く降りぬ、
良久くして老女は面押し拭ひつ、涙に赤らめる眸を上げて篠田を視上げ視下ろせり「どしたら、貴郎のやうな柔和いお心を持つことが出来ませう――其れに就けても理も非もなく山木さんの言ふなり放題になさる、牧師さんや執事さん方の御心が、余り情ないと思ひますよ――私見たいな無学文盲には六ヶ敷事は少しも解りませぬけれど、あの山木さんなど、何年にも教会へ御出席なされたことのあるぢや無し、それに貴郎、酒はめしあがる、芸妓買はなさる、昨年あたりは慥か妾を囲つてあると云ふ噂さへ高かつた程です、只だ当時黄金がおありなさると云ふばかりで、彼様汚れた男に、此の名高い教会を自由にされるとは何と云ふ怨めしいことでせう」
老女は又も面を掩うてサメザメと泣きぬ、
老女は鼻打ちかみつ、「けども先生、山木さんも昔日から彼様では無かつたので御座いますよ、全く今の奥様が悪いのです、――私は毎度日曜日に、あの洋琴の前へ御座りなさる梅子さんを見ますと、お亡なさつた前の奥様を思ひ出しますよ、あれはゼームスさんて宣教師さんの寄進なされた洋琴で、梅子さんの阿母さんの雪子さんとおつしやつた方が、それをお弾きなすつたのです、丁度今の梅子さんと同じ御年頃で、日曜日にはキツと御夫婦で教会へ行らつしやいましてネ、山木さんも熱心にお働きなすつたものですよ、――拍子の悪いことには梅子さんの三歳の時に奥様がお亡になる、それから今の奥様をお貰ひになつたのですが、貴様、梅子さんも今の奥様には随分酷い目にお逢ひなさいましたよ、ほんたうに前の奥様はナカ/\雄い、好い方で御座いました、御容姿もスツキリとした美くしいお方で――梅子さんが御容姿と云ひ、御気質と云ひ、阿母さんソツクリで在つしやいますの、阿母さんの方が気持ち身丈が低くて在らしつたやうに思ひますがネ――」
老女の心は、端なくも二十年の昔日に返へりて、ひたすら懐旧の春にあこがれつゝ、
「先生、其頃まで山木様は大蔵省に御勤めで御座いましてネ、何でも余程幅が利いて在らしつたらしかつたのです、スルと、あれはかうツと――左様/\十四年の暮で御座いましたよ、政府に何か騒が御座いましてネ、今の大隈様だの、島田様だのつてエライ方々が、皆ンな揃て御退りになりましてネ、其時山木様も一所に役を御免になつたのです、今まで何百ツて云ふ貴い月給を頂いて居らつしやいましたのが、急に一文なしにおなりなすつたのですから、ほんとに御気の毒の様で御座いましたがネ、奥様が、貴郎、厳乎して、丈夫に意見を貫させる為めには、仮令乞食になるとも厭はぬと言ふ御覚悟でせう、面は花の様に御美しう御座いましたが、心の雄々しく在らしつたことは兎ても男だつて及びませんでしたよ、山木さんの辞職なされたのも、つまり奥様の御勧だと其頃一般の評判でしたの、――其れから奥様は学校の教師をなさる、山木様は新聞を御書きになつたり、演説をして御歩きになつたりして、奥様はコンな幸福は無いツて喜んで在らつしやいましたが、感冒の一寸こじれたのが基で敢ない御最後でせう――私は尋常ならぬ御恩に預つたもんですから、おしまひ迄御介抱申し上げましたがネ、先生、其の御臨終の御立派でしたこと、四十何度とか云ふ高熱で、普通の人ならば夢中になつて仕舞ふ所ですよ、――山木様の御手を御握になりましてネ、何卒日本の政道の上に基督の御栄光を顕はして下ださる様、必ず神様への節操をお忘れなさるなと仰つしやいましたが、山木様が決して忘れないから安心せよと御挨拶なさいますとネ、奥様は世に嬉しげに莞爾御笑ひ遊ばしてネ、先生、私は今も彼の時の御顔が目にアリ/\と見えるのです、其れから今度は梅子をと仰つしやいますからネ、未だ頑是ない三歳の春の御嬢様を、私がお抱き申して枕頭へ参りますとネ、細ウいお手に、楓の様な可愛いお手をお取りなすつて、梅ちやんと一と声遊ばしましたがネ、お嬢様が平生の様に未だ片言交りに、母ちやんと御返事なさいますとネ、――ジツと凝視て在らしつた奥様のお目から玉の様な涙が泉の様に――」
「アヽ、思へば、先生」と老女は涙押し拭ひつ「未だ昨日の様で御座いますが、モウ二たむかし、其の時此の婆のお抱き申した赤児様が、今の立派な梅子さんです、御容姿なら御学問なら、御気象なら何れ阿母さんに立ち勝つて、彼様して世間の花とも、教会の光とも敬はれて在らつしやるに、阿父の御様子ツたら、まア何事で御座います、臨終の奥様に御誓ひなされた神様への節操が、何所に残つて居りますか」
老女は急に気を変へて、打ちほゝ笑み「まア、先生、朝ツぱらから此様愚痴を申して済みませぬが、考へて見ますと、成程女と云ふものは悪魔かも知れませぬのねエ、山木様も奥様のお亡りなされた当分は、我家の燈が消えたと云つて愁歎して在らしたのですよ、紀念の梅子を男の手で立派に養育して、雪子の恩に酬ゆるなんて吹聴して在らつしやいましたがネ、其れが貴郎、あの投機師の大洞利八と知り合におなりなすつたのが抑で、大洞も山木様の才気に目を着け、演説や新聞で飯の食るものぢや無い、是れからの世の中は金だからつてんでネ、御馳走はする、贅沢はして見せる、其れに貴郎、鰥と云ふ所を見込んでネ、丁度俳優とドウとかで、離縁されてた大洞の妹を山木さんにくつ付けたんですよ、ほんたうにまア、ヒドいぢやありませんか、其れが、貴郎、今の奥様のです、だから二た言目には此の山木の財産は己の物だつて威張るので、あんな高慢な山木様も、家内では頭が上がらないさうです、――先生、外国人は矢ツ張り目が肥えて居りますのネ、ゼームスつて彼の洋琴を寄附した宣教師さんがネ、米国へ帰る時、前の奥様に呉々も仰つしやつたさうですよ、山木様は余り悧巧だから、貴女が常に気を付けて過失の無い様にせねばならない、基督の御弟子の中で一番悧巧であつたものが、主を三十両で売り渡したイスカリヲテのユダなのだからツてネ、ほんとに先生、さうで御座いますよ、――何の蚊のと角ばつたことは申しますがネ、もう/\女の言ふなり次第なものです、考へて見ると世の中に、男ほど意気地の無いものは御座いませんのねエ」
是れは飛んだことをと、言ひ放つて老女は、窃と見上げぬ、
「実に御辞の通りです」と篠田は首肯き「けれど老女さん、真実我を支配する婦人の在ることは、男児に取つて無上の歓楽では無いでせうか」
老女は只だ怪訝顔、
山木剛造は今しも晩餐を終りしならん、大きなる熊の毛皮にドツかと胡座かきて、仰げる広き額には微醺の色を帯びて、カンカンと輝ける洋燈の光に照れり、
茶をすゝむる妻の小皺著き顔をテカ/\と磨きて、忌しき迄艶装せる姿をジロリ/\とながめつゝ「ぢやア、お加女、つまり何するツて云ふんだ、梅の望は」
妻のお加女はチヨイと抜き襟して「どうするにも、かうするにも、我夫、てんで訳が解つたもンぢやありませんやネ、女がなまなか学問なんかすると彼様になるものかと愛想が尽きますよ、何卒芳子にはモウ学問など真平御免ですよ、チヨツ、親を馬鹿にして」
「何だか少しも解らないなア」
「其りやお解になりますまいよ、どうせ何にも知らない継母の言ふことなどを、お聴き遊ばす御嬢様ぢや無いんですから――我夫から直にお指図なさるが可う御座んすよ、其の為めの男親でさアね」
剛造の太き眉根ビクリ動きしが、温茶と共に疳癪の虫グツと呑み込みつ「ぢやア、松島を亭主にすることが忌だと云ふのか」
「忌なら忌で其れも可御座んすサ、只だ其の言ツ振が癪に障りまさアネ、――ヘン、軍人は私は嫌です、軍人を愛するつてことは私の心が許しませぬから――チヤンチヤラ可笑くて」言ひつゝ剛造を横目に睨みつ「是れと云ふも皆な我夫が、実母の無い児/\つて甘やかしてヤレ松島さんは少し年を取り過ぎてるの、後妻では可哀さうだのツて、二の足踏むからでさアネ、其れ程死んだ奥様に未練が残つて居るんですか」
「何を言ふんだ」と剛造は小声に受け流して横になれり、
お加女はポン/\と煙管叩きながらの独り言「吉野さんの方はどうかと聞けば、ヤレ私が貧乏人の女であつても貰ひたいと仰つしやるのでせうかの、仮令急に悪病が起つて耻かしい様な不具になつても、御見棄てなさらぬのでせうかの、フン、言ひたい熱を吹いて、何処に今時、損徳も考へずに女房など貰ふ馬鹿があるものか、――不具になつても御厭ひなさらぬか、へ、自分がドンなに別嬪だと思つて居るんだ、彼方からも此方からも引手数多のは何の為めだ、容姿や学問やソンな詰まらぬものの為めと思ふのか、皆な此の財産の御蔭だあネ、面の艶よりも今は黄金の光ですよ、憚りながら此の財産は何某様の御力だと思ふんだ、――其の恩も思はんで、身分の程も知らなんで、少しばかりの容姿を鼻に掛けて、今に段々取る歳も知らないで、来年はモウ廿四になるぢやないか、構ひ手の無くなつた頃に、是れが山木お梅と申す卒塔婆小町の成れの果で御座いツて、山の手の夜店へでも出るが可い、どうセ耶蘇などだもの、何を仕散かして居るんだか、解つたもンぢやない」
ジロリ、横はりて目を塞ぎ居る剛造を一瞥して「我夫、仮睡などキメ込んでる時ぢやありませんよ、一昨日もネ、私、兄の所で松島さんにお目に掛かつてチヤンと御約束して来たんです、念の為と思つたから、我儘育で、其れに耶蘇だからツて申した所が、松島さんの仰つしやるには、イヤ外国の軍人と交際するには、耶蘇の嬶の方が却て便利なので、元々梅子さんの容姿が望のだから、耶蘇でも天理教でも何でも仔細ないツて、ほんたうに彼様竹を割つた様なカラリとした方ありませんよ、それに兄の言ひますには、今ま此の露西亜の戦争と云ふ大金儲を目の前に控へてる時に、当時海軍で飛ぶ鳥落とす松島を立腹させちやア大変だから、無理にても押し付けて仕舞ふ様にツて、精々伝言つて来たんです、我夫、私の顔を潰しても可いお積ですか」
剛造の仮睡して返答なきに、お加女は愈々打ち腹立ち「今の身分になれたのは、誰の為めだと云ふんだネ、――それを梅子のことと云へば何んでも擁護して、亡妻の乳母迄引き取つて、梅子に悪智恵ばかり付けさせて――其程亡妻が可愛いけりや、骨でも掘つて来て嘗つてるが可い」
「何だ大きな声して――幾歳になると思ふ」と云ひさま跳ね起きたる剛造の勢に、
「ハイ、今年取つて五十三歳、旦那様に三ツ上の婆アで御座います、決して新橋あたりへ行らつしやるなと嫉妬などは焼きませんから」
「ナニ、ありや、已むを得ん交際サ」
「左様ですつてネ、雛妓を落籍して、月々五十円の仕送りする交際も、近頃外国で発明されたさうですから――我夫、明日の教会の親睦会は御免を蒙ります、天長節は歌舞伎座へ行くものと、往年から私の憲法なんですから」
奥殿の風雲転た急なる時、襖しとやかに外より開かれて、島田髷の小間使慇懃に手をつかへ「旦那様、海軍の官房から電話で御座いまする」
十一月三日、天は青々と澄みわたりて、地には菊花の芳香あり、此処都会の紅塵を逃れたる角筈村の、山木剛造の別荘の門には国旗翩飜たる下に「永阪教会廿五年紀念園遊会」と、墨痕鮮かに大書せられぬ、
数寄を凝らせる奥座敷の縁に、今しも六七名の婦人に囲まれて女王の如く尊敬せらるゝ老女あり、何処にてか一度拝顔の栄を得たりしやうなりと、首を傾けて考一考すれば、アヽ我ながら忘れてけり、昨夜芝公園は山木紳商の奥室に於て、機敏豪放を以て其名を知られたる良人をば、小僧同然に叱咤操縦せるお加女夫人にてぞありける、昨夜の趣にては、年に一度の天長節は歌舞伎座に蓮歩を移し給ふこと何年ともなき不文憲法と拝聴致せしに、如何なる協商の一夜の中に成立したればか、耶蘇の会合などへは臨席し給ひけん、
> 今日を晴れと着飾り塗り飾りたる長谷川牧師の夫人は、一ときは嬌笑を装ひて「奥様が今日御出席下ださいましたことは教会に取つて、何と云ふ光栄で御座いませう、御多用の御体で在らつしやいますから、兎ても六ヶ敷いことと一同断念めて居たので御座いますよ、能くまア、奥様御都合がおつきなさいましたことネ――山木家は永阪教会に取つては根でもあり、花でもありなので御座いまする上に、此の稀な紀念会を御家の御別荘で開くことが出来、奥様の御出席をも得たと云ふ、此様な嬉しいことは覚えませぬので、心から神様に感謝致すので御座いますよ、ホヽヽヽ」
お加女夫人は例の抜き襟一番「教会へもネ、平生参りたいツて言ふんで御座いますよ、けれども御存知下ださいます通り家の内外、忙しいもンですから、思ふばかりで一寸も出られないので御座いますから、嬢等にもネ、阿母は兎ても参つて居られないから、お前方は阿母の代りまで勤めねばなりませんと申すので御座いますよ、ほんとに皆様の御体が御羨しう御座いますことネ、ですから、貴女、婦人会の方などもネ、会長なんて大した名前を頂戴して居りましても何の御役にも立ちませず、一切皆様に願つて居る様な始末でしてネ、ほんとにお顔向けも出来ないので御座いますよオホヽヽヽ」
「アラ、奥様勿体ないこと、奥様の信仰の堅くて在らつしやいますことは、良人が毎々御噂申上げるので御座いましてネ、お前などはホンとに意気地が無くて可けないツて、貴女、其の度に御小言を頂戴致しましてネ、家庭の能く治まつて、良人に不平を抱かせず、子女を立派に教育するのが主婦たるものの名誉だから、兎ても及びも着かぬことではあるが、チと山木の奥様を見傚ふ様にツて言はれるんですよ、御一家皆な信者で在らつしやいまして、慈善事業と言へば御関係なさらぬはなく、ほんたうにクリスチヤンの理想の家庭と言へば山木様のやうなんでせう、――ねエ皆さん」
一同シナを作つて「ほんたうに長谷川の奥様の仰つしやいます通りで御座いますよ、オホヽヽヽヽヽヽ」
驚て、更に視線を転ずれば、太き松の根方に設けたる葭簀の蔭に、しきりに此方を見ては私語しつゝある五六の婦人を発見せり、中に一人年老れるは則ち先きに篠田長二の陋屋にて識る人となれる渡辺の老女なり「井上の奥様、一寸御覧なさい、牧師さんの奥様が、きつと又た例の諂諛を並べ立ててるんですよ、それに軽野の奥様、薄井の嬢様、皆様お揃ひで」
井上の奥様と呼ばれたる四十許りの婦人、少しケンある眼に打ち見遣りつ「申しては失礼ですけれど、あれが牧師の妻君などとは信者全体の汚涜です、なにも山木様の別荘なぞ借りなくとも、親睦会は出来るんです、実に気色に障はりますけれどネ、教会の御祝だと思ふから忍んで参つたのです――其れはサウと、老女さん、篠田様は今日御見えになるでせうか、ほんとに、御気の毒で、私ネ、篠田様のこと思ふと腹が立つ涙が出る、夜も平穏と眠られないんです、紀念式にも咋夜の演説会にも彼の通り行らしつて、平生の通り聴てらツしやるでせう、自分が逐ひ出されると内定つて、印刷までしたプログラムから弁士の名まで削られたんでせう、普通の人で誰がソンな所へ行くものですか、先頃も与重が青年会のことで篠田様に何か叱かられて帰つて来ましてネ、僕は篠田先生の為めなら死んでも構はんて言ふんです、――教会も最早駄目です、神様の代りに、黄金を拝むんですから」
何万坪テフ庭園の彼方此方に設けたる屋台店を、食ひ荒らして廻はる学生の一群、
「オイ、大橋君、梅子さんが見えぬやうぢやないか」
「又た井上の梅子さん騒ぎか、先刻一寸見えたがナ、僕は何だか気の毒の様に感じたから、挨拶もせずに過ぎたのサ、彼女でも成るべく人の居ない方へと、避てる様子であつたからナ、山木見たいな爺に梅子さんのあると云ふは、君、正に一個の奇跡だよ」
「ほんたうに左様だネ、悪魔と天女、まア好絶妙絶の美術的作品とはアレだらうか、僕は昨夜も演説会で、梅子さんの為めに、幾度同情の涙を拭いたか知れないのだ、彼の美しき歌も震を帯んで、洋琴は全く哀調を奏でて居たぢやないか、――厳粛に座つて謹聴してる篠田先生の方を、チヨイチヨイと看て居なすツたがネ、其胸中には何等の感想が往来してたであらうか、――先生は是れ罪なき犠牲の小羊、之を屠る猛悪の手は則ち自分の父」と語り来れる井上は、俄に声を荒らげて「見給へ、剛一は愈々奸党に定まつたよ、僕等でさへ先生の誠心に動かされて退会の決議を飜へし、今日も満腔の不平を抑へて来た程ぢやないか、剛一何物ぞ、苟も己が別荘で催ふさるゝ親睦会であつて見れば、一番に奔走斡旋するのが当然だ、然るに顔さへ出さぬとは失敬極まるツ」
大橋は首打ち振り「否な、彼の今日来ないと云ふのが、彼の我党たる証拠だよ、彼は爺の非義非道を慚愧に堪へないのだ、彼は今や小松内府の窮境に在るのだ、今頃は、君、自宅の書斎で涙に暮れて祈つてるヨ」
「左様か知ラ」と井上は首を傾けしが、俄にノゾき込んで声打ちひそめ「君、僕は昨夜からの疑問だがネ、梅子さんの胸底には若し、恋が潜んでるのぢや無からうか」大橋は莞爾と打ち笑み「勿論! 彼女の心が恋愛の聖火に燃ゆること、抑も一朝一夕の故に非らずサ、遂に石心木腸なる井上与重の如きをして、物や思ふと問はしむる迄に至つたのだ、僕の如きは疾の昔から彼女をして義人を得、彼をして才色兼備の良婦を得せしめ給はんことを祈つて居るんだ」
「成程、さうか、何卒早く其れを見たいものだネ」
「所が、君、一と通のことで無いので、作者頗る苦心の体サ――さア行かう、今度は彼の菊の鮨屋だ、諸君決して金権党の店に入るべからずだヨ」
既にして群集の眸子、均しく訝かしげに小門の方に向へり、「オヤ」「アラ」「マア」篠田長二の筒袖姿忽然として其処に現はれしなり、
「先生来」と学生の一群は篠田を擁して躍り行きぬ、
お加女夫人は遙に之を見て顔色忽ち一変せり、「まア、何と云ふヅウ/\しい奴でせう、脅喝新聞、破廉耻漢」
長谷川夫人も顔打ちひそめつ「ほんとに驚いて仕舞ふぢや御座いませんか」
庭樹の茂に隠れ行く篠田の後影ながめ遣りたる渡辺老女の瞼には、ポロリ一滴の露ぞコボれぬ「きツと、お暇乞の御積なんでせう」
篠田はやがて学生の群と別れて、独り沈思の歩を築山の彼方、紅葉麗はしき所に運びぬ、会衆の笑ひ興ずる声々も、いと遠く隔りて、梢に来鳴く雀の歌も閑かに、目を挙ぐれば雪の不二峰、近く松林の上に其頂を見せて、掬はば手にも取り得んばかりなり、心の塵吹き起す風もあらぬ静邃閑寂の天地に、又た何事の憂きか残らん、時にふさはしき古人の詩歌など思ひ浮ぶるまに/\微吟しつ、岸の紅葉、空の白雲、映して織れる錦の水の池に沿うて、やゝ東屋に近きぬ、見れば誰やらん、我より先きに人の在り、聞ゆる足音に此方を振り向きつ、思ひも掛けず、ソは山木の令嬢梅子なり、
赧らむ面に嫣然として、梅子は迎へぬ、
「梅子さん、貴嬢が此辺に在らつしやらうとは思ひ寄らぬことでした、」と篠田は池畔の石に腰打ちおろし「どうです、天は碧の幕を張り廻はし、地は紅の筵を敷き連らね、鳥は歌ひ、雲は舞ふ、美妙なる自然の傑作を御覧なさい」
「けれど、篠田さん、何故人間ばかり此の様に、罪の心に悩むのでせう」
「左様、何人か罪の悩を抱かぬ心を有つでせうか」と篠田は飛び行く小鳥の影を見送りつゝ「けれど、悩はやがて慰に進む勝利の標幟ではないでせうか」
「ですけれど、私はドウやら悩みに悩むで到底、救の門の開かれる望がない様に感じますの」梅子は只だ風なくて散る紅の一葉に、層々擾れ行く波紋をながめて、
「ハア、貴嬢は劇に非常なる厭世家にお化りでしたネ」
「私は篠田さん、此頃ツクヅク人の世が厭になりました」
「奇態ですネ――此春の文学会で貴嬢が朗読なされた遁世者諷刺の新体詩を、私は今も尚ほ面白く記憶して居りますが――」
「今年の春」と梅子は微かに吐息洩らして「浅墓な彼の頃を私はホンたうに耻づかしく思ひます、世を棄て人を逃れた古人の心に、私は、篠田さん、今ま始めて真実同情を寄せることが出来るやうになりました」
篠田は仰げる眼を転じて、斜めに彼女を顧みたり「私は意外なる変化を見るものです――梅子さん、貴嬢の信仰は今ま実に恐るべき危機に臨むで居なさいます――何か非常なる苦悶の針が今ま貴嬢の精神を刺してるのではありませぬか」
梅子は答へず、
「貴嬢の心は今ま正に生死二途の分岐点に立つて居なさる様です、如何です、甚だ失礼でありますが、御差支なくば貴嬢の苦痛の一端なりとも、御洩らし下ださい、年齢上の経験のみは、私の方が貴嬢よりも兄ですから、何か智恵の無いとも限りませぬ」俯ける梅子の頬には二条三条、鬢のほつれの只だ微動するを見る、
「篠田さん、貴郎の高き御心には」と、梅子は良久して僅に面を上げぬ「私共一家が、何程賤しきものと御見えになるで御座いませう、――私は神様にお祈するさへ愧かしさに堪へないので御座いますよ――」
「それは何故です――」
梅子は又た頭を垂れぬ、長き睫毛に露の白玉貫ける見ゆ、
「梅子さん、私は未だ貴嬢の苦悶の原因を知ることが出来ませぬが、何れにも致せ、貴嬢の精神が一種の暗雲に蔽はれて居ると云ふことは、唯に貴嬢御一身の不幸ばかりではなく、教会の為め、特に青年等の為め、幾何ばかりの悲哀でありませうか」
「否、私の苦悶が何で教会の損害になりませう、篠田さん、私の苦悶の原因と申すは、今日教会の上に、別けても青年の人々の上に降りかゝつた大きな不幸悲哀で御座います」
「其れは何ですか」
「篠田さん――貴郎の除名問題で」
「私は今更に自分の無智を耻づかしく思ひます」梅子は又た語を継ぎぬ「私は今日迄、教会は慥に世の光であると信じて居りました、今ま始めて既に悪魔の巣であつたことを見ることが出来ました、――而かも其悪魔が私の父です――今日の会合は廿五年の祝典では御座いませぬ、光明を亡ぼす悪魔の祝典です、――我父の打ち壊はす神殿の滅亡を跪いて見ねばならぬとは、何と云ふ恐ろしき刑罰でせうか」
「其れは貴嬢の誤解です」と篠田は首を振りぬ、「是れは新に驚くべきことでは無いのです、失礼ながら貴嬢の父上は、神の教会を攪乱するの力を有つて居なさらぬ、梅子さん、私が貴嬢の父上に向て攻撃の矢を放つたことは昨日今日のことではありませぬ、貴嬢も常に其を御読み下すつたでせう、又た御聴き下だすつたでせう、けれ共私は今日に至る迄、貴嬢との友誼の上に何の障礙をも見なかつたと思ふ、是れは規定の祈祷会や晩餐会に勝りて、天父の嘉納まします所では無いでせうか、是れは神の殿がエルサレムでも無く、羅馬でもなく、永阪でもなく青山でも、本郷でも無いと云ふ我々の実験ではありませぬか、――社会の富が日々に殖えて人の飢ゆるるのが愈々増す、富めるものと貧しきものと諸共に、肉体の為に霊魂を失ふ、是れが神の国への路でせうか、ケレ共何処の教会に此の暗黒界の燈火が点いて居りますか、今ま若し基督が出で来り給ふならば、ソして富める者の天国に入るは駱駝の針の穴を出づるよりも難しと説き給ふならば、彼を十字架に懸けるるのは果して誰でせう、王も貴族も富豪も皆な盃を挙げて笑つて居ませう、けれ共王と貴族と富豪との傲慢と罪悪とに媚びて、縷の如き生命を維いでる教会は戦慄します、決して之を容赦致しませぬ」
篠田は正面に聳ゆる富岳の雪を指しつ、「日本国民は此雪を誇ります、けれ共私は未だ我国民によりて我神意を発揮されたる何の産物をも見ない、彼等は兵力を誇ります、是れは神の前に耻づべきことです、万国は互に競うて滅亡に急ぎつゝあるです、私共は彼等を呼び留めますまい、寧ろ退て新しき王国の礎を据ゑませう」
彼は又た梅子を顧みつ「貴嬢は特に青年の為に御配慮です、乍併今日の青年は、牧者の杖を求むる羊と云ふよりは、母の翼を頼む雛であります、――枕すべき所もなき迫害の荒野に立ちて基督の得給ひし慰は、単り天父の恩愛のみでしたか、否な、彼に扈従せる婦人の聖き同情は、彼が必ず無量の奨励を得給ひたる地上の恵与であつたと思ふ、梅子さん、秋の霜、枯野の風の如き劇烈なる男児の荒涼が、春霞の如き婦人の聖愛に包まれて始めて和楽を得、勇気を得、進路を過たざることを得る秘密をば、貴嬢は必ず御了解なさるでせう」
恍然と仰ぎたる梅子の面は日に輝く紅葉に匂へり、
「御嬢様! どんなに御探がし申したか知れませんよ」と忽如として現はれたるは乳母の老女なり「奥様が梅子は何処へ行つたかつて、御疳癪で御座います」
「アヽ、左様でせう」と言ひつゝ、篠田はヤヲら石を離れたり、
去れど梅子は起たんともせず、
十一月中旬の夜は既に更け行きぬれど、梅子は未だ枕にも就かざるなり、乳母なる老婆は傍近く座を占めて、我が頭にも似たらん火鉢の白灰かきならしつゝ、梅子を怨みつかき口説きつ、
「でも、お嬢様、今度と云ふ今度は、従来のやうに只だ厭ばかりでは済みませんよ、相手が名に負ふ松島様で、大洞様の御手を経ての御縁談で御座いますから、奥様は大洞と山木の両家の浮沈に関はることだから、無理にも納得させねばならぬと、彼の通りの御意気込み、其れに旦那様も、梅も余り撰り嫌らひして居る中に、年を取り過ぎる様なことがあつてはと云ふ御心配で御座いましてネ、此頃も奥様の御不在の節、私を御部屋へ御招になりまして、雪の紀念の梅だから、何卒天晴な婿を取らせたいと思ふんで、松島は少こし年を取過ぎて且つは後妻と云ふのだから、梅にはチと気の毒ではあるが、何せよ今ま海軍部内では第一の幅利き、愈々露西亜との戦争でもあれば少将か中将にもならうと云ふ勢、梅の良人として決して不足が有るとは思はれぬ、其上大洞にせよ自分にせよ、一と通ならぬ関係があるので、懇望されて見ると何分にも嫌と云ふことが言はれないハメのだから、此処を能く呑み込んで承知して欲しいのだと、此婆に迄頭を下げぬばかりの御依頼なんで御座います――此婆にしましてが、亡奥様にお乳を差上げ、又た貴嬢をも襁褓の中からお育て申し、此上貴嬢が立派な奥様におなり遊ばした御姿を拝見さへすれば、此世に何の思ひ残すことも御座いません、寧そ御決心なされては如何で御座ります」
梅子は机に片肘もたせしまゝ、繙ける書上に、空しく視線を落とせるのみ、
「それとも、お嬢様、外に貴嬢の思ひ込みなされた御方が御ありなさるので御座りますか、貴嬢も十九や廿歳とは違ひ、亡奥様は貴嬢の御年には、モウ、貴嬢を膝に抱いて在らしつたので御座いますもの、何の御遠慮が御座いませう、是ればかりは御自分の御気に協うたのでなければ末始終の見込が立たぬので御座いますから、――奥様は何と仰しやらうとも、旦那様は彼の様に貴嬢のことを深く御心配遊ばして在らつしやるので、御座いますから、キツと婆から良い様に御取りなし致します、御嬢様、ツイかうと婆に御洩らし下さりませぬか」
梅子は依然言なし、
「御嬢様、其れは余りでは御座いませぬか、婆や婆やといたはつて下ださる平生の貴嬢の様にも無い――今日も奥様が例の御小言で、貴嬢の御納得なさらぬのは私が御側で悪智恵でも御着け申すかの御口振、――こんな口惜いことは御座いません、此儘死にましては草葉の蔭の奥様に御合せ申す顔が無いので御座います」
老婆は横向いて鼻打ちかみつ、
「婆や、ほんたうに申訳がないのネ、お前が其様に心配してお呉れだから、私の心を打ち明けますがネ、私は決して人選びをして居るのぢやないのです、私は疾うから生涯、結婚しないと覚悟して居るのですからネ」
「いゝえ、お嬢様、其様なこと仰しやつても、此婆は聴きませぬ、御容姿なら御才覚なら何に一つ不足なき貴嬢様が、何の御不満で左様なこと仰つしやいます、では一生、剛一様の御厄介におなり遊ばして、異腹の小姑で此世をお送り遊ばす御量見で在つしやいまするか」
「婆や、さうぢやありませぬ、私は現在の様に何も働かずに遊んで居るのを何より心苦く思ふのでネ、――どうぞ貧乏町に住まつて、あの人達と同じ様に暮らして、生涯其の御友達になりたいと祈つて居るのです」
「ヘエ――」と老婆は暫ばし梅子の顔打ちまもりつ「それは、お嬢様、御本性で仰つしやるので御座りますか」
「何で虚欺を言ひませう」と、梅子は首肯き「婆やの親切にホダされて、ツイ、心の秘密を明かしたのです――で、婆や、なんだか生意気らしいこと言ふ様だがネ、誰でも人は胸に燃え立つ火の塊を蔵めて居るものです、火の口を明けて其を外へ噴き出さぬ程心苦しいことはありませぬ、世の中の多くは其れを一人の男に献げて満足するのです、けれど、若し其がならぬ揚合には、尤も悩んでる多くの兄弟姉妹の上に分配るのが一番道に協つた仕方かと思ふのでネ」
「ぢや、お嬢様も其れを一人の男にお上げなされば可いぢや御座いませんか」
「さア――」と、梅子は行きなやみぬ、
「どうも、お嬢様、貴嬢のお胸には何某殿か御在なさるに相違御座りません、――御嬢様、婆やの目が違がひましたか」
梅子は差しうつむきて復た無言、
「お嬢様、貴嬢は婆やを其れ程までにお隔てなさるので御座りますか、お情ないことで御座ります、あゝ、お情ないことで御座ります」
梅子は唇かみしめて、胸を押へつ、
「婆や――私も――女性だよ――」
固く閉ぢたる瞼を溢れて、涙の玉、膝に乱れつ、霜夜の鐘、響きぬ、
数寄屋橋門内の夜の冬、雨蕭々として立ち並らぶ電燈の光さへ、ナカ/\に寂寞を添ふるに過ぎず、電車は燈華燦爛として、時を定めて出で行けど行人稀なれば、発車の鈴鳴らす車掌君の顔色さへ羞耻に見ゆめり、
今しも闇を衝いて轟々と還へり来れるは、新宿よりか両国よりか、一見空車かと思はるゝ中より、ヤガて降り来れる二個の黒影、合々傘に行き過ぐるを、此方の土手側に宵の程より客待ちしたりける二人の車夫、御座んなれとばかり、寒さに慄ふ声振り立てて「旦那御都合まで」「乗つて遣つて下だせイ」と追ひ掛け来る、二個の黒影――二重外套と吾妻コウト――は石像の如くして銀座の方へ、立ち去れり、チヨツと舌打ちつゝ元の車台へ腰を下ろしたる車夫、「あゝ今夜もまたあぶれかな」「さうよ、先刻打つたのが服部時計台の十一時の様だ」
「時に、オイ、熊の野郎め久しく顔を見せねエが、どうしたか知つてるかイ、何か甘い商売でも見付けたかな」
「大違エよ、此夏脚気踏み出して稼業は出来ねエ、嬶は情夫と逃走する、腰の立ねエ父が、乳の無い子を抱いて泣いてると云ふ世話場よ、そこで養育院へ送られて、当時頗る安泰だと云ふことだ」
「ふウむ、其りや、野郎可哀さうな様だが却て幸福だ、乃公の様にピチ/\してちや、養育院でも引き取つては呉れめヱ――、ま、愈々となつたら監獄へでも参向する工夫をするのだ」
雨一としきり降り増しぬ、
「そりや、貴様のやうな独身漢は牢屋へ行くなり、人夫になつて戦争に行くなり、勝手だがな、女房があり小児がありすると、さう自由にもならねエのだ」
「独身漢/\と言つて貰ふめエよ、是でもチヤンと片時離れず着いてやがつて、お前さん苦労でも、どうぞ東京で車を挽いててお呉れ、其れ程人夫になりたくば、私を殺して行かしやんせツて言やがるんだ、ハヽヽヽヽ、そりやサウと、オイ、昨夜烏森の玉翁亭に車夫のことで、演説会があつたんだ、所が警部の野郎多衆巡査を連れて来やがつて、少し我達の利益になることを云と、『中止ツ』て言やがるんだ、其れから後で、弁士の席へ押し掛て、警視庁が車夫の停車場に炭火を許す様に骨折て欲いつて頼んでると、其処へ又警部が飛込んで来やがつて『解散を命ずるツ』てんよ、すると何でも早稲田の書生さんテことだが、目を剥き出して怒つた、つかみ掛りサウな勢だつたが、少し年取つた人が手を抑へて、斯様警部など相手にしても仕方が無い、斯うしなければ警察官も免職になるのだから、寧そ気の毒ぢやないかツてんで、僅々収まつたが、――一体政府の奴等、吾達を何と思つて居やがるんだ」
「そんな大きな声して巡査にでも聞かれると悪イ、が、俺も二三日前に小山を通つてツクヅク思つた、軍艦造るの、戦争するのツて、税は増す物は高くなる、食ふの食へねエので毎日苦んで居るんだが、桂大臣の邸など見りや、裏の土手へ石垣を積むので、まるで御城の様な大普請だ」
「今日も新聞で見りや、媽の正月の頸の飾に五千円とか六千円とか掛けるのだとよ、ヘン、自分の媽の首せエ見てりや下民の首が回はらなくても可いと言ふのか、ベラ棒め」
「何れ一と騒動なくば収まるめエかなア」
銀座街頭の大時計、眠む気に響く、
「オ、もう十二時だ、長話しちまつた」
「でも未だ平民社の二階にや燈火が見えるぜ――少こし小降になつた様だ、オヽ、寒い/\」
平民週報社の楼上を夜深けて洩るゝ燈火は取り急ぐ編輯の為めなるにや、否、燈火の見ゆるは編輯室にはあらで、編輯室に隣れる社会主義倶楽部の談話室なり、
燈下、卓上を囲むで椅子に掛かれる会員の六七名、
直に目に映るは鬚髯蓬々たる筒袖の篠田長二なり「では、差当り御協議したいと思つたことは、是れで終結を告げました――少こし時間は後れましたが、他に御相談を要する件がありますならば――」
外国通信委員渡部伊蘇夫は卓上に堆積せる書類の中より一片紙を取り上げつ「露西亜のペテルブスキイ君から今日、倶楽部宛の書面が来ました、順々に御覧下ださいませうか」
烟草燻ゆらし居たる週報主筆行徳秋香「渡部さん、恐れ入りますが、お序にお誦み下ださいませんか」「其れが可い」「どうぞ」
「ぢや、読みませう」渡部は起てり、
主義に於て常に相親交する、未だ見ぬ日本の兄弟諸君、
余は今ま露西亜に於ける同志に代りて之を諸君に書き送らんとするに際し、憤慨の情と感謝の念と交々胸間に往来して、幾度も筆を投じて黙想に沈みしことを、幸に諒察せよ、
今や日本の政府と露西亜の政府とは戦場に向て急ぎつつあり、露西亜国民の或者は日本を以て一個の狡狼と見做しつゝあり、思ふに日本国民の多数も亦た露西亜を以て暴熊視しつゝあらん、諸君、アヽ、我等は何等の多幸多福ぞや、独り此間に立ちて曾て同胞の情感を傷害せらるゝことなきなり、啻に是れのみならず、彼等の嫉妬、憎悪、奪掠、殺傷の不義非道に煩悶苦悩するを観て、愈々現在立国の基本社会組織の根底に疑ふべからざるの誤謬あることを正確に証明せり、
欧米列国は日本に党せん、去れど独逸は露西亜の友邦なるべしとは、殆ど世界の各所に於て信ぜらるゝ所なり、然れ共諸君よ、我等は此際分析を要するに非ずや、敢て問ふ、謂ふ所の独逸とは則ち何ぞや、彼等は軽忽にも独逸皇帝を指して独逸と云ふものの如し、気の毒なる哉独逸皇帝よ、汝は今夏の総選挙に於て全力を挙げて戦闘せり、曰く社会党は祖国に取つて不倶戴天の仇敵なり、一挙にして之れを全滅せざるべからずと、多謝す、アヽ独逸皇帝よ、汝の努力に依て我独逸の社会党は、忽然八十余名の大多数を議会に送ることを得たりしなり、独逸社会党の勝利は主義に繋がるゝ全兄弟の勝利なり、独逸皇帝、彼は憐むべき一個の驕慢児なるのみ、
世の露西亜を言ふもの、亦た一に露西亜の皇帝を見、宮室を見、貴族を見、軍隊を見て足れりとなす、何等の不公平にして又た何等の浅学ぞや、露西亜には不幸にして未だ真正なる民意を発表すべき国民的機関なきが故に、之を公然証明すること能はずと雖も、如何に自由独立の健全雄偉の思想と信仰とが、既に社会の裏面に普及しつつあるかは時々喧伝せらるゝ学生、農民、労働者の騒擾に依りて、乞ふ其一端を観取せられよ、
陸軍大臣クロパトキンの名は日本国民の記憶する所ならん、然れ共彼に取て目下の最大苦心問題は満洲占領に非ず、日本との戦争に非ずして、露西亜の軍隊に在り、彼等が砲剣に依て外国侵略を計画しつゝある時、看よ、社会主義の福音は既に軍隊の内部に瀰漫せんとしつゝあるを、平和主義の故を以て露国教会はトルストイを除名せり、然れ共今や学生の一揆、労働者の同盟罷工に向て進軍を肯んぜざる士官あり、発砲を拒む兵士あり、我等は既に露西亜の曙光を見たり、
渡部の声は激動せり、其面は赤く輝けり、冷茶一喫、彼は其の温清なる眼を再び紙上に注ぐ、余は今ま露西亜に於ける同志に代りて之を諸君に書き送らんとするに際し、憤慨の情と感謝の念と交々胸間に往来して、幾度も筆を投じて黙想に沈みしことを、幸に諒察せよ、
今や日本の政府と露西亜の政府とは戦場に向て急ぎつつあり、露西亜国民の或者は日本を以て一個の狡狼と見做しつゝあり、思ふに日本国民の多数も亦た露西亜を以て暴熊視しつゝあらん、諸君、アヽ、我等は何等の多幸多福ぞや、独り此間に立ちて曾て同胞の情感を傷害せらるゝことなきなり、啻に是れのみならず、彼等の嫉妬、憎悪、奪掠、殺傷の不義非道に煩悶苦悩するを観て、愈々現在立国の基本社会組織の根底に疑ふべからざるの誤謬あることを正確に証明せり、
欧米列国は日本に党せん、去れど独逸は露西亜の友邦なるべしとは、殆ど世界の各所に於て信ぜらるゝ所なり、然れ共諸君よ、我等は此際分析を要するに非ずや、敢て問ふ、謂ふ所の独逸とは則ち何ぞや、彼等は軽忽にも独逸皇帝を指して独逸と云ふものの如し、気の毒なる哉独逸皇帝よ、汝は今夏の総選挙に於て全力を挙げて戦闘せり、曰く社会党は祖国に取つて不倶戴天の仇敵なり、一挙にして之れを全滅せざるべからずと、多謝す、アヽ独逸皇帝よ、汝の努力に依て我独逸の社会党は、忽然八十余名の大多数を議会に送ることを得たりしなり、独逸社会党の勝利は主義に繋がるゝ全兄弟の勝利なり、独逸皇帝、彼は憐むべき一個の驕慢児なるのみ、
世の露西亜を言ふもの、亦た一に露西亜の皇帝を見、宮室を見、貴族を見、軍隊を見て足れりとなす、何等の不公平にして又た何等の浅学ぞや、露西亜には不幸にして未だ真正なる民意を発表すべき国民的機関なきが故に、之を公然証明すること能はずと雖も、如何に自由独立の健全雄偉の思想と信仰とが、既に社会の裏面に普及しつつあるかは時々喧伝せらるゝ学生、農民、労働者の騒擾に依りて、乞ふ其一端を観取せられよ、
陸軍大臣クロパトキンの名は日本国民の記憶する所ならん、然れ共彼に取て目下の最大苦心問題は満洲占領に非ず、日本との戦争に非ずして、露西亜の軍隊に在り、彼等が砲剣に依て外国侵略を計画しつゝある時、看よ、社会主義の福音は既に軍隊の内部に瀰漫せんとしつゝあるを、平和主義の故を以て露国教会はトルストイを除名せり、然れ共今や学生の一揆、労働者の同盟罷工に向て進軍を肯んぜざる士官あり、発砲を拒む兵士あり、我等は既に露西亜の曙光を見たり、
露西亜には我等社会民主党の外に社会革命党あり、彼はバクニンの系統に属するものなり、我等は今日に於て未だ両者の融和を見る能はざるを悲むと雖も、其の漸次接近親和すべきは疑を要せず、蓋し今日に於て皇帝の生命を狙ふが如きは、皇帝を了解せざるの甚しきものなればなり、我等は露西亜皇帝に対して深厚なる一種の惰感を有す、は尊敬に非ずして憐憫なり、世界の尤も気の毒なるもの恐くは露西亜皇帝ならん、彼は囚人なり、只だ錦衣玉食するに過ぎず、
露西亜が議会を有せんこと、余り遠き将来に非るべし、諸君を羨むの間も、蓋し暫時ならんか、
狂犬をして血に吼えしめよ、
去れど我等は兄弟なり、
渡部は椅子に復せり、拍手は起れり、露西亜が議会を有せんこと、余り遠き将来に非るべし、諸君を羨むの間も、蓋し暫時ならんか、
狂犬をして血に吼えしめよ、
去れど我等は兄弟なり、
「けれど普通選挙を得ざる我等と露西亜と、何の相違がある」と行徳はツブやきぬ、
「最早、虚無党の御世話になる必要は無いよ、クルップの男色を発いてやれば、忽ち頓死するし、伊大利大蔵大臣の収賄を素破抜いてやれば直に自殺するしサ、爆裂弾よりも筆の方が余ツ程力があるよ、僕は彼奴等の案外道義心の豊かなのに近来ヒドく敬服して居るのだ」揶揄一番、全顔を口にして呵々大笑するものは、虚無党首領クロパトキン自伝の愛読者菱川硬次郎なり、其の頓才に満座俄に和楽の快感を催ほせり、彼は炭を投じて煖炉の燃え立つ色を見やりつゝ「何の運動でも、婦人が這入つて来る様になれば〆めたものだ、虚無党でも社会党でも其の恐ろしいのは、中心に婦人が居るからだ、日本でもポツ/\其の機運が見えて来た」
「婦人と云へば、篠田君」と行徳は体を転じて「僕はネ、君が永阪教会を放逐されたと聞いて、ホツと安心したのだ」
菱川は大きなる鼻に皺よせて笑ひつ「無神無霊魂の仲間が一人殖えたと云ふわけか」
一座復び哄笑、
行徳も、微笑を洩らしつ「君等は直ぐ左様云ふからこまる――今迄篠田君の身辺には一抹の妖雲が懸つて居たのだ、篠田君自身は無論知らなかつたであらうが――現に何時であつたか、労働協会の松本君の如きも、篠田君は山木剛造の総領娘と結婚するさうぢやないか、怪しからんことだと云ふから、君達は未だ其れ程までに篠田君が解からないのかと冷笑してやつたのだ」
一座の視線、篠田の面上に注がれたり、
「ハア、左様いふことがあるんですかなア」と篠田は首を傾けぬ、
「なアに」と菱川は口を開きつ「婦人なんてものは、極く思想の浅薄で、感情の脆弱なものだからナ、少こし気概でもあつて、貧乏して居る独身者でも見ると、直きに同情を寄せるんだ、実にクダらんものだからナ」
「では、菱川君の如きは、差向き天下第一の色男と云ふ寸法のだネ」と行徳は槍を入れぬ、
「ハヽヽハヽヽヽ」と流石の菱川も頭を掻けり、
「然かし、篠田君、山木の梅子と言ふのはナカ/\の関秀ださうだネ」と談話の新緒を開きしは家庭新誌の主幹阪井俊雄なり「文章などナカ/\立派なものだ」
「左様、余程意思の強い女性らしいです――何でも亡母が偉かつたと云ふことだから」と篠田は言ふ、
「では母の遺伝だナ、山木の様な奴には不思議だと思つたのだ」
「否や、左様ばかりも言へないでせう、現に高等学校に居る剛一と云ふ長男の如きも、数々拙宅へ参りますが、実に有望の好青年です、父親の不義に慚愧する反撥力が非常に熾で、自己の職分と父の贖罪と二重の義務を負んでるのだからと懺悔して居る程です、思ふに我々の播ける種子を培ふものは、彼等の手でせうよ」
「サウ、赤門にせよ、早稲田にせよ、一生懸命社会主義を拒絶して居るに拘らず、講堂の内面では却て盛に其の卵が孵化されて居るんだから、実に多望なる我々の将来ぢやないか」と渡部は豊かなる頬に笑波を湛へぬ、
「ヤ、君、最早一時だ」と阪井は時計を手にしながら「是れから淀橋まで歩るくのか」
「けれ共、君、幸に雨は止んだ」
「オヽ、星が照らして居るわ、我々の前途を」
築地二丁目の待合「浪の家」の帳場には、女将お才の大丸髷、頭上に爛めく電燈目掛けて煙草一と吹き、長へに嘯きつゝ「議会の解散、戦争の取沙汰、此の歳暮をマア何うしろツて言ふんだねエ」
折柄バタ/\走せ来れる女中のお仲「松島さんがネ、花吉さんが遅いので、又たお株の大じれ込デ、大洞さんがネ、女将さんに一寸来て何とかして貰ひたいツて仰しやるんですよ」
お才は美しき眉の根ピクリ顰めつ「チヨツ、松島の海軍だつて言はぬばかりの面して、ほんとに気障な奴サ――其れに又た花ちやんも何うしたんだネ」
「いゝえネ、湖月の送別会とかへ行つてるので、未だ貰へないんですもの」
「しやうが無いネ、今夜あたり其様所へ行かなくツても可いぢやないか」
「オホヽヽヽだつて女将さん、其れも芸妓の稼業ですもの」
お才も嫣然歯を見せつ「だがネ、彼妓の剛情にも因つて仕舞ふのねエ、口の酸つぱくなる程言つて聞かせるに、松島さんの妾など真平御免テ逃げツちまふんだもの」
「そりや女将さん、仮令芸妓だからつて可哀さうですよ、当時流行の花吉でせう、それに菊三郎と云ふ花形俳優が有るんですもの、松島さん見たいな頓栗眼の酒喰は、私にしても厭でさアね」
「だツて、妾にならうが、奥様にならうが、俳優買ひ位のことア勝手に出来るぢやないか」
「其う言やマア、さうですがね、しかし能くまア、軍人などで芸妓を落籍せるの、妾にするのツて、お金があつたもンですねエ」
お才は煙管ポンと叩いて、フヽンと冷笑ひつ「皆ンな大洞さんの賄賂だアネ――あれでも、まア、大事なお客様だ、日本一の松島さんてなこと言つで、お煽てお置きよ、馬鹿馬鹿しい」
* * *
奥の二階の一室に対座せる二客、軍服の上へムク/\する如き糸織の大温袍フハリ被りて、がぶり/\と麦酒傾け居るは当時実権的海軍大臣と新聞に謡はるゝ松島大佐、対ひ合へる白髪頭の肥満漢は東亜船会社の社長、五本の指に折らるゝ日本の紳商大洞利八、
大洞は満面に笑の波を漲らしつ「で、松島さん、私共は此際ですから、決して特別の御取扱を御願致す次第では御わせん、只だ郵船会社同様に願ひたいので――本来を申せば郵船会社の如き、平生莫大の保護金を得て配当を多くして居ると云ふのも、一朝事ある時の為めでは御わせんか、然るに此の露西亜との戦争と云ふ時に及で、私共の船は一噸三円五十銭平均で御取上げ、郵船会社の方が却て四円乃至四円五十銭と申すのは、余りに公平を欠きまする様で――第一に国家の公益で無い様に思ひまするので」
「国家の公益? ハヽヽヽ其れは大洞、君等の言ふべき口上ぢや無からう、兎に角一旦取り定めたものを、サウ容易く変更することもならんからナ」
「併かし、松島さん、万事貴下の方寸に在ることでは御わせんか」
「仮令方寸に在らうが、国家の公事ぢや、君等は一家の私事さへもグツ/\して居るぢや無いか」
大洞の聊か解し兼ぬると言ひたげなる面を松島はギロリ、一瞥しつ「一体、君は山木の娘の一件を何うするんだ、山木に直接に言ふのは雑作もないが、兎に角妻にするものを、其れも余り軽蔑した仕方と思つたからこそ、君を媒酌人と云ふことに頼んだのだ、最早彼此、半歳にもなるぞ、同僚などから何時式を挙げると聞かれるので、其の都度、実に軍人の態面に泥を塗られる様に感ずるわイ、人を馬鹿にするも程があるぞ」
「イヤ、もう、其事に就きましては絶えず心配して居りますので、――何分当人が、少こし変物と来て居りますので――」
「馬鹿言へ、高が一人の婦人ぢやないか、其様ことで親の権力が何処に在る――それに大洞、吾輩は今日、実に怪しからんことを耳に入れたぞ」満々たる大盃取り上げて、グウーツとばかり傾けたり、
「はア」と、訝かる大洞の面上目懸けて松島は酒気吹きかけつ「君、山木は彼の同胞新聞とか云ふ木葉新聞の篠田ツて奴に、娘を呉れて遣る内約があるンださうぢやないか、失敬ナ、篠田――彼奴、社会党ぢやないか、国賊と縁組みして此の海軍々人の面に泥を塗る量見か、――此方にも其覚悟があるんだ」
大洞は始めて安心したるものの如く、両手に頭撫で廻はしつゝカンラ/\と大笑せり、
「何が可笑しいツ」盃取りなほして松島は打ちも掛からんずる勢、
「戯謔仰つしやツちや、因まりますゼ、松島さん、貴下、其様馬鹿気たこと、何処から聞いておいでになりました」
「今日も省内の若漢等が、雑談中に切りと其事を言ひ囃して居つた」
「ハヽヽヽイヤ何うも驚きました、成程、さすが明智の松島大佐も、恋故なれば心も闇と云ふ次第で御わすかな、松島さん、シツカリ御頼申しますよ、相手が兎に角露西亜ですゼ、日清戦争とは少こし呼吸が違ひますゼ」
大洞は小盃を松島に差しつ「私も篠田と云ふ奴を二三度見たことがありますが、顔色容体全然壮士ぢや御ワせんか、仮令山木の娘が物数寄でも、彼様男へ嫁うとは言ひませんよ、よし、娘が嫁うとした所で松島さん、山木も未だ社会党を婿に取る程狂気にはなりませんからな、マア/\御安心の上、一日も早く砲火を切つて私共に儲さして下ださい」
「しかし大洞、山木の娘も篠田と同じ耶蘇だと云ふぢやないか」
「松島さん、貴下の様に気を廻しなすつちや困まる、山木も篠田には年来の怨恨がありますので、到頭教会から逐ひ出させたと、妹の話で御わしたが、女敵退散となつた上は、御心配には及びますまい、ハヽヽヽヽ」
「ウム、其れは先づ其れとしても、君、山木が早く取定ないのは不埒極まる、今日まで彼を庇護して遣つたことは何程とも知れたもンぢやない、彼の砂利の牛肉鑵詰事件の時など新聞は八釜しい……」
と言ひ掛くるを、大洞あわてて押し留めつ
「松島さん、そんな旧傷の洗濯は御勘弁を願ひます、まんざら御迷惑の掛け放しと云ふ次第でも無つた様で御わすから」
「それから彼の靴の請負の時はドウだ、糊付けの踵が雨に離れて、水兵は繩梯から落ちて逆巻く濤へ行衛知れずになる、艦隊の方からは劇しく苦情を持ち込む、本来ならば、彼時山木にしろ、君にしろ、首の在る筈が無いのぢやないか」
「御尤至極、であればこそ、松島大明神と斯く随喜渇仰致すでは御わせんか――ドウしたのか、花吉、ベラ棒に手間が取れる」
今は大洞受け太刀となつて、シドロモドロの折こそあれ、襖スウと開いて顔を見せしは、――女将のお才「どうも松島さん、御気の毒様ですことねエ、是も流行妓を情婦にした刑罰ですヨ、――待つ身のつらさが御解になりましたでせう、ホヽヽヽヽヽ」
松島海軍大佐をして愛妓花吉を待つに堪へざらしめたる湖月亭の宴会とは、何某と言へる雑誌記者の、欧米漫遊を壮にする同業知人等の送別会なりけり、
五ツの座敷ブチ抜きたる大筵席は既に入り乱れて盃盤狼藉、歌ふもあれば跳ねるもあり、腕を撫して高論するもの、妓を擁して喃語するもの、彼方に調子外れの浄瑠璃に合はして、絃をあやつる老妓あれば、此方にどたばた逐ひまくられて、キヤツと玉切る雛妓あり、玉山崩れて酒煙濛々、誠に是れ朝に筆を呵して天下の大勢を論じ去る布衣宰相諸公が、夕の脚本体なりける、
一隅に割拠したる五六の猛士、今を盛りの鯨飲放言、
「だが、君、今夜の最大奇観とも謂つべきは、篠田長二の出て来たことだ、幹事の野郎も随分人が悪いよ、餅月と夏本の両ハイカラの真中へ、彼の筒袖を安置したなどは」
「所が当人、其を侮辱とも何とも感じないのだから恐れ入るんだ」
「人間も彼程に常識を失へば気楽なものサ」
「見給へ、彼奴未だ四角張つて何か言つてるぜ」
「ヤ、相手が珍報社の丸井隠居ぢや、是こそ天然の滑稽ぢや」
折柄、ツヽと小急ぎに行き過ぐる廿一二の芸妓を、早くも見て取つたる一人声振り上げ「其れへ打たせ玉ふは、烏森に其人ありと知られたる新春野屋の花吉殿ならずや」呼ばれて芸妓は振り向きつ「オヽ、左言ふ貴殿は河鰭氏」と晴やかなる眼に笑を含めて、きツと宜しく睨まへれば「よウ菊三郎ウ」と、何れも手を拍つてザンザめく、
「あら、可う御座んすよ、たんと御なぶり遊ばせ」と、忽ち砕けで群に加はる花吉を、相格崩しての包囲攻撃、
「近来又た海軍の松島を捕獲したツてぢやないか」「花吉の凄腕真に驚くべしだ」「露西亜に対する日本の態度の曖昧なのも、君の為めだと云ふ噂だぞ」「松島君に忠告して早く戦争する様にして呉れ給へ」「露西亜との軍費を捲き上げて、之を菊三郎への軍費に流用する所、好個の外務大臣だ」誠や筆を執つては鷺を烏となし、灰吹から竜をも走しらす記者諸君を、只だ三寸の鴬舌もて右に左に叩たき伏せ、有り難たがらせて余ある所、好個の外務大臣とも言ふべかりける、「時に」と、河鰭は真赤に酔うたる顔突き出し「是ツ非、花ちやんに御依頼の件があるのだが」とサヽやくを、
「身に協ふことならば」と、花吉の芝居懸りに行く、
「否や、戯謔ぢやない、今度は真面目の話だ――ソレ、彼の向ふに北海道土人の阿房払宜しくと云ふ怪物が居るだらう、サウ/\、あの丸井の禿顱と話してる、――彼奴誠に人情を解せん石部党で、我々同業間の面汚のだ、其処で今夜彼奴の来たのを幸に、我党の人にして遣らうと思ふんだ」
「河鰭さんの我党などにはならない方が可う御座んすよ」
「オイ/\飛んだことを言ふ――デ、彼奴に一杯、酒を飲ませて遣うと思ふんだが、我々の手では駄目だから、是に於てか花吉大明神の御裾にお縋り申すのだ」
妙案々々、賛成々々など何れも叫ぶ、
「人がましくも、殿方が頭を下げての御依頼とあるからは、そりや随分火の中へも這入りませう、してお名前は」
「篠田ツて言ふのだ、同胞新聞の篠田」
「ヘエ、篠田さん、ぢや、あの、自由廃業をおやりなすつた方でせう」
「さうだ/\、其のとほりの野暮天なんだから、是非花ちやんの済度を仰ぐのだ」
「其に彼奴は非戦争論者で松島君の仇敵なんだ」と叫ぶもあり、
「花ちやん、一つ松島君を操縦するの余力を以て」と河鰭の言ふを「そんな、お弄りなさるなら、否や」とツンとスネる、
「真平々々、是れだ/\」と手を合はすを、
「驚いたことねエ、河鰭さん、」と微笑みつゝ花吉は、小盃を手にしてスイと起てり、
一隅の数名は、何れも酔眼を上げ、視線を花吉に注ぎつつあり、三々伍々と入り乱れたる会衆の間を縫ひつゝ花吉は、ヤガて篠田が座を占めたる他の一隅にぞ進みける、花吉は顧みて河鰭等と遙に目くばせしつ、ピタリ座に着きて膝を進めぬ、「篠田さん、――河鰭さんから」
談話に余念なかりし篠田は、始めて顔を上げぬ、看よ、一個の佳人、慇懃に盃を捧げつゝあり、
篠田は膝に手を置きて「私は酒を用ひませぬから」
「お手にだけなりともおとり遊ばせ」
「イヤ、私は一切、用ひませぬから」
丸井老人ニユウと禿顱突き出しつ「花ちやん、篠田先生は御禁酒のだから無駄でげすよ、と云うて美人に使命を全うせしめざるも、心なき業なり、斯かる時局切迫の調和機関、中立地帯とも言ふべかる丸井玉吾、一つ先生の代理と行きやせう」言ひつゝヒヨイと猿臂を延ばして、彼女の手より盃を奪へり、
「アラ」
「げに、酒は美人に限ること古今相同じでげす」と丸井玉吾既に一盞を傾け尽くしつ「イヤ、どうも御禁酒の方の代理と云ふ法も無わけでげすな、先生、飛んだ失礼を――」と、彼は奇麗に光る禿顱を燈下に垂れて、ツル/\と撫で上げ撫で下ろせり、花吉は絹巾に失笑を包みて、窃と篠田を見つ、
「今もネ、花ちやん」と丸井老人は真面目顔「例の芸妓殺――小米の一件に就て先生に伺つて居た所なんだ」と言ひつゝ盃差し出す、
花吉は是非もなげに酌をしつ「ホンとに米ちやんは気の毒なことしましたよ、彼の晩もネ、香雪軒の御座敷で一所になりましてネ、世の中がツクヅク厭になつたなんて、さんざ愚痴を言ひ合つて別れたんですよ、スルと丸井さん、其の帰路にヤラれたんですもの――けれど、男の方にも何か深い事情があるんですツてネ」
「サ、其の男の方を此の篠田先生が能く御存なので、色々御話を承つて居たのだがネ」
丸井は火鉢の上に身を屈めつゝ「ぢや、先生、其の兼吉と云ふのほ、恋の協はぬ意趣晴らしツてわけでは無かつたんでげすナ」
「左様です、彼は決して嫉妬などの為めに凶行に出でたのではありません、――必竟、自分の最愛の妻――仮令結婚はしないにせよ――を、姦淫の罪悪から救はねばならぬと云ふのが、彼の最終の決心であつたのです、彼の此の愛情は独り婦人に対してのみで無いのです、彼が平生、職業に対し、友人に対し、事業に対する観念が皆な其れでした、成程、其の小米と云ふ婦人も、今ま貴女の(と花吉を一瞥しつ)仰つしやる通り実に気の毒でした、然かし彼女が彼の如くして生きて居たからとて、一日と雖も、一時間と雖も、幸福と云ふ感覚を有つことは無かつたでせう、兼吉が執つた婦人に対する最後の手段は、無論正道をば外れてたでせう、が、生まれて此の如き清浄な男児の心を得、又た其の高潔なる愛情の手に倒れたと云ふことは、女性としての満足なる生涯では無いでせうか」
「ナ、成程」
花吉は黙つて篠田を凝視せり、
「多くの新聞には、兼吉が是れ迄も数々小米と云ふ婦人に金の迷惑を掛け、今度の凶行も、婦人が兼吉の無心を拒絶したから起つたかの如く、書かれてありましたが、あれは丸井さん、兼吉の為めに気の毒の至極です」と、篠田は其談を継続しぬ、
「兼吉と云ふ男は決して其様な性格の者ではありませぬ、石川島造船会社でも評判の職工で、酒は飲まず、遊蕩などしたことなく、老母には極めて孝行で、常に友達の為めに借金を背負はされて居た程です、何うも日本では今以て、鍛冶工など云へば直に乱暴な、放蕩三昧な、品格の劣等の者の如く即断致しますが、今日の新職工は決してソンなものでは無いですからな、――今春他の一人の職工が機械で左腕を斬り取られた時など、会社は例の如く殆ど少しも構はない、已むを得ず職工同志、有りもせぬ銭を出し合つて病院へ入れたのですが、兼吉は、此儘にしては、廿世紀の工業の耻辱であると云ふので、其の腕を携へて、社長の宅へ面談に参つたのです、風呂敷から血に染つた片腕を出された時には、社長も顔色を失つて、逃げ掛けたサウですが、其裾を捉へて悲惨なる労働者の境遇を説き、資本家制度の残忍暴戻を涙を揮つて論じたのには、サスがの柿沢君も一言の答弁が無つたと云ふことです、一言に尽したならば、兼吉の如きは新式江戸ツ子とでも言ひませうか」
「しますると、兼吉と小米との交情は如何致したと申すのでげすナ」
「御尤です、新聞には大抵、小米と申すのが、未だ賤業に陥らぬ以前、何か兼吉と醜行でもあつた様にありますが、其れは多分小米と申すの実母から出た誤聞であります、兼吉と彼の婦人とは幼少時代からの許嫁であつたのです、然るに成人するに及で、婦人の母と云ふが、職工風情の妻にしたのでは自分等の安楽が出来ないと云ふので、無残にも芸妓にして仕舞つたので――其頃兼吉は呉港に働いて居たのですが、帰京つて見ると其の始末です、私も数々兼吉の相談に与かつたのです、一旦婦人の節操を汚がしたるものを娶るのは、即ち男子の道義をも自ら破壊することになるか如何と云ふのです、私は彼に質問したのです、――君は彼女の節操破壊を以て自己の心より出でたるものと思つてるか如何――所が彼の言ひまするには、私は決して左様は思ひません、全く母親の利慾に圧制されたので、柔順なる彼女は之に抵抗することが出来なかつたのであることを疑はないと云ふのです」
「ほんたうに小米さんの様な温順い人はありませんでしたよ」と、花吉は、吐息を漏らしぬ、
「左様であつたとのことですナ」と篠田は首肯き「然らば君、少しも憚る所は無い、速に彼女を濁流より救ひ出だして、其愛情を全うするが可いと、忠告致しました、所が彼は躊躇して、けれど彼女は千円近くの借金を背負つてるのでと悶へますから、何を言ふのだ、霊魂を束縛する繩が何処に在ると励ましたのです」
「ヘヽヽヽ先生、御得意の自由廃業でげすな」と、丸井はツルリ禿頭を撫でぬ、
「左様です、不道徳なる負債は、弁償の義務がありません、否な、弁償を迫る権利がありません、――それで婦人も非常に喜んだサウです、所が何とか云ふ貴族院議員が――」
と篠田の暫ばし其名を思ひ出し得ざるに、花吉が「あの、金山伯爵でせう、――小米さんも嫌がつて居たんですよ、頭の禿げた七十近い老爺さんでしてネ」
「花ちやん、頭の禿げたなどは特別恐れ入りやしたわけで」と丸井は赤光の脳天ポンと叩いて首を縮む、
「御免の毒様でしたワねエ」と花吉も口を掩うてホヽと笑ふ、
「大事な所を禿顱で、花ちやんにケチを付けられて仕舞つた、デ、篠田先生、其れから何なりました、全で小説の様でげすなア」と、丸井玉吾は煙草に点火しつゝ後を促がす、
「所で、今ま貴女の仰せられた金山と言ふ大名華族の老人が、其頃小米と申す婦人を外妾の如く致して居たので、雇主――其の芸妓屋に於ては非常なる恐慌を喫し、又た婦人の実母からは、独断に廃業などして、小千円の負債の為めに両親が訴へられても顧みない量見かと云ふ様な脅迫に及ぶ、婦人も実に進退谷まつて、最後の書状を兼吉へ送り越したのです、――到底自分は此の苦境を逃がれることの出来ぬ何等過去の業果と思ふから、此の肉体をば餓鬼の如き男子の飜弄に一任するが、然かし郎君を良人と思ふ心に曾て変動を見たることの無いのは、神仏の前に誓言することが出来る、で、此の心が何時か肉体を分離したる未来世に於ては、幸に我妻と呼んで呉れよと云ふ意味を、縷々認めてありました、言々是れ涙、語々是れ血と云ふのは多分此の如きものであらうと感じたのです」
「して、其の手紙は今も何処にか残つて居ませうか」と流石三面記者の丸井老人、直ぐ種取的の質問、
「左様、兼吉は大切に深く懐中に納めて居ましたから、今は必ず監獄署に預かつて居るでありませう――彼は其手紙を握り占めて真に血涙を絞りました、遊惰なる富民の獣慾の為めに、清浄無垢なる少女の節操の揉躙せらるゝのを却て喝采歓喜する社会は果して成立の理由があるかと憤慨して、彼は実に泣きました、丸井さん、日本では切りに虚無党を悪口致しますが、現在の社会と比較するならば、虚無党の主張の方が寧ろ確に真理に近いものです――私も百方慰め励まして、無分別のこと仕ない様に注意して、丁度、夜の十時過、老母が待つてるからと、帰つて行きましたが、翌朝新聞を見ますると、職工の芸妓殺と云ふ二号題目の二版がある、――アヽ、何故無理にも前夜一泊させなかつたかと、実に悔恨の情に堪へませんでした」
篠田は暫らく瞑目しつ「昨日も監獄へ参つて面会致しましたが、彼れも実に夢の様であると申して居ました、――何でも西本願寺辺まで来ました時が、既に十二時近くであつたさうですが、何れの家も寝静まつた深夜の、寂寞の月を践んで来るのが、小米である、ハタと行き当つたので、兼吉の方から名を呼びかけると、婦人は『イヽエ、米ではありません、米は最早死んで仕舞ひました、是れは迷つてる米の幽霊です』と云つて面をそむけて仕舞つたさうです、兼吉の言ひますに、其れ迄は記憶して居るが後は何したか少しも覚えない、不図気が付いて見ると、自分は左腕で血に染まつた小米の屍骸を仰けに抱いて、右手に工場用の大洋刀を握つて居たと云ふのです」
ジツと聴き居たる花吉は窃と涙を拭ひつ身を顛はして、
「彼晩は貴下、香雪軒で桂さんだの、曾禰さんだのツて大臣さん方の御座敷でしてネ、小米さんが大盃でお酒をグイ飲みするんですよ、あんなことは今まで一度も無いのですから、何したんだらうつて皆な不思議がつて居ましたの、少こし酔つたから風に吹かれた方が可いつて、無理に車を返へしましてネ、一人で歩いて帰つたんですよ、――きつとあれから門跡様へ参詣したのです、何事も前世からの約束ですワねエ」
「承れば先生、兼吉の老母を御世話なされまするさうで、恐れ入りました御心掛で」
「イヤ、世話致すなど申す程のことも出来ませんが、此際先づ男の家と、女の家を調和させたいと思ひましたが、丸井さん、実に不思議ですなあ、小米の父親は涙に暮れまして、是れと申すも手前共の悪るかつたからで、聊か兼吉を怨む筋は無いと悔いて居りまするが、母親の方は非常な剣幕で、生涯楽隠居の金蔓を題無しにしたと云ふ立腹です、――女性と云ふものは、果して此の如く残忍酷薄なものでせうか」
丸井玉吾は鹿爪らしく首傾け「成程――花ちやん何でげすな」
「丸井さん、ほんとに女性の方が酷いんですよ」
篠田は首打ち振りぬ「其れが女性の本来でせうか――必竟女性を鬼になしたる社会の罪では無いでせうか」
丸井は禿顱を撫でぬ「御最で」
襟かき合はせて花吉は、目を閉ぢぬ、
烏森は新春野屋の長火鉢を中に、対座したる主婦のお六と芸妓の花吉、
「ぢや、花吉、お前何するツて云ふんだ」と、お六は簪もて頭掻きつゝ、顔打ちしかめ「濁水稼業をして居る身の、思ふ男に添ひ遂げることの出来ない位は、お前だつて、百も承知だらうぢやないか、是れが松島さんの奥様になれつて云ふのなら野暮な軍人の、おまけに昔気質の姑まであるツてえから、少こし考へものなんだが、お前、妾なら気楽なもんだあネ、厭になつたら何時でも左様ならをキメるまでサ――大洞さんもサウ仰しやるんだよ、決して長くとは言はない、露西亜の戦争が何方とも定まるまでの所、厭でもあらうが花ちやんに、放鳥の機嫌を取つて貰はにやならないのだからつて――私だつて、赤児の時から手塩にかけたお前のことだもの、厭だつてもの無理にと言ひたかないやね、けれど平素利益になつてる大洞さんのお依頼と云ひ、其れにお前も知つての通りの、此の歳暮の苦しさだからこそ、カウやつて養女の前へ頭を下げるんぢやないか、お前是れでも未だ解からねえのかエ」
花吉はがツくり島田の寝巻姿、投げかけし体を左の肱もて火鉢に支へつ、何とも言はず上目遣ひに、低き天井、斜に眺めやりたるばかり、
お六は煙草燻らしつ、「一昨日の晩も『浪の家』から、電話ぢや能く解らないツてんで態々使者まで来たぢやないか、何が面白くて湖月などにグヅついてたんだ、帰つたと思もや、頭痛がするツて寝て仕舞つてサ、昨日も今日も御飯もたべず、頭が痛えか、腰が痛えか知らないが、一体まア、何思つて居るんだ」
去れど花吉は答へんともせず、
ポンと、お六は灰吹叩きつ「花吉ツ、耳が無いのか、お前の目にや、私と云ふものが何と見えるんだ、――何処の者とも知れねエ乞食女の行倒の側に、ヒイ/\泣いてる生れたばかりの女の児が、余り可哀さうだつたから拾ひ上げて、乳の世話から糞尿の世話、一人前に仕上げる迄、何程の苦労だつたとも知れたもんぢやない、チヨツ、新橋の花吉が一人で出来たとでも思ふのか、オイ花吉、此の生命は誰のお蔭だよ」煙管取り上げて、花吉の横顔、熱き雁首にて突ツつきぬ、
花吉は瞑目して頭を垂れぬ「其の御講釈なら、養母さん、最早承はるに及びません、何の因果でお前の手などに拾はれたものかと、前世の罪業が思ひやられますのでネ」
「何だ」といきまく養母の面、ジロリ横目に花吉は見やりつ「ハイ、乞食の母の懐で、其時泣き死に死んだなら、芸妓などになり下つて、此様生耻曝さなくとも済んだでせうにねエ」唇噛み〆めて、ツと面を背向けぬ、
「ナニ、芸妓になり下つたト、――余まりフザけた口きくもんぢやない、乞食の女でも宮様だの、大臣さんだのの席へ出られると思ふのか」
「大臣が何だネ、養母さん、お前は大臣なんてものが、其様に難有のかネ、――私に取つちや一生忘られない仇敵なんだよ――、あゝ、思うても慄とする、三月の十五日、私の為めの何たる厄日であつたのか」
「三月十五日が、何したと云ふんだ」
「お前が私を拾つて下すつたのは、今から二十年前の師走の廿五日、雪のチラつく夕間暮と能くお言ひだが、たツた五年の昔、三月十五日の花の夜、十六の春の一人の処女を生きながら地獄へ落しなすつたことは、モウ疾くにお忘れだらうネ」
花吉は、養母の尖唇を怨めしげに一瞥しつ「養母さん、私を食つた其鬼が、お前の難有がる大臣サ、総理大臣の伊藤ツて人鬼サ、――私もネ、其れ迄は世間なみの温順い嬢だつたことを覚えてますよ、それが官位の棒で押へられ、黄金の鎖に縛られて、恐ろしい一夜を過ごした後は、泣いてもワメいても最早取り返へしは付かず、女性の霊魂を引ツ裂れた自暴女、蕾で散つた昔の遺恨を長き紀念の花吉と云ふ、一生の恋知らずが、養母さん、お蔭様で一匹出来上りましたのサ――ヤレ侯爵の殿様だの、大勲位の御前だのと、聞くさへも穢はしい、彼様狒見たいな狂漢に高い禄遣つてフザけさせて置く奴も奴だが、其れを拝み奉る世間の馬鹿も馬鹿だ、侯爵が何だ、大勲位が何だ、人をツケ――」
頬にかゝれる鬢の乱れ、ブツリ噛み切つて壁に吐きぬ、
「聞いた風なことホザきやがる、銭取り道具と大目に見て居りや、菊三郎なんて大根に逆せ上つて、――」
「オホヽヽヽ養母さん、逆上つて丈は取消にして、下ださい、外聞が悪いから――それや、狸々花吉と異名取る程、酒を呑みますよ、俳優買では毎々新聞屋の御厄介にもなりますよ、養母さん、酒でも呑んで気でも狂はせずに、片時なりと此様馬鹿げた稼業が勤まりますか、俳優々々と八釜敷言ふもんぢやありません、まア考へても御覧なネ、毎日毎夜是れ程男の玩弄になつて居りながら、此世で仇讐の一つも撃つて置かなかつたなら、未来で閻魔様に叱かられますよ、黄金で叩れた怨恨だから黄金で叩り復へして遣るのさネ、俳優の様な意気地なしでも、男の片ツ端かと思もや、養母さん、ちツとは癪も収りまさあネ、あゝ、何卒一日も早く此様娑婆は御免蒙りたいものだと思つてネ」
「ヘン、其様に死りたきや、小米の様に殺してでも貰ふが可いや」
「養母さん、可哀さうにも花吉にはネ、兼さんとか云ふ様な、実意の男が無いんですよ、何せ芸妓町などへウロつく奴に、真人間のある筈が無いからネ――あゝ、ほんたうに米ちやんが、羨ましい――」
チリヽンと格子戸開きて、「只今」と可愛い声してあがり来れる未だ十一二の美しき小女、只ならぬ其場の様子に、お六と花吉との顔暫ばし黙つて見較べつ、狭き梯子ギシつかせて、狐鼠狐鼠低き二階へ逃げ行けり、其の後影ながめ遣りたる花吉、「彼の児の寿命もコヽ二三年だ――養母さん、最早罪造りも大抵にお止しなねエ」言ひ棄てて起ち上がりつ、お六の叫ぶ「畜生」をフハリ聞き流がして、ツイとばかり縁端へ出でぬ、
「――アヽ、いやだ/\」
冬枯の庭園の輝く日さへ一としほ荒寥を添ふるが中を、彼方此方と歩を移すは、山木の梅子と異母弟の剛一なり、
剛一は洋杖もて庭石打ち叩きつゝ「だから僕は不平だと言ふんです、姉さんは少しも僕を信用して下ださらんのだもの」
梅子はいとも莞爾に「剛さん、可笑しいのねエ、私が何時貴郎を信用しなかつたの、私は貴郎の様な学問も品性も優等なる弟のあることを、お友達にまで誇つて居る程ぢやありませんか」
「虚偽ツ、若し其れならば、姉さん、貴嬢の苦悶を私に打ち明けて下すつても可いぢやありませんか、秘密は即ち不信用の証拠です」
「秘密? 剛さん、私、何の秘密もありやしないワ」
云ふ顔、剛一は打ちまもりつ「其れ御覧なさい、其の通り姉さんは僕を信用なさらぬぢやありませんか、僕は能く貴嬢の胸中を知つてます」
赤く枯れたる芝生の上に腰をおろして、剛一は、空行く雲を眺めやりつ「姉さん、今春でしたがネ、僕は学校の運動場で、上野の森を見下しながら、藤野と話したことがありますよ」
突然の新談緒に「藤野さんテ、彼の華厳滝でお死なすつた操さんですか」
「左様です、世間では彼が自殺の原因を、哲学上の疑問に在る如く言ひ囃しましたが、あれぢや藤野の霊も浮ばれませんよ、――僕は能ウく彼の秘密を知つてますからネ」
「ぢや、剛さん、何か深い原因があつたのですか」
「左様です、人生の不可解が若し自殺の原因たるべき価値あるならば、地球は忽ち自殺者の屍骸を以て蔽はれねばなりませんよ、人生の不可解は人間が墓に行く迄、片手に提げてる継続問題ぢやありませんか、其様乾燥無味な理窟で、彼の多感多情の藤野を殺すことは出来ませんよ」
「剛さんとは兄弟の様に親しくて、私のことも姉さんと呼んで下だすつたので、ほんたうにお可哀さうだと思つてネ」
「姉さん、藤野は実に可哀さうでした――彼の自殺は失恋の結果なんです」
「エ、――失恋?」
「左様です、彼の『巌頭の感』は失恋の血涙の紀念です、――彼が言ふには、我輩は彼女を思ひ浮かべる時、此の木枯吹きすさぶが如き荒涼の世界も、忽ち春霞藹々たる和楽の天地に化する、彼女を愛することに依て我あるを知ることが出来る、――彼女は即ち我が生命であると自白して居ましたよ、そして僕に向て、山木、君は果して理想の佳人が無いかと詰問しますからね、僕は言つて遣つたのです、――山木剛一にも理想の佳人があるツ」
「アラ、剛さん」
「では其人は誰かと聞きますから、僕は藤野に言つたのです――僕の理想の佳人は家の姉さんである」
「剛さん、マ、何を貴郎」と梅子はサツと、面を紅かめぬ、
「姉さん、本当です、――すると藤野も非常に感動して、君は実に幸福だと言ひました、左様です、僕は実に幸福です、御覧なさい、藤野の佳人は忽ち他に嫁いで仕舞つたのです、藤野の生命は其時既に奪はれたのです、華厳滝へ投げたのは、空蝉の如き冷たき藤野の屍骸です、去れど姉さん、貴嬢が独身で居なさらうとも、又結婚なさらうとも、僕は永久に貴嬢を姉さんと呼ぶことが出来るぢやありませんか」
黙して目を閉ぢたる姉の面を見上げたる剛一「姉さん、僕は実に此の如く貴嬢を敬ひ、貴嬢を慕ひ、貴嬢を信じて、何事をも隠くさないものを、姉さん、貴嬢は何故、僕を信用して下ださらないですか」
「姉さん、僕は貴嬢が母の異つてる為めに、僕を疎遠になさるとか、悪き母より生れたる僕の故を以て……」
梅子は、急ぎて弟を遮りつ「剛さん、貴郎は何を仰しやるんです」
「姉さん、言はせて下さイ、何卒十分に言はせて下さイ――僕は常に母の不心得を、仮令無教育の為めとは言ひながら実に情ないことと思ふのです、大洞の伯父――全で不義貪慾の結塊です、父さんの如きも何ですか、薩長藩閥と戦て十四年に政府を退き、改進党の評議員となつて、自由民権を唱へなすつた名誉の歴史を、何と御覧なさるでせう、――其れが何です、藩閥政府の未路の奴等に阿媚して、国民の膏血を分けて貰つて、不義の栄耀に耽り、其手先となつて昔日の朋友の買収運動をさへなさるとは、姉さん、まア、何と云ふ堕落でせうか」
剛一は姉の側に膝押し進めつ、「姉さん、僕は、此の如き人の児と生まれ、此の如き人の姪と言はれることを耻づかしくて堪まらないのです、然るに姉さん、世間の奴等は何と云ふ破廉耻でせう、学校の校長でも教員でも、山木剛造の児であり、大洞利八の姪である為めに、僕に対して特別の取扱をするんです、彼等と雖も父や伯父の不義を知らんことは無い、只だ黄金に阿諛諂佞するんです――姉さん、貴嬢は僕に比ぶれば余程幸福です、貴嬢の実母さんは実に偉い方であつたさうですし、父さんも未だ堕落以前の人であつたんだから――けれど其の為めに姉さんが僕を軽蔑したり、何かなさる人でないことを確信してるから、嬉しいんです」
「剛さん、其様こと言ふものぢやありません、何うぞ其様こと言はないで下ださイ」
「けれど、姉さん、何うぞ僕に言はせて下ださい、――一体僕の家は何で食つて居るんです、何で此様贅沢が出来るんです、地代と利子と、賭博と泥棒とぢやありませんか――否や、姉さん、少しも酷い言ひ分ぢやありません、正直のことです、――実直に働いてるものは家もなく食物もなく、監獄へ往つたり、餓死したり、鉄道往生したりして、利己主義の悪人が其の血を吸て、栄耀栄華をするとは何事です――父さんは九州炭山の大株主で重役だと云ふので、威張て居なさる、僕等は其の利益で斯く安泰に生活して居るけれど、僕等を斯く安泰ならしめてる彼の炭山坑夫の状態は何うです、――現に父さんでさへ、彼等を熊の如き有様だと言うて居なさるぢやありませんか、然かし彼等は熊ぢやありません、人間です、同胞兄弟です、僕は彼の暖炉に燃え盛る火焔を見て、無告の坑夫等の愁訴する、怨恨の舌では無いかと幾度も驚ろくのです、僕は今朝『同胞新聞』を見て実に胸を打たれたです――父さんは同胞新開を家へ入れることを禁じなさるけれど、僕は毎朝買つて見て居るんです――九州炭山の坑夫間に愈々同盟が出来上がらんとして、会社の方で鎮圧策に狼狽してると云ふ通信が載つてたのです、――僕は端なくも篠田さんが曾て『労働者中尤も早く自覚するものは、尤も世人に軽蔑されて、尤も生活の悲惨を尽くしてる坑夫であらう』と予言された演説の一節を、思ひ浮べました、姉さん、篠田さんは曾て此事を予言なされたのです」
剛一は「篠田」の一語に力を籠めて姉の面を見たり、
ベンチに腰打ち掛けたるまゝ梅子は無言なり、
剛一は少しく声をひそめつ「僕は姉さんが松島の野郎の縁談を断然拒絶なされたと聞いて、実に愉快で堪まらんのです、彼奴の家を御覧なさい、彼の放蕩を御覧なさい、軍艦のコムミッションと、御用商人の賄賂ぢやありませんか、――貴嬢を妻に欲しいと云ふのも、決して貴嬢の学識や品性を重んじて言ふのぢや無い、只だ貴嬢の特別財産を見込むのだ、実に失敬ナ――けれど姉さん僕は貴嬢に一つの疑問があるのです」
「疑問て、剛さん」
「姉さん、貴嬢がほんたうに僕を愛し、僕を信じて下ださるなら、何卒僕に打ち明けて安心させて下ださいませんか、僕は姉さんの独身主義と云ふのが解からないのです、其れは主義から出た結論でなく、境遇から来た迫害だと僕は思ふのです、――其れは貴嬢の持論に似合はぬ甚だ卑怯なことだと思ふのです」
「卑怯つて何です」
「其れは、少しく言葉が過ぎたかも知れませんが、然かし姉さん、旧思想の黒雲を誰か先づ踏み破る人が出なければ、世に改革の曙光を見ることが出来ないと云ふのが、姉さんの主張ではありませんか、――今ま貴嬢は啻に旧思想のみならず、現時の不正なる勢力の裡に取り囲まれて居なさるのです、何故、姉さん、貴姉は之を打ち破つて、幾百万の婦女子を奴隷の境遇から救ふべき先導をなさいませんか、神聖なる愛情を殺して、独身主義などと云ふ遁辞を作りなさるのは、僕は実に大不平です」
「剛さん」
「いや、姉さん、僕は貴嬢の理想の丈夫を知つて居ます、貴嬢の理想の丈夫は即ち僕の崇拝して居る所の丈夫です、僕は実に嬉しくて堪まらんのです、――僕が此の父の罪悪の家に在りながら、常に心に光明を持つことの出来るのは、姉さん、貴嬢の純潔なる愛の為めです、――此上に貴嬢の理想の丈夫の口から『我が弟よ』と呼んで貰ふことが出来るならば、僕は世界に於て外に求むる所はありません」
剛一はムンズとばかりに梅子の手を握りつ「姉さん、僕は常に篠田さんの写真に向て『兄さん』と小声で呼んで見るんですよ」
梅子の手は震ひぬ、
「姉さん、僕は今でも絶えず篠田さんの教を受けて居るんです、篠田さんに教会放逐と云ふ侮辱を与へたものは僕の父です、父の利己心です、無論其等の事を意に介する様な篠田さんぢやない、――井上でも大橋でも脱会の決心を飜へしたのは、篠田さんに懇々説諭されたからでもありますが、姉さん、篠田さんの居ない教会に、寂しく残つて居なさる貴嬢を見棄てるに忍びないと云ふのが、尤も著しき彼等の動機なんでしたよ」
良久ありて、梅子は目をしばたゝきつ、「剛さん、軽卒なことを仰しやつてはなりません、貴郎は篠田さんを誤解して居なさるから――」
「誤解? 誤解とは何です」
「いエ、慥に貴郎は誤解して居なさいます、剛さん、貴郎は篠田さんが常に洗礼のヨハネをお説きになつたことを御聴きでせう、又た実に殆どヨハネの如く生活して居なさることも御覧でせう、家庭の歓楽と云ふ如き問題は、最早や篠田さんのお心には無いのです、勿論彼の様なる荘厳の御精神に感動せざる女性の心が、何処にありませう、けれど剛さん、若し自分一人して其の愛情を獲たいと思ふ女があるならば、其れは丁度申しては、失礼ですが、私共の父上や、貴郎の伯父上が、自分の手一つに社会の富を占領したいと思召すのと、同じ罪悪です」
夕ばえの富士の雪とも見るべき神々しき姉の面を仰ぎて、剛一は、腕拱きぬ、
鳥の群、空高く歌うて過ぐ、
日露両国の間、風雲転た急を告ぐるに連れて、梅子の頭上には結婚の回答を促がすの声、愈々切迫し来れり、
継母の権威さへ遂に梅子の前に其光を失ふに及びて、今は父剛造自ら頭を垂れて哀願せざるべからずなりぬ、
此夜彼が「梅子、相変らずの勉強か」と、いとも柔らかに我女の書斎を訪れしも是れが為めなり、
あらゆる威嚇、甘言、情実、誘惑に対する彼女の防禦方法は、只だ沈黙と独身主義とのみ、流石の剛造も今は殆ど攻めあぐみぬ、
「デ、梅子、私は決してお前が篠田などと関係があるの何のと思もやせぬ、私はお前が其様馬鹿と思もやせぬから少しも気には留めぬが、大洞が切りに其事を言ふので、誰が言うたか松島大佐も其れが為めに甚く感色を悪るくして居たと云ふのだから、――篠田も最早教会を除名した上は、風評も自然立ち消えになるであらうが、兎角世間は五月蝿ものだから、一層気を付けて――ナ其れに其の新聞にもある通り」と剛造ほ梅子の机上にヒロげられたる赤新聞を一瞥しつ「篠田の奴、実に怪しからん放蕩漢だ、芸妓を誘拐して妾にする如き乱暴漢が、耶蘇信者などと澄まして居たのだから驚くぢやないか」
剛造は低頭ける我女の美くしき横顔チラと見やりて、片膝起てつ「ぢや、梅子、私は明朝一番車で九州まで行つて来るから――是れも皆な篠田の仕業だ、坑夫共を煽動して、賃銭値上の同盟などさせをるのだ、愈々日露開戦になれば石炭が上ると云ふ所を見込んでの悪策だ、――歳暮ではあり、東京の用事も手を抜く訳にならぬけれど、今日も長文の電報で、直ぐ来て呉れねば何なことになるも知れぬと云ふのだから拠ない――実に梅、悪い奴共の寄合だ、警視庁へ掛合つて社会党の奴等片端から牢へでもブチ込まんぢや安心がならない、――其れで一週間程で帰る積だから、其間に松島との縁談、能く考へて置いて呉れ、私は決してお前の利益にならぬ様なこと勧めるのぢやない、――兼てお前は別家させる横で、小石川の地所も公債の二万円と云ふものも、既にお前の名義に書き換へて置いたのだが、嫁に行くも婿を取るも同じことだ、――今こそ未だ大佐だが、薩州出身で未来の海軍大臣とまで望を属されて居る松島だから、梅子別段不足もあるまいぢや無いか――モー九時過ぎた、是りや梅子飛んだ勉強の邪魔した」
剛造はノサ/\と出で行けり、
* * *
徐ろに眼を開きたる梅子の視線は、いつしか机上に開展されたる赤紙の第三面に落ちて、父が墨もて円く標せる雑報の上をたどるめり、
社会党の艶福、花吉の行衛
婀娜たる容姿は陽春三月の桜花をして艶を失はしめ、腕の凄さは厳冬半夜のお月様をして面を掩はしめたり、新橋両畔の美形雲の如き間に立ちて、独り嬌名を専らにせる新春野屋の花吉が、此の頃俄に其の影を見せぬは、必定函根の湯気蒸す所か、大磯の濤音冴ゆる辺に何某殿と不景気知らずの冬籠り、嫉ましの御全盛やと思ひの外、実に驚かるゝものは人心、気の知れぬと古人も言ひける麻布は本村の草深き篠田長二のむさくろしき屋台に大丸髷の新女房……義理もヘチマも借金も踏み倒ふしの社会主義自由廃業の一手専売、耶蘇を棄てて妻を得たとの大涎、筒ツぽ袖には拭き尽せまじ……彼が積年の偽善の仮面をば深くな咎めそ、長二君とて木から生まれた男ではごんせぬ、
梅子は胸を押へて復た目を塞ぎぬ「――本当だらうか――」婀娜たる容姿は陽春三月の桜花をして艶を失はしめ、腕の凄さは厳冬半夜のお月様をして面を掩はしめたり、新橋両畔の美形雲の如き間に立ちて、独り嬌名を専らにせる新春野屋の花吉が、此の頃俄に其の影を見せぬは、必定函根の湯気蒸す所か、大磯の濤音冴ゆる辺に何某殿と不景気知らずの冬籠り、嫉ましの御全盛やと思ひの外、実に驚かるゝものは人心、気の知れぬと古人も言ひける麻布は本村の草深き篠田長二のむさくろしき屋台に大丸髷の新女房……義理もヘチマも借金も踏み倒ふしの社会主義自由廃業の一手専売、耶蘇を棄てて妻を得たとの大涎、筒ツぽ袖には拭き尽せまじ……彼が積年の偽善の仮面をば深くな咎めそ、長二君とて木から生まれた男ではごんせぬ、
麻布本村の阪を上がり行く牛乳屋の小僧と八百屋の小僧、
「其処の篠田さんナ、彼様不用心な家見たことが無いぜ、暗いうちに牛乳を配るにナ、表の戸を開けて裡へ置くのだ、あれで能く泥棒が這入らねエものだ」
「ナニ、年中泥棒に遭つてるださうナ、これから広尾へ掛けて貧乏人の巣だから、堪まつたもんぢやねエやナ、所がお前言ひ分が面白いや、書生の大和ツて男が言ふにやネ、誰も好んで泥棒などするのでは無いだから、余つてるものが在るなら、無いものに融通するのは人間の義務で、他人が困つてるのに自分ばかり栄耀してるのが、ほんたうの泥棒だとよ」
「ふウム、一理あるナ、――所で近来素敵な別嬪が居るぢやねエか、老母付きか何かで」
「母子ぢや無いよ、老婆の方は月の初めから居るが、別嬪の方はツイ此頃だ、何でも新橋あたりの芸妓あがりだツてことだ」
「へい、筒袖先生、マンざら袖無エばかりでも無いと見えるナ」
「所が言葉の使ひツ披から察しると、其様らしくも無い、馬鹿丁寧なこと言ひ合つてるだ」
「どうも此の界隈にや、渡辺国武だの、津田仙だの、矢野二郎だの、安藤太郎だのツて一と風変つた連中のお揃ひだナ」「何れ麻布七不思議ツてなことになるのだろ、ハヽヽヽヽ」
* * *
小僧等の目をさへ驚かしたる篠田方の二個の女性、老いたるは芸妓殺を以て満都の口の端に懸りたる石川島造船会社の職工兼吉の母にて、若きは近き頃迄烏森に左褄取りたる花吉の変形なり、
夕日斜に差し入る狭き厨房、今正に晩餐の準備最中なるらん、冶郎蕩児の魂魄をさへ繋ぎ留めたる緑滴らんばかりなる丈なす黒髪、グル/\と引ツつめたる無雑作の櫛巻、紅絹裏の長き袂、しごきの縮緬裂いて襷凛々敷あやどり、ぞろりとしたる裳面倒と、クルリ端折つてお花の水仕事、兼吉の母は彼方向いて竈の下せゝりつゝあり、
「考へて見ると老女さん、ほんとに世の中は面白いものねエ、かうした処でお目に懸つて、此様なお世話さまにならうなどとは、夢にも思やしないんですもの、此頃中の私の心と云ふものは、老女さん、昨夜もお話した様なわけでネ、自分ながら思案に暮れましたの、どうせ泥水商売してるからにや、普通の女の様なこと思つたからとて、詮ないことなんだから、寧そ松島と云ふ男の所へ行つて、思ふ存分我儘を働いて遣らうかなどとも迷つたりネ、自暴になつて腹ばかり立つて、仕様も模様も無かつたのですよ、スルと湖月の御座敷で始めて此家の先生様にお目に掛りましてネ、兼吉さんと米ちやんとのお話を承はつてる中に、私の心が妙な風に成つて来ましてネ、仮令女性の節操を涜したものでも、其が自分の心から出たのでないならば、咎めるに及ばぬと仰しやつたお言葉が、ヒシと私の胸を刺ましたの、して見ると私などでも余り世間を怨んで、ヒガミ根性ばかり起さんでも、是れからの心の持ち様一つでは、人様の前へ顔出しが出来るやうになれるかと不図思ひ浮かびましてネ、其れから二日二晩と云ふもの考へ通しましたけれど、如何したら可いのか少しも方角が付かぬぢやありませんか、一つ篠田様にお願申して見る外無いと思ひましてネ、二日目の夕方、ブラリと出て新聞社へ参つたのですヨ、――先生様が、凝と私の顔を見つめなすつて、『貴女の御一身は私が御引き受け致しました、御安心なさい』と仰しやつた御一言が、森と骨にまで浸み徹りましてネ、有り難いのやら、嬉しいのやら、訳なしに涙が湧き出るぢやありませんか」
言ひつゝ彼女は襦袢の袖もて窃と眼を拭ひつ「それから老女さん、燈が点いて後、此家へ連れて来て戴いたのですがネ、あの土橋を渡つて烏森の方を振り返つて見た時には、コヽに廿一年暮らしたのかと思ふと、怨めしい様な、懐しい様な、何とも言へない気がして胸が張り割ける様でしたの、アヽ此処の為めに生れも付かぬ賤しい体になつたのだと思ひついて、そして先生様の後姿をお見上げ申すとネ、精神が鞏固して、籠を出た鳥とは、此のことであらうと飛び立つ様に思ひましたよ――」
「ほんとにねエ」と兼吉の老母も煙に咽びつ、
「それからネ、老女さん」と、お花は明朝の米かしぐ手を暫ばし休めつ「歩きながらのお話に、此頃湖月で話した兼吉の老母が家へ来て居ると先生様が仰つしやるぢやありませんか、老母さん、私どんなに嬉しかつたか知れませんよ、お目に懸つた方でも何でも無いんでせう、けども米ちやんのお姑さんだと思ひますとネ、何うやら米ちやんにでも逢ふやうな気がするんですもの、――私は斯う云ふお転婆、米ちやんは彼の通りの温柔やでせう、ですけども、何うしたわけか能く気が合ひましてネ、始終往来して姉妹の様にして居たんですよ、あゝ云ふことになる晩まで、一つお座敷で色々語り合つた程ですもの――其の縁に繋がる老母さんに図らぬお世話様になると云ふのも、ほんとに米ちやんの引き合はせぢや無いかと思はれましてネ」
小米と聞けば直ちに一粒種の我子のこと思ひ出づる老婆は、セキ上ぐる涙を狭き袖に抑へつ「あゝ云ふことになると云ふも、皆な前世からの約束事と諦めてネ――それに斯うやつて此方の先生様が御親切にして下ださるもんですから、せめては兼吉が生の父にも増して頼にして居た先生様の、御身のまはりなりと御世話致したら、牢屋に居る伜も定めて喜ぶことと思ひましてネ――」
「ほんとに老女さん、何したら篠田様のやうな御親切な御心が持ませうかネ――私ネ老女さん、男なんてものは、皆な我儘で、道楽で、虚つきで、意気地なしのものと思つてたんですよ、――先生様で私、驚きましたの、一寸お見受け申すと、何だか大変に怖さうで、不愛想の様で居らつしやいますが、心底に温柔い可愛らしい所がおありなすつて、彼れが威あつて猛からずとでも云ふんでせうかねエ――籍の方の詰も落着したから、明日の何とか、さウ/\、クリスマスとか云ふのが済んだなら、大久保の慈愛館とやらへ行くやうにと、今朝もお話下ださいましたけれどもネ、老女さん、私、何うやら此家が自分の生まれた所の様に思はれて、何時までも老女さんと一所に居たい様な気がして、堪まりませんの」
「花ちやん、其様に柔しく言うてお呉れだと、何だかお前さんが米ちやんの様に思はれてネ」
「老女さん、私も左様ですよ、始めて此方へ上つて――疲れたらうから早くお寝ツて仰つて下だすツて、老女さんの傍へ寝せて戴いた時――私、ほんとに母の懐へ抱かれでもした様な気がしましてネ、五体が延びりして、始めてアヽ世界は広いものだと、心の底から思ひましたの、――私、老女さん、二十年前に別れた母が未だ存へて居て、丁度廻り合つたのだと思つて孝行しますから――私の様なアバずれ者でも何卒、老女さん、行衛知れずの娘が帰つて来たと思つて下ださいナ」
老婆は涙にムセびつゝ、首肯くのみ、
「オヽ、嬉しい」と、お花は涙一杯の美しき眼に老婆を仰ぎつ「ぢや、今から阿母さんと言つても可う御座んすか――何だか全で夢の様ですのねネ――昨日までの邪慳な心が、何処へか去つて仕舞つたの――私ヤ、すつかり生れ変はりましたわねエ――阿母さん、――」
* * *
障子一重の次の室に、英文典を復習し居たる書生の大和、両手に頭抱へつゝ、涙の霰ポロリ/\、
十二月廿五日の夕は来りぬ、寒風枯草を吹きて、暗き空に星光る様、そぞろに二千年前の猶大の野辺を偲ばしむ、
篠田長二の本村の家には戸障子明け放ちて正面の壁には耶蘇馬槽に臥するの大画を青葉に飾り、洋燈カン/\と輝く下には、八九歳より十二三歳に至る少年少女二十余名打ち集ひて喧々囂々、兼吉の老母、お花、書生の大和など切りと其間を周旋しつゝあり、小急ぎに訪ひ来れるは渡辺の老女なり、
篠田は自ら出で迎へつ「オヽ、老女さん、能う来て下さいました、今夜は近所の小児等を招きまして、基督降誕祭を営むことに致しまして、――其上、十二月廿五日と云ふ日に特別の関係ある婦人の新客がありますので、旁々御光来を願ひました」
「何の、先生、昨夜はネ、教会の降誕祭で御座いましたが、今年は先生の御顔が見えず、面白い御話を御聞きすることが出来ないツてネ、去年の時のことばかり言ひ出して、皆様寂しい思をしたので御座いますよ、今晩は先生の御宅の御祝に御招を受けましたので斯様嬉しいことは、御座いません」
今や式は始まりぬ、少年少女何れも呼吸を殺ろし眼を円くして、訝しげに見遣る、
大和一郎が得意の美音を振り立てて讃美歌の独吟あり、
「ひとにはみめぐみ 地にはやすき
かみにはみさかえ あれとうたふ
あまつつかひらの きよき声は
しづかにふけゆく 夜にひびけり」
「いまなほみつかひ つばさをのべ
つかれしこの世を おほひまもり
かなしむみやこに なやむ鄙に
なぐさめあたふる うたをうたふ」
「おもにをおひつゝ 世のたびぢを
ゆきなやむ人よ かしらをあげ
よろこばしき日を うたふうたの
いとたのしきこゑ きゝていこへ」
「みつかひのうたふ 平安きたり
よゝのひじりらの まちし国に
エスを大君と たゝへあがめ
あまねく世のたみ たかくうたはん」
篠田は起つて聖書を読み、祈祷を捧げ、扨て今宵の珍客なる少年少女に向て勧話の口を開けり、かみにはみさかえ あれとうたふ
あまつつかひらの きよき声は
しづかにふけゆく 夜にひびけり」
「いまなほみつかひ つばさをのべ
つかれしこの世を おほひまもり
かなしむみやこに なやむ鄙に
なぐさめあたふる うたをうたふ」
「おもにをおひつゝ 世のたびぢを
ゆきなやむ人よ かしらをあげ
よろこばしき日を うたふうたの
いとたのしきこゑ きゝていこへ」
「みつかひのうたふ 平安きたり
よゝのひじりらの まちし国に
エスを大君と たゝへあがめ
あまねく世のたみ たかくうたはん」
「貴所等と私とは長く御近所に住つて居りますが、今まで仲よく一所に遊ぶ様な機会がありませんでした、今晩は能くこそ来て下さいました、――今晩貴所方をお招申したのは、耶蘇基督と云ふお方の御誕生日を、御一所にお祝ひ致たさうと思つたからです、貴所方も皆な生れなすつた日がある、其日になると、阿父さんや、阿母さんが、今日は誰の誕生日だからと、何かお祝をして下ださるでせう」
「アイ、二十日が俺の誕生日だツて、阿母が今川焼三銭買つて、父の仏様へ上げて、あとは俺が皆な食べたよ」と、突如に返事したるは、覚束なき賃仕事に細き烟立て兼ぬる新後家の伜なり、
クス/\笑ふものある中に篠田は首肯つ「丁度其れと同じく、基督の御誕生日には私共一同、日本人ばかりでは無い、世界中の人が神様へ御礼を申し上げるのです、基督のことは今ま歌を歌ひなされた、大和先生から段々御聞きなさい、私が差当り一つ御話して置くのは、――貴所方が忘れない様に聞いて置て頂きたいのは、――二千年昔時にお生れになつた外国人の基督が、何時までも/\世界中の人に、誕生日を祝つて貰ふと云ふ不思議な理由です、基督と云ふお方は極々貧乏な家へお生れになつたのです、此の壁に懸けてある画にある様に、旅の宿屋の馬小屋で馬の秣桶を、臥床になされたのです、阿父は貧しき大工で、基督も矢張り大工をなされたのです――能く御聴きなさい、貧乏と云ふことは左まで耻かしいことではありません、私も貴所方も皆な汚穢着物でせう、私も貴所方も皆な貧乏人です、けれど、貧乏や着物の汚穢のを気にしてはなりませんよ、汚穢心を持つて、奇麗な衣服を着て居る人があるなら、其人こそ真正に耻づかしい人です」
お花は孰れも木綿の揃の中に、己れ独り忌はしき紀念の絹物纏ふを省みて、身を縮めて俯けり、
篠田は語り継く「人間の尤も耻づかしいのは、虚言を吐くことです、喧嘩することです、懶まけることです」
忽ち座敷の一隅に声あり「お虎さんは、今日俺に鉛筆呉れるなんて虚言を言つたぜ」
「ウソ、熊吉さんが私に石を打つつけたもの」とて早くもメソ/\と泣く、
彼方の一隅には「松公ン所の父は朝から酒飲んでブウ/\ばかり、育つてるぢやねエか」
「何だ手前の母は毎晩四の橋へ密売に出るくせしやがつて……」
お花の目には涙ありき、
少年少女は何れも基督降誕祭の贈物貰ひたれば、歓喜の声振り立てて帰り行けり、
「アヽ、実に今年は愉快なクリスマスを致しました」と篠田は喜色、面に溢る、
「それに先生、お花さんとやらに、老女さんに、お二人まで在らつしやるので、何程お賑かとも知れませんよ、殿方ばかりのお家は、何処となくお寂しくて、お気の毒で御座いましてネ」渡辺の老女はホヽ笑みつゝ「大和さん、貴郎もマア、お勝手の方を御役御免におなりなさいましたのねエ」
「なあに、老女さん、花さんは夜が明けると大久保の慈愛館へお行でになるんだから、明日から、僕が又た復職するんです」と大和は笑ふ、
お花は俯きて何やら気の進まぬ体、
「何だか私も花ちやんにお別れするが厭でなりませんの」とい兼吉の老母もつぶやく、
「老女さん」と篠田は渡辺の老女を顧みつ「花さんは大切な体です、将来に大きな事業をなさらねばならぬ役目を負んで居られますので、又た花さんの性質に極く適当した役目であると思ひますので、矢島の老女史や、島田の奥様に能くお話して御依頼しましたが、何れも快く引き受けて下ださいましたから、当分慈愛館で修業なさるのです」
「ですけども先生」とお花は顔僅に擡げつ、「私の様なものは兎ても世間へ面出しが出来なからうと思ひましてネ、寧そ御迷惑さまでも、お家で使つて戴いて、大和さんや、老母さんに何か教へて戴きたいと考へますの――」
「花さん、何時の間に貴女は其様な弱き心にお化りでした、――先夜始めて新聞社の二階で御面会致した時、貴女と同じ不幸に陥つてる女、又陥りかけてる女が何千何万とも限ないのであるから、其を救ふ為めの一個の証人にならねばならぬと申したれば、貴女は身を粉に砕いても致しますと固く約束なされたでせう」
と篠田はお花を奨ましつ「誠に世の中は不幸なる人の集合と云うても差支ない程です、現に今ま爰へ団欒てる五人を御覧なさい、皆な社会の不具者です、渡辺の老女さんは、旦那様が鹿児島の戦争で討死をなされた後は、賃機織つて一人の御子息を教育なされたのが、愈々学校卒業と云ふ時に肺結核で御亡なり、――大和君の家は元と越後の豪農です、阿父さんが国会開設の運動に、地所も家も打ち込んで仕舞ひなすつたので、今の議員などの中には、大和君の家の厄介になつた人が幾人あるとも知れないが、今ま一人でも其の遺児を顧るものは無い、然かし大和君は我も殆ど乞食同様の貧しき苦痛を嘗めたから、同じ境遇の者を救はねばならぬと、此の近所の貧乏人の子女の為め今度学校を開いたので、今夜のクリスマスを以て其の開校式を挙げた積りのです、――兼吉君のことは花さん、既に御聞になつたでせう、兼吉君の阿父さんが、自分の財産を挙げて保証の義務を果たすと云ふ律義な人で無つたならば、老婆さんも今頃は塩問屋の後室で、兼吉君は立派に米さんと云ふ方の良人として居られるのでせう、――私自身を言うて見ても、秩父暴動と云ふことは、明治の舞台を飾る小さき花輪になつて居るけれ共、其犠牲になつた無名氏の一人の遺児が、父母より譲受けた手と足とを力に、亜米利加から欧羅巴まで、荒き浮世の波風を凌ぎ廻つて、今日コヽに同じ境遇の人達と隔なく語り合つて居るのです、私の近き血縁を云へば只た一人の伯母がある、今でも訪ふ人なき秩父の山中に孤独で居る、世の中は不人情なものだと断念して何しても出て来ない、――花さん、屈辱を言へば、貴女一人の生涯ではない、只だ屈辱の真味を知るものが、始めて他を屈辱から救ふことが出来るのです」
一座しんみりと頭を垂れぬ、
「御覧なさい、救世主として崇敬はるゝ耶蘇の御生涯を」と篠田は壁上の扁額を指しつ「馬槽に始まつて、十字架に終り給うたではありませんか」
多事多難なりける明治三十六年も今日に尽きて、今は其の夜にさへなりにけり、寺々には百八煩悩の鐘鳴り響き、各教会には除夜の集会開かる、
永阪教会には、過般篠田長二除名の騒擾ありし以来、信徒の心を離れ離れとなりて、日常の例会もはかばかしからず、信徒の希望なる基督降誕祭さへ極めて寂蓼なりし程なれば、除夜の集会に人足稀なるも道理なりけり、
時刻には尚ほ間あり、詣で来し人も多くは牧師館に赴きて、広き会堂電燈徒らに寂しき光を放つのみなるに、不思議や妙へなる洋琴の調、美しき讃歌の声、固く鎖せる玻璃窓をかすかに洩れて、暗夜の寒風に慄へて急ぐ憂き世の人の足をさへ、暫ばし停めしむ、
洋琴の前に座したるは山木梅子、傍に聴き惚れたるは渡辺の老女、
「今度は老女さんのお好きな歌を弾きませう」と、梅子が譜本繰り返へすを、老女はジツと見やりて思はず酸鼻りぬ、
「何うかなさいまして、老女さん」
老女は袖口に窃と瞼拭ひつ「何ネ、――又た貴嬢の亡母さんのこと思ひ出したのですよ、――斯様立派な貴嬢の御容子を一目亡奥様にお見せ申したい様な気がしましてネ、――」
答へんすべもなくて、只だ鍵盤に俯ける梅子の横顔を、老女は熟く熟くとながめ「何して、梅子さん、貴嬢は斯うまで奥様に似て居らつしやるでせう、さうして居らつしやる御容子ツたら、亡母さん其儘で在らつしやるんですもの――此の洋琴はゼームス様が亡母さんの為めに寄附なされたのですから、貴嬢が之をお弾きなされば、奥様の霊が何程に喜んで聴いてらつしやるかと思ひましてネ――オホヽ梅子さん、又た年老の愚痴話、御免遊ばせ――」
「アラ、老女さん、そんなこと――此の教会で亡母のこと知つてて下ださるのは、今は最早老女さん御一人でせう、家でもネ、乳母が亡母のこと言ひ出しては泣きます時にネ、きツと老女さんのこと申すのですよ、私、老女さんに抱いて戴いて、亡母と永訣の挨拶をしたのですとネ、――私、老女さん、此の洋琴に向ひますとネ、何うやら亡母が背後から手を取つて、弾いてでも呉れる様な気が致しましてネ、不図、振り向いて見たりなどすることがあるんですよ、――私ネ、老女さん、此の教会を棄てることの出来ないのは、こればかりなんです――」
「まア、貴嬢、飛んでも無いこと仰しやいます、此上貴嬢が退会でもなさろものなら、教会は全で闇ですよ、篠田さんの御退会で――」
思はず言ひ掛けて、老女は俄に口に手を当てぬ、「ほんとに老女さん、篠田さんのことでは私、皆様にお顔向けがならないのです、――老女さん、近く篠田さんに御面会なさいまして――」
「ついネ、此の廿五日にも参上つたのですよ、御近所の貧乏人の子女を御招なすつて、クリスマスの御祝をなさいましてネ、――其れに余りお広くもない御家に築地の女殺で八釜かつた男の母だの、自由廃業した芸妓だのツて御世話なすつて居らつしやるんですよ、ほんとに感心な方ですことネ――」
「其の芸妓のことで、老女さん、新聞などには大層、篠田さんの悪口が書いてあつたぢやありませんか」梅子の声は低く震へり、
「左様ですツてネ、貴嬢、篠田さんが自分の妾になさるんだとか何とか書ましたつてネ、余まり馬鹿々々しいぢやありませんか、ナニ、皆な自分の心で他を計るのですよ、クリスマスの翌日、彼の慈愛館へ伴れてお行になりましたがネ、――貴嬢、私の伜が生きてると丁度篠田様と同年のですよ、私、彼の方を見ると何時でも涙が出ましてネ」
梅子はホツと面赧らめつ「何と云ふ失礼な新聞でせうねエ」
此時、ベンチにはボツ/\人の顔見えぬ、長谷川牧師は扉を排して入り来れり、浅き微笑を頬辺に浮べて、
午後五時三十分、東海道の上ぼり車、正に大磯駅を発せんとする刹那、プラットホームに俄に足音急はしく、駅長自ら戦々兢々として、一等室の扉を排けば、厚き外套に身を固めたる一個の老紳士、平たき面に半白の疎髯ヒネリつゝ傲然として乗り入る後ろより、未だ十七八の盛装せる島田髷の少女、肥満なる体をゆすぶりつゝ笑傾けて従へり、
発車の笛、寒き夕の潮風に響きて、汽車は「ガイ」と一と動りして進行を始めぬ、駅長は鞠躬如として窓外に平身低頭せり、去れど車中の客は元より一瞥だも与へず、
未だ座には着くに至らざりし彼の少女は、突如たる車の動揺に「オヽ、怖ワ」と言ひつゝ老紳士の膝に倒れぬ、
紳士は其儘かき抱きて、其の白きもの施こせる額を恍惚と眺めつ「どうぢや、浜子、嬉しいかナ」と言ふ顔、少女は媚を湛へし眸に見上げつゝ「御前、奥様に御睨まれ申すのが怖くてなりませんの」
「ハヽヽヽヽ何に奥が怖いことあるものか、あれは梅干婆と云ふのぢやから、最早嫉くの何うのと云ふ年ぢや無いわい、安心しちよるが可い、――其れよりも世の中に野暮なは、其方の伯父ぢや、昔時は壮士ぢやらうが、浪人ぢやらうが、今は兎に角芸人の片端ぢや、此頃の乱暴は何うぢや、姪を売つて権門に諂ふと世間に言はれては、新俳優の名誉に関はるから、其方を取り戻すなどと、イヤ、飛んだ活劇をし居つたわイ、第一其方の心中を察しない不粋な仕打ぢや、ナ、浜子」
「あの時は、御前、何うなることかと私、ほんとに怖う御座いましたよ、けども御前、伯父も本心から彼様こと致したのでは御座いませぬでせうと思ひますの、御前の御贔負に甘えまして一寸狂言を仕組んで見たので御座いますよ」
「ウム、其方の方が余程物が解わちよる、――アヽ、僅かの間でも旅と思へば、浜子、誰憚からず、気が晴々としをるわイハヽヽヽヽ」
「ほんたうに左様で御座いますのねエ、ホヽヽヽヽ」
人なき一室を我が世と楽みて、又た他事もなき折こそあれ、「バタリ」響ける物音に、何事と彼方を見れば、今しも便所の扉開きて現はれたる一客あり、陽春三月の花の天に遽然電光閃めけるかとばかり眉打ち顰めたる老紳士の面を、見るより早く彼の一客は、殆ど匍はんばかりに腰打ち屈めつ、
「是れは/\伊藤侯爵閣下――」
伊藤と呼ばれし老紳士は、膝より浜子を下ろしつゝ「ウム、山木か――」
「閣下、久しく拝謁を見ませんでしたが、相変らず御盛なことで恐れ入りまする」
「山木、隠居役になると、貴公等には用が無くなるからナ」
と侯爵の冷かに笑ふを、山木剛造は額撫でつゝ「是れは閣下、決して左様な次第では御座りませぬが、――併し今日は誠に可い所で拝謁を得ました、実は是非共閣下の御権威を拝借せねばならぬ義が御座りまして――」
空嘯ける侯爵「金儲のことなら、我輩の所では、山木、チト方角が違ふ様ぢヤ――新年早々から齷齪として、金儲も骨の折れたものぢやの」
「閣下、実は旧冬から九州へ出掛けましたので――或は新聞上で御覧になりましたことかとも愚察仕りまするが、此度愈々炭山坑夫の同盟罷工が始まりさうなので御座りまして――」
「ふウむ」と侯爵は葉巻の煙よりも淡々しき鼻挨拶、心は遠き坑夫より、直ぐ目の前の浜子の後姿にぞ傾くめり、
浜子は彼方向いて、遙か窓外の雪の富士をや詮方なしに眺むらん、
「閣下、近来社会党がナカ/\跋扈致しまして、今回坑夫の同盟なども全く、社会党の煽動から起つたので御座ります、此分では将来何の事業でも発達上、非常な妨碍を蒙りまするわけで、何卒此際厳重に撲滅策を執らるゝ様、閣下より一言、政府へ御指図下ださる義を懇願致しますので――」
伊藤侯爵は空吹く風と聞き流しつ「二三の書生輩の空理空論を、左迄恐るゝにも足らぬぢやないか、況して労働者などグヅ/\言ふなら、構まはずに棄てて置け、直ぐ食へなくなつて、先方から降参して来をらう」
「所が閣下、何うやら亜米利加の労働者などから、内々運動費を輸送し来るらしいので御座りまして、――若し外国の勢力が斯様なことから日本へ這入つて来るやうになりませうならば、国体上容易ならぬ義かと心得まするので」
「ナニ、山木、別段不思議無いではないか、労働者が労働者の金を輸入するのと、君等実業家連が外資輸入を遣り居るのと、何の違もあるまいではないか」
「では御座りまするが、閣下」と、山木は額を撫でつ「探知致しましたる所では、近々東京に労働者等の大会を開いて、何か穏かならぬ運動を企てまする様子で、何うせ食ふことが出来ぬ乱暴漢の集りで御座りまするから、何事が出来せんも図られませぬ次第で――それに新聞と云ふ程のものでも御座りませぬが、兎に角同胞新聞など申す毒筆専門の機関を所持致し居りまするから、無智無学の貧民共は、ツイ誘惑されぬとは限りませぬ、尤も警察が少こし確乎して居りまするならば彼れ等程のものに別段心配も御座りませぬが、何分にも閣下が総理の御時代とは違ひまして、警察の方なども緩漫極つて居りまするから――」
薄き眉ビリと動くと共に、葉巻の灰震ひ落としたる侯爵「山木、其の同胞新聞と云ふのは、篠田何とか云ふ奴の書き居るのぢやないか」
「ハ、篠田長二と申すので、閣下御存で御座りまするか」
「否や、顔は見たことないが、実に怪しからん奴ぢや、我輩のことなど公私に関はらず、攻撃を――」
と言ひさして、浜子を見やれば、浜子は艶かしく仰ぎ見つ、「御前、あの私のこと悪口書いた新聞でせう、御前、何卒讐討つて下ださいな」
「ウム」と首肯きたる侯爵「先年、彼等が社会民主党を組織した時、我輩は末松に命けて直に禁止させたのぢや、我輩が憲法取調の為め独逸に居た頃、丁度ビスマルクが盛に社会党鎮圧を行りおつた、然るに現時の内閣の者共が何も知らないから、少しも取締が届かない――可矣、山木、早速桂に申し付けよう」
「閣下、誠に有難う御座ります」と山木は足の爪先まで両手を下げつ、「イヤどうも、政府の大小、御世話なされまするので、御静養と申すこともお出来なされず、御推察致しまする」
「ウム、何かと云ふと、直ぐ元老が呼び出されるので、兎てもかなはん――只だ美姫の幸に我労を慰するに足るものありぢや、ハヽヽヽヽ、なア浜子」
汽車は早くも大船に着けり、一海軍将校、鷹揚として一等室に乗り込みしが、忽ち姿勢を正うして「侯爵閣下」
徐ろに顧みたる侯爵「ヤア、松島大佐か――何処へ」
「横須賀からの」
「松島さん」と慇懃に挨拶する山木剛造を、大佐は軽く受け流しつ、伊藤侯爵と相対して腰打ち掛けぬ、
夕陽は尚ほ濃き影を遠き沖中の雲にとどめ、車は既に淡き燈火を背負うて急ぐ、
ポケットより巻莨取り出して大佐は点火しつ「閣下、又た近日元老会議ださうで御座りまして、御苦労に存じます」
「松島、実に困らせをるぞ、権兵衛に少こし確乎せいと言うて呉れ」
「閣下、其れは私共の方で申上げたいと存じまする所です、ヤ、モウ、先刻も横須賀へ参れば、艦隊の連中からは、大臣が弱いの、軍令部が腰抜だのと勝手な攻撃を受けます、元老方からは様々御注文が御座りまする、民間からは出法題な非難を持ち掛ける、斯様割の悪い役廻りは御座りませぬ」言ひつゝ、烟草の煙の間より、浜子の姿をチラリ/\と、横目に睨む、
大佐の目遣ひに気つきたる侯爵「や、松島、爰に居る山木は君の舅さうぢやナ、――先頃誰やらが来て切りに其の噂し居つた、彼の様子では兎ても尊氏を長追ひする勇気があるまいなどと嫉妬し居つたぞ、非常な美人さうぢやな、何時ぢや合衾の式は――山木、何時ぢや、我輩も是非客にならう」
山木は頭掻きながら「ハ、未だ何時と確定致す所にも運び兼て居りまする様な次第で――何分にも時局の解決が着きませぬでは――」
「ハヽヽヽヽ、時局と女とは何の関係もあるまい、戦争の門出に祝言するなど云ふことあるぢやないか、松島も久しい鰥暮ぢや、可哀さうぢやに早くして遣れ――それに一体、山木、誰ぢや、媒酌は」
「ハ、表面立つた媒酌人と申すも、未だ取り定めたと申す儀にも御座りませぬ、何れ其節何殿かに御依頼致しまする心得で――」
「フム、其りや幸ぢや、我輩一つ媒酌人にならう、軍人と実業家の縁談を我輩がする、皆な毛色が変つてて面白ろからう、山木、どうぢや」
「ハ、閣下が御媒酌下ださりまするならば、之に越したる光栄は御座りませぬが――」
「松島、君の方は何ぢや」
苦笑しつゝ烟吹かし居たる大佐「御厚意は感謝致しまするが、其れは最早御無用です」
「ナニ、無用ぢや、松島」
大佐は冷かに片頬に笑みつ「はア、閣下、山木には無骨な軍人などは駄目ださうです、既に三国一の恋婿が内定つて居るんださうですから」
「フウ、外に在るのか、其りや一ときは面白い、山木、誰ぢや、君の恋婿と云ふのは」
剛造は顔中撫で廻はして「閣下、其れは松島さんのお戯れで、決して外に約束など有る義では御座りませぬが――」
殆ど困却の山木を、松島は愉快げに尻目に掛けつ「然らば閣下、山木の恋婿をば自分から御披露に及びませう――日本社会党の領袖、無政府主義の張本、同胞新聞主筆篠田長二君と仰せられるのださうでツ」
「ヤ、松島さん」と色を失つて周章する剛造を、侯爵は稍々垂れたる目尻にキツと角立てて一睨せり、
「閣下、其れを御信用下だされましては、遺憾千万に御座りまする、全く松島様の誤解で御座りますから――」
「松島、事実相違ないか、何うぢや」
大佐は冷然たり「閣下、私も帝国軍人で御座りまする」
「フム」と軽く首肯きて侯爵は又た山木の面を睨めり、
「閣下、其れは余りに残酷なことで御座りまする、私が社会党などに娘を遣ることが出来まするものか出来ませぬものか、少し御賢察を願はしう存じまする、――近い御話が、閣下、今回炭山の坑夫同盟でも明かでは御座りませぬか、九州の方へは菱川だとか何だとか云ふ二三人の書生を遣つて奇激な演説などさせて、無智蒙昧な坑夫等を煽動させ、自分は東京に居て総ての作戦計画をして居るので御座りまする、皆な篠田長二の方寸から出でまするので――非戦論など唱へて見ても誰も相手に致しませぬ所から、今度は石炭と云ふ唯一の糧道を絶つ外ないと目星を着けて、到底相談のならない法外な給料増加の請求を坑夫等に教唆し、其の請求の貫徹を図ると云ふ口実の下に、同盟罷工を行らせると云ふのが、篠田の最初からの目的なので御座りまする、悪党とも国賊とも、名の付けられた次第では御座りませぬ、――閣下、何して私が其様なものへ娘を遣ることが出来ませう――其れで坑夫共の生活を支へる為めに亜米利加の社会党から運動費を取り寄せる手筈をする、其ればかりでは駄目ぢやと申すので、近々東京に全国労働者の大会を開く計画する、何れも其の張本は彼の篠田で御座りまする、左ればこそ先刻も、閣下、彼奴等の取締に就て、御尽力を歎願したでは御座りませぬか――」
「ウム」と思案せる侯爵「成程――何うぢや松島、山木の言ふ所道理至極と聞かれるでは無いか」松島は莨くゆらしつゝ「然かし、閣下、御本尊が嫁きたいと申すものを、之を束縛する親の権力も無いでは御座りませぬか」
山木は顔突き出し「其れは閣下、全く松島様の御聞き誤りで御座りまする、先頃迄は娘共の参る教会に篠田も居たので御座りました、其れで何かとあらぬ風評を致すものもあつたらしいで御座りまするが、彼の様な不都合な漢子を置くのは、国体上容易ならぬことと心着きまして、私から教会へ指図して放逐致した次第で御座りまする――承りますれば、彼奴等平生、露西亜の虚無党などとも通信し合つて居るさうに御座りまするし、其れに彼奴、教会を放逐された後は、何でも駿河台のニコライなどへ出入するとか申すので、警視庁でも、露西亜の探偵ではあるまいかなど、内々注意して居られるとか聞きまして御座りまする」
侯爵は切りに首肯きつ「左様ぢやらう、松島、別段疑惑する点も無いでほ無いか――何うぢや、我輩が図らず斯かる話を聞くと云ふも何かの因縁ぢやらうから、一つ改めて我輩が媒酌人にならう、山木、貴公の娘にも必ず異存あるまいナ」
山木剛造は平身低頭「御念には及びませぬ、閣下、是迄の所、何を申すも我儘育ちの処女で御座りまする為めに、自然決心もなり兼ねましたる点も御座りましたが、旧冬、私出発の前夜も能く利害を申聞け心中既に理会致して居りまする、兎に角私帰宅の上、挨拶致す様にと猶予を与へ置きましたる様の始末、帰京次第今晩にも判然致す筈で御座りまして――特に閣下が表面御媒酌下ださると申聞けましたならば、一身の名誉、一家の光栄、如何ばかり喜びませうか」
「ハヽヽヽ松島と篠田、こりや必竟帝国主義と、社会主義との衝突ぢや、松島、確乎せんとならんぞ」と侯爵は得意満面に松島を見やりつ「然かし松島、才色兼備の花嫁を周旋する以上は、チト品行を慎まんぢや困まるぞ、此頃は切りと新春野屋の花吉に熱中しをると云ふぢやないか」
浜子は侯爵の顔さしのぞき「御前、其の花吉と申す芸妓は先頃廃業したさうで御座んすよ」
侯爵は打ち驚き「オ、廃業しをつた――新開に在つたと、浜子、其方は能う新聞を見ちよるな、感心ぢや――松島、其の根引き主は貴公ぢや無いか、白状せい」
松島の苦がり切つたる容子に、山木は気の毒顔に口を開きつ「――実は、閣下、其れも矢張篠田の奸策で御座りまする」
「ナニ、花吉を篠田が落籍せをつたと――フム、自由廃業、社会党の行りさうなことぢや――彼女には我輩も多少の関係がある、不埒な奴、松島、篠田ちふ奴は我輩に取つても敵ぢや、可也、此上は山木の嬢は何事があるとも、必ず松島へ嫁らねば、我輩の名誉に係はるわい」
意気軒昂、面色朱を濺ぎたる侯爵は忽然として山木を顧みつ「然かし山木、君もナカ/\酷い男ぢやぞ、何ぢや、ぽん子は相変らず奇麗ぢやろナ、今を蕾の花の見頃と云ふ所を、突如に横合から根こぎにするなどは、乱暴極まるぢやないか、松島のは社会主義に対する帝国主義の敗北、我輩のは金力に対する権力の失敗ぢや」
頭掻きつゝ山木の困却の態に、侯爵は愈々興を催ふしつ「何程花婿が放蕩して、大切な娘が泣きをつても、苦情を申入れる権利があるまい、ハヽヽヽヽ山木、君の様な爺の機嫌取つて日蔭の花で暮らさせるは、ぽん子の為めに可哀さうでならぬぢや」
剛造は只だ赤面恐縮、
大佐はニヤリと浜子を一瞥しつ「が、閣下、山木は閣下に比ぶれば、未だ十幾つと云ふ弟ださうですよ」
剛造ほツと一道の活路を待つ「大きに松島様の仰の通りで、ヘヽヽヽヽ」
侯爵も頭撫でて大笑しつゝ「ヤ、松島、最早舅の援兵か、余り現金過ぎるぞ」
「品川々々」と呼ぶ駅夫の声と共に車は停りぬ、
「オヽ、もう品川ぢや、浜子」と侯爵は少女の手を採りて急がしつ「今夜は杉田の別荘に一泊するから失敬する」と言ひ棄てたるまゝ悠然降り立ちて、闇の裡へと影を没せり、
窓に凭りて見送り居たる松島は舌打ちつ「淫乱爺の耄碌ツ」
麹町は三番丁なる清風女学校には、今日しも新年親睦会、
校友の控所に充てられたる階上の一室には、盛装せる丸髷、束髪のいろ/\居並びて、立てこめられたる空気の、衣の香に薫りて百花咲き競ふ春とも言べかりける、
中央の椅子に懸りたる年既に五十にも近からんと思はるゝ麦沢教授、小皺見ゆる頬辺に笑の波寄せつ「皆さんが立派な奥様におなりなすつたり、阿母さんにおなりなすつた御容子を拝見する程、私共に取つて楽は御座んせんのね、之を思ふと私などは能くまア腰が屈つて仕舞はないと感心致しますの――否エ、此頃は、もう、ネ、老い込んで仕様がありませんの、自分ながら愛想が尽きる程なんですよ――斯う御見受け申した所、夏野様の旦那様は内務の参事官、秋葉様のは衆議院議員、冬田様のは日本銀行の課長さん、春山様のは陸軍中尉、蓮池様のは大学数授、何殿も国家の大任ですねエ、桜井様のは留学中で御帰朝の後は医学博士、松村様のは弁護士さん――」
と、次第に読み上げ行きしが、偖其次席に列なれる山木梅子が例の質素の容子を見て、暫し躊躇ひつ「山木様は独立で、婦人社会の為に御働なさらうと云ふ御志願で、特に阿父は屈指の紳商で在つしやるのですから」
と、相当なる理由を発見して頌徳表を呈したる時、春山と呼ばれたる陸軍中尉の妻女「あら、麦沢先生、山木様は疾くに御約束で、最早近々に御輿入れになるんですよ」と、黄色な声して嘴を容れぬ、
「左様ですか」と、麦沢女教授は円くしたる眼を、忽ち細くして笑みつくろひ、「山木様、まア、お目出度御座います、存じませんでしたもんですから、ツイ、失礼致しましてネ、――シテ、春山様、何殿」
「先生が御存無つたとは驚きましたねエ」と春山は容子つくろひ「あの、海軍大佐の松島様へ」
「オヽ、あの松島さんへ」と女教授は驚きしが「実権海軍大臣などと新聞で拝見する松島さんへ――左様ですか、山木様、貴嬢にはほんとに御似合の御縁組ですよ」
一座の視線は皆な沈黙せる梅子の面上に集まりぬ、
松村と言へる弁護士の妻女は、独り初めより怪しげに打ち目もり居たりしが「先生、私も山木様の御縁談の御噂をお聞き申しましたが、只今の御話とは少こし違ふ様ですよ」
「エ、松村様、ぢや何殿と仰しやるのです」
松村は梅子の顔恐る/\見やりながら「間違ひましたら山木様、御免下ださいな――あの、同胞新聞社の篠田様へ――」
麦沢教授は反歯剥き出してハツハと打ち笑へり「松村様、何を仰しやる、山木様が何で彼様男の所などへお嫁でになるもんですか、私も何時でしたか、何かの席で篠田と云ふ人見ましたがネ、貴女、彼は壮士ですよ、何して彼様貧乏人と山木様が御結婚出来ますか」
「いゝえネ、先生、只だ私は山木様の教会と関係のある人から聞いたのですから――」
と松村の穏かに弁疏するを、彼の春山はシヤちやり出でつ「私は良人から聞きましたのです、現に松島様が御自分で御披露になりましたさうで、軍人社会では誰知らぬものも無いので御座います」
曰く松島自身の披露、曰く軍人社会の輿論而して之を言ふものは、現に陸軍中尉の妻女、何人か又た之を疑はん「山木様はタシカ軍人はお嫌の筈でしたがネ」「独身主義の御講義を拝聴した様にも記憶致しますが」「オールド、ミスも余り立派なものでありませんからね」、など、聞えよがしの私語も洩れぬ、
梅子が余りの沈黙に、一座いたくシラけ渡りぬ、
扉開かれて、歴年の老小使、腰打ち屈めつ「山木様――菅原の奥様が五号室に御待ち受けで御座います」
之を機会に梅子は椅子を離れつ「失礼」と一揖して温柔かに出で行けり、
第五号教室のピヤノの側に人待ち顔なる大丸髷の若き婦人は、外務書記官菅原道時の妻君銀子なり、扉しとやかに開かれて現はれたる美しき姿を見るより早く、嬉しげに立ち上がりつ、「オヽ梅子さん」
「銀子さん」
相見て嫣然、膝つき合はして椅子に座せり、
「梅子さん、ほんとに久濶ですことねエ、私、貴嬢に御目に懸りたくてならなかつたんですよ、手紙でとも思ひましたけれどもね、其れでは何やら物足らない心地しましてネ――今日も少こし他に用事があつたんですけれども、多分、貴嬢が御来会になると思ひましたからネ、差繰つて参りましたの」
「私もネ、銀子さん、此頃切りに貴女が懐しくて堪らないで居ましたの、寧そ御邪魔に上らうかと考へましたけれどネ、外交のことが困難いさうですから、菅原様も定めて御多用で在つしやらうし、貴嬢にしても矢張り御屈托で在つしやらうと遠慮しましてネ」
「あら、梅子さん、いやですことねエ、――結婚すると御友達と疎遠になるなんて皆様仰しやるんですけれど、貴嬢まで矢張其様事を仰つしやらうとは思ひも寄りませんでしたよ」
「銀子さん、左様ぢやありませんよ」
銀子は熟々と梅子の面打ちまもり居たりしが「梅子さん、貴嬢はほんとに御憔悴なすツたのねエ、如何なすつて――」
「否、別に如何も致しませんの」
「けども、何か御心配でもおありなさらなくて」
「否――心配と云ふ程のこともありませんがネ――」
「心配と云ふ程で無くとも、何か御在りなさるでせう」
と銀子は顔差し付けて声打ちひそめ「私、貴嬢に御聴せねば安心ならぬことがあるんですよ――梅子さん、貴嬢、ほんとに彼の海軍の松島様と御約束なさいまして――」
梅子は目を閉ぢて無言なり、
「梅子さん、私ネ、其を道時から聴きましても、貴嬢から直接に聴かなければ安心が出来ないんですもの」
「銀子さん、貴女まで其様風評を御信用下ださるんですか――」涙ハラ/\と膝に落ちぬ、
銀子は梅子の手を握れり「梅子さん、貴嬢は私が、其様風評を信用するものと御疑ひ下ださいますの――」
梅子は握られし銀子の手を一ときは力を籠めて握り返へしつ「否、銀子さん、私は学校に居た時と少しも変らず、貴嬢を真実の姉と懐つて居るんです」
「梅子さん、有難う――何うしたわけか、初めて入学した時から貴嬢とは心が会つて、私が一つ年上ばかりに貴嬢の姉と呼ばれる様になつたことは、何程嬉しいとも知れないのです、道時が何か私の非難など致します時には、併かし私の妹に山木梅子と云ふ真の女丈夫が在りますよと誇つて居るのです――丁度昨年の十月頃でしたよ、外交問題が八釜敷なり掛けた頃と思ひますから――道時が晩餐の時、冷笑ひながら、お前の御自慢の梅子さんも、到頭海軍の松島の所へ行くことになつたと言ひますからネ、私は断然之を打ち消したのです、梅子さんも御自分で是れならばと信じなさる男子を得なすツたならば、進で御約束もなさらうし、又た強ひても御勧め申すけれど、軍人は人道の敵だとまで思つて居なさる梅子さんが、特に不品行不道徳な松島様などに御承諾なさる筈が無い、又た若し其れが真実ならば必ず梅子さんから、御報知がある筈だと頑張つたのですよ、スルと憎くらしいぢやありませんか、道時が揶揄半分に、仮令梅子さんからの御報知は無くとも、松島の口から出たのだから仕様が在るまい抔と言ひますからネ、彼様松島様などの言ふことが何の証拠になりますと拒絶て遣りましたの、其ツきり道時も何も言ひませんでしたがネ、昨日ですよ、外務省から帰りましてネ、服も更ためずに言ふんです、梅子さんの結婚談も愈々進んで、伊藤侯が媒介者となられ、近日中に式を挙げらるゝさうだと、大威張に言ぢやありませんか、私には如何しても解らないのです、相手が松島様で、媒介が伊藤侯と云ふんでせう、梅子さん、貴嬢が地獄の子にでも生れ変つて来なすつたのを見た上でなくては、私は仮令道時の言葉でも、信用することが出来ないんです」
「銀子さん、姉さん、――有難う――」梅子は目を閉ぢて涙を堰きぬ、
「けどもネ、梅子さん、」と銀子は容を改めつ「貴嬢は飽く迄も独身主義を遣り徹さうと云ふ御決心なの」
梅子は只だ首肯きつ、
「私ネ、梅子さん、貴嬢の独身主義には、心から同情を持つてるんですよ――貴嬢の家庭の御事情は私も能く存じて居るんですからネ――けれど私、梅子さん、怒りなすつちや厭よ、日常さう思んですの、貴嬢の深い心の底にほんとに恋と云ものが無んだらうかと――学校に居た頃の貴嬢のことは私、能く知つててよ、貴嬢の御心は、只だ亡き阿母を懐ふ麗はしき聖き愛に溢れて、外には何物をも容れる余地の無つたことを――皆さんが各々理想の男を描いて泣いたり笑つたり、欝したりして騒いで居なさる時にでも、真正に貴嬢ばかりは別だつたワ――他人様のことばかり言へないの、私だつてもネ、梅子さん、笑つちや厭よ、道時のことでは何程貴嬢の御世話様になつたか知れないワ、私、貴嬢の御恩を忘れたこと有りませんよ――彼頃の貴嬢の御面は全く天女でしたのねエ――けれど梅子さん、今ま貴嬢を見ると、何処とも無く愁の雲が懸つて、時雨でも降りはせぬかの様に、憂欝の色が見えるんですもの、そりや梅子さん貴嬢ばかりぢやない、誰でも、齢と共に苦労も増すに定つて居ますがネ、只だ私、貴嬢の色に見ゆる憂愁の底には、女性の誰も免れない愛情の潜んで居るのぢや無からうかと思ふんですよ――私などは斯様軽卒なもんですから、直ぐ挙動に顕はして仕舞ますがネ、貴嬢の様に強意した方は、自ら抑へるだけ、苦痛も一倍酷いだらうと察しますの――」
俯ける梅子に、銀子は身をスリ寄せつ「若し、梅子さん、御気に障つたなら赦して頂戴な、私只だ気になつて堪らないもんですから、心の有りたけを言ふのですよ――私だつて道時のことでは何程耻づかしいことでも皆な打ち明けて、貴嬢に御相談したでせう、其れでこそ始めで姉妹の契約の実があると言ふんですわねエ――梅子さん後生ですから貴嬢の現時の心中を語つて下ださいませんか」
「銀子さん」と良久ありて梅子は声顫はしつ「四年前の貴女の苦痛を、今になつて始めて知ることが出来ました――」
「能く言うて下ださいました梅子さん」と銀子は嬉しげに「今度は私が先年の御恩返しに何様奔走でも致しますよ――梅子さん、ツイ、御名を知らして下ださいな」
「銀子さん、貴女の御親切は御礼の申しやうもありませんが、到底事情の許さないのですから、只だ此れだけは私に取つて秘密の一ツに許して下ださいませんか――貴女に打ち明けないと云ふのは、私も何様に心苦しいか知れないのですけれど――」梅子は唇を噛んで声を呑みぬ、
銀子は暫ばし思案に暮れしが、独り心に首肯きつ「――梅子さん、私知つてますよ」
梅子は愕然として銀子を見たり、
「若し梅子さん、間違つてたなら勘弁して下ださいな――あの、篠田長二さんて方ぢやありませんか――」言ひつゝ銀子は凝乎と梅子を見たり、梅子は胸を押へて復た只だ俯きぬ、
「梅子さん、私、それを或る方から聞いたのですよ――ほんとに不思議なものですねエ、自分では夢にも洩らしたことの無い秘密を、世間が何時か知つてるんですもの――慥に宇宙の神秘なのねエ――私、梅子さん、此の風説は心に信じたの、何故と云ふに篠田さんて方の御性質や其の御行動が、如何にも貴嬢の嗜好に適合してるんですもの――梅子さん、私は未だ篠田さんをお見掛け申したことが無いのです、けども私それと無く道時に尋ねて見ましたの、道時は是れ迄も能く御目に懸るさうでしてね、大層讃めて居りましたの、恐るべき偉い人物であると敬服して居るんですよ――けれど梅子さん、私何程一人で心を痛めたか知ないワ――貴嬢の阿父は篠田さんを敵の如く憎んで居らつしやるんですとねエ――まア、何うしたら可いんでせう――梅子さん」
「銀子さん、皆様は私の独身主義を全然砂原の心かの様に思つて下ださいますけれど、――凡ては神様が御承知です」梅子はハンケチもて眼を掩ひつ「銀子さん貴女とお別れして三年の心の歴史を、私の為めに聞いて下ださいますか」
「梅子さん、何卒聴かして頂戴」
梅子は暫ばし心に談話の次序整へつ、「学校時代の私は、銀子さん、貴女能く御存下ださいますわねエ――彼の一時バイロン流行の頃など、貴女を始め皆様が切りに恋をお語りなさいましたが、何したわけか私には、其の興味を感ずることが出来ませんでしたの、貴女に疑はれたことなども私能く記憶して居りますよ――私も折々自分で自分を怪しんだこともありますの、私の心が不健全であるのでは無からうか、愛情と云ふものを宿どさない一種の精神病のではあるまいかと――けれど私は只だ亡き母を懐ひ、慕ひ想像する以外に、如何にしても私の心を転ずることが成らなかつたのです――皆様能く男子の集会などへ行らつしやいましたわねエ――あら、銀子さん、貴女のこと言ふのぢやなくてよ――けれど私の楽は日曜に、青山の母の墓に参詣して、其れから永阪の教会へ行つて、母の弾いた洋琴の前に座わることの外は無かつたのです、私の文章も歌も何時も母のことばかりなんですから、貴嬢の思想は余り単調だと、先生にお叱を受ましたの――其れから学校を卒業する、貴女は菅原様へ嫁つしやる、他の人々も其れ其れ方向をお定になるのを見て、私も何が自分に適当した職分であらうかと考へたのです――貴女に御相談したことがあつたでせう――貴女も賛成して下だすつたもんですから、私は貧民の児女を教育して見たいと思ひましてネ――亡母の日記などの中にも同じ教育を行るならば、貧乏人の児女を教へて見たいと云ふことが沢山書いてあるもんですからネ――其れを父に懇願したのです、けれど銀子さん、貴女も御承知の如き私の家庭でせう、父は私が実母の顔さへ知らないのを気の毒に思つて居ます所から、余程私の願ひに傾いて呉れましたけれど……後には父から私に頼む様にして、其れを思ひ止まつて呉れよと言ふのですもの――私は、銀子さん其時始めて世の中に失望と云ふことの存在を実験したのです」
「銀子さん」と梅子は語を継ぎつ「其頃私は貴女の曾ての傷心に同情しましたの、何時でしたか、貴女は夜中に私の寄宿室に来しつて仰しやつたことがありませう、――若し如何しても菅原様へ嫁くことが出来ないならば、私は一旦菅原様へ献げた此の聖き生命の愛情を、少しも破毀らるゝことなしに抱いた儘、深山幽谷へ行つて終ふ心算だつて――」
「あら梅子さん」と銀子は面赧らめつ「貴女も思ひの外、人が悪くつてネ――」
「左様ぢやありませんよ」と、梅子も思はず片頬に笑みつ「只だ私も其時始めて、貴女と同じ様な痛苦を感じたと云ふ迄のことお話するんぢやありませんか――それで銀子さん、私は全然砂漠の中にでも居る様な寂寞に堪へないでせう、而すると又た良心は私の甚だ薄弱であることを責めるでせう、墓所へ詣りましても、教会へ参りましても、私の意気地ないことを叱る様な亡母の声が聞えるぢやありませんか、あゝ寧そ死んだならば、斯様不愉快な苦境から脱れることが出来ようなどと、幾度思ひ浮んだか知れませんよ――斯う云ふ厭な月日を送つて、夜も安然に夢さへ結ぶことなしに思ひ悩んで居た時へ私は――銀子さん――何とも知れない一種の感動に打たれましたの――」
言ひ渋ぶる梅子の容子に銀子は嫣然一笑しつ「篠田様に御会ひなすつたと仰しやるんでせうツ」手を挙げて思ふさま、ビシヤリと梅子の膝を打てり、
梅子は真紅になりて俯きぬ、
「それから梅子さん、如何なすつて」
と銀子はホヽ笑みつゝ促がすを梅子は首打ち振りつ、
「私、いや、貴女はお弄りなさるんだもの――」
上気せる美くしき梅子のあどけなき面を銀子は女ながらに惚れ惚れと眺め「私が悪るかつたの、梅子さん、何卒聴かして下ださいな」
「何だか可笑しいのねエ」と、梅子は羞かしげにホヽ笑みつ「一昨々年の四月の初め、丁度桜の咲き初めた頃なの、日曜日の夜の説教をなすつたのが――銀子さん、私、何だか――」
と面背反くるを、銀子は声低くめて「其方が篠田様であつたんでせう」
梅子は俯目に首肯きつ「左様なんです、長く米国に留学なされた方で、今度永阪教会へ転会なされたと云ふんでせう、何様な人であらうと思つて居ますとネ、やがて講壇へお立ちになつたのが、筒袖の極めて質朴な風采で、彼の華奢な洋行帰の容子とは表裏の相違ぢやありませんか、其晩の説教の題は『基督の社会観』と云のでしてネ、地上に建つべき天国に就て、基督の理想を御述べになつたのです、今の社会の組織は全く基督の主義と反対の、利己主義を原則とするので、之を根本から破壊して新時代を造るのが、基督教の目的だと仰しやるのです――初め私は、現在の社会の罪悪を攻撃なさる議論の余り恐ろしいので、殆ど身体が戦慄へる様でしたがネ、基督の平和、博愛、犠牲の御精神を、火焔の様な雄弁でお演べなすつた時には、何故とも知らず聴衆の多くは涙に暮れて、二時間許の説教が終つた時には、満場只だ酔へる如き有様でした、――彼の時の説教は私「今でも音楽の如く耳に残つて居ますの――其晩は私、一睡もせずに考へましたの、そして基督の十字架の意味が始めて心の奥に理解された様に思はれましてネ、嬉しいとも、勇ましいとも訳らずに、心がゾク/\躍り立つて、思ふさま有りたけの涙を流したんですよ、インスピレーションと云ふのは、彼様した状態を言ふのぢやないか知らと思ひますの、其れからと云ふもの、昨日迄の無情の世の中とは打て変て、慥に希望のある楽しき我が身と生れ替つたのです、――そして日曜日が誠に待ち遠くて、教会が一層懐つかしくて――彼人の影が見えると只嬉しく、如何かして御来会なさらぬ時には、非常な寂寞を感じましてネ、私始めは何のこととも気が着なかつたのですが、或夜、何でも五月雨の寂しい夜でしたがネ、余り徒然の儘、誰やらの詩集を見てる時不図、アヽ私ヤ恋してるんぢや無いか知らんと、始めて自分で覚りましたの、――」
涙に満てる梅子の眼は熱情に輝きつ、ありし心の経過一時に燃え出でて恍然として夢路を辿るものの如し、
銀子も我が曾ての実験と思ひ較べて、そぞろに同情の涙堪へ難く「梅子さん貴嬢の御心中は私能く知ることが出来ますの」
「けれど銀子さん」と、梅子はうな垂れつ、「其の心の裡の喜びも束の間で、苦痛の矢は忽ち私の胸に立つたのです、其れは貴女も御聞き及びになりましたやうに、私の父と篠田様とが、仇敵の如き関係になつたことです、けれど――銀子さん、私は篠田様の御議論が至当だと思ひました、私は常に父などの営利事業に不愉快を感じで居たのです、決して道理にも徳義にも協つたこととは思ひませんでしたが、篠田様の御議論を拝見して、始めて能く父等の事業の不道理不徳義なる、説明を得たのでした、其れで私は、彼人を良人にすると云ふことは事情の許るさないものと思ひ諦め、又た一つには、私の様な不束な者が、彼様な偉い方の妻となりたいなど思ふのは、身の程を知らぬものと悟りましてネ、其れに彼人は既に家庭の幸福など云ふ問題は打ち忘れて、只だ偏に主義の為めに御尽くしなさるのを知りましたものですから、私は心中に理想の良人と奉仕いて、此身は最早や彼人の前に献げましたと云ふことを慥に神様に誓つたのですよ」
彼女は心押し鎮めつ「ですから銀子さん、私の心は決して孤独ではありません、――節操は女性の生命ですもの、王の権力も父の威力も、此の神聖なる愛情の花園を犯すことは出来ません、――此頃父が九州からの帰途で、伊藤侯と同車したとやらで、侯爵が媒酌人になられるからと、父が申すのです、まア何と言ふ穢はしいことでせう、伊藤侯と云ふものは我々婦人に取つては共同の讐敵ではありませんか、銀子さん、私が松島様の申込を拒絶する為めに、仮令私の父が破産する如き不幸に逢ひませうとも、私は決して節操を涜すやうな弱い心は起しません、父の財産は不義の結果です、私は富める不義の家に悩める心を抱いて在よりも、貧しき清き家に楽しき団欒を望むで居るのです――銀子さん、何卒安心して下ださいな」
梅子の美しき面は日の如く輝けり、
銀子は袖かき合はせて傾聴しつ「――梅子さん、貴嬢ほんとに幸福ネ――私羨しいワ」
其の語尾の怪しくも曇を帯べるに、梅子は眸を凝して之を見たり、
「銀子さん、私の何処に羨ましいことがありますか、貴女こそ婦人中の最も幸福な方だと、私真実思ひますよ」
答なき銀子の長き睫毛には露の玉をさへ貫くに梅子はいよゝ怪みつ「貴女、何かおありなすつて――」
「梅子さん」と銀子は始めて涙を呑みつ「――男と云ふものはほんとに厭なものだと思ひましてネ、そりや女の方に足らぬ所がありもしませうけれど――」
「けれど銀子さん、道時さんに何もおありなさるんぢや無でせう」
「梅子さん、私、貴嬢だから何も角もお話しますがネ――矢張有るんですよ――つまり、私の不束故に、良人に満足を与へることが、出来ないのですから、罪は無論私にありますけれど、――男も亦た余り我儘過ぎると思ひますの――梅子さん、是れは世界の男に普通のでせうか、其れとも日本の男の特性なのでせうか」
「けれど銀子さん、道時さんが不品行を遊ばすと云ふ様なことは無いでせう」
銀子は俯きて首を振りぬ、
良久ありて銀子はホツと吐息しつ「梅子さん、ほんとに幸福と思つたのは、結婚後の一年許でしたの、私の心が静実に連れて、次第に私を軽蔑する様になるんですよ――折々はネ、私の為めに余儀なく此様結婚をして一生不幸を見たなんて、残酷ことさへ言ふんですよ、――言はれて見れば私にも弱点があるから、言ひたいこともジツと耐へて居ますけれども、余り身勝手過ぎるぢやありませんかネ――それにネ、着物だの、何だのも、此頃は斯様云ふのが流行だなんて自分で注文するんですよ、何処の流行かと思へば、貴嬢、皆な新橋辺のぢやありませんか――婦人は矢張り日本風の温柔いのが可いなんて申してネ、自分が以前盛に西洋風を唱へたことなど忘れて仕舞つて私にまで斯様丸髷など結はせるんですもの、私耻づかしくて、口惜しくて堪りませんの――」
銀子は落る涙拭ひつゝ「それに梅子さん他の方の妻君など不思議だと思ひますよ、男子の不品行は日本の習慣だし、特に外交官などは其れが職務上の便宜にもなるんだからなんて、平気で在つしやるんですよ――梅子さん、私は嫉妬心が強いと云ふのでせうか」
「嫉妬心――」と梅子も覚えず、顔紅らめつ「如何なる人でも境遇に打ち克つと云ふことは余程困難ですから、私は日本の様な不道徳な社会に在る婦人は、とても男子から報酬を望むことは断念せねばならぬと思ひますの、受くるよりも与ふるが寧ろ幸福ぢやありませんか、貴女が全心を挙げて常に道時さんを愛して居なさるならば必ず慚愧して、昔日に優る熱き愛憎を貴女に与へなさる時が来るに違ありません」
「アヽ、梅子さん、其れが真理なんでせうねエ――」
「銀子さん、ほんとに貴女こそ幸福ねエ――何故ツて?――貴女は愛を成就なされたぢやありませんか、現今の貴女は只だ小波瀾の中に居なさるばかりです、銀子さん何卒、私を可哀さうだと思つて下ださい、――私の全心が愛の焔で燃え尽きませうとも、其を知らせる便宜さへ無いぢやありませんか、此のまゝ焦がれて死にましても、アヽ気の毒なことしたとだに思つて貰ふことがならぬではありませんか――何と云ふ不幸な私の鼓膜でせう、『我は汝を愛す』と云ふ一語の耳語をさへ反響さすることなしに、墓場に行かねばなりませんよ――」
「梅子さん」突如銀子は梅子の膝に身を投げ出し、涙に濡れたる二つの顔を重ねつ「梅子さん――寄宿舎の二階から閃めく星を算へながら、『自然』にあこがれた少女の昔日が、恋しいワ――」
ワツと泣き洩る声を無理に制せる梅子は、ヒシとばかり銀子を抱きつ、燃え立つ二人の花の唇、一つに合して、暫ばし人生の憂きを逃れぬ、
遠音に響くピヤノとウァイオリンの節面白き合奏も、神の御園の天楽と聴かれて、
国民の耳目一に露西亜問題に傾きて、只管開戦の速かならんことにのみ熱中する一月の中旬、社会の半面を顧れば下層劣等の種族として度外視されたる労働者が、年々歳々其度を加ふる生活の困苦惨憺に、漸く目を挙げて自家の境遇を覚悟するに至り、沸騰せんばかりの世上の戦争熱も最早や、彼等を魔酔するの力あらず、彼等の心の底には、「戦争に全勝せよ、夫れど我等は益々苦まん」との微風の如き私語を聴く、去れば九州炭山坑夫が昨秋来増賃請求の同盟沙汰伝はりてより、同一の境遇に同一の利害を感ずる各種の労働者協同して、緩急相応ぜんとの要求日に益々激烈を加へ、四月三日を以て東京市に第一回労働者大会議を開くべきこととはなりぬ、
其の中堅は社会主義倶楽部にして、篠田長二の同胞新聞は実に其の機関たり、
歯牙にも掛けずありける九州炭山坑夫の同盟罷工今や将に断行せられんことの警報伝はるに及で政府と軍隊と、実業家と、志士と論客と皆な始めて愕然として色を失へり、声を連ね筆を揃へて一斉に之を讒謗攻撃して曰く「軍国多事の隙に乗じて此事をなす先づ売国の奸賊を誅して征露軍門の血祭せざるべからず――」
* * *
労働者の大会準備の為めに、今宵しも上野鶯渓なる鍛工組合事務所の楼上に組合員臨時会開かれんとするなり、寒風膚を裂いて、雪さへチラつく夕暮より集まりたるもの既に三百余名、議長の卓上には書類堆く積まれて開会の鈴を待ちつゝあり、
此時階下の事務室、扉を鎖して鳩首密議する三個の人影を見る、目を閉ぢて沈黙する四十五六とも見えて和服せるは議長の浦和武平、眉を昂げて咄々罵る四十前後と覚しき背広は幹事の松本常吉、二人を対手に喋々喃々する未だ廿六七なる怜悧の相、眉目の間に浮動する青年は同胞新聞の記者の一人吾妻俊郎なり、
松本は拳を固めて卓を打ちつ「実に怪しからん奴だ、其事は僕も予め行徳君に注意したことがあつたが、行徳君は無雑作に打ち消して仕舞つた――八ツ裂きにしても此の怨は霽れない」
「然かし、松本君、余りに意外な報告なので私は何分にも信用出来ませぬで――」と、浦和は瞑目のまゝ思案に沈めり、
「イヤ、浦和さん」と吾妻は乗出で「信用なさらぬのは御道理です、斯く云ふ僕が最初は如何しても出来なかつたですから、――御承知の如く僕は従来篠田を殆ど崇拝して居たんでせう、彼の秘書官の如く働くので、社員中に大分不平嫉妬の声が盛なのです、けれど一身の毀誉褒貶の如きは度外に措きて、只だ篠田の為めに一臂の労を執ることを無上の満足として居たのです――然るに段々彼の内状を詳にすると、実に其の裏面に驚くべき卑劣の野心を包蔵することが聊か疑ないので――御両君、僕は実に失望落胆の為め殆ど発狂するばかりに精神を痛めたです――乍併更に退て考へると、是れは徒らに愁歎して居るべき時でない、僕の篠田を崇拝したのは其の主義に在るのだ、彼が主義の仮面を被つて、却て我等同志を売ることを目的として居る売節漢、否な最初からの間諜であると知つた以上は、断然我が主義の為めに之を斬らねばならぬと決心したです、故に僕は今夜敢て両君に密告して、鍛工組合の名を以て此の売節奴を制裁せらるゝことを希望するです」
明朗なる音声もて滔々述べ来れる吾妻は、悲憤の涙を絞りつゝ「両君――篠田が山木剛造の娘に恋着して、其の二万円の持参金に眩惑して、資本党の門に降参したことは、最早や一点の疑もない――彼は今度の労働者大会を内部から打ち壊して、其れを結納として結婚式を挙げるのだ――彼は我々労働者に取つて獅子身中の虫であるツ――」
「僕は吾妻君を信ずる、僕は初めから彼を疑つて居たのだ、今夜もヅウ/\しく来て居るのだ、――可也」
と言ひ棄てて起ち上らんとする松本を、暫しとばかり浦和は制しつ「失礼の様ですが私には未だ理解が出来ません」
「僕が篠田の誣告でもすると云ふんですか」と、吾妻は憤然として浦和に詰め寄る、
「否や、誣告など申すのぢやありませんがネ」と浦和はしとやかに「随分誤解と云ふこともあるものですから――篠田様が主義を売つて山木の娘と結婚なさるなどとは何分にも想像が着きませんよ、第一、篠田様は山木の為に教会の方を除名されなすつた程ですからナ」
「サ、其れが」と吾妻はセキ込み「君、魂胆の在る所です、其れ程に仕組まねば我が同志を欺くことは出来ないのだ、現に見給へ、既に除名と定まつて居る教会の親睦会へ、而かも山木の別荘で開いた親睦会へ出席したのは何故であるか、特に其日山木の娘の梅子と云ふのと密会したのは何故であるか、其上に山木の長男の剛一と云ふのなどは常に篠田の家へ出入して居るでは無いか――特に君等は知らぬであらうが、彼が表面非常な貧窮と質素とを装ふに拘らず、其の実は驚くべき華奢贅沢をして居るのだ、彼を指して道徳堅固な君子だなど思ふのは、其の裏面を知らない者の買ひかぶりである、僕の如きも現に欺かれて居た一人のだ、そりや君、酒は飲む放蕩はする、篠田の偽善程恐るべき者は無い、現に其の掩ふべからざる明証の一は、彼の芸妓の花吉を誘拐して内々自分の妾にしたのでも判つて居るぢやないか」
「左様だ/\、毫も疑ふ所は無い」と松本は愈々激昂しつ「現に今度の九州炭山の一件でも知ることが出来る、本来ならば篠田が自身に出掛けて大に煽動せにやならないのだ、然るに自分は東京に寝て居て、少しばかり新聞でお茶を濁してるんぢや無いか、僕は最初から彼奴が嫌ひだ、耶蘇ばかり振り廻はしやがつて――」
浦和は眼を閉ぢて沈黙す、
吾妻は声を打ちひそめて「君、新聞社内では既に篠田の売節を誰一人疑ふものは無いのだ、只だ余り目立たずに彼を放逐しなければ社其物の名誉に関するから、非常に苦心してるのサ、――彼が内々消費する金銭のことを考へるに、尋常のもので無いことは明白だ、多分露探ぢや無からうかと云ふ社内の輿論だがネ、――浦和君、僕の心事は君も知つて居るぢやありませんか、僕が何を好んで我が先輩たり恩人たる彼の不利を図るもんですか、大抵推察して呉れ給へ――」
「モウ、判つたよ、是れ程の証拠があれば充分だ、吾妻君、若し君が無かつたならば、我党は非常な運命に陥る所であつた」と、松本は昂然として席を離れ「浦和君、時間が余程過ぎた」と急がしつ、ガチリ、錠を解きて廊下に出でぬ、
浦和は腕拱きたるまゝ其後を追へり、
* * *
やゝ待ち倦みたる会員は急霰の如き拍手を以て温厚なる浦和議長を迎へたり、議長は徐ろに開会の辞を宣して、今や書記をして今夜の議案を朗読せしめんとする時「議長ツ」と、大声に叫びて幹事松本常吉は起ち上がりつ「本員は議事に入るに先ちて、一個の緊急動議を提起せねばなりませぬ」
彼は梟の如き鋭き眼を放つて会衆を一睨せり、満場の視線は期せずして彼の赤黒き面上に集まりぬ、
松本は咳一咳しつ「我が鍛工組合の評議員篠田長二君の身上に就て、一個の動議を提出するんですから、先づ同君に向て暫時退席を要求致します」
議席は騒だてり、我々は真実を以て交はる者なれば、他の議会に見る如き忌避或は秘密等の厭ふべき慣例を用ひざるべしとの議論盛なりしが、篠田はやがて起ち上がりつ、
「我輩も実に其議論の主張者でありますが、既に発議者よりの要求ある以上は、発議者をして充分に言はんとする所を尽くさしめん為め、謹で自ら退席致します」一揖して出で去れり、
其の後影を一睨したる松本「諸君――我組合が尊敬して評議員の名誉をさへ与へたる篠田長二君が、何ぞ図らん、却て私利私慾の為めに我々の権利と幸福を売つて資本家党に降服したる証拠を捉へたのである」
松本は議席を見過はせり、
会衆は再び騒ぎ立てり「畜生」「馬鹿野郎」「除名せよ」「斬つて仕舞へ」等の声は一隅より囂々と起れり「誣告」「中傷」「証拠を示せ」等の声は他の一隅より喧々と起れり、
「御指揮に及ばず、其証拠を御覧に入れるのです」と松本は手を揚げて之を制しつ「彼は愈々山木剛造の長女梅子と結婚の内約整ひ、伊藤侯爵が其媒酌人たることを承諾したのである、彼は九州炭山坑夫同盟の真相を悉く大株主にして其重役なる山木に内通して、予防策を講ぜしめ、又た政府の狗となつて社会主義倶楽部及び我が組合の運動消息をば、一々府政へ密告して居るのである、今ま幸にして彼の内状を最も詳にする、尤も信用すべき人の口より其の報道を得たのは、天実に我々労働者の前途を幸ひするものと信ずるのである、依て此の如き獅子身中の虫を退治せんが為めに本組合先づ直に彼を除名することの決議をして貰ひたい――緊急動議の要旨は是れである」
松本は昂然会衆を見廻して、自席に復せり、満場相顧みて語なし、
議長浦和は徐ろに其席に起てり「松本君の動議は実に驚くべき問題でありまして、自分に於ては大に心を苛めて居りますが、就きましては――」
議長の言尚ほ央なるに、「議長」と呼で評議員席に起立したるは、平民週報主筆行徳秋香なり、彼は先刻来憤怒の色を制して、松本を睨視しつゝありしが、今は最早や得堪へずして起ちたりしなり、満場呼吸を殺して彼を見たり、彼は篠田と最も親交ある一人なればなり、
「松本君の只今の御説明は、我々の耳には何等の証拠をも与へたるものとは聞えない、我輩も篠田君の親友で、恐く満場の諸君よりも同君の内状に詳いであらうと思ふ、我輩は最も親交ある篠田君の一友人として、松本君の指摘されたる事実は、尽く無根の捏造説であることを断言します――抑も此の誣告を試みたる信用すべき人物とは、何物でありますか」
松本は猛然として、起てり「行徳君は僕を誣告者と言はれた、怪しからん、――諸君、僕が誣告者であるか否は、公明正大なる諸君の判断に一任します、僕は只だ良心の命ずる所に従て此事を言ふのである」
「証人の名を言へ」と呼ぶものあり、
声する方を松本は睨みつ「証人の名を言ふに及ばぬ、若し諸君が僕を信用するならば、敢て証人の姓名を問ふに及ばぬではないか」
紛々たり、擾々たり、
「審判なしに宣告を下だすことは如何なる野蛮の法律も許るさぬ」と一隅に叫けぶものあり、
松本はニヤリと冷笑を浮かべつゝ満場を見渡たせり「諸君は証拠を要求せらるゝが、証拠を示さぬのは必竟彼に対する恩恵だ――諸君は彼を道徳堅固なる君子と信仰せられる様だ、恐ろしい君子があつたもんだ、芸妓買を行つて、自由廃業をさせて、借金を踏み倒ほさして、自宅へ引きずり込んで、其れで道徳堅固な君子と言ふんだ、成程耶蘇教と云ふものは偉らいもんだ」
ヒヤ/\、大ヒヤなど頓狂なる叫喚は他の一隅に湧き上がれり、
笑声ドツと四壁を動かしつ、
此の光景を看て取つたる松本常吉「議長、満場別に異議ないやうです、採決を願ひませう」
憂色、面に現然たる議長が何やらん唇を開かんずる刹那「否ツ」と一声、巨鐘の如く席の中央より響きたり、看よ、菱川硬二郎は夜叉の如く口頭より焔を吐きつゝ突ツ起ちてあり、
「君等は真面目に其様ことを言つとるのか――労働者は無智で軽忽で、離間者の一言で起こしも臥かしも出来るもんだと云ふことを発表しようとするのか――我々の周囲には日夜探偵の居ることを注意し給へ――否な、我々の間にも或は探偵が潜伏しとるかも知れないのだ」
「誰を探偵だと云ふのか、菱川君」と松本は疾呼大声す、「僕が其を答へる前に、松本君、君は尚ほ弁明の義務を負んどるぢやないか、君は誰の言を信じて篠田君を探偵と云ふのだ、売節漢と云ふのだ」
「イヤ、其問題は既に経過した、其れとも君は此の松本を指して虚言者と云ふのか」
菱川の太き眉は釣り上がれり「其れが果して日本の労働者の言語なのか、日本の労働者は三百代言にも劣つた陰険な心を持つとるのか、――君は必ず或者から固く名前を秘する様に頼まれたのだらう、君が信用する或者とは、必ず憎むべき探偵であるに相違ない」
松本は沸騰する怒気に口さへ利かぬばかり、
行徳は静に言ふ「諸君は少こし考へたならば、篠田君が果して我々同志を売るものか如何か知れるではないか、――同君が賤業婦人を救ひ出すのは珍らしいことではない、加之諸君は之を称讃して麗はしき社会的救済事業と認めて来たでは無いか、又た四月の大会の為め、九州炭山坑夫の為め、経費募集のことの為めに苦心焦慮して居らるゝことは、諸君も御承知の筈では無いか――」
「彼が募集し得た金を握つて敵陣へ降参する魂胆に、注意して貰ひたい」と松本は遮りぬ、
「君等は猜疑心の為めに自殺するのか」流石に行徳も遂に赫怒せり、
頭を振りつゝ松本は躍り上つて叫ぶ「諸君は宜しく自ら決断せねばならぬ、諸君は果して僕を信ずるか、信じないか」
「労働者諸君、諸君は共和民主々義を棄てて擅制君主々義に従ふのか」と、手を振つて菱川は号叫す、
「勿論、我々労働者は社会主義の空論を排斥するのである、非戦論なんて云ふ書生論に捲き込まれるものとは違ふのである、我々鍛工の多数は現に鉄砲を造り軍艦を造つて飯を食つて居るものである」
松本は絶叫せり、拍手喝采の響は百雷落下と凝はれぬ、
今は議長も思ひ決めて起ち立がれり「議長に於きましては、此の重大問題を即決致しますることは、少こしく軽率の様にも考へます、依て五名の調査委員を挙げて、一応調査することに致し度存じます、御異議が無くば――」
松本が周章て起たんとする時賛成々々の声四隅に湧出して議長の意見を嘉納し了せり、
「あゝ、大事去れり」と行徳は涙を揮つて長大息せり、
菱川は髪逆立てて怒号せり「我が労働者未だ自覚せず」
* * *
階下の一室に兀座せる篠田は、俄に起る階上の拍手に沈思の眼を開きぬ、
隙洩る雪風に燈火明滅、
正午には尚ほ間のあり、
同胞新聞の楼上なる、編輯室の暖炉の辺には、四五の記者の立ちて新聞を猟さるあり、椅子に凭りて手帳を翻へすあり、今日の勤務の打ち合はせやすらん、
足音あわただしく駆け込み来れる一人「諸君、――実に大変なことが出来した」
其声は打ち顫へて、其面は色を失へり、彼は吾妻俊郎なり、
「何だ、君、そんな泥靴のまゝで」と、立ちて新開を見居たる一人は眉を顰めぬ「電車でも脱線したと云ふのか」
「馬鹿言つてちや困まる、我社の危急存亡に関する一大事なのだ、我々は全然、篠田の泥靴に蹂躙されたのだ――」吾妻の両眼は血走りて見えぬ、
「ナニ、篠田様が如何なされたと云ふんだ」と、居合せる面々、異口同音に吾妻を顧みたり、
吾妻は目を閉ぢ、歯を噛締て、得堪へぬ悲憤を強ひて抑へつ「諸君、僕は実に諸君に対する面目が無いです、――従来僕は篠田先生に阿媚するとか、諂諛するとかツて、諸君の冷嘲熱罵を被つたですが、僕は只だ先生を敬慕する余りに、左様な非難をも受くることになつたのです、然るに諸君、僕は全く欺かれて居ました――」吾妻はハンケチもて眼を蔽ひつ「僕が諸君の罵詈攻撃をさへ甘んじて敬愛尊信した彼は――諸君、――売節漢であつた、疑もなき間諜であつた」
「間諜ツ」と一人は吾妻を睨めり、
「馬鹿ツ」と他の一人ほ冷然微笑せり、
一同の吾妻の言に取り合はざるに、彼は悄然として落涙せり「アヽ、諸君、――僕の言を借用なさらぬは、必竟僕が平素の不徳に依るですから、已むを得ないです、が、先生を間諜と認めたのは、僕の観察では無い、先生とは最も密接の関係ある鍛工組合が調査の結果、昨夜の臨時総会に於て満場異存なかつた決議です――」
「ナニ、鍛工組合が決議した――吾妻、又た虚言吐いちや承知せぬぞ」
「騒いぢや可かん、――彼の松本が例の猜忌と嫉妬の狂言なんだらう、馬鹿メ」
吾妻は目を挙げて「左様です、若し松本等の主張ならば、僕も驚きは致しませぬ、然るに彼の温良なる、寧ろ温柔の嫌ある浦和武平が、涙を揮つて之を宣言したのです、余程正確なる証拠を握つて居るらしいです、昨夜は兎に角、調査委員を選で公然之を審判すると云ふことにして散会したさうですが――聞く所に依れば、先生も咋夜は真ツ青になつて、一言の弁解も無つたさうです、僕は斯かる不祥を聴かねばならぬことを、我が耳の為めに悲むです――」彼は面を掩うて歔欷したり、
一同瞑目せり、拱手せり、沈思せり、疑団の雲霧は漸く彼等の心胸に往来し初めけるなり、
階子に足音聞こゆ、疑ふべくもあらぬ篠田の其れなり、彼は今ま此の疑雲猜霧の裡に一歩一歩静に足を進めつゝあるなり、
皆な眸を扉に集めぬ、
扉は開かれぬ、
篠田は入り来りぬ、
一同期せずして一歩遠ざかりつ、唇を結べるまゝ冷やかに目礼せり、
* * *
翌朝の都下新聞紙には左の如き同一の記事を掲げられぬ、何人が通信したりけん、
●社会党と露犬 同胞新聞主筆篠田長二が、外に清貧を仮装しつゝ、内実奢侈放逸に耽れることは其筋に於て注意する所なりしが、鍛工組合に放ても内々調査したりし結果、一昨夜を以て臨時総会を開き、彼に露探の嫌疑充分なりとの故を以て審判委員五名を選定せり
「机の塵」「隣の噂」など云へる戯文欄に於て揶揄、冷評を加へしも少からず「基督教徒の非国家的思想」テフ大標題を掲げて、基督教は売国教なる所以を痛論せる仏教主義の新聞もあり、山木剛造の玄関には二輌の腕車、其の轅を揃へて、主人を待ちつゝあり、
化粧室なる大玻璃鏡の前には、今しも梅子の衣紋正して立ち出でんとするを、其の後姿仰ぎてありし老婆の声湿ませつ「では、お嬢様、何でも行つしやるので御座いますか――斯様こと申したらば、老人の愚痴とお笑ひ遊ばすかも知れませぬが、何となく今日に限つて胸騒ぎが致しましてネ――」
梅子は玻璃鏡に映れる老婆の影をながめて微笑しつ「婆や、私だつて、今日此頃外へ出るなど少しも好みはしませんがネ、折角母様がお誘ひ下ださるのだから、御伴するんです――けれど、婆や、別に心配なこと無いぢやないかネ」
「いゝえ、お嬢様、上野浅草へ行しやるのを、心配とも何とも思ひは致しませんが――帰途に大洞様の橋場の御別荘へ、お寄りなさると仰しやるぢや御座いませんか」
「左様よ」
「サ、それが、お嬢様、何となく心懸りなので御座います」
「何故――婆や」
老婆は垂頭て語なし、良久ありて「近頃、奥様の御容子が、何分不審なので御座いますよ、先日旦那様が御帰京になりました晩、伊藤侯が図らずも媒酌人に為つて下ださるからとのお話で、大勲位の御媒酌なんて有難いことは無いと、奥様も大層な御歓喜で在しつたで御座いませう、其れをお嬢様、貴嬢がキツパリ御断になつたもんですから……御両所の彼の御立腹は如何で御座いました、旦那様は随分他人には酷くお衝りになりましても、貴嬢ばかりには一目置いて居したのが、彼の晩の御剣幕たら何事で御座います、父子の縁も今夜限だと大きな声をなすつて、今にも貴嬢を打擲なさるかと、お側に居る私さへ身が慄ひました――それに奥様の悪態を御覧遊ばせ、恩知らずの、人非人の、何の角のと、兎ても口にされる訳のものでは御座いませぬ、私でさへ彼の唇を引ツ裂いてあげたい程に思ひましたもの、貴嬢能く御辛抱なされました――其れがマア、不審では御座いませぬか、一週間経つや経たずに、貴嬢をお連れなすつての宮寺詣り――貴嬢をお伴れ遊ばして奥様の御遊山は、私初めてお見受け申すので御座いますよ、是れはお嬢様、上野浅草は託で、大洞様の御別荘が目的に相違御座いません、今夜の橋場が、私、誠に心懸りで――何やら永い訣別にでもなる様な気が致しまして――」
梅子はジツと瞑目してありしが「婆や、其れ程迄に思つてお呉れのお前の親切は、私、嬉しいとも恭ないとも言葉には尽くされないの、けれど私、何も今日死に行くと云ふぢやなし」
聊か躊躇せる梅子は、思ひ返へしてホヽと打ち笑み「そりや、婆や、お前が日常言ふ通り、老少不常なんだから、何時如何ことが起るまいとも知れないが、然かし左様心配した日には、家の中にも居られなからうぢやないかネ、――多分遅くならうと思ふから婆や、何卒先きに寝てお呉れよ、寒いからネ」
老婆は歔欷して言語なし、
開きかゝりてありし襖の間より下女の丸き赭面現はれて「お嬢様、奥様が玄関で御待ち兼ねで御座んす」
「オ、左様でせうネ」と急ぎ行かんとする梅子の袂に、老婆は縋りつ、「――お嬢様、――お慎深い貴嬢へ、申すもクドいやうで御座いますが――何卒お気を着けなすつて下さいまし――御待ち申して居りますよ――」
仰ぎたる老婆の面は、滲々たる涙の雨に濡れぬ、
軽く首肯きたる梅子も、絹巾に眼を掩ひぬ、
* * *
二輌の腕車は勇ましく走せ去れり、
上野なる東照宮の境内を遠近話しながら歩を移す山木のお加女と梅子、
「ネ、梅子、左様でせう、だから余ツ程考へなけりやなりませんよ、何時までも花の盛で居るわけにはならないからネ、お前さんなども、何かと言へば、最早見頃を過ぎた齢ですよ、まア、縹緻が可いから一ツや二ツ隠くしても居れようがネ――私にしてからが、只だお前さんの行末を思へばこそ、斯してウルさく勧めるんだアね、悪く取られて、たまつたもんぢやありませんよ」
「阿母さん、勿体ない、悪く取るなんてことあるものですか」
「けれど言ふことを聴いてお呉れでなきや、悪るく取つておいでとしか思はれませんよ」
樹間隠れに見ゆる若き夫婦の盛装せるが、睦ましげに語らひ行く影を、ツクヅクとお加女は見送りながら「梅子、あれを御覧なさい、まアほんとに可愛らしい、雛人形の様だよ――私も早くお前さんの彼した容子を見たいと、其ればつかりが、親の楽だアね、大きな娘を何時までも一人で置いては、世間体も悪るし、第一草葉の蔭のお前の実母さんに対して、私が顔向けなりませんよ――まア御覧なネ、あの手を引き合つて、嬉しさうに笑つて、――男でも女でも彼が一生の極楽世界と云ふもんですよ――羨ましいとは思ひませんかネ」
ジロリと、お加女は横目に見やれり、
梅子は他方を眺めつゝあり、
「あゝ、恐ろしいお嬢様だこと――」、お加女は目に角立てて独言しぬ、
二人は無言のまゝ長き舗石を、大鳥居の方に出で来れり、去れど其処には二輌の腕車を置き棄てたるまゝ、何処行きけん、車夫の影だも見えず、
「何したつてんだねエ――日がモウ入りかけてるのに、仕様があつたもんぢやない、チヨツ」と、お加女は打ち腹立てて、的もなく当り散らしつゝあり、
通りかゝれる職人体の三人連、
「イヨウ、素敵な別嬪が立つてるぢやねエか――池の端なら、弁天様の御散歩かと拝まれる所なんだ」
「束髪で、眼鏡で、大分西洋がつたハイカラ式の弁天様だ、海老茶袴を穿いてねい所が有難い」
「見ねイ、弁天様の御側に三途川原の婆さんも御座るぜ」
「何れ一度は御厄介になりますが聞いて呆きれらア、ハヽヽヽヽ」「ハヽヽヽヽヽヽ」
お加女は顔を顰めつ「車夫は何処へ行つて仕舞ツたらう」
日は既に森蔭に落ちたる博物舘前を、大きなる書籍の包、小脇に抱へて此方に来れるは、まがうべくもあらぬ篠田長二なり、図書舘よりの帰途にやあらん、
梅子は遙に其れと見るより、サと面を赧らめつ、
折柄竹の台の方より額の汗拭ひも敢へず、飛ぶが如くに走せ来れる二人の車夫を、お加女はガミ/\と頭から罵りつ、ヤヲら車に乗り移りしが、宛も其前に来れる篠田は、梅子と相見て慇懃に黙礼し、又たスタ/\と歩み去る、
「梅子、早くおしなネ」と言ひつゝ、お加女のチヨイと振り向く時、篠田の横顔、其目に入りしにぞ、「悪党ツ」と口の裡にツブやきつ、恍然立てる梅子を、思ふさまグイと睨み付けぬ、
都会の紅塵を離れ、隅田の青流に枕める橋場の里、数寄を凝らせる大洞利八が別荘の奥二階、春寒き河風を金屏に遮り、銀燭の華光燦爛たる一室に、火炉を擁して端坐せるは、山木梅子の母子なりけり、
珍客接待の役相勤むるは大洞の妻のお熊、黒く染めたる頭髪を脂滴るばかりに結びつ「加女さん、今年のやうに寒じますと、老婆の難渋ですよ、お互様にネ――梅子さんの時代が女性の花と云ふもんですねエ――」
「でも姉さんは一寸も御変なさいませんがネ、私ツたら、カラ最早仕様が無いんですよ、芳子などに始終笑はれますの――何時の間に斯う年取つたかと、ほんとに驚いて仕舞ひますの」とお加女は目を細くして強ひて笑ひつ、
「お客来の所へ参りまして、伯母さん、飛んだお邪魔致しましてネ」と梅子の気兼ねするに「ほんとにねエ」とお加女も相和す、
「何の、貴女」と、お熊は刺しつ「日常来つしやるお客様でネ、家内同様の方なんですから、気兼も何もありやしませんよ、山木の御家内なら、寧そ同席に御馳走にならうつて仰しやるんですよ、梅子さん、磊落な方ですから、何卒御遠慮なくネ」
カラ/\と打ち笑ふ男の声聞えて、主人の利八と物語りつゝ、階子上り来るは、今しもお熊の噂せる其人なるべし、
襖手荒らに開かれて現はれたる一丈天、其の衣の身に合はず見ゆるは、大洞のをや仮り着せるならん、既に稍々酒気を帯びたる面を燈火に照らしつ、立ちたるまゝに「ヤア、山木の内君――新年先づ御目出たう」
「まア、何殿かと思ひましたら、貴所ですか――姉さん、酷いことねエ、知らして下ださらぬもんですから、飛んだ失礼致したぢや御座んせんか」と、お加女はホヽと笑傾け「あら、私としたことが、御挨拶も致しませんで――どうも旧年中は一方ならぬ御世話様に預りまして、何卒相変りませず」
「イヤ、左様固く出られると大に閉口する――お互様ぢや」と、客は無頓着に打ち笑ひ「知らぬ方でもないので、御邪魔に来ました」
「さア、何卒是れへ」とお加女が座をいざりて上座を譲らんとするを「ヤ、床の置物は御免蒙むらう」と、客は却て梅子の座側に近づかんとす、
お熊も興がりて「其の方が可御座んす、どうせ、貴所は家内の人も同様で在つしやるんですから」と言ふを「成程、其れが西洋式でがすかナ」と利八も笑ふ、
梅子の左側に客はドツかと座に就きぬ「令嬢失礼致します」
梅子は只だ慇懃に黙礼せるのみ、
「オヽ、梅子」とお加女は顧み「お前さんは未だお初つに御目に懸るんでしたネ、此方が阿父の一方ならぬ御厚情に預る、海軍の松島様で――御不礼無い様に御挨拶を」
偖はと梅子の胸轟くを、松島は先づ口を開きつ「我輩が松島と云ふ無骨漢です――御芳名は兼ねて承知致し居ります」
去れど梅子は只だ重ねて黙礼せるのみ、
如才なき大洞は下婢が運べる盃取つて松島に差しつ「ぢや、貴所からお始め下さい」
「梅子、お酌を」と、お加女は促がしつ、
「御酌を」と促がされたる梅子は、俯きたるまま、微動だにせず、
再び促がされても、依然たり、
「何したんだねエ、此の女は」と、お加女の耐へず声荒ららぐるを、お熊はオホヽと徳利取り上げ、
「なにネ、若い方は兎角耻づかしいもんですよ、まア其の間が人も花ですからねエ――松島さん、たまにほ、老婆さんのお酌もお珍らしくて可う御座んせう」
「老女の方が実は怖いのサ」と、松島の呵々大笑して盃を挙ぐるを、「まア、お口のお悪いことねエ」とお熊も笑ひつ「何卒松島さんお盃はお隣へ――」
「左様ですか、――然かし失礼の様ですナ」と、美しき梅子の横顔、シゲ/\見入りつ「では、山木の令嬢」と小盃をば梅子に差し付けぬ、
「梅ちやん、松島さんのお盃ですよ」と徳利差し出して、お熊の促がすを、梅子は手を膝に置きたるまゝ、目を上げて見んとだにせず、
「梅子、頂戴しないのかね」と、お加女は目に角立てぬ、
「かう云ふ不調法もので御座いましてネ、誠に御不礼ばかり致しまして」
「なにネ、お加女さん、御婚礼前は誰でも斯うなんですよ」と、お熊はバツを合はして「ぢやア梅ちやんの名代に、松島さん、私が頂戴致しませう」
「こりや奇麗な花嫁が出来ましたわイ」と利八は大笑す、
「あら、旦那、何ですねエ」と、お熊は手を揚げて、叩くまねしつ「是れでも鶯鳴かせた春もあつたんですよ」グツと飲み干してハツハと笑ふ、
何れも相和して笑ひどよめく、
梅子の眉ビクリ動きつ、帯の間より時計出して、ソと見やるを、お熊は早くも見とめて「梅ちやん、タマに来て下だすつたんだから、何卒寛裕して下ださいナ、其れに御遠方なんだから、此の寒い夜中にお帰りなさるわけにはなりませんよ、最早、其の心算にして置いたのですから、一泊りなすつてネ――ねエ、お加女さん、可いでせう」
「ハア、遅くなつたら泊りますからツて、申しては来ましたがネ」
「ぢや、大丈夫ですよ」と、早くもお熊は酒が言はする上機嫌「暫く振りで梅ちやんの琴を聴かせて頂きませう――松島さん、梅ちやんは西洋のもお上手で在つしやいますがネ、お琴が又た一ときはで在つしやるんですよ」
「左様ですか、――是非拝聴致しませう」と松島は盃を片手に梅子に見とるゝばかり、
酒次第に廻りて、席漸く濫る、
「旦那」と小声に下婢の呼ぶに、大洞は暫ばしとばかり退かり出でぬ、
お熊の目くばせに、お加女も何やらん用事ありげに立ち去りぬ、
お熊は松島の側近く膝を進めて「ほんとにねエ、さうして御両人並んで在つしやると、如何に御似合ひ遊ばすか知れませんよ――梅ちやん、貴嬢も嬉しくて居つしやいませう」と、酔顔斜めに梅子を窺ひ、徳利取り上げて松島に酌がんとせしが「あら、冷えて仕舞つたんですよ」と、ニヤり松島と顔見合はせ、其儀スイと立つて行きぬ、微動だもせで正座し居たる梅子、今まお熊さへ出で行くと見るより、直に立つて後を追はんとするを、松島、忽如猿臂を伸ばして袂を捉へつ、「梅子さん」
「何遊ばすツ」振り回りたる梅子の面は憤怒の色に燃えぬ、
グイと引きたる男の力に、梅子の袂ピリヽ破れつ、
「何あそばすツ」
と再び振り向く梅子を、力まかせに松島は引き据ゑつ、憤怒の色、眉宇に閃めきしが忽にして強て面を和らげ、
「梅子さん、貴嬢、余り残酷ではありませぬか、成程今夜の始末、定めて御立腹でもありませうが、少しは御推察をも願ひたい――私の切情は、梅子さん、疾く御諒承下ださるでせう、貴嬢は私を御存知ありますまいが、私は能く貴嬢を存じて居ります――私は前年先妻を亡なつた時、最早や終生独身と覚悟致しました、――梅子さん、仮にも帝国軍人たるものが、其の決心を打ち忘れて、斯かる痴態を演ずると云ふ、男子が衷情の苦痛を、貴嬢は御了解下ださらぬですか」
松島は梅子の袂をシカと握れるまゝ、ジツと其面ながめ遺り「斯く御婦人に対して御無礼を働きまするも――幾度も拒絶されたる貴嬢に対して、耻辱を忍で御面会致すと言ふも、人伝てにては何分にも靴を隔てて痒を掻くの憾に堪へぬからです、今日に至ては、強て貴嬢の御承諾を得たいと云ふのが私の希望では御座いませぬ、只だ貴嬢の御口から直接に断念せよと仰しやつて下ださるならば、私は其を以て善知識の引導と嬉しく拝聴致します、不肖ながら帝国軍人です、匹夫野人の如く飽くまで纏綿つて貴嬢を苦め申す如き卑怯の挙動は、誓つて致しませぬ、――何卒、梅子さん、只だ一言判然仰しやつて下ださい」
梅子はワナなく身を耐へて瞑目す、
松島は一きは声ひそめつ、「梅子さん、今に至て考へて見れば、我ながら余りの愚蒙と軽忽とに呆れるばかりです、私は初め山木君――貴嬢の父上の御承諾を得ました時、既に貴嬢の御承諾を得たるが如く心得、歓喜の余り、親友知己等へも吹聴したのです、御笑ひ下ださるな、恋は大人をも小児にする魔術です、――去れば今日、貴嬢から拒絶されたと云ふことが知れ渡つたものですから、同僚などから殆ど毎日の如く冷笑される、何時結婚式を挙げるなど揶揄はれる其度に、私は穴にも入りたい様に感じまするので、寧ろ自殺して此の痛苦から逃れようかなど考へることもありまするが併かし是れ一に私の罪なので、誰を怨むる筈も無く、親の権力が其子の意思を支配し得ると云ふ野蛮思想から、軽忽に狂喜した我が愚を慚愧する外はありませぬ――併かし其の為に貴嬢の御名をも汚がすが如き結果になりましては、何分我心の不安に堪へませぬので、――海軍々人は爾く婦人を侮辱するものと言はれては、是れ実に私一人の耻辱のみでは無いのでありますから、今晩は此の罪をも謹で貴嬢の前に懺悔し、赦したと云ふ一言の御言葉を得たいと思ふので御座いまする――」
瞑目せる梅子の心中には、今日しも上野公園にて、図らずも邂逅せる篠田の面影明々と見ゆるなり、再昨年の春の夜始めて聴きたる彼の説教は、朗々と響くなり、彼を思うて人知れず絞れる生命の涙、身も魂も捧げて彼を愛すと誓へる神前の祈祷、嬉しき心、辛き思、千万無量の感慨は胸臆三寸の間に溢れて、父なる神の御声、天に在ます亡母の幻あり/\と見えつ、聞えつ、何故斯かる汚穢の筵に座して、狼の甘き誘惑に耳を仮すやと叱かり給ふ、
松島は膝を正して手を拱けり、「何卒我が過去の罪は梅子さん、お赦し下ださい」
梅子は面を揚げぬ「松島さん、貴所は必ず女性の貞節を重んじて下ださいませうネ」
松島は訝しげに梅子を見ぬ「――、其れは勿論です――」
「松島さん、感謝致します――私には既に誓つた良人があるので御座いますから――」
梅子の頬は珊瑚の如く紅く輝きぬ、
「何ですツ」松島の血相は忽ち変はれり「良人があると」
「ハイ」梅子も厳然として松島を睨み返へせり、
「フム其りや始めて承はる」と、松島は満面軽蔑の気を溢らしつ「何時結婚なされた」
「否、結婚は致しませぬ」
「然らば、何時約束なされた」
「約束も致しませぬ」
「然らば御尋ね致すが、御両親も承諾されたのか」
梅子はホヽ笑みぬ「親の権力も子の意思に関渉することの出来ないのは、貴所、只今御説明なされたでは御座いませぬか」
グツト詰まりし松島は、ヤガて冷笑一番「ウム婦人の口から野合を自白するんだナ」
「何を仰しやる――」
梅子のキツとなるを、松島笑て受け流がし、
「左様だらう、未だ結婚もしない、公然約束もしない、父母の承諾を得たでもない、其れで良人があるとすれば、野合の外なからう」
「――貴所は愛の自由と神聖とをお認めになりませぬか」
「神聖も糞もあるかい」
梅子の柳眉は逆立てり「軍人の思想は其程に卑劣なものですか」
「何ツ」松島は猛獅の如く躍り上りつ、梅子の胸を捉へて仰けに倒せり、「女と思つて赦して置けば増長しやがつて――貴様の此の栄耀を尽くすことの出来るのは誰のお蔭だ、貴様等を今日乞食にしようと、餓死させようと、我が方寸にあることを知らないか――軍人の卑劣とは聞き棄てならぬ一言だ――貴様の大事な篠田の受売だらう、見とれ、篠田の奴も決しで安穏に許るしては置かぬぞ、貴様等の為めに帝国軍人の名誉を毀けてなるものか」
力を極めて押し付くるを、梅子は絶えなんばかりの声振り絞りつ、「――人道の敵ツ」
黒髪バラリと振り掛かれる、蒼き面に血走る双眼、日の如く輝き、怒に震ふ朱唇白くなるまで噛み〆めたる梅子の、心決めて見上たる美しさ、只凄きばかり、
炎々たる情火に松島は、気狂ひ、心悶えて眼さへに眩くなれり、
「――復讐――」
今や心狂ひたる軍人の鉄腕に擁せられたる、繊細なる梅子の身は、鷹爪に捉らはれたる雛雀とも言はんか、仮令声を限りに叫べばとて何処より、援助来らん、一点の汚塵だも留めたるなき一輪の白梅、あはれ半夜の狂風に空しく泥土に委すらんか、
押へられたる儘、梅子は瞬きもせで睨み詰めたり、
松島は梅子を引き起しつゝ、其の繊弱き双腕をばあはれ背後に捉へんずる刹那、梅子の手は電火の如く閃けり、
「キヤツ」と一声、松島の大なる躯はドウと倒れぬ、
* * *
襖を隔てて窺ひ居たるお熊は、尋常ならぬ物音に走せ出でぬ、
看よ、松島はヒシと左眼を押へて悶絶す、手を漏れて流血淋漓たり、
梅子はスツクと立ち上れり、其の右手には汚血を握りつ、
「来て下ださい」
絶叫したるまゝ、お熊は倒れぬ、
何事やらんと駆け上がりたる大洞も、お加女も、流るゝ血潮に驚きて、只だ梅子の面を見つめしのみ、
梅子は始めて唇を開きぬ「警察へ引き渡して頂きませう――私は血を流した罪人です」
死力を籠めたる細き拇指に、左眼抉られたる松島は、痛に堪へ得ぬ面、僅に擡げつ「――秘密――秘密に――名誉に関はる――早く医者を、内密に――」
「名誉ツ?」梅子は突つ立てるまゝ、松島を睨めり、「名誉とは何事です、誰の名誉に関はるのです、殺人と掠奪を稼業にする汝等に、何で人間の名誉がありませうか、――女性全体の権利と安寧との為めに、必ず之を公にして、社会の制裁力を試験せねばなりません」
梅子の視線はお加女の面上に転ぜり「継母、貴女は嘸ぞ御不満足で御座いませう、貴女の女は、世にも恐ろしき流血の重罪を犯しました、けれど継母、貴女のお望の破操の大悪よりは、軽う御座いますよ――」
彼女の眼光は電光の如く大洞の顔を射れり「処女の神聖を涜がさん為めに準備せられた此の建物が、野獣の汚血に塗れたのは、定めて浅念なことでせう――傷けるものの為めには医師を御招きなさい、けれど、犯罪者の為めに、何故早く警官をお呼びなさらぬ」
大洞は、色を失つて戦慄するお加女の耳に近きつ、「少こし気を静めさして今夜の中に密と帰へすが可からう――世間に洩れては大変だ」
* * *
ヒユウ/\と枝を鳴らせる寒風も、今は収まりて、電燈の光寂しき芝山内の真夜中を山木剛造の玄関には、何処にか行かんとすらん、一子剛一の今ま自転車に点火せんとしつゝあり、
側には一人、彼の老婆の身を縮めて「剛様、今夜は又た一ときは寒う御座んすから何卒、御気を着け遊ばしてネ――貴郎が行つて下ださるので、如何程安心で御座いませう」
「婆や、一飛びだ――何せよ、場所が場所だからナ、僕ア心配で堪まらぬのだ、大洞の伯父だの伯母だのツて、婆や、人間の面してる畜生なんだ、姉さんの身上に万一のことでもあつて御覧、何の顔して人に逢はれるか」
早や彼は車を運びて、門の方へ進み行く、
此時忽ち轣轆たる車声、万籟死せる深夜の寂寞を驚かして、山木の門前に停まれり、剛一は足をとどめてキツとなれり、
小門、外より押されて数名の黒影は庭内に顕はれぬ、先きなるは母のお加女なり、中に擁されたるは姉の梅子なり、他は大洞よりの附け人にやあらん、
「姉さんですか」剛一は自転車を投じて走せ寄れり、梅子はヒシと抱き着きぬ「剛さん――」
彼女は弟の温き胸に頭をよせて、呼吸も絶えなんばかり、
剛一は緊と抱きて声励ましつ「凛乎なさい――」
老婆は只だ涙なり、「――お嬢さま――」
寝床の上に起き直りたる梅子の枕頭には、校服のまゝなる剛一の慰顔なる、
「ナニ、姉さん、左様気をいら立てずと、最少し休んで在らつしやる方が可いですよ」
「けれどネ、剛さん、彼様猛悪な心が、此の胸に潜んで居るのかと思ふと、自分ながら恐ろしくて堪りませんもの、――私は剛さん、奇魔に死ぬことと覚悟して居たんです、彼様乱暴しようとは、夢にも思やしませんよ、如何した突嗟の心の変化か、考へて見ても解らないの、矢ツ張り私の心が、怨と怒に満たされて居たので、其れで彼した卑怯な挙動に出たのですねエ――今朝からネ、一人で聖書を読んだり、お祈したりして居たんですよ、私もう――怖くて怖くて神様の御前へ出られないんですもの――」
梅子は身を顫はして面を掩へり、
剛一も目を閉ぢて暫ばし言葉なかりしが、「――姉さん、篠田さんも其ことを心配してでしたよ」
「エ」と梅子は頭を擡げつ「貴郎、篠田さんにお逢ひになつて――」其顔は赧くなれり、
「ハア、折角の日曜も姉さんの行つしやらぬ教会で、長谷川の寝言など聞くのは馬鹿らしいから、今朝篠田様を訪問したのです、――非常に憤慨してでしたよ」
「私の挙動をでせう」
「左様ぢやないです」と剛一は頭を掉りつ「仮令世界を挙げても、処女の貞操と交換することの出来ない真理が解らぬかツて、憤慨して居られました、何でも彼の翌日と云ふものは、警察の手を以て彼のことの新聞へ出ない様に、百方奔走をしたんださうです、日本軍隊の威信と名誉に関はるからと云ふんでネ――実に怪しからんぢやありませんか、今の社会が言ふ所の威信とか名誉とか言ふのは何を指すのです、僕は此の根本を誤つてる威信論や名誉論を破壊し尽さぬ間は、到底道義人情の精粋を発揮することは出来ぬと思ふです」
「アヽ、剛さん、――世間からは毒婦と恐れられ、神様からは悪魔と賤しめられて忌な生涯を終らねばならんでせうか――私、此の右手を切つて棄てたい様だワ――」
「姉さん」と剛一は膝を進めぬ「篠田さんの心配して居なさつたのは其処なんです、貴嬢の一生の危機は、先夜の危難の際では無く、虎口を脱れなすつた今日に在ると仰しやるんです、――姉さん、貴嬢は今ま始めて凡ての束縛から逃れて、全く自由を得なすつたのです、親の権力からも、世間の毀誉褒貶からも、又た神の慈愛からさへも自由になられたのである、今は貴嬢が真正に貴嬢の一心を以て、永遠の進退を定めなさるべき時機である、――愛の子か、詛の子か――けれど君の姉さんが此際、撰択の道を過つ如き、弱く愚なる人で無いことは確に信ずると篠田さんは言うてでしたよ、――姉さん篠田さんは貴嬢を斯くまで篤く信じて居なさいますよ」
梅子は枕に倒れて、咽び入りぬ、「――神様――何卒――お赦し下ださいまし――」
ハイ――と警むる御者の掛声勇ましく、今しも一輌の馬車は、揚々として霞門より日比谷公園へぞ入り来る、ドツかと反り返へりたる車上の主公は、年歯疾くに六十を越えたれども、威風堂々として尚ほ鞍に拠つて顧眄するの勇を示す、三十余年以前は西国の一匹夫、今は国家の元老として九重雲深き辺にも、信任浅からぬ侯爵何某の将軍なりとか、
陪乗したるは清洒なる当世風の年少紳士、木立の間に逍遙する一個の人影を認むるや指しつつ声をヒソめ「閣下、彼処を革命が歩るいて居りまする」
「ナニ、革命」侯爵は身を起して彼方を睨みつ「あの筒袖着た壮士の様な男か」
「ハ、閣下、彼が先刻も談柄に上りましたる、社会党の篠田と申す男で御座りまする」
「フム、松島の一眼を失つたのも、彼の男の為めか」
「ハ、尤も松島の負傷に就ては、少こし事情もある様に御座りまするが――」
「イヤ、例令如何なる事情があらうとも、此の軍国多事の際、有為の将校に重傷を負はしむると云ふは容赦ならぬ」と、言ひつゝ将軍は斜に篠田の後影を睨みつ、「何して居る、何れ善からぬ目算致して居るのであらう」
「ハ、多分今晩演説の腹案でも致し居るものと思はれまする」
「ナニ、演説――何処で」
「ハ、神田の青年館と申すで、非戦論の演説会を」
「怪しからんこと」と将軍の眉は動けり「戦争のことは上御一人の御叡断に待つことで、民間の壮士などが彼此申すは不敬極まる、何故内務大臣は之を禁じない――ナニ――だから貴様等は不可と言ふのだ、法律などに拘泥して大事が出来るか、俺など皆な国禁を犯して維新の大業を成したものだ、早速電話で言うて遣れ、俺の命令だと云うて――輦轂の下をも憚らず不埒な奴等だ」
将軍は昂然たり、
若紳士は唯々として頭を垂れぬ、
馬車は夕陽を浴びつゝ迂廻して、やがて悠々華族会館の門を入りぬ、
* * *
神田美土代町なる青年会館の門前には、黒山の如き群集の喧々囂々たるを見る、
「何故入場を許さない」「集会の自由を如何にする」「圧制政府」「警察の干渉」「僕は社会主義に反対のだから入て呉れい」「ヒヤ/\」「ノウ/\」「馬鹿野郎」「ワハヽヽ」「ワアイ/\」
星影まばらに風寒き所、圧しつ圧されつ動揺するさま、怒涛の闇夜寄せつ砕けつするに異らず、
鉄門は既に固く鎖されたり、只だ赤煉瓦の塀に、高く掲げられたる大巾の白布に、墨痕鮮明なる「社会主義大演説会」の数文字のみ、燈台の如く仰がれぬ、
幾十となき響官の提灯は、吠えたける人涛の間に浮きつ沈みつして、之を制止する声却て難船者の救助を求むる叫喚の如くぞ響く「最早立錐の地が無いのだ」「コラ、垣を越えては不可」「圧すな/\」「提灯が潰ぶれるワ」「痛い/\」「ヤア/\」
同じく入場し得ざる為め、少しく隔たりて観居たる数名、
「日本も偉いことになつて参りましたナ、此の戦争熱の最中で、非戦論の演説を行らうツてんですから」
「左様、其れを又た聴きたいてんで、此の騒なんですからナ」
「而かも貴所、十銭傍聴料を払ふんだから、驚くぢやありませんか」
「正直な所、誰でも戦争など有難いもんぢやありませんのサ、――大きな声ぢや言はれませんがネ」
立錐の地なしと門前の警官が、絶叫したるも宜なりけり、左しもに広き青年会館の演説場も、只だ人を以て埋めたるばかり、爛々たる電燈も呼吸の為めに曇りて見えぬ、一見、其異に驚くは警官の厳重に排置せられしことなり、
演壇の右側には一警視の剣を杖きて、弁士の横顔穴も穿けよと睨みつゝあり、三名の巡査は俯して速記に忙殺せらる、
今ま演壇には、背広の洋服ヤヽ垢つけるを一着なしたる青年が、手を振り声を張上げて騒々擾々たる聴衆と闘ひつつあり、行徳、坂井、松下、菱川、柴等の面々は皆な既に演じ終りたるなりと云ふ、否な、何れも五分十分にて中止を命ぜられしなりと云ふ、特に最も滑稽なりしは、菱川が登壇開口、「戦争で第一に金儲するのは誰だか、諸君、知つてますか」の一語未だ終らざるに、早くも「中止」の一喝に逢ひしことなりとぞ、是れには二階の左側に陣取れる一群の反対者も、手を拍つて哄笑せしにぞ、警視は頬を脹して暫ばし座りも得せざりしと云ふ、
青年弁士は水ガブ/\と飲で又た手を振り始めぬ、「諸君が露西亜討たざるべからずと言ふけれ共ダ、露西亜の何物を討つと言ふのです」
「露西亜帝国を征伐するんだ」と叫ぶものあり、
弁士は声せし方に向て「果して然らば僕は、我輩は――」
一隅の聴衆ワア/\と冷笑す、
「我輩は諸君の態度が可笑しいと思ふです、即ち諸君は自家撞着です」
「何故自家撞着だ――馬鹿、小僧、引ツ込め」と例の階上の左側より騒ぐ、
「主戦論者は其通り無礼背徳だ」と階下より見上げて応戦するもあり、
弁士は額の汗拭ひつ「看給へ、露西亜帝国政府の無道擅制は、露西亜国民の敵ではありませんか、然れ共独り露西亜政府のみでは無いです、各国政府の政策と雖も、其の手段に露骨と陰険の相違はあるか知れませぬが、其の精神は皆な露西亜と同じ侵略主義ではありませぬか」
喝采湧くが如くにして階上左側の妨害を埋没する刹那、警視は起てり「弁士、中止」
「見ろやアイ」「民主々義万歳」など思ひ/\の叫喚沸騰して、悲憤の涙を掬びたる青年弁士の降壇を送れり、
聴衆の少しく静まるを待つて、司会者の椅子を離れたる渡部伊蘇夫は、澄み渡る音声に次の弁士を紹介す「篠田長二君――演題は社会党の……」
皆まで言はさず、喝采の声、堂を動かせり、篠田は既に演壇に立てり、
絶叫の声は拍手の間に響けり、満場既に酔ひぬ、
反対者の冷笑熱罵もコヽを先途と沸き上れり、「露探」「露探」「山木の婿の成りぞこね奴」「花吉さんへ宜しく願ひますよ」
彼は徐ろに口を開きぬ「諸君――」
此時、聴衆の頭上を飛ぶが如くに駈け来れる一警部が、演壇に飛び上がつて、何事か警視に耳語せり、
瞥視は倉皇、椅子を蹴つて起てり「解散――弁士――中止」
満場総立となれり、警官力を極めて制すれ共聴かばこそ、「革命」「革命」「革命」
良久見てありし篠田は、右手を伸ばしぬ、
「静に」
群衆は舌を留めて篠田を見たり、
「火に油注ぐ者の火傷は、我等の微力に救ふことは出来ませぬ」
彼は一揖して去れり、
満場再び湧き返へれり、玻璃窓の砕くる響凄まし、
中仙道熊谷を、午後の六時廿分に発したる上武鉄道の終列車は、七時廿六分に波久礼駅に着きぬ、
秩父の雪の山颪、身を切るばかりにして、戸々に燃ゆる夕食の火影のみぞ、慕はるゝ、
「馬車が出ます/\」と、炉火を擁して踞まりたる馬丁の濁声、闇の裡より響く「吉田行も、大宮行も、今ま直と出ますよ」
都の巷には影を没せる円太郎馬車の、寂然と大道に傾きて、痩せたる馬の寒天に俯して藁を食めり、
二台の馬車に、客はマバラに乗り込みぬ、去れど御者も馬丁も悠々寛々と、炉辺に饒舌を皷しつゝあり、
「オヽイ、馬丁さん、早くしてお呉れよ、躯がちぎれて飛んで仕舞ひさうだ――戯ぢやねえよ」と、車の裡なる老爺は鼻汁すゝりつゝ呼ぶ、
「まア、飛ばねえやうに、繩ででも縛つて置いてお呉れなせえ、此方の躯もちぎれねえやうに、今ま一杯行つてくからネ」、御者は又た濁酒一椀を傾けつ「べら棒に寒い晩だ」と星晴れたる空を仰ぎながら、ノソリ/\と打ち連れて車台に上りぬ、
月は出でぬ、
雪の峰、玲瓏と頭上に輝き渡り、荒川の激湍、巌に吠えて、眼下に白玉を砕く、暖き春の日ならんには、目を上げて心酔ふべき天景も、吹き上ぐる川風に、客は皆な首を縮めて瞑黙す、御者の鼻唄も暫ばし途断れて、馬の脊に鳴る革鞭の響、身に浸みぬ、吉田行なる後なる車に、先きの程より対座の客の面、其の容体、訝しげに眺め入りたる白髪の老翁、やがて慇懃に札を施し「旦那、失礼なこと伺ふ様ですが、失つ張り此の山の人で在つしやりますか」
対座の客は首肯きつ「ハイ、山の男ですが、只今は他郷に流浪致し居りまするので」
「して、山は何の辺で在つしやりますか」
「粟野で御座います」
老人は良久思案の態なりしが「――若し篠田様――の御縁家では――」
「ハイ、篠田の一族で御座います」
「篠田長左衛門様の――」
「左様です、長左衛門の伜で」
「左様で御座りまするか」と老人は膝の下まで頭を下げつ
「先刻からお見受け申す所が、長左衛門様生写で在つしやるから、若し左様では在つしやるまいかと考へましたので」
老人は早くも懐旧の涙に得堪へぬものの如し「私は小鹿野の奥の権作と申しますもので、長左衛門様には何程御厚情を蒙りましたとも知れませぬ、――彼の騒で旦那様は彼した御最後――が、百姓共の為めにお果てなされた長左衛門様の御恩を忘れてはならねえと、若い者等に言うて聴かせることで御座りまする――ぢやあ、貴郎は慥に長二様と仰しやりました坊様で、イヤ、どうも立派な男に御成りなされました、全然先旦那様に御目に掛るやうで御座りまする」
「左様でありましたか」と篠田はうなづき「幼少で飛び出しましたので、誠に知人が少ないですが、故郷の山、故郷の水、故郷の人、事に触れ時に従ひて、故郷程懐しきものはありません」
「伯母御様は御達者で在つしやりまするか、永らく御目通りも致しませぬが――」
「ハイ、御蔭様で別状も無いやうですが――私も久しく無沙汰致しましたから、一寸見舞にと思ひまして」
「成程」
「ヂヤ、与太、吉田屋の婆さんに能く言うて呉れよ、何れ近日返金するつてツたつてナ」と前車の御者は喚きつゝ、大宮行の馬車は国神宿に停車せり、
「どうせ、貴様から返金して貰へるなんて思つちや居ねえツて言つたよ――其れよりかお竹の阿魔に、泣かずに待てろツて伝言頼むぞ、忘れると承知しねえぞ」と後車の御者は答へつゝ、篠田と老人とを乗せたる一輌は、驀地に孤り奔せぬ、
「旦那、此界隈もヒドく寂れましたよ」と老人は歎息ちつ、
雪の坂路を、馬車は右に左にガタリ/\と揺れつゝ上り行く、馬の吐息冰りて煙の如し、夜は既に十時に近からんとす、
「最早丁度、十年――廿年になりますナ」と老人は首傾け「イヤ、どうも月月の経つと云ふは早いもので、未だほんの昨日の様な気が致し居りまするが」長大息を漏らして彼は篠田の面をシゲ/\見入りたり「土地のことも知らねえ、言葉さへ訳らねえ様な役人が来て、御維新は己が成たと言はぬばかりに威張り散らす、税は年増しに殖える、働き盛を兵隊に取られる、一つでも可いことは無えので、其処で長左衛門様の御先達で朝廷へ直訴と云ふことになつたので御座りましたよ、其れを村の巡査が途方も無い嘘ツぱちを吹聴して、騒動が始まるなんて言ひ振らしたので、気早の連中が大立腹で闇打を食はせる、憲兵が遣つて来るワ、高崎から鎮台が押し寄せるワ、到頭長左衛門様は鉄砲に当つて、彼したことにお成りなされましたので――」
老人は暫ばし目を塞ぎて心に浮ぶ当時の光景を偲びつ「其れから皆なして遺骸を、御宅へ担いで参りましたが、――御大病の御新造様が態々玄関まで御出掛けなされて、御丁寧な御挨拶、すると旦那、貴郎だ、其時丁度十二三の坊様が、長い刀を持ち出しなされて、父ちやんの復讐に行くと言ひなさる、其れを今の粟野に御座る伯母御様が緊乎抱き留めておすかしなさる――イヤもう、皆な御庭に座つて泣きましたよ」
老人は声曇らせて月影に面を背向けぬ、
「御老人」と篠田もソゾろ懐旧の感に打れやしけん、
袂より取り出せる襤褸もて老人は鼻打ちかみ「其れから間もなく御新造様は御亡なり、貴郎は伯母御様に手を引かれなさつて、粟野の奥へ行かしやる、――何でも長左衛門様の讐討たんぢやならねエと言ふんで、伯母御様の所から逃げ出しなすつて、外国迄も行つて修業なすつて、偉い人にならしやつたと云ふことは薄々聞いて居ましたが、――どうも思ひ掛けねエ所で御目に掛りまして、昔時のことがアリ/\と目に見えるやうで御座りやす」
「御老人、貴所の様に、長い目で御覧になりましたならば、世の変遷が能く御見えになりませうが、偖て自分一身を顧みますと、実にお耻かしい次第でありましてナ、亡き父などに対しても、誠に面目御座いません」
「いや/\、左様で無い、何でも偉い人に成らしやつたと云ふ取り沙汰で御座りまする」と、老人は首打ち振り「が、先旦那様も偉い方で御座りましたよ、二十年前に心配しなすつた通りに、今は成り果てて仕舞ひました、何だ角だと取られる税は多くなる、積れる作物に変りは無い、其れで山へも入ることがならねい、草も迂濶苅ることがならねい、小児は学校へ遣らにやならねい、借金が出来る、田地は段々に他の物になる、旦那今ま此の山中で、自分の田を作つて居るものが幾人ありますかサ、――其上に厄介なものがありますよ、兵隊と云ふ恐ろしい厄介物が、聞けば又た戦争とか始まるさうで、私の村からも三四人急に召し上げられましたが、兵隊に取られるものに限つて、貧乏人で御座りますよ、成程其筈で、年中働いて居るので身体が丈夫、丈夫だから兵隊に取られる、――此頃も郡役所の小役人が帽子など被つて来まして、国の為めに死ぬんだで、有難いことだなんて言ひましたが、斯様馬鹿な話がありますか、――近い例証が十年前の支那の戦争で、村から取られた兵隊が一人死にましたが、ヤア村の誉になるなんて、鎮守の杜に大きな石碑建てて、役人など多勢来て、大金使つて、大騒ぎして、お祭を行りましたが、一人息子に死なれた年老つた両親は、稼人が無くなつたので、地主から、田地を取り上げられる、税を納めねいので、役場からは有りもせぬ家財を売り払はれる、抵当に入れた馬小屋見たよな家は、金主から逐つ立てられる、到頭村で建てて呉れた自分の息子の石碑の横で、夫婦が首を縊つて終ひましたよ、爺と媼の情死だなんて、皆な笑ひましたが、其時も私、長左衛門様の御話して、斯なることを見透して御座つたと言うて聴かせましたが、若い者等は、ヘイ其様人があつたのかなと驚いて居ましたよ、最早村の奴せえ御恩を忘れて居ります様なわけで――」
老人は鼻汁すゝり上げつ「どうせ私などは明日にも死ぬ身だから、関やせぬやうな物で御座りますが、子供等が可哀さうでなりませぬ、何卒、旦那――長二様、一つ長左衛門様の魂塊を御継ぎなされて、此の百姓共を救つて下さりまし――」
石にや乗り上げけん、馬車は顛覆せんばかりに激動せり、
「畜生、何をフザけやがるツ」御者は続けさまに鞭を鳴らして打てり、
「オヽ、可哀さうだ、余り酷くしなさるナ」と、老人は御者をなだめつ、
馬車はやがて吉田に着きぬ、
「では、御老人、お別れ致します」篠田は老人の手をシカと握りて斯く言へり、
権作爺は幾度も何か言はんと欲して遂に言ふこと能はざりき、粟野の方へ雪踏み分けて坂路を辿る篠田の黒影見えずなる迄、月にすかして見送りぬ、涙に霞む老眼、硬き掌に押し拭ひつつ、
権作老人と立ち別れて篠田は、降り積む雪をギイ/\と鞋下に踏みつゝ、我が伯母の孤り住む粟野の谷へと急ぐ、氷の如き月は海の如き碧き空に浮びて、見渡す限り白銀を延べたるばかり、
老夫の旧懐談に心動ける彼は、仰で此の月明に対する時、伯母の慈愛に負きて、粟野の山を逃れる十五歳の春の昔時より、同じ道を辿り行く今の我に至るまで、十有六年の心裡の経過、歴々浮び来つて無量の感慨抑ゆべくもあらず、只だ燃え立つ復讐の誠意、幼き胸にかき抱きて、雄々しくも失踪せる小さき影を、月よ、汝は如何に哀れと観じたりけん、焦がるゝ如き救世の野心に五尺の体躯徒に煩悶して、鈍き手腕、其百万の一をも成すこと能はざる耻かしさを、月よ、汝は如何に甲斐なしと照らすらん、森々として死せるが如き無人の深夜、彼はヒシと胸を抱きて雪に倒れつ、熱涙混々、誰憚らず声を放つて泣きたりしが、忽ちガパと跳ね起きつ、足を踏みしめ、手を振つて、天地も動けと、呼ばはりぬ、
翠の帳、きらめく星 白妙の牀、かがやく雪 宏なる哉、美くしの自然 誰が為め神は、備へましけむ、
峯の嵐は、眠りたり 谷の流は、夢のうち 隈なき月の冬の影 厳かにこそ、静なれ、
眼閉づれば速く近く、何処なるらん琴の音聴こゆ 頭揚ぐれば氷の上に 冷えたる躯、一ツ坐せり 両手振つて歌唄へば 山彦の末見ゆ、高きみそら、
感謝の声の天のぼり 琴の調に入らん時 歌にこもれる人の子が 地上の罪の響きなば 弾く手とどめて天津乙女 耻かしの 色や浮ぶらめ、
父の正義のしもとにぞ 涜れし心ひれ伏さむ 母の慈愛の涙にぞ 罪のゆるしを求め泣く 御神よ我を逐ふ勿れ 神よ汝が子を逐ふ勿れ
神の心を摸型の 人てふ旨を忘れてき 神の御園の海山を 血しほ流して争へり、
万象眠る夜の床 人に逐はれし人の子の 天地を恨む力さへ 涙と共に涸れはてて 空く急ぐ滅亡を 如何に見玉ふ我神よ、
天つ御国を地の上に 建てんと叫ぶ我が舌に 燃ゆれど尽きぬ博愛の 永久の焔恵みてよ、
熟睡の窓に束の間の 罪逃がれにし人の子を 虚無の夢路にさゝやきて 聖き記憶を呼びさませ、
星の帳、雪の牀 くしく宏なる準備かな 只だ頽廃の人の心 悲しくも住むに堪へざるを、
峯の嵐は、眠りたり 谷の流は、夢のうち 隈なき月の冬の影 厳かにこそ、静なれ、
眼閉づれば速く近く、何処なるらん琴の音聴こゆ 頭揚ぐれば氷の上に 冷えたる躯、一ツ坐せり 両手振つて歌唄へば 山彦の末見ゆ、高きみそら、
感謝の声の天のぼり 琴の調に入らん時 歌にこもれる人の子が 地上の罪の響きなば 弾く手とどめて天津乙女 耻かしの 色や浮ぶらめ、
父の正義のしもとにぞ 涜れし心ひれ伏さむ 母の慈愛の涙にぞ 罪のゆるしを求め泣く 御神よ我を逐ふ勿れ 神よ汝が子を逐ふ勿れ
神の心を摸型の 人てふ旨を忘れてき 神の御園の海山を 血しほ流して争へり、
万象眠る夜の床 人に逐はれし人の子の 天地を恨む力さへ 涙と共に涸れはてて 空く急ぐ滅亡を 如何に見玉ふ我神よ、
天つ御国を地の上に 建てんと叫ぶ我が舌に 燃ゆれど尽きぬ博愛の 永久の焔恵みてよ、
熟睡の窓に束の間の 罪逃がれにし人の子を 虚無の夢路にさゝやきて 聖き記憶を呼びさませ、
星の帳、雪の牀 くしく宏なる準備かな 只だ頽廃の人の心 悲しくも住むに堪へざるを、
彼の面は嬉々と輝きつ、髯の氷打ち払ひて、雪を蹴つて小児の如く走せぬ、伯母の家は彼の山角の陰に在るなり、
樹の間より燈影の漏るゝ見ゆ、伯母は未だ寝ねずあるなり、
細き橋を渡り、狭き崖を攀ぢて篠田は伯母の軒端近く進めり、綿糸紡ぐ車の音微かに聞こゆ、彼女は此の寒き深夜、老いの身の尚ほ働きつゝあるなり、
「伯母さん」篠田ほホト/\戸を叩けり、
車の音止みぬ、去れど何の答もなし、
篠田は再び呼べり「伯母さん」
「誰だエ」と伯母は始めて答へぬ、
「伯母さん、私です」
「オ、――長二ぢやないか」倉皇として起ち来る音して、歪みたる戸は、ガタピシと開きぬ、
「まア――」と驚きたる伯母は、雪に立ちたる月下の篠田を、嬉しげにツクヅクと見上げ見下ろせり「能く来てお呉れだ、先頃の手紙に、忙しくて当分行くことが出来さうも無いとあつたので、春暖かにでもならねばと思つて居たのに、――嘸ぞ寒むかつたらう、今年は珍らしい大雪での、さア、お入り、私ヤ又た狐でも呼ぶのかと思つたよ」
「狐と聞違へられでは大変ですネ」と篠田は莞然笑傾けつ、框に腰打ち掛けて雪に冰れる草鞋の紐解かんとす、
「お前が来ると知つて居りや、湯も沢山、沸かして置いたのに」と伯母が炉上の茶釜をせゝるを、「なに、伯母さん、雪路だから、足も奇麗ですよ」と、篠田は早くも上りて炉辺に座りぬ、
昔ながらの松明の覚束なき光に見廻はせば、寡婦暮らしの何十年に屋根は漏り、壁は破れて、幼くて我引き取られたる頃に思ひ較らぶれば、いたく頽廃の色をぞ示す、
「まア、長二、お前ほんとに吃驚させて、斯様嬉しいことは無い」と、山の馳走は此れ一つのみなる榾堆きまで運び来れる伯母は、イソ/\として燃え上がる火影に凛然たる姪の面ながめて「何時も丈夫で結構だの、余り身体使ひ過ぎて病気でも起りはせぬかと、私ヤ其ればかりが心配での」と言ひつゝ見遣る伯母の面は、何時もながら若々として、神々しきばかりの光沢漲れど、流石に頭髪は去年の春よりも又た一ときは白くなり増りたり、
榾の煙は「自然の香」なり、篠田の心は陶然として酔へり、「私よりも、伯母さん、貴女こそ斯様深夜まで夜業なさいましては、お体に障りますよ」
「なんの、長二」と伯母は白き頭振りつ「身体は使ふだけ健康だがの、お前などのは、心気を痛めるので、大毒だよ――今ではお前も健康の様だが、生れが何せ、脆弱い質で、五歳六歳になるまでと云ふもの、全で薬と御祈祷で育てられた躯だ――江戸の住居も最早お止めよ、江戸は塵と埃の中だと云ふぢや無いか、其様中に居る人間に、何せ満足なものの在る筈は無い、今ま直ぐと云ふわけにもなるまいが、何卒伯母の健康な中に左様しなさい、山姥金時で、猿や熊と遊んで暮らさうわ、――其れは左様と、今度は少し裕然泊つて行けるだらうの――」
篠田は頭掻きつゝ、口ごもりぬ「――先日も手紙で申上げたやうな次第で、当時差し懸つた用事がありますので、殆ど足を抜くことが出来ないのですが――何だか無闇に貴女が恋しくなつたもんですから、今日不意に出掛けて参つたやうな始末でしてネ――」
伯母は怪訝な目して良久篠田を見つめしが「――又た明日ゆつくり話しませう、疲れたらうに早くお寝み、例の所にお前の床がある、――気候が寒いで、風邪でも引かれると大変だ」
「貴女こそ早くお寝みなさい」と篠田は笑ひぬ、
「何の、私は寝たよりも醒めてる方が楽だ――此の綿を紡で仕舞はんぢや寝ないのが、私の規定だ、是れもお前の袷を織る積なので――さア、早くお寝み」
「左様ですか」と篠田は暗涙を呑で身を起しつ「誠に、恐縮に御座ります」と襖開きて、慣れたる奥の一室に入れり、
伯母は膝に手を組んで頭を垂れぬ「――何か只ならぬ心配があると見える――此の私を急に恋しくなつたと云ふのは――彼の剛情な男が――」
「長二や、大層早起の、何時起きたのか、ちつとも知らなかつたよ」と言ひつゝ伯母は内より障子開く、
縁端には篠田が悠然と腰打ち掛けて、朝日の光輝く峯の白雲眺めつゝあり、「そりや、伯母さん、私の方が早く寝ましたからネ――が、伯母さん、どうも実に閑静ですねエ、全く別天地です、此の節々が延々しますよ」
「だから、江戸の様なせゝこましい所で、無駄な苦労せずに、早く先祖代々の故郷へお帰りと云ふのだ――頼朝様よりも前から住んで居るので、何殿に頭を下げにやならぬと云ふ様な心配もなしさ」
「然かし、伯母さん」と篠田は笑みつ「猿や狐の友達も可いが、人間は矢張り人間の相手が無ければ、寂しくて堪りませんよ、私は又た伯母さんが、能く斯して孤独で居なさると不思議に思ふですよ、何です、一つ江戸住と改正なされたら」
「オヽ、飛んだことを、何の長二や、寂しいことがあるものか、多勢寄つて来るので、夜も寝るのが惜い程賑かだ」
「ヘエ、何処から其様に人が参りますか」と篠田の訝かるを、伯母は事も無げに首肯きつ「私の知つとる程の人が、皆な寄つて来るよ、――お前の阿父も来る、阿母も来る、祖父も祖母も来なさる、――其れに、長二、私の許嫁で亡くなつた、お前の義伯さんも来るの、其れに斯うしてお前も偶には来て呉れる、斯様嬉しいことがありますか」
ハヽヽと思はずも篠田は笑ひつ「ぢや、伯母さん私も仏様の御仲間入するんですネ」
「左様サ」と伯母は首肯き「神様か仏様か知らないが、矢ツ張り人間の様だよ、妙なもので、人は生きて居た時よりも、死んだ後の方が皆んな善くなるよ――生きてた時分には、怒り合つたこともあらうし、怨み合つたこともあらうが、一度死ぬと、悪い所は皆な墓場へ葬つて、善い所だけが霊魂に残るものと見える、其れに死んだ人は、羨ましいことに、年と言ふものを取らないので、誰も彼も皆な若いよ、お前の阿父でも阿母でも皆な若いよ、――私の亭主も丁度二十歳で亡つたが、其時の姿の儘で目に見える、私の頭が斯様に白くなつたので、どうやら耻かしい様な気がして、最早何時にも鏡と云ふものを見たことが無いよ――」
ほツほツと片頬に寄する伯母の清らけき笑の波に、篠田は幽玄の気、胸に溢れつ、振り返つて一室に煤げたる仏壇を見遣れば、金箔剥げたる黒き位牌の林の如き前に、年経て朧気なる一個の写真ぞ安置せらる、是れ此の伯母が、未だ合衾の式を拳ぐるに及ばずして亡き数に入りたる人の影なり、
伯母もチヨと其方を見やりつ「いつであつたか、彼の写真が判らぬ様になつたので、大きな油絵とやらに書き代へようと親切に、お前が言うて呉れたが、ナニ、決して其れには及びませぬよ、写真の顔などは見えなくなる程が可いよ、――そりやお前、絵姿なんてものは、極り切つた顔して居るばかりだけれど、此の心に映る姿は、物も言へば、歩きもする、怒りもすれば笑ひもする、斯様自由自在なものは有るまいよ」
「成程」と、篠田は瞑目して、伯母が言葉の端々深く味ひつ、
伯母はほツほと独り笑ひつ「私ヤ、まア、勝手なことばかり言つて居たが、長二や、其れよりもお前の嫁の決らないのが、誠に心懸りだよ、何だエ、未だ矢ツ張り心当りが無いか、――江戸あたりの埃の中には、お前の気に協つたものは有るまいが、ト云つて山の中にも無しの、ほんに困つて仕舞うたよ」と首傾けて屈托の態なりしが「ほう」と一つ己が膝叩きつ「どうだエ、長二、お前、亜米利加とかで大層お世話になつた婦人があるぢや無いか、偉い女性だとお前が言ふのだから、大した人に相違なかろが、一つ其婦人を貰ふわけにやなるまいか、異人でも何でむ構やせぬよ、其れに御亭主の無い婦人だとお言ひぢやないか、エ、長二」
篠田は腹を拘へて噴飯せり、
「イエ、本当の話だよ」と伯母は益々真面目也、
「伯母さん、兼てお話した通り、偉い女性に相違ありませぬがネ、――伯母さんより十歳も上のお姿さんですよ」
「何だエ」と伯母は眼を円くし「其様豪い婦人で、其様歳になるまで、一度もお嫁にならんのかよ――異人てものは妙なことするものだの」
「別に不思議はありませんよ、現に伯母さんも左様ぢやありませんか」
「ナニ、私ヤ、是でもチヤンと心に亭主があるのだよ」
「其れならば、伯母さん、御安心下ださい、私もチヤンと花嫁がありますよ」
篠田は晃々たる雪の山々見廻はして、歓然たり、
「オヽ、お嫁があるとエ」と伯母は驚くまでに打ち喜び
「して、其れは何時きめました、早く知らせて呉れゝば可いに」
「なに、伯母さん、改めてお知らせする程のことも無いのです、最早疾くの昔時のことですから」
「ほツほ、何を長二、言ふだよ、斯様老人をお前、弄るものぢや無いよ、其れよりも、まア、何様婦人だか、何故連れて来ては呉れないのだ」
「伯母さん、最早、貴女にも御紹介した筈ですよ」
「虚言うて」と伯母は口開いてカラ/\と打ち笑ひ「私がお前のお媽さんを忘れて可いものかの」
「サ、伯母さん、私の花嫁と云ふのは、其の『おかみさん』のことですよ」
「其のお媽さんの名は何と言ふのだの」
「おかみさんと云ふのです」
「長二や、お前、何を言ふだ」と、伯母は又も声高く笑ふ、
「伯母さん、本当の話です、神様が私の花嫁のです、――父とも母とも花嫁とも、有らゆる一切です」
「ヘエ」と、伯母は良久言葉もなく、合点行かぬ気に篠田の面を目もれり「お前の神様のお話も度々聞いたが、私には何分解らない、神様が嫁さんだなんて、全然怪物だの」
「怪物ぢや無い、人ですよ、人の大きいのです、必竟、人が神様の小さいのと思や可いですよ」
「左様云ふものかの」と伯母は思案の首傾けつ、
「現に伯母さん、貴女の所へ私の両親も来る、貴女の旦那様も来ると仰しやつたでせう――怪物でも、不思議でもありませんよ」
「だがの、長二や、其れは皆な私の知つて居る人達だが、お前の嫁の其の神様には、お前、お目に掛つたことがあるかの」
「左様ですねエ――思ひに悩む時、心の寂しい時、気の狂ほしい時、熟と精神を凝らして祈念しますと、影の如く幻の如く、其の面も見え、其声も聴こゆるですよ、伯母さんのと格別違ありますまい」
「其れは長二や、未だお前には早過ぎるやうだよ」と伯母は頭を振りぬ「私も結局孤独の方が好いと、心から思ふやうになつたのは、十年以来くらゐなものだよ――今だから洗ひ渫ひ言うて仕舞ふが、二十代や三十代の、未だ血の気の生々した頃は、人に隠れて何程泣いたか知れないよ、お前の祖父が昔気質ので、仮令祝言の盃はしなくとも、一旦約束した上は、後家を立て通すが女性の義務だと言はしやる、当分は其気で居たものの、まア、長二や、勿体ないが、父を怨んで泣いたものよ――お前は今年幾歳だ、三十を一つも出たばかりでないか、お前がどんな偉い人になつたにしても、マサか仙人では有るまいわ、近い話が、何か身動きもならぬ程に忙しい中を、斯様何の相談対手にもならぬ私を恋しがつて、急に思ひ立つて来ると云ふも、神様の嫁御では、物足らぬからではあるまいか、エ、長二、お前が何程物識でも、私の方が年を取つて居りますぞ」
篠田は腕拱きて深思に沈みつ、
子を伴へる雌雄の猿猴が、雪深き谷間鳴きつゝ過ぐる見ゆ、
篠田の寂しき台所の火鉢に凭りて、首打ち垂れたる兼吉の老母は、未だ罪も定まらで牢獄に呻吟する我が愛児の上をや気遣ふらん、折柄誰やらん訪ふ声に、老母は狭き袖に涙拭ひて立ち出でつ「オヽ、花ちやん――お珍らしい、能くお入来だネ、さア、お上りなさい、今もネ私一人で寂しくて困つて居たのですよ――別にお変りもなくて――」
「ハア、――老母も――」と、嫣然として上り来れるお花は、頭も無雑作の束髪に、木綿の衣、キリヽ着なしたる所、殆ど新春野屋の花吉の影を止めず、「大和さんは学校――左様ですか、先生は不相変御忙しくて在つしやいませうねエ――今日はネ、阿母、慈愛館からお聴が出ましてネ、御年首に上つたんですよ、私、斯様嬉しいお正月をするの、生れて始めてでせう、是れも皆な先生の御蔭様なんですからねエ――其れに阿母、兼さんから消息がありましテ、私、始終気になりましてネ」
老母の目は復た忽ち涙に曇りつ「――予審とやらは此頃やうやく済んださうですがネ――」
「左様ですツてネ――其事は私も新聞で見ましたの、――六ヶ敷文句ばかり書いてあるので、能くは解りませぬでしたが、何でも兼さんに、小米さんを殺すなんて悪心が有つたのでは無いと云ふやうに思へましたよ、矢つ張裁判官でも人ですから、少しは同情があると見えますわねヱ、だから阿母、余り心配なさらぬが可御座んすよ」
「難有うよ」と老母は瞼拭ひつ「此程も伜のことを引受けて下だすつた、弁護士の方が来しつたんでネ、先生様の御友達の方で、――御両人で種々御相談なすつて在しつたがネ、君是れ程筋が立つて居るのに、若し兼吉を無罪にすることが出来ないならば、弁護士を廃めて仕舞へと、先生様が仰しやるぢやないか、すると其方もネ、可しい約束しようと仰しやるんだよ、花ちやん、私、嬉しくて/\……」
「本当にねエ、阿母」と、お花はブル/\と身を震はしつ「何と云ふ御親切な方でせう、――私、考へる毎に――」と、面忽ちサと紅らめ「彼の様にお忙しい中で、私共のことまであれも是れもとお世話下さるんですもの、何して阿母、世間態や人前の表面で、出来るのぢやありませんわねエ――近頃は又戦争が始まるとか、忌な噂ばかり高い時節ですから、夜分お帰りも嘸ぞ遅くて在つしやいませうねエ」
「左様ですよ、おつちりお寝みなさる間も無くて在つしやるので、御気の毒様でネ、ト云つて御手助する訳にもならずネ――其れに又た何か急に御用でもお出来なされたと見えて、昨日新聞社から直ぐに御郷里へ行らしつたのでネ」
「あらツ」と、お花は驚き顔「ぢや先生は御不在なんですね――まア――何時御帰宅になるんですの」
「端書で言うて御遣しになつたのだから、詳しいことは解りませんがネ、明日の晩までには、お帰宅になりませうよ、大和さんが左様言うてらしたから、だから花ちやん、丁度可い所へ来てお呉れだわネ、寂しくて居た所なんだから」
「私、まア――ぢや、私、お目に掛ること出来ないんですか――」
「そんなに急ぐのかネ、花ちやん、たまのことだから、少しは遊んで行つても可いでせう、外の処ぢや無いもの」
黙つてお花は頭を振り「明日の正午までには是非帰館らねばなりませんの」
ガラリ、格子戸鳴りて、大和は帰り来れり「やア、花ちやん、来つしやい、待つてたんだ、二三日、先生が御不在ので、寂しくて居た所なんだ」
「貴郎までが、――そんナ――」とお花は泣きも出でなんばかり、
晩餐を果てて、三人燈下に物語りつゝあり、「何だか、阿母、先生が御不在と思もや、其処いらが寂しいのねエ」と、お花は、篠田の書斎の方顧みつゝ、
「ほんとにねエ、在しつたからとて、是れと云ふ別段のことあるでも無いのだけれど」と、兼吉の老母も首肯きつ、
「本当に私、申訳ないと思ひますワ」と、お花は急に思ひ出したるらしく「先生が私を御世話なすつて下さるのを、世間では彼此申すさうぢやありませんか、私ヤ、何うせ斯様した躯なんですから、ちつとも関やしませぬけれど、其れぢや、先生に御気の毒ですものねエ」
「なアに、花ちやん」と、大和は番茶呑み干しつゝ、事も無げに笑ひて、「其様ことは先生に取つて少しも珍らしく無いのだ、此頃は尚だ酷い風評が立つてるんだ――山木の梅子さんて令嬢と、先生が結婚しなさるんだツて云ふんでネ、是れには先生も少こし迷惑して居なさる様なんだ、皆な先生を毀けようとする者の卑劣な策略なんだから、花ちやん、左様心配しなさるに及ばないよ」
「左様でせうか」
「けれど大和さん」と老母は顔差し出し「ツイ此頃も、其の山木のお嬢様とやらの弟御さんが御来になつたで御座んせう、チラと御聞きしただけですから能くは解りませんけれど、其の御姉さんが何してもお嫁に行かないと仰しやるんで、トド、何か大変なことでも出来したと云ふ様な御話で御座んしたよ」
「ウム、彼の松島の一件か」と、大和は例の無頓着に言ひ捨てしが、忽ち心着きてや両手に頭抱へつ「やツ」と言ひつゝお花を見やる、
「何しなすツたの」と、お花も、松島と云ふ一語に顔赫らめぬ、
「なアに、花ちやんの為にも矢張り敵なんだよ、彼の松島大佐がネ」と大和は茶受ムシヤ/\と噛み込みつ「彼が余程以前から、梅子さんを貰はうとしたんだ、梅子さんの実父も、継母の兄と云ふのも、皆な有名な御用商人なんだから、賄賂の代りに早速承諾したんだ、所が我が梅子嬢は何しても承知しないんだ、到頭梅子さんを誘ひ出して、腕力で侮辱を与へようとしたもんだから、梅子さんも非常に怒つて、松島を片眼にしたんださうな、其れを宅の先生が何か関係でもあつて、左様させたやうに言ひ触らして、先生の事業を妨害する奴があるんだ、或は梅子さんが先生を恋して居なさるかも知れんサ、大分世間で其の評判だから、けれど先生は御存知無いんだ、恋愛は其対手が承諾を与へた場合に始めて成立する、所謂双務契約なんだからなア」と、恋愛法理論を講釈したる彼は、グツと一椀、茶を傾けつ「何うも美人てものは厄介極まる、僕は大嫌ひだ、」
老母もお花も転がつて笑ひつ、
「それは、吃度、其のお嬢様も左様で在つしやいませうよ」と、老母はやがて口を開きて「先生様のやうに、口数がお少くなくて、お情深くて、何から何まで物が解つて在しつて、其れでドツしりとして居なさるんですもの、其ヤ、女の身になれば誰でもねエ」
「まア、厭な阿母」
「否エ、本当ですよ」
お花はランプの光眩し気に面を背向けつ「けれど、其のお嬢様など、お幸福ですわねエ、其様した立派な方なら、仮令浮き名が立たうが、一寸も男の耻辱にもなりや仕ませんもの――」
大和は眼を円くして、襟に頤埋めて俯けるお花の容子を、マジ/\と見つめぬ、
此夜お花は眠らぎりき、
「今日は又た曇つて来た、何卒降雪ねば可いが」と、空眺めながら伯母は篠田を見送りの為め、其の後に付いて、雪の山路を辿り来りしが「其う云ふ次第で、長二や、気を着けてお呉れよ、此世に只だ伯母一人姪一人と云ふのぢや無いか、――亭主には婚礼もせずに逝かれる、お前の阿父は彼の様な非業な最後をする、天にも地にも頼るのはお前ばかりのだ――まあ、之を御覧よ」と、眼下に白き雪の山里指しつ「お前の阿父は此の秩父の百姓を助けると云ふので鉄砲に撃たれたのだが、お前の量見は其れよりも大きいので、如何災難が湧いて来ようも知れないよ、――此様年老つた上に、逆事など見せて呉れない様にの――」
篠田も何とやらん後髪引かるゝやう「伯母さん、何卒心配せんで下ださい、重々御苦労を御掛け申して来た今日ですから――其れに私も既三十を越したんですから、後先見ずのことなど致しませんよ、父にも母にも為ることの出来なかつた孝行を、貴女御一人の上に尽くしたいのが、私の精神ですからネ」
伯母は涙堰きも敢へず「――長二や、――私や、斯してお前と歩るいて居ながら、コツクリと死にたいやうだ――」
ハヽヽヽと篠田は元気克く打ち笑ひつ「何を伯母さん、仰しやる、今ま若し貴女に死なれでもして御覧なさい、私は殆ど此世の希望を亡して仕舞ふ様なもんですよ、何卒ネ、お躯を大切にして下ださい、其のうちに又時を都合して参りますからネ」
「忙しからうがの」と、伯母は小さき袂に溢るゝ涙押し拭ひつ「何卒其うしてお呉れよ、年増しにお前が恋しくなるので、――其れに、復た言ふ様だが、私の一生の御願だでの、一日も早く嫁を貰ふことにしてお呉れよ、――女房が無いで身締が何の角のなどと其様な心配は、長二や、お前のことだもの少しも有りはせぬが、お前にしてからが何程心淋しいか知れはせぬよ、女など何の役にも立たぬ様に見えるが、偉い他人でも其の真心には及びませんよ、――諄いと思ふだろが、お前の嫁の顔見ぬ間は、私は死にたくも死なれないよ」
篠田は答へんすべも無し、
* * *
顧み勝ちに篠田は独り下山り行く、伯母が赤心一語々々に我胸を貫きつ、
神に祈れど得も去らぬ、寂し心のなやみをば、恋てふものと伯母君の、昨日ぞ諭し玉ひたる
花の姿の美しと、乙女を見たる時もあれど、慕はしものと我が胸に、影をとどめしことあらず、
地上の罪の同胞に、代る犠牲の小羊と、神の御前に献げたる、堅き誓の我なるを、
不信の波の何時しかに、心の淵に立ち初めて、底の濁を揚げつらん、今日まで知らで我れ過ぎぬ、
花の姿の美しと、乙女を見たる時もあれど、慕はしものと我が胸に、影をとどめしことあらず、
地上の罪の同胞に、代る犠牲の小羊と、神の御前に献げたる、堅き誓の我なるを、
不信の波の何時しかに、心の淵に立ち初めて、底の濁を揚げつらん、今日まで知らで我れ過ぎぬ、
汝を恋ふるばかりに、柔しき処女の血にさへ汚れしを知らずやテフ声、忽ち如何処よりか矢の如く心を射れり、山木梅子の美しき影、閉ぢたる眼前に瞭然と笑めり、
「おのれ、長二ツ」と篠田は我と我が心を大喝叱して、嚇とばかり眼を開けり、重畳たる灰色の雲破れて、武甲の高根、雪に輝く、
壕水に映つる星影寒くして、松の梢に風音凄く、夜も早や十時に垂んたり、立番の巡査さへ今は欠伸ながらに、炉を股にして身を縮むる鍛冶橋畔の暗路を、外套スツポリと頭から被りて、弓町の方より出で来れる一黒影あり、交番の燈火にも顔を背向けて急ぎ橋を渡りつ、土手に沿うて、トある警視庁官舎の門に没し去れり、
彼の黒影はヤガて外套を脱して、一室の扉を押せり、室内は燈火明々として、未だ官服のまゝなる主人は、燃え盛る暖炉の側に安然と身を大椅子に投げて、針の如き頬髯撫で廻はしつゝあり、
扉の開かれし音に、ギロリとせる眼を其方に転じつ「ヤア、吾妻」
彼の黒影は同胞新聞の記者吾妻俊郎にぞありける、
吾妻はその敏慧なる眼に微笑を含みつゝ、軽く黙礼せる儘、主人と相対して椅子に坐せり、
「川地課長、やうやく捜し出しましたよ」
言ひつゝ彼は裏なるポケットより一個の紙包を取り出して、主人に渡せり「今一日後れりや、屑屋の手に渡る所なんで――大切な原稿を間違へて、反古の中へ入れちやつたてなことで、屑籠を打ちあけさせて、一々択り分けて、本当に酷い目に逢ひましたよ」
主人は黙つて其の紙包を開けり、中より出でしは皺クチヤになれる新聞の原稿なり、彼は膝頭にて稍々之を押し延ばしつ、口の裡にて五六行読みもて行けり、
……彼の主戦論者の声言する所を聞くに日露両国の衝突は、自由と擅制との衝突にして、又た文明と野蛮との衝突……と云ふ、吾輩謂へらく決して然らず、是れ只だ両個擅制帝国の衝突のみ、両個野蛮政府の衝突のみ……………………財産の特権、貴族の遊食、………………総ゆる罪悪一に皇帝の名を仮りて弁疎……
川地は目を揚げて吾妻を見つ「慥に篠田の自筆か」「左様です、間違ありませんよ」
「御苦労/\」と川地は首肯きつゝ己がポケットの底深く蔵め「是れが在れば大丈夫だ、早速告発の手続に及ぶよ、実に不埒な奴だ、――が、彼奴、何処か旅行したさうだが、逃でもしたのぢや無らうナ」
吾妻は微笑みつ「なに、郷里へ一寸帰つただけのです、今晩あたり多分帰京つた筈です、で、罪名は何とする御心算ですネ」
「左様さナ」と主人は頬撫でつゝ「先づ不敬罪あたりへ持つて行くのだ、吹つ掛けは成るべく大きくないと不可からナ」
「エ、不敬罪ですつて」と吾妻は声やゝ打ち顫へり、
主人は鋭き眼して睨みぬ「何だ」
「なに、何もしやしませぬがネ」と吾妻は心押し静めつ「何の道、大至急願ひたいものです――僕は最早篠田の面を見るに堪へないですからネ」
吾妻の額には恐怖の雲懸る、
「何をビク/\するんだ」と、主人は吾妻を一睨せり「其様ことで探偵が勤まるか――篠田や社員の奴等に探偵と云ふことを感付かれりや為なかろな」
「なアに、外の奴等は感付く所か、僕が余り篠田に接近すると云ふので、却て嫉妬して居る程です、ですから僕の流言が案外社員間には成効して、陰では皆な充分に篠田を疑つて居るですがネ――」言ひ淀みたる吾妻は、側なる小卓に片肘を立てて、悩まし気に頭を支へぬ、
「其れが何したと云ふのだ、篠田の方は何したと云ふのだ」
「――課長」吾妻の声は震へり「川地さん、――然かし篠田は覚つて居るらしいのです、慥に覚つて居るらしいのです」
「けれど吾妻、覚つて居ながら、探偵を近けて居る理由もなからう――特に彼云悪党が」
「所が、其れが大間違ひのです」と、吾妻は姿勢を正して吐息をつけり「川地さん、正直に言ふと、彼は偉い男ですよ、彼は慥に僕を探偵と知つてるのです、其れで僕と差向の時には、必ず僕に説教するのです、彼は全然坊主ですナ、其真実の言葉が、此の心の隅から隅まで探燈で照らし渡る様に感じて、怖くて堪らない」
彼は瞑目して暫ばし胸裡の激動を制しつ「――ト云うて、貴官の方へは、彼の罪迹を何か報告せねばならぬでせう――イヤ、其様せねば貴官の御機嫌が悪いでせう――けれど実を言ふと、僕には彼の罪悪と云ふものを発見することが出来ないんですもの――」
川地の眼はキラリ輝けり「ぢや、吾妻、今日まで報告した彼奴の秘密は、虚事だと云ふのか」
「――悉く虚報と云ふでもありませぬが――悉く真実と云ふ事も困難です――」
「ぢや、吾妻、彼奴が山木の嬢を誘惑して、其の特別財産を引き出す工夫してると云ふのは、ありや真実か何だ」
「――あれは少し違つてる様でした――」
「花吉を妾にして居ると云ふのは」
「あれも――少し違つて居ります」
川地は忿怒の声荒々しく「九州炭山の同盟罷工教唆も虚報と云ふのか」
「イヤ、全然虚報と云でもありませぬが――実は篠田は、同盟罷工に反対して、静粛なる手段を執ることを熱心に勧告したのです、其の往復の書信など僕は能く知つて居ますが、けれど勢ひ已むを得ないと云ふことになつたもんですから、然らば坑夫等を無惨の失敗に終らしめてはならぬと云ふので、最も困難な兵糧方に廻つたのです、だから彼が教唆したと云ふのは、少こし真実に遠い様でもありますが、彼が無かつたら坑夫の同盟も、今度の労働者団結も成立つことでありませんから、彼が教唆したと報告したのも、結果から言へば全然虚報とは言はれぬ様にもなる次第のです」例の快弁に似もやらず、吾妻は汗を拭ひつ、弁疏せり、
「吾妻、全で貴様は政府を欺いて、我等を欺いて、機密費を盗んで居たのだ」
「けれど」と、吾妻は少しく椅子を後に退け「其ヤ課長、無理ですよ、初め僕が同胞社に這入り込んだ頃、僕は報告したぢやありませんか、外で考へると、内で見るとは全く事情が違つて、篠田と云ふ男、実に敬服すべき君子だと申上げたでせう、スルと貴官は大変に立腹して、其様筈が無い、何かあるに相違無い、政府の方針は飽く迄も社会党撲滅と云ふことであるから、若し其に好都合な申告を為ないと、今度は警察の無能と云ふんで、我々の飯の食ひ上げになる、だから何でも可いから持つて来い、虚誕を組立てて事実を織り出すのが探偵の手腕だと――」
「馬鹿ツ」
「馬鹿ぢやありません、今度も左様です、松島が負傷したに就て、軍隊や元老の方からも八釜しく言うて来て困る、是非何とかして、篠田を引ツ縛らねばならぬからと言ふんでせう――其りや成程、僕が最初篠田と山木の嬢と、不正な関係がある様に虚誕を報告して置いた結果で仕方ないですが――」
川地は再び大喝せり「馬鹿ツ」
吾妻のワナ/\と顫へる面を、川地課長は冷かに眺めて
「其の態は何だ、吾妻、貴様も年の若いに似合はず役に立つ男と思つて居たが、案外の臆病だナ、其れでも警察の飯を食つて居るのか」
吾妻は頭押へつゝ「――其や僕も、爺の脛を食ひ荒して、斯様探偵にまで成り下つたんだから、随分惨酷なことも平気で行つて来たんですが、――篠田には実に驚いたのです、社会党なんぞ、どうせ陰険な乱暴なものだと思つて這入り込んだのだが、秘密と云ふものが殆ど無いのです――以前始めて社会民主党を組織するツてた時も、左様でしたよ、タシか土橋だと思ふが、彼の渡部と云ふ男の所へ出掛けて行くと、先方が却て歓迎して起草しかけて居た宣言書を見せて、一々講釈をされたので、社会主義ツてものは、実に可いものだと感服し切つて来たが、僕も本当に左様思ひますよ、川地さん、貴官は篠田を悪党だの何のと言ひなさるけれど、試に一度逢つて御覧なさい、屹度従来の誤解を慚愧なさるに相違ありませんよ――僕は斯う云ふ好人物を毀けねばならぬかと思ふと、如何にも自分ながら情なくなつて、寧そ自分の探偵と云ふことを白状して、本当の子分にして貰うかと思つたことが、幾度とも知れませんよ、近来は最早怖くて堪らぬから、逢はぬやうに/\と、篠田を避けて居るんだ」
川地は大口開いてカラ/\と笑ひつ「吾妻、貴様もエライ善根があるんだナ、感心だよ」
「仮令斯様になつても、未だ人間には相違無いからネ」と、吾妻は首肯き「然かし、もう斯うなるからは、何卒篠田に面を見られない様にして貰ひたいのだが、其の論文にしても、何も不敬罪とは覚束ないからナ、裁判は警視庁や内務省が為るんで無いからナ――何程牽強付会をした所で、官吏侮辱位のものだ、二月か三月の重禁錮だ、――僕ア外国へ逃げでもしなけりや、安心が出来ませんよ」
「非常な心配だナ」と、川地は冷笑しつゝ、「其れなら我輩も一ツ善根の為めに、貴様を救けて篠田を一生娑婆の風に当てないやうにして遣らう」
「笑談言つちやいけませんよ、何程意気地の無い裁判官でも、警視庁の命令に従ひはしませんからネ」
「馬鹿だなア」と川地はポカリ煙草を喫しつ、「裁判官は只だ法廷で、裁判するだけの仕事ぢや無か――法律なんて酌子定規に拘泥して、悪党退治が出来ると思ふか――フヽム」
吾妻は暫ばし川地の面ながめ居りしが、忽如、蒼く化りて声ひそめつ「――ぢや、又た肺病の黴菌でも呑まさうと云んですか――」
川地は黙つてスイと起ちつ「吾妻、居室へ来給へ、一盃飲まう――骨折賃も遣らうサ」
去ど吾妻は悄然として動きもやらず「――考へて見ると警察程、社会の安寧を壊るものは有りませんねエ、泥棒する奴も悪いだらうが、捉へる奴の方が尚ほ悪党だ」
「社会の安寧?」と川地は苦笑しつ「何も、皆な飯の種サ」
吾妻は低声独語しぬ「飯の種、――飯の種」
大洞別荘の椿事以来、梅子は父剛造の為めに外出を厳禁せられて、殆ど書斎に監禁の様なり、継母の干渉劇しければ、老婆も今は心のまゝに出入すること能はず、妹芳子が時々来りては、父母が梅子に対する悪感情を、傲りがに伝達しつ、又た姉の悲哀の容態をば尾鰭を付けて父母に披露す、芳子は流石にお加女夫人の愛児なり、梅子の苦悶を見て自ら喜び、姉を讒訴して、母を喜ばしむ、只だ前よりも一層真心を籠めて彼女を慰め、彼女を奨まし、唯一の楯となりて彼女を保護するものは剛一なりける、
剛一は千葉地方へ遠足に赴きて二三日、顔を見せざるなり、雨蕭々として孤影蓼々、梅子は燈下、思ひに悩んで夜の深け行くをも知らざるなり、
「アヽ、剛さんは如何なすつたでせう、今夜はお帰りの日取なんだが、今頃までお帰りないのは、大方此の雨でお泊りのでせう、お一人なら雨や雪に頓着なさる男ぢやないけれど、お友達と御一所では、左様もならないからネ」
彼女は机上の置時計を見て独語せり、
「ほんたうに剛さん、私や、貴郎に感謝してますよ、貴郎の様な男らしい男を弟と呼ばせ給ふ神様は、何と云ふ恩恵深くて居らつしやるでせう、私の嬉しく思ふのは、天では神様、そして地では、剛さん、貴郎ばかりです――」
彼女は忽ち眼を閉ぢて俯けり「――左様ぢや無い、私は慥に身も心も献げた尊き丈夫が在るのです、けれど篠田さん――貴方は少しも私の心、此の涙に浸せる我心を少しも知つては下さいません――其れを御怨み申しは致しません、けれど何と云ふ情ない世の中でせう、此の純潔な私の恋が――左様です、純潔です、必ず一点の汚涜もありません――貴方の為めに禍の種となるのです、――篠田さん、我が夫、何卒御赦し下ださいまし、貴方の博大の御心には泣いて居るのです、私は既う決心致しました、私は父から全く離れました、家庭からも全く離れました、教会からも離れました、私は天の神様をのみ父とし母として、地に散在する憐れなる兄弟と、大きな家庭を作ることに覚悟致しました、そして此世を神様の教会と致します、――篠田さん、貴郎は私の此の決心を、叱つて下ださいませんでせうねエ――」
彼女は恍惚として夢の如く、心に浮ぶ篠田の面影に縋りて接吻せり、
「姉さん」と黄色の声して芳子は走せつゝ入り来れり、
梅子は遽然我に返へりつ、「あら、芳ちやん、喫驚しましたよ、何なすつて」
「姉さん、私、可いこと聴いたワ」芳子は姉の面打ち眺めて笑ふ、
梅子は又た何か面白ろからぬ我が噂なるべしと思へば、取り合はん心もあらず、
去れど芳子は一向無頓着に、大勝利を報告する将軍の如くぞ勇める「姉さん、私、今ま可いことを聴いてよ、篠田さんは到頭縛られて、牢屋へ行きなさるんですと」
巨砲もて打たれたらん如き驚愕を、梅子は熟と制しつ「――左様ですか――誰にお聴きなすつて――」
「今ネ、何処からか電話で、――何でも警視庁とか云つてでしたの――報して来たんです、阿父が阿母に話して在らしつてよ、是れで漸く松島さんへ、お詫が出来るつて、ほんとに左様だわねエ」
「ヘエ、そして芳ちやん、既う牢屋へ行らしつたのですか」
「否え、明日ですつて、」
「左様ですか――」
梅子は強て平然と装へり、去れど制すべからざるは其顔なり、看よ、其の凄き蒼白を、芳子は稍々予算狂へるが如く、訝かしげに姉の面見つめて、居たりしが、芳子々々と、ケタヽましく呼ぶ母の声に、飛ぶが如くに黙つて走せ行けり、
梅子は声を呑んで瞠と伏せり、
宵の雨も何時しか雪と降り替はれり、
麻布本村町の篠田が玄関には、深け行く寒き夜を、大和一郎の尚ほ兀々と勉学に余念なし、雪バラ/\と窓を打ちて、吹き入る風に身を慄はしつ「オヽ、寒い、最早何時かナ、未だ十二時にはなるまい――」
顧る台所の方には、兼吉の老母が転輾反側の気はひ聞ゆ、彼女も此の雪の夜の物思ひに、既に枕に就きたるも、容易くは夢の得も結ばれぬなるべし、
篠田が書斎の奥よりは、洋紙を走しるペンの音、深夜の寂寞を破りて漏れ来ぬ、
大和は襟掻き合はしつ「アヽ、先生は未だお寝みにならんのか、何か書いて居らつしやる様だ、――明日の社説かナ、否や、日常お寝の時間に仕事なさるのだから、他に何か急用の書き物がおありなさるのであらう、手紙かナ、平民週報の寄書かナ、ア、左様だ、露西亜の社会民主党へ贈りなさる文章に相違無い――両国の侵略主義者が嫉妬猜忌して兵火に訴へようとする場合に、我々同意者は相応じて世界進歩の為めに、平和の福音を鼓吹せねばならぬと言うて居られたから――が、先生も実にお気の毒で堪らぬ――」
大和は瞑目して大息せり、
「――教会を除名されなすつたなどは、別段先生の損失でもなく、寧ろ教会の愚劣と偽善を表白したに過ぎないのだが、驚いたのは鍛工組合の挙動だ――先生が梅子さんと結婚なさる為めに、主義を抛棄なさるとは、何と云ふ破廉耻な言ひ草だ、嫉妬深い松本の暴論も、老実な浦和の主張で未だ決議には至らぬさうだが、其れが彼の吾妻の奸策だとは何事だ、尤も彼奴、嫌な奴サ、先生の前でほヒヨコ/\頭ばかり下げて諂諛ばかり並べて、――誰か何時やら、政府の狗ぢや無いかと注意したつけが、何も先生は既に左様と知つて居られるらしかつたよ、彼時の御返事を見ると――彼程敏慧な頭脳を邪路から救ひ出して遣るものが無ければ、啻に一人の兄弟を失ふのみならず社会は何程毀損されるかも知れないと、――先生を殺すものは――必竟先生の愛心だ――アヽ」
薬園阪下り行く空腕車の音あはれに聞こゆ「ウム、車夫も嘸ぞ寒むからう、僕は家に居るのだけれど」大和は机の上に両手を組みつ、頭を俯して又た更に思案に沈む、
「本当に左様だ、先生を殺すものは先生の愛心だ、花ちやんを救ふ、すると直ぐ其れが先生に禍するのだ、其れに梅子さん――何も不思議だ、何故社会は虚誕を伝へて喜ぶのだらう、が、烟の立つ所必ず火ありとも云ふぞ、――然かし僕が若し婦人ならば矢張り左様思ふかも知れない、僕が先生を斯く思ふの情、是れが女性の心に宿れば恋となるのかナ――アヽ、何卒先生に思ふ存分、腕を伸ばさして上げたいナ」
風又た吹き加はりぬ、雪の音はげし、
門戸に低く人の声す、
大和は耳を聳てぬ、戸を叩く音なり、
何人の何等緊急事ならん、此の寒き雪の深夜に――大和は訝かりつゝ立つて戸を開きぬ、
吹き巻く雪中、門燈を背にして、黒き影一個立てり、
「何殿です」と、大和が雪明にすかして問ふを、門前の客は袖の雪払ひも敢へず、ヒラリとばかり飛び込めり、
東コートに御高祖頭巾、――アヽ是れ婦人なり、
大和は眼を円くして怪しげに見つめぬ、
「大和さん」、婦人の声に、大和は愕然として一歩退けり「ア、貴嬢ですか」
「あの、御在宅でいらつしやいますか――是非御面会せねばならぬことが御座いますので」
深夜の雪道に凍えてや、婦人の声の打ち震ひて聞えぬ、
「暫くお待ちを願ひます」と、大和は急ぎ篠田の書斎へと走せぬ、
「先生――」驚愕と怪訝とに心騒げる大和の声は甚くも調子狂ひたり、
既に文書認め了りし篠田は、今や聖書繙きて、就寝前の祈祷を捧げんとしつゝありしなり、
彼は静かに顧みぬ「大和君、何です」
「――只今、あの、山木の梅子さんが御光来になりました」
「ナニ、梅子さんが――」篠田も首傾けぬ「お一人でか」
「左様です、何か至急の御要件ださうで御座いまして、是非御面会をと云ふことです」
「ウム此の雪中を御光来は尋常のことでは有るまい、――早速に」
梅子は大和に導かれて篠田の室に入り来りぬ、肉やゝ落ちて色さへ甚く衰へて見ゆ、彼女は言葉は無くて只だ慇懃に頭を下げぬ、
「良久御目に掛りませぬでした」と、篠田も丁重に礼を返へして、「此の吹雪の深夜御光来下ださるとは甚だ心懸に存じます、早速承るで御座いませう」
梅子は僅に頭を擡げぬ「――篠田さん――私、貴所に御逢ひ致しまする面目が無いので御座いますけれど――今晩容易ならぬことを、耳に致しましたものですから――」
彼女は逡巡ひつゝ、窃と傍の大和を見やりぬ、
容易ならぬことの一語に、危殆の念愈々高まれる大和は、躊躇する梅子の様子に、必定何等の秘密あらんと覚りつ、篠田を一瞥して起たんとす、
篠田は制しぬ「何事か知りませぬが、梅子さん、少しも御懸念に及びませぬ、是れは私の弟ですから」
大和は又た座りてホと吐息を漏らしぬ、
「否エ、篠田さん、大和さんに御遠慮申したのでは御座いませぬが」、梅子は言はんと欲して言ひ能はざるものの如し、
「何でありまするか」と篠田は問ひぬ「何か私の一身に関係しました凶事でも御聞き込みになりましたので――」
「ハイ」と、僅に梅子は首肯きぬ、
大和は拳を固めぬ、
「如何なる件でありまするか、御遠慮なく仰つしやつて下ださい」篠田は火箸もて灰かきならしつゝあり、
「篠田さん」と、梅子は涙呑み込みつ「是れは貴郎の少しも御関係ないことです、けれど今の世の中は、貴郎を――拘引する奸策を廻らして居るのです、冷かな手は黒き繩もて貴郎の背後に迫つて居りますよ――」
梅子は涙輝く眸を揚げて、始めて篠田を凝視せり、
「やツ」と、思はず声を放つて、大和は膝を進めぬ、
「はゝア――イヤ左様したこともありませう」と篠田は聊か怪しむ色さへに見えず、雨戸打つ雪の音又た劇し、
堪へずやありけん、大和は口を開きぬ「先生――御心当りがお有りなさるのですか」
「否や、別に心当も無いが、災厄と云ふものは、皆な意外の所より来るのだから」
大和は復た沈黙せしが、やがて梅子の方に膝を向けぬ「山木様、何時、先生を拘引すると申すのです」
「――明朝――」
「明朝――」とばかり大和は殆ど色を失ひしが「そして、何れから御聴き込みになつたので御座います――甚だ差出がましう御座いますが――」
梅子は悄然頭を垂れぬ、
「――何ぞ、篠田さん、御赦下ださいまし――警視庁から愚父へ内密の報知がありましたのを、図らず耳にしたので御座います、お耻しいことで御座いますが、愚父などからも内々警察へ依頼致したのに、相違無いので御座います――篠田さん、――私は貴所の前に一切を懺悔致さねばならぬことが御座いますので、御軽蔑をも顧みず罷り出でましたので御座いますが――」
畳に両手支きたるまゝ、声は震へて口籠りぬ、
大和は窃と立ちて室を出でぬ、不安の胸に腕拱きつゝ、
「梅子さん、快して御心配なさるには及びませぬ」と、篠田は微笑せり「我々の頭上に絶えず政府の警戒が厳酷なので、何時何事の破裂するか、予測することが出来ないのです、是れは日本ばかりではありませぬ、万国に散在する私共の同志者は、皆な同一の境遇に在るのです――ですから、貴嬢に謝罪して頂くと云ふ様な必要は無いと思ひます」
良久して彼女は思ひ切て口を開きぬ「――貴所の御同志が政府の憎悪を受けて居なさいますことは、兼々承知致して居りまするが、貴所の御一身にのみ、不意の御災難が降り懸かると云ふのは、其処に特別の原因がありまするので――そして其の機会を生み出しましたのは――私の――心の弱いからで御座います」
「――何と、篠田さん、御詫致して可いのか」と、はふり落つる涙を梅子は拭ひつ「心乱れて我ながら言葉も御座いません――只だ一言懺悔させて下ださいませうか」
「喜で御聴申すで御座いませう」
……………………………………………………………………
「何卒、篠田さん、御赦し下さいまし――貴所の、御災難の原因はと申せば、――私が貴所を御慕ひ申したからで御座います――」梅子は畳に伏せり、歔欷の音、時に微に聞ゆ、
梅子は面を擡げぬ「――定めて厚顔ものと御蔑みも御座いませうが、篠田さん、――私如きものが、貴所を御慕ひ申すと言ふことが、貴所の御高徳を毀けることになりまするのは能く存じて居りまするから、只だ心の底の秘密として、曾て一語半句も洩らした覚のありませぬことは、神様が御承知下ださいます――其れを、結婚の申込を悉く謝絶致します所から、人を疑つて喜ぶ世間は種々の風評を立てまして――貴所の御名誉に関係致しまする様な記事を、数々新聞の上などでも読みまする毎に、何程自分で自分を叱り、陰ながら貴所に御詫致したで御座いませう――けれど我が心に尋て見ますれば、他の伝説を、全く虚妄とのみ言ひ消すことが出来ませぬので、必竟、貴所に此の最後の――縲絏の耻辱を御懸け申すのも、私の弱き心からで御座います」
梅子は袖を噛み締めて声立てじと怺へぬ、
「何も仰しやつて下ださいますな」と篠田は目を閉ぢつ「現社会の基礎に斧を置きつゝある私共が、其の反撃に逢ふのは、毫も怪むに足らぬことで御座います」
「けれど、篠田さん、貴所は今ま御自愛なさらねばならぬ御体で御座いませう」梅子の一語には満身の力溢れて聞こえぬ、
「自愛致すとは」と、篠田は訝る、
「此儘篠田さん」と梅子は却て怪みつ「貴所は入獄なさるので御座いますか」
「左様です、力を以て来るものには、只だ温順を以て応接する外無いでせう」
「けれど――従来、愚父などの話に依りますれば、貴所のやうな方は、監獄内で不測の災禍にお罹りなさる恐があると申すでは御座いませんか、出過ぎたことでは御座いますが、暫く日本を遠のきなさいましては――外国には随分他国に身を逃れると云ふ例もあるやうで御座いますから」
「梅子さん、御厚誼は謝する所を知りません、けれど私の一身には一人探偵が附けてあるのです、取分け既に拘引と確定しましたからは、今斯くお話致し居りまする私の一言一句をさへ、戸の外に筆記して居るものがあるも知れないです、――若し私一己の野心から申すならば、今ま空しく牢獄に囚はれて、特に只今御話の如き暴行は、随分各国の獄裡に実験せられた所ですから、私も決して喜んで行かうとは思ひませぬ、乍併、私共同志者の純白の心事が、斯かることの為に、政府にも国民にも社会一般に説明せられまするならば、眇たる此一身に取て此上なき栄誉と思ひます、実は我々の同志者と言はれて居る間にさへ、尚ほ心術を誤解して居るものが尠くないので御座いますから――」
篠田は語り来つて、急に言葉を更め「余り自身のことを語り過ぎましたが、其よりも貴嬢の将来こそ問題でせう、実は先頃剛一君とも一寸御話致したことでありましたが」
梅子の面は真紅を染めぬ「有難う御座います、貴所の温和の御精神をお聴致すに就け何と云ふ私の恐ろしい心で御座いませう、――私は篠田さん、ほんたうに懺悔致しました、そして決心致したので御座います、私は兼ねて愚父から多少の地所と財産とを譲り受けて居りまするので、所詮不義の結果の財産のですから、一には贖罪の為め、此の身と併せて貧民教育に貢献したいと考へて居たので御座いますが、今度愈々着手致すことに決心しまして御座います、申す迄もなく、只だ貴所の御指揮をと其れのみ心頼で御座いましたものを、――」
「ア、其れで安心致しました」と、篠田は晴々と微笑を洩せり「梅子さん、誠に良き御計画で御座います、若し私が自由の身で在りませうならば、充分御協議致しまして聊か理想を実行して見たいのでありますが――然かし決して御心配なさいますな、社会主義倶楽部の諸君は、無論満腔の尊敬と同情とを以て、貴嬢の御事業を賛助致しませう」
篠田の面は輝き来れり「梅子さん、教会の為の宗教は未練なくお棄てなさい、原因を治めない慈善事業は偽善者に御一任なさい、富の集中、富の不平均、是れが単一なる物質的問題とは何事です、富資が年々増殖して貧民が歳々増加する、是れ程重大なる不道徳の現象がありますか、御覧なさい、今日の生活の原則は一に掠奪です、個人は個人を掠奪して居る、国は国を掠奪して居る、刑法が言ふ所の窃盗、彼は児戯です、神の見給ふ窃盗とは則ち、今日の社会が尤も尊敬して居る法律と愛国心です、所有権の神聖、兵役の義務、足れ皆な窃盗掠奪の符調に過ぎないのです、而かも是れが為めに尤も悩んで居るものは、梅子さん、実に女性でありますよ、社会主義とは何ですか、一言に掩へば神の御心です、基督が道破し給へる神の御心です」
彼は机上の一冊を右手に捧げつ「何卒、梅子さん、呉々も是の御研究をお忘れないことを望みます、人生の奥義は此の些かなる新約書の中に溢れて、汲めども尽くることは無いでありませう、――アヽ、梅子さん、何卒我国に於ける、社会主義の母となつて下ださい、母となつて下ださい、是れが篠田長二畢生の御願であります」
梅子は涙堰きも敢へず、
隣房の時計、二ツ鳴りぬ、アヽ、
「最早、二時」と、梅子は頭を垂れぬ、警吏の向ふべき日は、既に二時を経過せるなり、曙光差し来るの時は、則ち篠田が暗黒の底に投ぜらるべきの時なり、三年の煩悶を此の一夜に打ち明かして、柔しく嬉しく勇ましき丈夫の心をも聴くことを得たる今は、又た何をか思ひ残さん、いざ、立ち帰りなんか、――帰りとも無し、
胸も張り裂けんばかりの新しき苦悩を集中して、梅子は凝乎と篠田を仰ぎ見ぬ、
両個相見て言葉なし、
良久くして、熱涙玉をなして梅子の頬を下りぬ、彼女は唇を噛んで俯きぬ、
突如、温き手は来つて梅子の右掌を緊と握れり、彼女は総身の熱血、一時に沸騰すると覚えて、恐ろしきまでに戦慄せり、額を上ぐれば、篠田の両眼は日の如く輝きて直ぐ前に懸れり、
篠田は一倍の力を加へつ「梅子さん――此れは未だ曾て一点の汚だも見ざる純潔の心です、今ま始めて貴嬢の手に捧げます」
梅子は左手を加へて篠田の右手を抱きつ、一語も無くて身を其上に投げぬ、
風も寝ね雪も眠りて夜は只だ森々たり、
既にして梅子は涙の顔を擡げぬ「篠田さんお叱りを受けますかは存じませぬが、暫時御身を潜めて下ださることはかなひませぬか、――別段御耻辱と申すことでも御座いませんでせう――犬に真珠をお投げなさらずとも――」
篠田は首打ち掉りつ「如何なる場合に身を棄つべきかは、我等が浅慮の判別し得る所ではありませぬ」
「篠田さん、最早決して弱き心は持ちませぬ」と梅子も今は心決めつ「何時と云ふ限も御座いませぬから、是れでお別れ致します、只今の御一言を私の生命に致しまして――で、御一身上、私が承つて置きまして宜しいことが御座いまするならば、何卒仰しやつて下ださいませんか――」
篠田は暫ばし首傾けつ「では、梅子さん、一人御紹介致しますから」と、彼は大和を呼んで兼吉の老母を招きぬ、
声を呑むで泣き居たる兼吉の老母は、涙の顔を揚げも得ずして打ち伏しぬ、
「梅子さん、此の老女を労つて下ださい、是れは先頃芸妓殺と唄はれた、兼吉と云ふ私の友達の実母です、――老母、私は、或は明日から他行するも知れないが、少しも心置なく此の令嬢に御信頼なさい、兼吉君は無論無罪になるのであるから、少しも心配なく、其れに若し両個が相許るすならば、花ちやんと結婚したらばと思つて居るのです、元より強ふることは出来ないですが」
篠田は梅子を顧みつ「只今慈愛館に居りまするが、花と云ふ婦人が在るのです、元と芸妓でありまするが、余程精神の強固なのですから、将来貴嬢の御事業の御手助となるも知れませぬ、」
梅子は思はず赧然として愧ぢぬ、彼女の良心は私語けり、汝曾て其の婦人の為めに心に嫉妬てふ経験を嘗めしに非ずやと、
兼吉の老母は正体なき迄に咽び泣きつ、
「其から梅子さん、私一身上の御依頼が御座いますが」と、篠田は悄然として眼を閉ぢぬ、
「私に一人の伯母があるのです、世を厭うて秩父の山奥に孤独して居ります、今年既に七十を越して、尚ほ钁鑠としては居りますが、一朝私の奇禍を伝へ聞ませうならば――」語断えて涙滴々、
梅子は耐へず膝に縋れり、「御安心下ださいまし――、何卒御安心下さいまし――」
篠田は梅子の肩、両手に抱きて「心弱きものと御笑ひ下ださいますな――アヽ今こそ此心晴れ渡りて、一点憂愁の浮雲をも認めませぬ、――然らば梅子さん、是れでお訣別致します」
「――心は永久に同住で御座います」
「勿論」
* * *
空は何時しか晴れぬ、陰暦の何日なるらん半ば欠けたる月、槻の巨木、花咲きたらん如き白き梢に懸りて、顧み勝ちに行く梅子の影を積れる雪の上に見せぬ、
窓白く雪の夜は明けんとす、
篠田は例の如く早く起き出でて、一大象牙盤とも見るべき後圃の雪、いと惜しげに下駄を印しつゝ逍遙す、日の光は尚ほ遙か地平線下に憩ひぬれど、夜の神が漉し成せる清新の空気は、静かに来り触れて、我が呼吸を促がす、目を放てば高輪三田の高台より芝山内の森に至るまで、見ゆる限りは白妙の帷帳の下に、混然として夢尚ほ円なるものの如し、
篠田の双眸は不図、円山の高塔に注がれて離れざるなり、静穏なる哉、芝の杜よ、幽雅なる哉、円山の塔よ、去れど其の直下、得も寝で悲み、夜を徹して祈れるもの一人あり、美しき雪よ、彼女の目より涙を拭へ、清しき風よ、彼女の胸より愁を払へ――アヽ我が梅子、汝の為めに祈りつゝある我が愛は、汝が心の鼓膜に響かざる乎、――父なる神、永遠に彼を顧み給へ、彼女に聖力を注ぎて、爾の聖旨を地に成さしめ給へ、篠田は歩を転じて表の方に出でぬ、
雪を蹴つて来るものあり「先生――お早う御座います」言ひつゝ彼は、一葉の新聞を篠田の手に捧ぐ、
「オヽ、村井君ですか、御困難ですネ」と、篠田は新聞受け取りつゝ、「何か昨夜あつたと見えますネ、少し遅れた様ですが」
「ハ、夜中に長い電報が参りましたので、印刷が大層遅くなりました――先生、到頭戦争を為るのでせうか――」
「サア、左様なりませうネ」
「何卒、先生、主義の為めに御奮闘を願ひます」慇懃に腰を屈めたる少年村井は、小脇の革嚢緊と抱へて、又た新雪踏んで駆け行けり、
中学の校帽凛々しく戴ける後姿見送りたる篠田は、やがて眸子を昨日己が造れる新紙の上に懐かしげに転じて「労働者の位地と責任」と題せる論文に一とわたり目を走らせつ、心は今しも村井が告げたる二面の夜中電報に急げり、
「日露外交の断絶」テフ一項の記事と相並で、篠田の眼を射りたるものは、「九州炭山坑夫同盟の破壊」と題せる二号活字の長文電報なり、篠田の心は先づ激動せり、
……憲兵巡査の強迫は正面より来り、黄金の魔術は裏面より行はれたり……
首領株三十名今夕突然捕縛せられたり、憲兵巡査の乱暴甚しく、負傷者少からず其の多くは婦人小児なり……是れ買収政略の到底効果なきより来れるものと知らる……維持費尽く、
「首領の捕縛」「公権の乱暴」「婦女小児の負傷」而して噫、「維持費尽く」首領株三十名今夕突然捕縛せられたり、憲兵巡査の乱暴甚しく、負傷者少からず其の多くは婦人小児なり……是れ買収政略の到底効果なきより来れるものと知らる……維持費尽く、
新聞右手に握り締めたるまゝ、篠田は切歯して天の一方を睨みぬ、
白雪一塊、突如高き槻の梢より落下して、篠田の肩を健か打てり、
午前七時半、警官来れり、
今や篠田の身は只だ一片の拘引状と交換せられんとすなり、大和は其の胸に取り付きて、鏡の如き涙の眼に、我師の面を仰ぎぬ、
篠田は徐ろに其背を撫しつ、「君、忘れたのか――一粒の麦種地に落ちて死なずば、如何で多くの麦生ひ出でん――沙漠の旅路にも、昼は雲の柱となり、夜は火の柱と現はれて、絶えず導き玉ふ大能の聖手がある、勇み進め、何を泣くのだ」
轍の迹のみ雪に残して、檻車は遂に彼を封して去れり、
(明治三十七年一月―三月)