一
 ……それは、三十四五の、たいへんおおまかな感じの夫人で、大きな蘭の花の模様のついたタフタを和服に仕立て、黄土色の無地むじの帯を胸さがりにしめているといったふうなかたです。
 勇夫いさお兄さまは、あれは、黄疸おうだん色というんだよ、と悪口をいいましたが、あたしは、賛成しませんでした。
 眼も、鼻も、口も、りっぱで、大きくて、ゴヤの絵にある西班牙スペインの踊り子のような顔をしています。しろい歯で真っ赤な花をんでいる、あんな感じ。……窓からチラリと見ただけですから、これ以上くわしい印象は申しあげられませんわ。このゴヤ夫人は、なんでも四五年前に、有名な離婚裁判を起こしたことのあるピアニストなんですって。
 ところで、この新しい隣人は、たいへんに横暴なの。こういっていけなければ、たいへんに我ままです。越してきてからまだ十日にもならないのに、葉書で、(それが、いつも速達なの!)いろいろな苦情を申し込んで来ます。
 最初は、ブリキを引っかくような音が耳についてしようがないからなんとかしてくれ、と書いてよこしました。
 ブリキを引っかくような音! ……お父さまが宮内くない省からいただいた、あの愛想のいい、『孔雀氏ムッシュウ・ド・パン』のなき声のことなのです。(ほんとうに、失敬ね!)
 でも、ああいうお父さまのことですから、葉書をごらんになると、その日のうちに、朝吉あさきちに持たせて木戸さまへ返しておしまいになりました。
 お兄さま。
 あなたが、戦地から帰っていらしても、あんなに可愛がっていらした孔雀氏くじゃくしを、もう、この庭でごらんになることはできないのですよ。
 これですむのかと思ったら、こんどはうまやです。蠅が来てたまらないから、厩を田舎へでも移していただきたい。
 ブラヴォ! すこし、お驚きになって? ところで、吃驚びっくりされるのは、まだ早いのですよ。
 きのうの朝、あたしがお部屋で本を読んでいますと、花壇のほうで草でもるような音がしますので、見てみますと、お父さまが朝吉と二人で、花壇の花をかまで苅っていらっしゃるのです。あんなにも丹精なすって、五年目にようやく花を咲かせた、あの竜舌蘭アローエスを!
 こんなことって、あるもんでしょうか!
 お夕食の時、あたし、思い切っておたずねして見ましたの。
 すると、お父さまは、
「お隣りのかたが、塀の上からチラチラ花がのぞいて気障きざわりだといわれるんで、それで、苅ってしまったのだ」
 と、おっしゃいますの。
 隆男たかお兄さまも、勇夫いさお兄さまも、晶子あきこ姉さまも、鎮子しずこ姉さまも、(もちろん、あたしもよ!)呆気あっけにとられて、へえ、と顔を見合わせるばかりでした。
 お父さまのなすったことですから、だれも異議は唱えませんでしたが、勇夫兄さまだけは、黙っていたくなかったと見えて、
「外国には植物嫌いデンドロフオーブというマニアがいるそうだが、お隣りも大体それに近いんだな」
 と、いいました。隆男兄さまが、
「くだらん、放っておけ」
 と、いわれなかったら、もっとひどいことをいい出しかねないようなようすでしたの。
 お兄さまたちはお兄さまたちとして、あたしにはあたしのやり方ってのがあるわけなの。隆男兄さまのご意見には関係なく、あたしは、これからお隣りの傍若ぼうじゃく夫人(あたしの洒落も捨てたもんでないでしょう?)のところへ出かけて行って、お互いに住みよくするために、どういう連帯心が必要か、どの程度まで、個人の自由を見捨てなければならないものか、その辺のところをよくうかがってくるつもりなのです。(たしかに、あたしは、すこし腹を立てています!)
 この始末については、今晩またくわしく御報告いたしますわ。

     二
 英吉利イギリスふうの破風はふのついた、この古い洋館は、あなたのお気にいりの建物でした。でも、もう、久しい間空屋あきやになっていましたので、敷石のあいだから雑草がえだし、庭の花圃も荒れほうだいに荒れて、見るかげもないようになっていました。
 いくども呼鈴よびりんをおしましたが、誰れもドアを開けにきません。二階のほうを見あげてみますと、どの窓も、しっかりと鎧扉よろいどがとざされ、廃屋はいおくのように森閑としずまりかえっています。
 しばらくポーチにたたずんでいましたが、いつまでたっても、なんの音沙汰もないので、留守なのだろうと思って、あきらめて帰りかけると、うしろで、カチッと掛け金がはずれる音がして、二寸ばかりあけたドアの隙間から、小鹿のような臆病そうな黒い大きな眼が、そっとのぞきだしました。
 皮膚の薄い、すき透るように色の白い、上品なおもざしをした九つばかりの少年で、半ズボンの裾から、スラリとした美しいすねを見せています。
 あたしが、おどけた顔で失敬をして見せますと、少年はつり込まれてニッコリと笑いましたが、すぐまた、悲しげにさえ見える真面目な顔つきになって、じっとあたしを瞶めています。
 もう一度、笑わせて見たくなって、両手を耳の上にあててヒョコヒョコうごかしながら『兎さん』をやりますと、少年は、だまってあたしの道化を眺めていましたが、自分もこんなことをしていいのかといったような臆病なようすで、そろそろと両手を耳のところへ持って行って『兎さん』の真似をしました。
 あたしが、のんきな声で、
「お母さま、おるす?」
 と、たずねますと、少年は、扉口にもたれて、靴のかかとでコツンコツンとドアを蹴りながら、
「ママ、一昨日おとといからおりません。ボク、ひとりなの」
「おやおや、ねえやさんもいないの」
「誰れもおりませんの。ボク、ひとり」
 そういうと、急に顔を伏せて、泣くまいとでもするように、ギュッと唇を噛むんです。
 ドアの隙間から、だだっぴろい、ガランとした玄関のと、彫刻ほりのある物々ものものしい親柱おやばしらがついた大きな階段が見えます。こんな広いやしきに、こんな小さな子供をひとり放っておくというのは、いったいどうしたことなのだろうと思って、呆気あっけにとられて少年の顔を眺めていますと、少年は、眼を伏せたまま、虫の鳴くような声で、
「あなた、おいそがしいのでしょうか」
 と、あたしに、たずねますの。あまり大人くさいいいかただったので、あたしは可笑おかしくなって、思わずクスリと笑ってしまいました。
「いいえ、いそがしいってほどでもありませんわ。……どうして? お坊っちゃん」
 すると、少年は、女の子のような、小さい美しい手をおずおずとあたしの腕にからませて、すがりつくような眼つきで見あげながら、
「……おいそがしく……ありませんでしたら、……どうぞ、遊んでいらして、ちょうだい。……でも、……あなた、ボクのような子供と遊ぶの、つまらないかしら」
「まるっきり、反対よ、お坊っちゃん。……でも、だまってお邪魔したりして、お母さまに、叱られはしないかしら」
 少年は、腕にかけた手に、せい一杯に力をいれて、
「だいじょうぶ! ママは『リラ・ブランさん』といっしょですから、あすでなければ帰って来ないの。……リラ・ブランさんというのはね、ママのお友達で、ヴァイオリンを奏くひとなの。……お酒に酔うと、いつも、『リラ・ブラン』という歌をうたうの。そして、お前なんか見たくない。あっちへ行け、小僧! っていうの。……パパも、むかし、そうだったけど……」
 少年は、熱にうかされたように、口をおかずにしゃべりつづけながら、グイグイと手をひいてピアノが置いてある大きな部屋につれ込むと、あたしを長椅子の上に押しつけ、じぶんもチョコンと並んで坐って、
「ぼく、ほんとうに、うれしいの!……ボク、これで、まる三日もひとりきりでしたから」
 おどろいて、あたしが、たずねました。
「ひとり、って、女中ねえやさんもいないの?」
「ええ、誰れもいませんの。ボクひとり。……ママは女中ねえやを置くのきらいなんです」
「ねえやさんもいないとしたら、あなた、御飯なんか、どうなさるの」
 少年は、なんだそんなこと、というふうに、
「ママが、麺麭パンを置いてってくれますから、だいじょうぶ。……でも、ママ、時々ボクのことを忘れて、二日も三日も帰って来ないことがありますの。すると、ボク、とても困るの、おなかがすいて。……でも、もう、馴れているから平気です。そんな時は、動かないで、じっとしているの。こんなふうに、息をつめて……」
 なるほど! たいしたもんですわね!
 こういうのが欧羅巴ヨーロッパふうなんだと、自慢らしく公言してはばからないという、傍若夫人の奇抜な利己説エゴイズムは、世間では有名すぎて、もう古典になりかけているのだそうですが、なるほど、評判だけのことはあるようですわ! 子供にはかびのはえた麺麭パンをあてがっておいて、じぶんは毎日遊び狂ってあるくというのは、たしかに、趣味のいいことにちがいありません。
 あたしは、胸の底からいきどおりの情がこみあげて来て、じっと坐っていられないような気持になって、思わず長椅子から立ちあがろうとしますと、少年は、ビクッと身体をふるわせて、
「もう、お帰りになりますの?……ボクの話、たいくつなのね?……ボク、面白い話をしますから、もうすこしいてちょうだい。きっと、面白い話をしますから……」
 急いで話を探し出そうと、あわてふためきながら、しどろもどろな声で、
「……あのね、……それは、ええと、……油絵の帆前船ほまえせんなんですけど、絵かきが、ボートをくことを忘れたもんだから、船が港へはいるたびに、船長さんは、おかまで泳がなくてはならないというの。……なにしろ、波だってろくけていないんだから、なかなか楽じゃないって……。どうこの話、面白い?」
 あたしの鼻の奥を、なにか、えがらっぽいものがツンと刺します。あたしは、あわてて手をちながら、せい一杯の笑い声をあげました。
「ほんとに、楽じゃない、そんなふうなら! おかへあがると、船長さんは絵具だらけになっているにちがいないわね、まあ、なんて面白いんでしょう!」
 少年は、大きなためいきをついて、
「よかった、ボク。……では、まだ、遊んでいってくれますね」
「ええ、いつまででも!」
 少年は、うれしそうにコックリすると、急に、物々ものものしいほどの真面目な顔つきになって、
「お嬢さん、ボク、お願いがあるんですけど」
「ええ、どんなこと?」
「ボクに、お菓子のつくりかたを教えて、ちょうだい。ボク、絵だけはたくさん切り抜いてあるんですけど、どんなふうにしてこしらえるんだかわからないの」
 といいながら、ポケットから小さな切抜帳スクラップ・ブックを取りだしてひろげて見せました。
 切抜帳きりぬきちょうの中には、料理の本から切り抜いた青や赤や黄いろや白の、色とりどりに彩色された、原色版の美しいお菓子の絵がいくつもいくつもりつけてありました。
 少年は、うっとりと、それを眺めながら、
「ボク、じぶんで、こんなお菓子がつくれたらどんなにいいかと思いますの。時間がつぶせますし、それに、衛生的ですものね。……ボク、いちどお砂糖とメリケン粉を交ぜて喰べて見たの。でもどうしても、お菓子のようではないの」
 あたしは、この少年がかわいそうでたまらなくなって、やるせなくなって、思わず、大きな声で怒鳴ってしまいました。
「そんなことなら、わけはありませんわ、お坊ちゃん!」
「あなた、ごじぶんで、お菓子、おつくりになれますの?」
「ええ、どんなものでも!……なにがいいかしら?」
「ボクが、じぶんでつくれるような、やさしくて、美味おいしいもの」
「では、捏粉菓子ブリオーシュがいいわ」
 少年は、椅子からおどりあがって、
「あの、捏粉菓子ブリオーシュ……、あの、ブリオーシュ……。こんなふうになって、…… 上にザラメのかかった?」
「ええ、そうよ!」
「ああ、思い出した! パパがいたとき、ボク、一度食べたことがある!」
乾葡萄ほしぶどうもいれましょうね」
「ああ、乾葡萄まで!」
「よろしかったら、胡桃くるみもいれましょう」
「それ、ボク、食べるのね!」
「ええ、そうよ、お坊ちゃん。あなたが召しあがるのよ」
「ああ、ボク、ボク……」
 少年は、もう、どうしていいかわからないといったふうに、長椅子の上をコロコロと転げ廻るのです。
「さあ、すぐ始めましょう。お料理場へ連れて行ってちょうだい。それから、あなたもお手伝いなさいね。あとで、ごじぶんでつくれるように」
 料理場は長い廊下の端にありました。ひと目見ただけでこのやしきで、どんな放埓ほうらつな生活が送られていたかわかります。酒瓶や鑵詰の空鑵がいたるところに投げ出されてあって、開け放しになった冷蔵庫の中で、牛乳が腐って、ひどいにおいをたてていました。
 あたしは、テンピの中と調理台の上を手早く掃除すると、少年に白い割烹着かっぽうぎを着せ、ハンカチでコックさんの帽子をつくってかぶせてやりました。少年は、夢中になって、広い料理場の中を酔ったようによろめき歩くのでした。
 あたしが、いかめしい声で命令します。
「コックさん、メリケン粉をください」
 すると、少年は、えッちらおッちら食器棚へよじのぼってメリケン粉の鑵をとりおろし、勿体もったいぶったようすで、それをあたしに渡します。
「はい、メリケン粉」
「その次は、お砂糖」
「はい、これがお砂糖」
牛酪バタを少々」
「はい、牛酪バタ。……牛酪バタは少々古いです。かまいませんねえ」
「……がまんしましょう。おつぎは、卵です」
 どうしたのか、返事がありません。ふり向いて見ますと、少年は、向うむきになって、壁に額をおっつけて、じっと立っています。
「おやおや、どうしたんですの、コックさん」
 肩へ両手をかけて、こちらへ振り向けて見ますと、少年は、長いまつげに涙をいっぱいため、唇をふるわせて、泣くまいと、いっしんにこらえながら、
「……卵、ありませんの。……お菓子、できませんね。……ボク、もう、いいの、あきらめました」
 あたしは大きな声で笑い出しました。……おやおや! ところで、どうやらあたしも泣いているようなんです。
「お坊ちゃん、だいじょうぶよ。うちへ行って取って来ますわ。なんでもないのよ、そんなこと。……さあ、笑って、ちょうだい」
 人差し指の先で、涙の玉をすくってやって、あたしが、そういいますと、少年は、急に元気になって、
「ああ、ボク、助かった。……じゃ、すぐ帰って来てね。どうぞ、一分で帰って来て、ちょうだい」
「すぐ帰ってきますわ。……きっちり、一分でね!」
 料理場を飛び出すと、まるで巫女ウイッチのように宙を飛んで家へ駆けてゆき、お台所から鶏卵と水飴みずあめ乾杏子ほしあんずをひっさらって、えらい勢いで駆け戻って来ました。
 粉をねて、その中へ乾杏子を押し込み、焼き皿に牛酪バタを塗って、キチンとお菓子を並べ、それから、おごそかな手つきでそれをテンピの中へいれました。
 テンピのまろうとすると、少年は、感きわまって、
捏粉菓子ブリオーシュさん!」
 と、大きな声で、別れを告げるのでした。
 ジュウジュウと牛酪バタげる音がきこえ、ふんわりした甘い匂いが、部屋の中に漂いはじめますと、少年は、我慢しきれないように喉を鳴らしながら、いくども水を飲みにゆきました。
 ところで、もう、間もなくできあがるというころになって、とつぜん、門のところで自動車の停まるような音がしました。
 少年は、ビクッとして、きき耳を立てていましたが、転がるように窓のところへ行って戸外そとを眺めると、真っ青な顔をして戻って来て、息もたえだえに、あえぐのです。
「ママ、……ママが帰って来た!……早く、ここに隠れて、ください」
 お兄さまも、そうお考えになるでしょう? あたしには、べつに隠れなければならないようなわけはありません。あたしはきょう傍若夫人に逢いに来たのですから、帰ってきたというなら、ちょうど幸いです。ボクさんのことも孔雀くじゃくのことも、なにもかも、ひとまとめにして、思いっきりいってやらなければおさまらないような気持になってきました。あたしとしては、たいへんな激昂げきこうぶりでしたの。
 それで、あたしは、そういいました。
「あたしたち、べつに悪いことをしていたわけではないでしょう。あたくしから、よくお話しますわ」
 少年は、泣き出しそうな顔になって、
「いいえ、いけないの。あなたは何もごぞんじないんです。そんなことをしたら、あとで、ボクほんとに困るんですから。……ほらほら、こっちへやってくる……」
 少年は、気がちがったようになって、すぐそばの小部屋こべやへあたしをむりやり押し込むようにしながら、
「どんなことがあっても、ボクを助けに来ないって、約束してちょうだい」
 腹が立ってたまらないけど、しょうことなしに、渋々、こたえました。
「ええ、お約束してよ。つらいけど、あなたのおっしゃるようにしますわ、お坊ちゃん」
「つらくとも、どうか、そうしてね。……ボク、うまくママを向うへ連れてゆきますから、そうしたら、あの勝手口から逃げていって、ちょうだい。ボク、あすの朝早く、そっとへいのところへゆきますから……」
 あたしがその小部屋のをしめると、ほとんど同時に、料理場のがあきました。ほんとうに、危ないところだったのよ。
 息をつめながら、暗闇の中で耳をすましていますと、こんな会話がきこえます。

 ――ボクちゃん、ここで何してた?
 ――ボク、遊んでた。
 ――おや、たいへん、いい匂いがすること!
 ――ママ、ボクお菓子をつくってたの。ママをびっくりさせてあげようと思って。
 ――これは、捏粉菓子ブリオーシュじゃありませんか。これ、あなたがこしらえたの?
 ――ええ、ママ。
 ――嘘おっしゃい。……誰れが来たの?……この家へ誰れもいれてはならないはずだったでしょう。もう、忘れたの?
 ――つねっちゃ、痛い!……ああ、そんなにひどくすると痛いから……。
 ――早くおっしゃいね。
 ――かどのお菓子屋さんが来たの。もう店をやめますから、お別れにお菓子をつくってあげましょう、って。……嘘をいって、ごめんなさい。……『誓約』をしますから、ゆるしてちょうだい。ああ、腕が、ちぎれる……。
 ――ほんとうですね。
 ――ええ、ほんとうです。
 ――そんなら、『誓約』をしたらゆるしてあげます。……やってごらんなさい。
 ――「ボク、ママ、だいすきです。パパはいけないひとで、ボクを……」
 ――立って『誓約』するひとがありますか、ちゃんと、床の上へ膝をおつきなさい。
 ――はい、ママ。……「いけないひとで、ボク、パパのところへ一生帰りません。もし、パパが来たら……」
 ――どうしたの、そのあとは?
 ――「ボク、パパ嫌いだと大きな声で、……いって……いってやります」
 ――忘れないようになさい。パパが来たら、きっと、そういってやるのよ、いいわね。
 ――ええ、きっといいます。……ママ、ボク、捏粉菓子ブリオーシュをひとついただいてもいいかしら?
 ――いけません。あなたには、ちゃんと黒パンが買ってあります。
 ――では、半分だけ……。
 ――うるさくいうと、いつかのように、口の中へお雑布を詰め込んであげてよ。いいから、もう、こっちへいらっしゃい。

 お兄さま。あなた、あたしをほめてくだすっていいはずよ。あたしは、我慢して、とうとう飛び出さなかったのですからね。そのかわり、夢中になって、じぶんの腕をつねっていたので、そこんところに大きな青痣あおあざができましたわ。
 二人が料理場を出て行きますと、あたしは、泥棒猫のように、地べたに腹をりながら勝手口から逃げ出した。こんなやるせない思いをしたことがありませんわ。あたしは、はんべそをかいていました。

     三
 お隣り寄りの、小瓦葺こがわらぶきの土塀の裾に、大きない穴があいているでしょう。下草したくさが、まだ露でしっとりと濡れているころ、あたしは、毎朝、そこでボクさんを待っていますの。ほんの、三十分ほどお話をするために。
 ほの暗いうちに起きだして、そっとお台所へおりて行って、しきりにゴトゴトやります。ゆうべのうちに下拵したごしらえをして置いた茹卵ゆでたまごやハムでサンドイッチをこしらえたり、蜜柑水みかんすいをつくったりなかなかいそがしいのです。
 それができ上ると、ナプキンに包んで膝の上に置き、お台所の椅子に腰をかけて、時間になるのをじっと待っています。
 窓がほの白くなり、小鳥がチチと鳴きだす。やっと四時半。まだ、三十分もあります。この三十分が経つのを、あたしは、痩せるような思いで待っています。……

 お兄さま。これは、鎮子姉さまからうかがったのですけど、世間では、たしかに、利江子夫人のほうがすこしひどすぎるといっているそうです。
 ボクさんのお父さまは、学者肌の緻密な頭を持ったひとで、光学の精密器械をつくる大きな製作所を持っていらっしゃるんですって。
 鎮子姉さまのいい方を借りますと、やはり、機縁とでもいうのでしょうか。音楽などで、じぶんの頭をうっとりさせる必要のない久世くぜ氏が、お友達に誘われて偶然利江子さんの独奏会レシタルへゆき、いっぺんで利江子さんを好きになってしまったのです。誘ったほうが、飽気あっけにとられる始末だったんですって。
 ところが、もうそのころ、利江子さんの身辺によくない噂が霧のように立ち迷っていたので、そのお友達は責任を感じて、加勢をつのってできるだけ反対しましたが、久世氏はどうしてもききいれない。このひとがと思われるような熱狂のしかたで、花束を持って、毎日のように利江子さんを訪問して、二ヵ月足らずでとうとう攻め落としてしまったのです。
 波動力学の計算ならば、だれよりも正確にやってのけるという久世氏なんですが、家庭設計の基礎算出のほうはあまりお上手ではなかったと見えます。
 それこそ、ちょうど火と水ほども性格のちがうご夫婦だったのです。久世氏のほうは、すこし一徹なところのある、ちょっと例のないほど几帳面な、腹の底からの技術家メカニシアンで、朝の珈琲コオフイから夜のパイプの時間まで、紙型にとったようにキチンと割り切ってあるというふうなのに、利江子夫人のほうは、時間観念欠乏症インパンクチュアリストの代表のような方で、自分の下着の始末さえ満足にできないようなとりとめのない性質なのです。
 ひる近くまで、ぐったりと寝台の中に沈んでいて、夕方になると、急に生々いきいきして男のお友達を大勢誘って遊びに出かける。「毎晩、どこかで音楽会があって、むかしのつきあいで、どうにも断わり切れないのよ」というのですって。
 久世氏は事務所から帰ると、女中の給仕で、ひとりで味気のない食事をなさらなければなりません。でも、沈着なかたですし、その時、もうボクさんも生まれていたので、こんな忌々いまいましい生活を五年も辛抱していらしたのですが、そのころ、久世氏はひとりの女性に出逢いました。格別美しいというのでもなく、ただ善良というだけのひとだったそうですが、久世氏は家庭を出てそのひととよそで同棲してしまいました。
 利江子夫人は、侮辱を感じて離婚の訴訟を起こし、たいへんな金高かねだかの慰謝料を請求しましたが久世氏は、夫人のいままでの不始末をたてにとって、手ひどくそれをはねつけました。夫人の側には、久世氏の主張がとおるに足るほどの不利な材料があったので、和解不成立のまま、あとは、そちらで、と却下されてしまいました。
 利江子夫人は、かんしゃくを起こして、そのしかえしに人質ひとじちのようにボクさんを取りあげて田舎へ隠し、次々と居どころをかえて、久世氏が手も足も出ないようにしてしまったのです。……
 お兄さま。あなたはどうお考えになりますか。こういう醜い大人の争いのために、人なつこい、温順な魂がムザムザ犠牲にされていいものなのでしょうか。
 ボクさんは、じぶんが、どんなひどい事情の中に生きているのか、ちゃんと知っています。小さな心では、とても処理し切れないようないろいろな悲しさに、じっと耐えてゆこうとする健気けなげなそぶりを見ると、あたしは、ボクさんがいじらしくて、かあいそうで、あの小さな友達のためなら、どんなことでもいとわないような気になりますの。じぶんでもおかしいほど夢中になって、まだいちども経験したことのないような、胸を締めつけられるような奇妙な感情の中へ溺れこんでしまうのです。

 ここまで書いたところで、槇子まきこさんから電話がかかって来ましたの。別にたいしたことではありません。お夕食のおまねきよ。でも、それは明日あすのことですから、休まずに続けますわ。
 ……そんなふうにして、ジリジリしながら待っているうちに、ようやく時計がはんをうちます。あたしは、ナプキンの包みをさげて、お勝手を飛び出し、土塀のところまで走っていってい穴のそばへ坐ります。
 間もなく、桃葉珊瑚ておきばの繁みの向うからピジャマを着たボクさんが鉄砲玉のように駆けて来ます。
 穴から這い込んでくると、あたしの胸に、山羊のように、むやみに頭をおっつけたり、草の上にあおのけに寝ころんで足をバタバタさせたり、さんざんにあばれるのです。あたしも負けず劣らずにその辺をころげ廻ります。言葉では、とても二人のよろこびを表現することできないようなんです。
 ぞんぶんに暴れると、ようやく落ち着いて、できるだけより添って坐ります。
「キャラコさん、ボク四時ごろから目を覚ましていましたの。いくども時計を見たか知れないの」
「ボクさん、そうなのよ、あたしもそうなの」
 そういいながら、手早く草の上にナプキンをひろげます。サンドイッチが、白と朱肉色の切り口を見せて坐っています。赤い林檎りんごと冷たい蜜柑水みかんすい
 ボクさんは、あまりうれしくて、すぐ手をつけるわけにはゆかないのです。塀のずっと向うまで駆けて行って、また駆け戻って来ます。それから食べるんですが、あわてふためいて、何もかもいっぺんにみ込もうとするもんだから、喉をつまらせて、眼にいっぱい涙をためます。あたしは、いそいで蜜柑水を一口飲ませてやります。見る間に、サンドイッチが消えて無くなる。こんどは林檎です。
 ボクさんは、可愛くってたまらないというふうに、それを胸に抱きしめて、
「林檎さん、林檎さん」
 と、いいながら、頬ずりをします。
 あたしが、さいそくします。
「はやくおあがんなさいね、早く、ね」
 困ったことには、利江子夫人は、毎朝、かならず六時ごろ一度眼をさましますが、この時、ボクさんの部屋からヴァイオリンの練習をする音がきこえていなくてはならないんです。
 五時半までには、あと四十分ぐらいしかないのですから、ゆっくり喰べさせて置くわけにはゆきません。しなければならないことが沢山あるんですもの。
 ようやく、林檎が無くなります。二人は兎小屋へ駆けて行って五分ほど兎と遊びます。シーソーを二三べん。うまやへちょっと寄って、馬さんに挨拶をして、またもとのところへ戻って来ます。
 あたしは、急いで絵本をひろげる。『ベカッスさんの宝島探険』というおはなしなんです。
 きのうは、ベカッスさんが帆前船ほまえせんに乗り込むところまで行きました。きょうは、いよいよ船出しなくてはなりません。さまざまな手真似をまぜながら、あたしが読みだす。波の音や風の音まではいるんです。
 ボクさんは、草の上に猫みたいに丸くなって、酔ったようになって聞いています。
 ……どうも、工合の悪いことには、ベカッスさんの船がだんだんゆれ出す。ひどい風だ。山のような大きな波がやってきてかじを持って行ってしまいます。
 難船だ! 難船だ!
 悪い時は悪いもので、こんどは向うから妙な恰好をした船がやってくる。一そう、二艘、三艘……それが、みな海賊船なんです。
 轟然ごうぜん、一発! 弾丸たまがあたって、折れたはしらがえらい音たててドスンと甲板の上へ落ちてくる。ベカッスさんは決心をします。たちまち響く戦闘開始の号音喇叭クレーロン
 ……ちょうどここで六時十分前になる。しいところで、またこの次にしなくてはならない。戦争は、明日あすにならなければ始まりません。

     四
 こんなふうに、あわただしい土塀のそばでの待ち合わせが、一週間ほどつづいたある日の午後、あたしが花壇のそばの小径こみちを歩いていますと、開け放したお隣りの二階の窓から、男と女がはげしく言い争う声がきこえて来ました。
 どちらも、ひどく激昂して、なにかしきりにいい合っていましたが、そのうちに、門のがひどい音を立ててまる音がし、それっきりひっそりとなってしまいました。
 あたしは、ボクさんの身の上に、なにか困ったことが起こるような気がして、気が気ではありませんでした。
 次の朝、いつもの通りい穴のそばでボクさんを待っていましたが、六時がすぎてもとうとうやって来ません。
 その日は、半日ぼんやりして、なにも手につきませんでした。
 夜になってから、塀のそばへ行って、お隣りの二階のほうを見上げますと、どこもここもすっかり鎧扉よろいどがとざされて、灯影ほかげひとつれて来ません。
 ふだんなら、すぐ、しっかりした考えが浮んでくるのに、今度は気がうわずるばかりで、なにひとつ考えをまとめることができませんの。
明日あすこそは、きっと来る!)
 そんなふうに、じぶんを慰めながら、しおしおと帰って来ました。
 でも、その次の日も、とうとう、ボクさんはやって来ませんでした。
 その次の日も、次の日も……。
(きっと、病気なのにちがいないわ。もし、そうだったら……)
 淋しがっているだろうと、お隣りの門のところまで駆けて行くのですが、そんなことをしたら、ボクさんが困るだろうと思って、ようやくの思いで、がまんするのです。その辛さといったらありませんでしたわ。
 五日目の朝、とうとうたまりかねて、梯子はしごをかけて土塀の上にのぼって見ました。
 真向いの張り出しになったサン・ルームの窓を二十分ほども瞶めていますと、そのうちに窓の中にチラと白い顔がのぞきました。
 ボクさんでした。
 あたしは、夢中になって、せい一杯に手をあげて、小さな声で叫びました。
「ボクさん!」
 ボクさんは、窓に顔をあてて、じっとこちらを眺めながら、悲しそうに首をふりました。
(いったい、何が起こったというのかしら)
 思いつくかぎりのことを、あれこれとせわしく考えめぐらして見ましたが、しょせん、何の足しになるものでもありません。
 ボクさんは、手真似で、しきりになにかやっていますが、あたしには、どうしてもその意味がわかりません。ボクさんは、困ったような顔をして、考え込んでいましたが、なにを思いついたのか、ツイと窓のそばを離れると、ヴァイオリンを持ち出してきて、ゆるい調子の曲を奏き出しました。
 きいていると、それは、ベートーヴェンの『月光の曲ムウンライト・ソナタ』の緩徐調アダジオ旋律メロディなんです。……ようやくわかりました。ボクさんは、こういっているのです。
「……今晩、月が出たら……」

 その午後、あたしはられるような思いで、日の暮れるのを待っていました。この五時間ほどの時間が、自分の半生よりも、もっともっと長いような気がしましたわ。
 ようやく月が出かかったので、土塀のところへ出かけてゆきました。
 月の光の中で、桔梗ききょうの花が星のようにゆれています。あたしは、その中に坐って、ボクさんがやって来るのを待っていました。
 そのうちに向うの草の中で、小さな足音がきこえ出してきました。あたしは、息苦しくなって、両手でギュッと自分の胸をしめつけました。
 寝間着ピジャマを着たボクさんが、白兎しろうさぎのように穴から飛び込んできました。あたしは、赤ん坊のように両手で受けとめると、しばらくは、気が遠くなるような思いでした。
「ボクさん、あたし、毎朝、ここで待っていたのよ」
 ボクさんは、沈んだ眼つきで、じぶんの胸のへんを眺めながら、
「……でも、ボク、出られませんでしたの」
「まあ、どうして?」
「……パパの手下てしたが来て、ボクを連れてゆこうとするからって、ママ、ボクの部屋へ鍵をかけてしまいました」
「そんなことでしたの? ちっとも知りませんでしたよ。では、ずいぶん、困ったでしょうね、ボクさん」
「ボク、いろんなことをして見たの。でも、どうしても出られませんでしたの」
「その間、ひとりでなにをして遊んでいた?」
「ボク、することないから詩をつくって遊んでいたの」
「そう、どんな詩?」
「なんでもない詩。……ここにひとつ持っています」
 月の光で読んで見ました。

ところで、ボクは、しゃがみます、
ピチピチしてる川のそば。
ボクは、ながす
ちょうちょうのような笹舟。
なみよ、ゆすってゆけ
パパのところまで。

 この詩情の中に、なんというあわれなねがいがしみ透っていることでしょう。あたしは、胸がいっぱいになって、どうしていいかわからなくなってしまいました。
 せめて、こうとでもいうほかは。
「あなた、パパが好きなのね、ボクさん」
「ええ。……でも、パパは、ボクが嫌いなの。ボクを見たくないんだって、ママがそういいました」
「おかしいわね。じゃ、なぜ、パパのお使いがボクさんを連れにくるのかしら」
「それはね、ボクを連れて行って、もっといじめるためなんですって……」
(なんという、ひどい嘘をつくのだろう!)
 あたしは、呆気あっけにとられて、なんともいえなくなってしまいました。
 ボクさん、あわれなようすで、しょんぼりと両膝を抱きながら、
「そんな話、よしましょう。……ボク、もう、ひとりでいることは平気です。ボク、淋しくなると、星の世界へ遊びにゆきますからなんでもないの」
「星の世界へ……」
 なんのことだかわからないので、あたしが、たずねかえしました。
「星の世界、って、なんのこと?」
 すると、ボクさんは、あたしの手をとって、眼をつぶりながら、
「……ほら、こんなふうに、ギュッと眼をつぶって、息をいっぱいに吸い込むの。……そして、ボクの身体が、空気より軽くなったんだと思うの。……すると、ボクの身体がフワリと窓からぬけ出して、ズンズン空へあがってゆくの。……ボクのすぐそばで、風が冷たくなったり、星がランプのように大きくなったりするから、ボクがいま空へのぼっているんだということがよくわかるの。……やって見ましょうか。……キャラコさん、眼をつぶっててください」
「こうするのね」
「息をいっぱい吸ってちょうだい」
「吸いました」
「二人は空気より軽くなったんだとかんがえてください」
「かんがえました」
「ほら、ズンズンあがってゆくでしょう。……ズンズン、ね」
「ほんとね」
「……そろそろ、風が冷たくなりましたね」
「いい気持よ」
「ここは、大熊星だいゆうせいのそばです。……耳んところで、風がヒュウヒュウいうでしょう」
「ええ、……ヒュウヒュウいうわ」
「もっと上へゆきましょうね。……もっと高く……もっと高く……」
「……もっと高く、……もっと高く……」
 ボクさんの声が、だんだんおぼろになります、ほの暗い庭の隅で。
 間もなく、寝息がきこえてきました。ボクさんが星の世界から帰ってきたのは、それから一時間ほど経ったのちのことでした。

     五
 あたしは、次の日の午後、久世氏の事務所の応接間の、大きな皮張りの椅子にキチンと掛けていました。
 なんともいえぬ奇妙な感情が、昨夜ゆうべからあたしを悩ましているのです。予覚といったようなごく漠然としたものなのですが、それを久世氏に聞いてもらいたいと思って、それでやって来たのです。
 ひと口にいいますと、ボクさんの星の世界への憧憬あこがれは、かんたんに敏感のせいだと形付かたちづけてしまえないようなところがあるように思われ出してきたのです。おさな詩心リリスムのほかに、なにかもっと別な意味があるのではないだろうか、って……。
 ボクさんが、星の世界へゆくというのは、想像の中の遊戯でなしに、なにかの比喩なのではないのかしら。……ボクさんが憧憬あこがれているのは、実は、ほんとうの『星の世界』のことなのかも知れない。
 こんなふうにかんがえて来ますと、あたしは不安になって、その晩は、とうとうマンジリともしないで明かしてしまいました。
 あたしは、午前中、じぶんの部屋の椅子に坐って、どうしたらこの手に負えない奇妙な不安から逃れることができるかと、いろいろにかんがえていましたが、結局、あたしの力ではどうすることもできないことに気がつきました。最初は利江子夫人にこの不安を打ち明けようかと思いましたが、なにしろあんなヒステリックなかたですから、そのために、ボクさんに、どんなひどいことをするかわかったものではありません。そうすると、これをうちあけるひとは久世氏よりほかはないのです。
 一方からいうと、これはたしかに突飛とっぴなはなしです。要するに、あたしの想像でしかないのですから、それには、なにかたしかな証拠でもあるのかと、ききかえされたら、あたしは、ぐっとつまって、黙ってしまうよりほかはないのです。
 でも、たとえ、あたしが、どんな滑稽こっけいな羽目に落ち込んで、赤面しながら引き退ってくるとしても、あたしが、そんな感情をひき起こされた以上、どうしてもそのままにして置くわけにはゆきません。それからまた三時ごろまで、ひとりでもだもだしていましたが、とうとう決心して、やって来たのです。
 十分ほどののち、部屋つづきのドアから、四十五六の、軍人のような立派な体格の紳士がはいって来ました。
 色が浅黒くてあごが強く両方に張り出し、内に隠した感情を決して外へ表わすまいとするような意力的な顔でした。
 久世氏は、あたしのような若い娘の訪問客を、ちょっと驚いたような顔で眺めていましたが、椅子に掛けると、社交的な、その実、たいへん事務的な口調で、
今日こんにちは、どういう御用事でしたか。……なにか、長六閣下のおことづけでも?」
 と、たずねました。つまらない話なら、簡単に切り上げたいものだ、というようなようすがアリアリと見えすいていました。
 あたしは、胸を張って、しっかりした声でやりだしました。
「いいえ、真澄ますみさんのことでおうかがいしたのです」
 久世氏は、ちょっと顔をひきしめましたが、あたしはそんなことには頓着なく、ボクさんと始めて逢った時のことからくわしく話はじめました。
 こんな多忙な事務家にたいして、あたしの話し方はすこし悠長ゆうちょうすぎたかも知れません。あたしが、まだ半分も話さぬうちに、さっきこの窓にさしかけていた夕陽が、向う側の建物に移っていました。
 あたしは、閉口して、こんなふうにいいわけをしました。
「こんなことを申しあげるためにおうかがいしたのではありませんけれど、順序よくお話をしなければお判りにならないだろうと思って、それで……。申しあげなければならないのは、これからあとのほうなのです」
 久世氏は、無感動ともいえるような冷静な面持ちで、
「いや、そのつづきをうかがってもしようがありますまい。……大凡おおよそのことはご存知のようですが、あたしの結婚はたしかに失敗でした。……要するに、膚が合わなかったのですな。……しかし、こんなことはざらにあることで、とり立てて申しあげるほどのことでもない。……ただ、子供だけは、ああいう放縦な日常の中へ放って置くわけにはゆかないから、とりかえしたいと思って、さまざまにやって見たのですが、次々に隠し場所を変えるので、どうにも手がつけられないのです。……この間、ようやく東京にいることを突きとめて、ひとをやったのですが、どうしても出してくれない。……あれは、真澄を愛しているわけでなく、わたしに復讐するつもりで、ヤケになってやっているのですから、理窟でも法律でもおさえつけるわけにはゆかない。……わたしのほうも、そんな愚劣な感情に屈服する気はないのだから、いっそう話がむずかしくなってしまうのです。……人づてに聞いたところでは、真澄はわたしを軽蔑し、わたしにひどく反感を持っているらしい。わたしの、ちょっとした愚行を、利江が長い間かかって誇張こちょうして吹き込んだと見えて今まではわたしを憎んでさえいるそうです。……そうまでになった子供を、わたしの生活の中へ連れ込んで見たところで、果して、うまくゆくかどうかそれも疑問だと思うものですから、この間の交渉を最後にして、真澄を取り戻すことは断念しようと決心したのでした」
 久世氏のいい廻しは、たいへんに上手でしたが、やはり、よけいなことをいいに来たもんだという、苦々にがにがしい調子が含まれていました。
 あたしは、すこしあかくなって、
「さっきも、申し上げましたが、あたくしは、そんなむずかしいことでおうかがいしたのではありませんでしたの。ただ、これをお届けしたいと思って……。ボクさんも、たぶん、そうありたいとねがっているのだと思いましたから」
 そういいながら、ボクさんが詩を書きつけた紙片かみきれを、久世氏のほうへ押してやりました。
 久世氏は、それを取りあげて、だまって読んでいましたが、間もなく投げ出すようにそれをテーブルの上に置くと、いかめしい咳払いをしながら、
「ちょっと、失礼します」
 と、いいました。
 立ってゆくのかと見ていると、そうではなく、ゆっくりと眼鏡をはずして、両手を顔にあてたと思うと、調子はずれな大きな声ではげしく号泣ごうきゅうしはじめました。
 ちょうど海綿でも絞ったように、涙が両手の指の股からあふれ出し、筋をひいてカフスの中へ流れ込みます。まるで、含嗽うがいでもするような音をたてながら、いつまでも泣きつづけているのでした。

 お兄さま。
 久世氏は危ないところで間に合ったのですよ。あのまま役にも立たない意地っ張りをしていたら、それこそ、ボクさんは今ごろだいすきな星の世界へ行って、ひとりで遊んでいるようなことになっていたでしょう。考えただけでも、身体がちぢむような気がします。
 あたしが、星の世界の話をしたときの久世氏の顔といったらありませんでした。赤くなったり蒼くなったり、まるでおこりにでもかかったようにブルブル震えていました。
 ボクさんが何を考えているか、久世氏も、すぐ察してしまったのです。
 久世氏があたしを引っ立てるようにして、お隣りへついたときは、もう夕方で、門がしまっていて、いくど呼鈴よびりんを押しても返事がありません。
 久世氏は顔色を変えて、門を乗り越えかねないようなはげしいようすをなさいます。引きとめるのに、どんなに骨を折ったか知れませんでしたわ。
 ようやくのことでなだめて、二人で土塀の穴のそばに坐って根気よく待っていました。
 ほんとうのことをいいますと、ボクさんと約束などはしなかったのですから、今晩もまたやってくるかどうか、まるっきり自信がありませんでしたの。でも、あたしは、今晩もたしかに来るはずだと、きっぱりといいきりました。そうでもいわなければ、どんなことをやりだすかわからないようすでしたから。
 月が出るころになって、ほんとうに奇蹟のように、ボクさんがピョンと穴からはね出してきました。
 久世氏は、どんな身軽な猟師だって、こうまでうまくはやれまいと思われるほど、す早くボクさんをつかまえて腕の中へ抱きしめてしまいました。
 どちらも何もいうことは要らなかったのです。ボクさんは泣きましたが、久世氏は、とうとう我慢し通したようです。二人の上に月の光がさしかけて、まるで、ジェンナの親子の、あの有名な塑像そぞうのように見えましたよ。
 久世氏は、最初は、このままだまってボクさんを連れてゆくつもりだったらしいのですけれど、落ちつくにつれて、それは、あまりほめた仕方でないと思ったのでしょう。ボクさんに、明日あしたの朝、かならず、ママと仲なおりをしにゆくと、いくどもいいきかせておりました。
 そのうちに、利江子夫人が帰る時刻になりました。あたしは、気が気ではありませんでしたの。こんなところを見られたら、夫人がまたつむじをまげて、せっかくの和解もだめになってしまうだろうと思って。
 あたしが、そういいますと、久世氏も、ようやくなっとくして、渋々、ボクさんを離しました。ボクさんは、駆けて行っては、また戻って来て、
明日あすですね、パパ。……あすの朝ね」
 と、同じことを、いくどもいくどもくりかえしてから、あきらめたように、しおしおと歩いて行ってしまいました。
 久世氏は、とりのぼせたようになって、穴から首をつき入れて、小さな声で、
「ボクや、ボクや」
 と、いつまでも呼びつづけていました。……
 お兄さま。
 ボクさんは、あまり悲しいので、二階の穴から飛び出して、ほんとうに星の世界へゆくつもりだったのですって。お別れに、楽しかったこの土塀のまわりをひと目見に来たのだそうです。
 久世氏は、利江子夫人と和解なすったそうです。どんなふうな和解だったか、まだ聞いてはおりませんが、あたしには、それは、どうだっていいことですわ。ボクさんさえしあわせになってくれれば、それで、いうところはないのですから。

底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1-13-27]」三一書房
   1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
   1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
   1939(昭和14)年7月号
※初出時の副題は、「傍若夫人とボクさん」です。
※底本では副題に、「月光曲(ムウン・ライト・ソナタ)」とルビがついています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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