私の文学上の経歴――なんていっても、別に光彩のあることもないから、話すんなら、いっそ私の昔からの思想の変遷とでもいうことにしよう。いわば、半生の懺悔ざんげ談だね……いや、この方が罪滅しになって結句いいかも知れん。
 そこでと、第一になぜ私が文学好きなぞになったかという問題だが、それには先ずロシア語を学んだいわれから話さねばならぬ。それはこうだ――何でも露国との間に、かの樺太千島かばふとちしま交換事件という奴が起って、だいぶ世間がやかましくなってから後、『内外交際新誌』なんてのでは、盛んに敵愾心を鼓吹する。従って世間の輿論は沸騰するという時代があった。すると、私がずっと子供の時分からもっていた思想の傾向――維新の志士肌ともいうべき傾向が、頭を擡げ出して来て、即ち、慷慨憂国というような輿論と、私のそんな思想とがぶつかり合って、其の結果、将来日本の深憂大患となるのはロシアに極ってる。こいつ今のうちにどうにかふせいで置かなきゃいかんわい……それにはロシア語が一番に必要だ。と、まあ、こんな考からして外国語学校の露語科に入学することとなった。
 で、文学物を見るようになったのは、語学校へ入って、右のような一種の帝国主義インペリアリズムに浮かされて、語学を研究しているうちに自らその必要が起って来たので。というのは、当時の語学校はロシアの中学校同様の課目で、物理、化学、数学などの普通学を露語で教える傍ら、修辞学や露文学史などもやる。所が、この文学史の教授が露国の代表的作家の代表的作物を読まねばならぬような組織であったからである。
 するうちに、知らず識らず文学の影響を受けて来た。尤もそれには無論下地があったので、いわば、子供の時から有る一種の芸術上の趣味が、露文学に依って油をさされて自然に発展して来たので、それと一方、志士肌のもたらした慷慨熱――この二つの傾向が、当初のうちはどちらに傾くともなく、殆ど平行して進んでいた。が、漸く帝国主義インペリアリズムの熱が醒めて、文学熱のみ独りさかんになって来た。
 併し、これは少しく説明を要する。
 私のは、普通の文学者的に文学を愛好したというんじゃない。寧ろロシアの文学者が取扱う問題、即ち社会現象――これに対しては、東洋豪傑流の肌ではまるで頭に無かったことなんだが――を文学上から観察し、解剖し、予見したりするのが非常に趣味のあることとなったのである。で、面白いということは唯だ趣味の話に止まるが、その趣味が思想となって来たのが即ち社会主義ソシアリズムである。
 だから、早く云って見れば、文学と接触してれ摩れになって来るけれども、それが始めは文学に入らないで、先ず社会主義に入って来た。つまり文学趣味に激成されて社会主義になったのだ。で、社会主義ということは、実社会に対する態度をいうのだが、同時にまた、一方において、人生に対する態度、乃至は人間の運命とか何とかとかいう哲学的趣味も起って来た。が、最初の頃は純粋に哲学的では無かった……寧ろ文明批評とでもいうようなもので、それが一方に在る。そして、現世の組織、制度に対しては社会主義が他方に在る。と、まあ、もとは一つだけれども、こんな風に別れて来ていたんだ。
 社会主義を抱かせるに関係のあった露国の作家は、それは幾つもあった。ツルゲーネフの作物、就中なかんずく『ファーザース・エンド・チルドレン』中のバザーロフなんて男の性格は、今でも頭に染み込んでいる。その他チェルヌイシェーフスキー、ヘルツェン、それから露国の作家じゃないがラッサール、これらはよく読んだものだ。
 勿論、社会主義といったところで、当時は大真面目であったのだが、今考えると、すこぶる幼稚なものだったのだ。例えば、政府の施政が気に喰わなんだり、親達の干渉をうるさがったり、無暗むやみに自由々々と絶叫したり――まあすべての調子がこんな風であったから、無論官立の学校も虫が好かん。処へ、語学校が廃されて商業学校の語学部になる。それも僅かの間で、語学部もなくなって、その生徒は全然商業学校の生徒にされて了う。と、私はぷいと飛出して了った。その時、親達は大学に入れと頻りに勧めたが、官立の商業学校に止まらなかったと同様に、官立の大学にも入らなかった。で、しまいには、親の世話になるのも自由を拘束されるんだというので、全く其の手を離れて独立独行で勉強しようというつもりになった。
 が、こうなると、自分で働いて金を取らなきゃならん。そこであの『浮雲』も書いたんだ。尤も『浮雲』以前にも翻訳などはある。今もいったツルゲーネフの『ファーザース・エンド・チルドレン』の冒頭を、少々ばかり訳したことなどもあるが、坪内さんに見せたばかりで物にはならなかった。『浮雲』にはモデルがあったかというのか? それは無いじゃないが、モデルはほんの参考で、引写しにはせん。いきなりモデルを見附けてこいつは面白いというようなのでは勿論無い。そうじゃなくて、自分の頭に、当時の日本の青年男女の傾向をぼんやりと抽象的にっていて、それを具体化して行くには、どういう風の形を取ったらよかろうか。といろいろ工夫をする場合に、誰か余所よそで会った人とか、自分のかねて知ってる者とかのうちで、稍々やや自分のってる抽象的観念に脈の通うような人があるものだ。するとその人を先ず土台にしてタイプに仕上げる。勿論、その人の個性インディビジュアリティーはあるが、それは捨てて了って、その人を純化してタイプにして行くと、タイプはノーションじゃなくて、具体的のものだから、それ、最初の目的が達せられるという訳だ。この意味からだと『浮雲』にもモデルが無いじゃないが、私のいうモデルと、世間のそれとは或は意味が違ってるかも知れん。
 兎に角、作の上の思想に、露文学の影響を受けた事は拒まれん。べーリンスキーの批評文なども愛読していた時代だから、日本文明の裏面を描き出してやろうと云うような意気込みもあったので、あの作が、議論が土台になってるのも、つまりそんな訳からである。文章は、上巻の方は、三風来ふうらい全交ぜんこう饗庭あえばさんなぞがごちゃ混ぜになってる。中巻は最早もう日本人を離れて、西洋文を取って来た。つまり西洋文を輸入しようという考えからで、先ずドストエフスキー、ガンチャロフ等を学び、主にドストエフスキーの書方に傾いた。それから下巻になると、矢張り多少はそれ等の人々の影響もあるが、一番多く真似たのはガンチャロフの文章であった。
 さて『浮雲』の話のついでだが、前に金を取りたい為にあれを作ったと云った。然う云って了えば生優なまやさしい事だが、実はあれに就いては人の知らない苦悶をした事がある。
 私は当時「正直しょうじき」の二字を理想として、俯仰天地にじざる生活をしたいという考えをっていた。この「正直しょうじき」なる思想は露文学から養われた点もあるが、もっと大関係のあるのは、私が受けた儒教の感化である。話は少し以前に遡るが、私は帝国主義インペリアリズムの感化を受けたと同時に、儒教の感化をも余程蒙った。だから一方に於ては、孔子の実践躬行という思想がなかなか深く頭に入っている。……いわばまあ、上っ面の浮かれに過ぎないのだけれど、兎に角上っ面で熱心になっていた。一寸ちょっと、一例を挙げれば、先生の講義を聴く時に私は両手を突かないじゃ聴かなんだものだ。これは先生の人格よりか「道」その物に対して敬意を払ったので。こういう宗教的傾向、哲学的傾向は私には早くからあった。つまり東洋の儒教的感化と、露文学やら西洋哲学やらの感化とが結合って、それに社会主義ソシアリズムの影響もあって、ここに私の道徳的の中心観念、即ち俯仰天地にじざる「正直しょうじき」が形づくられたのだ。
 併しこれは思想上の事だ。これが文学的労作と関係のある点はどうか。第一『浮雲』から御話するが、あの作は公平に見て多少好評であったに係らず、私は非常に卑下していた。今でも無い如く、其当時も自信というものが少しも無かった。然るに一方には正直という理想がある。芸術に対する尊敬心もある。この卑下、正直、芸術尊敬の三つのエレメントが抱和した結果はどうかと云うに、まあ、こんな事を考える様になったんだ――将来は知らず、当時の自分が文壇に立つなどは僭越至極、芸術を辱しむる所以である。正直の理想にも叶って居らん……と思うものの、また一方では、同じく「正直しょうじき」から出立して、親のすねを噛っているのは不可いかん、独立独行、たれの恩をもては不可いかん、となる。すると勢い金が欲しくなる。欲しくなると小説でも書かなければならんがそいつは芸術に対して済まない。あまつさえ、最初は自分の名では出版さえ出来ずに、坪内さんの名を借りて、やっと本屋を納得させるような有様であったから、是れ取りも直さず、利のために坪内さんをして心にもない不正な事をせるんだ。即ち私が利用するも同然である。のみならず、読者に対してはどうかと云うに、これまた相済まぬ訳である……所謂羊頭を掲げて狗肉を売るに類する所業しわざ、厳しくいえば詐欺である。
 之はひど進退維谷ジレンマだ。実際的プラクチカル理想的アイディアルとの衝突だ。で、そのジレンマを頭で解く事は出来ぬが、併し一方生活上の必要は益※(二の字点、1-2-22)迫って来るので、よんどころなくも『浮雲』をこしらえて金を取らなきゃならんこととなった。で、自分の理想からいえば、不埒な不埒な人間となって、銭を取りは取ったが、どうも自分ながら情ない、愛想の尽きた下らない人間だと熟々つくづく自覚する。そこで苦悶の極、おのずから放った声が、くたばって仕舞しめ(二葉亭四迷)!
 世間では、私の号に就ていろんな臆説を伝えているが、実際は今云った通りなんだ。いや、「仕舞しめえ!」と云って命令した時には、全く仕舞う時節が有るだろうと思ったね。――その解決が付けば、まずそのライフだけは収まりが付くんだから。で、私の身にとると「くたばッて仕舞え!」という事は、今でも有意味に響く。そこでこの心持ちが作の上にはどう現れているかと云うと、実に骨にり、肉を刻むという有様で、非常な苦労で殆ど油汗をしぼる。が、油汗を搾るのは責めては自分の罪を軽め度いという考えからで、羊頭を掲げて狗肉を売る所なら、まア、豚の肉ぐらいにして、人間の口に入れられるものをこしらえ度い、という極く小心な「正直しょうじき」から刻苦するようになったんだ。翻訳になると、もう一倍輪をかけて斯ういう苦労がある。――その時はツルゲーネフに非常な尊敬をもってた時だから、ああいう大家の苦心の作を、私共の手にかけて滅茶々々にして了うのは相済まん訳だ、だから、とても精神は伝える事が出来んとしても、せめて形なと、原形のまま日本へ移したら、露語を読めぬ人も幾分は原文の妙を想像する事が出来やせんか、と斯う思って、コンマも、ピリオドも、果ては字数までも原文の通りにしようという苦心までした。今考えると随分馬鹿げた話さ。併し斯う云って来ると、一図に「正直しょうじき」に忠実だったようだが、一方には実は大矛盾があったんだ。即ち大名誉心さ。……文壇の覇権手に唾して取るべしなぞと意気込んでね……いやはや、陋態ろうたいを極めて居たんだ。
 そのうちに、人生問題に就て大苦悶に陥った事がある。それは例の「正直しょうじき」が段々崩されてゆくから起ったので先ず小説を書くことで「正直」が崩される、その他種々いろいろのことで崩される。つまり生活が次第に崩してゆくんだ。そして、こんな心持で文学上の製作に従事するからはかのゆかんこと夥しい。とても原稿料なぞじゃ私一身すら持耐もちこたえられん。況や家道は日に傾いて、心細い位置に落ちてゆく。老人共は始終愁眉を開いたためしが無い。其他種々いろいろの苦痛がある。苦痛と云うのは畢竟金のない事だ。くどい様だが金が欲しい。併し金を取るとすれば例の不徳をやらなければならん。やった所で、どうせ足りッこは無い。
 ジレンマ! ジレンマ! こいつでまた幾ら苦められたか知れん。これが人生観についての苦悶を呼起した大動機になってるんだ。即ちこんな苦痛の中に住んでて、人生はどうなるだろう、人生の目的は何だろうなぞという問題に、思想上から自然に走ってゆく。実に苦しい。従ってゆっくりと其問題を研究する余裕がなく、ただ断腸の思ばかりしていた。腹に拠る所がない、ただ苦痛をのがれん為の人生問題研究であるのだ。だから隙があって道楽に人生を研究するんでなくて、苦悶しながら遣っていたんだ。私が盛に哲学書をあさったのも此時で、基督教キリストきょうのぞき、仏典を調べ、神学までも手を出したのも、また此時だ。
 全く厭世と極って了えばいっそ楽だろうが、其時は矛盾だったから苦しんだ。世の中が何となく面白くない。と云った所で、捨てる訳にはゆかん。何となく懐しい所もある。理論から云っても、人生は生活の価値あるものやら、無いものやら解らん。感情上から云っても同じく解らん……つまる所、こんな煮え切らぬ感情があるから、苦しい境涯に居たのは事実だ。が、これは「厭世」と名くべきものじゃ無かろうと思う。
 其時の苦悶の一端を話そうか。――当時、最も博く読まれた基督教の一雑誌があった。この雑誌では例の基督教的に何でも断言して了う。たとえば、此世は神様が作ったのだとか、やれ何だとか、平気で「断言」して憚らない。その態度が私のしゃくに触る。……よくも考えないで生意気が云えたもんだ。はかない自分、はかない制限リミテッドされた頭脳ヘッドで、よくも己惚うぬぼれて、あんな断言が出来たものだ、と斯う思うと、賤しいとも浅猿あさましいとも云いようなく腹が立つ。で、ある時小川町おがわまちを散歩したと思い給え。すると一軒の絵双紙屋の店前みせさきで、ひょッと眼に付いたのは、今の雑誌のビラだ。さア、其奴そいつの垂れてるのを一寸瞥見しただけなんだが、私は胸がむかついて来た。形容詞じゃなく、真実ほんとに何か吐出しそうになった。だから急いで顔をそむけて、足早に通り抜け、やっと小間物屋の開店だけは免れたが、このくらいにも神経的になっていた。思想が狂ってると同時に、神経までが変調になったので、そして其挙句が……無茶さ!
 で、非常な乱暴をやっちまった。こうなると人間は獣的嗜慾アニマルアペタイトだけだから、喰うか、飲むか、女でももてあそぶか、そんな事よりしかしない。――一滴もいけなかった私が酒を飲み出す、子供の時には軽薄な江戸ッ児風に染まって、近所の女のあとなんか追廻したが、中年になって真面目になったその私が再び女に手を出す――全く獣的生活に落ちて、しまいには盗賊どろぼうだって関わないとまで思った。いや、真実ほんとなんだ。
 が、そこまでは豈夫まさかに思い切れなかった。人生は無意味ノンセンスだとは感じながらも、俺のやってる事はうそだ、何か光明の来る時期がありそうだとも思う。要するに無茶さ。だから悪い事をしては苦悶する。……は為ても極端にまでやる事も出来ずに迷ってる。
 そこでかれこれするうちに、ごく下等な女に出会った事がある。私とは正反対に、非常な快活な奴で、鼻唄で世の中を渡ってるような女だった。無論浅薄じゃあるけれども、其処にまた活々とした処がある。私の様に死んじゃ居ない。で、其女の大口開いてアハハハハと笑うような態度が、実に不思議な一種の引力アットラクションを起させる。あながち惚れたという訳でも無い。が、何だか自分に欠乏してる生命の泉というものが、彼女むこうには沸々と湧いてる様な感じがする。そこはまア、自然かも知れんね――日蔭の冷たい、死というものに掴まれそうになってる人間が、日向ひなたの明るい、生気溌溂たる陽気な所を求めて、得られんで煩悶している。すると、議論じゃ一向始末におえない奴が、浅墓じゃあるが、具体的に一寸眼前にて来ている。――私の心というものは、その女に惹き付けられた。
 これが併し動機になったんだ。勢い極まって其処まで行ったんだが、……これが畢竟つまり一転する動機となったんだ。
 で、私はこんな事を考えた。――斯ういう風に実例を眼前に見て、苦しいとか、楽しいとか云う事は、人によって大変違う。例えば私が苦しいと思う事も、其女は何とも思わんかも知らん。それはまア浅薄で何とも思わないんだが、浅薄でなくてしかも何とも思わん人もある。それは誰かと云うに、孔子さんだろうと思う。悠々として天命を楽むのは実にえらい。例えば「死」なる問題は、今の所到底理論の解決以外だ。が、解決が出来たとした所で、死は矢張やっぱ可厭いやだろう。ただ解決が出来れば幾分かあきらめが付き易い効はあるが、元来「死」が可厭いやという理由があるんじゃ無いから――ただ可厭いやだから可厭いやなんだ――意味が解った所で、矢張やっぱり何時迄も可厭いやなんだ。すると智識で「死」の恐怖を去る事は出来ん。死を怖れるのも怖れぬのも共に理由のない事だ。換言すれば其人の心持メンタルトーンにある。即ち孔子の如き仁者の「気象」にある。ああ云う聖人の様な心持で居たらば、死を怖れて取乱す事もあるまい。人生の苦痛に対しても然り、聖人だって苦痛は有る、が、その間に一分の余裕があって取乱さん。悠々として迫らぬ気象、即ち「仁」がある。だから思想上で人生問題の解決が付くか否か解らんが、一方で人間に「仁」の気象を養ったら、何となく人生を超絶して、一段上に出る塩梅あんばいで、苦痛にも何にも捉えられん、仏者の所謂自在天に入りはすまいかと考えた。
 そこで、心理学の研究に入った。
 古人は精神的メンタリーに「仁」を養ったが、我々新時代の人は物理的フヒジカリーに養うべきではなかろうかという考になった。
 心理学、医学に次いで、生理心理学を研究し始めた。是等に関する英書は随分あつめたもので、殆ど十何年間、三十歳を越すまで研究した。呉博士くれはくしと往復したのも、参考書類を読破しようという熱心から独逸語を独修したのも、此時だ。けれども其結果、どうも個人の力じゃ到底やり切れんと悟った。ヴントの実験室ラボラトリー、ジェームスの実験室ラボラトリー、其等が無ければ、何時迄経っても真の研究は覚束ないと思い出した。そんなら銭のかからん研究法をしなくてはならんが、其には自分を犠牲にして解剖壇上に乗せて、解剖学を研究するより外仕方がない。当時は、医学上の大発見の為に毒薬を仰いだりした人の話が頭にあったから、そんな犠牲心も起したんだ。即ち私の心的要素マインドスタッフを種々の事情の下に置いて、揉み散らし、苦め散らし、散々な実験エクスペリメントを加えてやろう。そしたら、学術的に心持メンタルトーンを培養する学理は解らんでも、その技術アートることは出来やせんか、と云うので、最初は方面を撰んで、実業が最も良かろうと見当を付けた。それで、実業家と成ろうと大分焦った。が併し私の露語を離れ離れにしては実業に入れぬから、露国貿易と云うような所から段々入ろうと思った。そして国際的関係に首を突込んで、志士肌と商売肌を混ぜてそれにまた道徳的のことも加えたり何かして見ると、かのセシルローズなぞが面白い人物と思われるようになった。単に金持がうらやましいんじゃない。形は違うが、一つああいう風の事業をやろうと云うのを見当としてそんな方面にも走った事がある。で、私の職業の変遷を述べれば、官報局の翻訳係、陸軍大学の語学教師、海軍省の編輯書記、外国語学校の露語教師なぞという順序だが、今云った国際問題等に興味をつに至って浦塩うらじおから満洲にり、更に蒙古にろうとして、暫時しばし警務学堂に奉職していた事なんぞがある。
 が、これは外面に現れた事実上の事だ。その心的方面を云うと、この無益やくざ心的要素マインドスタッフが何れ程まで修練を加えたらものになるか、人生に捉われずに、其を超絶する様な所まで行くか、一つやッて見よう、という心持で、幾多の活動上の方面に接触していると、自然に、人生問題なぞは苦にせずに済む。で、この方面の活動だと、ピタッと人生にはまッて了って、苦痛は苦痛だが、それに堪えられんことは無い。一層奮闘する事が出来るようになるので、私は、奮闘さえすれば何となく生き甲斐があるような心持がするんだ。
 明治三十六年の七月、日露戦争が始まると云うので私は日本に帰って、今の朝日新聞社に入社した。そして奉公として「其面影」や「平凡」なぞを書いて、大分また文壇に近付いては来たが、さりとて文学者に成り済ました気ではない。矢張やっぱり例の大活動、大奮闘の野心はある――今でもある。
(明治四十一年六月「文章世界」)

底本:「平凡・私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社
   1997(平成9)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「二葉亭四迷全集 第一、二、三、四、七巻」筑摩書房
   1984(昭和59)年11月〜1991(平成3)年11月
入力:長住由生
校正:もりみつじゅんじ
2000年5月4日公開
2006年3月29日修正
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