予は越後三条の生れなり。父は農と商を兼ねたり。伯父は春庵とて医師なり。余は父よりは伯父に愛せられて、幼きより手習てならい学問のこと、皆な伯父の世話なりし。自ら言うは異な事なれど、予は物覚えよく、一を聞て二三は知るほどなりしゆえ、伯父はなお身を入れてこの子こそ穂垂という家の苗字を世に知らせ、またその生国しょうごくとしてこの地の名をも挙るものなれとて、いよいよ珍重して教えられ、人に逢えばその事を吹聴さるるに予も嬉しき事に思い、ますます学問に身を入れしゆえ、九歳の時に神童と言われ、十三の年に小学校の助教となれり。父の名誉、伯父の面目、予のためには三条の町の町幅も狭きようにて、この所ばかりか近郷の褒め草。ある時、県令学校を巡廻あり。予が講義を聴かれて「天晴あっぱれ慧しき子かな、これまで巡廻せし学校生徒のうちに比べる者なし」と校長に語られたりと。予この事を洩れ聞きてさては我はこの郷に冠たるのみならず、新潟県下第一の俊傑なりしか、この県下に第一ならば全国の英雄が集まる東京に出るとも第二流には落つまじと俄かに気強くなりて、ひそかに我腕を我と握りて打笑うちえみたり。この頃の考えには学者政治家などという区別の考えはなく、豪傑英雄という字のみ予が胸にはありしなり。さりければなおさらに学問を励み、新たに来る教師には難問をかけて閉口させ、後には父にも伯父にも口を開かせぬ程になり、十五の歳新潟へ出て英学をせしが教師の教うるところ低くして予が心に満足せず。八大家文を読み論語をさえ講義し天下を経綸けいりんせんとする者が、オメオメと猿が手を持つありすねを持つの風船に乗って旅しつつ廻るのと、児戯に類する事を学ばんや。東京に出でばかかる事はあるまじ。龍は深淵にあらねば潜れず、東京へ出て我が才識をぎ世を驚かすほどの大功業を建てるか、天下第一の大学者とならんと一詩をのこして新潟の学校を去り在所ざいしょにかえりて伯父に出京の事を語りしに、伯父は眉をひそめ、「東京にて勉学の事は我も汝に望むところなり、しかしまだ早し、卑近なり」とて「字を知り語を覚ゆるだけの方便なり。今二三年は新潟にて英学をなしその上にて東京へ出でよ、学問は所にはよらじ、上磨きだけを東京にてせよ」と止められ、志を屈して一年程は独学したれど、はしる馬の如き出京の志し弱き手綱に繋ぐべきにあらず。十七の春なりし。心を決して父と伯父に乞いもし許されずは出奔せん覚悟を様子にそれと悟りてか、左まで思わば出京せよと許可を得たり。
 穂垂の息子が東京へエライ者になりに行くぞ目出とう送りてやれよとて、親族よりの餞別見送り、父はそれらに勇みを付けて笑いを作りて居られたれど、母はおろおろとして、「いかエ周吉、気をお付けなさいよ、早く帰っておいでよ」と同じ言を繰り返されたり。予は凱旋がいせんの将の如く得々とくとくとして伯父より譲られたる銀側の時計をかけ革提を持ち、「皆様御健勝で」と言うまでは勇気ありしが、この暇乞いとまごいの語を出し終りたる後は胸一杯、言うべからざる暗愁を醸し生じたり。自ら呼吸を強くし力足を踏み、町はずれまで送りし人々の影を見かえり勝ちに明神の森まで来りしが、この曲りの三股原に至り、またつとめて勇気を振い起し大願成就なさしめたまえと明神のほこら遙拝ようはいして、末覚束おぼつかなき旅に上りぬ。路用として六円余、また東京へ着して三四ヶ月の分とて三十円、母が縫いて与えられし腹帯と見ゆる鬱金うこん木綿の胴巻に入れて膚にしっかと着けたり。学校の教師朋友などが送別の意を表して墨画の蘭竹または詩など寄合書にしたる白金布の蝙蝠こうもり傘あるいは杖にしあるいは日を除け、道々も道中の気遣いを故郷の恋しさと未来の大望とか悲しみ悦び憂いをかわるがわる胸中に往来したれば、山川の景色も目にはとまらずしてその日の暮がたある宿に着きたり。宿に着きても油断せず、合客の様子、家居の間取等に心づけ、下婢かひが「風呂に召されよ」と言いしも「風邪の心地なれば」とて辞し、夜食早くしたためて床に入りしが、既往将来の感慨に夢も結ばず。雁の声いとど憐なりし。峠を越え山を下り野にはいろいろの春の草、峰にも尾にも咲きまじる桜、皆な愉快と悲痛と混じたる強き感じの種となりて胸につかえたる碓氷も過ぎ、中仙道を熊谷まで来たり。明日は馬車にてまっしぐら東京へ乗り込むべしと思えば心に勇みを持ち、この宿りにては風呂へ入りしが棚へ脱ぎたる衣類の間には彼の三十円あれば、据風呂の中へ入りながらも首を伸してこれを守りたり。出立つ前に年寄の忠告にも、「旅は明日志す所へ着くというその夜は誰も安心して必ず其所でぬすみに逢うものなり」とありたれば、今宵こそ大事なれとその胴巻を締めたまま臥しながらもなお幾度か目さむる度に探りたり。
 翌朝騒がしくまた慌ただしく催されて馬車に乗る。乗ればなかなか馬車は出ず。やがて九時にもならんとする頃一鞭あてて走り出せしが、そのガタガタさその危なさ腰を馬車台に打ちて宙に跳ね上りあたかも人間をまりにしてもてあそぶが如し。目はくらみ腹はめる。死なざりし事を幸いとして、東京神田万世橋の傍らへ下ろされたり。この時の予はもとの新潟県下第一の豪傑穂垂周吉にあらずして、唖然たる癡呆の一書生なり。馬車の動揺に精神を撹乱し、単純なる空気を呼吸したる肺臓は砂煙りに混じたる汚濁臭穢しゅうあいの空気を吸い込み、馬車人力車のとどろきさながらに地獄の如く、各種商店の飾りあだかも極楽の荘厳の如く恍然として東西を弁ぜず、乱雑して人語を明らめがたし。我自ら我身を顧りみれば孑然げつぜんとして小虫の如く、車夫にののしられ馬丁に叱られ右に避け左にかがまりて、ようやくに志す浅草三間町へたどり着きたり。
 足だまりの城として伯父より添書そえがきありしは、浅草三間町の深沢某なり。この人元よりの東京人にてある年越後へ稼ぎに来りしが病にかかりて九死一生となり、路用も遣い果して難渋窮まりしを伯父が救いて全快させしうえ路用を与えて帰京させたれば、これを徳として年々礼儀を欠ず頼もしき者なればとて、外に知辺しるべもなければこの人を便りとしたりしなり。尋ね着きて伯父の手紙を渡せば、その人は受取りて表書の名を見るより涙を溢して悦び、口早に女房にも告げ神仏の来臨の如く尊敬して座敷へ通し、何はさて置き伯父の安否を問い、幾度か昔救われたることを述べ、予がつかれをいたわりて馳走かぎりなし。翌日は先ず観音へ案内し、次の日は上野と、三四日して「さてこれよりよき学校を聞き合せ申すべし、あなたにも心掛けたまえ、それ迄は狭くともこらえてここに居りたまえ」と頼もしく言われたり。この家は裏家なれど清く住なし何業とはなけれど豊げなり。後に聞けばその辺三四ヶ所の地所家作の差配さはいをなす者なりとぞ。予がこの家に宿して八日目の事なりき。桜時なり、三社の祭りなり、賑い言わん方なしといえば、携え来りし着替を出し、独り夕方より観音へ参詣し、夜に入り蕎麦店へ入りて京味を試み、ゆらりゆらりと立帰りしところ、裏のうち騒がしく「さても胆太き者どもかな」と口々に言う。何事かと聞けば隣長屋に明店あきだなありしに突然暮方くれがた二人の男来りてその家の建具類を持ち去る、大方おおかた家作主の雇いしものならんと人も疑わざりしを、深沢が見咎めてただせばことば窮して担いかけし障子ふすま其所そこへ捨て逃げ去りしなりというに、東京という所のすさまじさ、白昼といい人家稠密といい、人々見合う中にて人の物を掠め去らんとする者あり。肌へ着けたりとて油断ならずと懐中へ手を差し入れて彼の胴巻を探るに、悲しやある事なし。気絶して其所そこに倒れんとするほどになり、二階に駆け上りて裸になりて改めれどなし。泣く悲しむという事は次になり、ただ茫然たるばかり、面目なきながら深沢に話せば、これも仰天し、「実は伯父ご様の御文中にも若干の学資を持たせ遣したりとあれば、それを此方こちらへ御預かり申さんとは存ぜしが、金銭の事ゆえ思召す所をはばかりて黙止たりしが残念の事をつかまつりたり」と言うに、いよいよ面目なくますます心は愚にかえりて我身も頼もしからず。今さら学資をスリ取られたとは在所へ言いもやられず、この上は塾僕学僕になりてもと奮発せしかど、さる口もなく空しくこの家に厄介となり、鼻紙の事まで深沢の世話になるようになれば、深沢は頓着せぬ様子なれど女房は胸に持ちて居ずもがなの気色見えたり。余も心退けて安からねば「いかなる所にても自活の道を求めたし」と言えば、深沢も「折角我等を人がましく思いたまいて伯父ごより御添書ありしに学校へも入れ申さぬは不本意なれど、御覧の如くのていなれば何事も心に任せず、ここに新たに設けし活版所あり、しばらくこの職工となりたまいてはいかに、他の業ならねば少しは面白くも候わん」と勧むるに、この事は他の業よりは望む所に近ければただちに承知して活版職人となりぬ。
 浅草諏訪町の河岸にて木造の外だけを飾りに煉瓦れんがに積みしなれば、暗くして湿りたり。この活版所に入りてここに泊り朝より夕まで業に就き、夕よりまた夜業とて活字を取扱う。随分と苦しけれど間々に新聞雑誌などを読む事も出来、同僚の政治談も面白く、米国のある大学者も活版職より出たり、必竟ひっきょう学問を字を習い書を読む上にのみ求めんとせしは我が誤ちなりし、造化至妙の人世という活学校に入りて活字をなすべしと、弱りたる気を自ら皷舞して活発に働きしゆえ、大いに一同に愛敬せられ、思いの外の学者なりと称えられたり。
 月日の経つは活字を拾うより速かに、器械の廻るより早し。その年の夏となりしが四五月頃の気候のよき頃はさてありしも、六七月となりては西洋なぞらいの外見煉瓦蒸暑きこと言わん方なく、のみの多きことさながらに足へ植えたるごとし。呉牛ごぎゅうの喘ぎ苦しく胡馬こばいななきを願えども甲斐なし。夜はなおさら昼のホテリの残りて堪えがたければとても寝られぬ事ならば、今宵は月も明らかなり、夜もすがら涼み歩かんと十時ごろより立ち出で、観音へ参詣して吾妻橋の上へ来り。四方を眺むれば橋の袂に焼くもろこしの匂い、煎豆いりまめの音、氷屋の呼声かえッて熱さを加え、立売の西瓜すいか日を視るの想あり。半ば渡りて立止り、欄干にりて眺むれば、両岸の家々の火、水に映じて涼しさを加え、いずこともなく聞く絃声流るるに似て清し。月あれども地上の光天をかすめて無きが如く、来往の船は自ら点す燈におのが形を示し、棹に砕けてちらめく火影櫓行く跡に白く引く波、見る者として皆な暑さを忘るる物なるに、まして川風の肌に心地よき、汗に濡れたる単衣ひとえをここに始めて乾かしたり。紅蓮ぐれんの魚の仏手にすくい出されて無熱池に放されたるように我身ながら快よく思われて、造化広大の恩人も木も石も金もともにくるかと疑わるる炎暑の候にまたかくの如く無尽の涼味を貯えて人の取るに任すとは有難き事なりと、古人の作中、得意の詩や歌を誦するともなく謡うともなくうめきながら欄干を撫でつつ歩むともなくたたずむともなく立戻たちもとおり居るに、往来の人はいぶかしみ、しばしば見かえりて何かことばをかけんとして思いかえして行く老人あり、振りかえりながら「死して再び花は咲かず」と俚歌りかを低声に唄うてあんに死をとどむる如くいましめ行く職人もあり。老婆などはわざわざ立かえりて、「お前さんそこにそうよっかかって居ては危のうございますよ、危ないことをするものではありませんよ」と諄々じゅんじゅんさとさるる深切しんせつ。さては我をこの橋上より身を投ずる者と思いてかくねんごろには言わるるよと心付きてはずかしく、人の来るを見れば歩きてその疑いを避くるこの心遣い出来てより、涼しさ元のごとくならず。されどこの清風明月の間にしばらくなりと居た者が活版所へ戻りて半夜なりとて明かさるべきにあらねば、次第に更けて人の通りの少なくなるを心待にして西へ東へと行きかえるうち、巡行の巡査の見咎むるところとなり、「御身は何の所用ありてこの橋上を徘徊さるるぞ」と問われたり。予もこの頃は巡査に訊問さるるは何にかかわらず不快に感ずる頃なれば、「イヤ所用なければこそこの橋上を徘徊致すなれ」と、天晴よき返答と思いて答えたり。巡査は予の面を一種の眼光をもって打眺め、「そも御身は何処の者にて姓名は何と言わるる」と言い言いなお身体容貌を眺め下したり。「何のために宿所姓名を問いたもうか、通り少きこの橋上月をながめ涼みを取るもあながち往来の邪魔にはなるまじ」とやり返せば、「御身の様子何となく疑わしく、もし投身の覚悟にやと告ぐる者ありしゆえ職務上かく問うなり」と言うに、詮方せんかたなく宿所姓名を告げ、「活版所は暑くして眠られぬまま立出し」とあらましを話せばうなずきて、「然らばよし、されど余り涼み過ると明日ダルキ者なり、夜露にかかるは為悪し早く帰られたがよからん」とのげんに、「御注意有り難し」と述べて左右に別れたれど予はなお橋の上を去りやらず。この応答に襟懐俗了せしを憾みたり。巡査はまた一かえりして予が未だ涼み居るを瞥視して過ぎたり。金龍山の鐘の響くを欄干に背を倚せてかぞうれば十二時なり。これより行人稀となりて両岸の火も消え漕ぎ去る船の波も平らに月の光り水にも空にも満ちて川風に音ある時となりて清涼の気味滴る計りなり。人に怪しめられ巡査に咎められ懊悩としたる気分も洗い去りて清くなりぬ。ただ看れば橋の中央の欄干に倚りて川面を覗き居る者あり。我と同感の人と頼もしく近寄れば、かの人は渡り過ぎぬ。しばしありて見ればまたその人は欄干に倚り仰いで明月は看ずして水のみ見入れるは、もしくは我が疑われたる投身の人か、我未ださる者を救いたる事なし、面白き事こそ起りたれと折しもかかる叢雲むらくもに月の光りのうすれたるを幸い、足音を忍びて近づきて見れば男ならで女なり。ますます思いせまる事ありて覚悟をきめしならんと身を潜まして窺うに、幾度か欄干へ手をかけて幾度か躊躇し、やがて下駄を脱ぎすつる様子に走り倚りて抱き留めたり。振り放さんと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがくを力をきわめて欄干より引き放し、「まずまず待たれよ死ぬ事はいつでもなる」ことばせわしくなだむるところへ早足に巡査の来りてともに詞を添え、ともかくもと橋際の警察署へ連れ行く。仔細を問えど女は袖を顔にあてて忍び音に泣くばかりなり。予に一通り仔細を問われしゆえ、得意になりてその様子を語りたり。警官は詞を和らげて種々に諭されしに、女もようやく心をひるがえし涙を収めて予に一礼したるこの時始めて顔を見しが、思いの外に年若く十四五なれば、浮きたる筋の事にはあるまじと憐れさを催しぬ。「死なんと決心せし次第は」と問われて口ごもり、「ただ母が違うより親子の間よからず、私のために父母のいさかいの絶えぬを悲しく思いて」とばかりにて跡は言わず。「父母の名を言うことは許して」というに、予も詞も添え、「こおんなの願いの如くこのままに心まかせに親許へ送りかえされたし」と願い、娘にも「心得違いをなさるなよ」と一言を残して警察署を立ち出でしが、またいろいろの考え胸に浮かび何となく楽しからざれば活版所へはかえらず、再び橋の上をぶらつきたり。今度は巡行の巡査も疑わず、かえって今の功を賞してか目礼して過るようなれば心安く、行人まったく絶えて橋上に我あり天空に月あるのみ。満たる潮に、川幅常より広く涼しきといわんより冷しというほどなり。さながら人間の皮肉を脱し羽化うかして広寒宮裏こうかんきゅうりに遊ぶ如く、蓬莱ほうらい三山ほかに尋ぬるを用いず、恍然こうぜん自失して物と我とを忘れしが、人間かかる清福あるに世をはかなみて自ら身をすてんとするかの小女こそいたわしけれとまたその事に思い到りて、この清浄の境に身を置きながら種々の妄想を起して再び月の薄雲におおわれたるも知らざりし。予がかくたたずみて居たるは橋を半ば渡りこして本所に寄りたる方にて、これ川を広く見んがためなりし。折しも河岸の方より走せ来る人力車々上の人がヤヤという声とともに、車夫も心得てや、かじ棒を放すが如く下に置きて予が方へ駆け寄りしが、橋に勾配あるゆえ車は跡へガタガタと下るに車夫は驚き、また跡にもどりて梶棒を押えんとするを車上の人は手にて押し止め、飛び下りる如くに車を下りたれば、車夫は予が後へ来りてシッカと抱き止めたり。驚きながらもさてはまた投身の者と間違えられしならんと思えば「御深切かたじけなし。されど我輩は自死など企つる者にあらず、放したまえ」というに、「慈悲でも情でも放す事は出来ない、マアサこちらへ」と力にまかせて引かるるに、「迷惑かぎり身投げではない」と※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)けば、「さようでもあろうがそれが心得違いだ」と争うところへ、車上の人も来られ、「万吉よく止めた、まだ若いにそう世を見かぎるものではない」と、問答の中へ巡査が来られしゆえ我より「しかじかにて間違えられし」と告げれば、この巡査顔を知りたれば打笑いて、「貴公あまりこの橋の上に永くぶらつかれるからだ。この人は投身を企つる者ではござらぬ」巡査の証言にかの人も車夫も手持不沙汰なれば予は厚くその注意を謝し、今は我輩も帰るべしと巡査にも一揖いちゆうして月と水とに別れたり。この夜の清風明月、予の感情を強く動かして、ついに文学を以て世にたたんという考えを固くさせたり。
 懐しき父母の許より手紙届きたり。それは西風槭樹せきじゅを揺がすの候にして、予はまずその郵書を手にするより父の手にて記されたる我が姓名の上に涙を落したり。書中には無事を問い、無事を知らせたるほかにあわせ襦袢じゅばんなどを便りにつけて送るとの事、そのほか在所の細事を委しく記されたり。予よりは隠すべきにあらねば当時の境界きょうかいを申し送り、人世を以て学校とすれば書冊の学校へ入らずも御心配あるなと、例の空想にいささか実歴したる着実らしき事を交えて書送りたり。折返して今度は伯父よりの手紙に、学資を失いて活版職工となりしよし驚き気遣うところなり、さらに学資も送るべし、また幸いに我が西京に留学せし頃の旧知今はよき人となりて下谷西町にすまうよし、久しぶりにて便りを得たり、別紙を持参して諸事の指揮をその人にうけよとねんごろに予が空想に走する事を誡められたり。
 予は深沢にもその事を話し、届きたる袷に着替え、伯父よりの添書を持て下谷西町のその人を尋ねたり。黒塀に囲いて庭も広く、門より十五六歩して玄関なり。案内を乞うて来意を通ずれば、「珍しき人よりの手紙かな、こちらへと言え」と書生に命ずる主公しゅこうの声聞えたり。頓て書生にいざなわれて応接所へ通りしが、しばらくしてまたこちらへとて奥まりたる座敷にいざなわれたり。雅潔なる座敷の飾りに居心落付かず、見じと思えど四方の見らるるに、葛布にて張りたる襖しとやかに明きて清げなる小女茶を運び出でたり。忝けなしと斜に敷きたる座蒲団よりすべりてその茶碗を取らんとするとき、女はオオと驚くに予も心付きてヤヤと愕きたり。「蘭の鉢を庭へ出せよ」と物柔らかに命じながら主公出で来られぬ。座を下りて平伏すれば、「イヤ御遠慮あるな伯父ごとは莫逆ばくぎゃくの友なり、足下そっかの事は書中にて承知致したり、心置きなくまず我方に居られよ」と快濶かいかつなる詞有難く、「何分宜しく願い申す」と頭をあげて主公の顔を見て予は驚きたり。主公もまた我面を屹度きっと見られたり。
 先に茶を運びし小女は、予が先夜吾妻橋にて死をとどめたる女なりし。主公は予をまた車夫に命じて抱き止めさせし人なりし。小女は浅草清島町という所の細民さいみんの娘なり。形は小さなれど年は十五にて怜悧れいりなり。かの事ありしのち、この家へ小間使こまづかいというものに来りしとなり。貧苦心配の間に成長したれど悪びれたる所なく、内気なれど情心あり。主公は朋友の懇親会に幹事となりてかの夜、木母寺の植半にて夜を更して帰途なりしとなり。その事を言い出て大いに笑われたり。予は面目なく覚えたり。小女を見知りし事は主公も知らねば、人口をはばかりてともに知らぬ顔にて居たり。
 予はこれまでにて筆をくべし。これよりして悦び悲しみ大憂愁大歓喜の事は老後を待ちて記すべし。これよりは予一人の関係にあらず。お梅(かの女の名にして今は予が敬愛の妻なり)の苦心、折々たわまんとする予が心を勤めはげまして今日あるにいたらせたる功績をも叙せざるべからず。愛情のこまやかなるを記さんとしては、思わず人の嘲笑を招くこともあるべければ、それらの情冷かになりそれらのそしり遠くなりての後にまた筆をることを楽むべし。

底本:「新潟県文学全集 第1巻 明治編」郷土出版社
   1995(平成7)年10月26日発行
底本の親本:「明治文学全集26」筑摩書房
   1981(昭和56)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正:小林繁雄
2006年7月28日作成
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