此作は、名古屋刑務所長、佐藤乙二氏の、好意によって産れ得たことを附記す。
――一九二三、七、六――
    一

 し私が、次に書きつけて行くようなことを、誰かから、「それは事実かい、それとも幻想かい、一体どっちなんだい?」とたずねられるとしても、私はその中のどちらだとも云い切る訳に行かない。私は自分でも此問題、此事件を、十年の間と云うもの、或時はフト「俺もおそろしいことの体験者だなあ」と思ったり、又或時は「だが、此事はほんの俺の幻想に過ぎないんじゃないか、ただそんな風な気がすると云うけのことじゃないか、でなけりゃ……」とこんな風に、私にもそれがどっちだか分らずに、この妙な思い出は益々濃厚に精細に、私の一部に彫りつけられる。然しだ、私は言い訳をするんじゃないが、世の中にはとても筆では書けないような不思議なことが、筆で書けることよりも、余っ程多いもんだ。たとえば、人間の一人々々が、誰にも云わず、書かずに、どの位多くの秘密な奇怪な出来事を、胸に抱いたまま、或は忘れたまま、今までにどの位死んだことだろう。現に私だって今ここに書こうとすることよりも百倍も不思議な、あり得べからざる「事」に数多く出会っている。そしてその事等の方がはるかに面白くもあるし、又「何か」を含んでいるんだが、どうも、いくら踏ん張ってもそれが書けないんだ。検閲が通らないだろうなどと云うことは、てんで問題にしないでいても自分で秘密にさえ書けないんだから仕方がない。
 だが下らない前置を長ったらしくやったものだ。

 私は極道ごくどうな青年だった。船員が極り切って着ている、続きの菜っ葉服が、矢っ張り私の唯一の衣類であった。
 私は半月余り前、フランテンの欧洲航路を終えて帰ったばかりの所だった。船は、ドックに入っていた。
 私は大分飲んでいた。時は蒸し暑くて、ほこりっぽい七月下旬の夕方、そうだ一九一二年頃だったと覚えている。読者よ! 予審調書じゃないんだから、余り突っ込まないで下さい。
 そのムンムンする蒸し暑い、プラタナスの散歩道を、私は歩いていた。何しろ横浜のメリケン波戸場はとばの事だから、いささ恰好かっこうちがった人間たちが、沢山たくさん、気取ってブラついていた。私はその時、私がどんな階級に属しているか、民平――これは私の仇名あだななんだが――それは失礼じゃないか、などと云うことはすっかり忘れて歩いていた。
 流石さすがは外国人だ、見るのも気持のいいようなスッキリした服を着て、沢山歩いたり、どうしても、どんなに私が自惚うぬぼれて見ても、勇気を振い起して見ても、寄りつける訳のものじゃない処の日本の娘さんたちの、見事な――一口に云えば、ショウウインドウの内部のような散歩道を、私は一緒になって、悠然ゆうぜんと、続きの菜っ葉服を見て貰いたいためででもあるように、頭を上げて、手をポケットで、いや、おはずかしい話だ、私はブラブラ歩いて行った。
 ところで、此時私が、自分と云うものをハッキリ意識していたらば、ワザワザ私は道化どうけ役者になりやしない。私は確に「何か」考えてはいたらしいが、その考の題目となっていたものは、よし、その時私がハッと気がついて「俺はたった今まで、一体何を考えていたんだ」と考えて見ても、もう思い出せなかった程の、つまりは飛行中のプロペラのような「速い思い」だったのだろう。だが、私はその時「ハッ」とも思わなかったらしい。
 客観的には憎ったらしい程図々ずうずうしく、しっかりとした足どりで、歩いたらしい。しかも一つ処を幾度も幾度もサロンデッキを逍遙しょうようする一等船客のように往復したらしい。
 電燈がついた。そして稍々やや暗くなった。
 一方が公園で、一方が南京町ナンキンまちになっている単線電車通りの丁字路の処まで私は来た。若し、ここで私をひどく驚かした者が無かったなら、私はそこで丁字路の角だったことなどには、勿論もちろん気がつかなかっただろう。処が、私の、今の今まで「此世の中で俺の相手になんぞなりそうな奴は、一人だっていやしないや」と云う私の観念を打ち破って、私を出し抜けに相手にする奴があった。「オイ、若けえの」と、一人の男が一体どこから飛び出したのか、危くつかりそうになるほどの近くに突っ立って、押し殺すような小さな声でうめくように云った。
「ピー、カンカンか」
 私はポカンとそこへつっ立っていた。私は余り出し抜けなので、その男の顔を穴のあく程見つめていた。その男は小さな、蛞蝓なめくじのような顔をしていた。私はその男が何を私にしようとしているのか分らなかった。どう見たってそいつは女じゃないんだから。
「何だい」と私は急に怒鳴った。すると、私の声と同時に、給仕でも飛んで出て来るように、二人の男が飛んで出て来て私の両手をしっかりとつかんだ。「相手は三人だな」と、何と云うことなしに私は考えた。――こいつあ少々面倒だわい。どいつから先に蹴っ飛ばすか、うまく立ち廻らんと、この勝負は俺の負けになるぞ、作戦計画を立ってからやれ、いいか民平!――私はえられたように立って考えていた。
「オイ、若えの、お前は若え者がするだけの楽しみを、二で買う気はねえかい」
 蛞蝓なめくじは一足下りながら、そう云った。
「一体何だってんだ、お前たちは。第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出来るような物の言い方をするもんだ。喧嘩けんかなら喧嘩、泥坊なら泥坊とな」
「そりゃ分らねえ、分らねえはずだ、だ事が持ち上らねえからな、だが二分は持ってるだろうな」
 私はポケットからありったけの金をつかみ出して見せた。
 もうこれ以上飲めないと思って、バーを切り上げて来たんだから、銀銅貨取り混ぜて七八十銭もあっただろう。
「うん、余る位だ。ホラ電車賃だ」
 そこで私は、十銭銀貨一つだけ残して、すっかり捲き上げられた。
「どうだい、行くかい」蛞蝓なめくじいた。
見料けんりょうを払ったじゃねえか」と私は答えた。私の右腕をつかんでた男が、「こっちだ」と云いながら先へ立った。
 私は十分警戒した。こいつ等三人で、五十銭やそこらの見料で一体何を私に見せようとするんだろう。然も奴等は前払で取っているんだ、し私がお芽出度めでたく、ほんとに何かが見られるなどと思うんなら、目と目とから火花を見るかも知れない。私は蛞蝓なめくじに会う前から、私の知らない間から、――こいつ等は俺を附けて来たんじゃないかな――
 だが、私は、用心するしないにかかわらず、当然、支払っただけの金額に値するだけのものは見得ることになった。私の目から火も出なかった。二人は南京街の方へと入って行った。日本が外国と貿易を始めると直ぐ建てられたらしい、古い煉瓦建れんがだての家が並んでいた。ホンコンやカルカッタ辺の支邦人街と同じ空気が此処にもあふれていた。一体に、それは住居すまいだか倉庫だか分らないような建て方であった。二人は幾つかのかどを曲った挙句あげく、十字路から一軒置いて――この一軒も人が住んでるんだか住んでいないんだか分らない家――の隣へ入った。方角や歩数等から考えると、私が、汚れた孔雀くじゃくのような恰好かっこうで散歩していた、先刻さっきの海岸通りの裏あたりに当るように思えた。
 私たちの入った門は半分けはびついてしまって、半分だけが、丁度ちょうど一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃ごみが山のように積んであった。門の外から持ち込んだものだか、門内のどこからか持って来たものだか分らなかった。塵の下には、塵箱が壊れたまま、へしゃげて置かれてあった。が上の方は裸のほこりであった。それに私は門を入る途端にフト感じたんだが、この門には、この門がその家の門であると云う、大切な相手の家がなかった。塵の積んである二坪ばかりの空地から、三本の坑道のような路地が走っていた。
 一本は真正面に、今一本は真左へ、どちらも表通りと裏通りとの関係の、裏路の役目を勤めているのであったが、今一つの道は、真右へ五間ばかり走って、それから四十五度の角度で、どこの表通りにもかかわりのない、金庫のような感じのする建物へ、こっそりと壁にくっついた蝙蝠こうもりのように、ななめに密着していた。これが昼間見たのだったら何の不思議もなくて倉庫につけられた非常階段だと思えるだろうし、又それほどにまで気を止めないんだろうが、何しろ、私は胸へピッタリ、メスの腹でも当てられたような戦慄せんりつを感じた。
 私は予感があった。このゆがんだ階段を昇ると、倉庫の中へ入る。入ったが最後どうしても出られないような装置になっていて、そして、そこは、支那を本場とする六神丸の製造工場になっている。てっきり私は六神丸の原料としてそこでぎもを取られるんだ。
 私はどこからか、その建物へ動力線が引き込まれてはいないかと、上を眺めた。多分死なない程度の電流をかけて置いて、ピクピクしてるぎもを取るんだろう。でないと出来上った六神丸のすくないだろうから、だが、――私はその階段を昇りながら考えつづけた――起死回生の霊薬なる六神丸が、その製造の当初に於て、その存在の最大にしてつ、唯一の理由なる生命の回復、或は持続を、平然と裏切って、かえって之を殺戮さつりくすることによってのみ成り立ち得る。とするならば、「六神丸それ自体は一体何に似てるんだ」そして「何のためにそれが必要なんだ」それはあたかも今の社会組織そっくりじゃないか。ブルジョアの生きるために、プロレタリアの生命の奪われることが必要なのとすっかり同じじゃないか。
 だが、私たちは舞台へ登場した。

    二

 そこは妙な部屋であった。いわし罐詰かんづめの内部のような感じのする部屋であった。低い天井と床板と、四方の壁とより外には何にも無いようなガランとした、湿っぽくて、黴臭かびくさい部屋であった。室の真中からたった一つの電燈が、落葉が蜘蛛くもの網にでもひっかかったようにボンヤリ下って、ともっていた。リノリュームが膏薬こうやくのように床板の上へ所々へりついていた。テーブルも椅子いすもなかった。恐ろしく蒸し暑くて体中が悪い腫物しゅもつででもあるかのように、ジクジクと汗がみ出したが、何となくどこか寒いような気持があった。それにかびの臭いの外に、胸の悪くなる特殊の臭気が、間歇かんけつ的に鼻をいた。その臭気にはもやのように影があるように思われた。
 畳にしたら百枚も敷けるだろう室は、五燭らしいランプの光では、監房の中よりも暗かった。私は入口にたたずんでいたが、やがて眼がやみれて来た。何にもないようにおもっていたへやの一隅に、何かの一固ひとかたまりがあった。それが、ビール箱のふたか何かに支えられて、立っているように見えた。その蓋から一方へ向けてそれでおおい切れない部分が二三尺はみ出しているようであった。だが、どうもハッキリ分らなかった。何しろ可成かなり距離はあるんだし、暗くはあるし、けれども私は体中の神経を目に集めて、その一固りを見詰めた。
 私は、ブルブルふるえ始めた。とても立っていられなくなった。私は後ろの壁にもたれてしまった。そして坐りたくてならないのをいて、ガタガタ震える足で突っ張った。眼が益々闇に馴れて来たので、おおいからはみ出しているのが、むき出しの人間の下半身だと云うことが分ったんだ。そしてそれは六神丸の原料を控除した不用な部分なんだ!
 私は、そこで自暴自棄な力がいて来た。私を連れて来た男をやっつける義務を感じて来た。それが義務であるより以上に必要止むべからざることになって来た。私は上着のポケットの中で、ソーッとシーナイフを握って、傍に突っ立ってるならず者の様子をうかがった。やつは矢っ張り私を見て居たが突然口を切った。
「あそこへ行って見な。そしてお前の好きなようにしたがいいや、俺はな、ここらで見張っているからな」このならず者はこう云い捨てて、階段を下りて行った。
 私はひどく酔っ払ったような気持だった。私の心臓は私よりもあわてていた。ひどくなぐりつけられた後のように、頭や、手足の関節が痛かった。
 私はそろそろ近づいた。一歩々々臭気がはなはだしく鼻を打った。矢っ張りそれは死体だった。そしてきわめてかすかに吐息が聞えるように思われた。だが、そんな馬鹿なこたあない。死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせいにして見たが、「死骸しがいが溜息をついてる」とその通りの言葉で私は感じたものだ。と同時に腹ん中の一切の道具が咽喉のどへ向って逆流するような感じに捕われた。然し、
 然し今はもうすべてが目の前にあるのだ。
 そこには全く残酷ざんこくな画が描かれてあった。
 ビール箱の蓋の蔭には、二十二三位の若い婦人が、全身を全裸のまま仰向あおむきに横たわっていた。彼女は腐った一枚の畳の上にいた。そして吐息は彼女の肩から各々が最後の一滴であるように、しぼり出されるのであった。
 彼女の肩の辺から、枕の方へかけて、だ彼女がいくらか、物を食べられる時に嘔吐おうとしたらしい汚物が、黒い血痕けっこんと共にグチャグチャに散ばっていた。髪毛がそれで固められていた。それに彼女の(十二字不明)がねばりついていた。そして、頭部の方からは酸敗さんぱいした悪臭を放っていたし、肢部からは、癌腫がんしゅの持つ特有の悪臭が放散されていた。こんな異様な臭気の中で人間の肺が耐え得るかどうか、と危ぶまれるほどであった。彼女は眼をパッチリと見開いていた。そして、そのひとみは私を見ているようだった。が、それは多分何物をも見てはいなかっただろう。勿論もちろん、彼女は、私が、彼女の全裸の前に突っ立っていることも知らなかったらしい。私は婦人の足下あしもとの方に立って、此場の情景に見惚みとれていた。私は立ち尽したまま、いつまでもまじわることのない、併行へいこうした考えで頭の中が一杯になっていた。
 哀れな人間がここにいる。
 哀れな女がそこにいる。
 私の眼はえつけられた二つのプロジェクターのように、その死体に投げつけられて、動かなかった。それは死体と云った方が相応ふさわしいのだ。
 私は白状する。実に苦しいことだが白状する。――しこの横われるものが、全裸の女でなくて全裸の男だったら、私はそんなにも長く此処に留っていたかどうか、そんなにも心の激動を感じたかどうか――
 私は何ともかとも云いようのない心持ちで興奮のてっぺんにあった。私は此有様を、「若い者が楽しむこと」として「二」出して買って見ているのだ。そして「お前の好きなようにしたがいいや」と、あの男は席をはずしたんだ。
 無論、此女に抵抗力があるはずがない。娼妓しょうぎは法律的に抵抗力を奪われているが、此場合は生理的に奪われているのだ。それに此女だって性慾の満足のためには、屍姦しかんよりはいいのだ。何と云ってもだ体温を保っているんだからな。それに一番困ったことには、私が船員で、若いと来てるもんだから、いつでもグーグーのどを鳴らしてるってことだ。だから私は「好きなように」することが出来るんだ。それに又、今まで私と同じようにここに連れて来られた(若い男)は、一人や二人じゃなかっただろう。それが一一(四字不明)どうかは分らないが、皆が皆辟易へきえきしたとも云い切れまい。いや兎角とかく此道ではブレーキが利きにくいものだ。
 だが、私は同時に、これと併行へいこうした外の考え方もしていた。
 彼女は熱い鉄板の上に転がった蝋燭ろうそくのようにせていた。未だ年にすれば沢山たくさんあるはずの黒髪は汚物や血で固められて、捨てられた棕櫚箒しゅろぼうきのようだった。字義通りに彼女は瘠せ衰えて、棒のように見えた。
 幼い時から、あらゆる人生の惨苦さんくと戦って来た一人の女性が、労働力の最後の残渣ざんさいまで売り尽して、愈々いよいよ最後に売るべからざる貞操まで売って食いつないで来たのだろう。
 彼女は、人を生かすために、人を殺さねば出来ない六神丸のように、又一人も残らずのプロレタリアがそうであるように、自分の胃のふくらすために、腕や生殖器や神経までもみ取ったのだ。生きるために自滅してしまったんだ。外に方法がないんだ。
 彼女もきっとこんなことを考えたことがあるだろう。
「アア私は働きたい。けれども私を使って呉れる人はない。私は工場で余り乾いた空気と、高い温度と綿屑とを吸い込んだから肺病になったんだ。肺病になって働けなくなったから追い出されたんだ。だけど使って呉れる所はない。私が働かなけりゃ年とったお母さんも私と一緒に生きては行けないんだのに」そこで彼女は数日間仕事を求めて、街を、工場から工場へと彷徨さまようたのだろう。それでも彼女は仕事がなかったんだろう。「私はみさおを売ろう」そこで彼女は、生命力の最後の一滴をらしてしまったんではあるまいか。そしてそこでも愈々いよいよ働けなくなったんだ。で、遂々とうとうここへこんな風にしてもう生きる希望さえも捨てて、死を待ってるんだろう。

    三

 私は彼女がだ口が利けるだろうか、どうだろうかが知りたくなった。恥しい話だが、私は、「お前さんは未だ生きていたいかい」と聞いて見る慾望をどうにも抑えきれなくなった。云いかえれば人間はこんな状態になった時、一体どんな考を持つもんだろう、と云うことが知りたかったんだ。
 私は思い切って、女の方へズッと近寄ってその足下の方へしゃがんだ。その間も絶えず彼女の目と体とから私は目を離さなかった。と、彼女の眼も矢っ張り私の動くのに連れて動いた。私は驚いた。そして馬鹿々々しいことだが真赤になった。私は一応考えた上、彼女の眼が私の動作に連れて動いたのは、ただ私がそう感じたけなんだろう、と思って、よく医師が臨終の人にするように彼女の眼の上で私は手を振って見た。
 彼女はまたたきをした。彼女は見ていたのだ。そして呼吸も可成かなり整っているのだった。
 私は彼女の足下近くへ、急に体から力が抜け出したように感じたので、しゃがんだ。
「あまりひどいことをしないでね」と女はものを言った。その声は力なく、途切とぎれ途切れではあったが、臨終の声と云うほどでもなかった。彼女の眼は「何でもいいからそうっとしといて頂戴ちょうだいね」と言ってるようだった。
 私は義憤を感じた。こんな状態の女を搾取材料にしている三人の蛞蝓なめくじ共を、「たたき壊してやろう」と決心した。
「誰かがひどくしたのかね。誰かにいじめられたの」私は入口の方をチョッと見やりながらいた。
 もう戸外はすっかり真っ暗になってしまった。此だだっ広い押しつぶしたようなへやは、いぶったランプのホヤのようだった。
「いつ頃から君はここで、こんな風にしているの」私はつとめて、平然としようと骨折りながらいた。彼女は今私が足下の方にうずくまったので、私の方を見ることを止めて上の方に眼を向けていた。
 私は、私の眼の行方ゆくえを彼女に見られることを非常におそれた。私は実際、正直な所其時、英雄的な、人道的な、一人の禁欲的な青年であった。全く身も心もそれに相違なかった。だから、私は彼女に、私がまるで焼けつくような眼で彼女の××を見ていると云うことを、知られたくなかったのだ。眼だけを何故なぜ私は征服することが出来なかっただろうか。
 し彼女が私の眼を見ようものなら、「この人もやっぱり外の男と同じだわ」と思うに違いないだろう。そうすれば、今の私のヒロイックな、人道的な行為と理性とは、一度にもろく切って落されるだろう、私は恐れた。恥じた。
 ――俺はこの女に対して性慾的などんな些細ささいな興奮だってき起されていないんだ。そんな事を考えるけでも間違ってるんだ。それは見てる。見てるには見てるが、それが何だ。――私は自分で自分に言い訳をしていた。
 彼女が女性である以上、私が衝動を受けることは勿論もちろんあり得る。だが、それはこんな場合であってはならない。この女は骨と皮だけになっている。そして永久に休息しようとしている。この哀れな私の同胞に対して、今まで此室に入って来た者共が、どんな残忍なことをしたか、どんな陋劣ろうれつな恥ずべきおこないをしたか、それを聞こうとした。そしてそれ等の振舞がのろわるべきであることを語って、私は自分の善良なる性質を示して彼女に誇りたかった。
 彼女はやがて小さな声で答えた。
「私から何か種々いろいろの事が聞きたいの? 私は今話すのが苦しいんだけれど、もしあんたが外の事をしないのなら、少し位話して上げてもいいわ」
 私は真赤になった。畜生! 奴は根こそぎ俺を見抜いてしまやがった。再び私の体中を熱い戦慄せんりつが駈け抜けた。
 彼女に話させて私は一体どんなことを知りたかったんだろう。もう分り切ってるじゃないか、それによし分らないことがあったにした所で、苦しくあえぐ彼女の声を聞いて、それでどうなると云うんだ。
 だが、私は彼女を救い出そうと決心した。
 然し救うと云うことが、出来るだろうか? 人を救うためには(四字不明)が唯一の手段じゃないか、自分の力で捧げ切れない重い物を持ち上げて、再び落した時はそれが愈々いよいよ壊れることになるのではないか。
 だが、何でもかでも、私は遂々とうとう女から、十言ばかり聞くような運命になった。

    四

 先刻さっき私を案内して来た男が入口の処へしずかに、影のように現れた。そして手真似で、もう時間だぜ、と云った。
 私はあわてた。男が私の話を聞くことの出来る距離へ近づいたら、もう私は彼女の運命に少しでも役に立つような働が出来なくなるであろう。
「僕は君の頼みはどんなことでもよう。君の今一番して欲しいことは何だい」と私はいた。
「私の頼みたいことわね。このままそうっとしといて呉れることだけよ。その他のことは何にも欲しくはないの」
 悲劇の主人公は、私の予想を裏切った。
 私はたとえば、彼女が三人のごろつきの手からげられるように、であるとか、又はすぐ警察へ、とでも云うだろうと期待していた。そしてそれが彼女の望み少い生命にとっての最後の試みであるだろうと思っていた。一筋のわらだと思っていた。
 可哀想に此女は不幸の重荷でへしつぶされてしまったんだ。もう希望を持つことさえも怖しくなったんだろう。と私は思った。
 世の中のすべてをのろってるんだ。皆で寄ってたかって彼女を今日の深淵しんえんに追い込んでしまったんだ。だから僕にも信頼しないんだ。こんな絶望があるだろうか。
「だけど、このまま、そんな事をしていれば、君の命はありやしないよ。だから医者へ行くとか、お前の家へ連れて行くとか、そんな風な大切なことを訊いてるんだよ」
 女はそれに対してこう答えた。
「そりゃ病院の特等室か、どこかの海岸の別荘の方がいいに決ってるわ」
「だからさ。それがここを抜け出せないから……」
「オイ! 此女は全裸まっぱだかだぜ。え、オイ、そして肺病がもうとても悪いんだぜ。わずか二やそこらの金でそういつまで楽しむって訳にゃ行かねえぜ」
 いつの間にか蛞蝓なめくじの仲間は、私の側へ来て蔭のように立っていて、こう私の耳へささやいた。
「貴様たちが丸裸にしたんだろう。此の犬野郎!」
 私は叫びながら飛びついた。
「待て」とその男はうめくように云って、私の両手を握った。私はその手を振り切って、やつよこつらなぐった。だが私の手が奴の横っ面へ届かない先に私の耳がガーンと鳴った、私はヨロヨロした。
「ヨシ、ごろつき、死ぬまでやってやる」私はこう怒鳴ると共に、今度は固めた拳骨で体ごと奴の鼻っ柱を下から上へ向って、小突こづ[#ルビの「こづ」は底本では「こず」]き上げた。私は同時に頭をやられたが、然し今度は私の襲撃が成功した。相手は鼻血をタラタラ垂らしてそこへうずくまってしまった。
 私は洗ったように汗まみれになった。そして息切れがした。けれども事件がここまで進展して来た以上、後の二人の来ない中に女を抱いてでも逃れるよりほか仕様しようがなかった。
「サア、早くげよう! そして病院へ行かなけりゃ」私は彼女に云った。
「小僧さん、お前は馬鹿だね。その人を殺したんじゃあるまいね。その人は外の二三人の人と一緒に私を今まで養って呉れたんだよ、困ったわね」
 彼女は二人の闘争に興奮して、眼に涙さえうかべていた。
 私は何が何だか分らなかった。
「何殺すもんか、だが何だって? 此男がお前を今まで養ったんだって」
「そうだよ。長いこと私を養って呉れたんだよ」
「お前の肉の代償にか、馬鹿な!」
「小僧さん。此人たちは私をけがしはしなかったよ。お前さんも、も少し年をとると分って来るんだよ」
 私はヒーローから、一度に道化役者に落ちぶれてしまった。此哀れむべき婦人を最後の一滴まで搾取した、三人のごろつき共は、女と共にすっかりなぞになってしまった。
 一体こいつ等はどんな星の下に生れて、どんなめぐり合せになっているのだ。だが、私は此事実を一人で自分の好きなように勝手に作り上げてしまっていたのだろうか。
 倒れていた男はのろのろと起き上った。
「青二才! よくもやりやがったな。サア今度は覚悟を決めて来い」
「オイ、兄弟俺はお前と喧嘩けんかする気はないよ。俺は思い違いをしていたんだ。悪かったよ」
「何だ! 思い違いだと。糞面白くそおもしろくもねえ。何を思い違えたんだい」
「お前等三人は俺をおどかしてここへ連れて来ただろう。そしてこんな女を俺に見せただろう。お前たちは此女を玩具おもちゃにした挙句あげくだこの女からしぼろうとしてるんだと思ったんだ。死ぬが死ぬまで搾る太い奴等だと思ったんだ」
「まあいいや。それは思い違いと言うもんだ」と、その男は風船玉のしぼむ時のように、張りをゆるめた。
「だが、何だってお前たちは、この女を素裸すっぱだかでこんな所に転がしとくんだい。それに又何だって見世物になんぞするんだい」と云いかった。奴等は女の云う所に依れば、悪いんじゃないんだが、それにしてもこんな事はあきらかに必要以上のことだ。
 ――こいつ等は一体いつまでこんなことを続けるんだろう――と私は思った。
 私はいくらか自省する余裕が出来て来た。すると非常に熱さを感じ始めた。吐く息が、そのまま固まりになってすぐ次の息に吸い込まれるような、胸の悪いし暑さであった。嘔吐物おうとぶつの臭気と、癌腫がんしゅらしい分泌物ぶんぴぶつとの臭気は相変らず鼻をいた。体がいやにだるくて堪えられなかった。私は今までの異常な出来事に心を使いすぎたのだろう。何だか口をきくのも、此上何やかを見聞きするのも憶却おっくうになって来た。どこにでも横になってグッスリ眠りたくなった。
「どれ、かく、帰ることにしようか、オイ、俺はもう帰るぜ」
 私は、いつの間にか女の足下の方へ腰を、下していたことを忌々いまいましく感じながら、立ち上った。
「おめえたちゃ、皆、ここに一緒にんでいるのかい」
 私は半分扉の外に出ながら振りかえっていた。
「そうよ。ここがおいらの根城なんだからな」男が、ブッキラ棒に答えた。
 私はそのまま階段をくだって街へ出た。門の所で今出て来た所を振りかえって見た。階段はそこからは見えなかった。そこには、監獄の高い煉瓦塀れんがべいのような感じのする、倉庫が背を向けてるけであった。そんな所へ人の出入りがあろうなどと云うことは考えられない程、寂れ果て、頽廃たいはいし切って、見ただけで、人はかびの臭を感じさせられる位だつた。
 私は通りへ出ると、口笛を吹きながら、傍目わきめも振らずに歩き出した。
 私はボーレンへ向いて歩きながら、一人で青くなったり赤くなったりした。

    五

 私はボーレンで金を借りた。そして又外人相手のバーで――外人より入れない淫売屋で――又飲んだ。
 夜の十二時過ぎ、私は公園を横切って歩いていた。アークライトが緑の茂みをち抜いて、複雑な模様を地上に織っていた。ビールの汗で、私は湿ったオブラートに包まれたようにベトベトしていた。
 私はとりとめもないことを旋風器のように考え飛ばしていた。
 ――俺は飢えてるんじゃないか。そして興奮したじゃないか、だが俺は打克うちかった。フン、立派なもんだ。民平、だが、俺は危くキャピタリスト見たよな考え方をしようとしていたよ。俺が何も此女をこんな風にした訳じゃないんだ。だからとな。だが俺は強かったんだ。だが弱かったんだ。ヘン、どっちだっていいや。かく俺は成功しないぜ。鼻の先にブラ下ったえさを食わないようじゃな。俺は紳士じゃないじゃないか。紳士だってやるのに俺が遠慮するって法はねえぜ。待て、だが俺は遠慮深いので紳士になれねえのかも知れねえぜ。まあいいや。――
 私は又、例の場所へ吸いつけられた。それは同じ夜の真夜中であった。
 鉄のボートで出来た門はしまっていた。それは然し押せばすぐ開いた。私は階段を昇った。扉へ手をかけた。そして引いた。が開かなかった。畜生! あわてちゃった。こっちへ開いたら、俺は下の敷石へ突き落されちまうじゃないか。私は押した。少し開きかけたので力を緩めると、又元のように閉ってしまった。
「オヤッ」と私は思った。誰か張番してるんだな。
「オイ、俺だ。開けて呉れ」私は扉へ口をつけて小さい声で囁いた。けれども扉は開かれなかった。今度は力一杯押して見たが、ビクともしなかった。
「畜生! かけがねを入れやがった」私はつばを吐いて、そのまま階段を下りて門を出た。
 私の足が一足門の外へ出て、一足が内側に残っている時に私の肩を叩いたものがあった。私は飛び上った。
「ビックリしなくてもいいよ。俺だよ。どうだったい。面白かったかい。楽しめたかい」そこには蛞蝓なめくじが立っていた。
「あの女がお前のために、ああなったんだったら、手前等は半死になるんだったんだ」
 私は熱くなってこう答えた。
「じゃあ何かい。あの女が誰のためにあんな目にあったのか知りたいのかい。知りたきゃ教えてやってもいいよ。そりゃ金持ちと云う奴さ。分ったかい」
 蛞蝓なめくじはそう云ってあわれむような眼で私を見た。
「どうだい。も一度行かないか」
「今行ったが開かなかったのさ」
「そうだろう、俺がかんぬきおろしたからな」
「お前が! そしてお前はどこから出て来たんだ」
 私は驚いた。あの室には出入口は外には無いはずだった。
「驚くことはないさ。お前の下りた階段をお前の一つ後から一足ずつ降りて来たまでの話さ」
 此蛞蝓野郎なめくじやろう、又何か計画してやがるわい。と私は考えた。幽霊じゃあるまいし、私の一足後ろを、いくらそうっと下りたところで、音のしない訳がないからだ。
 私はもう一度彼女を訪問する「必要」はなかった。私は一円だけだ残して持っていたが、その一円で再び彼女を「買う」と云うことは、私には出来ないことであった。だが、私は「たった五分間」彼女の見舞に行くのはいいだろうと考えた。何故なぜだかも一度私は彼女に会いかった。
 私は階段を昇った。蛞蝓なめくじは附いて来た。
 私は扉を押した。なるほど今度は訳なく開いた。一足へやの中にみ込むと、同時に、悪臭と、暑い重たい空気とが以前通りに立ちこめていた。
 どう云う訳だか分らないが、今度は此部屋の様子がまるで変ってるであろうと、私は一人で固く決め込んでいたのだが、私の感じは当っていなかった。
 何もかも元の通りだった。ビール箱の蔭には女が寝ていたし、その外には私と、蛞蝓なめくじと二人っ切りであった。
「さっきのお前の相棒はどこへ行ったい」
「皆家へ帰ったよ」
「何だ! 皆ここにんでるってのはうそなのかい」
「そうすることもあるだろう」
「それじゃ、あの女とお前たちはどんな関係だ」遂々とうとう私は切り出した。
「あの女は俺達の友達だ」
「じゃあ何だって、友達を素っ裸にして、病人に薬もやらないで、おまけに未だ其上見ず知らずの男にあの女を玩具おもちゃにさすんだ」
「俺達はそうしたい訳じゃないんだ、だがそうしなけれゃあの女は薬も飲めないし、卵も食えなくなるんだ」
「え、それじゃ女は薬を飲んでるのか、然し、おい、誤魔化ごまかしちゃいけねえぜ。薬を飲ませて裸にしといちゃ差引ゼロじゃないか、卵を食べさせて男に蹂躙じゅうりんされりゃ、差引欠損になるじゃないか。そんな理窟りくつに合わん法があるもんかい」
「それがどうにもならないんだ。病気なのはあの女ばかりじゃないんだ。皆が病気なんだ。そして皆がしぼられたかすなんだ。俺達あみんな働きすぎたんだ。俺達あ食うために働いたんだが、その働きは大急ぎで自分の命をへらしちゃったんだ。あの女は肺結核の子宮癌しきゅうがんで、俺は御覧の通りのヨロケさ」
「だから此女に淫売をさせて、お前達が皆で食ってるって云うのか」
「此女に淫売をさせはしないよ。そんなことをる奴もあるが、俺の方ではチャンと見張りしていて、そんな奴あほうり出してしまうんだ。それにそう無暗むやみに連れて来るって訳でもないんだ。俺は、お前が菜っ葉を着て、ブル達の間をまるで大臣のような顔をして、恥しがりもしないで歩いていたから、附けて行ったのさ、誰にでもっつかったら、それこさ一度で取っ捕まっちまわあな」
「お前はどう思う。俺たちが何故なぜ死んじまわないんだろうと不思議に思うだろうな、穴倉の中で蛆虫うじむし見たいに生きているのは詰らないと思うだろう。全く詰らない骨頂さ、だがね、生きてると何か役に立てないこともあるまい。いつか何かの折があるだろう、と云う空頼そらだのみが俺たちを引っ張っているんだよ」
 私はまるっ切り誤解していたんだ。そして私は何と云う恥知らずだったろう。
 私はビール箱の衝立ついたての向うへ行った。そこに彼女は以前のようにしてていた。
 今は彼女の体の上には浴衣ゆかたがかけてあった。彼女は眠ってるのだろう。眼を閉じていた。
 私は淫売婦の代りに殉教者を見た。
 彼女は、被搾取階級の一切の運命を象徴しているように見えた。
 私は眼に涙が一杯溜った。私は音のしないようにソーッと歩いて、扉の所に立っていた蛞蝓なめくじへ、一円渡した。渡す時に私は蛞蝓のしなびた手を力一杯握りしめた。
 そして表へ出た。階段の第一段を下るとき、溜っていた涙が私の眼から、ポトリとこぼれた。
(大正十四年十一月)

底本:「全集・現代文学の発見・第一巻 最初の衝撃」学芸書林
   1968(昭和43)年9月10日第1刷発行
入力:山根鋭二
校正:かとうかおり
1998年10月3日公開
2006年2月1日修正
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