其中に將軍家の長州進發といふ事になつた。それが則ち昭徳院といふ紀州公方――慶喜公の前代の御人である。頗ぶる人望のある御人であつたが大阪の行營で薨ぜられたので、そこで慶喜公が其後を繼いで將軍となられたのである。
其頃、江戸の、今の水道橋内三崎町の所に講武所といふものがあつた。其所は幕府の家來が槍だとか、劍だとか、柔だとか、鐵砲だとかを稽古するところで、私の親父は其の鎗術の世話心得といふ役に就いて居た。で講武所總體は右の御進發の御供、親父も同じく大阪に滯在するうち徒目附といふ役に轉じた。そこで私も京都の方を廢して、親父と一緒に大阪に來て居た。
丁度その時は親父の親友に御目附の木城安太郎といふ人が居た。私も其以前から知つて居る人。――何處で聞いたか私の大阪に來てゐるといふことを知つて「直太郎(私)も當地ださうだ。遊んでゐるなら私の家の書生に寄越したら何うだ。」といふ話。親父も喜んで私に話す元來御目附といへば天下の樞機に與る人。其人の家に居れば自然海内の形勢も分かるであらう。私が京都を去つて大阪に來たのも一つは其の當時の形勢入求の趣意であるから、渡りに舟と喜んで、木城氏の所へ行つた。無論其時分は文學者にならう抔といふ料見はない。(尤も今も文學者のつもりでもないが。)むしろさういふ御目附、即ち當時の樞機に參する役人にならうと思つて居た。然しその時分の役人になるといふのは、今のそれとは心持に於いて違つて居る。其時分の我々は何處迄も將軍家の譜代の家來だから、其の役人になるも、金を貰つて身を賣るではなく、主君なる將軍家に我が得た所を以て奉公をする。謂ゆる公儀の御役に立たうといふ極單純な考へであつた。然して此心は大抵な人が皆同じであつたらうと思つて居る。
兎角するうちに、木城氏は關八州の荒地開墾御用係といふものを命ぜられた。そして御勘定奉行の小栗下總守といふ人と一緒に、大阪から江戸に下つて來た。私もその一行の中に居た。どういふ譯で關八州の開墾をするかといふと、其時分幕府の基礎が大分怪しくなつて來たので、木城氏や小栗氏の考へでは、遠からぬ中に江戸と京都と干戈相見みゆる時が來るであらう、愈々然うなつたら仙臺、會津庄内と東北の同盟を結んで、東海道は箱根、木曾街道は碓井、この両口を堅固に守つて、天下の形勢を見るより外はないといふ、つまり箱根から向う、碓井から先は、止むを得ずんば打捨やる覺悟であつたので、さてこそ關八州を開墾して兵食を足さうといふ考へが起つたのである。隨分泥棒を捕まへて繩を綯ふと云ふやうな話であるが、然も其時は事實あれ程の急劇な變化、即ち三年後に江戸が東京になる程の變化が來やうとは思はなかつたので、悲しくても、まだ五年や十年の幕府の命脉はあるだらうと思つて居た。
そこで農事に委しい人を頼まうといふことになつて相馬藩から二宮金二郎(尊徳翁の子、其頃五十餘の大兵な人)を喚び、伊豆の代官江川氏の手附の河野鐵平といふ人をも召た。其外にも開墾水理に明るい人が幾らもやつて來た。兎に角、まだ其頃までは幕府の勢力があつたので其御用となることは、さういふ人達に取つては非常な榮譽であつたのである。それでわざ/\遠いところから來て呉れた。
さて小栗總州、木城安太郎を兩大將に、それに附屬する我々に至るまで――私はまだブランサンであつたが、一寸とお目附方の息子といふので、參謀官の見習ひといふやうなところで居た。――で或る時は庄屋名主五人組などいふ人物と引合ふ、或る時は神主や和尚さんとも談判する。十一月の廿七日かに大山の(相州)後ろの丹波山の森へ入つた時などは雪中で野宿同樣な目をした事もある。隨分酷い目に遇ひながら、先づ相摸と武藏のあら方、それから上野の一部を歩いて、慶應二年の暮おし詰めて江戸へ歸つた。其時に得た學問は、右の開墾や水理すべて地方の事で、秣場を潰して畑地とする損益とか、河流の改修に就いての利害とか、その土地々々でいろ/\な問題に出遇つて、種々な研究をしつゝ歩いた。
當時私の考へでは、日本の農業位ゐ勝手我儘なものはない。水田は川から水を取つてかける。だから勾配は川より低いに極つて居る。然るに洪水の時は、其の出水を來させまいと云ふ。これ既に六づかしい註文である。洪水の時は、河流が眞直ぐでないから水ハケが惡いと言ひ、少し旱りがつゞくと河筋にゆとりが無いから水落が早くていけないといふ實に手前勝手を極めたもので、コンナ殆んど出來ない相談といふをぼやいて一年中泣いたり笑つたり、苦んだりして居る。ソンな詰らぬ苦情を鳴らして居るよりも、私の考へでは陸穗を作るがよい。陸穗を作るとそんな憂ひは一掃される、と斯ふいふのであつた。ところが、二宮といふ人も、それは面白いと私の流義でも右と同樣の説がある。決して足下の鼻元思案では無いと言つて大いに贊成して呉れた。
それから、も一つは、蕎麥と玉蜀黍を人間が常用食にして呉れると、一國の經濟が非常に助かるといふ説も出で、これには贊成もあり、反對もあつたが、蕎麥は知らぬが、玉蜀黍の方は今は亞米利加の常食だ。併し其の時分、玉蜀黍説には僕も驚かされた。先づ旅中、およそ六七十日のうち、三日にあげず寄合つて異な言を言ひ出して、互ひに意見を述べ合つて居たけれども、幕府に、肝腎の開墾資金がなかつたので、とう/\此論も沙汰止みの行はれず仕舞となつた。何しろ、それから右三年の後、慶慮四年の江戸城開け渡しといふ時に、御藏の金がたつた三十六萬兩、即ち今の三百六十萬圓程しかなかつたといふのだから、實際幕府も情けない身上であつたに違ひない。で金のかゝる割には、苦情の多い、荒向の利益が少ない開墾の、一時止めになつたのも無理は無い。
その翌年、すなはち慶應の三年、僕の廿歳の年には所謂時事益々切迫で、――それまでは尊王攘夷であつたのが、何時の間にか尊王討幕になつて了つた。所謂危急存亡の秋だ。で私も、それ迄は奧儒者の小林榮太郎なる先生に就いて論語や孟子の輪講などをして居たが、もうソレどころで無い、筆を投じて戎軒を事とする時節だから、只だ明けても暮れても劍術を使ふ、柔術を取る、鐵砲を打つ抔といふ暴ツぽい方の眞似ばかりして居た。
する中に、其年の「慶應三年」の十二月二十五日に所謂薩州邸の燒打といふ事件が起つた。それは何故かと言ふと、其の夏頃から市中に盜賊が流行つて仕方がない、それがどうも長い刀を差して、五人、七人、十人十五人と徒黨を組んで押し込んで來る。大きな金持のところへ入つては、百兩二百兩といふ金をふんだくる。中には鐵砲を擔いで入る者もあるといふ風で、深川の木場や淺草の藏前で、非常に恐れた。
で、さういふ者を檢擧する爲に、新徴組といふものが出來た。その中には、彼の有名な土方歳三や、近藤勇といふやうな人も入つて居た。そして其の支配が出羽の庄内の酒井左衞門尉。それが頻りに市中を巡邏する。尚ほ手先を使つて、彼等盜賊の迹を附けさせると、それが今の芝の薩摩ツ原の薩州屋敷に入るといふのでこの賊黨はとう/\薩藩中の溢れ者だといふことが分つた。
ところで、一方の京都に於ては、慶喜公は既に大政を返上された。けれども以後の政治には、御自分等も與かつて、天下の公議で事を裁決しやうといふ御腹であつたのに、其年の十二月九日の夜。かの有名な小御所の會議で王政一新の議を決められた。處が慶喜公を初め、會津も桑名も其會議に省かれた。のみならず、其の前後、徳川征討の密勅が薩長二藩に下つた。といふ噂が立つた。それが其頃大阪に居た慶喜公の耳に聞えた。そこで公は心大に平ならず、更に薩長彈劾の奏を上つる、さアそんな事を聞くと江戸でもじツとしては居られない。そんな此んなで、やつつけるといふことで、とう/\薩州邸の燒打となつたのである。併し其時の騷ぎは大きくは無かつた。
右の燒打を初として、翌年正月の鳥羽、伏見の戰ひ、其他すべては「文藝倶樂部」の臨時増刊、第九年第二號「諸國年中行事」といふ中に、「三十五年前」と題して私は委しく話した事がある。又た先頃の毎日電報に「夜長のすさび」として月曜毎に掲載した事があるから、今更改めて言ふにも及ぶまい。
兎に角、そんな風であるから、私の青年時代は中々文筆に親しむどころの騷ぎではない。すなはち十七年の秋から明治元年の二十一歳まで、東奔西走、居處なしといふ有樣だつた。ソレから其年靜岡に行くまでには馬鹿な危險の目にも自から出遇ツたし、今考へて見るとお話しをするにも困る程の始末だが、たゞ其頃は些しも山氣なし、眞面目に其の事ふる所に孤忠を盡すつもりであつた。
斯くて江戸は東京となり、我々は靜岡藩士となつて、駿州の田中に移つた。其の翌年、私は沼津の兵學校の生徒となつて調練などを頻りに遣らされた。けれども間もなく出て、靜岡の醫學校に入つたが、其處から藩命で薩摩に遊んで、諸藩の書生と付き合つたが、それが私の放浪生活の初めでもあつたらう。それから歸つて、人見寧、梅澤敏などゝいふ人の取り立てた靜岡の淺間下の集學所といふに入つた。其の集學所に居る人間は函館の五稜廓の討ち洩らされといふ面々だ。總勢すぐツて百四五十人ばかり。毎日軍ごツこのやうな眞似ばかりして居たが、其うち世は漸次に文化に向つて、さういふ物騷な學校の立ち行かう筈もないので、其中に潰れて了つた。それから私は田舍の學校の教師になつた。
初めて横濱毎日新聞に入つたのは、明治七年である。それが今日のそも/\で、それから十一年に東京日々新聞に來た。そして職業として文筆に親しんだ。そんな風だから、美學や哲學の規則立つての修養もなく、唯昔から馬琴其他の、作物は多く讀んだが、詰りが明窓淨几の人で無くつて兵馬倥偬に成長つた方のだから自分でも文士などゝ任じては居らぬし、世間も大かた然うだらう。それだから今日書く小説もやはり其通り、迚も戀愛や煩悶の青年諸氏に歡ばれるやうな品物を、書けもしなければ、又た書かうといふ野心も起らない。僕はやはり僕だけの僕で居る。
(明治四十二年八月「文章世界」第四卷第十一號)