1

 残暑がすぎ、凉風がさわやかに落葉をさそう頃になると、きまって思い出すことがある。
 私はまだ紅顔の美少年(?)だった。その頃、私達一家は小石川の家から、赤坂の新居へ移った。
 庭がとても広かった。麻布の一聯隊の高い丘が、苔むした庭の後にそびえ、雑草やくるみの木が、垂れさがるように見える空の上に生い茂っていた。また、丘の下のせいかじめじめとしていて、いちじくの葉が暗い蔭をところどころに手をひろげ、庭の奥の方は陽も射さぬほどだった。
 黒板塀に囲まれた小粋に見えるこの家は、風流気の多い父の好みにぴったりと合っていた。かなり大きな家で、二階は十畳の客間の他に、八畳と六畳の間があり、私の部屋はこの六畳の間で、隣りの八畳は二番目の姉の居間にあてがわれた。父たちの他の者は階下に住むことになった。
 台所がばかに広く、子供心に私は、雨の日はここで友達と遊べるなと、秘かに喜こんだものだが、……たたきの所に直径五尺ほどの大井戸があった。ところがこの井戸は、半分は家の中に半分は外にはみ出て、内外いずれからも使用できるようになっているので、打ち水の時などさぞ便利だろうと思われたが、奇妙なことには、部厚い板で蓋がされ、おまけに大きな釘で開かないように釘付けにされていた。釘はすっかり錆付いてほこりを浴びていた。もちろん他に水道の設備もあったので、母などは、
「まあまあ、よい井戸があるのに釘づけになっていておしいわね。でも子供が多いから、落ちでもしたらたいへんだし、当分このままにしておきましょうよ……」
 と、笑いながら引越荷物をといたりしていたものだが……。
 さて、近所に引越そばを配り終って、夕餉の膳がすんだ時、
「あなた、こんな立派な家なのに、ばかにお家賃が安いじゃありませんか」
 と母が父に話しかけたのを聞いた。
 庭に黒ずんだ蛙が、湿った土を滑りそうに這いずっている。後が水をふくんだ土手のせいか、どこよりも早く夜が訪れたように辺りは暗い。私は二階の自分の部屋に帰り、障子を開けて物干台に出た。
 どこかで馬のいななきが聞える。つづいて遠く聯隊の消燈ラッパの音が、少年の私には物珍らしく又さびしく聞えた。
「坊ちゃま、ばかに淋しくていやですね。お台所にいると、なにかゾクゾクしてくるんですよ」
 夜具を敷く女中のかやが私にこう話しかけた。私は本箱を整理してから、夜具にあおむいて足を思いきりのばした。
 窓をしめたせいか、部屋の中はいやに蒸し暑い。だが引越の疲れが出たのか、私はいつか深い眠りに陥ちていった。
 それからどのくらい時刻がすぎたか分らないが、ふと眼がさめた。――というよりも何者かに突然起こされたように眼があいたのだ。
 頭は不思議と冴えていた。天井裏をながめる私の眼には、木目までもがはっきりと見えた。壁に目を移すと、額縁が曲って掛っている。(朝になったら真直ぐにしよう)と私は思った。
 私はまた目をつぶった。だがどうしたことか少しも眠くない。と、その時だ、掛布団の足の先の方にものの動く気配を感じたのは……。猫でも迷いこんできたかと、私はふと頭をもちあげたが、とたん、
「アッ――」
 と息をのんだ。
 首! 水でも浴びたようにぐっしょりぬれた生首が見えた。私は二、三度目をしばたたいたが夢でも幻でもなかった。生きた生首だった。どす黒い口許から白い歯が震え、何か蚊の鳴くような声が洩れている。顔面の皮膚は渋茶で、びっしょり雫を垂れた髪が、一すじ二すじ、横じわの額にはりついて、その垂れた髪の毛の間から、カッと見ひらいた眼が、物凄い光を放ってこちらをねめつけている。
 私は大声をだそうとした。飛び起きようとした。だが喉はからからに乾いて、声はおろか身動きもできなかった。妖怪、幽霊というものは、霧のごとくボーッとしているものであると聞いていたが、この老婆の顔は、白眼に浮いた赤糸のような血管まで、はっきりと見えるではないか。躰中に戦慄が走った。必死に目をつぶろうとしたが、どうしたことか瞬き一つ不可能だった。
(アー、恐ろしい)と思った時、老婆の顔がぐらりとゆれた。影でもひくように、首の動きにつれて髪の毛が長く糸を引いた。生首が徐々に浮き上りつつこちらへ迫ってくる。はっとした。だが、次の瞬間、私の目に入ったのは、めくら縞の着物がぴったりとまつわりついた、骨と皮さながらの上半身だった。あばら骨が斜にせりあがっている。私はあまりの恐ろしさに布団を頭から被ろうしたが[#「被ろうしたが」はママ]、はや手足は利かなかった。と、その三尺位のずぶ濡れの体が、四つん這いになり、私の布団の上に這い上ってきた。枯木のように痩せ細った両手が、足から膝へ……。
 老婆の重みが、布団を通して感じられた。脚から腰へ、老婆の動きにつれてびっしょり冷たい水が浸み通ってくる。眼は私をみつめたままだ。うらみをふくむのか、うったえるのか、へばりつくように迫ってくる。――腹に乗り上ってきた……。頭のずいからでも流れ出るのであろうか、水の雫は後から後からたらたらと、顔中に流れ、口にあふれる。歯ぐきから吹きだした血は、顎から糸のようにこぼれる。眼玉は生柿色。グラグラの前歯からは地鳴りのようなうめきがもれる。眼を外らそう、せめて頸だけでもねじろうとするが、全くいうことをきかない。やがて、重さが胸にきた。蜘蛛のように細い手が、私の首にからまってきた……。
 老婆の顔がすぐ目の前にあった。額のしわが一本々々見える。ぬれ髪が私の顔を覆った。氷のように冷たい息が、血をふくんでふりかかり、むせぶような囁きが耳に入ってきた。目が血ばしっている。と、血のにじんだその眼球が、見る見るうちにふくれあがってぽたり、ぽたりと、私の頬といわず顔といわず、顔中に血が滴り落ちてきた。もう私は息もできなかった。
「あッ!」
 いきなり二つの眼球が、ポタリと私の顔の上に落ちてきた――と思うや、まるで崩れるように、音を立てて老婆の顔が、私の上にかぶさってきた。……私は狂気のようにもがいた。と、まるで真空状態からぬけたように、私の体はスポンととびあがった。私は次の瞬間、
「ワアーッ」
 と叫んで隣室と境いの襖を蹴破った。
「姉さん!」
「………」
「おばあさんが出た」
「おばあさんだア……」
 二人は階段をかけ下りたが、途中で二人共足を踏み外してしまった。そして申し合わせたように気を失い、息をふき返したのは、夜中の二時だった。家中は大騒ぎになった。
「おばあさんの幽霊だって?……そんな馬鹿な」
 父は夢でも見たのだろうと言って笑った。しかし、その時は夢中で気付かなかったが、姉も同じ頃同じ目にあっていたのだった。だから私が襖を蹴破った時、姉はすでに起きていて、期せずして「おばあさんがでた」と叫び合ったのだ。姉と私は、女中のかや[#「女中のかや」は底本では「女中のかや」]がいれてくれた熱い茶で、やっと人心地をとりもどした。
「ほんとにおかしいね。夢なら、同じ夢を同時に二人が見るはずはないね――」
 母の顔は蒼ざめていた。
「旦那様、なんだか私も胸苦しかったですよ。なにかこの家は、ぶきみでございますよ」
 かやは、寝巻の襟をかき合せて、ぞッとしたように言った。すると書生の徳吉さんと父が、
「そんな馬鹿なことがあるものか」
 と、二階へ上っていったが、やがて降りてくると、
「布団もぬれてないし、鼠一匹いないじゃないか。二人ともねぼけたんだろう。アハヽヽ……」
 と大きな声で笑った。それを聞くと、もうじき夜が明けるから、いっそ起きてしまおうと言って、台所へ行ってゴトゴトと音を立てていた母が、
「でもあなた! 考えてみれば大きな家の割合いに家賃が安いじゃありませんか。すこし安すぎますよ」
 と、眉をひそめていった。
「アハヽヽヽ、幽霊などこの世にあるものか、馬鹿な! きっと二人共胸の上に手でものせて寝ていたのだろう。よーし、あしたの夜は、わしが二階へ寝てみよう」
 父は又大声で笑ったが、いつのまに夜が明けたのか、コトコトという、牛乳屋の車の音が外に聞こえた。

       2

 半月型に外に出ている井戸のまわりに、山びるのように太いみみずが、たくさんうごめいていた。土の柔く盛り上っている所を棒でさぐると、南京玉ほどの土蜘蛛が、ガサガサと音を立てて群り散った。こんな遊びに夢中になっている中に、やがて二日目の夜が訪れてきた。
 庭の奥や、聯隊の土壁が黒々と深い暗黒にとざされてくると、私も姉も怖しくなって、
「今夜は二階に寝ないよ」
 と言って床を敷いてもらうまで、書生の徳吉さんや、母のまわりにまとわりついていた。二階からかやが私たちの夜具をもってきたとき、昨夜の老婆の水のしたたりや、血痕が残ってはいまいかと、あっちこっちとしきりに触ってみたが、綺麗な花模様のフンワリとした布団には、何の変化も見られなかった。
 私たちは、母たちと混って寝た。母がいると思うと、不安の気持は少しも起らず、私はいつのまにかぐっすりと気持ちよく寝こんだ。ところが、真夜中に部屋の中が妙に騒がしいので、ふと眼を覚ましてみると、父の青ざめた顔を中心に、家中の者が車座に集り、なにかしきりと喋べり合っていた。
「ばあさんがでた! ほんとだ! ほんとだ! ぬれねずみのばあさんだ!」
 父の声だ。私もいつか寝具から脱けだすと、こっそり車座の中に割りこんで聞き耳を立てた。
 父の話は、私が昨夜見たものと全く同じだった。
「怪しい、ふしぎな家だ。ウーム」
 語り終った父は、腕をくんで考えこんでしまった。私はいつか母の腕にしっかりとすがりついていた。
「幽霊屋敷ですよ。いやですわ。あなたは馬鹿に趣味のこった良い家が見つかったなんておっしゃいましたが、私はこの門に着くなり、いやァな気がしましたよ。かやだって台所に長くいると、なんだか寒気がしてくるといってますよ」
 母がかやの顔を見ながら言った。するとかやも、
「ええそうですわよ。旦那様、たしかに幽霊屋敷ですよ」
 と、生きた心地が無さそうに、身をふるわせながら言った。
「うん、そういえば、僕も夕方庭のいちじくの木の影に、黒い着物を着た老婆とも老人ともつかぬ人影のたたずんでいたのを感じたですよ。それですぐに見えなくはなってしまったのですが。……どうもふしぎですよ」
 と、さすがに書生の徳吉も、気味の悪そうな顔で辺りを見廻した。

       3

 翌朝は、からりと晴れた、まことに気持のよい秋晴れの天気だった。
 赤とんぼが楽しげに飛び交うて、昨夜の恐怖なぞ、かけら一つのこさぬすがすがしさだった。広い台所で私は、出入りの商人達と何かひそひそと話しあっていた。当今とちがって、大正の時代には、立派な貸家も多く、商人は引越してくる家におしかけ、自分のお得意様を作るのに、米屋も酒屋も肉屋も、なんでも競争がはげしかった。「ソレッ!」とばかりに通帳をつくり、おしかけて来たもので、要領の好い商人なぞは、引越の手つだいなぞをするありさまであった。
 この日台所にはそのような商人が一ぱい集っていた。
「ヘエ――」
「では又――お出でなさったんですか?」
「しばらく現われないで、よいあんばいだなんて申しておりましたが」
「ばあーさんですか」
 これは父の声だ。
「いやですなア――」
「旦那は何もごぞんじなく引越していらっしたんですな?」
「この家は有名な化けもの屋敷ですよ」
 私は書生の徳吉さんの傍で、じっと聞耳をたてていた。
 広い台所のかまちに腰をおろした、これ等の近所の商人の語るところによると、この家は人殺しの家であったというのである。この家の主人というのは物持ちの老婆であって、風流好みのこの屋敷を建てたが、一人身の淋しさから、一人の甥御と二人暮しをはじめた。ところが、この甥が女のことで金につまり、この老婆の財産に眼をつけた。そしてばあさんさえなき者にしてしまえば、財産はたった一人の甥である自分の懐にころげ込んでくると考え、或る日、とうとうこの老婆を殺害して、その死体をピシピシと小さくへし折って、箱につめこみ、石の重しをつけ、この台所の井戸深く沈めたのである。この犯罪はその六年間発覚しなかったが、丁度七年目に、老婆を殺した甥とこの男といっしょになった女とが、共に物の化におそわれるが如く、発狂状態になり、はては自分達のやったことを口走り、ついに警察の調べとなり、この井戸の中から箱が浮び上り、白骨と化した老婆の変りはてた姿が現われた――というのだった。
 今更ながら、家中の者は震えあがり、釘付けになっている、大きな井戸を恐る恐るながめるのであった。私達一家となんの関係も無い老婆の亡霊が、我々を驚ろかしたというのは、考えようによってはしゃくにさわるが、別に考えると霊としては、誰れにでも、自分の気持を知らしたいものであるから、とも思い、同情したくもなってくるのだ。

 以上が私の少年時代に見た恐ろしい亡霊の姿であるが、この時から私は霊魂の存在を信じるようになったのである。知友である、徳川夢声老も幽霊を信じ、淡谷のり子氏も恐ろしい幽霊のことを私に話したことがあるし、佐藤垢石老も魚を釣りに行った時、時々妖怪に会うことがあるというし、今年の春、九州博多で火野葦平氏に会った時には、氏は河童に会って親しくしたことがあるといっていた。皆間違いのない話だろう。
 当時いっしょに老婆の姿を見た姉は、今では七人の児持ちである。

底本:「猿々合戦」要書房
   1953(昭和28)年9月15日発行
入力:鈴木厚司
校正:伊藤時也
2010年1月26日作成
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