本書はデイヴィド・リカアドウ David Ricardo の主著『経済学及び課税の諸原理』"Principles of Political Economy and Taxation." の全訳である。
リカアドウはユダヤ系の英国人である。彼は、一七七三年、富裕な株式仲買人エイブラハム・リカアドウの第三子として生まれ、幼少にして実際的教育をうけた後、勉学のためアムステルダムに送られ二年の後帰英し、ロンドンで一年間学校教育をうけて、齢わずかに十四才にして父を援けて実業界に入った。二十一才の時クエイカア教徒の女と結婚し、自らもクリスト教徒に改宗したために、父との間は不和になり、ために彼は父から独立して、一時苦難の時を送ったが、まもなく彼も物質的成功を得ることが出来た。そしてこのことは彼に勉学の余裕を与えることとなった。勉学の対象は初めは自然科学に限られていたが、たまたま妻の病中、バアスにおいて巡囘文庫中のアダム・スミスの『諸国民の富』を見るに及んで、ここに経済学に対する興味を覚えることとなったのである。
かくて彼れの富が次第に増加し、実業界における彼れの地位がますます重きをなすに至るとともに、また彼れの経済学研究が進むにつれ、彼はまず通貨及び銀行に関する諸論文をもって論壇に登場し、次いでナポレオン戦争にともなう穀物関税に関する論争には一八一五年に『低い穀物価格』を書いて参加し、穀物保護貿易論者たるマルサスの所見を痛烈に批判した。一八一七年の『経済学及び課税の諸原理』の第一版は、以上の諸論の総決算たるものである。
一八一九年には彼はポオトアーリントンから代議士に選出された。それ以後彼れの諸論文は主として彼れの議会生活と関係あるものであるが、一八二二年の『農業保護について』だけは他と趣を異にし、彼に他の一切の著作なくともこれのみにても彼は一流の経済学者たり得るとマカロックが評したほどの、傑出した独立論文である。
リカアドウは、一言もっていうならば、古典派経済学の完成者である。古典派経済学は、ブルジョア的埒内において最高の発展をとげた経済学であり、ウィリアム・ペティ及びボアギュイベールにはじまって、リカアドウ及びシスモンディをもって終るものである。この派の経済学は二つの段階を経て発展している。すなわちその前期はマニュファクチュア期のそれであり、その後期は機械工場制期のそれであって前者を代表するものがアダム・スミスであり、後者を代表するものがリカアドウである。かくの如くにリカアドウは、古典派経済学の最後の最高の総括的発展者であるため、この派経済学の根本的基礎理論たる労働価値論は、彼においてそのブルジョア的埒内において許される限りの発展をしたのであるが、同時にまたブルジョア的生産の矛盾はこの学派の固有の歴史的限界に制限されて、生産方法そのものの矛盾としてではなく、理論的構造内部における解決しがたい矛盾として顕現していることが、彼れの体系にとって特徴的となっている。このことは、例えば本書巻頭における労働価値論における平均利潤の問題――またはいわゆる価値と生産価格との矛盾の問題――に最もよく露呈している。しかもそれにかかわらず、彼がこの問題を黙殺して進まずこれが解決に正面から取組んだこと、更にまた本書の第三版に至って改めて『機械について』の諸問題を真剣に取りあげたことは、その歴史的限界性にもかかわらず、彼れの偉大さをよく物語るものといわなければならない。彼れの全理論が後にマルクスによって最も正しい意味において発展的に止揚されたことは、人のよく知るところである。
本訳書は、底本をその第三版にとり、更にゴナア教授の傍註をもたぶんにとり入れ、その上にかなりの訳者註を加えて、出来上ったものである。私はかつて昭和七年に本書を同じく春秋社から出版したことがある。当時すでに本書については、堀經夫博士及び小泉信三博士による二種の訳本が行われていた。前者は正確、後者は流暢、いずれも好個の訳本である。それにもかかわらず私が当時本書を更に訳出したのは、それが『世界大思想全集』の一巻として包含されており、従って先覚二著の学者的訳書に比して学生用として普及の機会が多かろうと考えたからである。従って飜訳の態度は、どこまでも学生用参考書を作るということを第一義とした。今度再建春秋社が改めて古典経済書の一つとして本書の出版を企図されたについて、私はやはり学生用参考書としての本書の必要を感じ、同じく学生大衆用普及版を作る目的をもって、改めて全巻に亙って厳密に改訳の筆をとると共に、また戦後の傾向として用語の現代化をはかることとした。その結果意外の労を払わなければならなかったが、かくしてとにかく出来上ったのが本書である。
かくて本書は普及を中心とする大衆版であるが、さればといって本書は過度の読み易さを追求すべき性質の内容のものではない。もともと内容は経済学の理論であるから読物的な軽さを欠いているのであるが、これに加えてリカアドウは決していわゆる名文家ではない。この意味では彼は論敵マルサスの闊達な文調にまさに百歩を譲るものである。時に彼は英語にそれほど練達ではなかったとさえ評されているくらいである。更に、こうした理由よりもよりいっそう、訳者の不敏にして、本書はなお大衆的普及版としては排除すべき生硬さが多々あることと思われる。これらの点は、読者諸賢の叱正を得て、適当な機会に訂正をしたいと思う。
なお本書のなるについて春秋社の瀬藤及び鷲尾の両氏、ならびに高橋君の配慮と助力とを得たこと多大なるものがある。記して感謝の語としたい。
一九四八年二月
原著者序言
土地の生産物――すなわち地表から、労働、機械、及び資本の結合使用によって、得られるすべてのものは、社会の三階級の間に、すなわち土地の所有者、その耕作に必要な蓄財すなわち資本の所有者、及びその勤労によってこれを耕作する労働者の間に、分たれる。
しかし、社会の異なる諸階級においては、地代、利潤、及び労賃の名の下に、これらの諸階級の各々に割当てられるであろう所の土地の全生産物の比例は、全く異るであろうが、それは主として、土壌の現実の肥沃度に、資本の蓄積や人口に、そして農業において用いられる熟練や創意や器具に、依存するのである。
この分配を左右する諸法則を決定することが、経済学における主要問題である。この科学は、テュルゴオ、スチュワアト、スミス、セイ、シスモンディ、及び他の人々の著作によって、大いに進歩してはきているけれども、それらは、地代、利潤、及び労賃の自然的径路に関する満足なる叙述は、ほとんど与えていないのである。
一八一五年に、マルサス氏は、その『地代の性質及び増進に関する研究』において、またオクスフォド・ユニヴァシティ・カレヂ一校友は、その『土地への資本投下に関する試論』において、ほとんど同時に、地代に関する真実の学説を世に提供したが、この知識なくしては、富の増進が利潤及び労賃に及ぼす結果を理解し、または租税が社会の種々なる階級に及ぼす影響を十分に追究することは、不可能である。それは、課税された貨物が、地表から直接に得られた生産物である場合には、特にそうである。アダム・スミス、その他前述の有能な学者は、地代に関する諸原理を正しく観察しなかったため、思うに、地代の問題が徹底的に理解された後においてのみ発見され得る所の、多くの重要な真理を、看過してしまったようである。
この欠陥を補うには、本著者の有するよりも遥かに優れた諸能力が必要である。しかしながら、この問題に対しその全力を費した後に、――上記の優れた諸学者の著作から援助を得て後に、――そして、豊富な事実を有つ最近の数年が現代人に与えた価値多き経験を得て後に、利潤及び労賃の諸法則、並びに租税の作用に関する、著者の意見を述べることは、思うに彼において僣越であるとは考えられないであろう。もし著者が正しいと考える諸原理が、事実正しいものであることが見出されるならば、それを追究してあらゆるその重要な帰結を明かならしめることは、著者自身よりもより有能な他の人々のなすべきことであろう。
著者は、一般に受容されている所見を反駁するに当って、著者がその理由あって所見を異にする所のアダム・スミスの著書中の章句により詳細に論及するの必要なることを、見出した。しかし著者は、その故をもって、経済学なる科学の重要なるを認めるすべての人と共通に、この有名な学者の深遠な著作が正当に喚起する賞讃に参与するものではない、と疑われないであろうことを、希望する。
同じことが、セイ氏の優秀な著作に当てはめ得ようが、彼は啻に、大陸の諸学者中で、スミスの諸原理を正当に評価しかつこれを適用した最初の人、または最初の人々の一人であり、かつその啓蒙的にして有益な体系の諸原理を、ヨオロッパ諸国民に推奨するに、他の大陸の諸学者を全部合せたよりもなす所多かったのみならず、更にまたこの学問をより論理的なかつより教導的な順序に置くことに成功し、そして、独創的な正確なかつ深遠な二三の討論によって、斯学を富ましめたのである(註)。しかしながら、著者がこの紳士の著作に対して懐く尊敬は、著者が学問の利益のために必要であると考える自由をもって、著者自身の見解と異る所の『経済学』中の諸章句に対し批評を加えることを妨げなかったのである。
本版においては、私は前版におけるよりも、価値に関する困難な題目についての私の所見を、いっそう十分に説明せんと努力し、そしてその目的のために、第一章に二三の附加をなした。私はまた、機械の問題につき、またその改良が国家の各種の階級の利害に及ぼす諸結果についての、新しい一章を挿入した。価値と富との特性に関する章においては、私はこの重大な問題に関するセイ氏の学説――その著書の最終第四版において修正されたもの――を検討した。最終の章において私は、その農法の改良により、国内においてその穀物を生産するに必要な労働量が減少するか、または、その製造貨物の輸出により、外国からより低廉な価格でその穀物の一部分を取得するかの結果として、たとえその貨物総量の全貨幣価値は下落するとしても、一国は附加的貨幣租税を支払う能力があるという学説をいっそう有力なる見地からして、打ち立てようと努力した。この考察は極めて重要であるが、それはけだしこの考察は、特に、莫大な国債の結果たる、重い固定貨幣租税を負担している国において、外国穀物の輸入を無制限のままに放置する政策の問題に、関係するからである。私は、租税支払能力は、大量の貨物の総貨幣価値にも、また資本家及び地主の収入の総貨幣価値にも、依存するものではなくして、各人が通常消費する貨物の貨幣価値と比較しての彼れの収入の貨幣価値に依存するものであることを、示さんと努めたのである。
一八二一年三月二十六日
[#改ページ]
目次
訳序
原著者序言
第三版に対する原著者の注意
第一章 価値について
第一章 価値について
(三)効用を有つならば、諸貨物は、次の二つの源泉からその交換価値を得る、すなわちその稀少性からと、それを獲得するに必要な労働の分量からとである。
(四)その価値がその稀少性のみによって決定される若干の貨物がある。いかなる労働もかかる財貨の分量を増加することを得ず、従ってその価値は供給の増加によって低下せしめられ得ない。珍しいある彫像や絵画、稀少な書籍や貨幣、極めて狭い範囲の、特別な土壌で栽培される葡萄からのみ造られ得るに過ぎない、特殊な性質を有つ葡萄酒の如きは、すべてこの種のものである。それらのものの価値は、それを生産するに最初必要とした労働の分量とは全く無関係であり、そしてそれを所有せんと欲する者の富と嗜好との変化するにつれて変化するのである。
しかしながらこれらの貨物は、市場において日々交換される貨物の総量の中、極めて小なる部分をなすにすぎない。欲望の対象物たる財貨の遥かに最大の部分は、労働によって得られるのであり、そして、もし吾々が、それを獲得するに必要な労働を投ずる気になりさえするならば、啻に一国においてのみならず更にまた多くの国において、ほとんど限りなく増加せられ得よう。
(五)しからば、貨物について、その交換価値について、かつその相対価格を左右する所の法則について、語る際には、吾々は常に、人間の勤労の発揮によって分量を増加することが出来、かつその生産には競争が制限なく働く如き貨物のみを意味するのである。
(六)社会の初期においては、これらの貨物の交換価値、すなわち一貨物のどれだけが他の貨物と交換せられるであろうかを決定する規則は、ほとんど全く、各貨物に費された比較的労働量に依存するのである。
アダム・スミスは曰く、『あらゆる物の真実価格、すなわちあらゆる物がそれを獲得せんと欲する者に真に値するのは、それを獲得するの骨折と煩苦とである。あらゆる物が、それを獲得し、かつそれを処分せんと、すなわちそれを他の何物かと交換せんと欲している者に、真に値する所は、それが彼自身をしてこれから免れしめることが出来、かつこれを他人に課することが出来る所の、骨折と煩苦とである。』(訳者註)『労働は、すべてのものに対して支払われた所の、最初の価格――本来的の購買貨幣であった。』(訳者註)また曰く、『資本の蓄積及び土地の占有の両者に先だつ所の、社会初期の未開状態においては、種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることの出来る唯一の事情であるように思われる。例えば、もし狩猟民族の間で通例一匹の海狸を殺すには、一匹の鹿を殺す労働の二倍を要するとすれば、一匹の海狸は当然に二匹の鹿と交換せらるべきであり、換言すれば、二匹に等しい価がある。通例二日の、または二時間の労働の生産物たるものは、通例一日の、または一時間の労働の生産物たるものの二倍に価する、というのは当然である。』(註)
もし、貨物に実現された労働の分量が、その交換価値を左右するとするならば、労働の分量のあらゆる増加は、それに労働が加えられる貨物の価値を増加せしめなければならず、またそのあらゆる減少はそれを下落せしめなければならない。
(七)かくも正確に交換価値の源泉を定義し、そして論理を一貫させるためには、すべての物はその生産に投ぜられた労働の多いか少いかに比例してその価値が多くなるか少くなると主張すべきであったアダム・スミスは、彼自身もう一つの価値の標準尺度を立て、そして物は、この標準尺度の多くまたは少くと交換されるに比例して、価値が多くまたは少いと言っている。時に彼は標準尺度として穀物を挙げ、また他の時には労働を挙げている。そしてここに労働というのは、ある物の生産に投ぜられた労働の分量ではなくて、市場においてそれが支配し得る労働の分量なのである。すなわちこれらは同一事の異る二つの表現であるかの如くに、そして、人の労働の能率が二倍になり、従って一貨物の二倍の分量を生産し得るの故をもって、必然的にそれと交換して以前の分量の二倍を受取るであろう、というように言っている。
もしこれが実際真実であり、すなわちもし労働者の報酬が常に彼の生産した所に比例するならば、一貨物に投ぜられた労働の分量と、その貨物が購買する労働の分量とは等しく、そしてそのいずれも他の物の変動を正確に測るであろう、しかしこの両者は等しくない、前者は多くの事情の下において、他の物の変動を正確に示す不変の尺度であるが、後者はそれと比較される貨物と同じく多くの変動を被るものである。アダム・スミスは最も巧妙に、他の物の価値の変動を決定するためには、金や銀の如き可変的媒介物が不十分なことを、示した後に、彼自身穀物または労働に定めることによって、それらにも劣らず可変的な媒介物を選んだのである。
(八)金や銀は、疑いもなく、新しいかつより豊富な鉱山の発見によって変動を被る。しかし、かかる発見は稀であり、かつその結果は、有力ではあるが、比較的短い期間に限られている。それもまた、鉱山採掘の熟練及び機械の進歩からも変動を被るが、それはけだしかかる進歩の結果、同一労働でより多くの分量が得られるであろうからである。それはまた更にそれが長年の間世界に供給をなした後に、鉱山の生産額が減少しつつあるということからも変動を被る。しかしこれらの変動の諸原因中のいずれから穀物は免れているであろうか? 一方において、それは農業の進歩により、耕作に使用される機械器具の進歩により、並びに、他国において耕作せらるべく、かつ輸入の自由なすべての市場における穀物の価値に影響を及ぼすべき所の肥沃な新地の発見によって、変動しないであろうか? 他方において、それは輸入禁止により、人口と富との増加により、及び劣等地の耕作が必要とする労働量増加によっての供給増加の困難の増大によって、価値の騰貴を被らないであろうか?
(九)労働の価値も等しく可変的ではないか、啻に他のすべての物と同じく、社会の状態のあらゆる変化につれて必ず変動する所の、需要と供給との間の比例によって影響を受けるばかりでなく、更にまた労働の労賃がそれに費される所の、食物その他の必要品の価格の変動によって、影響を受けて?
同一国において、ある時に、食物及び必要品の一定量を生産するために、他の離れた時に必要なそれの二倍の労働量が必要とされるかもしれない、しかも労働者の報酬は、おそらくほとんど減少しないであろう。もし以前の労働の労賃が食物及び必要品の一定量であるとすれば、彼はおそらくその分量が減少されたならば、生存し得なかったであろう。食物及び必要品はこの場合、その生産に必要な労働の分量によって評価するならば、一〇〇%騰貴しているはずであるが、しかるにこれらの物と交換される労働の分量によって測るならば、それはほとんど価値が増加していないはずである。
同じことが二つ以上の国についても言い得よう。アメリカやポウランドにおいては、最後に耕作された土地において、一定数の人間の一年の労働は、英国において同じ事情の下に在る土地におけるよりも、遥かにより多くの穀物を生産するであろう。さて、すべての他の必要品が、それらの三国において同様に低廉であると想像するならば、労働者に報酬として与えられる穀物の分量は、各国において生産の難易に比例するであろうと結論するのは、大なる誤りではないであろうか?
もし労働者の靴や衣服が、機械の進歩によって、今日その生産に必要な労働の四分の一で生産され得るに至るならば、それはおそらく七五%下落するであろう。しかし、労働者がそれによって、一着または一足の代りに永久に四着の上衣または四足の靴を消費し得るに至るであろう、ということは決して真実でないから、おそらく、彼の労働は近いうちに、競争の及び人口に対する刺戟の結果によって、その労賃の費される必要品の新価値に適合せしめられるであろう。もしかかる改良が労働者の消費するすべての物にまで及ぶならば、吾々は、それらの貨物の交換価値が、その製造においてかかる改良が行われなかったあらゆる他の貨物に比較して、極めて著しい低落を受けたにもかかわらず、またそれが極めて著しく減少した労働量の生産物であるにもかかわらず、おそらく数年ならずして労働者は、たとえ増加したとしてもわずかしか増加しなかった享楽品を所有しているに過ぎないことを、見出すであろう。
(一〇)しからばアダム・[#「・」は底本では欠落]スミスと共に、『労働は時により多くの、また時により少い財貨を、購買し得るであろうから、変化するのは財貨の価値であり、財貨を購買する所の労働の価値ではない、』(訳者註)したがって『それのみがそれ自身の価値において決して変化しないものである所の労働が、それによってすべての貨物の価値が、すべての時及び処において評価されかつ比較され得る所の、窮極のかつ真実の標準である。』(訳者註)と言うのは、正しくない、――しかし、アダム・スミスが前に言った如くに、『種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることが出来る唯一の事情であるように思われる、』換言すれば、貨物の現在または過去の相対価値を決定するものは、労働が生産するであろう所の貨物の比較的分量であって、労働者にその労働と交換して与えられる貨物の比較的分量でないと言うのは、正しいのである。
もし私が、一オンスの金が、上掲のすべての貨物及びその他の多くの貨物のより少い分量と交換されることを見出し、更にもし私が、新しいより肥沃な鉱山の発見により、または機械の極めて有利な使用によって、一定量の金がより少い労働量によって獲得され得ることを、見出すならば、他の貨物に比較して金の価値の変動の原因は、その生産がより便利となったこと、すなわちそれを獲得するに必要な労働の分量の減少である、と正当に言い得るはずである。同様に、もし労働があらゆる他の物に比較して価値において大いに下落し、そしてもしその下落が、労働者の穀物及びその他の必要品の生産が大いに便利になったことによって助勢された豊富な供給の結果であることを見出すならば、思うに私が、穀物及び必要品はその生産に必要な労働の分量が減少した結果価値において下落したのであり、かつかくの如く労働者を養うための資料の供給が容易になったことが、続いて労働の価値における下落を伴ったのであると言うのは、私としては正確であろう。否、とアダム・スミスやマルサス氏は言う、金の場合にはその変動をその価値の下落と呼ぶのは正当であったろう、けだしこの際穀物及び労働は変動しなかったからである。そして金は、これらのもの並びにすべての他の物の以前よりもより少い分量を支配するであろうから、すべての物は静止しており、金のみが変動したというのも正しかった。しかし吾々が価値の標準尺度たるものとして選んだ所の穀物及び労働が下落した時は、それらが蒙ることを吾々が認める所のすべての変動にもかかわらず、かくの如く言うのは極めて不当である。正しい言葉としては、穀物及び労働は静止しており、そして他のすべてのものは価値において騰貴したと、言うべきであろう、と。
さて、私が抗議するのはこの言葉に対してである。金の場合におけるが如く、穀物と他の物との間の変動の原因は、正しく、穀物を生産するに必要な労働の分量の減少であることを、私は発見する、従ってあらゆる正当な推理によって、私は、穀物及び労働の変動をもってそれらの価値における下落と呼び、そしてそれらが比較される物の価値における騰貴ではないと言わざるを得ない。もし私が一週間の間、一人の労働者を雇わねばならず、そして私が彼に十シリングではなく八シリング支払うとしても、貨幣の価値に何らの変動も起らなければ、この労働はおそらくその八シリングをもって彼が前に十シリングで得たよりもより多くの食物及び必要品を獲得し得よう。しかしこれは、アダム・スミスによって述べられ、更に近くはマルサス氏によって述べられた如く、彼れの労賃の真実価値における騰貴によるものではなく、彼れの労賃が費される物の価値における下落によるのであり、この二つは全く異なるのである。しかもなお私がこれをもって労賃の真実価値の下落と呼ぶのに対し、経済学の真実の原理と相容れない所の新しいかつ異常の言葉を用いるものといわれている。私にとっては異常なそして実に矛盾した言葉とは、私の反対論者によって使用されているものこそそれであるように思われる。
穀物が一クヲタア八〇シリングの時、一労働者が一週間の仕事に対し穀物一ブッシェルの支払を受け、かつ価格が四〇シリングに下落した時、彼が一ブッシェル四分の一の支払を受けるとせよ。更に、彼は、彼自身の家庭内において一週間に半ブッシェルの穀物を消費し、その残りを、燃料、石鹸、蝋燭、茶、砂糖、塩、等々のごとき他の物と交換するとせよ。もし後の場合に彼れの手許に残るべき四分の三ブッシェルが、前の場合に半ブッシェルが彼に齎したと同じだけの上記の貨物を齎し得なければ、――それは実際齎さないであろうが――労働は価値において騰貴したのであろうか、または下落したのであろうか? 騰貴した、とアダム・スミスは言わなければならぬ、けだし彼れの標準は穀物であり、そして労働は一週間の労働に対してより多くの穀物を受取るからである。下落した、とこの同じアダム・スミスは言わなければならぬ、『けだし一物の価値は、その物の所有が齎す所の、他の財貨を購買する力に依存し、』そして労働はかかる他の財貨を購買するよりわずかな力しか有っていないからである。
もし今毛織布一片がリンネル二片の価値に等しく、そしてもし十年後に毛織布一片の通常の価値がリンネル四片に等しくなるとするならば、吾々は毛織布を作るにより多くの労働が必要であるか、またはリンネルを作るに労働がより少くて足るか、または両方の原因が作用した、のいずれかである、と安全に結論し得るであろう。
私が読者の注意をひこうと欲する研究は、貨物の相対価値における変動の結果に関するものであって、その絶対価値におけるそれに関するものではないから、種々なる種類の人間労働の評価されるその比較的程度を検討することはさして重要ではないであろう。吾々は、種々なる種類の労働の間に本来いかなる不平等があろうと、またある種の手先の技術を習得するに必要な才能、熟練、または時間が、他の種のもの以上にどれだけであろうと、それは一時代より次の時代に引続きほとんど同様であるか、または少くともその変動は、年々に亙って、極めて小なるものであり、従って短期間内では、貨物の相対価値に対しほとんど影響を及ぼし得ないものであると、正当に結論し得るであろう。『労働及び資本の種々なる用途における労賃及び利潤の両者の種々なる率の比例は、既に述べた如くに、社会の貧富、社会の進歩的、停止的、または退歩的状態によって、多くの影響を蒙るものではないように思われる。公共の福祉のかかる変革は、労賃及び利潤の両者の一般率には影響を及ぼすけれども、結局はすべての異れる職業において両者の率に一様に影響しなければならない。従ってそれらの間の比例は引続き同一でなければならず、そして少くともあるかなりの長期間に亙ってかかる変革によってよく変更され得ないものである。』(註)
(註)『諸国民の富』第一篇、第十章(キャナン版、一四四頁――訳者註)
海狸を殺すに必要な武器は、それに近づくことが鹿に近づくよりもより困難であり、従って標準がより正確であることが必要であるために、鹿を殺すに必要な武器よりも遥かにより多くの労働をもって作られたと仮定せよ。一匹の海狸は当然に二頭の鹿よりも価値がより多いであろう。そしてそれはまさに全体としてより以上の労働がそれを殺すために必要であるという理由の故である。または両方の武器を作るに同一の分量の労働が必要であるが、しかし両者は非常に耐久力が異ると仮定せよ。耐久的な器具からはその価値のわずか一小部分が貨物に移転されるであろうが、より耐久的ならざる器具からは、それがその生産に寄与する所の貨物に、その価値の遥かにより大なる一部分が実現されるであろう。
海狸及び鹿を殺すに必要なすべての器具は一階級の人々に属し、そしてそれを殺すために用いられる労働は他の階級によって提供されることもあろう。しかも両者の比較価格は、資本の形成と動物の捕殺との両者に投ぜられた現実の労働に比例するであろう。資本が労働に比して豊富でありまたは稀少であるという、事情の異る場合においては、人間の生活に欠くべからざる食物及び必要品が豊富でありまたは稀少であるという事情の異れる場合においては、同一の価値の資本を一つのまたは他の事業に提供した者は、取得された生産物の半分、四分の一、または八分の一を得、残りは労賃として労働を提供した者に支払われるであろう、しかしこの分割は、これらの貨物の相対価値には少しも影響を及ぼし得ないであろうが、それはけだし資本の利潤が多かろうと少かろうと、それが五〇%であろうと、二〇%であろうと、一〇%であろうと、または労働の労賃が高かろうと低かろうと、これらは両方の事業に一様に作用するであろうからである。
(一五)もし吾々が、社会の職業の範囲が拡張し、ある者は漁撈に必要な独木舟及び船具を作り、また他の者は種子及び始めて農業に用いられる粗末な機械を作ると仮定しても、しかもなお生産された貨物の交換価値は、その生産に――啻にその直接の生産にばかりではなく、更に器具または機械がそれに用いられる特定労働を有効ならしめるに必要なすべての器具または機械の生産に――投ぜられた労働に比例するであろう、という同一の原理は依然真実であろう。
たとえ吾々が、より以上の進歩がなされ、かつ技術と商業の繁栄せる社会状態を見ても、吾々はなお、貨物がこの原理に従って価値において変動するのを見出すであろう。すなわち例えば、靴下の交換価値を測るに当って、吾々は、他の物と比較してのその価値が、それを製造しかつそれを市場に齎すに必要な全労働量に依存することを見出すであろう。第一に、原棉が栽培される土地の耕作に必要な労働がある。第二に、靴下が製造されるべき国に綿を運搬する労働があるが、それは綿を運搬する船舶の建造に投ぜられた労働の一部分を含み、そしてそれはこの財の運賃に算入されている。第三に、紡績工及び機械工の労働がある。第四に、その生産を助ける建物及び機械を作った所の機械工、鍛冶屋、及び大工の労働の一部分がある。第五に、小売商人その他これ以上特記する必要のない多くの者の労働がある。これら種々なる種類の労働の総額が、これらの靴下と交換せらるべき他の物の分量を決定するのである。他方投ぜられた種々なる分量の労働に関する同一の考察が、同様に、靴下に対し与えらるべきそれらのものの分量を支配するであろう。
これが交換価値の真の基礎であることを確信するために、製造された靴下が他の物と交換されるために市場に来るまでに、原棉が通過しなければならぬ種々なる行程のいずれか一つにおいて、労働を節約する手段中においてある改良がなされたと仮定し、そしてそれに随伴する諸結果を観察しよう。もし原棉を栽培するに必要な人間が減少するか、または航海に従事する船員、または原棉をわが国に運搬する船舶を建造する造船工が減少するならば、またもし建物及び機械を作るに人手が減少するか、またはそれが作られた時に能率を増加せしめられたならば、靴下は必然的に価値において下落し、従ってより少量の他の物を支配するであろう。それが下落するのは、けだしより少量の労働がその生産に必要であり、従ってかかる労働の節約のなされなかった物のより少い分量と交換されるからである。
労働の使用を節約すれば、その節約が貨物そのものの製造に必要な労働で行われようと、またはその生産を援助する資本の形成に必要な労働で行われようと、必ず貨物の相対価値は下落する。いずれの場合においても靴下の製造に直接必要な人々たる漂白工、紡績工及び機械工として用いられる者が減少したにしろ、またはより間接に関係している人々たる船員、運搬夫、機械工、及び鍛冶工として用いられるものが減少したにしろ、靴下の価格は下落するであろう。一方の場合には一部分のみに靴下が帰属し、残りはその生産のために建物、機械、及び車輛が役立つ所の、すべての他の貨物に帰するであろう。
社会の初期の段階において、狩猟者の弓及び矢と漁夫の独木舟及び器具は共に同一の分量の労働の生産物であって、等しい価値を有ち等しい耐久力を有つものと仮定せよ。かかる事情の下においては、狩猟者の一日の労働の生産物たる鹿の価値は、漁夫の一日の労働の生産物たる魚の価値と、正確に等しいであろう。魚と獣との比較価値は、生産物の量がどれだけであろうと、または一般的労賃または利潤が高かろうと低かろうと、全然その各々に実現された労働の分量によって左右されるのである。もし例えば、漁夫の独木舟及び器具は一〇〇磅の価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼は十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇磅であり、また彼らは一日にその労働によって二十匹の鮭を得るとすれば、またもし狩猟家が使用する武器もまた一〇〇磅の価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼もまた十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇磅であり、また彼らは一日に彼に十頭の鹿を獲得するとすれば、一頭の鹿の自然価格は、全生産物がそれを獲得した人々に与えられる比例は大であろうと小であろうと、それには関係なく、二匹の鮭であろう。労賃として支払われる比例は利潤の問題においては最も重要なものである、けだし労賃が低いか高いかに比例して、利潤は高くまたは低いであろうということは、直ちに判るべきことであるからである。しかし労賃は同時に高くも低くもあるであろうから、それは決して魚及び獣の相対価値に影響を及ぼし得ないであろう。もし狩猟者が労賃として、彼れの獲物の大部分をまたはその大部分の価値[#「価値」は底本では「値値」]を、支払うという口実をもって、彼れの獲物と交換してより多くの魚を与えるように漁夫に誘うならば、漁夫は、彼も等しく同一の原因によって影響を蒙ったと述べるであろう。従って労賃及び利潤の変動がどうあろうと、資本蓄積の結果がどうあろうと、彼ら各々一日の労働によって同一量の魚と同一量の獣を捕獲し続けている限り、自然的交換率は、鹿一頭対鮭二匹である。
もし同一量の労働をもってより少い分量の魚またはより多い分量の獣が捕獲されるならば、魚の価値は獣のそれに比較して騰貴するであろう。もし反対に、同一量の労働をもってより少い分量の獣またはより多い分量の魚が捕獲されるならば、獣は魚に比較して騰貴するであろう。
(一六)もしその価値が不変なある他の貨物があるとするならば、吾々は、魚及び獣の価値をこの貨物と比較することによって、この変動のうちどれだけが魚の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべく、またそのうちどれだけが獣の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべきかを、確かめ得るであろう。
貨幣がかかる貨物であると仮定しよう。もし一匹の鮭が一磅に値し、一頭の鹿が二磅に値するならば、一頭の鹿は二匹の鮭に値するであろう。しかし鹿を捕獲するにより多くの労働が必要になり、または鮭を得るにより少い労働が必要になり、あるいはまたこれらの原因が同時に作用したために、一頭の鹿が三匹の鮭の価値を有つようになることもあろう。もし吾々がこの不変的標準を有つならば、吾々は容易に、これの諸原因のいずれがいかなる程度に作用したかを確め得るであろう。もし鹿が三磅に騰貴したのに鮭が引続き一磅で売れるならば、吾々は、鹿を捕獲するのにより多くの労働が必要になったのである、と結論し得よう。もし鹿は二磅という同一の価格を続け、そして鮭は十三シリング四ペンスで売れたならば、吾々は、鮭を得るのにより少い労働で足るものと確信し得よう。またもし鹿は二磅一〇シリングに騰貴し、鮭は一六シリング八ペンスに下落したならば、吾々は、これらの貨物の相対価値の変動を生ずるに両方の原因が働いたものと信ずるであろう。
労働の労賃におけるいかなる変動も、これらの貨物の相対価値の変動を生み出し得ないであろう、けだし、それが騰貴したと仮定しても、これらの職業のいずれにおいてもより大なる労働量が必要になったのではなく、労働がより高い価格で支払を受けるのに過ぎず、そして狩猟者及び漁夫をしてその獣及び魚の価値を引上げんと努力せしめると同一の理由が、鉱山の所有者をしてその金の価値を引上げようとさせるであろうから。かかる誘引はすべてのこれら三つの職業において同一の力をもって働き、そしてそれに従事する者の相対的地位は、労賃の騰貴の前と後とで同一であるから獣と魚と金との相対価値は引続き変らないであろう。労賃は二〇%騰貴し、利潤はその結果それ以上または以下の割合で下落するであろうが、これらの貨物の相対価値には少しも変動が起らないのである。
さて、同一の労働と固定資本とをもって生産し得る魚は増加するが、しかし金または獣は増加しないと仮定するならば、魚の相対価値は金または獣に比較して下落するであろう。もし、二十匹の鮭ではなく二十五匹が一日の労働の生産物であるならば、一匹の鮭の価格は一磅ではなく十六シリングとなり、そして、二匹の鮭ではなくて二匹半の鮭が一頭の鹿と交換して与えられるであろうが、しかし鹿の価格は以前と同様に引続き二磅であろう。同様に同一の資本及び労働をもって獲得し得る魚が減少するならば、魚は比較価値において騰貴するであろう。かくて魚は、その一定量を得るのにより多くのまたはより少い労働が必要とされるという理由のみによって、交換価値において騰落するであろう。そしてそれは、必要な労働量の増加または減少の比例以上には決して騰落し得ないであろう。
かくてもし吾々がそれによって他の貨物における変動を測り得る不変の標準を有っているとするならば、貨物が、仮定にあるような事情の下において生産されるとした時に、それらの貨物が永続的に騰貴し得る最高限度は、その生産に必要とされる附加的労働量に比例し、かつより以上の労働がその生産に必要とされない限り、それはいかなる程度にも騰貴し得ないことを、見出すであろう。労賃の騰貴は、貨物を、貨幣価値においても、またその生産に何らの附加的労働量を必要とせず、かつ同一比例の固定資本及び流動資本を、また同一耐久力の固定資本を、使用した所の、ある他の貨物との比較においても、その価値を騰貴せしめないであろう。もし他の貨物の生産により多くのまたはより少い労働が必要とされるならば、吾々の既に述べた如く、このことは直ちにその相対価値に変動を惹起すであろうが、しかしかかる変動は必要労働量の変動によるものであって、労賃の騰貴によるものではないのである。
労働者によって消費される食物及び衣服、その中で彼が働く建物、彼れの労働を助ける器具は、すべて、消耗すべき性質を有っている。しかしながらこれらの種々なる資本がもちこたえる時間には莫大な差異がある、すなわち蒸気機関は船舶よりも、船舶は労働者の衣服よりも、労働者の衣服は彼が消費する食物よりも、より長く保つであろう。
資本が速かに消耗ししばしば再生産される必要があるか、またはゆっくりと消費されるものであるかによって、それは流動資本または固定資本の部類に種別される(註)。高価な耐久的な建物や機械を有つ醸造業者は多量の固定資本を使用するといわれる。反対に、その資本が主として労賃の支払に用いられ、その労賃は建物及び機械よりもより消耗的な貨物たる食物及び衣服に費される所の、製靴業者は、その資本の大部分を流動資本として使用するといわれている。
かくて、二つの事業が同一量の資本を使用するかもしれぬが、しかし固定した部分と流動する部分とについては極めて種々に異って分割されもしよう。
一つの事業においては極めてわずかな資本が流動資本として、換言すれば労働を支持するために、用いられるにすぎず――すなわち資本は主として機械、器具、建物等に、すなわち比較的に固定的かつ耐久的な性質の資本に投ぜられるであろう。他の事業においては、同一量の資本が用いられるであろうが、しかしそれは主として労働の支持に用いられ、そして極めてわずかが、器具、機械、及び建物に投ぜられるであろう。労働の労賃の騰貴がかかる異った事情の下において生産される貨物に対して及ぼす影響は、異らざるを得ない。
更に、二人の製造業者が同一量の固定資本と同一量の流動資本とを用いるが、しかし彼らの固定資本の耐久力は極めて不等であることがあろう。一方は一〇、〇〇〇磅の価値の蒸気機関を有ち、他方は同じ価値の船舶を有つこともあろう。
もし人々が生産に何ら機械を用いずただ労働のみを用い、そしてその貨物を市場に齎すまでにすべて同一時間を要するとすれば、彼らの財貨の交換価値は用いられた労働の分量に正確に比例するであろう。
もし彼らが同一の価値を有ちかつ同一の耐久力を有つ固定資本を使用するならば、その時にもまた、生産された貨物の価値は同一であり、そしてそれはその生産に使用された労働量の大小に応じて変動するであろう。
(一八)しかしたとえ、同様の事情の下において生産された貨物は、その一または他を生産するに必要な労働の分量の増加または減少を除くいかなる原因によっても、相互に対して変動しないであろうとはいえ、しかも同一の比例の量の固定資本をもって生産されない所の他のものに比較するならば、たとえそのいずれの貨物の生産に必要な労働量には増減がなくとも、私が先きに述べた他の原因、すなわち労働の価値の騰貴によってもまた変動するであろう。大麦及び燕麦は労賃がいかに変動するとも、相互に引続き同一の関係を維持するであろう。綿製品及び毛織布も、それがもし相互に正確に同様な事情の下において生産されるならば、前の場合と同様であろう、しかしながら労賃の騰貴または下落と共に、大麦は綿製品に比較して、また燕麦は毛織布に比較して、価値がより多くもまたはより少くもなるであろう。
二人の人が各々百名の人間を二台の機械の建造に一年間用い、そしてもう一人の人が同一数の人間を穀物の耕作に用いると仮定すれば、各々の機械は、その年の終りに、穀物と同一の価値を有つであろうが、それは、それらが各々同一の労働量によって生産されるであろうからである。この機械の一つの所有者が、翌年、百名の人間の助力によって、それを毛織布の製造に使用し、そしてもう一つの機械を所有する人もまた、同様に百名の人間の助力によって、彼れの機械を綿製品の製造に使用し、他方農業者は引続き以前と同様に百名の人間を穀物の耕作に雇っていると仮定せよ。第二年目中に、彼らはすべて同一の分量の労働を使用するであろう。しかし、毛織物業者並びにまた綿織物業者の有する財貨と機械との合計は、二百名の人間を一年間使用した労働の結果であり、またはむしろ百名の人々の二年間の労働の結果であろう。しかるに穀物は百名の人間の一年間の労働によって生産されるであろう、従ってもし穀物が五〇〇磅の価値であるとすれば、毛織物業者の機械と毛織布との合計は一、〇〇〇磅の価値でなければならず、そして綿織物業者の機械と綿製品もまた、穀物の価値の二倍でなければならない。しかしながらこれらのものは穀物の価値の二倍以上であろう、何故なれば、第一年目の毛織物業者及び綿織物業者の資本に対する利潤がその資本に附加されているが、しかるに農業者の利潤は費消されかつ享楽されてしまっているからである。かくして彼らの資本の耐久力の程度の異るがために、または同じことであるが、一群の貨物が市場に齎され得るまでに経過すべき時間のために、それらの価値は、正確にそれに投ぜられた労働の分量に比例しないであろう――すなわちそれらは二対一ではなく、最も価値の多いものが市場に齎され得るまでに経過しなければならぬより長い時間を償うために、幾らかそれよりもより多くなるであろう。
各労働者の労働に対し一年に五〇磅が支払われ、または五、〇〇〇磅の資本が使用され、そして利潤は一〇%であるとすれば、機械の各々並びに穀物の価値は、第一年目の終りに、五、五〇〇磅であろう。第二年目には、製造業者及び農業者は再び各々労働を支持するために五、〇〇〇磅を用い、従って再び彼らの財貨を五、五〇〇磅で売るであろうが、しかし機械を用いる者は、農業者と均衡を保つためには、啻に労働に使用された五、〇〇〇磅なる同額の資本に対して五、五〇〇磅を得なければならぬばかりでなく、更に機械に投ぜられた五、五〇〇磅に対する利潤として、より以上に五五〇磅の額を得なければならず、従って彼らの財貨は六、〇五〇磅で売れなければならない。しからばここに、年々彼らの貨物の生産に正確に同一の分量の労働を使用する資本家達があるが、しかも彼らの生産する財貨の価値は、その各々によって用いられる固定資本すなわち蓄積労働の分量の異るために、異っているのである。毛織布と綿製品との価値は同一であるが、それはこれらが同一の分量の労働と同一の分量の固定資本との生産物であるからである。しかし穀物の価値はこれらの貨物と同一ではないが、それは固定資本に関する限りにおいて、異る事情の下で生産されるからである。
しかし、それらの相対価値は、いかにして労働の価値における騰貴によって影響を蒙るであろうか? 毛織布及び綿製品の相対価値が何らの変化をも蒙らないであろうことは明かである、けだし仮定された事情の下においては、一方に影響を及ぼすものは他方にも等しく影響を及ぼさなければならぬからである。小麦及び大麦の相対価値もまた何らの変化も蒙らないであろう、けだしそれらは、固定資本及び流動資本の関係する限りにおいて同一の事情の下で生産されるからである。しかし毛織布または綿製品に対するその相対価値は、労働の騰貴によって変更されなければならない。
利潤の下落なくしては、労働の価値における騰貴はあり得ない。もし穀物が農業者と労働者との間に分たるべきであるとするならば、後者に与えられる割合が大きければ大きいほど、前者に残る所はわずかであろう。同様に、もし毛織布または綿製品が労働者とその雇傭者との間に分たれるとするならば、前者に与えられる比例が大きければ大きいほど、後者に残る所はわずかである。そこで労賃の騰貴により利潤が一〇%から九%に下落すると仮定すれば、製造業者は、その固定資本に対する利潤として、その財貨の共通の価格に(すなわち五、五〇〇磅に)五五磅を附加せずに、その額に九%すなわち四九五磅しか附加せず、従って価格は六、〇五〇磅ではなくて五、九九五磅となるであろう。穀物は引続き五、五〇〇磅で売れるであろうから、より以上の固定資本が使用された製造財貨は、穀物またはその他のより少い分量の固定資本が入込んでいる財貨に比較して、下落するであろう。労働の騰落による財貨の相対価値の変動の程度は、固定資本が使用された全資本に対して有つ比例に依存するであろう。極めて高価な機械により、または極めて高価な建物の中で、生産される所の、またはそれが市場に齎され得るまでに長い時間を必要とする所の、すべての貨物は、相対価値において下落するであろうが、しかるに、主として労働によって生産され、または速かに市場に齎されるであろう所の、すべてのものは、相対価値において騰貴するであろう。
しかしながら、読者は、貨物のこの変動原因は、その結果において比較的軽微であることを注意すべきである。利潤において一%の下落を惹起す如き労賃の騰貴があれば、私が仮定した事情の下で生産された財貨の相対価値は、わずか一%だけ変動する。それは利潤のかかる大下落があるのに、六、〇五〇磅から五、九九五磅に下落するに止る。労賃の騰貴によりこれらの財貨の相対価値に対し生み出され得る最大の影響といえども、六%または七%を超過し得ないであろう。けだし利潤はおそらくいかなる事情の下においてもかかる額以上の一般的なかつ永続的な下落を許し得ないであろうからである。
貨物の価値の変動の他の大原因、すなわちそれを生産するに必要な労働の分量の増減は、これと異る。もし穀物を生産するに百名ではなく八十名が必要とされるならば、穀物の価値は二〇%、すなわち五、五〇〇磅から四、四〇〇磅に下落するであろう。もし毛織布を生産するに、百名ではなく八十名の労働で十分であるならば、毛織布は六、〇五〇磅から四、九五〇磅に下落するであろう。大なる程度における永久的利潤率の変動は、多年の間においてのみ作用する原因の結果である。しかるに貨物を生産するに必要な労働の分量の変動は、日々起るものである。機械や道具や建物や原料の生産に[#「生産に」は底本では「生産やに」]おけるあらゆる改良は、労働を節約し、吾々をしてかかる改良の加えられた貨物をより容易に生産することを得せしめ、従ってその価値が変更するのである。しからば貨物の価値の変動の原因を測定するに当って、労働の騰落によって生み出される結果を全く度外視するのは正しくないであろうが、それに多くの重要さを附するのも同等に正しくないであろう。従って本書の以下の部分においては、時に私はこの変化の原因にも触れはしようが、私は、貨物の相対価値に起るすべての大なる変化をもって、その時にそれを生産するために必要とされる労働の分量の大小によって生み出されたものと、考えるであろう。
その生産に投ぜられた労働の同一な諸貨物は、もしそれらが同一の時間で市場に齎され得ないならば、交換価値において異るであろうということは、ほとんどいうをまたない所である。
私が一貨物の生産に一年間一、〇〇〇磅の費用で二十名を雇い、そしてその年の終りに、再び翌年度のために更に一、〇〇〇磅の費用を出して、同じ貨物の仕上または完成に、二十名を雇い、そして私はそれを二年の終りに市場に齎すと仮定すれば、もし利潤が一〇%であるならば、私の貨物は二、三一〇磅で売れなければならない、けだし私は一年間一、〇〇〇磅の資本を用い、更に一年間二、一〇〇磅の資本を使用したからである。もう一人の人は、正確に同一の分量の労働を雇うけれども、しかし彼はそれをすべて第一年目に雇うのであり、すなわち彼は二、〇〇〇磅の費用で四十名を雇うのであって、第一年目の終りには彼はそれを一〇%の利潤を得て、すなわち二、二〇〇磅で売るのである。しからばここに、正確に同一の分量の労働が投ぜられていて、その一つは二、三一〇磅に売れ――他は二、二〇〇磅に売れる所の、二つの貨物があるわけである。
この場合は前の場合と異るようであるが、実際は同一である。双方の場合において、一方の貨物の価格がより高いのは、それが市場に齎され得るまでに経過しなければならない時がより長いのによる。前の場合においては、機械及び毛織布は、それらにわずか二倍の労働量が投ぜられているに過ぎないにもかかわらず、穀物の価値の二倍以上であった。第二の場合においては、一方の貨物はその生産により以上の労働が用いられていないにもかかわらず、他方よりも価値がより多い。この価値の相違は、双方の場合において、利潤が資本として蓄積されるのによるのであり、そして単に、利潤が留保された時間に対する正当な報償に過ぎないものである。
しからば、異る事業に用いられる資本が、固定資本と流動資本との種々な割合に分たれることは、労働がほとんどもっぱら生産に使用される際に普遍的に適用される所の法則、すなわち貨物は、その生産に投ぜられる労働の分量の増減がなければ、決して価値において変動しない、という法則に、かなりの修正を齎すように思われる。それは本節において、労働の分量に何らの変動なくとも、単にその価値の騰貴は、それらの生産に固定資本が用いられる所の財貨の交換価値の下落を惹起すであろうし、固定資本の量が多ければ多いほど、下落は大である、ということが示されているからである。
もし固定資本が耐久的性質のものでないならば、それをその本来の能率状態を維持するためには、年々多量の労働を必要とするであろう、しかしそのために投ぜられた労働は、かかる労働に比例して一つの価値を有たねばならぬ製造物に真に費されたものと考え得るであろう。もし私が二〇、〇〇〇磅に値する一台の機械を有ち、それは極めてわずかの労働で貨物の生産をなし得るとし、かつもしかかる機械の損耗磨滅は僅少量であり、一般的利潤率は一〇%であるとするならば、私はその機械を使用したという理由で、遥かに二、〇〇〇磅以上の財貨の価格に附加されるべきことを、要求しないであろう。しかしもし機械の損耗磨滅が大きく、それを有効の状態に保っておくに必要な労働の分量が年々に五十名の労働に当るとすれば、私は、他の財貨の生産に五十名を使用し、かつ機械を全然使用しない所の、他の製造業者によって得られると等しい附加的価格を、私の財貨に対して要求するであろう。
しかし労働の労賃の騰貴は、急速に消費される機械によって生産される貨物と、遅々として消費される機械によって生産される貨物とに、等しくは影響を及ぼさないであろう。一方の生産においては、生産された貨物に多量の労働が引続き移転されるであろう。――他方においては、極めてわずかがかく移転されるに過ぎないであろう。労賃のあらゆる騰貴、または同じことであるが、利潤のあらゆる下落は、耐久的性質を有つ資本をもって生産された貨物の相対価値を下落せしめ、そして消耗的な資本をもって生産された貨物の相対価値を比例的に高めるであろう。
私は既に、固定資本は種々なる程度の耐久力を有つことを述べた、――今、ある特定の事業において用いられ得る一台の機械は一年間に百名の人間の仕事をなし、かつ一年間だけ持続するものと仮定せよ。また機械は、五、〇〇〇磅に値し、かつ年々百名の人間に支払われる労賃は五、〇〇〇磅であると仮定すれば、製造業者にとってはこの機械を買うか人間を雇い入れるかは無関心事であろうことは、明かである。しかし労働が騰貴し従って一年間百人の労賃が五、五〇〇磅に上ると仮定すれば、製造業者は今や躊躇しないであろうことは明かである。機械を買いそして彼れの仕事を五、〇〇〇磅で済ませるのが彼れの利益であろう。しかし、労働が騰貴せる結果、機械は価格において騰貴し、すなわちそれもまた五、五〇〇磅に値しないであろうか? それは、もしいかなる資本もその製造に使用されず、そしてその製造者に支払われるべきいかなる利潤も無いならば、価格において騰貴するであろう。例えばもしこの機械が、各々五〇磅の労賃で一年間その製造に働く所の百名の人間の労働の生産物であり、従ってその価格は五、〇〇〇磅であると仮定すれば、それらの労賃が五五磅に騰貴するならば、その価格は五、五〇〇磅になるであろうが、しかしこれはあり得ないことである。用いられるのは百名以下の人間である、しからざれば、五、〇〇〇磅の中から人間を雇傭した資本の利潤が支払われなければならぬから、それは五、〇〇〇磅で売れないはずである。そこで単に八十五名の人間が各々五〇磅すなわち一年につき、四、二五〇磅の費用で雇われ、そしてこの機械を売ったためにこれらの人々に前払された労賃以上に生ずる七五〇磅が、機械製造者の資本の利潤を構成していると仮定せよ。労賃が一〇%騰貴した時には、彼は四二五磅の附加的資本を用いるを余儀なくされ、従って彼は四、二五〇磅ではなく四、六七五磅を用いるであろう。この資本に対して彼は、もし引続き彼れの機械を五、〇〇〇磅で売るならば、単に三二五磅の利潤を得るに過ぎないであろう。しかしこれがまさに、すべての製造業者及び資本家にとって事実である。労賃の騰貴は彼らすべてに影響を及ぼすのである。従ってもし機械の製造者が労賃の騰貴せる結果機械の価格を引上げるならば、異常な分量の資本がかかる機械の製造に用いられることとなり、ついにその価格は単に普通の利潤率を与えるに過ぎなくなるであろう(註)。かくて吾々は、労賃の騰貴せる結果、機械は価格において騰貴しないであろうということを、知るのである。
(二〇)しからば、次の如くわかるであろう、すなわち、未だ多くの機械や耐久的資本が用いられない社会の初期においては、等しい資本によって生産される貨物はほとんど等しい価値を有ち、そしてその生産に必要とされる労働の増減によってのみ、貨物は相互に相対的に騰落するであろう。しかしこれらの高価なかつ耐久的な器具が導入されて後は、等しい資本の使用によって生産された貨物は極めて不等な価値を有つであろう。そしてその生産に必要な労働の増減に従って、それらはなお相互に騰落を蒙るであろうけれども、それらは労賃及び利潤の騰落によってもまた、一つの他の変動――小さな変動ではあるが、――を蒙るであろう。五、〇〇〇磅に売れる財貨が、一〇、〇〇〇磅に売れる他の財貨が生産される所の資本と同一量の資本の、生産物であることもあろうから、その製造に対する利潤は同一であろう。しかしもし利潤率の騰落と共に財貨の価格が変動しなかったならば、それらの利潤は不等であろう。
次のこともまた明かであろう、すなわちある種の生産に用いられる資本の耐久力に比例して、その生産にかかる耐久的資本が用いられる貨物の相対価格は労賃と反比例して変動するであろう。労賃の騰貴する時にはそれは下落し、そして労賃の下落する時には騰貴するであろう。これに反し価格を測る媒介物よりも少い固定資本をもって、またはそれよりも耐久力の少い固定資本をもって、主として労働により生産されるものは、労賃の騰貴する時には騰貴し、そして労賃の下落する時に下落するであろう。
例えばもし吾々が金を一標準と定めるとしても、それがあらゆる他の貨物と同一の事情の下で獲得され、従ってそれを生産するに労働と固定資本とを必要とする所の、一貨物たるに過ぎないことは、明かである。あらゆる他の貨物と同様に、労働の節約における改良はその生産に適用され、従って、その生産がいっそう増せるがためのみによって、それは他の物に対する相対価値において下落するであろう。
もし吾々がこの変動原因が除去されそして同一の分量の金を獲得するに同一の分量の労働が常に必要とせられるとしても、しかもなお金は、それによって吾々が正確にあらゆる他の物の変動を確め得る完全な価値の尺度では、あり得ないであろう。けだしそれはあらゆる他の物と正確に同一の固定資本及び流動資本の組合せをもってしても、または同一の耐久力を有つ固定資本をもってしても、生産されないであろうし、またそれが市場に齎され得るまでに、正確に同一の時間を必要としないであろうからである。それは、それ自身と正確に同一の事情の下で生産されるすべての物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしその他の物に対してはそうではない。例えばもし、吾々が毛織布及び綿製品を生産するに必要であると仮定したと同一の事情の下でそれが生産せられるならば、それはこれらの物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしより少いかより多いかの比例の固定資本をもって生産された穀物や石炭やその他の貨物に対してはそうではない、けだし吾々が示した如くに、永久的利潤率のあらゆる変動は、その生産に用いられる労働の分量の変動とは無関係に、あらゆるこれらの財貨の相対価値に、幾らかの影響を及ぼすであろうからである。もし金が穀物と同一の事情の下で生産されるとしても、その事情は決して変化しなくとも、それは、同一の理由によって、あらゆる時において毛織布及び綿製品の価値の完全な尺度ではないであろう。しからば、金にしても他のいかなる貨物にしても、あらゆる物に対する完全な価値尺度では決してあり得ない、しかし私は既に、利潤の変動による物の相対価格への影響は比較的軽微であり、最も重要な影響は生産に必要とされた労働の分量の変動によって生み出されることを、述べた。従ってもし吾々が、この重要な変動原因が金の生産から除去されたと仮定するならば、吾々はおそらく、理論上考え得る価値の標準尺度に最も近いものを所有することになろう。金は、大部分の貨物の生産に用いられる平均的分量に最も近接せる如き二種の資本の比例をもって生産された所の貨物と、考えられ得ないであろうか? これらの比例は、一はほとんど固定資本が用いられず、他はほとんど労働の用いられないという、二つの極端からほぼ等しい距離にあって、これらのものの正しい中項をなしてはいないであろうか?
しからばもし私自身が、不変的標準にかくも近い一標準を有つとするならば、その利益は、それで価格及び価値が測定される所の媒介物の価値におけるあり得べき変動を考えてあらゆる場合に当惑することなしに、他の物の変動について語り得るであろう、という点である。
しからば、本研究の目的を容易ならしめんがために、金で作られた貨幣は他の物の変動の大部分を同じく蒙ることは十分に認めはするけれども、――私は、それは不変であり、従って価格のすべての変動は、それにつき私が論じている貨物の価値のある変動によって惹起されたものと、仮定するであろう。
この問題を終る前に、アダム・スミス及び彼を祖述せるすべての学者は、私の知る所では一人の例外もなく、労働の価格の騰貴は一様にあらゆる貨物の価格の騰貴を随伴するであろうと主張したことを、述べるのが正当であろう。私は、かかる意見には何らの根拠もなく、労賃が騰貴する時には、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い固定資本をその生産に用いた貨物のみが騰貴し、またそれ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が下落するであろう、ということを、示すに成功したと考える。これに反し、もし労賃が下落すれば、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い比例の固定資本をその生産に用いた貨物のみは下落し、それ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が騰貴するであろう。
私にとってまた、一貨物はそれに一、〇〇〇磅に値するであろうだけの労働が投ぜられ、そして他の貨物はそれに二、〇〇〇磅に値するであろうだけの労働が投ぜられているという故をもって、従って一方は一、〇〇〇磅の価値を有ち、他方は二、〇〇〇磅の価値を有つであろう、と私は言ったのではなく、それらの価値は、相互に一に対する二であり、そしてかかる比例でそれは交換されるであろう、と言ったのであることも、注意しておく必要がある。これらの貨物の一方が一、一〇〇磅に売れ、そして他方が二、二〇〇磅に売れようと、または一方が一、五〇〇磅に売れ、そして他方が三、〇〇〇磅に売れようと、それはこの学説の真理に対しては少しも重要ではない。この問題は今これを研究しない。私は単に、それらの相対価値は、その生産に投ぜられた労働の相対的分量によって支配されるであろうということを、注意するだけである(註)。
貨幣は、一つの可変的貨物であるから、貨幣労賃の騰貴はしばしば、貨幣価値の下落によって惹起されるであろう。この原因による労賃の騰貴は普く、貨幣の貨物の価格の騰貴を伴うであろう、しかしかかる場合には、労働とすべての貨物とが相互の関係において変動しておらず、かつ変動が貨幣に限られていたことが、見出されるであろう。
貨幣は、外国から取得される貨物であり、あらゆる文明諸国間の交換の一般的媒介物であり、更に商業と機械とのあらゆる進歩と共に、また増加しつつある人口に対して食物及び必要品を獲得することがますます困難となるごとに、これらの諸国の間に分配される割合が絶えず変ることからして、不断の変化を蒙るのである。交換価値及び価格を左右する諸原理を述べるに当り、吾々は貨物自身に属する変動と、それによって価値が測られまたは価格が表現される所の媒介物の変動によって齎される変動とを、注意して区別しなければならぬ。
(二三)貨幣の価値の変動による労賃の騰貴は、価格の上に一般的影響を生み出し、かつその理由によって、利潤の上には何らの真実の影響をも生み出さない。これに反し、労働者の報酬がより豊かになったとか、または労賃がそれに費される必要品の獲得が困難になったとかによる所の、労賃の騰貴は、若干の場合を除けば、価格を騰貴せしめるという結果は生じないが、利潤を低めるという大きな結果を有っている。一方の場合には、その国の年々の労働のより多くの部分が労働者の支持に向けられるのではないが、他方の場合にはより多くの部分がそれに向けられるのである。
吾々が地代、利潤、及び労賃の騰落について判断するのは、ある特定農場の土地の全生産物の、地主、資本家、及び労働者の三階級への分割によるべきであって、明かに可変的な媒介物で測られた生産物の価値によるべきではない。
吾々が正確に利潤、地代、及び労賃の率について判断し得るのは、各階級の獲得する生産物の絶対的分量によるのではなく、その生産物を獲得するに必要な労働量によるのである。機械や農業における諸改良によって全生産物は倍加されるかもしれないが、しかしもし労賃、地代、及び利潤もまた倍加されるならば、これらの三つは相互に以前と同一の比例を保ち、そのいずれも相対的に変化したとは言い得ないであろう。しかしもし労賃がこの増加の全部に与らず、それが倍加されずして単に半分増加されるに過ぎず、地代は倍加されずして単に四分の三増加されるに過ぎず、そして残りの増加が利潤に帰属したとすれば、思うに、地代と労賃とは下落したが利潤は騰貴したと言うのは私にとって正しいであろう。けだし、もし吾々が、それによってこの生産物の価値を測る所の不変的標準を有つとするならば、吾々は以前に与えられていたよりもより少い価値が労働者と地主との階級に帰属しより多くの価値が資本家階級に帰属したことを見出すべきであろうからである。例えば吾々は、貨物の絶対量は倍加したにもかかわらず、それが正確に以前と同一量の労働の生産物であることを見出すであろう。生産された百宛の帽子、上衣、及び百クヲタアの穀物のうち、
地主は………………………………………………二五
そして資本家は……………………………………五〇
――――――
一〇〇
地主は………………………………………………二二
そして資本家は……………………………………五六
――――――
一〇〇
貨幣の価値の変動は、いかにそれが大であろうとも、利潤の率には何らの異動も生じない、けだし製造業者の財が一、〇〇〇磅磅から二、〇〇〇磅に、すなわち一〇〇%騰貴すると仮定しても、もし彼れの資本、――貨幣の変動は生産物の価値に及ぼすと同じだけの影響をそれに及ぼすが、――すなわち彼れの機械、建物、及び在庫品もまた一〇〇%騰貴するならば彼れの利潤率は同一であり、彼はその国の労働の生産物の同一の分量を支配し得べく、それ以上は支配し得ないであろう。
もし一定の価値の資本をもって、彼が、労働の節約によって、生産物の分量を倍加し得、そしてそれがその以前の価格の半分に下落しても、それは、それを生産した資本に対し以前と同一の比例を保ち、従って利潤は依然同一率にあるであろう。
もし、彼が同一の資本を用いて生産物の分量を倍加すると同時に、貨幣の価値が何らかの出来事によって半分に下落するならば、生産物は以前の二倍で売れるであろう。しかしその生産に用いられる資本もまた、その以前の貨幣価値の二倍となるであろう。従ってこの場合においてもまた、生産物の価値は、資本の価値に対し以前と同一の比例を保つであろう。そして生産物が倍加されたにもかかわらず、地代、労賃及び利潤はただ、この二倍の生産物がこれを分つ三階級の間に分割される比例が変動するにつれて、変動するに過ぎないであろう。
[#改ページ]
第二章 地代について
(二四)しかしながら、土地の占有とその結果たる地代の発生とが、生産に必要な労働量とは無関係に、貨物の相対価値に変動を惹起すか否か、の問題が残っている。問題のこの部分を理解せんがためには、吾々は、地代の性質、及びその騰落を左右する法則を、研究しなければならない。
地代とは、土地の生産物の中、土壌の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して地主に支払われる所の部分である。
しかしながら、それはしばしば資本の利子及び利潤と混同されている。そして、通俗の用語では、この言葉は、農業者によってその地主に年々支払われるものには、その何たるを問わず適用されている。もし、同一の面積を有ちかつ同一の自然的肥沃度を有つ二つの相隣れる農場のうち、一方は、農耕用建物について一切の利便を有ち、更にその上に適当に灌漑され、施肥され、そして都合よく籬や柵や壁で区分されているが、しかるに他方は、これらの利便は何も有たないとすれば、一方の使用に対しては、他方の使用に対してよりも、より多くの報酬が当然支払われるであろう。しかも双方の場合にこの報酬は地代と呼ばれるであろう。しかし次のことは明かである、すなわち改良された農場に対して年々支払わるべき貨幣の一部分のみが、土壌の本来的なかつ不可壊的な力に対して与えられたものであり、その他の部分は、地質の改良のためにまた生産物を保全し貯蔵するに必要な建物の建造のために用いられた資本の使用に対して支払われたものであろう。アダム・スミスは時に私がそれに限定せんと欲する厳格な意味における地代について論じているが、しかしこの言葉が通常使用されている通俗の意味におけるそれを論ずることがより多い。彼は吾々に、ヨオロッパの南方諸国における木材に対する需要とその結果たる高き価格が、以前には地代を生じ得なかったノルウェイにおける森林に対して支払わるべき地代を齎した、と語っている。しかしながら、彼がかくの如く地代と呼ぶ所のものを支払った人は、その時地上に生長しているこの価値多い貨物を考慮してそれを支払ったのであり、そして彼は木材の売却によって、現実に利潤と共にそれを囘収したことは、明白ではないか? もし実際木材が伐り去られた後に、未来の需要を考えて木材またはその他の生産物を栽培する目的をもって、土地の使用に対してある報償が地主に支払われるならば、かかる報償は、土地の生産力に対して支払われるのであるから、正当に地代と呼ばれ得よう。しかし、アダム・スミスによって述べられている場合においては、報償は木材を伐り去りかつ売却する自由に対して支払われたのであって、それを栽培するの自由に対して支払われたのではない。彼は炭鉱の地代及び採石場の地代についても論じているが、これに対しても同一の議論が当てはまる、――すなわち鉱山または採石場に対し与えられる報償は、それから採掘され得る石炭または石材の価値に対して支払われるのであって、土地の本来的なかつ不可壊的な力とは何らの関係もない。これは、地代及び利潤に関する研究において極めて重要な区別である。けだし地代の増進を左右する所の法則は、利潤の増進を左右する法則とは大いに異っており、同一の方向に作用することは稀であることが、見出されるからである。あらゆる進歩せる国においては、地主に年々支払われるものは、地代及び利潤という両性質を兼ね有しているから、時には対立する原因の結果によって静止しており、また他の時には、これらの原因の一方または他方が優勢を占めるに従って増進または減退する。かくて本書の以下において、私が土地の地代を論ずる時は常に、土地の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して土地の所有者に支払われる報償について論じているものと、了解されんことを希望する。
(二五)そこには豊饒にして肥沃な土地が豊富にあり、現実の人口を支えるためにはその極めて小部分が耕作される必要があるに過ぎぬか、または実にそれがその人口の自由にし得る資本で耕作され得るという所の、一国の最初の植民の際には、地代は無いであろう。けだし未だ占有されておらず、従って、それを耕さんと欲する何人もこれを自由に処分し得る所の、土地が豊富な量にある時には、土地の使用に対して何人も支払をしないであろうからである。
供給及び需要の普通の原理によって、空気や水の使用に対し、または無限に存在するある他の自然の賜物に対し、何物も支払われない訳を説明したと同一の理由で、かかる土地に対しては地代は支払われ得ないであろう。一定量の原料と、気圧や蒸気の伸縮力の助けによって、機関は仕事をし、そして極めて大きな程度に人間の労働を節約するであろう。しかしこれらの自然的補助物の使用に対してはいかなる料金も課せられない、それはけだしそれらが無尽蔵でありかつ万人の自由に為し得る所であるからである。同様に、醸造家や蒸酒家や染物屋は、彼らの貨物の生産のために、空気や水を不断に使用している。しかしその供給が無限であるから、それらのものは何らの価格も有たない(註)。もしすべての土地が同一の性質を有つならば、もしその量が無限であり、地質が一様であるならば、それが特殊な位置の利便を有たない限り、その使用に対しては、何らの料金も課せられ得ないであろう。しからば、地代がその使用に対し常に支払われるのは、ただ、土地の量が無限でなくそして地質が一様でないからであり、そして人口の増加につれて劣等の質または利便のより少い土地が耕作されるようになるからに他ならない。社会の進歩につれて、第二等の肥沃度の土地が耕作されるに至る時は、地代は直ちに第一等地に発生し、そしてその地代の額は、これら二つの土地部分の質の差違に依存するであろう。
かくて、土地――第一等地、第二等地、第三等地――が、等しい資本及び労働を用いて、小麦一〇〇、九〇、及び八〇クヲタアの純生産物を生産すると仮定せよ。人口に比較して肥沃な土地が豊富にあり、従って、第一等地の耕作を必要とするのみで足る所の、新しい国においては、総純生産物は耕作者に帰属し、そしてそれは彼が前払した資本の利潤たるものであろう。人口が、第二等地――それからは、労働者を支持した後に九〇クヲタアが獲得され得るに過ぎぬ、――の耕作を必要ならしめるほどに大いに増加するや否や、地代は第一等地に発生するであろう。けだしそうならなければ農業資本に対し二つの利潤率がなければならぬことになるか、あるいはある他の目的のために十クヲタアがまたは十クヲタアの価値が、第一等地の生産物から引去られなければならぬことになるからである。第一等地を、土地所有者が耕作しようとまたはある他の人が耕作しようと、この十クヲタアは等しく地代を形造るであろう。けだし第二等地の耕作者は地代として十クヲタアを支払って第一等地を耕作しようと、または何ら地代を支払わず引続き第二等地を耕作しようと、その資本をもって同一の結果を得るであろうからである。同様にして第三等地が耕作されるに至る時には第二等地の地代は十クヲタアで、または十クヲタアの価値で、なければならないが、しかるに第一等地の地代は二十クヲタアに騰貴するであろう、ということが証明され得よう。けだし第三等地のの耕作者は、第一等地の地代として二十クヲタアを支払おうと、第二等地の地代として十クヲタアを支払おうと、または全く地代を支払わずに第三等地を耕作しようと、同一の利潤を得るであろうからである。
(二六)第二等地、第三等地、第四等地、または第五等地、または更に劣等な土地が耕作されるに先だって、資本が既に耕作されている土地の上により生産的に用いられ得るということは、しばしば、そして実に通常、起ることである。第一等地に用いられる最初の資本を倍加することにより、生産物は倍加されず、すなわち一〇〇クヲタアだけは増加されないであろうが、それは八十五クヲタアだけ増加され得、そしてこの量は同一の資本を第三等地に用いて獲得され得る量を超過することが、おそらく見出されるであろう。
かかる場合には資本はむしろ旧地に用いられ、そして等しく地代を作り出すであろう。けだし地代は常に、等量の二つの資本及び労働の使用によって得られた生産物の差額であるからである。もし一、〇〇〇磅の資本をもって一借地人が一〇〇クヲタアの小麦をその土地から得、そして第二の一、〇〇〇磅の資本の使用によって更に八十五クヲタアを、またはそれと等しい価値を、支払わしめる力を有つであろうが、それはけだし二つの利潤率は有り得ないからである。もしこの借地人が彼れの第二の一、〇〇〇磅に対する報酬における十五クヲタアの減少に満足するとするならば、それはより有利な用途がそれに対し見出され得ないからである。通常の利潤率はその比例にあるのであり、そして元の借地人が、この利潤率を超過するすべてを、彼がそれからそのものを得た所の土地の所有者に与えることを拒むとしても、ある他の者がこれを喜んで与えることが、見出されるであろう。
この場合にも他の場合にも、最後に用いられたる資本は何らの地代も支払わない。第一の一、〇〇〇磅のより大なる生産力に対しては、十五クヲタアが地代として支払われ、第二の一、〇〇〇磅の使用に対してはいかなる地代も全く支払われない。もし第三の一、〇〇〇磅が同一の土地に用いられ、七十五クヲタアの報酬を齎すならば、地代は第二の一、〇〇〇磅に対して支払われ、そしてそれはこれら両者の生産物の差違に、すなわち十クヲタアに等しいであろう。そして同時に、第一の一、〇〇〇磅に対する地代は十五クヲタアから二十五クヲタアに騰貴するであろう。しかるに最後の一、〇〇〇磅はいかなる地代も全く支払わないであろう。
しからば、もし良い土地が、増加しつつある人口に対する食物の生産が必要とするよりも遥かにより豊富な量において存在するならば、またはもし資本が報酬の減少を齎すことなくしてして旧地に無限に用いられ得るならば、地代の騰貴はあり得ないであろう。けだし、地代はあまねく、比例的な報酬の減少を伴う附加的労働量の使用から発生するものであるからである。
(二七)最も肥沃にしてかつ最も位置の便利の良い土地が、第一に耕作されるであろう。そしてその生産物の交換価値は、あらゆる他の貨物の交換価値と同様に、それを生産し、それを市場に齎すに必要な、最初から最後までに種々なる形をとる所の、労働の全量によって、調整されるであろう。劣等の質の土地が耕作されるに至る時には、粗生生産物の交換価値は、それを生産するためにより多くの労働が必要であるために、騰貴するであろう。
すべての貨物の交換価値は、それが製造品であろうと、または鉱山の生産物であろうと、または土地の生産物であろうとに論なく、常に、極めて有利な、かつ生産の特殊便益を有つ者が独占的に享受している所の事情の下において、その生産に足りるであろう所の、比較的少量の、労働によって左右されるのではなく、かかる便益を有たず、引続き最も不利な事情――ここに最も不利な事情とは、必要とされる生産物量を供給するためにその下でなお生産を行うことの必要な、その最も不利な事情を意味する――の下においてそれを生産する者によって、その生産に対し必然的に投下される所の比較的多量の労働によって左右されるのである。
かくて、貧民が慈善家の基金で仕事に従事させられている慈善的施設においても、かかる仕事の生産物たる貨物の一般的価格は、これらの労働者に与えられた特殊便益によっては支配されずに、あらゆる他の製造業者が遭遇しなければならぬ一般的の通常のかつ自然的の困難によって支配されるであろう。もしこれらのめぐまれた労働者によってなされる供給が社会のすべての欲求する所と等しいならば、これらの便益を一つも享有しない製造業者は実際、全然市場から駆逐されるであろう。しかしもし彼が事業を継続するとするならば、それは、彼がそれから資本に対する通常のかつ一般的の利潤率を取得する、という条件の下においてのみであろう。そしてこのことは、彼れの貨物がその生産に投ぜられた労働量に比例する価格で売られる時にのみ、起り得ることであろう(註)。
しからば粗生生産物が比較価値において騰貴する理由は、より多くの労働が、獲得される最後の部分の生産に用いられるからであって、地代が地主に支払われるからではない。穀物の価値は、何ら地代を支払わない所の、その等級の土地の上で、またはその部分の資本をもって、その生産に投ぜられた労働量によって左右されるのである。地代が支払われるから穀物が高いのではなくて、穀物が高いから地代が支払われるのである。従って、地主が彼らの地代の全部を抛棄しても穀価には何らの下落も起らないであろうと云われているのは、正当である。かかる方策は単にある農業者をして紳士の様な生活をすることを得しめるに過ぎず、最も生産力の少い耕作地で粗生生産物を生産するに必要な労働量を減少せしめないであろう。
(二八)地代の形で土地が剰余を産出するという故をもってする、有用なる生産物のあらゆる他の源泉以上に、土地が有つ所の、得点ほど、普通に耳にするものはない。しかも土地が最も豊富であり、最も生産的であり、かつ最も肥沃である時には、それは何らの地代も生み出さない。そしてより肥沃な部分の本来的生産物の一部分が地代として分離されるのは、その力が衰え、そして労働に対する報酬としてより少ししか産出しなくなった時においてのみである。製造業者がそれによって援助される自然力に比較すれば欠点と云わるべき所の、土地のこの性質が、その特殊なる優越をなすものとして指摘され来っているのは、奇妙なことである。もし空気や水や蒸気の弾力性や気圧が種々なる品質を有っているならば、もしそれらは占有され得、かつ各品質は単に相当の分量に存在するに過ぎないならば、それらは、土地と同じく、逐次劣等の品質のものが使用されるに至るにつれて、賃料を与えるであろう。より劣れる品質のものが用いられるごとに、その製造にそれらが用いられた貨物の価値は、等量の労働の生産力がより小になるから、騰貴するであろう。人間は額に汗してより多くをなし、自然はより少ししかなさないであろう。そして土地は、その力が限られているという点について他に優越しはしなくなるであろう。
もし土地が地代という形で与える所の剰余生産物が一長所であるならば、年々、新しく造られた機械が旧いものよりも能率がより小になることが望ましい訳である。けだし、それは疑いもなく、啻にその機械のみならず更に王国内のあらゆる他の機械によって製造される財貨に、より大なる交換価値を与え、そして最も生産的な機械を所有するすべての者に賃料が支払われるであろうからである(註)。
私が右にアダム・スミスから写し取った章句を論評するに当って、ビウキャナン氏は次の如く云う、『私は、第四巻に含まれている生産的労働及び不生産的労働に関する諸観察において、農業は他のいかなる種類の産業よりも国民的貯財に対し附加する所より大なるものではないことを、証明せんと努力した。地代の再生産をもって社会に対する極めて大なる利益であると論ずるに当って、スミス博士は、地代は高き価格の結果であり、かつ地主がかくの如くして利得する所は彼が社会全体を犠牲にして利得しているのであることを、考えていない。地代の再生産によって社会が絶対的に利得する所は何もない。一階級が他の階級を犠牲にして利得しているに過ぎない。自然は耕作過程において人間の勤労と協力する故に、農業は生産物を、従って地代を、生むという提議は、単なる空想である。地代が得られるのは、生産物からではなくて、その生産物が売られる価格からである。そしてこの価格が得られるのは、自然が生産において援助するからではなく、それが消費を生産に適合せしめる所の価格であるからである。』(編者註――ビウキャナン版『諸国民の富』第二巻、五五頁。)
(二九)地代の騰貴は常に、増加しつつある国富の結果であり、その増加せる人口に対する食物供給の困難の結果である。それは富の徴候ではあるが、しかし決してその原因ではない。けだし富はしばしば、地代が静止的であるかまたは低下しつつある間にも、最も速かに増加するからである。地代は、自由に処分し得る土地の生産力が減退する際に、最も速かに増加する。富は、自由に処分し得る土地が最も肥沃であり、輸入が制限されること最も少く、かつ農業上の改良によって労働量の比較的増加なくして生産物が増加され得、従って地代の増進が遅々たる所の、国において、最も速かに増加するのである。
もし穀物の高き価格が、地代の結果であって原因でないとするならば、価格は地代の高低に従って比例的に影響され、そして地代は価格の一構成部分となるであろう。しかし、最大量の労働をもって生産された穀物が穀物の価格の支配者であり、そして地代は、毫もその価格の一構成部分として入り込まず、また入り込み得ないのである(註)。従ってアダム・スミスが、貨物の交換価値を左右した本来的規則、すなわち、それによって貨物が生産された比較的労働量が、土地の占有と地代の支払とによって、いやしくも変更され得る、と想像したのは、正確であり得ない。粗生原料品は大抵の貨物の構成に参加するが、しかし、その粗生原料品の価値は、穀物と同様に、最後に土地に使用されかつ地代を支払わない所の資本部分の生産性によって、左右され、従って地代は貨物の価格の一構成部分ではないのである。
(三一)しかしながら、一国の富及び人口が増加される時にも、もしその増加が、より痩せた土地を耕作するの必要を減少するか、またはより肥沃な部分の耕作に同一量の資本を投下する必要を減少するという、前と同一の結果を齎す如き、かかる顕著な農業上の進歩を伴うならば、同一の結果が生み出されるであろう。
もし一定の人口を支持するに一百万クヲタアの穀物が必要であり、そしてそれは第一等地、第二等地、第三等地において得られるとし、またもし後に一改良が発見され、それによってそれが、第三等地を用いずに第一等地及び第二等地で得られ得るに至ったとすれば、その直接の結果が地代の下落でなければならぬことは明かである。けだしこの際には、第三等地ではなく第二等地が、何らの地代をも支払わずに耕作されるであろうし、そして第一等地の地代は、第三等地と第一等地との生産物の差違ではなくして、単に第二等地と第一等地との差違に過ぎないであろうからである。人口が同一でありそしてそれが増加しなければ、より以上の穀物量に対する需要はあり得ない。第三等地に用いられていた資本及び労働は、社会にとり好ましい他の貨物の生産に向けられるであろうし、そして他の貨物を造る粗生原料品が、資本を地上により不利に用いるにあらざれば獲得され得ない場合の他は、――この場合には、第三等地が再び耕作されなければならぬ――地代を引上げるという結果を有ち得ないのである。
農業上の改良の結果、またはむしろその生産により少い労働が投ぜられるに至った結果たる、粗生生産物の相対価格における下落は、当然に蓄積の増加に導くべきことは、疑いもなく真実である、けだし資本の利潤は大いに増加されるであろうから。この蓄積は、労働に対する需要の増加に、労賃の騰貴に、人口の増加に、粗生生産物に対する需要の増大に、そして耕作の拡張に、導くであろう。しかしながら、地代が以前の高さになるのは、人口の増加の後のことであり、換言すれば第三等地が耕作されるに至って後のことである。それまでには、地代の積極的減少を伴う所の長い時期が経過していることであろう。
しかし、農業上の改良には二種ある、すなわち、土地の生産力を増加するものと、吾々をして機械の改良によってより少い労働でその生産物を獲得し得しめるものとである。これら両者は、共に粗生生産物の価格の下落に導く、これら両者は共に地代に影響を及ぼさない。もしそれらが粗生生産物の価格の下落を惹起さないならばそれは改良ではないであろう、けだし、以前に一貨物を生産するに要した労働量を減少することが、改良の本質であり、そしてこの減少はその価格または相対価値の下落なくしては起り得ないからである。
土地の生産力を増加した改良とは、より巧妙な輪作、あるいは肥料のより良き選択というが如きものである。これらの改良は、絶対的に吾々をして、より少量の土地から同一の生産物を獲得し得せしめる。もし蕪菁の栽培法の導入によって、私が、私の穀物の生産と並んで私の羊を飼い得るならば、羊が以前に飼われていた土地は不要に帰し、そして同一量の粗生生産物がより少量の土地を用いて得られることになる。もし私が、それによって私が一片の土地をして二〇%だけより多くの穀物を生産せしめ得るようにさせる所の、肥料を発見するならば、私は資本の少くとも一部分を、私の農場の最も不生産的な部分から引去り得よう。しかし私が前に観察したるが如くに、この際地代を低減するために土地の耕作を止める必要はない。この結果を齎すためには、同一の土地に、その齎す所の異る資本の諸部分が、逐次投ぜられており、そしてその齎す所の最小なる部分が引去られるだけで、十分である。もし蕪菁耕作の導入により、またはより有効な肥料の使用によって、私が、より少量の資本をもって、また逐次投ぜられる資本の諸部分の生産力の間の差違を紊すことなくして、同一の生産物を獲得し得るならば、私は地代を低めるであろう。けだし別のより生産的な部分が、その点からあらゆる他の部分が計算されるであろう所の、標準たるべき部分となるであろうからである。もし例えば、逐次投下される資本が、一〇〇、九〇、八〇、七〇を生産するならば、私がこれらの四部分を用いる間は、私の地代は六〇であり、すなわち、
七〇と九〇との差 ===二〇
七〇と八〇との差 ===一〇
―――――
六〇
他方生産物は三四〇、すなわち、
九〇
八〇
七〇
――――
三四〇
そして私がこれらの部分を用いている間は、その各部分の生産物が等しい増加をなしても、地代は依然として同一であろう。もし生産物が、一〇〇、九〇、八〇、七〇ではなく、一二五、一一五、一〇五、九五に増加されたとしても、地代は依然として六〇であり、すなわち、
九五と一一五との差===二〇
九五と一〇五との差===一〇
―――――
六〇
他方生産物は四四〇に、すなわち、
一一五
一〇五
九五
――――
四四〇
しかし、生産物のかかる増加があっても、需要の増加がなければ(註)、これだけの資本を土地に用いる動機は存在し得ないであろう。一部分は引去られ、従って資本の最後の部分は、九五ではなく一〇五を生産し、そして地代は三〇に、すなわち、
一〇五と一一五との差===一〇
―――――
三〇
他方生産物はなお人口の欲求する所を満たすに足るであろう、けだし需要は単に三四〇クヲタアに過ぎないのに、それは三四五クヲタア、すなわち、
一一五
一〇五
――――
三四五
しかし、土地の貨幣地代は低めるであろうが、穀物地代は低めることなくして、生産物の相対価値を低める所の改良がある。かかる改良は土地の生産力を増加しないが、しかしそれは吾々をしてより少ない労働をもってその生産物を獲得し得せしめるものである。それは土地自身の耕作に向けられるよりはむしろ、土地に充用される資本の構成に向けられる。鍬や打穀機の如き農業器具の改良、耕作に用いられる馬の使用上の節約、及び獣医術の知識の進歩は、かかる性質のものである。より少い資本――それはより少い労働と同じことであるが――が土地に用いられるであろう。しかし同一の生産物を得るためには、より少い土地が耕作されるのでは足りない。しかしながら、この種の改良が穀物地代に影響を及ぼすか否かは、資本の種々なる部分の使用によって得られる生産物の差違が、増加したか、停止的であるか、または減少したかの問題に、依存しなければならない。もし同一の結果を各々与える所の五〇、六〇、七〇、八〇という資本の四部分が土地に使用され、そしてかかる資本の構成におけるある改良が私をして、その各々から、五を引去ることを得しめ、それがためにそれらが四五、五五、六五、及び七五となるならば、穀物地代には何らの変動も起らないであろう。しかしもしその改良が私をして、最も不生産的に使用されている資本部分の全部の節約をなし得せしめるというが如きものであるならば、穀物地代は直ちに下落するであろうが、それはけだし最も生産的な資本と最も不生産的な資本との差違が減少せしめられるからであり、そして地代を形造るものはこの差違であるからである。
地主の地代について論ずるに当り、吾々はむしろそれを、ある一定の農場に投ぜられた一定の資本によって得られた生産物の一部分と看做し、その交換価値には少しも触れなかった。しかし生産の困難という同一の原因が、粗生生産物の交換価値を引上げ、かつまた地主に地代として支払われる粗生生産物のその部分をも引上げるのであるから、地主は生産の困難によって二重に利益を受けることは明かである。第一に、彼はより大なる分け前を得、そして第二にそれによって彼が支払を受ける貨物の価値が騰貴するのである(註)。
一五〇であるならば、価格は四磅一六シリング〇ペンス、
一四〇であるならば、価格は五磅二シリング〇ペンスに騰貴するであろう。
一五〇が生産される時には、三〇クヲタア、すなわち四磅一六シリングならば一四四磅。
一四〇が生産される時には、四〇クヲタア、すなわち五磅二シリング一〇ペンスならば二〇五磅一三シリング四ペンス。
穀物地代は{一〇〇/二〇〇/三〇〇/四〇〇}の比例において、かつ貨幣地代は{一〇〇/二一二/三四〇/四八五}の比例において増加するであろう。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]
第三章 鉱山の地代について
(三二)金属は、他の物と同様に、労働によって得られる。もちろん、自然がそれを生産するのではあるが、しかしそれを地球の内部から採掘し、そして吾々の使用に備えるのは、人間の労働である。
土地と同じく鉱山も一般にその所有者に地代を支払う、そして土地の地代と同じく、この地代は、その生産物の高き価格の結果であって決してその原因ではない。
もし、何人も占有し得る所の、等しく肥沃な鉱山が豊富にあるとすれば、それは地代を生じ得ないであろう。その生産物の価値は、鉱山から金属を採掘しそれを市場に齎すに必要な労働の分量に依存するであろう。
しかし等しい分量の労働をもって極めて異れる産物を与える所の、種々なる等級の鉱山がある。採掘されている最劣等の鉱山から生産された金属も、少くとも、啻にそれを採掘しその生産物を市場に齎すことに従事する者によって消費される所のあらゆる衣服、食物、その他の必要品を取得するに足るばかりではなく、更にまたこの企業を経営するに必要な資本を前貸する人に、一般通常の利潤を与えるに足る所の、交換価値を有たなければならぬ。何ら地代を支払わない最劣等の鉱山からの資本への報酬が、他のより生産的なすべての鉱山の地代を左右するであろう。この鉱山は通常の資本の利潤を生むものと仮定されている。この鉱山以上に他の鉱山が生産する所のすべては必然的に地代として所有者に支払われるであろう。この原理は、吾々が土地について既に述べた所と正確に同一であるから、それを更に敷衍する必要はなかろう。
粗生生産物及び製造貨物の価値を、左右すると同一の一般的規則が、金属にもまた適用され得るものであり、その価値は、利潤率にも労賃率にも、また鉱山に対して支払われる地代にも依存せず、金属を獲得し、それを市場に齎らすに必要な労働の全量によって定まるのであることを、注意すれば足るであろう。
あらゆる他の貨物と同様に、金属の価値は変化を蒙る。採鉱に用いられる器具及び機械に、改良がなされ、これによって等しく労働が節約されるかもしれず、新しいより生産的な鉱山が発見され、そこでは同一の労働をもって、より多くの金属が得られるかもしれず、またはそれを市場に齎す利便が増すかもしれない。これらの場合のいずれにおいても、金属は価値において下落し、従って他のより少い分量と交換されるであろう。他方において鉱山が採掘されなければならぬ深度の増大や、溜水や、その他の出来事によって惹起される所の、金属獲得の困難の増大のために、他の物と比較してその価値は、著しく騰貴することもあろう。
従って、いかに正直に一国の鋳貨がその本位に一致していようとも、金及び銀で造られた貨幣はなお価値における変動を蒙り、他の貨物と同様に、啻に偶然的な一時的な変動のみならず、更にまた永続的な自然的な変動をも蒙る、といわれているが、それは正当である。
アメリカの発見と、そこに多くある豊富な鉱山の発見によって、貴金属の自然価格に対し、極めて大きな影響が生み出された。この影響は、多くの者によって、未だ終っていないと想像されている。しかしながらおそらく、アメリカ発見の結果生じた所の、金属の価値に対するあらゆる影響は、疾うに終ってしまっているであろう。そしてもし近年その価値において下落が起ったとすれば、それは鉱山採掘法における諸改良に帰せらるべきものである。
いかなる原因からそれが起ったにしろ、その影響は極めて緩慢でかつ徐々たるものであったために、金及び銀がすべての他の物の価値を評価する一般的媒介物であることには、ほとんど実際上の不便は感ぜられなかった。それは疑いもなく価値の可変的尺度ではあるが、おそらくこれよりも変動を蒙ることの少い貨物はないであろう。これらの金属が有つこの得点、及びその他の例えばその硬性、その展性、その可分性、その他多くの得点の故に、それは正当にも文明国の貨幣の標準として到る処で使用され来ったのである。
もし等しい分量の労働が、相等しい分量の固定資本をもって、あらゆる時において、地代を支払わない鉱山から等しい分量の金を取得し得るならば、金は事の性質上吾々が有ち得る限りでのほとんど不変的な価値尺度であろう。分量は実際需要につれて増加するであろうがしかしその価値は不変であろう。そしてそれはあらゆる他の物の価値の変動を測定するに、優れて良く適するであろう。私は既に本書の前の部分において、金はこの不変性を有つものと仮定したが、次の章においても私はこの仮定を続けるであろう。従って価格の変動について論ずる際には、その変動は常に貨物にあるものであり、決してそれが評価される所の媒介物には無いものであると、看做されるであろう。
[#改ページ]
第四章 自然価格及び市場価格について
(三三)労働をもって貨物の価値の基礎となし、かつその生産に必要な労働の比較的分量をもって、相互の交換において与えらるべき財貨の各々の分量を決定する規則となすに際して、吾々は、貨物の実際価格、すなわち市場価格が、この、それらのものの第一次的かつ自然価格から、偶然的なかつ一時的な偏倚をすることを否定するものと、想像されてはならない。
通常の事態においては、かなり久しく、人類の欲望及び願望が要求する正確にその程度に、豊富に、引続き供給される貨物はなく、従って偶然的なかつ一時的な価格の変動を蒙らないものはない。
資本が、たまたま需要されている種々なる貨物の生産に対し、過不足なきちょうどその必要な分量において、正確に割当てられるのは、ただかかる変動の結果たるに過ぎない。価格の騰落と共に、利潤はその一般的水準以上に騰貴しまたはそれ以下に下落する、そして資本は、そこで変動が起った所の特定の職業に入り込むように刺戟されるか、またはそれから退去するように警告されるのである。
あらゆる者がその資本をその好む所に自由に用い得る間は、彼は当然に最も有利な職業をそのために求めるであろう。彼は当然に、彼れの資本を移せば一五%の利潤を獲得し得るならば、一〇%の利潤をもって満足しないであろう。より有利な事業に向わんがためにより不利益なものを棄てんとする、あらゆる資本使用者の側のこの不断の願望は、すべてのものの利潤率を均等ならしめ、もしくは、一人が他人に優れて有つべき、または有つと思わるべき所の、得点に対し、当事者の評価の上で補償するが如き比例に、利潤率を固定する、強い傾向を有っている。この変化が行われる過程を辿ることはおそらく極めて困難であろう。それはおそらく製造業者がその職業を絶対的には変更しないがただその職業に彼が投じている資本の分量を減少するということによって、行われるであろう。すべての富める国においては、金持階級と呼ばれるものを構成しているある数の人がいる。これらの人はいかなる事業にも従事せず、手形の割引や、または社会のより勤勉な部分に対する貸金に用いられている所の、彼らの貨幣の利子で生活している。銀行業者もまた同一の目的物に大資本を用いている。かくの如く用いられた資本は多額の流動資本を形造り、そしてその比例には大小があるが、一国のあらゆる種々なる事業によって用いられている。おそらくいかに富んでいても、その事業を彼自身の資本だけでなし得る範囲内にのみ限る製造業者はないであろう、彼は常にこの流動資本のある部分を有し、それは彼れの貨物に対する需要の活溌性に応じ増減しつつある。絹布に対する需要が増加し、毛織布に対するそれが減少する時には、毛織布業者は、彼れの資本と共に絹織業には移らずに、彼れの労働者の若干を解雇し、銀行業者や金持からの貸金に対する需要を止める。他方絹布製造業者の場合は反対である。彼はより多くの労働者を使用せんと欲し、かくて借入に対する彼れの動機は増加する。彼はより多くを借入れ、かくて資本は、一製造業者がその常職業を止める必要なしに、一職業から他のそれに移転される。吾々が大都市の市場に注目し、そしていかに規則正しく、それが、趣味の変遷や人口数の変化から起るあらゆる事情の下において、国内のまたは外国の貨物の必要な分量の供給を受け、しかも余りに豊富な供給による滞貨や供給が需要に等しくないことから起る著しく高い価格という諸結果をしばしば生ずることのないのを観察する時には、吾々は、資本を事業に、そのまさに必要とする分量において割当てる所の原理が、一般に想像されているよりもより活溌に働いていることを、認めなければならないのである。
(三四)一資本家は、その資金に対して有利な用途を探し求めるに当り、一つの職業が他の職業以上に有つ所のすべての得点を、当然考慮に入れるであろう。従って彼は、一つの職業が他の職業以上に有つ所の、安固や清潔や容易やその他の実際のまたは想像上の得点を考慮して、その貨幣利潤の一部分を喜んで抛棄することもあろう。
もし、かかる事情についての考慮によって、資本の利潤が調整され、その結果一つの事業においては利潤は二〇%、ある他の事業においては二五%、またある他の事業においては三〇%となるならば、これらはおそらく引続き永久的に、この相対的差異を、そしてこの差異のみを、維持するであろう。けだしもし何らかの原因がこれらの事業の一つにおける利潤を一〇%だけ引上げたとしても、しかもかかる利潤は一時的であってまもなく再びその通常の地位に復帰するか、または他の職業の利潤が同一の比例において引上げられるであろうからである。
現在はこの記述の正当性に対する例外の一つであるように思われる。戦争の終結が、以前に存在したヨオロッパにおける職業の分割を大いに狂わしたために、あらゆる資本家は、なお未だ、現在必要になっている新しい分割において占むべき彼れの地位を発見していないのである。
すべての貨物がその自然価格にあり、従ってすべての職業における資本の利潤が正確に同一の率にあり、または当事者が所有しあるいは抛棄するある真実のまたは想像上の得点に、彼らの評価において、等しい額だけ、異なるに過ぎない、と仮定しよう。今、流行の変化が、絹布に対する需要を増加し、そして毛織物に対するそれを減少した、と仮定せよ。それらの自然価格すなわちその生産に必要な労働量は引続き不変であろうが、しかし絹布の市場価格は騰貴し、毛織物のそれは下落するであろう。従って絹布製造業者の利潤は一般的のかつ調整された利潤以上に、他方毛織物製造業者のそれはそれ以下に、なるであろう。啻に利潤のみならず労働者の労賃もまた、これらの職業において、影響を蒙るであろう。しかしながら、絹布に対するこの需要増加は、毛織物製造から絹布製造へ資本と労働とが移転することによって、直ちに供給されるであろう。その時には絹布及び毛織物の市場価格は再びその市場価格に接近し、かくて通常の利潤がこれらの貨物の各々の製造業者によって取得されるであろう。
かくして、貨物の市場価格が引続きある期間に亙ってその自然価格の遥か上または遥か下にあることを妨げるものは、あらゆる資本家がその資金をより不利な職業からより有利なそれに転じようとする願望である。貨物の生産に必要な労働に対する労賃と、用いられた資本をその本来的能率状態に置くために必要なすべての他の費用とを、支払った後に、残余の価値すなわち余剰があらゆる事業において使用された資本の価値に比例するように、貨物の可変的価値を調整するのは、この競争である。
『諸国民の富』の第七章(編者註一)において、この問題に関するすべてが最も巧みに取扱われている。資本の特定の用途において、偶発的原因によって、諸貨物の価格、並びに労働の労賃及び資本の利潤、の上に生み出されるが、貨物の一般的価格、一般的労賃、または一般的利潤には、――社会のあらゆる段階において平等に作用するから、――影響することのない、一時的諸結果を十分認めたのであるから、吾々は、これらの偶発的原因とは全然無関係な諸結果たる、自然価格、自然労賃及び自然利潤を左右する法則を取扱う間は、それを全然度外視するであろう(編者註二)。しからば貨物の交換価値すなわちある一貨物が有つ購買力について論ずるに当っては、私は常に、ある一時的なまたは偶発的な原因によって妨げられないならばそれが有するであろう所のその力を意味するのであり、そしてそれはその自然価格である。
貨幣価値の変動――それは必然的に貨幣労賃に影響を及ぼすが、しかし吾々は、貨幣は常に同一の価値を有つものと考えて来たから、ここでは何らの作用もないものと仮定して来た――を別とすれば、労賃は二つの原因によって騰落を蒙るように思われる、すなわち、
第一、労働者の供給及び需要。
第二、それに労働の労賃が費される貨物の価格。
(三八)社会の異る段階においては、資本または労働を雇傭する手段の蓄積は、その速度の速いことも遅いこともあり、そしてそれはあらゆる場合において労働の生産力に依存しなければならない。労働の生産力は、肥沃な土地が豊富にある時に、一般に最大である。かかる時期においては蓄積はしばしば極めて速かであるために、労働者は資本と同一の速度で供給され得ないのである。
好都合な事情の下においては人口は二十五年で倍加し得ると計算されている。しかし、同様の好都合な事情の下においては、一国の全資本はおそらくより短い時期に倍加され得よう。その場合には、労賃は全期を通じて、騰貴する傾向を有つであろうが、けだし労働に対する需要が供給よりもなおより速かに増加するであろうからである。
遥かに文明の進んだ国の技術及び知識が導入された新植民地においては、資本はおそらく人間よりもより速かに増加する傾向を有つであろう。そしてもし労働者の欠乏がより人口稠密な国によって供給されないならば、この傾向は極めて著しく労働の価格を騰貴せしめるであろう。これらの国が人口稠密となり、そしてより悪い質の土地が耕作されるに至るに比例して、資本の増加への傾向は減少する、けだし現存の人口の欲望を満した後に残る剰余生産物は、必然的に、生産の容易さに、すなわち生産に使用される人数のより小なるに、比例しなければならぬからである。しからば、たとえ最も有利な事情の下においてはおそらく生産力は人口の増加力よりもなおより大であろうとはいえ、それは久しくそうではないであろう。けだし土地はその量が限られておりかつその質が異っているから、その上に用いられる資本全部が増加するごとに、生産率は減少するであろうが、しかし人口増加力は常に引続き同一であるからである。
肥沃な土地は豊富であるが、しかし、住民の無智、怠惰、及び野蛮のために彼らが欠乏及び饑饉のあらゆる害悪に曝されており、かつ人口が生活資料を圧迫しているといわれている所の国においては、粗生生産物の供給率が逓減するために過剰人口のあらゆる害悪が経験されている旧開国において必要なそれとは、極めて異る救治策が用いられなければならない。一方の場合においては、悪政、財産の不安固、及び人民のあらゆる階級における教育の欠乏から、害悪が発生するのである。より幸福にされんがためには、人口増加以上の資本の増加が不可避な結果であろうから、人民はただ、より良く統治されかつ教育される必要があるのみである。いかなる人口増加も多過ぎることは有り得ないが、それは生産力が更により大であるからである。他方の場合においては、人口はその支持に必要とされる基金よりもより速かに増加する。あらゆる勤労の努力も、人口増加率の減少を伴わぬ限り、生産が人口と歩調を共にし得ないから害悪を増加するであろう。
人口が生活資料を圧迫している時には、唯一の救治策は、人口の減少かまたは資本のより速かな蓄積かである。すべての肥沃な土地が既に耕作されている富める国においては、後者の救治策は極めて行いやすいわけでもなくまた極めて望ましいわけでもない、けだしその結果は、それが行われ過ぎるならば、すべての階級を等しく貧しくすることであろうからである。しかし肥沃な土地がなお未だ耕作されていないために豊富な生産手段が貯えられてある貧しい国においては、特にその結果は人民のすべての階級を向上せしめることにあるから、それは唯一の安全なかつ有効な害悪除去の方法である。
人道の友は、すべての国において、労働階級が愉楽品及び享楽品に対して嗜好を有ち、かつ彼らが、あらゆる法律上の手段によって、それらを獲得せんと努力するのを奨励されることを、希望せざるを得ない。これ以上の保証は過剰人口に対して有り得ない。労働階級が最少の欲望を有ちかつ最も低廉な食物で満足している国においては、人民は最大の不安と窮乏とに曝されている。彼らは災害から逃れる避難所を有たない。彼らはより低い地位に安全を求めることは出来ない。彼らの地位は既に極めて低いのでより低く落ちることもできない。彼らの主たる生存資料が少しでも欠乏する場合には、彼らが手にし得る代用品はほとんどなく、そしてその欠除は饑饉の害悪のほとんどすべてを伴うのである。
(三九)社会の自然的進歩につれて、労働の労賃は、それが供給と需要とによって左右される限り、下落する傾向を有つであろう。けだし、労働者の供給は引続き同一率で増加するであろうが、他方彼らに対する需要はより遅い率で増加するであろうからである。例えばもし労賃が、二%の率における資本の年々の増加によって左右されているとするならば、それが単に一・二分の一%の率において蓄積されるに過ぎない時には、労賃は下落するであろう。それが単に一%または二分の一%の率において増加するに過ぎない時には労賃はより低く下落し、そして資本が停止的になるまで引続き下落するであろうが、その時には労賃もまた停止的となり、そしてわずかに現実の人口数を維持するに足るに過ぎないであろう。かかる事情の下においては、もし労賃が単に労働者の供給及び需要によって左右されるに過ぎなければ、それは下落するであろう、と私はいう。しかし吾々は、労賃は、それに労賃が費される貨物の価格によってもまた左右されることを忘れてはならない。
人口が増加するにつれて、かかる必要品はその生産により多くの労働が必要となるから、絶えず価格において騰貴しつつあるであろう。しからば、もし労働の貨幣労賃が下落し、他方それに労働の労賃が費されるあらゆる貨物が騰貴するならば、労働者は二重に影響を蒙り、そしてまもなく全然生存を奪われるであろう。従って労働の貨幣労賃は下落せずして騰貴するであろう、しかしそれは、労働者をして、慰楽品及び必要品の価格騰貴の前に彼が購入したと同一のそれらの貨物をば買い得しめるほど十分には騰貴しないであろう。もし彼れの年々の労賃が、以前には、二四磅、すなわち価格が一クヲタアにつき四磅の時に六クヲタアの穀物であったならば、穀物が一クヲタアにつき五磅に騰貴した時には、彼はおそらく単に五クヲタアの価値を受取るに過ぎないであろう。しかし五クヲタアは二五磅を要費するであろうし、従って彼は、その貨幣労賃においてある附加を受取るであろう。もっともこの附加をもってしても、彼は以前にその家庭において消費していたと同一量の穀物その他の貨物を手に入れることは出来ないであろうが。
しからば労働者は実際により悪い支払を受けるであろうにもかかわらず、しかも彼れの労賃のこの増加は必然的に製造業者の利潤を減少せしめるであろう。けだし彼れの財貨は決してより高い価格で売れはしないであろうが、しかもなおそれを生産する費用は増加されるであろうからである。しかしながら、このことは、吾々が利潤を左右する諸原理を検討する際に、考察するであろう。
しからば、地代を高めると同一の原因すなわち食物の同一量を同一比例の労働量をもって供給する困難の増加がまた、労賃をも高めることがわかる。従って、もし貨幣が不変的価値を有つならば、地代と労賃との両者は、富と人口との増進につれて騰貴する傾向を持つであろう。
しかし地代の騰貴と労賃の騰貴との間には、こういう本質的の差異がある。地代の貨幣価値における騰貴は生産物の分前の増加を伴う。啻に地主の貨幣地代がより大となるばかりでなく、更に彼れの穀物地代もまたより大となる。彼はより多くの穀物を得、かつその穀物の各一定分量は、価値が騰貴しなかったすべての他の財のより大なる分量と、交換されるであろう。労働者の運命は地主よりも不幸であろう。なるほど彼はより多くの貨幣労賃を受取るであろうが、しかし、彼れの穀物労賃は減少するであろ[#「ろ」は底本では欠落]う。そして啻に穀物に対する彼れの支配が減ずるばかりでなく、更に彼れの一般的境遇も、労賃の市場率をその自然率以上に支持することのより困難なことを見出すであろうから、また悪化するであろう。穀物の価格が一〇%騰貴するとしても、労賃は常に一〇%以下しか騰貴しないであろうが、しかし地代は常により以上騰貴するであろう。労働者の境遇は一般的に下落し、そして地主のそれは常に改善されるであろう。
小麦が一クヲタアについて四磅の時、労働者の労賃は一年二四磅または小麦六クヲタアの価値であると仮定し、また彼れの労賃の半ばは小麦に費され、そして他の半ば、すなわち一二磅は他の物に費されると仮定しよう。彼は、
小麦が{四磅四シリング/四磅一〇シリング/四磅一六シリング/五磅二シリング一〇ペンス}の時に{二四磅一四シリング/二五磅一〇シリング/二六磅八シリング/二七磅八シリング六ペンス}を、または{五・八三クヲタア/五・六六クヲタア/五・五〇クヲタア/五・三三クヲタア}の価値を、受取るであろう。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]