一 利根川

千住の名物、鮒の雀燒をさかなに、車中に微醉を買ふ。帝釋まうでは金町より人車鐵道に、成田まうでは我孫子より汽車に乘り換へしが、我が行く先きは奧州仙臺、小利根を過ぎ、また大利根を過ぐ。このあたりは、さまでの大小なし。風致もほゞ相似たり。されど余はむしろ小利根河畔の[#「小利根河畔の」は底本では「小根利河畔の」]松戸よりも、大利根河畔の取手を取る。水に枕むの紅樓、醉を買ふに足るべし。古城址の丘、遙に富士を望む。極目蕭散にして快濶也。

        二 筑波山

東京を出でてより石岡あたりまでは、幾んど絶えず左に筑波山を見る。土浦より凡そ五里、山麓まで車を通ず。山腹、筑波祠前に筑波町の市街あり。なにがし宿屋の二嬌、何人か銅雀臺にとざしたりけむ。左右二峯、女峯に奇岩多し。いつもながら辨慶の、引合ひに出さるゝこそ氣の毒なれ。戀ぞつもりて淵となりぬるみなの川は、男峯より出づ。

        三 霞ヶ浦

土浦もしくは高濱より汽船に乘りて、霞ヶ浦を横斷するを得べし。浮島に風光を賞し、潮來出島にあやめを看、鹿島、香取、息栖の三祠に詣で、大利根川の下流に浮んで銚子に下る船中、富士迎へ、筑波送る。いかに心ゆく舟路ぞや。

        四 水戸

義公を祀れる常磐祠は第一公園に、弘道館は第二公園に在り。二園共に梅多し。殊に第一園は、岡山の後樂園、金澤の兼六公園と共に、日本三公園と稱せらる。一帶の丘上、當年の好文亭なほ在り。梅樹千章、雪裡今に春を占む。千波湖の一半は田となりたれど、丘下は一大明鏡を開く。此地、前に義公あり、後に烈公、東湖ありて、大義を明かにしたるも、豪傑の士、黨爭に斃れて、折角の維新前後には、蕭條として人物なく、たゞ風光徒らに舊に依りて美也。

        五 大洗

水戸に遊びたるついでに、請ふ君、水戸市の北端、杉山より川蒸氣に乘りて、水路三里、那珂川を下りて、大洗に遊べ。大洗祠前、海水浴旅館、波に俯す。子の日原の喬松、その數千株なるを知らず。磯節に『松が見えます』とあるものは即ち是れ也。欄によりて明月に酌めば、夜凉座に迸り、漁歌遙に相答ふ。場所柄の磯節聞かむとて、校書を聘すれば、都の落武者なるに、いと口惜し。

        六 西山

請ふ君、なほ急がずば、水戸より太田鐵道に乘換へて、太田に着し、そこより人力車に乘り、桃源橋を過ぎて、西山の舊草盧を訪へ。四方の小丘、數百年來の老樹しげり、古き池には、蓮生ひたり。これ義公が老を養ひし處、義公の居間と侍臣の謁見する室との間に閾を設けざるは、義公の心の存する所を見るべし。その庵、天保年間に燒けたれども、規模用材等悉く舊によりて再築せりとかや。さすがは烈公也。

        七 勿來關

關本にて汽車を下り、平潟市街を過ぎて、八幡山より平潟灣を見下せば、眺望亦佳なる哉。この地、十數の妓樓あれど、波に漂へる舟夫の輩が、舟よりはましなりと思ふにすぎざるべし。幾個の洞門を過ぎ盡して、磐城に出づ。海※[#「さんずい+(从/巫)、717-8]より七八町上りたる處、傅ふ、これ勿來關址なりと。馬上弓を横へて歌を吟ぜし八幡太郎、今何づれの處にかある。路もせに散りけむ山櫻も既に枯れつくしぬ。星霜こゝに八百年。將軍の昔を問へば、松籟むなしく謖々たり。

        八 湯本温泉

濱街道唯一の温泉場、兼ねて唯一の温柔郷たる湯本温泉は、小山の間にある別天地也。汽車この地を過ぎ、石炭坑數箇處この附近に發見せられ、その機械場、常に煤煙を吐くに至りて、風致頓に俗了せり。されど、市街中に崛起せる觀音山にのぼれば、矚目頗る閑雅也。數十の温泉宿、悉く脚下にあり。東山逶※(「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52)として、恰も畫けるが如し。
『送りませうかよ、天王崎へ。それで足らずば、船尾まで』とは、都にゆく客を送るなるべし。妓樓市街の中にありて、宿屋より遙に立派なるもの多かりしが、福島縣下は妓樓の市街中にあるを禁じたるを以て、四軒まで減じ居りし妓樓はたゞ一軒となりて、市街の外に移りぬ。妓樓は變じて宿屋となりぬ。而して藝妓の數、娼妓に幾倍するに至れりとかや。
 美人欄によりて一高樓を指して曰く、もとこれ妓館也。今もなほ記す。去年の春の暮、そこの妓館の一遊女、美にして利口なりしも、男に惚れてはのろき女性のならはし、男の心かはれるを見て、誓詞書かせんとて、紙とりゆきたるひまに、男逃げゆきぬ。あと追へど、及ばず。女終に熱湯のわき出づる槽中に入りて爛死せるこそいたましけれ。その湯槽は是れなりと指す。槽は蓋ありて、熱湯は見えず。盛んに立ちのぼる湯氣は、むかし李夫人のあらはれし反魂香もかくやと見ゆる夕べの空、湯氣の末に一痕の缺月かすか也。

        九 湯ノ嶽

湯本温泉、一に三函の湯と稱す。湯ノ嶽の頂に、三個の石あり。函に似たり。温泉の根原なれば、これを取りて、かくは名づけたるなりとは受取りがたけれど、久しく書窓の下に鎖したる健脚を伸ばさむとて、導者一人やとひて立ち出づ。
 湯ノ嶽の麓にいたれば、小野田炭坑あり。馬小屋の如き人家の立ちならべるは、坑夫の住居なるべし。山中に一區を造りて、物賣る家二三軒あり。飮料には一溪の水を分ち、上流に汚れたる衣を洗ふものあれば、下流には米とぐものあり。三四疊ばかりの小屋の中に、妻もこもれり、二三人子供もこもれり。住めばこゝも都なるべし。君と共に住めば手鍋さげてもと、青春の戀にうかるゝ都の若き男女に、かゝるさま見せてやりたし。
 導者は、六十ばかりの老人也。自から稱す、汽車の通ぜざりし頃は、車夫を業とし、東京まで二日半にて走りつき、得たる賃錢を紅樓に一擲して豪遊せしも、すでに一炊の夢に歸しぬ。君よ、我に湯本の花柳界の事を問ひ給ふこと莫れ。老來絶えて芳ばしき夢を結ばず。湯本の驛外、半頃の地を求めて、暮耕朝耨、かくて我生涯は終らむとする也と。
 二日半にて六十里の路を走りし男も、老いては、さまで健ならず。われは蕨を採り行くに、導者はなほ遲れがち也。頂上に到れば、一木なし。一面は海、三面は山、常磐の山海、指顧の中に在り。導者は一々山嶽の名を指さし教へむとすれど、暫らく休息せよ、さまで記するに足るべき名山もなしとて、岩に腰かけて、煙草を吹かしつゝ眺望すること多時。
 歸路、頂上より七八町下りたる所、一羽の雉、地にすわりて、人を見れども動かず。げにや燒野のきゞす夜の鶴、子をかへすにやあらむと、横目に見て、過ぎ去らむとすれば、導者もまた早く之を認め、むざんや、棒を以て之をなぐる。雉驚いて空に上ること三四尺。力なく地に落ちて又飛ぶこと能はず。眼なほ瞑せずして、口に鮮血を吐く。そのすわりし跡を見れば、果して數個の卵ありき。ひどきことをするもの哉。親鳥はせむかたなし。せめて卵は鷄にでもかへさせむとて、導者に持たせて、山を下れり。谷底遙に雄雉の聲を聞く。雌を呼ぶにやとあはれ也。

        一〇 松川浦

相馬の野を邊ぐるに、また當年の野馬を見ず。相馬氏の故城址は、中村驛外にあり。城門、城濠、石壁なほ存す。今宵は原釜の海水浴旅館に宿らむとて、中村停車場より車にのり、細田入江に至りて、車をすて、舟に上る。
 余はこれより松川浦に浮ばむとする也。松川浦は松島に次ぐ東奧の奇勝と稱せらるゝ處、余は多年之を夢寐に見しが、今現にその地に來れり。うれしさ譬ふるに物なし。
 されど、夕陽は用捨なく西に沈めり。暮色早や灣々を罩めつくせり。われ舟夫に向ひて、舟を原釜の方に進めよと云へば、日暮れたりとも、せめて松川村まで至りて、然る後に原釜に赴き給へといふ。いなとよ、名だゝる勝地、闇の中に見て過ぎむは、殘り多し。明朝を期して、重ねて來り見むと云へば、さらばとて、舟夫舟を蘆荻の間につなぎ、余を導いて一旅館に至り、明朝を約して歸り去れり。
 時節はづれのこととて、女中はひとりも居らず。宿の妻は、中村の本店にありとて、主人自から食物を調理し、自から膳を運び來りて、杯酌に侍す。木訥仁に近き男也。なまじひの女中などより却つて興ある心地して、快く酒のみて寢につけり。
 翌朝、朝飯を終れば、昨日の舟夫、既に來り居たり。荷物は宿屋に置きて、酒肴を持たせて、汀邊に赴けば、舟は昨夕つなぎしまゝに横はれり。舟夫は陸路家にかへり、また陸路より來れる也。
 いと晴れわたりたる日也。舟は文字島さしてゆく。水淺くして、扁舟膠して動かざること屡※(二の字点、1-2-22)也。舟夫遙に右方の老松數株生ひたる孤丘を指して曰く、これ十二景の一なる川添の森也。舟夫又一帶の長丘の中に蘭若の見ゆる處を指して曰く、これ紅葉の岡也。紅葉の岡の盡きたる處、水中に草木なき孤岩立つ。舟夫曰く、これ文字島。文字島と竝びて、稍※(二の字点、1-2-22)大に、岩あり、樹木あるもの、曰く沖島也。舟、兩島の間の橋下をくゞりてゆけば、右の方遙に一帶の松洲を見る。曰く、松沼の濱也。その南に、梅川、鶴巣野の勝地あれど、遠くして見えず。舟左に轉じて、中洲に至る。洲上を散歩す。砂清く、松小にして奇也。對岸一帶の長洲長さ一里半、喬松生へつゞけり。曰く、長洲の磯也。また舟に上り、左の方松川村さしてゆく。この間、水中に四つ手小屋多し。漁期にあらぬにや、小屋には人なくして、四つ手網むなしく空に懸れり。また松川浦上の好風致也。漸くにして漁家のならべる岸に達す。曰く、これ松川浦也。曲折してひろがれる松川灣、ここより幅數間、長さ四五十間ばかりの川形をなして、海に接す。曰く、飛島の湊也。湊と云へど、わづかに小なる漁舟を通ずるばかりの處也。この灣口の北を扼せる一帶の岡を水莖山といひ、水莖山の最端を鵜の尾岬といふ。舟を下りて、陸に上れば、夕顏觀音あり。觀音堂後をめぐりて、鵜の尾岬にいたる。松川浦の全景、悉く眼前に在り。長汀曲浦の觀、つぶさに其の美をつくせり。屏風の如く立ちかこめる磐城の山々、或ひは遠く、或ひは近く、秀色を送りて、一層の趣を添ふ。島の奇なることは、松島にくらぶべくもあらねど、屏風の如き山々と、長汀曲浦の觀とは、或ひは勝るとも劣らざるを覺ゆ。
 舟を回し、松川の漁村を右に見て、原釜の方に向へば、陸より少し離れて、文字島ばかりの大きさの島あり。曰く離崎也。離崎、鵜の尾岬、水莖山、松川浦、長洲の磯、鶴巣野、梅川、松沼濱、沖が島、文字島、紅葉の岡、川添の森、これ松川浦の十二景とする所なれども、さばかりの景致あるにあらず。
 水淺き浦とて、貝を拾ふもの多し。玩具のくゝり猿の如き樣して、水に俯する母の背に負はれたる赤兒、泣いてやまざるも、母は之を懷くひまなし。乳ほしきものをとあはれ也。
 浦を一周して、もと舟出せし處に來たる。松川浦の遊觀、こゝに終れり。余はこれより中村にかへらむとて、舟夫を宿にやりて、荷物をとり來らしむ。待つ間の退屈まぎれに、舟を棹さむとするに、まがり/\て、すゝまず。げに櫓三日、棹三年と云ひけむ、舟夫になるも、容易なる事にあらずと獨り笑ひき。
(明治四十年)

底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2009年1月13日作成
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