享保四年の秋、遠州新居あらい筒山船つつやまぶねに船頭左太夫以下、楫取かじとり水夫かこ十二人が乗組んで南部へ米を運んだ帰り、十一月末、運賃材木を積んで宮古港を出帆、九十九里浜の沖合まで来たところで、にわかの時化しけに遭った。海面うなづらいちめんに水霧がたち、日暮れ方のような暗さになって、房総の山々のありかさえ見わけのつかぬうちに、雷雨とともに、十丈もあろうかという逆波さからいなみが立ち、未曽有の悪潮わるしおまれ揉まれて舵を折ってしまった。大波が滝のようにうちこむので、淦水あかを汲みだすひまもなく、積荷の材木が勝手に浮きだしてぶつかりあい、その勢いでふなばたの垣を二間ほど壊されてしまった。
 船頭の左太夫は、荷打ちをさせ、垣根の破れ口を固めさせ、思いつくかぎりの手をつくしたが、間もなくはりまで海水がついたので、流れ船にする覚悟をきめ、ほばしら伐倒きりたおして垂纜たらしを流した。時化で舵を折ったときは、みよしのほうへともづなを長く垂れ流し、船を逆にして乗るのが法で、そうしなければ船がひっくりかえってしまう。
 檣を倒し、たらしをするようになればもう最後なので、あとは船の沈むのを待つばかりである。十一人の乗組みは、思い思いにもとどりを切って海に捨て、水死したあとでも、一船いっせんの仲間だとわかるように、一人一人の袖から袖へ細引をとおしてひとつにまとめ、水船みずぶねにしたまま、荒天の海に船を流した。
 西北の強風は三日の間小休こやすみもなく吹き、昼さえ陽の目を見せぬ陰府よみのような陰闇いんあんたる海をただよわしたすえ、四日午後になって、やっとのことで勢をおさめた。
 十二人は正体もなく寝框ねかまちにころがっていたが、どうやら命の瀬戸を切りぬけたようすなので、誰も彼も生きかえったような心持になり、粮米ろうまいを出してまずえをふさぐ仕事にとりかかった。船の上に出てみると、どちらをみても潮の色ばかりで、島山の影さえない。吹く風はあたたかく、日射しが強いので、だいぶと南のほうへ流されたことだけはわかった。
「お船頭、気のせいかしらぬが、潮の流れに乗っているように思うが」
 甚八という楫取かじとり[#ルビの「かじとり」は底本では「かぢとり」]が左太夫のそばに立ってそういった。左太夫は眼をとじて潮の音を聞き、舷のほうへ行って海の色をながめていたが、
「たしかに潮の流れに乗った。それにしても、早瀬のようなこんな潮の流れなど、話にも聞いたことがない。それとも、お前ら聞いたことがあるかい」
 そこに居合しただけの水夫は、みな聞いたことがなかったとこたえた。
 藍色あいいろに黒ずんだ二十間ほどの幅の潮の流れが瀬波のような音をたて、流木やごみが船といっしょに流れている。
「これはまァどうしたものだ。行く手に、いったい、なにがあるというのだろう」
 と左太夫がつぶやいたが、それにこたえるものは一人もなかった。
 十一月の末から、翌、享保五年の正月の末まで、船は潮に乗って流れつづけていたが、二十六日の朝方、ゆくての海の上に雲とも見える島山の影がうかびだしてきた。二ヵ月ぶりに陸地くがちの形らしいものを見たので、みな舷へ出て、
「島だ、島だ」
 とさわぎたてた。
 一帯が岩山で、ったった岩壁がいきなりに海から立ちあがり、ちょうど釣鐘つりがねを伏せたような恰好になっている。島のなかほどのところに、岩の柱がいくつか背伸びをし、南画にあるからの山にそっくりであった。ときどき噴火があるのらしく、丸い峯の頂きに赤錆あかさびがついている。草木の色はどこにも見えず、人の住んでいる気配はまったくなかった。
 左太夫が歎くようにいった。
「せっかく島根に漂い着いたが、おそろしげなじまで、草木のアヤもみえない。それで、相談するのだが、お前らは、どう思うか、わしの意見では、粮米ろうまいも残りすくなになったし、船もこんな壊れかただ。この島をはずしたら、この先、またいつ陸地くがちにめぐりあうあてもないことだから、なにはどうでも、思いきって島にあがるほうがいいと思うのだが」
 意見はまちまちで、容易にきまらない。神鬮かみくじをとってきめようということになって、鬮をとると、上陸せよと出た。みなその気になって、さっそく支度にかかり、わずかばかりの粮米と鍋釜、手廻りの道具を入れた木箱一つ、斧一梃いっちょうを持って小舟に移り、渚をさがして、そこから島にあがった。これが二十一年という長い滞在のはじまりになろうとは、誰一人知るよしもなかったのである。

 島根にとりついてみると、沖から眺めたよりもいっそうすさまじい岩島であった。岩壁のところどころに谷間が暗い影をしずめ、噴火で押しだされた軽石が、雨風にさらされて白骨はっこつのように落々らくらくと散らばっている。話に聞くさい河原かわらとは、こうもあろうかというようなあさましい風景であった。島まわりは、一里ほどもあるふうだったが、断崖の入江にさえぎられて廻ってみることが出来なかった。なによりまず飲み水のことだと、十二人で手分けして焼け山の中段まで探しまわったが、川泉かせんはおろか溜り水すらない。船から見て、おおよその見当はつけていたが、草木のともしいことはおどろくばかり、木と名のつくものは、国方くにがたで、菜萸ぐみといっているものの一尺ほどの細木、草はといえば、かやよし山菅やますげが少々、渚に近いところに鋸芝のこぎりしばがひとつまみほど生えているだけであった。誰も彼も呆気あっけにとられ、顔を見あわして溜息をつくばかりであった。
 その夜は、軽石の浜で身体を寄せあって眠ったが、明け方近く、さかんに風が吹きだして、船もはしけももろともに粉々にし、岸波きしなみが船板だけを返してよこした。
 こういうしあわせで、生きているかぎり、この島に居着かなければならぬことになったが、何にとりついて命を助かろう方便も思いつかぬことで、みなみな途方にくれ、なかには顔に手をあてて泣きだすものもあった。
 左太夫がいった。
「そうして、嘆いていても、しようがあるまい。こうなったからには、覚悟をきめ、みなで力を合せて生きていく道を才覚しようではないか。水のないことはわかったが天の恵みの雨水というものもある。磯の岩にはアラメ、カジキ、あわびもあれば藤壺もある。昨夜、たしかに海鳥うみどりの声を聞いた。海鳥を食い、磯魚をせせっても、一年や二年は生きのびられぬことはあるまい。なにより、お前らは潮の流れのことを忘れはしまい。われわれの船が、こう来るからには、ほかの船もかならずこの近くへ来る。神鬮かみくじに上陸と出たのは、その辺のところを、お示しになったのだと、おれには思われる」
 みなもそれで合点し、力のかぎり生きて行こうと固い申しあわせをした。
 せめて雨露あめつゆをしのぐところはないかと探してみると、渚から五町ほど東になったところに、高さ六尺ばかり、幅七、八尺の岩穴を二つ見つけたので、六人ずつ二組に分かれてそこをねぐらとすることにした。
 島裏しまうらに行ってみると、国方くにかたで、藤九郎(阿呆鳥)といっている、掛目かけめ三貫匁もあるような大きな海鳥が、何百、何千となく岩磐の上に群居して騒がしく鳴きたてている。白いのもいれば、黒いのもいる。そうしてひとところに群がっているところは、大きな碁盤ごばんに黒白の碁石を置きならべたようであった。人間の味をしらず、そばまで行っても人臭ひとくさいような顔もしないので、いくらでも手掴てづかみでとれた。その肉はひがらくさい臭いがあったが、それさえ厭わなければ、一羽の鳥で、十二人がほどほどに飽くことができた。
 粮米が尽きてからは、島のさちで命をつないだ。雨はきまったように三日おきに降るので、大きな鮑貝あわびがいをいくつもならべ、足るほどに受けた。東側の入江の岸に、潮の流れが運んできた浮木が打ちあがってくる。どの船がどこで流したものか、焼印を押した淦水桶や楫柄かじづか、そうかと思うと、太い松の木が枝をつけたままで流れてきたりした。南の島には松の木はないはずだから、これは国の近くの浜から来たものだろうなどといい、かたみに松木のはだを撫でてなつかしみ、朝ごと入江に出て、国の木々の端くれを探しだすのをたのしみにするようになった。国の木は勿体なくて焚木たきぎにされず、乾しあげて数珠玉をったり箸にしたりした。
 三月、四月とすぎ、五月になると、思いがけない暑気に襲われた。もともと秋冬あきふゆのない島だが、夏の季に入るなり、一帯の岩島が日輪にあぶりつけられて火煙ひけむりをあげるほどに熱し、岩層に手足をつけるとたちまち大火傷やけどをする。逃げ場のない狭い島内のことで、みな死ぬ思いをしたが、なおそのうえ、藤九郎は夏の間はほかの島へ渡るのだとみえ、一羽残らず立って行ってしまい、焦熱地獄と餓鬼地獄の責苦をいちどに身に受けることになった。
 翌年の二月に山焼けがあった。島がを振るように震動し、焼山から火を噴いて、三日の間、灰と岩石を降らした。みな東の入江に逃げ、三日三晩、首まで海につかって熱気をふせいだ。この年の末、水夫の今助、小三郎、亀吉の三人が死んだ。

 享保七年、三年目の冬のことであった。焚木とりに東の入江へ行くと、百石積みの船が一艘、浜に漂い着いていた。いつごろ乗捨てたものか、船腹におびただしい海草がついていた。胴ノ間に七十俵ほどの米があった。いずれも濡れ米だが、乾立てたら、一人宛に三石ずつもある勘定で、これこそは命の法楽と、雀躍こおどりして喜び、とりあえず浜へ積みおろし、そこから岩穴の口に運んだ。この三年、穀粒と名のつくものはただの一口も咽喉管のどくだを越させていないので、身体にたあいがなく、若いものでも一俵に二人、年寄りどもは四人がかりで一俵の米にとりつき、八日かかって、ようやく運び終った。米のほか、帆布、鳶口とびぐち、大釘など、役にたつものがいろいろあったので、それも悉皆しっかい取りおさめ、船板は釘からはずして、入江の岸に井桁いげたに積みあげておいたが、急に高波が来て、跡形もなくさらって行ってしまった。
 日和ひよりを見さだめて、俵の切りほどきにかかったが、そのうちに芽をふいている籾が一俵あった。日頃は落着いている船頭の左太夫が、それを見るなり、
「ありがたや」
 と手を合せて籾種を拝んだ。
「さあ、みなもいっしょに拝め。これで、命つつがなく国に帰れることにきまった」
「この籾が帰国のしるしというのは」
「この島で死なせようつもりなら、穀種などたまわるはずはない。つまりは、この籾をいて収穫とりいれをし、それをちから便たよぶねを待てというこの御顕示ごけんじがわからぬのか」
 楫取かじとりの甚八が詰まらなそうな顔でいった。
「御顕示はわかったが、夏場になれば、茅葭かやよしのような強い草でさえ立枯れする。天水は三日ごとに四半刻ほどくださるだけ。山焼けはする。灰は降る。岩山ばかりで、土気つちけというものは更々さらさらない。火風水土かふうすいど四大しだいの厄を受けているこの島で、いったいどこへ籾種を蒔けというのか」
「岩山はもとより承知だが、こう考えたのには訳がある。みなも、よく聞いてくれ。それはあの鳶口と大釘のことだ。籾種といっしょに、あのような道具をくだされたのは、あれで岩地を突きやわらげろという心だと察した。磐石ばんせきとはいうが、こうして茅や葭が生えるのは、しょせんは、土気を含んでいるからだ。ふしぎや、同国のものばかりが一せんに乗り合せ、残らず禅宗ぜんしゅうで宗旨までおなじだ。されば、みなが力を合せ、その気になって一心にやったら、この岩山が畑にならぬものでもあるまいと思うのだ」
 と説いて聞かせるようにいった。みなも尤もと合点し、とても、おろそかなことではないと、籾種を伏し拝んだ。
 米の始末をつけたところで、岩穴の前の平らなところをえらび、鳶口と大釘を鍬のかわりにして岩地を突き崩し、二年の間たゆまずやり、半畝はんせほどの畑地をつくって籾を蒔きつけたところ、思ったより見事に生立って、毎年、二、三斗ほどずつ収穫があがるようになった。この米をやけしま力米ちからごめといい、病人にかぎってかゆにしてすすらせた。火風水土の四厄しやくを凌いで育った米の精は強大で、たいていの病人は良薬ほどにも効いた。
 享保九年(五年目)と十二年(八年目)に二度の山焼けがあった。十三年(九年目)はさる事なく終ったが、十四年(十年目)は、年のはじめから三月のあいだ一滴も雨が降らず、春の終りまでにつぎつぎ五人死に、左太夫、楫取の甚八、水夫の仁一郎、おなじく平三郎の四人だけになったが、船頭の左太夫も追々弱ってきて、秋口からわずらいつき、岩穴の前の岩壁に背をもたせてぼんやりと畑をながめているようになった。
 享保十五年の正月、この島に居着くようになってから、十一年目ではじめて沖を行く帆影を見た。焼山へ茅を取りに行っていた平三郎が、それをみつけた。
「船だ、船だ、おゝ、あそこへ行く」
 と狂気のように沖の一点を指さした。
「こうしてはいられまい。甚八ぬし、仁一郎ぬし、早くまねきをあげてくれ。おれは焼山で茅をもやす」
 そういうと、焼山のほうへ駆戻って行った。
 こういうこともあろうかと、かねてこしらえておいた吹流しの麾があった。甚八と仁一郎の二人がそれにとりつき、岩穴の前に立って大段おおだんに振りたてた。
「その船、待て、助けてくれ」
「おうい、その船え」
 岩穴のまなかい、沖合八里ほどのところを、おどろくような帆数をあげた見馴れない船が、空を飛ぶかというような勢いで北東に走っている。舳先へさきがこちらに向くかと思ったが、それは眼のあやまりで、須臾しゅゆのうちに白い一点になり、間もなく、それも見えなくなってしまった。

 麾を投げだし、甚八と仁一郎が気抜けしたような顔で坐っているところへ、平三郎がぼんやり山から降りてきた。
「これで運はきまった。この十年、藻草をせせってりきんでいたのは、いつか国に帰れるという望みがあったればこそだが、こういう成行では、辛い思いをして、無理に生きてゆくことはない。おれは海へ身を投げて死ぬ。生身いきみではかなわぬなら、魂だけでもいまの船にあずけ、新居の港まで送ってもらうつもりだ。お船頭、それから、甚八ぬし、仁一郎ぬし、ながながお世話になったが、これがお別れ、どうか達者で暮してくだされ」
 岩穴の口で、うつらうつらしていた左太夫が、平三郎のそばへ這い寄ってきた。
「平三郎、話はそこで聞いていたが、死ぬというのは悪い料簡りょうけんだ。おれは六十二だが、命のあるかぎりは、生きて行くのがつとめだと思っている。また、帰国の望みも捨てない。天地は広大だが、われらの眼の力は、十里の先は及ばない。いまという今は、海原うなばらしか見えないが、便り船はついそこまで来ていて、半刻はんときのうちに、帆影を見せまいものでもない。病って死ぬのは、これは定命。国にいようと海にいようと、定命の長さに変りはないが、どれほど行先があるか知れぬおのれの命を、おのれで縮めることだけは、まアやめにしておけ。いい折だから言うが、四人の中ではお前が年下だ。順序からいっても、この先いちばん長く生きるのはお前だから、いまのうちに御船印と浦賀奉行の御判物ごはんものを預けておく。馬鹿な考えをおこさずに、ふんばりかえって生きられるだけ生き、国へ帰って、たのしく山川の姿を眺めてくれい」
 そういうと、寝たまも離したことのない御判物の袋をとって平三郎の首にかけた。
 その年の暮、左太夫は腹をらし、食物が咽喉を通らなくなって、枯れるように死んだ。
 享保十六年の四月、また山焼けがあった。
 十七年の正月、土佐の流れ船が着いた。船頭長平、水夫源右衛門、長六、甚兵衛、四人の乗組みで、土佐のかんノ浦を出帆したところで時化に遭い、五十日も漂い流れてこの島に着いたのである。
 待ちに待った船は来たが、便たよぶねにはあらで、流れ船だった。それも眼もあてられないようなひどい破船で、よくも今日までしのいできたと思うばかりの体裁だった。乗組みはみな半死の病人で、水夫の源右衛門は頭まで腫れあがって眼も開けられず、陸地にあがったというばかりのことで、三日ほど後、息をひきとった。
 島方の三人は、重湯おもゆをとるやらかゆをつくるやら、その間にあかざの葉の摺餌すりえをこしらえ、藤九郎の卵を吸わせ、一日中、病人の介抱に忙殺された。いっそ張合いができ、生きていくことがたのしくなったが、そうまでした介抱の甲斐もなく、八月に長六が、九月に甚兵衛が、「かたじけなかった」と、虫のような声で、三人に礼をいって死んだ。船頭の長平だけは、やっとのことで持ちなおしたが、すっかり気落ちして、海の色を見るのもものうくなったらしく、岩穴の奥にひっこんで、念仏ばかりとなえていた。
 享保十八年(十四年目)の正月早々、また流れ船がついた。大阪の五百石積みで、船頭儀右衛門以下十二人の乗組みで武蔵の江戸川を出帆し、下総の犬吠岬まで走ったところで西北の風に追い落され、これも五十日あまり漂流するうちに、形のないまでに船を壊し、今日か明日か、海の底に沈んで、みな魚の餌食になるものと覚悟していたところ、はしなくも、身一つでここの島根に着いたと、船頭の儀右衛門が、涙をこぼしながら先着の四人に語って聞かせた。
 船頭につづく十二人の舟子ふなこは、破船を見捨て、十町も沖から島に泳ぎ着いたというだけあって、いずれも倔強くっきょうな連中ばかりであった。そのなかに久七という鍛冶かじの心得のあるものや吉蔵という指物師がいて、足らぬがちの島の暮しを見て気の毒がり、ありあう道具で、手廻りの道具をいろいろこしらえてくれた。左太夫が死んでからは、米作りの仕事もやりっぱなしになり、せっかくの力米も枯れかけていたが、大阪組のおかげで、これもすこやかに立直った。
 翌十九年、大阪船と月も日もおなじ正月の五日に、またもや親船おやぶねを壊した舟子が流れ着いた。
 朝早く、浜へ潮垢離しおごりをとりに行っていた土佐船の長平が、甚八たちのいる岩穴へ駆けこんできた。五人ばかりの人が乗ったはしけが、こちらへ漕ぎ寄ってくる。生憎と岸波が強く、放っておけば、岩根にぶちあててしまうから、なんとかしてやらねばなるまいといった。
 島組の三人が東の入江へ出てみると、木箱のようなものを積込んだ艀が、いまにも沈みそうなようすで、真向に入江へ漕ぎよってくる。なぎのときは手頃な入江だが、風が吹くと、悪い潮騒しおざいがたって危険な場所になる。甚八、仁一郎、平三郎の三人は、入江のそばの小高いところへあがり、沖に向って、もっと東のほうへ艀をまわせと手真似をすると、どうしたのか、その艀は舳先へさきを向きかえて、沖のほうへ逃げだして行った。

「これはどうしたものだ」
 三人は呆気にとられて沖を見ていたが、甚八は思いついたように、
「どうしたって、逃げださずにはいられまい。われらは、たがいに見馴れて、なんとも思わぬが、面は猿のように赤く、髪は蓬々ぼうぼうひげは蓬々、手足は餓鬼のように痩せ、着ているものは藤九郎の羽根を綴りあわした天狗の装束ときている。知らぬものには鬼のように見えるだろう。われらはひっこんで、大阪船衆に出てもらわなくてはなるまい」
 といって笑った。
 大阪組が岸へ出て船繰りをし、人間と荷物を痛めもせずに岩端いわばなにひきあげた。
 それは船頭栄右衛門、水夫八五郎、総右衛門、善助、重次郎の五人で、日向ひゅうが志布志しぶし浦を出帆して日向灘でかじを折り、潮の流れに乗ってそのままこちらへ流されたものであった。
 島のかたちは、元日の朝から見ていたが、逆風におしまくられて近寄ることができない。それで艀で漕ぎつける決心をしたが、岩山ばかりで、人の住んでいるようすもない。長くは居着けそうもない島だから、流木を集めて船づくりをし、一日も早く島から出る才覚をする。そのためには、わずかばかりの粮米などより、船ごしらえの道具や帆布、綱手などのほうが大切と、米は捨て、道具だけを積んで漕ぎ寄せたが、意外な人のかたちに鬼のいる島だとづき、恐ろしさが先に立って、わけもなく逃げにかかったのだといった。
 これで島の人間は二十人になった。
 船頭の左太夫が、潮の流れがこうあるからには、かならずこの後も流れ船がくるといったが、まさしく見透した。遠州から、土佐から、大阪から、日向から、出た港はそれぞれにちがうが、おなじ潮の流れにみちびかれてひとつの島にまり、ともしい食物を分けあうというのは、ただならぬ因縁事と思うが、こういう大人数に成上り、二十人の男どもがいいほどに餓えを凌ぐのに、島の幸だけでは事足らぬようになった。磯草も大方は食い尽し、貝のあり方も知れている。藤九郎のほうも人を恐れるようになって、焼山の高いところへ移ってしまい、首の骨を折る覚悟で這いのぼっても、たやすく仕止めるわけにはいかなくなった。それでみなが寄りあい、腹を割って相談した結果、島裏しまうらの潮の流れが通っているところには、かならず魚が寄っているはずだから、日向組のはしけで島裏へ行き、魚をとって食代くいしろをふやすことになった。
 見込みどおり、ときには思いがけぬような漁があって、かすかすに命をつなぐ目安だけは立ったが、海の荒れるときは艀を出されず、飽くほどのことにはいたらなかった。
 その年の秋、大阪船の五兵衛と忠八が死に、二十年の春早々、大阪船の忠助と日向船の善助というのが死んだ。
 遠州船の三人のほうは、島に居着いてから、その年で十七年になる。思えば長い島暮しだった。なかばあきらめ、故郷の山川の姿もあまり夢に出てこなくなったが、命のあるうちに国へ帰って、郷里の人々の顔が見たい。日向船の組が船ごしらえの道具を持ってきたと聞いたときから、どうにかならぬものかという思いが、いつも三人の心にあった。どうしてもあきらめきれぬので、ある日、甚八がみなに相談を持ちかけた。
「ならぬとわかっていながら、国へ帰る相談など持ちだすのは、罪な話だと思うだろうが、まアどうか聞いてもらいたい。おのれのことを吹聴するようでおかしいが、おぬしらも知っている岩穴の前の畑は、われわれの船頭の才覚で、鳶口とびぐちで岩を突きやわらげてつくったものだ。打明けたところ、真先に反対したのはこのおれだったが、やってみたら、やれた。そこで話だが、大阪船の久七ぬしは鍛冶の心得があり、日向船の八五郎ぬしは船をつくったことがあるという。せっかく道具も器量も持ちあわしているのだから、思いきって、船づくりをはじめてみたらどうだろう」
 それについて、八五郎がいった。
「われらのつもりでは、五人を乗せる船をつくればよいと、そういう船の形ばかり思案していたが、この島へ来て、おもいもかけぬ人数におどろき、船づくりのほうはさっぱりとあきらめてしまった。二十人からの人間を乗せ、何百里の海を走らせるには、これはもう相当な船でなければならぬ。とても叶わぬ望みだと思い捨てにしたが、いまの甚八ぬしの話で、思いなおした。やったらやれたという一と言が、きもにこたえた。わしのほうから頼むのだが、ここで思いきった大船をつくる。どうだろう。みなの衆、ひとつ手を貸してはくれまいか」
 もとより異議のあろうはずはなく、仕掛から仕上げまで、大体三年と踏み、とりあえず久七がふいごを一座つくることになった。船材はいまある艀と、入江に流れ着く破船の古材を使うことにし、かわるがわる入江へ出て、たよりになる船材や丸木の着くのを待っていたところ、五十二日目に船底に使うのに恰好な厚いくすの板がうちあがってきた。丸木は生皮を剥いで水に漬け、貝殻を焼いて漆食しっくいをこしらえた。時化こそはなによりの望みで、暴風のあとでうち寄せる浮木のようなものまで、丹念にとり集めて古釘で打ちつけ、三年がかりで、長さ七十尺の船をこしらえあげた。元文元年の二月のことだった。
 船ができたところで、渡航の準備にかかった。大桶おおおけに二年がかりで天水をとり溜め、魚は海水に漬けて空乾からほしにし、元文四年の春のはじめ頃に、いっさいの準備が完了した。出帆を六月中旬ときめ、このあと島に流れ着くもののために、岩穴前の畑にもみを三斗蒔き、四組の舟子がこの島に漂着した顛末てんまつ、この島での食餌しょくじのありかた、籾のとりかた、衣服のつくりかた、天水のとりかた、船づくりの方法などをくわしく木片に書きつけ、船の雛形と船づくりの道具一式、鞴、燵石ひうちいし、鍋一つを木箱に入れて岩穴の奥におさめ、入口に木標を立てて印にした。
 元文四年六月十日、遠州組三人、土佐組一人、大阪組八人、日向組四人、合せて十六人が手製の船に乗って島を離れた。遠州組の三人は在島二十一年、甚八は六十七歳、仁一郎は六十一歳、平三郎は四十二歳になっていた。七月上旬、青ヶ島に着き、そこから八丈島に送られ、流人御免るにんごめんの御用船に乗せられて、九月上旬、命つつがなく江戸の土を踏んだ。

底本:「久生十蘭全集 」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1975(昭和50)年6月15日第1版第3刷発行
初出:「オール讀物」
   1952(昭和27)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:佐野良二
校正:伊藤時也
2010年8月24日作成
2011年4月22日修正
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