「銀さんー」と、女は胸に手を差入れて、切ない思いをこらへながら、みんなあたしが悪かつたの、耐忍かにしておくれ、ねあたしだつて、何も酔興で、彼家へ嫁入つたといふのじやなしさ、お前さんも知つての通りな羽目になつて、よんどころなく、つひ……」
と男のかほをそつとながめて、ほろりとした。年の二十三か四でもあろう。頭髪かみ銀杏返いてふがえしとうに結つて、メレンスと繻子の昼夜帯の、だらり、しつかけに、見たところ、まだ初々しい世話女房であつた。
「そりや、解つてらア」と、銀と呼ばれた男は、つつけんどんにいつた。酒にへてか、よろめく足元危く、肩には、古ぼけた縞の毛布ケツトをかけていたが、その姿から見ると、くるま夫ででもあろうか。年は女よりは三つばかり年長としかさに見えた。
 大学の大時計と、上野の時鐘とが、言い合わしたように今、十時を打ち出して、不忍池畔の夜は更けた。その静けさを破つて、溝川を越えて彼方の町並を流し行く三味線しやみの音がしんみりと聞こえる。秋といつても九月の末、柳は、もう大概落葉してしまつた。
「でもね。銀さん」と女は改めて呼びかけた。「そりや、あたしにア腹を立つてもおありだらうけども、何もね、伯母おばさんが知つておいでの事じやあるまいし、いつまでもそんな真似をしていて、伯母さんに苦労を掛けていやうといふの。……立派な手腕うでを持つておありだし、伯父さんの代からの花主とくいはたんとお有りだらうし、こころを入れ換へてさ。ちいと酒を控目にしてお稼ぎなら、直とむかしの棟梁になつておしまひだらうに、あのこんな事いつちや何だけど、お前その気は無いのかえ」
「無えー」
「無いつてお前……」と、女のことばはつまる。
「無えよ、うむー。正に無え、……おいらの手腕はとうにしびれッちまつた。手腕ばかりならいいが、脛も腰も、骨も肉も、ないし魂も根性もだツ、立派に腐つた……。しびれきつてしまつたてえ事ッ。碌でなしだからな」
 空を仰いで虹のやうな息を吐く。
「しようがないね」と、のみ、女はさらに愁然しゆうねんとして、「お前さんは、そんなにおこつておいでだし、あたしアやる瀬がありやしない」
と、いつか、両袖で顔を隠してしまつた。あはれその心の底は、いかに激しく悶えるのであらう。肩頭かたさきよりかすかにふるへた。

 しばらく経つてから、「お前そういつておいでだけども、ねえ、銀さん、何も時と時節だわね。そう一こくにさ、いや忌々しいの、腹が立つのといつていたんじや、一日だつて世の中に生きていられはしないよ、世の中が思つたり適つたりで暮らせる位なら、人間にア涙なんてえものァいらないものさ。それがあるとこがうき世をいつたものじやないの。そりや銀さんは、あたしを不人情者とも、不貞腐ふてくされとも思つておいでだろう。もとよりあたしがわるいんさ。非いにァちがいないけども、底には底のあるものだよ」
 と女はしみじみと語り出した。
 渠女かれは、銀が三年以来このかたの惨澹たる経歴と、大酒飲みになつた事と、真面目まじめに働くがいやになつた事と、この世には望みもなければ、楽しみといふものの光明も認められぬやうになつた事など、落ちも無く銀に語つて聞かされたのである。で、聞く一言一言が、渠女かれの身に取ると、胸に釘を打たるる思ひ。その場へ昏倒するのではないかと思はれた事も幾度かであつた。渠女かれは始終、涙と太息ためいきとで聞いてしまつて、さて心の糸のもつれもつれて、なつかしさと切なさとに胸裡は張り裂けんばかり、銀が今の身の上最愛いとしと思ひつめては、ほとんど前後不覚。よし自分の身辺にまつはる事情や行懸りをうつちやつても……。我が身を引ン裂いてなりと、まのあたり銀が餓えと恥辱に呵責さいなまるる苦痛をすくはうと煩悶した。あせつたのである。身※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)あがりしたのである。けれども、女の身の格別好いちえも分別も出なかつた。
 そこで女は、とやかう思案を煎じつめた挙句、「ままよ」とつぶやいたかと思ふと、さきにその所夫おつとから預けられて、問屋場へ持つて行くべき、少なからぬ、なにがしといふ金を懐中ふところから取り出した。包みのまま、銀につきつけて、それでもつてち殺してある、かんなのみや鋸や、または手斧ておの曲尺まがりかねすみ縄や、すべての職業道具しようばいどうぐ受け出して、明日からでも立派に仕事場へ出て、一人の母にも安心させ、また自分の力にもなつてくれるやうにと、すがりつくやうにして泣き且つ頼んだ。そして
「ねえ、お願いだから」
とこれが最後のことばであつた。
 けれども、性来執拗ごうじような銀は、折角の好意こころも水の泡にしてしまつて、きつぱりその親切を、はねつけた。小気味よく承知しなかつた。かれのいふ所によると、これでももとは「大政たいまさ」ともいはれた名たたる棟梁のせがれである。よし、母子二人倒死のたれじにするまでも、腹の中をからにして往生するにもしろ、以前、我が家のさかつた頃、台所から這ひずつて来て、親父の指の先に転がされて働いた奴等の下職人したとはなつて、溝板修覆なおしや、床などの張換へして鉋を磨いて痩腹やせばら膨らかすやうな、意気地の無い、卑劣しみつたれな真似は、銀が眼の玉の黒いうちは、なんとしてやれぬといつた、いやだといつた。侮蔑みくびつて貰ふまいともいへば、心外だともいつた。つまり銀はあくまでも女のねがひをはねつけたのであつた。

「お前がそういつて剛情を張つておいでのところを見ると、うしてもあたしが彼家あすこ嫁入いつたのを根にもつて、あたしを呵責いためて泣かして、笑つてくれやうと思つておいでなのにちがひない。そりやあんまりむごいといふものじやないの、え、銀さん」
と女は途方に暮れて泣くばかりであつた。で、ひがむだやうな愚痴も並べ出して、
「そんなにおこつてばかりいないで、あたしのいふ事もちつたァ聞いておくれな。あたしが彼家あすこへ行つた当座、お前がだんだんいけなくおなりだという噂が、ちらりあたしの耳へ這入つた時、あたしァ、……あたしァまあどんなにかつらかつたらう。いつそ、彼家を出てしまはうかと思つた事も、そりや五度や三度じやなかつたね。あたしだつて人間だもの、まさかお前の心のめていないでもなかつたけれど、そこにア、それ……、かういつちや勿体もつたいないけどまつたくさ。阿父おとつさんてえ人が居なすつて、どうにもあたしの心のままにァならなかつたの、そのうち阿父さんは死んでおしまひだし……」
「な、なに?」と銀は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつて、「親父が亡くなつたえ。え、何時」
一昨年おととしの夏さ」といつて、女はかほをそむけて、啜り上げた。「それからというものは帰らうにも実家はなしさ、心の中じや力に思つていたお前までが、どこへか引越しておしまひだし、……あたしはほんのひとりぼつちになつてしまつたの。だからさ、何もみんな無い往昔むかしとあきらめてしまつてさ。ねえ、銀さん。両人ふたりしていたちこつこして遊すんだ時分のあたしだと思つて、これだけあたしのいふ事をいておくれな、一生のお願ひだわ」
 石のやうに固くなつて聞いていた銀は、やおら、面をあげて勢い好く、「よしッ! 解つた」
「あの、承いておくれか」
「む、む!、永い事ァ厄介かけたねえ、なんの一年ばかし面倒見といてくんねえ。銀も男だ、今更他人ひと下職人したは働かねえが、ちつとばかし目論見があるんだ。そのうち訪ねて行つた時の姿を見てくんねえ。きつとだ。男になつて行かア!」
「好くまァそういつておくれだ。そいであたしア……」としばらく口も利き得なかつた女の眼の内には、喜悦と満足と而して感謝の意の相混じて見られた。(『万朝報』一八九九年八月)

底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
   1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「万朝報」
   1899(明治32)年8月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
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