ひたすらに伝統の匂いをかいで足れりとする者であるかのような非難を私は近頃うけた。これは馬鹿げた非難だと一口でいってしまえばそれまでのことであるが、また考えようによってはいい機会でもあるから、果してこの非難が当っているかどうかを、私は出来るだけ客観的に自分について調べてみたいと思う。
 この非難は二つの事項を含んでいる。ひたすら伝統の匂いをかぐというのが一つであり、それだけで足れりとするというのがもう一つである。まず第二の点から考察していこう。私が伝統の固守をもって足れりとする者でないことは私自身にはあまりにも明白なことである。私は西洋文化からも大いに学ぶべきところのあることを堅く信じている者で、私の生活の一半は西洋文化の学習に捧げているようなものである。故国の文化はますます肥っていかなければならない。そのためには外国の新しいものの長を採っていかなければならない。このことはあまりに解りきった平凡なことで今日となってはことさら主張するのも可笑おかしいほどである。単に学術や技術の上のみならず芸術や道徳の領域にあっても色々と西洋から学ぶべきところのあることを私は深く信じている。日本人がともすれば自惚うぬぼれがちで世界のどこに比してもすべての点で遜色そんしょくないもののように考えるのは甚だ間違っていると私は思う。我々は色々の点で新規なものを取入れて進んでゆかなければならない。私は伝統の固守をもって足れりとする者では決してない。
 次に第一に挙げた点、すなわち私がひたすら伝統の匂いをかぐということはどうであるか。この点は私は全面的に是認するものである。私が『「いき」の構造』を書いた頃はマルクス主義全盛の頃で、私は四面楚歌の感があった。数年経って「外来語所感」を発表したこのごろは、外囲の事情が全く反対になってしまって、ある読者には私が現時流行の日本主義に阿諛苟合あゆこうごうするかのような感を与えたかも知れない。『「いき」の構造』から「外来語所感」に至るまで私にあっては同一の信念の同一の流れである。変化したのは外囲の事情である。
 私はひたすら伝統の匂いをかぐ者である。しかし伝統への私の愛着は「匂いをかぐ」というようなほのかなものでは決してないことも事実である。

底本:「九鬼周造随筆集」菅野昭正編、岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年9月17日第1刷発行
   1992(平成4)年9月20日第3刷発行
底本の親本:「九鬼周造全集 第五巻」岩波書店
   1991(平成3)年2月第2刷
入力:鈴木厚司
校正:松永正敏
2003年8月20日作成
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