本誌の創刊に際して、余輩の常に使用するに慣れたる「日本民族やまとみんぞく」なる語が、本来何を意味するか、「日本民族やまとみんぞく」とは本来いかなるものなるかを説明して、あらかじめ読者諸賢の理会を請うは、余輩が本誌を利用してその研究を進める上に、最も必要なる事と信ずる。
日本民族やまとみんぞく」なる語は、近時広く学者・政治家・教育家等の間に用いられて、暗黙の間にほぼその理会は出来ている事とは思われるが、しかもなお時に余輩とは違った意味に解し、「日本民族」即「天孫民族」と考えているものも、世間には少くない様である。
 日本民族すなわち天孫民族であるとの思想は、実際上多数の帝国臣民の、ひとしく抱懐するところである。そして余輩もまた、或る意味においてこれを信ずる一人である。我ら帝国臣民は、実にその古伝説の教うるところにしたがって、天孫の嫡統を継承し給える我が皇室を宗家と仰ぎ奉り、その天壌無窮の皇運の下に、協同一致して国家の発展をねがい、国民の幸福を図っている民族に外ならぬのである。しかしながら、さらにその起原に遡りて研究を重ねて見ると、そこには種々雑多の異民族の、混淆共棲の事実を否定する事が出来ぬ。それはただに考古学者や、人類学者・土俗学者・社会学者等が、その専門学的見地よりこれを立証するのみならず、我が古伝説や歴史の示すところも、また正にこれを証明しているのである。考古学者は我が国土に存在する遺物・遺蹟を調査して、種々異りたる系統の民族の、かつて存在せし事実を認めている。土俗学者は我が国民の古今の風俗・習慣を調査して、種々異りたる系統の遺風の、今なお存在するの事実を認めている。人類学者・社会学者等、またそれぞれに、その研究の立場から、ただに種々系統を異にする民族の混淆共棲するものあるのみならず、時には地方的にも、しばしばその差異の存在が認められる事を立証しているのである。
 これらの諸研究は、いずれも実地の上に立脚したもので、その立証する事実は、到底これを否定することの出来ない性質のものである。
 ここにおいてか余輩は、歴史家としての立場から、これらの事実の由って起った経過を研究し、これに依って国民思想の根柢を固むるの資料を江湖に提供することを以て、目下における必要なる事業と思惟し、これを以て史家当然の責務の一つたることを自認するものである。余輩が微力を顧みず、本誌を発刊するに至った理由の一つの実にここにあることは、発刊趣意書によって、既に読者諸賢の諒解を得た事と信ずる。
 我ら国民の大多数は、その家系について確かな伝えを有しておらぬ。その源平藤橘を自称する系図の如きも、史家の研究を経てその確実を証明しえるものは、極めて寥々りょうりょうの数であると謂ってよい。しかしながら我らは、多数の国民は我が記紀の古伝説の教うるところにしたがって、我が皇室の御先祖とともに、高天原なる祖国からこの島国に渡来したものの後裔、もしくはその皇室から分派し出でたものの後裔だと、自負しているものである。「我も亦高皇産霊たかみむすびすえなれば、其の中程はとにもかくにも」の歌は、遺憾なく我ら国民の祖先に関する信念を語ったものである。そして我らは、諸賢と共に本誌によって、その「とにもかくにも」の「中程」の経歴を、調査してみたいと思う。
 我ら現代の日本国民は、実際上考古学者・土俗学者・人類学者・社会学者などの謂う如く、一個の複合民族である事を疑わぬ。しかしながらその複合民族たるや、決して単なる寄合世帯の類ではない。我が大日本帝国の国家は、数千年来の経歴を同じゅうし、互いに錯綜したる血縁を有し、思想と信念とを一にせる一大民族が、数千年来の歴史によって互いに結び付き、相ともに宗家の家長とす天皇を、元首と奉戴しているものである。この意味において我ら国民は、ことごとく天孫民族である。余輩はかつてこれを比喩するに、柑橘栽培の例を以てした。今再びこれを繰り返したいと思う。その台木がよしや柚子ゆずであっても、橙であっても、枳殻からたちであっても、それは深く問うところではない。ひとしく温州うんしゅう蜜柑を以てこれに接木つぎきしたならば、ことごとく温州蜜柑の甘美な果実を結ぶ。その培養の方法や、台木の性質や、気候の異同等によって、果実に多少の相違は免れぬとは云え、それが斉しく温州蜜柑である事は、何人もこれを否定せぬ。この意味において余輩は、我らが斉しく天孫民族であることを主張する。換言すれば我が日本臣民中には、甚だ多くの接木されたる天孫民族が混在しているのである。これを総称して余輩は、「日本民族」の語を用いたい。
 我が天孫民族は、土壌を譲らざる泰山が、よくその高きをなし、細流をも択ばざる河海が、よくその広きをなしたと同じく、よく他の民族を同化融合せしめて、ことごとくこれを抱容し、相ともにその福利を増進せんとするの、寛大なる度量を有している。これは我が古伝説及び歴史の教うる過去の事歴が、立派に証明しているのである。
 かけまくもかしこけれども、我が皇室の御先祖とす天孫瓊々杵尊ににぎのみことが、この国に降臨し給いし際には、我が群島国は、決して無人の地ではなかった。そこには既に多くの先住民族が棲息していた。しかしそこには未だ統一されたる完全な国家がなく、彼らは各自相攻争して、甚だ憐むべき状態であったのである。そして我が天孫は、彼らを懐柔し、彼らを撫育し、この豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国を安国やすくにと平らけくろしめすべく、降臨し給うたものと信ぜられている。したがって我が天孫並びにこれに随従した諸神は、決してこれらの先住民族を虐待し、或いはこれを駆逐し、或いはこれを殺戮し、以てその国を奪い給うというが如き、さる残忍酷薄なる所業には出で給わなかったのである。そしてこれらの先住民族の首領と仰ぐものを、古史には「国津神」と称している。
 天孫瓊々杵尊の日向に降臨し給うや、国津神たる事勝国勝長狭ことかつくにかつながさは、自ら進んで潔くその国土を天孫に奉った。同じく国津神たる大山祇神おおやまつみのかみは、そのむすめ木花開耶姫このはなさくやひめを献じて、天孫の妃となし奉った。そして天孫の御子なる彦火火出見尊ひこほほでみのみこと、その御孫なる※(「顱のへん+鳥」、第3水準1-94-73)※(「滋のつくり+鳥」、第3水準1-94-66)草葺不合尊うがやふきあえずのみことは、また共に同じく国津神たる海神の女を妃と遊ばされたと伝えられている。これすなわち、山海共に皇室の御稜威みいつに服し、ここに既に同化融合の実を挙げ給うた事実を、語り伝えたものではあるまいか。皇祖・皇宗の御上において既にしかりで、いわんや臣隷諸神の上において、さらにいわんや一般庶民の上において、民族の同化融合が続々として行われたるべき事は、容易に想像しえらるべきではなかろうか。かくの如きは、ただに諸外国における優秀民族が、他に植民した場合に多く起る諸現象の傍例を、社会学者によって提供してもらうまでもなく、我が古伝説が明らかにこれを語っているのである。
 我が皇祖・皇宗が、先住土着の民族に対し給える大方針は、実際上決して残忍酷薄なるものではなかった。威を以て臨み、恩を以ていざない、ことごとくこれを優秀なる天孫民族に同化融合せしめて、彼らを幸福なる国民となし、自他ともにその慶に浴せしめ給うことが、万古不易の一大信条となっていたのである。さればその頑冥にして、到底教導し難きものは、時に或いは兵を加えて、これを征伐し給うのやむなき場合も少くはなかったが、それにしても決して殺戮をこれ能事となし、敵を滅ぼすを以て目的となし給うというが如きことは、古史の決して言わざるところである。景行天皇の襲国そのくに熊襲梟帥くまそたけるを誅し給うや、「少くいくさを興さば則ち賊を滅ぼすに堪へず、多く兵を動かさば是れ百姓の害なりいかでか鋒刃の威を仮らずして坐ながらに其の国を平げん」と仰せられて、謀計を以てその巨魁を誅戮し、以て多数の民衆を安んぜしめ給うたのであった。また同じ天皇の日本武尊を東夷鎮定に遣わし給うや、「願はくば深謀遠慮して姦を探り変を伺ひ之に示すに威を以てし之を懐くるに徳を以てし兵甲を煩はさずして自ら臣隷せしめよ」と命じ給うた。これ実に我がすめらぎが、異俗に対する大方針を明示し給うたものである。されば古史の示すところ、敵に対するに多くは謀計を用い、正々堂々の陣を張って、兵刃へいじんを交えたという様な場合はまことに少い。これを後世の武士道より見れば、或いはいかがかと思われる様な事もないではないが、期するところは自他の幸福であって、敵を滅ぼして自ら快とするものとは、甚だしくその趣きを異にしていたのである。
 かくの如くにして懐柔せられ、同化融合せられた先住の民族は、いつかはその民族としての存在を失い、ことごとく蹟を所謂「日本民族」中に没してしまったのである。我が「日本民族」は、実に天津神の後裔たる天孫民族と、これに同化融合した国津神の後裔とが、相倚り相結んで成立したのである。されば神武天皇の大和に土賊を平らげ給うや、天津神の教によりて天神あまつかみ地祇くにつかみを崇祭し給い、その位に橿原宮にき給うや、また天神・地祇を宮中に祭り奉り、特に天津神の代表者と仰ぎ奉るべき天照大神と、大地主神おおとこつかさのかみなる倭大国魂神やまとのくにみたまのかみとを、ともに宮中に安置し、殿を同じゅうして崇敬怠り給うことがなかった。くだって崇神天皇の御代に至り、そのかえって神威をけがし奉らんことを恐れ、宮外の適当な地を選んでこれを祭り奉り、各々皇女をして、これに仕えしめ奉ったのであった。のみならず天皇は、さらに天社あまつやしろ国社くにつやしろを定め、神地・神戸を奉りて、あまねく天津神・国津神をお祭りになった。爾来かみは皇室を始め奉り、しもは一般庶民に至るまで、その祖神として天神・地祇を崇祭すること、あえてその間に区別を置かない。近く明治・大正の御大典に際しても、大甞祭に悠紀・主基の二殿を設け、まず新穀を天神・地祇に奉るの例は廃しない。これ以て我が日本民族天津神と国津神とを祖神と仰ぐ両民族の完全なる融合同化から出来た複合民族であることを立証したものと謂わねばならぬ
 果してしからばその国津神と云い、先住土着の民族と呼ばれるものは、果していかなる系統に属するものであるか。そもそもはた我が天孫民族とは、いかなる由来を有するものであるか。そして我が「日本民族」は、いかなる経過によって成立したものであるか。余輩は考古学者・土俗学者・人類学者・社会学者、その他の専門諸学者の研究と相提携して、読者諸賢とともに、これを攻究してみたい。
 先住土着の民族の綏撫すいぶ同化の事蹟については、四道将軍の地方巡察、景行天皇の熊襲親征、日本武尊の西征東伐等、我が古史の伝うる所、またあえて尠少なりというではないが、しかもさらに最も明瞭に、遺憾なくこれを説述したものは、我が雄略天皇が宋の武帝に遣わされたと称せられる、宋書記載の国書の文である。

昔、祖禰そでいより、づから甲冑を※(「てへん+鐶のつくり」、第3水準1-85-3)し、山川を跋渉してやすんじ居るにいとまあらず、東、毛人を征する五十五国、西、衆夷を服する六十六国、渡りて海北を平ぐる九十五国、王道融泰、土をひらさかひとほくす云々。

 この国書なるものが、果して我が天皇の関知し給えるものなるか否かは、自ずから別問題なりとするも、当時の我が使者たりし帰化漢人等が、これを宋の天子に呈したものであることは、疑いを容れない。そしてその記するところは、我が日本やまと朝廷開創以来、雄略天皇の御代に至るまでの間の、我が皇威発展の真相を明らかに説述したものと解せられる。もとよりこれは外国の君に示すべく、主として我が皇の武威隆盛の状態のみを述べたのであって、この以外において常に平和的に、我が天孫民族が絶えず異俗同化融合の実を挙げつつあった事は、特に言うまでもなかろう。
 かくの如くにして、その平和的に融合しえたものは勿論、征伐を経た所謂毛人五十五国、衆夷六十六国の民衆も、皆ともに我が忠良なる帝国臣民となり、相倚り相結んで、この「日本民族やまとみんぞく」を構成するに至ったものである。
 余輩はまた「日本民族」構成の事蹟を調査するに当って、漢韓その他、諸蕃帰化の諸民族をも、閑却してはならぬ。渡って海北九十五国を平らげ給うた結果は申すまでもない。我が東海の楽土を慕うて、大挙移民した蕃人の史上に見ゆる数だけでも、決して少いものではなかった。その以外史に逸し、もしくは有史以前に行われて、僅かに考古学・人類学・土俗学等の研究の結果により、これを髣髴するをえる類のものも、またすこぶる多かったに相違ない。
 斎部広成いんべのひろなりの古語拾遺に、「秦・漢・百済内附の民、各々万を以てかぞふ。褒賞すべきに足れり。皆其の祠あれども、未だ幣の例に預らず。」とある。彼らは、我が国に渡来して、我が荒地を拓き、我が工業を進め、我が文化の上に貢献するところがすこぶる多く、所謂「褒賞すべき」ものであった。その祠は広成の当時においては、未だ官国奉幣の例に預っていなかったけれども、既に延喜式には、所謂天神・地祇三千一百三十二座の中において、明らかに蕃神の社の、少からず録上せられているのを見る。
 かくの如く我が「日本民族」は、我が天孫民族以外において、所謂毛人・衆夷なる、先住土着の諸民族を始めとし、秦・漢・百済等海外帰化の諸民族をも合せて、打って一団となした鞏固なる複合民族である。そしてこれらの諸民族は、互いに通婚を忌まなかった。ただに国津神の後裔のみならず、秦・漢・百済等海外諸蕃の裔を承けたもので、入って皇妃・夫人の列に加わったものさえも、史上その例に乏しくはない。いわんや一般臣隷庶民の上においては、血族混淆の事実の甚だ多かるべきは勿論の事で、よしやその家柄は何であっても、その血統においては互いに相錯綜し、例えば網の目の連結して別なきが如く、到底これを区別することが出来ない状態にある。たとい人類学者の調査が、地方的に骨相体質の特徴あることを云為するとも、そはただ複合民族構成の要素において、多少の濃淡の差違あることを語るのみで、到底同一の「日本民族」なることには疑いない。そして我ら「日本民族」は、相協同一致して、皇室を宗家と仰ぎ奉り、その家長とす天皇を元首と奉戴して、終始国利民福の増進を希望するの外、また他意あることを知らぬのである。あらゆる天神・地祇はもとより、我が国土に祭らるる秦・漢・百済等の諸蕃神も、ことごとく我ら「日本民族」共同の祖神として尊崇すべく、我が国史上に現われたる偉人傑士は、ことごとく我ら「日本民族」共同の尊親属として、相ともにその誇りとなすべく、相ともにこれを尊敬すべきものである。
 余輩はかくの如き意味を以て「日本民族」を解し、かくの如き意味において、「日本民族」なる語を用いる。我らと古い歴史を共同に有せざる新附しんぷの諸民族といえども、その由来沿革を調査したならば、我ら共同の祖先のいずれかにおいて、その同族姻戚たりしことを発見しうべきものであると信ずる。よしや全く関係のなかったものがあったとしても、我らの祖先がかつてしたと同じ様に、決してこれを疎外虐待することなく、温情を以てこれを抱容し、これを同化融合せしむべきものと信ずる。

底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「民族と歴史 第一巻第一号」
   1919(大正8)年1月
※表題は底本では、「「日本民族(やまとみんぞく)」とは何ぞや」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
2010年9月10日作成
2011年1月18日修正
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