は仁徳天皇のころから既に開けた都會であることは申すに及ばない。聖徳太子の四天王寺や、蓮如上人の石山本願寺建立に因みて、抹香臭い氣持ちがする。しかし豐臣秀吉が爭亂を平定して、こゝに築城してから、その空氣は一新し、大阪の本質を發揮した。大阪は海灣に面して、淀川は舟楫の便あり、四通八達、物資の集散地として、屈強な地の利、水の利がある。かくの如き土地が開發されるのは、自然の勢であつて、淀川の河身改良を行ひ、そのデルタに運河を疏通すれば、工、商業はおのづから發展する。往時ヴェニスが歐亞の交通上一時覇を唱へてゐた歴史に鑑みれば、大阪は關西方面の商賈出入の關門となつてゐたことは當然である。今日その勢力圈はますます擴張して、東洋貿易の覇權を握らんとする形勢になつて來た。
 ヴェニスに遊んだ人には、中世紀から傳はつたゴンドラが昔を偲ばしむる好材料である。大阪にも半世紀前には底の平なゴンドラらしい柴舟が澤山浮いてゐた。ゴンドラに比ぶれば美術的でなく、むしろ實用向きに造られた。徳川時代に伏見と天滿橋の間を往復した三十石は、その大形であつて、維新前の交通が頗る悠長であつたことを思はしむる。
「淀川三十石、のぼりくだりの川中で、御客をとらへて、喰はんか、くらはんか、ポンポコネ、ポンポコ/\ポンポコネ」
といふ端唄がある。予は稚ないころ伏見に往復したことがある。三十石は棹で押すか、綱で引くか、瀬の工合で共用したのである。一晩かゝつて伏見、大阪を聯絡するのだから、今日の電車や汽車が網を張つた、スピード時代には思ひもよらぬ、遲い交通機關であつた。しかしそのころから大阪魂とでもいふべきものは、喰はんか舟の呼聲に提唱された。
 喰はんか舟は食料品を載せた片家根の柴舟であつた。三十石を川中で邀撃して、乘客に菓子や酒を賣付ける。
「くらはんか、くらはんか、牛蒡汁[#「牛蒡汁」は底本では「午蒡汁」]、あん餅くらはんか、卷ずしどうぢや、酒くらはんか、錢がないのでようくらはんか」
 と叫んだ。船中で眠い眼をこすりこすり聞けば、いかにも横柄で、こんな奴の品物を買ふもんかと思はしむる。しかし賣子をかすかな燈に照して見れば、しわくちや翁が、水洟たらして、舟を三十石に横付にし、物品と錢の交換を始める。錢は一度握つたら容易に離さぬ風勢で、喰はんか喰はんかと呼んでゐた。夜半空腹となつたころであれば、呼聲に愛想つかしても買はないわけには行かぬ。末の句で錢がないのでよう喰はんかといはれると、意地にも買はざるを得ない。錢の價値をこんなに強調してゐるのは、大阪當時の精神を吐露してゐる。地獄の沙汰も金次第、錢のまうからない奴は相手にならぬ。錢の價値を知らぬ奴は世渡りができぬ。算盤珠のはぢけぬ奴は仲間に入れぬといはぬばかりの口調である。實に徳川の威令嚴かなるころ、この語調を弄して憚らなかつたのは、大阪氣性に叶つたからであるが、さりとも口傳の家康に關する祕密の歴史があるからか、いづれにしても最初にこの特權を獲得した喰はんか翁は、凡人であるまい。
 三十石で伏見から淀川を下るころには、大阪に近づいてもこれを知る目星がなかつた。今は枚方近く來れば巍々として聳えた天守閣を望んで、あそこらが大阪だと指點することができる。夏の陣で燒け落ちた天守閣は再建されて、また雷火で滅び、二百六十餘年間廢墟となつたのが、昭和の聖代に復興されて、太閤當時の偉觀を偲ばしむる。しかも容易に燒落ちない鐵骨コンクリート構造であれば、三度目の天守閣こそ永遠に傳はるは疑いない。太閤[#「太閤」は底本では「太閣」]も地下で定めし笑を含んでゐるであらう。聞くところによれば、復興費は四十七萬圓であつた。日々登覽する人の數から割出してみれば、數年を出でずして原價を償却し得る。こゝに大阪人の凄腕が窺はれる。金は一時出しても無駄には使はぬ、將來天守閣の下に、昔あつた千疊敷を再建しても、餘裕綽々である。大演習の折、暗夜にフラツド・ライトで天守閣を照らした模樣は莊嚴であつた。大阪市上に空中の樓閣を描き、恰も蜃氣樓のやうに宙に浮かんで、その一角には、太閤の姿が髣髴として現はれ、大阪市の繁華を見下しはしないかと思はれた。天守閣こそ大阪市の偉觀といはねばならぬ。
 天守閣から展望すれば、大阪近縣の概略が判明する。市の膨張は半世紀前に比ぶれば著るしいものである。一番眼を遮るものは、數ヶ月前までは數百の煙突からたなびく黒煙のウエーヴであつた。今は防煙裝置が多分に行はれて、煙はさほどまで視線を遮らなくなつた。山河の配置は依然として舊觀を保つてゐるけれども、人家櫛比、南は堺から、西は神戸に至るまで、一つながりに軒を並べ、どこが大阪との境であるやら、さつぱり見當がつかない。昔清盛が摩耶山麓の勝地を選擇し、都を福原に遷したころを考ふれば、安治川口の界隈は、歌に詠まれた難波江の葦の叢であつたらう。今は新淀川の堤防近く、僅かにその形骸を止むるに過ぎない。かくの如く諸市合體すれば、その間の交通もまた頻繁になるから、大阪附近の電車や、バス、汽車の網は日本一に發達し、その敏速に往來し、有無相通ずる設備は完全になつてゐる。その状況は天守閣上から斑を窺はれる。太閤の計畫した雄圖は、大規模に、間然なく實現するに至つた。
 大阪見物といへば、心齋橋筋、堺筋、道頓堀、千日前、各種のデパートや、劇場であるけれども、市の大動脈である數多の運河を見なければ、市の眞髓に達したとはいはれない。試みにモートル・ボートで、毛馬の閘門から、安治川へ下り、天保山、築港をみて、木津川口から遡つて、土佐堀邊まで來ると、その概況を知ることは可能である。左右に大厦高樓を眺めてボートを走らすかと思へば、傍に白波を蹴立てゝ通るランチがある。また荷物を滿載して悠々と上下する團平船がある。あはや衝突せんとして、急に舵を操り直し、舷々相摩して過ぎ去る船もある。かく數多の船が輻輳する模樣は、恰も雜踏した群集の間を往來するが如く、安治川や木津川においては頗る混亂した行動をとらねばならない。しかして沿岸には倉庫が軒を並べ、市場、諸工場などあつて、まゝ原始的住家と思はるゝぼろ家もある。そこには洗濯した襤褸を、臆面なく風にぴらつかせてある。實際目前にちらつく千差萬別の景色は、應接に遑がない。その間にちよつと注目すべき所は、荷物の積み下しである。團平船の集團は、潮汐の工合で、互に接觸して毀損する虞があるから、自動車の古いタイヤを幾つとなく、舷側にぶら下げて、接觸を緩和してゐる。この廢物利用の思ひつきは、他所では見當らないが、大阪の船頭さんは、頓智をきかせてゐるところに、觀察の價値がある。築港には一萬噸餘りの船はまだ見えない。運河と港とは互ひに聯絡してゐるから荷物は直に荷船に下して、需要所で揚陸する便がある。かくして運賃は低廉になる點において、運河の妙を實現してゐる。從つて棧橋は乘客用に供せられて、荷物の揚陸に利用することは歐米大陸にある築港と違ふやうに一見した。かく無雜作に荷が動けば、神戸港も大阪で集散する物資には使用せられなくなるから、孤城落日の感あるかと推察せらるゝ。大阪の水利は考ふるより以上に經濟的價値を保有してゐる。
 大阪市の計畫が着々圖に當り、商工業が近年著るしく發展したからには、何か太閤常勝軍の標幟となつた千生り瓢箪のモツトーがほしいものだと誰も考へる。しかし今日は刀槍で爭ふ時代を過ぎ去つて、平和の戰爭が不斷行はれてゐる。實際大阪で製造し、また輸出した商品は、東洋のマーケットに限らず、遠く南北アメリカまでも廣がり、歐洲は申すに及ばず、南洋、印度、ペルシア、支那、滿洲、シベリアまで普及し、地球全體を股にかけて蔓をのばし、豪勢なものである。このやうにして大阪商人の向ふところは商敵少き有樣になりつゝある。これが平和戰の千生り瓢箪に相當するものである。一瓢一を加へ百かつ千、千瓢向ふところ商敵なし、叱咤たちまち握る世界の權といひ度い。やがてミダスの神が觸るものはすべて黄金化したやうに、黄金入りの千生り瓢箪は、市の到るところにぶらさがつてゐる時代が來ることを豫測される。
 然らば金倉を築くが大阪人の本能であるかといふに、決してさうではない。清代の碩學兪曲園は、日本人の作つた漢詩を評して、堺と池田に流寓してゐた廣瀬旭莊をもつて東國詩人の冠となした。その詩中に百濟の王仁の墓を詠じた一首がある。王仁は論語と千字文を傳へ、我邦に漢學の種を蒔いた先驅者である。その墓は北河内郡菅原村にあることをこの間突き止めた。その教へた所も餘り遠くはないから、大阪は漢學の發祥地である。維新前の學問は多く漢學に頼つたが、變則に反り點を付けて讀んでゐたから、漢學者の作つた詩文は、へんてこな文辭を綴つたものではあるまいか、こゝに漢學者の批評をすることは御免蒙る。徳川時代になつて、日本文學史に異彩を放つた近松門左衞門は大阪に住んでゐた。漢學の餘弊を離脱してその該博な知識をもつて、流暢明快に五花八陳の美文を劇壇に供へた。この日本のシェークスピアーは前に古人なく後に來者なき作者であつて、大阪の否、日本の誇りとすべき文壇の巨擘である。
 科學者の立場から論ずれば、徳川時代に最も獨創的見地から研究した大阪の學者では、麻田剛立を第一に推さねばならぬ。彼が豐後から大阪に出で、天文研究に盡瘁した成績は文書缺損して判然しない。しかしその惑星運行の觀測は遂にケプレル法則に到達した。ケプレルがチヨブラヘの結果を利用して、法則を編み出したとは、艱苦の點において大差がある。しかもその門弟高橋至時(純大阪市民)間重富が、寛政改暦を實行し、至時は遂に子午線弧の測定に※[#「執/れっか」、382-3]中するに至つた筋道を考ふれば、その核心は矢張り麻田の教訓に基づいたことを推斷せしむる。至時はその後方針を轉化して伊能忠敬の日本全國測量の參畫者となり、百餘年前にこの大事業を完成せしむるに至つた。その過程を吟味すれば、至時もまた非凡な天文學者であつたに違ひない。至時の子景保は父の事業を襲ぎ、天文學に精通してゐたが、また盛んに韃靼語を研究し、徳川時代の斯道の最高權威である。一世紀前に蒙古まで皇國の勢力範圍に入れんとした卓見家は、實に大阪に生れた快男兒である。しかしその名は大阪人に餘り傳へられてゐない。ほんまに燈臺下暗しでおまへんかといひ度い。
 この外河村瑞賢の安治川の河身改修、安井道頓の運河開鑿等、工學上の業績も輕視してはならぬ。また緒方洪庵が教育家として辣腕を揮ひ、福澤諭吉、橋本佐内らを出したことは、周知のことである。要するに大阪市は學者の志望を達成せしむる、特殊の魅力に横溢してゐた。學者もまた經史の註釋に沒頭するやうな、腐れ儒者のなすことに甘んぜず、獨創的見地から活きた學問を啓發するに心血を注いでゐた。これ恐らく大阪の土地柄から來た反映であらう。
 大阪が日本の金穴であることは明白であるが、その蓄積する基礎は、確固として動かすべからざるものか、多少の疑ひを存した。天王寺の多聞天が、福徳を全市に蒔き散らしてゐると信ずる人もあらうが、これは單に迷想に過ぎない。その安置された殿堂は、一度地震で倒壞したではないか。地盤が確かりしてゐなければ、どんな事業でもぐらつき出す。現代の如き、轉變極まりなき時世には、基礎から固めて進まねば駄目である。先年最高學府を市に設くるに當り、市民が一齊に共鳴して、商工業の基礎となるべき科學と、その應用である工學を隆盛ならしむる趣旨を表明されたのは、大阪市の將來に大なる確實性を與へた。在來の如き模倣的投機的精神にのみ力を注ぎ、市を安固ならしむる考へでは、時代後れの感があつたけれども、いまその憂は除かれた。ひたすら愛國、努力、更新等の見地から進めば、大阪は日本の智能金嚢である本性を、ます/\中外に發揮する運命を永く享有すると予は深く信ずる。天長地久、大阪市に幸あれかし。
(昭和八年(1933)一月「大阪朝日新聞」所載)

底本:「隨筆」改造社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「大阪朝日新聞」大阪朝日新聞社
   1933(昭和8)年1月3日
※冒頭に記載されていた「(昭和八年(1933)一月「大阪朝日新聞」所載)」は、ファイル末に移しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※疑わしい箇所の訂正に際しては、初出を参照しました。
入力:小林徹
校正:kamille
2006年9月18日作成
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