朝からどんよりくもっていたが、雨にはならず、低い雲が陰気いんきに垂れた競馬場を黒い秋風が黒く走っていた。午後になると急に暗さが増して行った。しぜん人も馬も重苦しい気持にしずんでしまいそうだったが、しかしふととおが過ぎ去ったあとのようなむなしいあわただしさにせき立てられるのは、こんな日は競走レースれて大穴が出るからだろうか。晩秋の黄昏たそがれがはやしのび寄ったようなかげの中を焦躁しょうそうの色を帯びた殺気がふと行き交っていた。
 第四コーナーまで後方の馬ごみに包まれて、黒地に白い銭形紋ぜにがたもんらしの騎手きしゅの服も見えず、その馬に投票していた少数の者もほとんどあきらめかけていたような馬が、最後の直線コースにかかると急に馬ごみの中からけ出してぐいぐいびて行く。むちは持たず、せをしたように頭を低めて、馬の背中にぴたりと体をつけたまま、手綱たづなをしゃくっている騎手の服の不気味な黒と馬のどうにつけた数字の1がぱっと観衆のにはいり、1か7か9か6かと眼をらした途端とたん、はやゴール直前で白い息をいている先頭の馬にならび、はげしく競り合ったあげく、わずかに鼻だけ抜いて単勝二百円の大穴だ。そして次の障碍しょうがい競走レースでは、人気馬が三頭も同じ障碍で重なるように落馬し、騎手がその場で絶命するというさわぎのすきをねらって、くさ厩舎きゅうしゃの腐り馬とわらわれていた馬が見習騎手の鞭にペタペタしりをしばかれながらゴールインして単複二百円の配当、馬主も騎手も諦めて単式はほかの馬に投票していたという話が伝えられるくらいの番狂ばんくるわせである。
 そんな競走レースが続くと、もうだれもかれも得体の知れぬ魔にかれたように馬券の買い方が乱れて来る。前の晩自宅で血統や調教タイムを綿密に調べ、出遅でおくれや落馬へきの有無、騎手の上手じょうず下手へた距離きょりの適不適まで勘定かんじょうに入れて、これならば絶対確実だと出馬表に赤鉛筆えんぴつで印をつけて来たものも、場内を乱れ飛ぶニュースを耳にすると、途端にまどわされて印もつけて来なかったような変梃へんてこな馬を買ってしまう。朝、駅で売っている数種類の予想表を照らし合わせどの予想表にも太字で挙げている本命ほんめい(力量、人気共に第一位の馬)だけを、三着まで配当のある確実な複式で買うという小心な堅実けんじつ主義の男が、走るのは畜生ちくしょうだし、乗るのは他人だし、本命といっても自分のままになるものか、もう競馬はやめたと予想表は尻にいて芝生しばふにちょんぼりとすわり、残りの競走レースは見送るはらを決めたのに、競走レース場へ現れた馬の中に脱糞だっぷんをした馬がいるのを見つけると、あの糞のやわらかさはただごとでない、昂奮剤こうふんざいのせいだ、あの馬は今日きょうはやるらしいと、慌てて馬券の売場へけ出して行く。三番片脚かたあし乗らんか、三番片脚乗らんかと呶鳴どなっている男は、今しがた厩舎の者らしい風体の男が三番の馬券を買って行ったのを見たのだ。三番といえばまるで勝負にならぬ位貧弱な馬で、まさかこれが穴になるとは思えなかったが、やはりその男の風体が気になる、といって二十円損をするのも莫迦ばからしく、馬の片脚五円ずつ出し合って四人で一枚の馬券を買う仲間を探しているのだった。あの男はこの競走レースは穴が出そうだと、厩舎のニュースをまわったが、訊く度にちがう馬を教えられて迷いに迷い、挽馬場ひきばと馬券の売場の間をうろうろ行ったり来たりして半泣きになったあげく、血走った眼を閉じて鉛筆の先で出馬表をくと、七番に当ったのでラッキーセブンだと喜び、売場へ駈けつけていく途中、知人に会い、何番にするのかと訊けば、五番だという。そうか、やはり五番がいいかねと、五番の馬がスタートでひどく出遅れるくせがあるのを忘れて、それを買ってしまうのだ。――人々はもはや耳かきですくうほどの理性すら無くしてしまい、場内を黒く走る風にふと寒々とかれて右往左往する表情は、何か狂気きょうきじみていた。
 寺田はしかしそんなあたりの空気にひとり超然ちょうぜんとして、惑いも迷いもせず、朝の最初の競走レースから1の番号の馬ばかり買いつづけていた。挽馬場の馬の気配も見ず、予想表も持たず、ニュースもかず、一つの競走レースが済んで次の競走レースの馬券発売の窓口がコトリと木の音を立ててあくと、何のためらいもなく誰よりも先きに、一番! と手をさしむのだった。
 何番が売れているのかと、人気を調べるために窓口へ寄っていた人々は、余裕よゆう綽々しゃくしゃくとした寺田の買い方にふと小憎こにくらしくなった顔を見上げるのだったが、そんな時寺田の眼は苛々いらいらと燃えて急にいどかかるようだった。何かしら思いめているのか放心して仮面めんのような虚しさにあおざめていた顔が、瞬間しゅんかんカッと血の色をうかべて、ただごとでないはげしさであった。
 迷いもせず一途いちずに1の数字を追うて行く買い方は、行き当りばったりに思案を変えて行く人々の狂気を遠くはなれていたわけだが、しかし取り乱さぬその冷静さがかえって普通ふつうでなく、度の過ぎた潔癖症けっぺきしょうの果てが狂気に通ずるように、かたくななその一途さはふと常規を外れていたかも知れない。寺田が1の数字を追い続けたのも、実はなくなった細君が一代かずよという名であったからだ。

 寺田は細君の生きている間競馬場へ足を向けたことは一度もなかった。寺田は京都生れで、中学校も京都A中、高等学校も三高、京都帝大の史学科を出ると母校のA中の歴史の教師になったという男にあり勝ちな、小心な律義者りちぎもので、病毒に感染することをおそれたのと遊興費がしくて、宮川町へも祇園ぎおんへも行ったことがないというくらいだから、まして教師の分際で競馬遊びなぞ出来るような男ではなかった、といってしまえば簡単だが、ただそれだけではなかった。
 寺田の細君は本名の一代という名で交潤社こうじゅんしゃの女給をしていた。交潤社は四条通と木屋町通の角にある地下室の酒場で、撮影所さつえいじょの連中や贅沢ぜいたくな学生達が行く、京都ではまず高級な酒場だったし、しかも一代はそこのナンバーワンだったから、寺田のような風采ふうさいの上らぬ律義者の中学教師が一代を細君にしたと聴いて、おどろかぬ者はなかった。もっとも一代の方では寺田の野暮やぼ生真面目きまじめさを見込んだのかも知れない。もともと酒場遊びなぞする男ではなかったのだが、ある夜同僚どうりょうに無理矢理さそわれて行き、割前勘定になるかも知れないとひやひやしながら、おずおずと黒ビールを飲んでいる寺田の横に坐った時、一代は気が詰りそうになった。ところが、あくる日から寺田は毎夜一代を目当てに通って来た。置いて行く祝儀チップもすくなく、一代は相手にしなかったが、十日目の夜だしぬけに結婚けっこんしてくれと言う。となりのボックスにいる撮影所の助監督じょかんとくに秋波を送りながら、いい加減に聴き流していたが、それから一週間毎夜同じ言葉をくりかえされているうちに、ふと寺田の一途さに心かれた。二十八さいの今日まで女を知らずに来たという話ももう冗談じょうだんに思えず、十八のとしから体をらして来た一代にとっては、地道な結婚をするまたとない機会かも知れなかった。思えば自分ももう二十六、そろそろ身をかためてもいい歳だろう。都ホテルや京都ホテルでいだ男のポマードのにおいよりも、野暮天で糞真面目くそまじめゆえ「お寺さん」で通っている醜男ぶおとこの寺田に作ってやる味噌汁みそしるの匂いの方が、貧しかった実家の破れ障子をふとおもい出させるような沁々しみじみした幼心のなつかしさだと、一代も一皮げば古い女だった。風采は上らぬといえ帝大ていだい出だし笑えば白い歯ならびが清潔だと、そんなことも勘定に入れた。
 ところが寺田の両親が反対した。「お寺さん」という綽名あだなはそれと知らずにつけられたのだが、実は寺田の生家は代々堀川ほりかわの仏具屋で、寺田のよめ商売柄しょうばいがら僧侶そうりょむすめもらうつもりだったのだ。反対された寺田は実家を飛び出すと、銀閣寺附近ふきんの西田町に家を借りて一代と世帯しょたいを持った。寺田にしては随分ずいぶん思い切った大胆だいたんさで、それだけ一代にのぼせていたわけだったが、しかし勘当かんどうになった上にそのことが勤め先のA中に知れて免職めんしょくになると、やはり寺田は蒼くなった。交潤社の客で一代に通っていた中島ぼうはA中の父兄会の役員だったのだ。寺田は素行不良の理由で免職になったことをまるで前科者になってしまったように考え、もはや社会にれられぬ人間になった気持で、就職口を探しに行こうとはせず、頭から蒲団ふとんをかぶって毎日ごろんごろんしていた。夜、一代の柔い胸の円みにれたり、子供のように吸ったりすることが唯一ゆいいつのたのしみで、律義な小心者もふと破れかぶれの情痴じょうちめいた日々を送っていたが、一代ももともと夜の時間を奔放ほんぽうに送って来た女であった。かたや胸の歯形をたのしむようなマゾヒズムの傾向けいこうもあった。かべ一重の隣家をはばかって、蹴上けあげの旅館へ寺田を連れて行ったりした。そんな旅館を一代が知っていたのかと寺田はふと嫉妬しっとの血を燃やしたが、しかしそんな瞬間の想いは一代の魅力みりょくですぐ消えてしまった。
 ある夜、一代は痛いと飛び上った。驚いて口をはなし、手で柔くおさえると、それでも痛いという、血がにじんでも痛いとは言わなかった女だったのに、妊娠にんしんしたのかと乳首を見たが黒くもない。何もせぬのに夜通し痛がっていたので、乳腺炎にゅうせんえんになったのかと大学病院へ行き、歯形が紫色むらさきいろににじんでいる胸をさすがにはずかしそうにひろげててもらうと、乳癌にゅうがんだった。未産婦で乳癌になるひとはめずらしいと、医者も不思議がっていた。入院して乳房ちぶさを切り取ってもらった。退院まで四十日も掛り、その後もレントゲンとラジウムを掛けに通ったので、教師をしていた間けちけちとめていた貯金もすっかり心細くなってしまい、寺田は大学時代の旧師に泣きついて、史学雑誌の編輯へんしゅうの仕事を世話してもらった。ところが、一代は退院後二月ばかりたつとこんどは下腹の激痛げきつううったえ出した。寺田は夜通しぜてやったが、痛みは消えず、しまいには油汗あぶらあせをタラタラ流して、痛い痛いと転げ廻った。再発した癌が子宮へ廻っていたのだ。しかし医者は入院する必要はないと言う。ラジウムを掛けに通うだけでいいが、しかし通うのが苦痛でえ切れないのなら、無理に通わなくてもいいという。その言葉の裏は、死の宣告だった。癌の再発は治らぬものとされているのだ。余り打たぬようにと、医者は寺田の手に鎮痛剤ちんつうざいのロンパンをわたした。モルヒネが少量はいっているらしかった。死ぬときまった人間ならもうモルヒネ中毒の惧れもないはずだのに、あまり打たぬようにと注意するところを見れば、万に一つ治る奇蹟きせきがあるのだろうかと、寺田は希望を捨てず、日頃ひごろけちくさい男だのに新聞広告で見た高価な短波治療機ちりょうきを取り寄せたり、枇杷びわの葉療法の機械を神戸こうべまで買いに行ったりした。人から聴けばへそせんじ、牛蒡ごぼうの種もいいと聴いて摺鉢すりばちでゴシゴシとつぶした。
 しかし一代は衰弱する一方で、水の引くようにみるみるせて行き、癌特有の堪え切れぬ悪臭あくしゅうはふと死のにおいであった。寺田はもはや恥も外聞も忘れて、腫物はれもの一切いっさいにご利益りやくがあると近所の人に聴いた生駒いこまの石切まで一代の腰巻こしまきを持って行き、特等の祈祷きとうをしてもらった足で、南無なむ石切大明神様、なにとぞご利益をもってあわれなる二十六歳の女の子宮癌を救いたまえと、あらぬことを口走りながらお百度をんだ帰り、参詣道さんけいどうきゅうのもぐさを買って来るのだった。それでも一代の激痛は収まらず、注射の切れた時の苦しみ方は生きながらの地獄じごくであった。ロンパンがなくなったと気がついて、派出看護婦が近くの医者まで貰いに走っている間、一代は下腹をかきむしるような手つきをしながら、くちびるを突き出し、ポロポロなみだを流して、のた打ち廻るのだ。世の中にこんな苦痛があったのかと、寺田もともにポロポロ涙を流して、おろおろ見ている。一代は急に、んで、噛んで! とさけんだ。下腹の苦痛を忘れるために、肩を噛んでもらいたいのだろう。寺田はガブリと一代の肩にかぶりついた。かつては豊満な脂肪しぼうで柔かった肩も今は痛々しいくらい痩せて、寺田は気の遠くなるほど悲しかったが、一代ももう寺田に肩を噛まれながらむかしの喜びはなく、痛い痛いと泣く声にも情痴のひびきはなかった。やっと看護婦が帰って来たが、のろまな看護婦がアンプルを切ったり注射液を吸い上げたり、うでを消毒したりするのに手間取っているのを見ると、寺田は一代の苦痛を一秒でも早くやわらげてやりたさに、早く早くと自分も手伝ってやるのだった。
 気の弱い寺田はもともと注射がきらいで、というより、注射の針の中には悪魔の毒気が吹込まれていると信じている頑冥がんめいばあさん以上に注射をおそれ、伝染病の予防注射の時など、針の先を見ただけで真蒼まっさおになって卒倒そっとうしたこともあり、高等教育を受けた男に似合わぬと嗤われていたくらいだから、はじめのうち看護婦が一代の腕をまくり上げただけで、もう隣の部屋へやへ逃げ込み、注射が終ってからおそるおそる出て来るというありさまであった。針という感覚だけで参ってしまうような弱い神経なのだ。ところが、癌の苦痛という感覚の前にはもうそんな神経もいつか図太くなって来たのか、背に腹は代えられぬ注射の手伝いをしているうちに、次第にれて来て、しまいには夜中看護婦がねむっている間一代のうめき声を聴くと、寺田は見よう見真似みまねの針を一代の腕に打ってやるのだった。
 そんなある日、一代のあてで速達の葉書が来た。看護婦が銭湯へ行った留守中で、寺田が受け取って見ると「明日あす午前十一時、よど競馬場一等館入口、去年と同じ場所で待っている。来い。」と簡単な走り書きで、差出人の名はなかった。葉書一杯いっぱい筆太ふでぶとの字は男の手らしく、高飛車たかびしゃな文調はいずれは一代を自由にしていた男に違いない。去年と同じ場所という葉書はふといやな聯想れんそうをさそい、競馬場からの帰り昂奮を新たにするために行ったのは、あの蹴上の旅館だろうかと、寺田は真蒼になった。一代に何人かの男があったことは薄々うすうす知っていたが、住所を教えていたところを見ればまだ関係が続いているのかと、感覚的にたまらなかった。寺田はその葉書を破って捨てると、血相を変えて病室へはいって行った。しかし、一代は油汗を流してのたうち廻っていた。激痛の発作がはじまっていたのだ。寺田はあわててロンパンのアンプルを切って、注射器に吸い上げると、いつもの癖で針の先を上向けて、空気を外に出そうとしたが、何思ったのかふと手をめると、じっと針の先を見つめていた。注射器の中には空気のガランどうが出来ている。このまま静脈にしてやろうかと、寺田は静脈へ空気を入れると命がないと言った看護婦の言葉を想い出し、狂暴に燃える眼で一代の腕を見た。が、一代の腕は皮膚ひふがカサカサにかわいてあおぐろあかがたまり、悲しいまでに細かった。この腕であの競馬の男の首を背中を腰を物狂おしくいたとは、もう寺田は思えなかった。はだけた寝巻ねまきからのぞいている胸も手術の跡がみにくくぼみ、女の胸ではなかった。ふと眼をらすと、寺田はもう上向けた注射器の底をして、液をき上げていた。すると、嫉妬は空気と共に流れ出し、安心した寺田は一代の腕のカサカサした皮をつまみ上げると、プスリと針を突き刺した。ぐっと肉の中まで入れて液を押すと、間もなく薬が効いて来たのか、一代はけろりと静かになり、死んだように眠ってしまったが、耳をませるとかすかないびきはあった。
 それから一週間たったあの夕方、治療に使う枇杷の葉を看護婦と二人ふたりで切ってかごに入れていると、うしろからちょっとと一代の声がした。り向くと、唇の間からたらんと舌を垂れ、ウオーウオーとけだもののような声を出して苦悶くもんしていた。驚いて看護婦が強心剤のアンプルを切って、消毒もせずに一代の胸に突き刺そうとしたが、肉が固くてはいらなかった。ぼくにやらせろと寺田が無理矢理突き刺そうとすると、針が折れた。一代の息は絶えていた。歳月がたつと、一代の想出も次第に薄れて行ったが、しかし折れた針の先のように嫉妬の想いだけは不思議に寺田の胸をチクチクと刺し、毎年春と秋競馬のシーズンが来ると、傷口がうずくようだった。競馬をする人間がすべて一代に関係があったように思われて、この嫉妬の激しさは寺田自身にも不思議なくらいであった。ところが、そんな寺田がふとしたことから競馬に凝りだしたのだから、人間というものはなかなか莫迦にならない。
 寺田は一代が死んで間もなく史学雑誌の編輯をやめさせられた。看病に追われてなまけていた上、一代が死んだ当座ぽかんとして半月も編輯所へ顔を見せなかったのだ。寺田はまた旧師に泣きついて、美術雑誌の編輯の口を世話してもらった。編輯員の二人までがおりから始まった事変に召集しょうしゅうされて、欠員があったのだ。こんどは怠けずこつこつと勤めて二年たつと、編輯長がまた召集されて、そのあとの椅子いすへついた。その秋大阪に住んでいるある作家に随筆をたのむと、〆切しめきりの日に速達が来て、原稿げんこうは淀の競馬の初日に競馬場へ持って行くから、原稿料を持って淀まで来てくれという。寺田はその速達の字がかつて一代に来た葉書の字とまるで違っていることに安心したが、しかし自分で行くのはさすがにいやだった。といって、ほかの者ではその作家の顔はわからない。私情で雑誌の発行を遅らせては済まないと、寺田はやはり律義者らしくいやいや競馬場へ出掛けた。ちょうど一競走レース終ったところらしく、スタンドからぞろぞろと引きげて来る群衆の顔を、この中に一代の男がいるはずだとカッとにらみつけていると、やあ済まん済まんと作家が寄って来て、君を探していたんだよ。どうやら朝からスリ続けて、寺田が持って来る原稿料を当てにしていたらしかった。渡して原稿を貰い、帰ろうとしたが、僕も今日は京都へ廻るから終るまでつき合わないかと引き停められると、寺田はもう気が弱かった。スタンドに並んで作家の口から、君アンナ・カレーニナの競馬の場面読んだ? しかしあれでもないよ、どうも競馬を本当に描写びょうしゃした文学はないね、競馬は女より面白いのにね、僕は競馬場へ女を連れて来るやつの気が知れんのだ、競馬があれば僕はもう女はいらんね、その証拠しょうこに僕はいまだに独身だからね、西鶴さいかくの五人女に「乗り掛ったる馬」という言葉があるが、僕はこんなスリルを捨てて女に乗り掛ろうとは思わんよ……という話を聴きながら競走レースを見ている間、寺田はふと競馬への反感を忘れていた。そして次の競走レースでふらふらと馬券を買うと、寺田の買った馬は百六十円の配当をつけた。払戻はらいもどしの窓口へさし込んだ手へ、無造作にさつせられた時の快感は、はじめて想いをげた一代のはだよりもスリルがあり、その馬を教えてくれた作家にふと女心めいた頼もしさを感じながら、寺田はにわかにやみついて行った。
 小心な男ほど羽目を外したおぼれ方をするのが競馬の不思議さであろうか。手引きをした作家の方があきれてしまう位、寺田は向こう見ずなけ方をした。執筆者しっぴつしゃへ渡す謝礼の金まで注ぎ込み、印刷屋への払いも馬券に変り、ノミ屋へ取られて行った。つねに明日の希望があるところが競馬のありがたさだと言っていた作家も、六日目にはもう印税や稿料の前借がきかなくなったのか、とうとう姿を見せなかった。が、寺田だけは高利貸の金を借りてやって来た。七日目はセルの着物に下駄げたばきで来た。洋服を質入れしたのだ。

 そして八日目の今日は淀の最終日であった。これだけは手離てばなすまいと思っていた一代のかたみの着物を質に入れて来たのだ。質屋の暖簾のれんをくぐって出た時は、もう寺田は一代の想いを殺してしまった気持だった。そして、今日この金をスッてしまえば、自分もまた一代の想いと一緒に死ぬほかはないと、しょんぼり競馬場へはいった途端、どんより曇った空のように暗い寺田の頭にまずひらめいたのは殺してしまったはずの一代の想いであった。女よりもスリルがあるという競馬の魅力に惹かれて来たという気持でもなかった。この最後の一日で取り戻さねば破滅はめつだという気持でもなかった。一代の想いと共に来たのだということよりほかに、もう何も考えられなかった。そしてその想いの激しさは久しぶりによみがえった嫉妬の激しさであろうか、放心したような寺田の表情の中で、眼だけは挑みかかるようにギラついていた。
 だから、今日の寺田は一代の一の字をねらって、1の番号ばかし執拗しつように追い続けていた。その馬がどんな馬であろうと頓着とんちゃくせず、勝負にならぬような駄馬バテであればあるほど、自虐じぎゃくめいた快感があった。ところが、その日は不思議に1の番号の馬が大穴になった。内枠うちわくだから有利だとしたり気にいってみても追っつかぬ位で、さすがの人々も今日は一番がはいるぞと気づいたが、しかしもうそろそろ風向きが変る頃だと、わざと一番を敬遠したくなる競馬心理を嘲笑ちょうしょうするように、やはり単で来て、本命のくせに人気が割れたのか意外な好配当をつけたりする。寺田ははじめのうち有頂天うちょうてんになって、来た、来た! と飛び上り、まさかと思って諦めていた時など、思わず万歳と叫ぶくらいだったが、もう第八競走レースまでに五つも単勝を取ってしまうと、不気味になって来て、いつか重苦しい気持に沈んで行った。すると、あの見知らぬ競馬の男への嫉妬がすっと頭をかすめるのだった。
 第九の四歳馬特別競走レースでは、1のホワイトステーツ号が大きく出遅れて勝負を投げてしまったが、次の新抽しんちゅう優勝競走では寺田の買ったラッキーカップ号が二着馬を三馬身引離して、五番人気で百六十円の大穴だった。寺田はむしろ悲痛な顔をしながら、配当を受取りに行くと、窓口で配当を貰っていたジャンパーの男が振り向いてにやりと笑った。皮膚の色が女のように白く、すごいほどの美貌びぼうのその顔に見覚えがある。穴を当てる名人なのか、寺田は朝から三度もその窓口で顔を合せていたのだ。大穴の時は配当を取りに来る人もまばらで、すぐ顔見知りになる。やあ、よく取りますね、この次は何ですかと、寺田はその気もなくお世辞で訊いた。すると、男はもう馬券を買っていて、二つにたたんでいたのを開いて見せた。1だった。寺田はどきんとして、なにかニュースでもと問い掛けると、いや僕は番号主義で、一番一点張りですよ。そう言ったかと思うと、すっとスタンドの方へ出て行った。
 その競走レースは七番の本命の馬があっけなく楽勝した。そしてそれが淀の最終競走レースであった。寺田は何か後味が悪く、やがて競馬が小倉こくらに移ると、1の番号をもう一度追いたい気持にかられて九州へった。汽車の中で小倉の宿は満員らしいと聴いたので、別府べっぷの温泉宿にとまり、そこから毎朝一番の汽車で小倉通いをすることにした。夜、宿へつくとくたくたにつかれていたので、寺田は女中にアルコールを貰ってメタボリンを注射した。一代が死んだ当座寺田は一代の想い出と嫉妬になやまされて、眠れぬ夜が続いた。ある夜ふとロンパンの使い残りがあったことを想い出した。寺田は不眠のつらさに堪えかねて、ついぞ注射をしたことのない自分の腕へこわごわロンパンを打ってみると、簡単に眠れた。が、眠れたことより、あれほど怖れていた注射が自分で出来て、しかも針の痛さも案外すくなかったことの方がうれしく、その後脚気かっけになった時もメタボリンを打って自分でなおしてしまった。そしてそれからは注射がもう趣味しゅみ同然になって、注射液を買いあさる金だけは不思議に惜しいと思わず、寺田のかばんの中には素人しろうとにはめずらしい位さまざまなアンプルがはいっていたのだ。注射が済んで浴室へ行った時、寺田はおやっと思った。淀で見たジャンパーの男が湯槽ゆぶねつかっているではないか。やあと寄って行くと、向うでも気づいて、よう、来ましたね、小倉へ……と起そうとしたその背中を見た途端、寺田は思わず眼をみはった。女の肌のように白い背中には、一という字の刺青いれずみほどこされているのだ。一――1――一代。もしかしたらこの男があの「競馬の男」ではないか、一の字の刺青は一代の名の一字を取ったのではないかと、咄嗟とっさの想いに寺田は蒼ざめて、その刺青は……ともうたしなみも忘れていた。これですかと男はいやな顔もせず笑って、こりゃ僕の荷物ですよ、「胸に一物、背中に荷物」というが、僕の荷物は背中に一文字でね。十七の年からもう二十年背負っているが、これで案外重荷でねと、冗談口の達者な男だった。十七の歳から……? と驚くと、僕も中学校へ三年まで行った男だが……と語りだしたのは、こうだった。
 生まれつき肌が白いし、自分から言うのはおかしいが、まア美少年の方だったので、中学生の頃から誘惑ゆうわくが多くて、十七の歳女専の生徒から口説くどかれて、とうとうその生徒を妊娠させたので、学校は放校処分になり、家からも勘当された。木賃宿を泊り歩いているうちに周旋屋しゅうせんやにひっ掛って、炭坑たんこうへ行ったところ、あらくれの抗夫達がこいつ女みてえな肌をしやがってと、半分は稚児ちごいじめの気持と、半分は羨望せんぼうから無理矢理背中に刺青をされた。一の字をりつけられたのは、抗夫長屋ではやっていた、オイチョカブ賭博とばくの、インケツニゾサンタシスンゴケロッポーナキネオイチョカブのうち、このふだを引けば負けと決っているインケツの意味らしかった。刺青をされて間もなく炭坑を逃げ出すと、故郷の京都へい戻り、あちこち奉公ほうこうしたが、英語の読める丁稚でっち重宝ちょうほうがられるのははじめの十日ばかりで、背中の刺青がわかって、たちまち追い出されてみれば、もう刺青を背負って生きて行く道は、背中に物を言わす不良生活しかない。インケツのまつと名乗って京極きょうごくや千本のさかを荒しているうちに、だんだんに顔が売れ、随分男も泣かしたが、女も泣かした。面白い目もして来たが、背中のこれさえなければ堅気かたぎくらしも出来たろうにと思えば、やはりさびしく、だから競馬へ行っても自分の一生を支配した一の番号が果たして最悪のインケツかどうかと試す気になって、一番以外にけたことがない。
 聴いているうちに寺田は、なるほどそんな「一」だったのかと、少しは安心したが、この男のことだから四条通の酒場も荒し廻ったに違いないと、やはり気になり、交潤社の名を持ち出すと、開店当時入口の大硝子ガラスを割って以来行ったことはないがと笑って、しかしあそこの女給で競馬の好きな女を知っている。いい女だったが、死んだらしい。よせばいいのに教師などと世帯を持ったのは莫迦だったが、しかしあれだけの体の女はちょっとめず……おや、もう上るんですか。
 部屋へ戻ると、女中が夕飯を運んで来たが、寺田は咽喉のどへ通らなかった。すぐ下げさせて、二時間ばかりすると、蒲団を敷きに来た。寺田は今夜はもう眠れぬだろうと、ロンパンを注射するつもりで、注射器を消毒していると、蒲団を敷き終った女中が、旦那だんな様注射をなさるのでしたら、私にもして下さい。メタボリンは脚気にいいんでしょうと腕をまくった。寺田はむっちりしたその腕へプスリと針を突き刺した途端一代の想いがあった。針を抜くと、女中は注射には馴れているらしく、器用に腕をみながら、五番の客が変なことを言うからおさきちゃんに代ってもらっていいことをしたという言葉を聴いて、はじめて女中が変っていたことに気がついたくらい寺田はぼんやりしていた。男前だと思って、本当にしょっているわ。寺田の眼は急にかがやいた。あの男だ。あの男がこの女中を口説こうとしたのだ。寺田は何思ったか、どうだ、もう一本してやろうか。メタボリン……? いや、ヴィタミンCだ。Cっていいんですか。Bよりいいよと言いながら、しかし注射器にはひそかにロンパンを吸い上げた。
 女中は急に欠伸あくびをして、私眠くなって来たわ、ああいい気持、体が宙にきそう、少しここで横にならせて下さいね。蒲団のすそまくらにすると、もう前後不覚だった。二時間ばかりって、うっとりと眼をあけた女中は、眠っていた間何をされたかさすがにさとったらしかったが、寺田を責める風もなく、私ゆめを見てたのかしらと言いながらち上ると、裾をかき合せて出て行った。寺田はその後姿を見送る元気もなく、自責の想いにしょげかえっていたが、しかしふとあの男のことを想うと、わずかに自尊心の満足はあった。
 翌日、小倉競馬場の初日が開かれた。朝からスリ続けていた寺田は、スレばスルほど昂奮して行った。最後の古呼ふるよび特ハン競走レースで、寺田はあり金全部を1のハマザクラ号に賭けた。これを外してしまえば、もう帰りの旅費もない。
 ぱっと発馬機がはね上った。途端に寺田は真蒼になった。内枠のハマザクラ号は二馬身出遅れたのだ。駄目だめだと寺田はくわえていた煙草たばこを投げ捨てると、スタンドを降りて、ゴール前のさくの方へ寄って行った。もう柵により掛らねば立っておれないくらい、がっくりと力が抜けていたのだ。向う正面の坂を、一頭だけ取り残されたように登って行く白地に紫の波型入りのハマザクラを見ると、寺田の表情はますますゆがんで行った。出遅れた距離を詰めようともせず、馬群から離れていて行くのは、もう勝負を投げてしまったのだろうか。ハマザクラはもう駄目だ! と寺田は思わず叫んだ。すると、いや大丈夫だいじょうぶだ、あの馬は追込みだ、と声がした。ふと振り向くと、ジャンパーを着た「あの男」がずっと向う正面を睨んで立っていた。白い顔が蒼ざめている。自分とおなじようにスッて来たのだと、見上げていると、男は急ににやりとした。寺田はおやと正面へ振りかえった。白地に紫の波型がぐいぐいと距離を詰めて行く。あっと思っているうち、第四コーナーではもう先頭の馬に並んで、はげしく競り合いながら直線に差し掛った。しめたッと寺田が呶鳴ると、莫迦ッ! 追込馬が鼻に立ってどうするんだと、うしろの声も夢中むちゅうだった。鼻に立ったハマザクラの騎手は鞭を使い出した。必死の力走だが、そのまま逃げ切ってしまえるかどうか。鞭を使わねばならぬところに、あと二百メートルの無理が感じられる。逃げろ、逃げろ、逃げ切れと、寺田は呶鳴っていた。あと百米。そうれ行け。あッ、三番が追い込んで来た。あと五十米。あッ危い。並びそうだ。はげしい競り合い。抜かすな、抜かすな。逃げろ、逃げろ! ハマザクラ頑張がんばれ!
 無我夢中に呶鳴っていた寺田は、ハマザクラがついに逃げ切ってゴールインしたのを見届けるといきなり万歳と振り向き、単だ、単だ、大穴だ、大穴だと絶叫ぜっきょうしながら、ジャンパーの肩に抱きついて、ポロポロ涙を流していた。まるで女のように離れなかった。嫉妬もうらみも忘れてしがみついていた。(昭和二十一年四月)

底本:「ちくま日本文学全集 織田作之助」筑摩書房
   1993(平成5)年5月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学大系70 武田麟太郎・織田作之助・島木健作・檀一雄集」筑摩書房
   1970(昭和45)年6月25日発行
初出:「改造 第二十七巻第四号」改造社
   1946(昭和21)年4月1日発行
入力:富田倫生
校正:江戸尚美
1998年3月27日公開
2011年1月9日修正
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