※(ローマ数字1、1-13-21)

 さる教養ある家庭で、友人たちがお茶のテーブルをかこみながら、文学談をやっていた。やがて仕組みとか筋とかいった話になる。なぜわが国では、そうした方面がだんだん貧弱でつまらなくなって行くのだろうと、口々に慨歎する。わたしはふっと思い出して、亡くなったピーセムスキイの一風変った意見を披露した。彼によると、そうした文学上の不振は、まず第一に鉄道がふえて来たことと関係がある、けだし鉄道は商業にとってこそ有益だが、文芸にはむしろ害をなす、というのである。
「今日の人間はずいぶん方々を旅行してまわるが、ただそれが手っとり早い暢気な旅なのだ」と、ピーセムスキイは言うのである、「だから別にこれという強烈な印象ものこらないし、とっくり観察しようにも、相手の物もなければ暇もないから、――つまり上っ滑りになってしまう。だから貧弱になるわけだ。ところが昔はモスクヴァからコストロマーまで、替馬なしで乗りとおすなり、乗合馬車で揺られて行くなり、宿場宿場で乗り換えて行くなりしてみれば、――とんだもうろう馭者にぶつかることもあろうし、図々しい相客に出くわすことも、はたごの亭主が悪党で、おさんどんが鼻もちのならぬ不潔もの、といった悲運に際会することもあるわけで、たんと色んな目にあえるというものである。おまけにとうとう堪忍ぶくろの緒が切れたとして(たとえばスープの中に何か変てこなものがはいっていたのでもいい――)、そこでそのおさんどんを怒鳴りつけてでもみたまえ。向うはその返礼に、十そう倍もの悪態を投げ返してくることになって、その印象たるやちっとやそっとでは抜け出られぬ深刻なものがあろうことは、まずもって請合いである。しかも印象そいつがぐつぐつと胸の底のへんにたたなわっている有様は、一日一晩オーヴンの中へ入れっぱなしで醗酵させた麦粥にことならず、――だからつまり、書く物のなかへだって、ぐつぐつと濃く出てくるのは理の当然である。ところで今日じゃ、そうした一切が鉄道式のテンポで運ばれるのだ。皿を手にとる――問答無用である。口へ抛り込む――噛むなんて暇はない。ジリジリジーンと発車のベルが鳴りだせば、もうそれで万事休すだ。汽笛一声、またポッポッポと出てゆく。そして残る印象といえばせいぜい、ボーイが釣銭をちょろまかしおったということぐらいなもので、そいつを腹の虫のおさまるまで取っちめてやろうにも、今や時すでに遅しなのである」しかじか。
 すると客の一人が乗りだして、なるほどピーセムスキイの見方は一応おもしろいが、惜しむらくは当っていないと言い、ディッケンズの例をもちだした。この作家は、すこぶるスピード旅行のはやる国でものを書いたのだが、それでいてその見聞も観察もなかなか豊富で、その小説の筋には、別段これといった内容の貧寒さは見られないではないか、というのである。
「もっともこれは、彼の書いたクリスマス物語だけは例外じゃあるけれどね。勿論あれだって立派なものにちがいないが、なんといっても単調なところがある。とはいえ、作者の罪を鳴らすのは不当だよ。なにしろあれは、形式があんまり固くきっちりと決まっていて、作者が身うごきのとれない感じのする、そんな文学上の一ジャンルなのだからね。いやしくもクリスマス物語と名乗る以上は、ぜひともクリスマスの晩におこった出来ごと――つまり御降誕から洗礼祭までに起った事件をあつかわなけりゃならんし、それにまた、ある程度まずファンタスティクたることを要するし、なんらかの教訓(よしんばそれが、有害なる迷信を打破するといった性質のものにしてもだ――)を含まなければならんし、も一つおまけに、是が非でもめでたしめでたしで終らなければならんのだ。ところが人生には、そうしたお誂えむきの事件はまことに少ないのだから、作者は否でも応でも、その註文にあてはまった筋書をひねり出したり、でっち上げたりしなければならん羽目になる。だからつまりクリスマス物語には、作為の跡だの単調さだのが、ひどく目につくことになるのさ。」
「なるほどね。だが僕は、必らずしも君のその見解には賛成できないね」と、三人目の客がそれに応じた。これはなかなか立派な人物で、その発する一言はぴたりと的にあたるものがあったのである。だから一同は、よろこんでその声に耳をかたむけた。
「僕はこう思うな」と彼はつづけた、――「もちろんクリスマス物語には一定のワクはあるにしてもそのワクの中で色々と趣向を変えることが出来るはずだし、その時代なり時の風俗だのを反映させて、興味津々たる多彩多様さを発揮できもするはずだとね。」
「だが、君はその意見を、いったい何をもって実証するつもりかね? なるほどと思わせるためには、君自身ひとつ、ロシヤ社会の現代生活のなかから、そんな事件をとり出して見せてくれるべきだね。時代とか現代人とかいうものも立派に反映しており、しかもそれなりにクリスマス物語の形式にも註文にもあてはまって、――つまりちょいとファンタスティクでもあり、なんらかの迷信の打破にも役だつものであり、おまけにめそめそしたのじゃない、明るい結末のついたものでもある、――そんな奴をね。」
「おやすい御用さ。お望みとあらば、そんな話を一つお目にかけてもいいがね。」
「そいつは是非たのむぜ! ただね、これだけは一つ、しっかり願いたいんだが、その話というのは、ほんとにあった事でないと困るぜ!」
「ああ、そこは大船に乗ったつもりでいたまえ。僕がこれから話そうというのは、本当も本当、正銘いつわりなしの実話な上に、その登場人物がまた、僕にとって頗る親密かつ親愛なる連中なのさ。実をいうとその主人公は、ほかならぬ僕の実の弟なのだ。あれは、たぶん諸君もご承知かと思うが、なかなか心がけのいい役人でね、それなりにまた、世間の評判もなかなかいい男なんだよ。」
 一同は異口同音に、いかにもそれは兄貴のいう通りだと相槌をうった。のみならずその多くは、この語り手の弟なる人物は、まったく一点の非の打ちどころもない立派な紳士だと、太鼓判をおしさえしたのである。
「でまあ」と、相手はこたえた、――「つまり僕は、諸君が立派な紳士だと言ってくださる、その男のことを話そうというわけなのさ。」

      ※(ローマ数字2、1-13-22)

 そう、三年まえの話だがね、弟はクリスマスの休みを利用して、田舎から僕のうちへ泊りに出てきた。当時あいつは、田舎まわりの役人をしていたのだ。ところがその様子が、いつにない猛烈な剣幕でね、――乗り込んでくるなり、いきなり僕や家内にむかって、是が非でも「女房を持たせてくれ」と切りだしたものなのさ。
 僕たちは初めのうち、冗談だろうぐらいに思っていた。ところが、どうして奴さん大まじめで、「女房を世話してください、後生です! このやりきれない孤独地獄から、ぼくを救ってください! 独身生活はもうつくづく厭になりました。田舎の連中の小うるさい陰口や根も葉もない取沙汰には、もうこりこりです。――自分の家庭というものが欲しいんです。夜のひと時を自分のランプのほとりで、可愛い女房と差し向いになりたいんです。女房を世話してくださいよ!」と、しつこくせがみつづける始末なのさ。
「だがまあ、そう足もとから鳥の立つみたいなことを言ったって」と、われわれは一応なだめざるを得ない、――「なるほどそれは一々結構なことだし、お前さんの好きなようにするがいいさ。神様から良縁をさずかって、結婚するのがよかろうさ。ただね、そうせっかちなことを言っても困るなあ。だいいち、お前さんの気持にもすっぽりはまり、先方でもお前さんが大好きだ――というような娘さんを、まず捜してかからなくちゃなるまいじゃないか。それには何といっても時間がかかるよ。」
 ところが弟の返事は、
「だからさ、時間はたっぷりあるじゃないですか。聖期節の二週間は、結婚式をあげるわけには行かないのですから、その間に縁談を決めてくださればいいんですよ。そして洗礼祭の晩になったら結婚式をあげて、すぐその足で田舎へたつんです。」
「おやおや」と僕は呆れて、――「だがね、お前さん、独身生活のわびしさで、少々気がふれたんじゃないかね。(『精神病』なんて気の利いた言葉は、当時まだ使われていなかったものでね。)僕はこう見えても、お前さん相手にマンザイの真似をしていられるほどの閑人じゃないんだよ。これからすぐ、裁判所へ出勤しなけりゃならん。まあ僕の留守のまに、うちの女房を相手に、好きなだけ夢物語をやるがいいさ。」
 僕にしてみれば、弟の話はどだい問題にならんナンセンスか、まあそうでないまでも、とにかく実現性のすこぶる薄い一片の空想としか思えなかったのだ。ところが豈はからんや、その日の夕飯どきに帰宅してみると、柿はすでに熟していたという次第なんだ。
 家内が僕に言うには、――
「あのね、マーシェンカ・ヴァシーリエヴナさんが見えましてね、晴着の寸法をとるんだから一緒について行ってくれと仰しゃるんですの。そこでわたしが着替えをしていますと、そのひまに二人は(というのはつまり、弟のやつとその娘さんだがね――)お茶のテーブルで差向いになっていましたの。そのあとで弟さんは、『そら、あんな素晴らしい娘さんがいるじゃありませんか! この上なんのかんのと選り好みをすることがあるもんですか、――あの人を貰ってください!』って、そりゃもう大騒ぎなんですの。」
 僕はこう返事をした、――
「さてさて、舎弟はいよいよ以て御乱心と決まったわい。」
「まあ、なぜですの」と、家内は逆襲してきた、――「なぜこれが『御乱心』にきまっていますの? 常ひごろ、あんなに尊重してらしたことを、なんだっていきなり手の裏を返すようなことを仰しゃるの?」
「僕が尊重してたって、そりゃ一体なんのことだい?」
「そろばん抜きの共鳴よ、心と心の触れ合いよ。」
「いやはや、おっ母さんや」と僕は言ったね、――「そうは問屋が卸さんぜ。それが良いも悪いも、時と場合によりけりだよ。その触れ合いというやつが、何かしらこうはっきりした意識、つまり魂や心のはっきり目に見えた長所美点といったものの認識――に基いているような場合なら、それももとより結構さ。だがこいつは、――一体なんのことかね……一目みたとたんにもう、一生涯の首かせが出来あがっちまうなんて。」
「そりゃまあそんなものだけど、じゃ一体あなたは、あのマーシェンカのどこが悪いと仰しゃるの?――あの子は現にあなたも仰しゃる通りの、頭のいい、気だての立派な、親切で実意のある娘さんじゃありませんか。それに、あの子の方でも、弟さんがすっかり気に入ってしまったのよ。」
「なんだって!」と僕は思わず絶叫したね、――「するとお前はもう、あの子の気持をまで、首尾よく確かめたというわけなのかい?」
「確かめたと言っちゃ、なんですけれど」と家内はちょっと言いよどんで、――「でも、見れば分るじゃないの? 愛というものは、憚りながらわたしたち女の領分ですわよ、――ちょっとした芽生えだっても、一目みりゃ一目瞭然ですわ。」
「いやはや君たち女というものは」と、僕は言ってやった、――「みんな実に卑劣きわまる仲人だなあ。誰かを一緒にしさえすりゃそれでいいんだ。その先がどうなろうと、――あとは野となれ山となれなんだ。自分の軽はずみからどんな結果になるか、ちっとは空恐ろしく思うがいいぜ。」
「だって、すこしも」と家内はすましたもので、――「空恐ろしいことなんかありませんわ。何しろわたしは、二人ともよく知っていますもの。弟さんはあの通り立派な紳士だし、マーシャはマーシャで、あの通り可愛いらしい娘ですしさ。おまけに二人は、ああしてお互いの幸福のため一生けんめい尽しますって約束した以上、きっと約束は守るにちがいないわ。」
「な、なんだって!」と、僕はわれを忘れて情けない声を立てた、――「あの二人は、もう約束までかわしたのかい?」
「ええ」と家内は答える、――「そりゃあ、まだ口に出してこそ言わなかったけど、そこは以心伝心というものよ。二人とも趣味も好尚もぴったり合ってるわ。だからわたし、今晩弟さんと一緒に先方へ出かけていって来ますわ。――弟さんはきっと老人夫婦の気に入るにちがいないし、その先は……」
「へえ、その先は?」
「その先は、二人でいいようにすればいいわ。ただね、余計な口を出さないで下さいよ。」
「いいとも」と僕はいう、――「いいとも。そんな馬鹿馬鹿しい問題に口を出さずにいられるのは、すこぶる有難い仕合わせだよ。」
「馬鹿げたことなんかになるもんですか。」
「それは結構。」
「とてもうまく行くにきまってるわ。幸福な夫婦ができあがってよ!」
「ありがたい仕合わせだな! ただしだね」と僕は言う、――「弟のやつもお前も、これだけは一応心得ておいても無駄じゃあるまいが、マーシェンカの親父さんは、世間に誰知らぬ人とてない金持の握り屋だぜ。」
「それがどうかしましたの? 残念ながらわたしも、その事だけは反対の余地はありませんけど、かといって別だんあのマーシェンカが、立派な娘さんでなくなるわけでも、立派な嫁さんになれなくなるわけでも、ないじゃありませんか。あなたは、きっと忘れておしまいになったのね、ほら、二度も三度もわたしたちが論じ合ったあの事を。ねえ、思いだしてごらんなさいな、――トゥルゲーネフの小説に出てくる立派な女たちは、選りに選ってみんな、すこぶる俗っぽい両親を持っているじゃありませんか。」
「いや、僕の言うのはそんな事じゃないんだ。いかにもマーシェンカは、実に立派な娘だよ。ところが考えてごらん、あの親父と来たら、上の二人の娘を嫁にやるとき、婿さんを二人とも一杯くわせて、びた一文つけてやらなかったんだぜ。――マーシャにだって、一文もよこさないに決まってるよ。」
「どうしてそれが分りますの? あの親父さんは、あの子が一ばん可愛いのよ。」
「いや、おっ母さんや、まあたんと皮算用をしたけりゃしなさいだがね。嫁にやってしまう娘にたいするあの連中の『格別の』愛情なるものが、一体どんなものだか、ちゃんと分っているじゃないか。みんな一杯くわされるんだよ! それにまた、あいつにして見りゃ、一杯くわさずに済ますわけには行かんのさ、――何しろそれが、あの男の立ってる土台なんだからねえ。世間のうわさじゃ、あの男が財産を築きあげたそもそもの始まりは、非常な高利で抵当貸しをしたことだというじゃないか。人もあろうにそんな男から、お前は愛情だの気前のよさだのを捜し出そうとかかっているんだよ。参考までに言っておくが、上の娘たちの婿さんは、二人とも一筋縄ではいかんなかなかの曲者なんだ。それでいながらまんまとあの男に一杯くわされて、今日じゃ犬猿もただならざる仲になっているとすりゃ、ましてやうちの弟なんぞは、何しろ子供の頃からおっそろしく御念の入った弱気な奴だから、指をくわえて追っ払われることなんか、朝飯まえだぜ。」
「一たいなんのことですの?」と家内は聞きかえす、――「その指をくわえる、って仰しゃるのは?」
「まあ、おっ母さんや、そらっとぼけなさんな。」
「いいえ、そらっとぼけてなんかいませんわよ。」
「じゃお前、知らないのかい、『指をくわえる』ってことを? マーシェンカにはびた一文よこすまいってことさ、――困るというのは、つまりそこだよ。」
「まあ、そんな訳でしたの!」
「うん、その通りさ。」
「その通り、全くその通りだわ! そりゃまあ、そんなことかも知れませんけど、ただわたしはね」と家内はいつかな敗けてはいず、――「たとえ持参金はなかろうと、ちゃんとした嫁さんを貰うことが、あなたのお考えだと『指をくわえる』ことになろうとは、ついぞ今まで思いも及ばなかったわ。」
 どうです、いかにも女らしい可憐な筆法、ないし論理じゃありませんか。ひらりと体をかわす拍子に、お隣づきあいの誼みで、ちくりと一本くるんですからねえ。……
「僕はなにも、自分のことをとやかく言うんじゃないぜ。……」
「いいえそうです、じゃ一体なぜ……?」
「いやはや、そりゃ酷すぎるぜ、ねえお前マ・シェール!」
「何がひどすぎますの?」
「なにが酷すぎるって、僕が自分のことなんか一言も言やしないのにさ。」
「でも、考えてらしたわ。」
「いいや、だんぜん考えてもいなかった。」
「じゃ、想像してらしたわ。」
「なにを、ばかな。夢にだって想像していなかったよ!」
「まあ、なんだってそんな金切り声をお立てになるの?」
「べつに金切り声なんか立てやしないさ!」
「だって『なにを』だの……『ばかな』だのって。……そりゃ一体なんですの?」
「それはお前、お前の言うことを聞いてると、ついむしゃくしゃしてくるからさ。」
「へえ、それで分ったわ! そりゃわたしが金持の娘で、持参金をかかえて来たら、さぞよかったでしょうとも……」
「げッ、むむむゥ!……」
 といった次第でね、僕はとうとう嚇として、亡くなった詩人トルストイの言草を借用すれば、『初めは神の如く、終りは豚の如し』の体たらくになっちまったのさ。僕はさも憤然とした様子をして、――けだし正直のところ、あらぬ濡衣をきせられた感じだったからね、――頭をふりふり、くるりと相手に背を見せると、書斎へ引揚げてしまった。それも、いざ後ろ手にドアをしめる段になって、なんとしても腹の虫がおさまらず、――わざわざドアをまた開けて、こう言ってやったものだ、――
「おい、なんぼなんでも卑劣だぞ!」
 すると家内は澄まし返って、
憚り様メルシ、あなた。」

      ※(ローマ数字3、1-13-23)

「ええ、くそ、なんてざまだい! おまけにそれが、とっても幸福な、ほんの一瞬の間だって波風ひとつ立った例しのない、夫婦生活四年間のあげくの果てと来ていやがる!……忌々しい、業っ腹だ――やり切れん! なんて馬鹿げたこったろう。しかも事の起りはそもそも何だ!……みんな弟のやつのせいじゃないか。おまけにこの俺が大人気もなく、こんなにカンカンに息み返るとは、なんてざまだい! 弟のやつはもうちゃんと一人前の大人で、どこの誰が好きになろうと、どこの誰を嫁にもらおうと、じぶんで判断する資格があるわけじゃないか?……やれやれ、今どきじゃもう、生みの息子にだってそんな指図をするのは流行らんというのに、いまだに弟は兄貴の言いなり放題にならなきゃならんというのかい。……第一そんな監督をする権利がどこにある?……そもそも、この俺が、これこれの嫁をもらえば行末はこれこれになるなんて、確信をもって予言できるような、千里眼になれるとでもいうのかい?……マーシェンカはまったく素晴らしい娘だし、うちの女房だってなかなかいい女じゃないか?……おまけにこの俺だって、有難いことに、世間から後ろ指をさされたことはない。だのにその俺たち夫婦が、四年もつづいた幸福な、束の間だって波風ひとつ立った例しのない暮らしのあげくに、こうして熊公お鍋みたいに悪態のき合いをしちまったんだ。……それというのも元をただせば、一向くだらん、たかが他人の馬鹿馬鹿しい気まぐれからじゃないか。……」
 僕はとたんに吾ながら穴へでもはいりたいほど恥かしくなる一方、家内が可哀そうで可哀そうでならなくなった。けだし、家内の吐いた屁理窟なんかはきれいに棚へ上げて、何から何まで自分一人のせいにしちまったわけだね。まあ、そうした侘びしくも遣瀬ない気分で、僕は書斎のソファの上で、ぐっすり寝込んじまったという次第さ。ほかならぬわが最愛の女房が手ずから縫ってくれた、ふかふかした綿入れの部屋着にくるまってね。……
 しなやかな細君の手で、良人のために縫いあげられた着心地のいい不断着というやつは……全くへんに情にからんでくる代物だよ! じつに工合がいいし、じつに懐かしいし、おまけに折よくにしろ折あしくにしろ、まざまざとわれわれ男子の罪悪を思いださせてくれもするし、いやそれのみか、縫ってくれた白い柔手やわでまでが、まざまざと思いだされて、いきなりそれに接吻して、俺が悪かった、赦しておくれ――と言いたくなっちまう。
「赦しておくれ、ねえお前、さっきはついお前の言葉で、むらむらっとしてしまったが。もうこれからは気をつけるからね。」
 そいつがまた、白状するとね、一刻も早く謝まりたくって矢も盾もたまらず、その拍子につい目が覚めちまって、起きあがりざま、書斎からのこのこ出ていったものさ。
 見ると――家じゅうまっ暗がりで、シンとしている。
「奥さんはどこだい?」
 って女中にきくと、
「奥さまは弟さまとご一緒に、マリヤ・ニコラーエヴナのお父様のところへ、お出ましになりました。只今すぐお茶をお入れしますから」という返事だ。
『こりゃ驚いた!』と僕は思ったね、――『するとつまり、あいつとうとう我を張りとおすつもりだな――相変らず弟のやつを、マーシェンカと一緒にしようっていうんだな。……ええ、どうなりと勝手にするがいい。そしてマーシェンカの狸親父に、上の二人の婿さん同様、まんまと化かされてみるがいい。いいやどうして、その段じゃ済むまいぜ。あの婿さんは二人とも相当な曲者だったが、うちの弟ときた日にや、あの通りの正直権現、弱気地蔵だからなあ。まあいいさ、――弟のやつも女房のやつも、たんと瞞くらかされるがいいや。月下氷人なこうどという役がどんなに難かしいものか、第一課でうんと手を焼いてみるがいいや。』
 僕は女中の手からお茶のコップを受けとると、坐りこんで訴訟書類に目をとおしはじめた。それは明日から裁判のはじまる事件で、僕にとってはちょっと骨の折れる仕事だったのだ。
 調べ物につい気をとられて、気がついた時はもう真夜中をだいぶ越していたが、家内と弟とは二時という時刻に、二人ともすこぶる御機嫌さんで帰ってきた。
 家内が言うことにや、――
「いかが、コールド・ビーフを、葡萄酒に水をあしらって召しあがらないこと? わたしたちは、ヴァシーリエヴナさんところで、お夜食をすませて来ましたの。」
「いや」と僕、――「御好意は忝けないがね。」
「ニコライ・イヴァーノヴィチさんたら、すごく気前を見せてね、わたしたちすっかり御馳走になっちまったわ。」
「なるほどね。」
「ええ、――とても愉快で、時のたつのも忘れたほどでしたの。おまけにシャンパンまで出たわよ。」
「そりゃよかった!」と僕は答えて、さて肚の中でこう考えた、――『ははあ、あのニコライの悪党め、うちの弟の御面相から、一目でこりゃいい鴨だわいと見破りおって、腹に一物の御馳走ぜめとおいでなすったな。まず当分は、いずれ縁談が本ぎまりになるまで、ちやほやしておいて、それから矢庭に、――爪牙をあらわそうって寸法だな。』
 その一方、家内にたいする僕の感情は又ぞろ悪化して、さっきは別に悪気はなかったんだから赦しておくれ――なんていう口上は、今更おかしくって言い出せなくなった。いや、それどころか、もし僕にこれという差迫った用事もなくて、この御両人がおっぱじめた恋愛遊戯の一進一退に、いちいち茶々を入れられるほどの閑人だったとしたら、てっきり僕は又しても堪忍ぶくろの緒を切らして、何かしら余計な口出しをして、とどのつまり、出ていけ出ていきます――ぐらいの騒ぎになったに相違ないんだが、幸いにして僕はそれどころじゃなかった。つまり、さっきも言ったその訴訟事件というのが、ひどく手ごわい代物でね、僕たちはもう二六時ちゅう裁判所に詰めきりという始末、この分じゃちょっとクリスマスまでに片づく見込みも立たず、したがって僕は家へはただ飯を食って一寝入りするために帰るだけ、日中と夜の一部分とは法律の女神テミスの祭壇の前ですごすといった体たらくだったのさ。
 その一方、家の方では、事はどしどし運んでいてね、いよいよクリスマス・イーヴというその夕方に、やっとこさで法廷の仕事から解放されて、ほっとして僕が帰宅してみると、待ってましたとばかりいきなりもう、豪勢なバスケットを眼の前へ突きつけられて、さあ一つ検分して頂戴という註文なんだ。そのバスケットには、弟のやつがマーシェンカへ贈物にする高価な品々が詰まっているのさ。
「こりゃあ一体なんだい?」
「花聟さんから花嫁さんへのプレゼントですわ」と、家内が説明する。
「うへっ! もうそこまで来たのかい! いやお目出とう。」
勿論もちよ! 弟さんは、もう一ぺんあんたと相談した上でなくちゃ、正式の申込をするのはいやだと言うんですけど、とにかくああして婚礼をいそいでらっしゃるでしょう。ところがあなたといったら、まるでわざと意地わるをしているみたいに、あの厭らしい裁判所に入りびたりなんですもの。とても待っちゃいられなくなって、婚約をとりかわしてしまったのよ。」
「一段と結構じゃないか」と僕、「ぼくを待つことなんかありゃしないさ。」
「あなた、それは皮肉ですの?」
「皮肉だなんて、とんでもない。」
「それとも、当てこすりですの?」
「いいや、当てこすりもしやせんよ。」
「どっちにしたって無駄骨ですわよ。だって、いくらあなたがギャアギャア仰しゃったところで、あの二人とても幸福な御夫婦になるにきまってますもの。」
「無論さね」と僕、――「君が太鼓判をおす以上、そうなるにきまってるさ。……諺にもあるじゃないか、『思案あまって貧乏くじ』ってね。選り分けるなんてことは、もともと出来ない相談なのさ。」
「まあまあ」と家内は、プレゼントの籠の蓋をおろしながら、――「あなたったら、わたくしども女を選り分けるのは、さもあなたがた男の特権みたいに思ってらっしゃるのね。ところが本当は、そんなこと愚にもつかない空中楼閣なんですわ。」
「へえ、どうして空中楼閣なんだい? 願わくは、娘さんの方で婿えらびをするのじゃなしに、婿さんの方から娘さんに求婚するのでありたいものだよ。」
「そりゃ、なるほど求婚はしますわ、――けれど、念入りに選り分けるとか慎重に選り分けるなんていうことは、とてもあり得ないことですわ。」
 僕はかぶりを振って、こう言った。――
「もう少し、自分の言ってることを、検討して見ちゃどうかね。例えば僕はこうして、君というものを選んだじゃないか、――それというのも、君を尊敬し、君の長所を見抜いたからじゃないか。」
「嘘ばっかり。」
「嘘だって?」
「嘘ですとも、――だって、あなたがこのわたしを選んだのは、決して長所を見ぬいたためなんかじゃないんですもの。」
「じゃ、なんだというんだい?」
「わたしのことを、ちょいといい女だ、と思っただけのことだわ。」
「いやはや、君はじぶんには長所なんかないとでも言うのかい!」
「とんでもない、長所ならちゃんとあります。でもあなたは、わたしのことをいい女だとお思いにならなかったら、やっぱり結婚はなさらなかったでしょうよ。」
 僕は、なるほどこれは一本参ったと思ったね。
「そうは言うけどね」と、僕は陣容を立てなおして、――「僕はまる一年も待って、君の家へかよったじゃないか。どうして僕がそんな真似をしたと思うかね?」
「わたしの顔が見たかったからよ。」
「ちがう、――僕は君の性格を研究していたんだ。」
 家内は、ほゝゝゝと笑いだした。
「そら笑いはよしてくれ!」
「そら笑いなんかじゃなくてよ。そんなこと仰しゃったって、結局なに一つわたしの研究なんかなさらなかったのよ。それに第一、お出来になるはずもなかったのよ。」
「どうしてだい?」
「言ってもよくって?」
「ああ頼む、言ってくれ!」
「それはね、あなたがわたしに恋しちまったからよ。」
「まあ、それもよかろう。だがそれが僕にとって、君の精神的な性質を見るうえの妨げになったわけでもあるまい。」
「なったわ。」
「いいや、ならん。」
「なったわ。しかも誰にだって妨げになるものなのよ。だから、いくら長いことかかって研究したところで、なんの役にも立ちゃしないのよ。あなたは、相手の女に恋していながら、しかもその女を批判的に見てらっしゃるおつもりだけれど、実は空想的にぼんやり眺めてらっしゃるに過ぎないのよ。」
「ふうむ……だがなあ」と僕、――「どうも君は、なんだかその……ひどく現実的だなあ。」
 そのじつ内心では、なるほどその通りだ! と思ったね。
 家内はことばをつづけて、――
「思案はもう沢山だわ、――とにかく幸先さいさきはいいんだから、さあ早く服を着かえて、一緒にマーシェンカのところへ行きましょうよ。わたしたち、今日はあの家でクリスマスを迎えることになっているのよ。それにあなたも、あの子や弟さんに、お目出とうを言わなくちゃいけないわ。」
「恐悦至極」と僕は言って、一緒に出かけた。

      ※(ローマ数字4、1-13-24)

 先方に着くと、まず贈物の捧呈式があり、ついで祝詞の言上があり、それからわれわれ一同は、シャンパーニュ州の妙なる美酒にいいかげん酩酊した。
 もはや斯くなる上は、思案も相談も諫止とめだても、いっさい手おくれだ。残されたことはただ一つ、婚約の二人の行手に待っている幸福にたいする信念を、一同の胸中にり立てて、シャンパンを飲むだけである。まあそんなあんばいで、あるいは僕の家で、あるいは花嫁の実家で、日は夜につぎ、夜は日についだというわけだった。
 そうした気分でいると、時の長さを覚えるなんてことはまずあるまいね?
 全くあっと思うまもあらばこそ、たちまちもう大晦日が来ていた。よろこびを待ちもうける気分は、ますます濃くなってくる。世間の人は誰もかれも、よろこびごとを祈念して胸をわくつかせているが、もとより僕たちも敢えて人後に落ちなかった。僕たちは又もやマーシェンカの実家で新年を迎えたが、それこそわれらが先祖の言葉じゃないが『たらふくたべ酔うた』もので、まさに『飲む楽しみはロシヤならでは』という先祖の名言を、みごと実証してのけた次第だった。そのなかで、ただ一つだけ芳ばしくないことがあった。というのは他でもない、――マーシェンカの親父さんは、相変らず持参金のことはおくびにも出さずにいたが、その代り娘に、奇妙きてれつな贈物をしたのだ。いや、奇妙なばかりじゃなくて、後になって僕にも分ったことだが、それは全く許すべからざる、縁起のわるい贈物だったのだ。彼は夜食の最中に、一同の眼のまえで、手ずから娘のくびに、立派な真珠の首飾りをかけてやったのだよ。……われわれ男連中は、その品物を一瞥して、むしろ『こいつは素晴らしいわい』と思ったものだった。
「ほほう、――あれは一体どのくらいの値打ちのものかな? 何しろあれほどの品であるからには、名門出の富豪連中がまだ質屋へものを曲げにやるまでにならず、何かひどく金のいるような時には、むしろこのマーシェンカの親父さんみたいな内密の高利貸の手に、財産を委託する方を快しとした、そんなふうの天下泰平な大むかしから、秘蔵されているものらしいな」と、まあそんなことを考えた次第なのさ。
 その真珠は大粒で、ふっくらと円みがあって、ひどく冴え冴えした色気のものだった。のみならず首飾りの作りは、いかにも昔風の好みで、いわゆるルフィール型とか瓔珞ようらく型とか呼ばれるあれだった。――つまり背後のところは、小粒ながら一ばんまん円なカーフィム真珠でもって始まって、だんだん大粒になるブルミート真珠がそれにつづき、やがて下へ垂れるあたりになると大豆ほどの粒がつらなって、最後のまん中の部分には三粒のびっくりするほど大きな黒真珠が、群を抜いて美しい光耀かがよいをはなっている、という仕組みなのだった。この見事でもあり高価でもある贈物の前に出ては、うちの弟のプレゼントなんかは月夜の星も同然、すっかり気おされてしまった。手みじかに言ってしまえば、われわれむくつけき男連中は、一人のこらずマーシェンカの親父さんの贈物を素晴らしいと思い、おまけにその首飾りを渡すにあたって老人の述べたことばまでが、気に入ったという始末だった。つまりマーシェンカの親父さんは、その重宝じゅうほうを娘にかけてやってから、こう言って聞かせたのだ、――『さあ娘や、これをお前に上げる。ついでに呪文を附けておこうね、――この品は錆も朽ちさすことなく、ぬすびとも奪うことなく、まんいち奪うたとしても、かならず業報あり。これは、とこしなえじゃ』とね。
 ところが婦人れんになると、何につけてもめいめい小うるさい一家言をもちだすものだし、当のマーシェンカなどは、首飾りをもらってから、さめざめと泣きだしたものだった。僕の家内にいたってはなんとしても腹の虫を抑えかねて、うまい機会をつかむと、早速ニコライ・イヴァーノヴィチを窓のところへ引っぱって行って、文句を並べ立てさえしたものだ。相手はまあ親類のよしみで、おしまいまで我慢して拝聴していたがね。なぜ真珠を贈物にして文句を言われたかというと、つまり真珠というものはなみだの象徴でもあり前兆でもあるというのだ。だから真珠は決して新年の贈物には使われないというのだ。
 ところが相手もさるもの、ニコライ・イヴァーノヴィチは、まんまと冗談で言いまぎらしてしまったのさ。
「いやそれは」と奴さんは言うんだ、――「まず第一に、単なる迷信にすぎんですわい。もし誰か奇特な仁があって、ユスーポフ公の奥方がゴルグーブスからお買上げになった真珠の一粒を、このわしに贈物にしようと言われるなら、わしは即座に頂戴しますわ。このわしも、な奥さん、やっぱり昔は一通りそんな縁起をかつぎ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したものでしてな、贈物には何が禁物かぐらいは、ちゃんと心得ておりますよ。娘さんがたに贈ってならんのは、あのトルコ玉ですて。というわけは、ペルシヤ人の考えで行くと、トルコ玉というものは恋患いで死んだ人間の骨だそうですからなあ。また、奥さんがたに贈ってならんのは、キューピッドの矢のはいった紫水晶ですて。もっともわしは、そんな紫水晶をためしに贈物にしたことがありますが、奥さんがたは受納されましてな……」
 家内は思わずほほえんだ。相手はことばをつづけて、――
「そのうちあなたには、そんなのを一つ差上げるとしましょうて。さて真珠のことですが、一口に真珠といってもじつに千差万別でしてな、かならずしも真珠はどれもみんな、泣きの涙で採集されるものとは限りません。ペルシヤ真珠もあれば、紅海で採れるのもある。淡水まみず――すなわちオー・ドゥスで採れたのもあって、これなら採集に涙はいりません。あの多感なマリ・スチューアートは、スコットランドの川でとれたいわゆるペルル・ドー・ドゥスでなければ身につけなかったけれど、それがべつに幸運を運んで来てくれもしなかったですわい。わしは何を贈物にしたらよいかということを、ちゃんと心得ていて――そのよいものを娘に贈るのですが、あなたは騒ぎ立ててあの子を怖気づかせなさる。そのお礼に、キューピッドの矢のはいったのを差上げることは取りやめにして、代りにあの冷静な月光石を献ずることにしましょう。さ、娘や、もうお泣きでない。わしの今やった真珠が涙を運んでくるなどというつまらん考えは、頭から掃き出してしまうがいい。これはそんなのとは訳がちがう。お前の婚礼がすんで翌る日になったら、わしはお前にその真珠の秘密を明かすとしよう。その時になったらお前にも、迷信なんぞちっとも怖れることはないと、合点がいくだろうて。……」
 といった次第で、その場の騒ぎもおさまって、うちの弟とマーシェンカの婚礼は、主顕節がすむと早々あげられた。さてその翌る日、僕たち夫婦は、若夫婦のご機嫌奉伺に出かけていった。

      ※(ローマ数字5、1-13-25)

 行ってみると、向うの御両人は今しがた起きたところで、ご機嫌も常になく上々吉だった。弟のやつは、新婚の日にそなえてあらかじめ旅館にとっておいた部屋のドアを、手ずから開けて、喜色満面、からからと高笑いしながら、われわれを迎えてくれた。
 それを見て僕は、ある古い小説を思いだしちまった。それは新郎が嬉しさあまって発狂するという話だったが、僕がそいつを、当てられた腹いせがてら弟に話してやると、奴さんこんな返事をした、――
「いや、ちょうど兄さんの言われるようなことが、じっさい僕の身にも起りましてね、こいつはどうも吾ながら気が変になったのじゃあるまいかと、そう思ってた矢先なんです。今日ここに初日をあけた僕の家庭生活は、わが最愛の妻に期待していたよろこびを僕にもたらしたのみならず、舅どのからまで、予期せざる福運を授けてもらったという次第なんです。」
「そりゃまた一体、何ごとがもちあがったんだい?」
「まあ、ずっとお通りください、お話ししますから。」
 家内は僕に耳うちして、
「てっきりあの古狸のやつに一杯くわされたんだわ。」
 僕はこたえて、
「おれの知った事じゃないよ。」
 さてわれわれが通ると、弟は封の切ってある一通の手紙をわれわれに示した。それはその朝はやく市内郵便で、両人の名宛で配達されたもので、次のような文面だった、――
『真珠にからむ迷信などにびくつくこと一切無用なり。あの真珠はにせものなれば。』
 家内は、どうとばかり尻餅をついちまった。そして、
「ちぇっ、ひどい奴!」と、ただ一言。
 ところが弟は、マーシェンカが寝室で朝化粧をしている方角を、あごで指してみせながら、こう言うのだ、――
「姉さん、そりゃ違います。あの老人のやり方は正々堂々たるもんですよ。僕はこの手紙をうけ取って、一読おもわず呵々大笑しましたね。……一体なんの泣きべそかくことがあるんです? 僕のさがしていたのは持参金じゃなく、またそれが欲しいとも言いやしませんでした。僕のさがしていたのは、女房だけです。だから、あの首飾りの真珠が本物じゃなく、じつは似せ物だったと聞かされたところで、僕はちっとも痛くも痒くもありゃしません。よしんばあの首飾りの値打ちが一万三千ルーブリじゃなくて、ただの三百ルーブリだとしても、――僕の女房が仕合わせでいてくれさえすりゃ、要するにどうだっていいことじゃありませんかね。……ただ一つ僕が心配だったのは、これをどうマーシャに伝えたらいいか、ということでした。思いあぐねて、窓の方を向いて坐りこんだまま、ドアの掛金をおろし忘れたことに、つい気がつかなかったんです。五六分してから、ふと振り返ってみると、僕のすぐうしろに思いがけず舅どのが立っていて、片手に何かハンカチに包んだものを握っているんです。そして、
 ――おはよう、婿さんや!』という挨拶。
 僕はとびあがるように立ちあがって、舅さんを抱擁し、こう言いました。
 ――いや恐縮です! もう一時間もしたら、二人そろって伺うつもりでいたのに、そちらからわざわざ……。これじゃすっかり順序があべこべで……恐縮とも有難いとも。……』
 ――なあんだ、そんな固苦しいことを! 他人じゃあるまいしさ。わしは今、ミサにお参りしてな、――お前たち夫婦のことを祈って、それこのとおり聖餅プロスヴィラを頂いて来てやったという次第なのさ。』
 僕は、もう一ぺん舅どのを抱擁して、接吻しました。
 ――して、わしの手紙はとどいたかな?』と聞きます。
 ――そりゃもう、とどきましたとも。』
 と僕はこたえて、おもわず大声で笑いだしました。
 向うは呆気にとられて、
 ――何がそうおかしいのかな?』と聞きます。
 ――だって、仕様がないじゃありませんか? とっても痛快なんですもの。』
 ――痛快だとな?』
 ――ええ、そうですとも。』
 ――まあいいから、あの真珠を出してごらん。』
 首飾りは、ついそこのテーブルの上に、ケースに納めて置いてありました。僕は出して渡しました。
 ――虫めがねはあるかな?』
 ありません、と僕は答えます。
 ――そんなら、わしが持っている。昔からの習慣で、いつもこうして持って歩いているのさ。さあひとつ、留め金のパチンのところを、とっくり見てごらん。』
 ――見てどうするんです?』
 ――まあいいから、見てごらん。お前さん、ひょっとすると、わしに担がれたとでも思ってやしないかの。』
 ――そんなこと、思ってやしませんよ。』
 ――いいから見てごらん、見てごらん!』
 そこで虫めがねを当ててみると、そのパチンの一ばん目につかないところに、模造真珠ブルギニヨンというフランス文字が、毛彫りになっていました。
 ――得心が行ったかな、これがほんとに似せものの真珠だということに?』
 ――わかりました。』
 ――そこで、わしに何か言いたいことはないかな?』
 ――さっき申しあげた通りです。というのはつまり、僕としては痛くも痒くもないということです。もっとも、たった一つお願いがあるんですが……』
 ――いいとも、いいとも、遠慮なく言うがいい!』
 ――これをマーシャには黙っていて頂きたいんですが。』
 ――ほう、それはまたどうしてかな?』
 ――ただそれだけです。……』
 ――いや、その謂われが聞きたいのだ。あれにがっかりさせたくないとお言いなのかい?』
 ――ええ、まあ、それもあるんですけど。』
 ――まだそのほかに何かあるのかい?』
 ――ええ、じつはもう一つ、あれの胸の底に、なにかお父さんにたいする反感のようなものが、芽ばえては困ると思うんです。』
 ――お父さんにたいする反感?』
 ――ええ。』
 ――なあんだ、父親にとって、あれはもう切りとったパンの一片ひときれみたいなものさね。もとのパンの塊まりとは縁がきれてるんだ。あれに大切なのは――ご亭主だよ。……』
 ――心は仮りの宿りならず、というじゃありませんか』と、僕は言いました、『心というものは、そんな手狭てぜまなもんじゃありません。お父さんへの愛も愛なら、良人おっとにたいする愛も愛です。それにもう一つ、……もし幸福な良人になりたければ、じぶんの妻を尊敬できるようでなくちゃなりません。それができるためには、妻の心から、生みの両親にたいする愛や尊敬を、なくさせてはならないと思います。』
 ――いやあ、これはどうも! お前さんもなかなか、隅に置けないわい!』
 そう言って、舅は腰掛の腕木に、黙然と指で拍子をとりはじめましたが、やがて立ちあがって、こう言いました。
 ――わしはな、なあ婿さんや、裸一貫で今の身上しんしょをきずき上げた男だが、それにはまあ、色んな手を使ったものさ。高尚な見方からすれば、わしの使った手のなかには、あまり感服できないものもあるかも知れんが、まあとにかく、それも御時勢だったし、まあわしには、ほかに身上をきずきあげる手だてもなかったわけだ。他人というものを、わしは大して信用もしないし、ましてや愛などというものに至っては、ひとさまの読む小説本とやらいうものの中に書いてあると聞くだけのことで、正直の話わしはいつも、人間はみんなおあしをほしがるものだと考えていた。上の娘をやった二人の婿さんたちに、わしは持参金をつけてやらなかったが、果せるかな、あの二人はわしを恨みに思って、いつかな細君をわしのところへよこしたがらない。どんなもんだろうな、――あの婿さんたちとこのわしと、一体どっちが人間らしいかな? わしはなるほど、奴さんたちにぜにこそやらなかったが、奴さんたちと来た日にや、親子の情合いに水をさそうというのだ。ところでわしは、あの二人にや一文だってやることじゃないけれど、お前さんにや、財布のひもをゆるめて、ひと奮発させて貰おうわい! そうとも! いや、今この場で早速、ひと奮発させて貰いましょ!』――といったわけでしてね、まあこれを見てください!」
 と弟のやつ、五万ルーブリの手形を三枚、僕たちに出して見せたのさ。
「へええ」と僕はあきれて、「それをみんな、細君にやれとの御意なのかい?」
「いいえ」と弟、――「マーシャには五万だけやって置けというんです。そこで僕はこう言いました。
 ――ねえ、ニコライ・イヴァーノヴィチ、これは少々もったいな過ぎますよ。……マーシャにしてみれば、あなたから持参金を頂いたりして、却ってくすぐったい思いがしましょうし、姉さんたちがまた――いや、こいつはいけません。……これじゃきっと姉さんたちがあれを妬いて、仲たがいの因になりますよ。……そうなっては困ります、姉さんたちの仕合わせもお考えになってください、どうぞこのお金は一応お納めくだすって……いずれそのうち、何かいい風の吹きまわしで、あなたと姉さんたちの間のこだわりが解けほぐれたとき、三人に等分に分けてやってください。その暁にこそ、このお金はわれわれ一同に、悦びをもたらしてくれるというものです。……どうしても僕たちにだけと仰しゃるのでしたら、失礼ながらお断わりします!』
 すると親父さんは立ちあがって、またもや一わたり部屋の中を歩きまわったが、やがて寝室のドアの前に立ちどまると、大声で、
 ――マーシャ!』と呼びました。
 マーシャは、もうちゃんと化粧着を羽織って、出て来ました。
 ――おめでとう』と、舅さんが言います。
 マーシャは父親の手に接吻しました。
 ――どうだな、仕合わせになりたいかな?』
 ――そりゃパパ、なりたいわ。それに……どうやら成れそうですわ。』
 ――よしよし。……お前さん運よく、いい聟がねを引き当てたぞ!』
 ――あらパパ、あたし引き当てなんぞしませんわよ。神様から授かったんですわ。』
 ――ああ、よしよし。神様がお授けくだすった。じゃわしは、ちょいと景品をつけさせて貰おうかな。わしは、お前の幸福を、ちっとばかり殖やしてやりたいのさ。ご覧、ここに手形が三枚ある。みんな同じ金高だ。一枚はお前にやる、残る二枚は姉さんたちにおやり。お前の手で分けておやり――これはお前の志だといってな。……』
 ――まあパパ!』
 マーシャは最初お父さんの首っ玉へかじりつきましたが、やがていきなりぺたりと床べたに坐りこむと、嬉し涙をぼろぼろこぼしながら、親父さんの膝に抱きつきました。見ると――親父さんも泣いていました。
 ――お立ち、お立ち!』と、親父さんが言います。――『それでお前は、下世話にいう「奥方さま」だ、――わしなんぞに土下座するなんて法はないわい。』
 ――でもあたし、ほんとに嬉しくって……さぞ姉さんたちが!……』
 ――まあいい、まあいい。わしも嬉しいぞ!……どうだな、やっと分ったろう、真珠の首飾りなんか怖くもおそろしくもないことが。そうさ、わしはお前に秘密を明かそうと、わざわざやって来たのだったな。それは他でもない、わしがお前に贈物にした似せの真珠は、わしがずっと以前、心をゆるした親友に一杯くわされた代物なのだよ、……何しろその来歴というのがな、――かしこしとも畏こし、帝室の御物ぎょぶつと唐室の御物とを、一つにつなぎ合わせた稀代の逸品という触れこみなのさ。それに引きかえ、お前さんのご亭主は、この通りの無骨な男じゃあるが、こういう男に一杯くわせるなんていうことは、とても出来ることじゃない、人間のたましいが、だいいち承知をせんわい!』」
「僕の話というのは、これでおしまいだよ」と、語り手は物語をむすんだ、――「いかがです、お聞きの通りの現代の出来事ではあり、嘘いつわりのない実話でもあるんだが、それでいて昔ながらのクリスマス物語の註文にもかない、作法にもはまっていると、憚りながら僕は思うんだがね。」

底本:「真珠の首飾り 他二篇」岩波文庫、岩波書店
   1951(昭和26)年2月10日第1刷発行
   2007(平成19)年2月21日第7刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。